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『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む』

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Academic year: 2021

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面白い。本書を読んで、そう思わないでいることができるだろうか。

エミリ・ディキンスンは容易に理解できる詩など書かない。素朴な詩もある にはあるが、多くは難解で意味不明であり、たとえある程度の解釈が許された としても、謎が残り、すっきりとしないことの方がほとんどである。アンソロ ジーに所収されるような、長く親しまれてきた詩ですらそうなのだ。これだけ 広く愛され、読み継がれてきたにもかかわらず、ディキンスンの詩の魅力は十 分に引き出されてこなかったのかもしれない。著者は言う。「詩が陳腐に見え る場合には、こちらの解釈がどこかで間違っていると考えるべきなのだ。そう 考えて文法と語義を再点検し、小さな取り違えを正すと、途端にその作品が輝 き出す」(7)。本書において、著者は「理詰め」という方法で謎を解き、詩に「理」

を通わせる。そのとき、ディキンスンの詩が珠玉のごとく「輝き出す」のである。

ディキンスンの詩が難解なのは、著者も指摘するように、語が限りなく切り 詰められているからである。したがって、文法、そして語義の読み誤りを招く。

文法と語義を正しく捉えるという、文章を読むにあたってのごく当たり前の作 業が殊更困難であるのが、ディキンスンの詩なのである。だからこそ、「理詰 め」で、すなわち「先入観を排して、徹底して字義と文法にこだわって」(6)、

正しく詩行を理解するところから始めなくてはならない。詩にとって「理」は

倉 田 麻 里

江田孝臣著

『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む』

(春風社、2018 年)

〈書評〉

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光である。光がなければ、何物も「輝き出」しはしない。

しかし「理」は「字義と文法にこだわっ」ただけでは通らないだろう。それ は、例えば第 1 部「詩についての詩」第 2 章「ランプとしての詩─詩人は消 えたのか」における“The Poets light but Lamps –”(F 930/J 883)の読解に明 らかだ。著者が「理」を通し、この詩を輝かせるためには、「字義と文法にこ だわ」り抜くだけでなく、19 世紀においてはごく一般的なランプの知識が必 要であった。

「理詰め」の作業には、詩人にも劣らぬ想像力と知識、そして何より貪欲な までの知的好奇心が求められる。著者は並外れた想像力と知識とを駆使して、

これまでの批評における議論を推し進め、あるいはそこで議論にならなかった

(というよりもむしろ解読不能で避けて通るより他なかった)問題に取り組み、

「理」を通すまでの過程を率直に語る。本書が「面白い」のは、詩の「輝き」

を目にすることができるからだけではない。石ころが珠玉となり「輝き出す」

までの著者の知的探求の旅を共に歩むことができるからなのである。

例えば、第 3 部「狂気と絶望」第 8 章「葬儀空想か理性の死か─初期批評 は正しい」において“I felt a Funeral, in my Brain,”(F 340/J 280)を、第 9 章「漫 歩する石ころとしての詩人」において“How happy is the little Stone”(F 1570/

J 1510)を、第 5 部「政治と科学」第 12 章「政治と経済とエミリ・ディキン スン」において“One of the ones that Midas touched”(F 1488D/J 1466)を、

さらに最終第 13 章「エミリ・ディキンスンの氷河期」において“The Winters are so short –”(F 532/J 403)を読み解くにあたり「理詰め」を実践する中で、

著者は、詩の基づく 19 世紀当時の最新の技術や学問的知識、文化的ないし社 会的状況、さらには詩と他の文学テクストとの関係を解き明かしていく。平板 であった詩の奥行は何倍にも広がりを増していくのである。

そして、著者の「理詰め」の作業を通じて、詩が本来の「輝き」を放ったとき、

我々の前に照らし出されるのは、詩人エミリ・ディキンスンの姿である。それ こそが、副題が示すように、本書のねらいなのだ。これまでの批評は、我々に 詩人の姿を描いてみせてくれることはなかった。エミリ・ディキンスンは「不 在」として存在するのみであった。しかし、本書は、ディキンスンの存在を感 じさせる。詩人を取り巻く環境、家、部屋、その中で彼女が何を見、何を手に し、何を思い、何をしたのか、あたかも垣間見るようなのだ。

第 1 部 第 1 章「 詩 人 に と っ て の「 宝 石 」 と は ─ エ ミ リ の お 昼 寝 の 詩 学」において“I held a Jewel in my fi ngers –”(F 261/J 245)や“Alone and in a

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Circumstance”(F 1174/J 1167)の解釈を通じて著者が迫るのは、驚くべきこ とに、ディキンスンの生活習慣である。第 4 章「エミリの詩の工房─〈推敲 途上の詩〉を話者とする作品 3 篇」では、ディキンスンの創作の段取りや現場 の様子にまで議論は及ぶ。著者の「理詰め」の作業は、生前から「アマースト の神話」と呼ばれ、謎に包まれたエミリ・ディキンスンの部屋の中にまで、我々 を誘うのである。

とりわけ“The Winters”を分析する最終章は、「新たな詩人像」を追求する

本書の最後を飾るのに相応しいだろう。最終章について「ソース(材源)研究 に傾いており、本書全体の趣旨からは逸脱し始めている」(9)と著者は言う。

確かに最終章は詩の「材源」となっている、地質学者でもあり、神学者でもあ るエドワード・ヒッチコックの地質学研究について紙面のほとんどが割かれ、

それ自体非常に刺激的なヒッチコック研究となってもいる。けれども、ヒッチ コックの薫陶が 20 年の時を経て詩として結晶するというダイナミックな分析 は、詩における地質変動の時空間的壮大さと響き合いながら、最終的に「シエ ラ・ネヴァダの詩人ゲーリー・スナイダーや、スナイダーに先行する詩人ケネス・

レクスロスと同様に、「地質学的想像力」と呼ぶべき能力を駆使」(225)する 詩人としてディキンスンを位置づけるのである。

「理詰め」の作業を必要とする詩は残されている。本書においても、例えば 第 1 部第 5 章「〈推敲途上の詩〉を話者とする作品さらに 3 篇」の 3 篇は議 論の余地がありそうである。また、第 3 章「「弾を込められた銃」とは何か」

─詩についての詩」における“My Life had stood – a Loaded Gun –”(F 764/

J 754)や第 4 部「死を幻想する」第 10 章「その家は「私」の墓か」における

“Because I could not stop for Death –”(F 479/J 712)の解釈については、著者 自身反論を期待していると言う。著者は詩人エミリ・ディキンスンのごとく挑 戦的である。だからこそ本書はディキンスンの詩のごとく「輝き」を放ってい るのかもしれない。

参照

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