九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
筑前国怡土庄故地現地調査速報
服部, 英雄
九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授
https://doi.org/10.15017/1520164
出版情報:1999-12-31. 服部英雄研究室 バージョン:
権利関係:
前 原 市 雷 山 地 区
〔現地調査の目的と意義〕
学部3年 横 山 雄 治
学部3年 河 野 知 子
学部2年 本 多 理 恵
1970年から90年代にかけて日本の農村では、宅地化・圃場整理の進行によって旧水田の形が変化した。
以前の条里制や中世・近世村落における耕地の基本的な枠組みは長い歴史を持っていた。そのような 牛馬耕に適応した形の耕地は、機械化の進行と共に急速に失われつつあるO また、旧水田には様々な地 名が付されていたし、複雑な水利慣行が形成されていた。さらに、村の文化を形成していた旧跡なども 大切である。とれらはいずれも歴史資料として重要であり、時間の経過によって完全に忘却される前に 調査し記録する事が必要である。
以上のような事によって、中世村落の景観・在り方を復元したいと考えている。
〔担当地区の概要〕
(1)中世雷山領御坂村に含まれるか?正安三年九月日の文書に「筑前園雷山千如寺住侶等申、寺領御坂 村田薗等事」とあるが初見。その後、建武二年九月廿九日の下文にも「営寺領筑前園法持聖清 賀開設団地御坂村在家田畠山野等事」ある。また、世戸善雄寄進状に雷山地区に該当すると思 われる地名が見られる。私見であるが雷山の寺領であったのではないだ、ろうか。
(2)近世福岡藩領。井原触に属す。天正期は田25町余・畠5町余。文化期は田27町・畠4町余。また、
寛政期は家数41・人数199人であった。
(3)近代 明治初期の戸数48・人口255・田28町余・畑6町余・山林194町余。明治22から昭和29年まで、八 島・蔵持・香力・有田・三坂・高上・雷山・多久・篠原・山北・富の11村が合併して雷山村が 成立。
〔現地調査の課題〕
①古地名(しこ名・字名・ほのぎ・ほのげ)について a,近世時の集落の確認{総務!−片峯・高野・熊尾}
b,史料・地誌類に見られる古地名の確認
−地誌類から{
−雷山から国境の小名として{
・史料から{
c,その他(それ以外の地名・工事等による地形の変化)
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②水利の調査
a,井手の位置と名称 b,しょうず、池などの存在 c,水のかかり、水利慣行
③その他
a,雷山千如寺との関係
b,産業(養蚕・木炭・入り会い山)、焼き畑(きいの)の存在 c,旗振嶺城跡について(位置・のろし山の可能性)
d,村の祭り・伝統行事・言い伝えなど e,名所、遺跡について
滝元滝・筒の滝
下宮(折笠神社)・中宮(水火雷電神社)・上宮神社(層々岐神社)
千手千眼観音堂(中宮の前庭にあり)・山神社{緩急襲}・天神社{議議議}・瑳々杵社{カミコノミ}
香合石神社{;機縁}・塞神社{離縁議}・大悲王院(震雷山千如寺金剛浄院・仲坊)
賓池坊(賓厳坊祉){義援畿襲警察・高野}・薬師堂(惣持院祉){議畿・磯議長}
釈迦堂(浄光寺祉){高野}・阿弥陀堂(真慶寺社){片峯}・地蔵堂{高野}
六地蔵{緩:鱗義援・フジサカ・
香合石・白蛇石(上記二つはそれぞれ四護法のーっとする説あり)・風穴 旗振嶺城跡(原田氏家臣西左近鎮兼が原田隆種に背いて繕った)
}−御腰掛石
女産業
・養 蚕…820年で終わる0
・木 炭…830年前後までO
・入り会い山…後山。高野が管理。家の屋根をふくため(2, 30年に一回)草を刈るのを許可→払い 下げ→杉植林。
戦前(
s
12〜15年)くらいまで。・焼 き 畑…木の枝を燃やして畑にする。さといもなど。
830年ごろまで。雷山にはなかった(便宜上やっていたが焼き畑農業ではない)とい う説もあるO
主任祭り
・御日待(おひまち)…正月行事。ほうげんぎょう (1月7日)など。
・も ぐ ら う ち…1月14日。竹の先にわらをつけて地面をたたく0
・社 日 様…春、秋の社日。子供相撲奉納。
・美 濃 祭 り…5月5日。もとは「嶺尾」、「峰の尾」の転化。「峰の尾」は霊峰の意味で 雷山の頂上をいう。全員参加。中宮等を参りながら頂上955mまで行く。
苗代後、豊作祈願0
・団子寵り(だごごもり)…5月末。お団子を作る。麦の収穫を感謝0
・作り上がり篇り…田植えのすんだ、日から農作業を休んでよい。
・よ こ しい・7月上旬。田植えの手伝いに来てもらった人へのねぎ、らいの宴。
・ほかに早苗饗(さなぶり)、天満講(2月24日)、宝満宮の祭り( 4月 4日)、千度潮井( 7月中旬)
等がある。
女言い伝え
・風穴にいたずらしたら風が吹く。
・美能参りの時、行かないで働いていたらケガをした0
・後家田
調査日:平成9年3月11日.19日
み つ い き
話 者 : 浦 由 一 (61才 ) さ ん 、 小 川 義 人 (72才 ) さ ん 、 満 生 昌 一 (61才)さん 今回の雷山での調査は、事前の連絡不足のため初回の調査ではうまく話を聞くことができなかったの で、再度浦さんのお宅を訪ね、集まっていただいた他の2名の方と一緒にお話を聞きました。浦さんは 土木関係のお仕事を、満生さんは農業をされているようでした。
まず、古い地名について、半分ほどが分かりました。分かった分は地図に書き込んだ、ので参照して下 さい。分からなかったのは、地誌類からの地名はライヲンジ・カマトキ、そのうち国境の小名として扇 平・ユスワリ・エゲ・大峠が分かりませんでした。また、史料(大悲王院文書63 世戸善雄寄進状)に 出てくる地名は、片山・せと口・ってその・瓦原・けまその・たかきもと・小瓦原が分かりませんでし た。その中で、片山は二丈町の片山じゃないかという意見が出、せと口については差出の世戸という名 と絡めて大字瀬戸との関連を指摘されました。ただ、分かった地名を地図に書き込んでいくと、現在の 大字雷山の中にあるので、(雷山で聞いたから当然かも知れませんが)他の地名もそこまで遠くに存在 するとは思えないような気がしました。
また、雷山は昔と比べてそれほど地形も変わっておらず、地名もほとんど変更していないとのことで した。雷山川の改修かなにかの時に昔の姿を残すため、浦さんが大きな航空写真を撮って保存している そうです。
次に水利に関して、井手や溜め池の名称と位置については地図に書込んだ、ので参照して下さい。行く 前に想像していたよりも意外と水田が多く、そのため井手や溜め池も沢山ありました。井手は山の方に
もっとあるそうですが正確には分かりませんでした。それから、水の取り入れ口に田を持つ人は労役を 免除されていたそうです。また、昭和9年の早魅でできた不動池(筒原溜め池)は水の出口の所ですぐ に別の所(長糸村とおっしゃっていた)と分水していて昔はよく喧嘩していたそうです。
千如寺は昔お宮と寺が分かれた時に千如寺(真言宗)と宝池坊とに分かれたそうです。雷山の人はみ んな昔から千如寺を信仰しており、様々な行事を行っているようです。また、山には色々な遺跡や磨崖 仏が至るところにあるとのことです。千如寺には雷山の地図が書かれている大きな額があるそうですが 時間がなくて見る事ができませんでした。
調査の後、夕食を御馳走になり、その席で、小川さんから歌を送られましたので、最後に記したいと思 います。
春宵の考古尋ねて学半ば
五年振りてふ豊作のおきゅうとに大学の子と今宵飲みおり 圭泉
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