豊岡短期大学 論集
第 14 号
30 28
デューイ教育学における「学校という場」の 現代的状況について
豊岡短期大学論集 第14号 (2017)
デューイ教育学における「学校という場」の 現 的 について
Kenta Sugawara
に
は、デューイ
(John Dewey)
の教育理論における「学校」の位置 けを するとともに、それが現 的な の中でどのような意 をもち、また、そこにどのような課題を 出せるかにつ いて するものである。
とは言え、デューイによる教育理論、さらにそれらについての 大な関連 究の てを する ことは、 の 合もあり しいと える。
また における目 は、デューイの教育理論そのものの な ではなく、そこにある様々 な知 をもって「学校」という場の現 的 を することにある。
このような理由により、 においては主に 学校と社会 を中 に、デューイの教育理論におい て「学校」という場がどのようなものとして かれているのか、という に 目して を めてい きたい。
.学校 る
学校あるいは教育 について、中教 (2015)「 しい の教育や 生の実現に向けた 学校と の連 ・ の り と の について」では、以下の が指 されている。
まず社会 一 について「 子高 化、 ー 化 の 行」、「 社会の教育力の 下」、
「 コミュニ を 出する きの広がり」、「 教育が な現 」が られ、 に子ど もを り く教育 については、「 生 の の 」、「子供たちの 意識 に関す る課題」、「学校が える課題の 化・ 化 の 」1といったものが られている。
ここでは、これら一つ一つについての は行わない。また、このような整理にどれ ど 性 があるのかについても れないが、ただ一 、 かなこととして言えるのは、 なくとも教育 の 化については、 に学校の 化としてではなく、より広 な にまたがる現象として われ ている、ということだ。
デューイ教育学における「学校という場」の現代的状況について 211
上 の では にも「学校と の連 ・ 」や「 から される学校 くり」といった 現が んでいるが、 を通して 示されている、あるいは の 解となっている学校の位置 けは、まず教育 において主要なものであること、そしてそのようなものとしての学校は、そ の りに する 社会との がりが必要となること、という に集 できよう。
そして、このように集 される学校観といったものは、実は 示的なかたちで んでいる、も う一つの の 解を かび上がらせることとなっている。
つまり、学校と 社会の連 が されることは、 的なかたちではあるが、学校と 社 会という つが、それ れ の―― に言えば 的な―― であるという前提が され ることと密接に がっていると言えるのだ。
、 高に ばれる「学校と 社会の連 」は、実は 質的に学校と 社会の こそを前 提としている。
このようにまとめるならば、例えばデューイが様々な 現で した、学校がもつコミュニ
= 社会との 離の関係という要 ・機能は、 日における学校のあり にとっては に いていると えられるのではないだろうか。
もちろん、このような が生み出された要 として、デューイの には しえなかったよ うな様々な教育あるいは社会シス の 化があることは いないだろう。さらには、学校とい う場についてのデューイによる 述が、現 における学校に対しては適用できないものであるとま で言うことができるだろう。
しかし、 にそうであろうか。
学校という場は、 質的に 社会というシス と 的なものとして えるべきものなのだ ろうか。
ここからは、デューイにおける「学校」という場がいかなるものとして り われているかを しながら、密接に連 を り合うべき として位置 けられている学校と社会が、果たして「連
」という 現をもって がるべきものたちであるのかという について していく。
.デューイの
前述のとおり、ここで するのはデューイによる学校についての である。
まずデューイがどのような人物であったのかについて していくが、 における主題を し、デューイという人物自 の については での内 に関わる必要 小 に めることとし たい。
においてデューイという人物の を 述する に 要となる ー ー は、「
」「 教育( )」「実 学校」である。
学者としてのデューイは、 ・ イ らを とするような、 ス
豊岡短期大学論集 第14号 (2017)
の一人として、つまりいわ る観 論的 学ではなく、より実 的で実用的、あるいは経 主義的 な 学を 的基盤としている。もっとも、 中(2009)が指 しているように、 質的にいっさい の「形 上学的な目的を定立」せず、「目的を も立てない」 に対し、デューイが 論する「デ シー」や「成 」 などは「目的を む実質 」2として位置 いており、
この意 でデューイは ス の として位置 けることはできないという も する。
とは言え、そのような 的基盤からデューイは様々な についての 論を していったのだ が、その に された の一つとして教育が置かれた。
デューイは、それまでの教育(= 教育)が「子どもたちの の 性、子どもたちの機 的な集 団化、 ュ と教育 が 一的であること」3を し、そうではない しい教育のあり として、以下の 常に な言 を している。 々 くなるが 用しておこう。
「 教育は、 力の中 が子どもの外部にあるということを述べることで、要 することができ るだろう。」
「 日わたしたちの教育に 来しつつある 化は、 力の中 の に かならない。」
「このたびは子どもが となり、その を教育のさま まな 置が することになる。子 どもが中 となり、その りに教育についての 置が組織されることになるのである。」4
このようにデューイはそれまでの(学校)教育のあり を 的に 定し、「子どもが中 となる」
ような しい教育のあり を提 した。
そのうえでデューイは、 しい学校を実現あるいは 現するためのものとして、シ 大学 に 小学校を設立した。
これは なる 小学校ではなく、様々な教育学理論の を し、同 にその結果をもって さらなる教育実践を生み出していくための「実 (laboratory)」としての意 合いをもったもので あり、デューイによる「実 学校(laboratory school)」 と呼ばれる。
そこでの ュ 、実 学校のもつ については、 くは1936 に実 学校の教員でも あった イ ー、 ー らによる デューイ実 学校 において がなされた。その も第一 あるいは を用いながら、 (2002)、 (2009)、 (2010)など、様々な論者によっ て実 学校の は されている。
. 学校の と「学校」
に述べたように( 5 )実 学校はあくまでも「実 としての学校」であり、必ずしもデ ューイの教育的 を直接的に 現させるためのものではないと えられる。
とは言え、デューイにおける「学校」のあり としては、この実 学校がどのようなものであるの かを に することによって、部 的に らかにすることはできるだろう。つまり実 学校の デューイ教育学における「学校という場」の現代的状況について 213
において、デューイの教育的 の が く現れていると えられる部 を すること には、デューイにおける「学校」のあり を する に一定の意義があると えられる。
この については、 (2010)が実 学校における ュ 、あるいはデューイの から の 用を行いながら、例えばデューイにおける「学習」のあり や、実 学校における実践 につい て を行っている。それによれば、実 学校における学習は、 なる教 活 に するかたち で生み出されるものではなく、「それ自 は学習ではない活 ないし経 」の結果として生み出され るものと なされていることがわかる。そのような「それ自 は学習ではない活 ないし経 」とは、
例えば「仕事」と されるような ュ イション(occupation)という活 を意 している。
このように 観していったうえで、実 学校における ュ の構成 理は「学校が の共同 生活を すこと」「活 は子どもの 、 み、ニー を適 に 現するものであること」 の11 の 理で構成されていると整理し、その中で「木工・ ・ 」という「人 の典型的な活 」であ るところの「仕事」が行われ、それによって学習という現象が生み出されていると述べている 。
これはあくまでも実 学校の ュ 構成 理であるが、そこにはデューイによる「学校」の あり が く されていると言える。
つまり、デューイにおける「学校」とは、 に知識を外部から するための 設ではなく、子ど もがもつ 質あるいは要求に対して適 に応えうるような仕組みを え、かつ「共同 生活を す」
ようなものであることが求められているのだ。
4.デューイにおける「学校」
このようなデューイにおける学習観は、それが組織化される場所としての「学校」について、以下 のような な学校観として 現されている。
例えばそれは「 の教育的 」において示されているような「教育は社会的 スであり、学 校は、人 として してきた を共 させ、子どもが自らの力を社会的目的のために 用する たにの も 果的な、あま く 用が集中するコミュニ の形」という 現や、あるいは学校を
「一つの共同 生活の形式」 と しているように、デューイにとっての「学校」は、社会的 スや コミュニ とは 立に するようなものではなく、 などそれら「外的」な を内 部に みこんだものとして定義 けられている。
それでは、このようなコミュニ としての学校とは、どのようなものであると えられるだろ うか。
5.コミュニティとしての学校
前述のとおり、デューイにとっての「学校」は一つのコミュニ として位置 けられるようなも のであった。ただしそれは、それ以外の と することによって成立するものと言うよりも、
豊岡短期大学論集 第14号 (2017)
むしろ連結・接合されることによって成立するものだと言える。
例えばデューイは以下のように述べている。
「学校は、将来なされるであろうある種の生活と、抽象的でじっさいとはかけ離れた関係をもつ ようなレッスンを学ぶ場所ではなしに、生活と親密に結びつき、子どもがそこで生活を指導される ことによって、子どもが学ぶうえでの住み処となるような機会を提供することになる。学校は、小 型の共同社会、胎芽的な社会となる機会を得るのである。」9
このように、デューイにとっての「学校」はただ知識を身につけ(させ)る場所ではない。それは前 述したような広義での学習、つまり仕事を通した学習が行われる場所である。
また、杉浦(2002)で整理されているように、子どもたちが日常生活を営むなかで身につけていく もの(=「社会生活を通しての無意識の教育」)に対して学校教育は優位性をもたない。むしろ、「社 会生活を通しての無意識の教育の過程」は、学校教育においても厳守されなければならないものであ るとデューイは言う。ただしこのような教育の過程は偶然性が高すぎる。そこで、普遍性を担保し たかたちに社会生活を組織化することで、「組織し直された社会生活」10を通した教育が行われるよ うになる。
その一つの形式として、例えば「木工」などの形式で行われるそこでの仕事は「一人ひとりの責任 を厳しく要求し、かつ生活における物質的現実とのかかわりにおいて、子どもを訓練していくよう な」ものとして示されているが、「学校において追究される典型的な仕事は、すべての経済的圧力か ら解放されている」11と述べられているように、それは必ずしも職業教育、あるいは職業に向けた専 門教育と同義ではない。
そこで生み出されることが期待されているのは、「自由なコミュニケーションの精神」であり、「た んなる学識の習得」12や、その結果を用いた「利己主義に陥りがち」13な競争とは異なっている。
むしろ集団内でその構成員が互いに高め合うような相互行為(「助けられる者の力を自由に発揮させ、
その者にやる気をいっそう起こさせるような援助」14を可能にするようなものこそが仕事と呼ばれて いる。
このように、デューイにおける「学校」では、互いの自由なコミュニケーションを可能とする、あ るいは必要とするような一連の「仕事(occupation)」という実践の中で、教育という営み・現象が生 み出されている。
ただしその場合に行われる仕事は、外部に基準を置いたかたちで客観的に設定される課題のよう なものではなく、また職業生活への適応を目指して行われる職業教育でもなく、学習者の社会生活 を基盤として構成される「組織し直された社会生活」を通して構成されるものである。
つまりデューイにおける「学校教育」は、以上のように様々な学習者の社会生活を基盤とした仕事 デューイ教育学における「学校という場」の現代的状況について 215
という実 のなかで、「自由なコミュニケーションの精神」が生み出されていく一連の営みであると まとめることができる。
もちろん「自由なコミュニケーションの精神」が生み出されればそれで いということではなく、
はそのような精神を基盤として例えば「 学的な 力」が 得されていく。そしてそこで「
得された 力が、現 の社会生活へ自由かつ 的に するための 可 な になる」1 の だ。
このような教育が生み出される、行われる場所こそがデューイにとっての「学校」である。それは 教育という それ自 への しだけではなく、以下に する、( 主的な)社会とはどのような ものか、あるいはどのように実現していくかという、 学者としてのデューイによる しを とした であると言うことができるだろう。
「社会とは、共通の に い、共通の精神と共通の目的とにかかわって いているが えに、結 合されている一定 の人々から成るものである、ということができる。この共通の必要と目的とが の を助 し、共 による の 一を助成するようにと、ますます要求するのである。」1 このように、ここまでに してきたデューイにおける「学校」の とは、そのままデューイにお ける「( 主的な)社会」の と なり合う。
. の と学校
しかし、このような学校(教育)のあり は、「学校というもののイ ー に している人びとに 対して」「 を える」1 ようなものであることをデューイ自身も自 していたと言える。
これらの主 は、過 に 化されてしまった学校教育を、 的な(学校)教育に置き えるべき だという の主 ではない。
デューイは の めて大きな社会的 化( 業構 、人 、生活習 、 教的関 など)のな かで、教育もまた大きな を けると えた。そのうえで「自 たちが ったものに わって、得 たものを めないわけにはいかない」と述べ、様々な が 化した たな において、「 さ に んできたこと」「社会的な 力に が出てきたこと」などの様々な「利 に り、それを保 」
1 することを主 している。
このような たな利 を えた上で、学校教育に対しては、ある意 では 的な教育 と も言える、「仕事(occupation)」を中 に えた教育を「生活のもう一 の を するような」19 ものとして導 しようとする、という なる 論を えた、 めて 大で な らいがそこに あったと言えるだろう。
.デューイ る
それではそこから100 以上が経った現 、デューイが「 を えた」はずの 教育、 学
豊岡短期大学論集 第14号 (2017)
校はどうなっているか。 下(1998)は、 業社会化の が「 主主義」を した一 で、「
の論理」などによって「 主主義」の実質が されていったとし、デューイが 定していたよう な「教育と 主主義の結合を 業社会が用意してくれる」という、ある種の 観的な期待が「 事な までに られてしまった」20とまとめている。
とは言え、デューイの ・理論が の 化によって されなくなったというわけではない。
日的な教育 題との関わりについて しだけ れておきたい。いわ る「 かれた学校 くり」に 向けて2002 には「 合的な学習の 」が導 された。 (2012)は、その内 や のあり については、「 なからずにおいて、デューイ理論の 求である、 題解 学習に れている」21こ とを指 している。
これにかかわって「デューイ教育 の 」という について言えば、 日的な教育 題との 関係においては、例えば (2003)は、以下にまとめるような 機 を示している。
デューイの学習理論のうち、いわ る「 題解 学習」が、「学び 学習」の「論理的 化」を えるものとして 目されるようになった。「学び 学習」の学力への ・ 果は ではないが、
それ以上に「 しい学力観」として提示される「関 ・意 ・ 」の形成が く意 されている。
しかしこれら「関 ・意 ・ 」が「実質的な知識や理解」という「学力」の形成と定 を 実な ものとするわけではない。結果として、「デューイ教育 が、現 日 で されようとしている 合学習 、 しい学力構 論 、 学び 学習 々に 論的 を える理論として 用 される り、 の理論は、日 の子どもの 学力化、学力 現象を合理化し、さらには、それを する理論的 として 用されることになる」22というように、「デューイ教育 の 」 という に対する を行っている。
もちろん、ここまでに してきたように、(用 の定義にもよるだろうが)例えば が して いる「学力 下」については、デューイの理論を下 きにすれば、それ ど すべきものではない とは言えるだろう。
とは言え、デューイの教育 や理論が 利に、あるいは「理論的 」として 用される は、
目を集めている「 ーニン 」にまつわる 論にも一部で されるが、 上
(2007)が言 しているように、 ーニン に関する理論や 的実践についてはかなり
広いものであり、例えばその中の一つとして「 題解 学習」も まれてはいるが、だからと言っ て においてデューイの教育 ・理論が 的であるとは言えない。これは、 ュ
成を めた学校 営という意 合いの い「 合的学習の 」と、 的な 業実践としての
「 ーニン 」という いになるかもしれない。
. る学校
それでは、 めに設定した いに ろう。密接に連 を り合うべき として位置 けられて デューイ教育学における「学校という場」の現代的状況について 217
いる学校と社会は、果たして「連 」という 現をもって がるべきものたちであるのか。
ここまでに してきたように、 なくともデューイにおける「学校」のあり からは、 一の を導き出すことはできないだろう。 なら、その連 、あるいは「 かれた学校」化の とい った実践が、「 のために」行われるものであるかが 定できないからだ。
例えば、学習者における内的 が しない で学校が「 かれ」ること、あるいはコミュニ の 化に った、学習者の「社会生活」とは した との連 など、それらはいずれも、
客観的基準により ば 的に かれ、 られる実践となるだろう。
学校が ッ ン 式で「 かれ」てきた一 で、学校は部 的に されてきたとも言える。
それが という観 である。
2001 に大 の 小で起きた 事 は、学校という場が めて無 であるということ が きつけられたのと同 に、「外部からの 」を 定しない程に、 質的に された場所であ ったことが き りにされたと言えよう。
2001 におきた上 の事 を け、学校における 機 理 ニュ が に出された23。現 行の 機 理 ニュ は 2007 に出された24ものであるが、 ・ 機 理のための ッ
ス の一例として「 下校 以外は校門を めるなど、 や校 への を 理可能なものに 定しているか」2 という ッ 目が設けられているように、学校は ス 理の一つの と して、物理的な に関して「 じる」という 向性をもっている。
なお、この ニュ においては「 す」だけでない もまた示されている。 対 に関し て「 かれた学校 くりに め、 との 関係を こう」と示されており2 、ここでもまた「
かれた学校」という観 が組み まれていることが される。
これらは相 しない。学校という物理的な (への )は 力に 理し、学校外 については 学校外の者に る、という で学校という の 性・ 自性が に されていると言って もいいだろう。
.デ ーと の学校
に、デューイにおける「学校」やそこで行われる教育が、デューイにおける「社会」の と な ることを示した。
に、これからの学校のあり について、 中(2009)の整理をもとに してみたい。
デューイにおける「デ シー」 は、まず、自 の利 が 質的には 離 可能であるとい う前提を基とした「相互利 」と、た ま 者との 同のなかで「よりよいもの」を目指していく という「社会的習性」を としている。 に、そこでは「形 上学的な位 」を 定するかた ちでの な「人 の 性」が されている。そして に、そのような 性は 人の する
「神性(divinity)」であるからこそ、その 現を可能とする自由が、そしてその自由を実現するため
豊岡短期大学論集 第14号 (2017)
の「デ シー」が必要となる、とされている2 。
もちろん、このようなデューイのデ シー を、 や 化を えてそのまま適用するこ とは しいだろう。それでも、前述した 下も述べているように「教育と 主主義との結合」を目指 したデューイの であり実践は現 でもなお 要な を示しうるものだ。
「連 」や「 かれた」といった用 は定 しながらも、実 には物理的にも観 的にも学校内 外の が されている。
もしくは、内 (2009)で指 されているように「いじめ」が必然的に生み出されてしまう どに、
学校は 的な となっている。
イ イ の を するならば、上述したような現象は「学校化された社会」の中で学校が「社 会化」されていくという、言 びのような構 にある。
それはつまり、連 が える どに学校が かれていくのではなく、一 設としての学校が か れていく一 で、 としての学校は に く されていくような が 定されるような構 でもある。
それは、ただちに されるべきものではないかもしれない。しかし、デューイの であり実 践は、これからの における学校の として、一つの 要な デ となるのではないかと えら れる。
お に
デューイによる教育 を しながら、「学校」の 日的 、あるいはこれからのあり につ いて を行ってきた。
もちろん、デューイにおける「学校」 は、実 学校に関するものも めれば、 で ったも のだけでなく、より広い にまたがるものであり、またより 的なものでもある。
においては、 日的な学校のあり について、いくつかの 例を提示するにとどまったが、
デューイが いた「学校」が、 日的な の中でどのようにすれば実現可能であるのか、あるいは どのような で実現されつつあるのか、といった については の課題としたい。
1 中教 ,2015,「 しい の教育や 生の実現に向けた学校と の連 ・ の り
と の について」
2 中 、2009、 社会性 の構 ― 主義教育の 、 ,p.p.242-243
3 J.Dewey,1900, THE SCHOOL AND SOCIETY , ,1998, 学校と社会 , 社学
,p.95
4 Ibid,p.96
なお、これはデューイによる学校として「デューイ・ス ー 」と呼ばれることも いが、
においては小 (1999)による「ある 定の や学 に基 いた教育実践の普 と発 を目的にし ているわけではない」ために「デューイ・ス ー 」という呼び は「 解を く」という指 を デューイ教育学における「学校という場」の現代的状況について 219
に「実 学校」と呼ぶこととしている。小 、1999、「シ 大学実 学校の 設の にあったデューイ教育学構 ― 教育から教育 学の 立へ―」、 大学教育学部 究 要 (50),p.227
なお、この occupation(s)について、 (1996)では「専 的な活 」と されている。デューイ の 定していた occupation(s)は に職業的な活 ではなく、また実用的・実利的な活 でもなく、
広義での集中 が一定期 されるような活 であり、その意 で職業 的な営みとして 解を生じか ない「仕事」という は必ずしも精 ではないのだが、ここでは一 的なデュー イ理解の 観を行っており、ひとまず「仕事」という一 的な を用いている。 ,1996,「
イ ・シ のなかのデューイ―日 と におけるデューイ教育 究の 」,
教育 ー 5,教育 学会,p.p.107-115
,2010, デューイ実 学校における ュ と学校 営 , ,p.p.146-169
John Dewey,1897,”My Pedagogic Creed”, School Journal vol. 54, pp. 77-80
9
John Dewey,1900,op.sit., p.77
10 杉浦 ,2002, デューイ教育学の 構 , 出 ,p.p.303-304
11
John Dewey,1900,op.sit.
,p.7012 Ibid,p.73
13 Ibid,p.73
14 Ibid,p.74
1 Ibid,p.83
1 Ibid,p.72
1 Ibid,p.73
1 Ibid,p.64-70
19 Ibid,p.70
20 下 ,1998,「 業社会の出現と教育 の 構成」,杉浦 日 の 教育とデューイ ,
社,p.p.
21 ,2012,「デューイ教育学の日 の学校教育への導 に関する一 」, 学 大学 要
経営学部 ,p.187
22 ,2003,「日 におけるデューイ教育 の 」,杉浦 現 デューイ の
, 社,p.p.21-23
23
部 学 ,2002,「学校への 者 の 機 理 ニュ 」
24
部 学 ,2007,「学校の 機 理 ニュ 子どもを から守るために」
2
同上,p.42
2
同上,p.30
2
中(2009),前 ,p.p.245-255
・イ イ ,1977, 学校の社会 , ・小 ,現 社会 学
・ イ ー ー ,1978, デューイ実 学校 ,
・ 上 一,2007,「 ・ ーニン 導 の実践的課題」, 高 教育 究 7,p.p.269-287
・ ,2002,「デューイ・ス ー の ュ における「仕事(occupation)」の位置 けにつ
いて」, 知 短期大学 要 36,p.p.47-66
・内 ,2009, いじめの構 ―な 人が 物になるのか , 社現
・ ,2009, デューイ教育学と な教育的 の イ 実 学校と子どもの 様な
・ニー への教育実践 ,