神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌『風流陣』総目次 :
「HAIKAI DU JAPON」の軌跡
著者 西村 将洋
雑誌名 同志社国文学
号 59
ページ 21‑87
発行年 2003‑12
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005268
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二一 ︻解題︼
フランス・ハイカイの創始者とされる︑ポール=ルイ・クーシュー︵Paul-Louis Couchoud 1879‑1959︶の俳句論が収められた
︵Paris : Calmann-Levy︶が公刊されたのは一九一六年のことである︒そして近年︑金子美都子・柴田依子の両氏によって 詳細な訳注と解説の施された同書の翻訳が出版された︵﹃明治日本の詩と戦争―アジアの賢人と詩人﹄みすず書房︑一九九九年一一月︶︒こ
の約八〇年を経て生起しているフランス・ハイカイへの関心は︑既存の研究における進展といった次元に止まるものではなく︑近年の人文
科学一般にわたる一つの傾向︑すなわち﹁正常﹂と呼ばれる状態に対する揺さぶりの因子として︑現実世界の具体的な他なる場所を思考す
る一連の動向との関係の中で把握されるべきであろう ①︒言うまでもなく︑︿フランス﹀︿ハイカイ﹀という語の連なりもまた︑︿フランス文
学﹀や︿日本文学﹀という安定した単一性からの逸脱を内包しているのである︒
フランス・ハイカイは一九二〇︵大正九︶年に日本で初めて紹介され︑その直後から与謝野寛・後藤末雄・堀口大学等が翻訳や紹介を行
った︒また︑一九三六︵昭和一一︶年には渡仏した高浜虚子がフランス・ハイカイ詩人と会見を持った事実等も知られている︵詳しくは前
掲︑金子・柴田両氏による訳注・解説等を参照されたい︶︒そこには異文化を横断する場所が形成されていたと言えるだろう︒
本稿は︑そうしたフランス・ハイカイの動向と関連するかたちで成立した︑日本のモダニズム詩人による俳句雑誌﹃風流陣﹄の一側面を
総目次という形で明らかにするものである︒以下︑同誌の創刊にまつわる経緯等について概略を記す︒
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌 ﹃ 風流陣 ﹄ 総目次
―
﹁ HAIKAI DU JAPON ﹂ の 軌跡
―西 村 将 洋
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二二 ※ ﹃風流陣﹄は一九三五︵昭和一〇︶年一〇月一日に創刊された︒一九四四︵昭和一九︶年一月二〇日発行の第六五冊までを確認︵八十島 稔によれば全六六冊が発行された ②︶︒創刊号の編輯兼発行人は岩佐東一郎で第六冊以降は八十島稔︵本名︑加藤英彌︶が担当した︒この異
動に伴い︑発行所も文芸汎論社から八十島稔宅の風流陣発行所に変更されている︒表紙の題字は恩地孝四郎によるもので︑各号毎に題字の
配色に変化が加えられた︵ちなみに第一冊はオレンジ︶︒その上部にはフランス語で﹁HAIKAI DU JAPON﹂︵日本のハイカイ︶と記され
ている︒奥付頁には﹁風流陣小規﹂が掲載された︒判型は菊判でほぼ統一され︑多少の例外はあるものの一五頁という小冊子形式が踏襲さ
れた︒三百部限定で書店での販売はなかった︒岩佐東一郎はその点の事情を次ぎのように説明している︒
この雑誌︵﹃風流陣﹄⁝引用者注︶は︑僕が提唱した﹁買はなければ読めません﹂主義を守つて︑極度に寄贈を制限してゐる上に︑
あとは同人社友制度で絶対に書店に依託などしたくないくせに︑相当評判になつてゐると見えて未だ文芸汎論社宛に大取次店から註文
が来ることが絶えない ③︒ 岩佐東一郎によるフランス・ハイカイへの言及は︑﹃句と評論﹄創刊号︵一九三一年七月一〇日︶に寄稿した﹁フランス人の俳句﹂に遡
る︒現在では新興俳句運動の中核的雑誌として知られる﹃句と評論﹄だが︑創刊当初は古俳句研究が誌面の約半数を︑残りの部分にはフラ
ンス・ハイカイの関連記事等が掲載されていた︒具体的には︑第二号︵一九三一年八月一〇日︶の藤田初巳﹁アイカイ國・・漫遊記﹂︵フ
ランス語は語頭のHを発音しないので﹁HAIKAI﹂は﹁アイカイ﹂と発音される︶や︑第三号︵一九三一年九月一〇日︶から第九号︵一 九三二年九月一日︶に連載された花光信二郎﹁ルヲ゛ンの俳諧観﹂等が挙げられる︒花光信二郎が言及している﹁ルヲ゛ン﹂とは︑一八九三
︵明治二六︶年に東京帝大法科大学フランス法学教師として来日したMichel Revon︵1867‑1947︶を指している︒Revonは一八九九︵明治 三二︶年にフランスに帰国し︑その後は日本文化の紹介に努めた︒Michel Revon, ︵Paris : Delagrave, 1910︶は一九二〇年代のフランス・ハイカイにも多大な影響を与えた文献として知られている︒ 岩佐は﹁フランス人の俳句﹂の中で︑ピエエル・パスカルという人物を紹介している︒﹁秋の月﹂という日本語の 4444俳号を持つこのフラン
ス人は︑当時岩佐等が発刊を準備していた雑誌﹃文芸汎論﹄︵一九三一年九月創刊︶同人の西山文雄が渡仏中のパリで出会った詩人画家で
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二三 ある︒
西山文雄は一九二四年に法政大学仏蘭西文学科︵岩佐東一郎も在籍していた︶へ入学︒その後︑一九二八年九月に同大学を退学し渡仏し
た︒一九三一年六月には日本へ帰国し︑一九三三年に二七歳の年齢で夭折した人物である︵詳細は︑城左門編纂﹃西山文雄遺稿集﹄文芸汎
論社︑一九三四年八月五日に収録の﹁西山文雄年譜﹂を参照︶︒
ピエエル・パスカルについての詳細は不明だが︑西山文雄﹁ピエエル・パスカルと﹃悪の華﹄挿画﹂︵﹃文芸汎論﹄一巻二号︑一九三一年
一〇月一日︶に多少の説明がある︒同文よれば﹁パスカルの詩と画を通じて最も特徴をなして居るのはエグゾチスムに立脚するフアンテジ
イだつた︒﹂と述べられ︑パスカルが﹁ロワイヤリスト﹂︵Royaliste・王政主義者︶であること︑更に﹁MIKADO﹂︵天皇︶と﹁ミカドの
国﹂︵日本︶へ憧憬を抱く人物であると記されている︒また︑彼が挿絵を担当しパリで刊行されたボードレール﹃悪の華﹄の書誌事項も
﹁Gilbert Lély, 27, Quai de la Tournelle, Paris︵
︒されている紹介と︶﹂二百法限定千二百部せて合と二色別本文︒リイヴ用紙 8 in‑Mal”du Fleurs “Les illustrer Pour Eaux-Fortes Six : PASCAL PIEERE . ︶型︵ Ⅵ 前掲﹁フランス人の俳句﹂の中で︑岩佐東一郎はこの人物の俳句について﹁普通のフランス詩人がやる﹁アイカイ﹂と云ふ三行詩などで
はなく︑堂々と日本字で五七五の韻をふんでゐるのには驚かされる︒その上に︑︵略︶佛語で意譯してあるんだから︑一寸考へると馬鹿に
複雑になつて了ふ︒﹂と記し︑パスカルによる次の四句を紹介した ④︒
君待ちて小琴に座すや青簾
秋の日や日本の友の悲しめる
春月や銀河に釣れる觀世音
三味の音や友かと見れば秋の風
これらの俳句そのものの評価については賛否別れるにしても︑当時の日本におけるフランス・ハイカイへの一般的認識と照合するならば︑
その特異性は明らかであろう︒一九三六年に渡仏した高浜虚子がフランス・ハイカイ詩人と会見し︑彼らが季語や季感を解さないことに失
望した逸話は有名だが︑それに反して︑西山や岩佐が接したフランス・ハイカイは︑季感を有し更に日本語を用いて俳句を実践していたの
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二四
である︒
このようなフランス人との出会いは︑岩佐や西山等の活動の新たな展開を準備したと言えるだろう︒後の﹃文芸汎論﹄のメンバーは一九
二八年から一九三〇年にかけて雑誌﹃ドノゴトンカ﹄を発行していた︒同誌創刊号︵一九二八年五月五日︶の﹁ドノゴトンカ発刊の言葉﹂
には︑﹁ドノゴトンカは旧来の文学︑思想︑時代へに対して反逆であり破壊である︒︵略︶未だ知られざる世界の建設である︒﹂と記されて
いる︒この﹁ドノゴトンカ﹂という言葉は︑ジュール・ロマン︵Jules Romains 1885‑1972︶による映画シナリオ︑
︵Paris : Gallimard, 1920︶から採られたもので︑﹃ドノゴトンカ﹄一巻三号︵一九二
八年七月一日︶の編集後記にあたる﹁社中放話﹂には︑岩佐や西山が師と仰いでいた堀口大学の翻訳による︑ジユウル・ロオメン﹃科学の
奇蹟﹄︵第一書房︑一九二五年七月一五日︶の書名が挙げられ︑雑誌名に関する説明がなされている︵﹃科学の奇蹟﹄は一九二八年六月二〇
日に普及版が刊行され︑その際に﹃ドノゴオトンカ﹄と書名が変更された︒︶︒ジュール・ロマンが﹁ドノゴトンカ﹂を未だ嘗て地上に存在
したことない幻の理想郷として描き出したことと対応するように︑この言葉はあらゆる既成の概念を超越する未知の世界を志向していた岩
佐達のスタンスそのものを代弁していたのである︒
しかし︑この新たなる未知の世界を追求する姿勢は︑﹃文芸汎論﹄に至って微妙に変化していく︒岩佐は︑﹃文芸汎論﹄創刊号︵一九三一
年九月一日︶に﹁古典文学へ向ふ﹂を掲載し︑その冒頭で﹁僕は決して︑新しきを排して古きを尊ぶものではない︒﹂と断った上で︑次の
ように語ったのである︒
学者意識に毒されぬ健全な精神と批判を以て︑先づ古典文学を従横に︵それは僕等の自由である︶討究し考察してこそ︑新しき文学
の出発の第一歩を充分に固めることが出来るのである︒
ここには︑先に見たような﹁旧来の文学︑思想︑時代﹂に対して﹁反逆﹂と﹁破壊﹂を唱った﹃ドノゴトンカ﹄からのズレが表面化して
いる︒一九三〇年六月の﹃ドノゴトンカ﹄終刊と﹃文芸汎論﹄創刊の一九三一年九月の間にあたる一九三一年六月に西山文雄が帰国してい
るという事実や︑更にこの時期に岩佐と西山が共にピエエル・パスカルに対して興味を示し︑数回に渡り紹介に努めている点などを考慮に
入れるならば︑岩佐﹁古典文学へ向ふ﹂に見られる伝統性の容認に向かう姿勢への変化の要因には︑パスカルの存在が関与していたと見る
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二五 ことも極論と言えまい︒すなわち︑前述したフランスと日本の交通は︑反抗と破壊の対象であった﹁古典﹂の重要性を改めて発見させ再認
識させる一つの契機となり得たのだと考えられよう︒新たなる未知の世界を追求する彼らの姿勢は︑異文化との接触を体験することによっ
て︑古典へ向かうことの禁忌の意味自体をも無化したのである︒その意味で︑彼らが欲したのは単なる正典という意味での古典ではない︒
それは︿ドノゴトンカ﹀としての︿古典﹀だったのである︒こうした﹃ドノゴトンカ﹄からの表面上の転向を示しながら︑その基底におい
て彼らの視点を追求したのである ⑤︒このような状況は﹃文芸汎論﹄という特異な場で発生した印象を与えるかもしれないが︑実際はそうで
はなかった︒ここで︑﹃風流陣﹄創刊の経緯をより明確にするという意図も含めて︑詩誌﹃日本詩壇﹄︵一九三三年四月創刊︶の動向に眼を
転じておく︒
﹃日本詩壇﹄で俳句についての議論が熱を帯び始めるのは︑同誌一巻三号︵一九三三年七月一日︶掲載の吉川則比古﹁余技﹂を発端とす
る︒吉川は自らも含めた現代の詩人が一方で俳句を軽蔑しながらも︑実は﹁余技﹂としてそれを嗜み︑﹁古い日本人らしいものが僕に巣喰
ふてゐるのに些か蒼然とする﹂と記した︒これに対して異議を差し挟んだのが︑乾直恵﹁複眼﹂︵﹃日本詩壇﹄一巻五号︑一九三三年一〇月
一日︶である︒この文章で乾は︑俳句を単なる﹁余技﹂として捉える吉川の見解を︑高浜虚子を筆頭とする花鳥諷詠的な見解と同様のもの
であるとして一掃し︑更に当時の俳壇において伝統的な俳句形式や季題の否定と超克を試みた新傾向俳句運動や新興俳句運動についても批
判の言を連ねている︒乾をして右のような俳壇からの卓越化や俳句への関心を惹起させた要因には︑大正末期に一つのモードを形成した詩
誌﹃亞﹄の短詩運動が想定されていた︒乾は言う︒
大正十四五年から一時日本の詩壇︵略︶の一角に起つた短詩運動と云ふのに就いて顧るがよい︒あれは日本の俳諧文学が欧米に反響
して︑そのまた再反響が逆輸入されたのだ︒而し仮令欧米人が俳句の真味に触れ様として如何に苦心しても︑そんなものは︑とても風
俗や習慣を異にした彼等には理解出来よう筈がない︒それゆゑ彼等はその形式の極端な短詩形のみを学んで︑そこから盛り上つて来る
陰影を彼等のフォルムとしスタイルとしたにすぎなかつたのだ︒換言すればその外郭のみに触れて内容はあくまで彼等の風俗であり習
慣であつた︒だからそれを再び見た日本人には大変目新しいものに反映しただらうけれど︑やはりその起点は我々の世界に根本を置い
てゐたことに気付かければ何の役にも立つまい!
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二六 乾の主張の核に存在したのも異文化との交錯だった︒それは﹁俳句﹂という場に外来文化と日本文化との重複や接点が存することを意識
した上で︑自らの文化を見つめ直し問い返す姿勢である︒﹁我々はもつともつと欧米の智識を学んだ後で再びこれらの日本文学を回顧する
の必要はありはしないか︒﹂と続く乾の言葉にはその論旨が明示されている︒その意味で︑前述の乾による新興俳句運動への反駁も必然だ
ったのである︒
こうした乾直恵の主張は﹃日本詩壇﹄の中で賛同を得たと考えられる︒その事実を示すように翌一九三四年九月一日には︑詩人のみによ
る俳句雑誌﹃鶴﹄が︑古川則比古を編輯兼発行人として日本詩壇編輯所より創刊されている︒﹃日本詩壇﹄二巻八号︵一九三四年一一月一
日︶に掲載された﹃鶴﹄の広告欄には︑﹁我等詩人のみに依る俳句への検討︑習作﹂とあり︑乾が提起した問題意識の反映も見られる︒
﹃鶴﹄は一九三四年一二月五日まで全三冊という短命の雑誌であったが︑詩人の間で高まりつつあった俳句への関心を具現化していた︒こ
の雑誌には岡崎精一郎︑北園克衛︑佐藤惣之助︑竹中郁︑田中冬二の他︑多数の詩人が関係している ⑥︒こうした﹃日本詩壇﹄の動向と合流
するように︑﹃文芸汎論﹄五巻七号︵一九三五年七月一日︶は特集﹁詩家俳句集﹂を企画し︑佐藤惣之助﹁昼寝礼讃﹂︑田中冬二﹁麥ほこ
り﹂︑坂本越郎﹁病床より﹂︑城左門﹁海彼譚抄﹂︑八十島稔﹁初夏爽やか﹂︑岩佐東一郎﹁夏とりどり﹂︑乾直恵﹁季節の模型﹂が掲載され
た︒岩佐東一郎は﹃風流陣﹄創刊にまつわる経緯を記した文章の中で︑この特集についても言及している︒
詩人俳句雑誌﹁風流陣﹂は︑昭和十年七月の﹁文芸汎論﹂の特輯詩家俳句集から源を発して︑同年十月に第一冊を発行するまでにな
つたもので︑云はば僕が生みの親なのだ︒もつとも創刊と決ると︑北園八十島両君が色々と実際的に援助してくれることになつたので
大いに勇気づけられた ⑦︒ ﹃日本詩壇﹄と﹃文芸汎論﹄との合流と岩佐東一郎・八十島稔・北園克衛の提携︑ここに﹃風流陣﹄創刊の素地が形成されたと言えよう︒
八十島稔は北園克衛が中心となって発行した詩誌﹃VOU﹄の同人でもあった︒国際的な詩人の連携を標榜した﹃VOU﹄は︑﹃風流陣﹄
が創刊される直前の一九三五年七月に創刊されている︵﹃VOU﹄終刊は一九七八年︶︒ちなみに︑﹃風流陣﹄創刊号巻頭には室生犀星が俳
句を寄せているが︑この点については︑北園の一九三〇年前後の文章が収められたエッセイ集﹃天の手袋﹄︵春秋書房︑一九三三年七月二
〇日︶収録の﹁若き女性詩人の場合﹂︵初出未詳︶から幾分かの事情が推測できる︒この文中で北園は︑馬込の犀星宅を訪問し芥川龍之介
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二七 や凡兆の句について談話した様子を回想しており︑こうした交流が機縁となって室生犀星の﹃風流陣﹄への合流が実現したものと考えられ
る︵﹃風流陣﹄第九冊からは犀星の妻とみ子も登場する︶︒また︑﹃風流陣﹄創刊の翌年には︑春山行夫・西脇順三郎等の詩人が関係した西
村月杖主宰の俳句雑誌﹃句帖﹄︵一九三六年一月創刊︑一九四八年七月終刊︶も創刊されている︒
ここで︑﹃風流陣﹄の編集後記に該当する﹁風流陣記﹂から︑創刊当初の基本方針を確認しておく︒
○︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵﹃風流陣﹄創刊号︑一九三五年一〇月一日︶
風流陣第一冊をお目にかけることとなりました︒在来の枯渇した俳句に︑新生命を吹き込むと云ふ大野心のもとに創刊したものであ
ります︒︵略︶
古典俳句の研究を重大視してをります︒各位の傾注する古典俳句の新研究の発表こそ望ましいのであります︒
○︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵﹃風流陣﹄二冊︑一九三五年一一月一日︶
あまりにも神経衰弱的な俳句が多いのです︒あまりにも亡国的な俳句が多いのです︒健康な憂鬱と云ふまでに至らない俳句が多いの
です︒風流陣は飽までも俳句の本道を歩まねばなりません︒俳句の本道とは何であるか︑その人の個性の表現に他なりません︒宗匠俳
句よ︑くたばれ!理論のコンクリイトに固められた所謂新興俳句よ︑消え失せろ!どこまでも道は自由でありたいのです︒
創刊号に見られるような俳句革新と古典俳句の重視という姿勢や︑第二冊で示された既成俳壇からの卓越化は︑前述したような当時の詩
人達の見解を反映していたと言えよう︒
﹃句と評論﹄創刊当時から岩佐と懇意だった藤田初巳は︑新興俳句運動の一員として﹁陣中訪問﹂を﹃風流陣﹄第四冊︵一九三六年二月
一日︶に寄稿している︒その中で藤田は﹁俳句に対する詩人諸君のこころがまへが︑われわれとは非常にちがつてゐる﹂と言い︑次のよう
に﹃風流陣﹄を分析している︒
たとへば︑季語の問題にしても︑ちやうど︑今日の詩人諸君が貝殻だとか猟笛だとか︑さういふいはゆる伝統的な﹁詩語﹂をみてゾ
ツとするやうに︑今日の俳句作者は春雨とか春愁とか︑︵略︶さういふ伝統的概念を壊してこれらの季語を用ゐやうとする傾向がある︒
詩人諸君の場合はこれとは逆で︑これらの季語にふくまれた伝統俳句的概念をむしろ新鮮に感じるか︑貴く感じるかしてゐるお方が多
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二八
いやうに察せられる︒
この藤田の見解にも見られるように︑新興俳句運動の陣営からすれば﹃風流陣﹄の活動は︑近代的思考とは無関係な日本の伝統性へ回帰
するものとして把握されていた︒上田都史﹁伝統より何を学ぶ可きか﹂︵﹃句と評論﹄六巻九号︑一九三七年九月一日︶では︑﹁﹁風流陣﹂に
拠る詩人たちの俳句の取り上げ方︑或は横光利一等の俳句観の中には︑俳句に於ける伝統的遊戯精神の卑俗さのみがあり︑芸術性といふも
のは僅な例外を除いては尠しもない﹂として︑横光利一の十日会と関連付けて﹃風流陣﹄への非難も行われた︒
こうした批判は︑﹁大東亞戦争特輯﹂として発行された﹃風流陣﹄第五七冊︵昭和一七年三月一日︶へと到る詩人達の危うさを告発して いたものと言えるだろう︒この﹁大東亞戦争特輯﹂では︑表紙﹁HAIKAI DU JAPON﹂の表記が︑﹁俳句研究雜誌﹂に変更された︒この
表記の変化は︑内務省警保局からの指導が関与したものと推測される︒このことは第五七冊より﹃風流陣﹄が販売を停止し︑﹁研究﹂とい
う名目によって辛うじて存続されたことと対応しており︑この第五七冊の﹁風流陣小規﹂の項目には﹁研究﹂の言葉が随時補われ︑それま
で﹁社友費﹂﹁誌友費﹂とされていた諸費も﹁研究費﹂と名称の変更が行われた︒八十島稔は︑一九四三年九月二三日に﹃句集・筑紫歳時
記﹄︵五〇冊限定︶を青園荘より出版︒内藤政勝の装幀による豪華な版画が施されたこの句集は︑戦争の非常時に出版したという理由から︑
八十島が内務省警保局に召還される要因ともなった︒︵﹃青芝﹄三五三号︑一九八三年四月に掲載された﹁八十島稔年譜﹂を参照︶︒その後
﹃風流陣﹄は内務省警保局の指示に依って︑一九四四年五月の第六六冊で終刊している︵八十島稔﹁風流陣﹂﹃現代俳句大事典﹄明治書院︑
一九八〇年九月を参照︶︒この第五七冊の八十島稔﹁風流陣記﹂を以下に引用する︒
今日は米英の南方拠点︑香港︑マニラ︑新嘉坡陥ち︑戦捷第一次祝賀の光輝ある日であつた︒新雪の上に翻る美しい日の丸の旗に燦
たる陽をおろがみ︑寒梅の香の稟烈にむせびつつ心から万歳を奉唱した︒あゝこの日幸なる哉︑わが風流陣は爰にみたみわれの感激に
哭き︑大東亜戦争特輯をおくり祝賀を表するを得たのである︒芸文に生きる我々が民族の栄誉を以つて︑ペンを摂り全頁を埋め尽した
ことの熱意を︑痛烈に喜びたいと思ふ︒
伝統性へと向かうこと︑それは戦争という大きな物語へと巻き込まれる危険性と分かち難く結びついていた︒だが︑こうした戦争との関
わりで﹃風流陣﹄の全てを否定してしまうことにも疑問は残る︒確かに右の言には明らかな時局への迎合が刻印されている︒だが︑詩人達
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 二九 の視座がこうした時局迎合的な言に反する属性を有していたことも一つの事実と言えるのである︒先の上田都史の批判に対して八十島稔は
﹃句と評論﹄六巻一一号︵一九三七年一一月一日︶に﹁詩人の俳句﹂を掲載し︑反論を試みている︒その文中から﹃風流陣﹄の誌名の由来
が記された箇所を次に挙げる︒
風流陣を創刊する機運を捉へ其の発句的ダイアルを握らうとした時︑岩佐東一郎︑北園克衛の両君と要約したことがある︒それは
︵風流陣といふ名称は風流気のない僕等に似合しいもので︑若し僕等が風流に溺れ風流人たるのことあれば風流陣の終を告げる時だ︶
と語つた︒
この﹁僕等が風流に溺れ風流人たるのことあれば風流陣の終を告げる時だ﹂という言は︑﹃風流陣﹄表紙に記された﹁HAIKAI DU JAPON﹂という言葉と関わっていると言えよう︒なぜなら︑この﹁HAIKAI DU JAPON﹂という語は︑単に日本的な伝統性へと回帰す るのではなく︑フランス・ハイカイに示されるような海外との接触やその反響を受けて成立する︿HAIKAI DU JAPON﹀という地点︵日
本語とフランス語とが溶解するような場所︶に止まり︑その場所からオリジナルなポエジイを創出しようとする姿勢であったと考えられる
からである︒その意味で︑彼らが目論んだのは単なる日本的な伝統性への回帰ではない︒むしろ︑そこには画一的に編制されたナショナリ
ティからの逸脱が内包されていたと言えよう︒このことは﹃風流陣﹄創刊の中心人物の一人である北園克衛が︑﹃風流陣﹄では俳句に関す
るエッセイを多数発表し︑それと同時に自らの編集する詩誌﹃VOU﹄で海外詩人との交流を展開していた事実とも呼応している︒そこに
存在したのは︑異なる文化が交錯する中で日本の伝統性を再検証し︑﹁日本的な伝統性﹂とは名付けられないような別の何物かを創出しよ
うとする心性であった︒そしてこのような伝統性とモダンが交わる状況は︑﹁日本のモダニズム﹂を伝統性の否定に基づく安易な近代主義
として規定することや︑言葉そのものの強度や存在形態を考察する以前に︑時局の迎合という事実のみによって戦時下のモダニズムを断罪
することへの警鐘をも響かせているのではあるまいか︒そうした既存の﹁モダニズム﹂観への再考と︑それを経由した上での批判的考察が
必要とされているのではなかろうか︒
以上︑﹃風流陣﹄創刊にまつわる経緯等について概略を記した︒本稿では﹃風流陣﹄総目次を紹介するにあたり︑その創刊前後の問題点
を﹃文芸汎論﹄﹃日本詩壇﹄との関連から整理するという点に限定しため︑﹃風流陣﹄に掲載されたテクストについて分析を加えることは極
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三〇
力回避した︒またその他の幾つかの点についても︵例えば︑﹃風流陣﹄誌上で伊東月草や飯田蛇笏といった既成俳壇の陣営と高篤三等の新
興俳句運動の陣営が混在しているという事実等︶︑本来ならば詳細な言及がなされるべき点が散在していたわけだが︑敢えて深入りはして
いない︒それらの諸問題については︑日本における一九三〇年代モダニズムと伝統性との関連から︑改めて別稿を準備したい ⑧︒ なお︑風流陣発行所からは岡崎清一郎﹃花鳥品隲﹄︵一九三八年七月二八日︶︑八十島稔﹃秋天﹄︵一九三八年八月一五日︶の二冊の句集 と︑﹁風流陣俳句文学叢書﹂全一六冊が刊行されている︒八十島稔﹃秋天﹄は 縦
22㎝×横 8定一清崎岡︒部八三限㎝で︶付帙︵本折の郎
﹃花鳥品隲﹄と﹁風流陣俳句文学叢書﹂全一六冊は同じ装幀︵菊半裁判・袋綴本︶で︑部数と定価も同じ百部限定の六〇銭で刊行された︒
﹁風流陣俳句文学叢書﹂全一六冊の内︑第六巻の北園克衛﹃句経﹄は全三章の俳論から構成され︑第一二巻の城左門﹃半夜記﹄には全九章
の俳論と﹁海彼調﹂と題された八句が収録された︒その他の一四冊は句集︒叢書の企画段階では︑田中冬二・笹澤美明・岡崎清一郎につい
ても刊行が予定されていたが未刊に終わったようである︵八十島稔﹁風流陣俳句文学叢書﹂﹃現代俳句大事典﹄明治書院︑一九八〇年九月
を参照︶︒また︑風流陣俳句文学叢書の全一六冊を︑春・夏・秋・冬の全四箇に分けて収容する﹁叢書秘蔵帙﹂も作成された︒この帙の現
物は未確認だが︑﹃風流陣﹄第五一冊︵一九四一年七月二〇日︶などに広告が掲載されている︒
次に﹁風流陣俳句文学叢書﹂の書誌的事項を列挙する︒
第一巻︑花巻弌﹃水輪﹄︵一九三八年一二月五日︶
第二巻︑佐藤惣之助﹃春羽織﹄︵一九三九年一月五日︶
第三巻︑八十島稔﹃柘榴﹄︵一九三九年四月五日︶
第四巻︑小名木滋﹃樹齢﹄︵一九三九年五月五日︶
第五巻︑那須辰造﹃天窓﹄︵一九三九年六月五日︶
第六巻︑北園克衛﹃句経﹄︵一九三九年七月五日︶
第七巻︑川田總七﹃庭柴﹄︵一九三九年八月二五日︶
第八巻︑中村千尾﹃掬水集﹄︵一九三九年九月二五日︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三一 第九巻︑室生とみ子﹃しぐれ抄﹄︵一九三九年一一月一五日︶
第一〇巻︑秦はま﹃嫁菜菜の花﹄︵一九三九年一二月一〇日︶
第一一巻︑岩佐東一郎﹃晝花火﹄︵一九四〇年一月一〇日︶
第一二巻︑城左門﹃半夜記﹄︵一九四〇年二月一五日︶
第一三巻︑草野壮次﹃貝殻﹄︵一九四〇年三月一五日︶
第一四巻︑安藤一郎﹃雪解﹄︵一九四〇年四月三〇日︶
第一五巻︑正岡容﹃日日好日集﹄︵一九四〇年五月五日︶
第一六巻︑高橋鏡太郎﹃空蝉﹄︵一九四〇年七月二五日︶
また︑﹃風流陣﹄第五一冊︵昭和一六年七月二〇日︶から︑﹃風流陣﹄同人は俳号を用いるようになる︒調査の結果判明した二二名の俳号
を以下に記す︒
茶煙亭︵岩佐東一郎︶︑竹々亭︵八十島稔︶︑瓦蘭堂︵北園克衛︶︑初車亭︵安藤一郎︶︑竹芝堂︵一戸務︶︑鶯館︵岡崎清一郎︶︑河童亭
︵高篤三︶︑木瓜庵︵小名木滋︶︑蕪城子︵近藤東︶︑木々草舎︵笹澤美明︶︑其蜩庵︵城左門︶︑紅魚堂︵高橋鏡太郎︶︑騒々亭︵十和田
操︶︑寥髪庵︵長田恒雄︶︑蝶々園︵中村千尾︶︑茄弓堂︵那須辰造︶︑碧麓亭︵花巻弌︶︑好日亭︵正岡容︶︑錦鴈居︵正岡智香子︶︑ 潚々居︵水上遺作︶︑一萩居︵萩原達︶︑大艸堂︵村野四郎︶︒
なお︑最後に挙げた萩原達の﹁一萩居﹂と村野四郎の﹁大艸堂﹂は︑神奈川近代文学館が所蔵する﹃風流陣﹄全六五冊の中では確認でき
ない俳号だが︑﹃風流陣﹄同人の句会について記された︑八十島稔﹁庚塚句會鈔記﹂︵﹃文芸汎論﹄一一巻五号︑一九四一年五月一日︶の文
中で使用が確認できたため︑参考までに列挙した︒
注① ここに記した﹁人文科学一般にわたる一つの傾向﹂とは︑具体的には﹁ヘテロトピア﹂︵M・フーコー︶への関心を基盤に据えた言説=実践を想定して
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三二 いる︒こうした実践の一例としては︑上村忠男﹃超越と横断﹄︵未来社︑二〇〇二年一二月︶を参照︒また︑欧米起源とされるモダニズムに対して︑近年︑欧米の研究者が日本のモダニズムに関心を示していることも︑この様な状況との関連の中で把握することが可能だろう︒その一例としては︑Seiji M. Lippit, ︵New York : Columbia University Press, 2002︶を参照︒② 八十島稔﹁風流陣﹂︵﹃現代俳句大事典﹄明治書院︑一九八〇年九月︶を参照︒③ 岩佐東一郎﹁東談西語 その六﹂︵﹃文芸汎論﹄七巻三号︑一九三七年三月一日︶④ 引用した俳句の内︑﹁君待ちて〜﹂﹁三味の音や〜﹂の二句は︑ピイエエル・パスカル﹁俳偕﹂︵﹃文芸汎論﹄一巻三号︑一九三一年一一月一日︑一七頁︶でも紹介された︒なお︑パスカル﹁俳偕﹂では︑﹁暁虹の根の鎧虫浦の月﹂﹁絨氈の白きに鶏の赤蠣を喰む﹂﹁枯枝の散らばる戸口君の下駄﹂﹁枝もある珊瑚の鶏や武士の扇か﹂の四句も新たに紹介されている︒⑤ こうした﹃文芸汎論﹄の在り方は︑フランス新精神の詩と日本語との調和を志した堀口大学の訳詩集﹃月下の一群﹄の延長線上を歩んでいたとも言える︒堀口大学は﹃文芸汎論﹄創刊の中心人物であった岩佐東一郎・西山文雄・城左門等の共通の師であった︒ちなみに︑堀口は一九二〇年代のフランス・ハイカイの積極的な紹介者でもあり︑ルネ・モオブラン﹁俳諧詩﹂︵﹃明星﹄﹇第二次﹈七巻二号︑一九二五年八月一日︶︑ジュリアン・ボカンス﹁アイカイ詩﹂︵﹃月下の一群﹄第一書房︑一九二五年九月一七日︶等のフランス・ハイカイの翻訳がある︒⑥ ﹃鶴﹄についての詳細は︑﹃現代詩誌総覧⑦﹄︵日外アソシエーツ︑一九九八年一二月︶に掲載された︑和田博文﹁解題﹂︵二〇四頁︶と︑同書に収録された総目次を参照されたい︒⑦ 前掲岩佐東一郎﹁東談西語 その六﹂より︒⑧ このような観点における問題意識については︑拙稿﹁伝統的最先端の視線―一九三〇年代モダニズム考―﹂︵﹃日本文学﹄五二巻九号︑二〇〇三年九月︶で一部言及した︒
︹付記︺
雑誌﹃風流陣﹄の閲覧にあたっては︑神奈川近代文学館︵那須辰造文庫︶の御協力を頂いた︒この場をかりて厚く御礼申し上げたい︒
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三三
『風流陣』第一冊(昭和一〇年一〇月一日発行)
写真提供:神奈川近代文学館 この画像の複製・転用は禁止されています。
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三四
︻目録︼
︽凡例︾
一︑本目録は文芸汎論社と風流陣発行所から刊行された俳句雑誌﹃風流陣﹄目次であり︑神奈川近代文学館に所蔵されている第一冊︵昭和
一〇年一〇月一日発行︶から第六五冊︵昭和一九年一月二〇日発行︶までを対象に作成した︒﹃風流陣﹄は昭和一九年五月に終刊号の第
六六冊が刊行されたが︑それについては未確認であることを断っておく︒
一︑表記については︑最初に号数︵冊数︶と発行年月日を︻ ︼内に記し︑次の行から収録されている文献を︑筆者名・作品名・頁数の順 で記載した︒その際︑発行年月日は奥付頁の表記に従い︑作品名は﹁ ﹂の中に︑頁数は︵ ︶内に記した︒﹃風流陣﹄は表紙を第一頁
に換算しているので目次は第二頁より作成した︵第四七冊は例外︶︒また︑旧漢字等の表記については︑可能な限り雑誌の表記に従った︒
一︑特集号については︑冊数・発行日を記した次の行の︽ ︾内に特集名を明記した︒
一︑俳句以外の記事︵俳論・エッセイ・編集後記など︶については︑記事の冒頭に﹁※﹂の記号を付し区別した︒
一︑筆者名は雑誌上で表記されているものを最初に記し︑俳号等については判明している場合のみ︑現在一般に用いられている筆者名を括
弧内に記した︒また︑筆者名の記載が名字のみの場合にはできる限り名前も補ったが︑未詳の人物については名字のみを記載した︒
一︑題名の記載がない場合には﹇ ﹈の中に﹇無題﹈と記した︒従って︑﹁ ﹂の中に﹁無題﹂と記している場合は︑雑誌内の題名自体が
﹁無題﹂と表記されていることを示す︒
一︑新著紹介や詩集等の広告欄については︑それぞれ冒頭に︿新著紹介﹀︿広告﹀と記し︑目次内に組み込んだ︒その際︑﹃風流陣﹄につい
ての広告等は割愛した︒
一︑雑誌に収録された記事の記述が複数行になる場合には︑二行目以降を一マス下げ︑他の記事と区別できるように記載した︒
一︑発行所・印刷所・定価等は変更のある場合に限り︑末尾に設けた﹁◆﹂以下の部分に注記した︒
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三五 ︻第一冊︵昭和一〇年一〇月一日発行︶︼
室生犀星﹁碓氷だより﹂︵二頁︶
津村素雨︵津村秀松︶﹁入道雲﹂︵二頁︶
竹村俊郎﹁なりあひ﹂︵三頁︶
岡崎清一郎﹁撥句﹂︵三頁︶
田中冬二﹁秋五句﹂︵四頁︶
古川則比古﹁風露吟﹂︵四頁︶
扇谷義男﹇無題﹈︵五頁︶
龜山勝﹇無題﹈︵五頁︶
八十島稔﹁はなはな﹂︵六頁︶
川田總七﹁舊暦七月﹂︵六頁︶
莊生春樹﹇無題﹈︵七頁︶
岩佐東一郎﹁秋雨﹂︵七頁︶
北園克衛﹁散歩﹂︵七頁︶
※田中冬二﹁手帖から﹂︵八頁︶
※北園克衛﹁純粋俳諧論﹂︵八〜九頁︶
※龜山勝﹁子規そのほか﹂︵九〜一一頁︶
※八十島稔﹁俳諧綺羅説﹂︵一一〜一二頁︶
※城左門﹁半夜記﹂︵一二頁︶
※扇谷義男﹁青手帖﹂︵一三〜一四頁︶ ︿新著紹介﹀井手里梅﹁さとのうめ﹂︑津村秀松﹁花野ゆく﹂︑久
保田万太郎﹁わかれじも﹂︑﹃句と評論﹄十月號︵一四頁︶
※︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
◆編輯兼発行人は岩佐東一郎︒
◆発行所は文芸汎論社︵東京市品川区大井庚塚町四九二八︶︒
◆印刷人は斎藤幸次郎︒印刷所は自由通信社︵東京市京橋区銀座西
三ノ一︶︒
◆定価は﹁普通号一冊金十五銭送料二銭︑一年分金一円八十銭送料
共﹂︒
◆奥付には﹁毎月一回一日発行﹂と記されている︒
◆奥付頁には﹁風流陣小規﹂が掲載された︒以下︑全文を引用する︵﹁/﹂は改行を示す︶︒﹁社中規定/社友 風流陣の趣旨に賛成参
加し三ケ月分社費金壱圓を前納する者︒随時寄稿を為すことを得︒
/誌友 風流陣三ケ月分誌費金五拾銭を前納する者︒投稿に優先
権を有す︒/原稿規定/エツセイは五枚以内︵四百字詰︶俳句は
一人十句以内︵社友︶一人五句以内︵誌友︶用紙官製ハガキ/締
切は毎月十日厳守のこと︒/原稿は一切返却せず︒質問は往復ハ
ガキにて︒﹂
︻第二冊︵昭和一〇年一一月一日発行︶︼
村野四郎﹁手紙﹂︵二頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三六
笹澤美明﹁るり頬赤﹂︵二頁︶
藤田初巳﹁時﹂︵二〜三頁︶
徳川夢聲﹇無題﹈︵三頁︶
八十島稔﹁秋ふけて﹂︵三〜四頁︶
古川則比古﹁島の秋﹂︵四頁︶
川田總七﹁木犀﹂︵四〜五頁︶
佐藤十彌﹁秋冷句﹂︵五頁︶
莊生春樹﹁道﹂︵五頁︶
扇谷義男﹁秉燭吟情﹂︵六頁︶
岡崎清一郎﹁醍醐 其の他﹂︵六〜七頁︶
岩佐東一郎﹁油壺遊行﹂︵七頁︶
竹村俊郎﹁起居﹂︵七頁︶
※高橋邦太郎﹁庄兵衛の灸﹂︵八〜九頁︶
※坂本越郎﹁詩情について﹂︵九〜一〇頁︶
※岡崎清一郎﹁座談﹂︵一〇〜一二頁︶
※城左門﹁続半夜記﹂︵一二頁︶
※八十島稔﹁続俳諧綺羅説﹂︵一二〜一三頁︶
ふかみづ︑伊藤逸太郎︑平田零郎︑豊島耿︑西菖兌太郎︑鹽谷安
郎︑橋口平﹁風流陣俳句﹂︵一四頁︶
※︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵一五頁︶ ︻第三冊︵昭和一一年一月一日発行︶︼
佐藤惣之助﹁北平の一夜﹂︵二頁︶
衣巻省三﹁三句﹂︵二頁︶
北園克衛﹁十一月一日﹂︵二頁︶
丸山薫﹁珈琲﹂︵三頁︶
田中冬二﹁夜なが﹂︵三頁︶
八十島稔﹁冬彩小品﹂︵四頁︶
龜山勝﹁寒灯集 古き手紙より﹂︵四頁︶
莊生春樹﹁薄日﹂︵五頁︶
川田總七﹁短日﹂︵五頁︶
扇谷義男﹁冬塵抄﹂︵六頁︶
古川則比古﹁野分あと﹂︵六頁︶
岡崎清一郎﹁鞍馬口寺町頭﹂︵七頁︶
竹村俊郎﹁室内﹂︵七頁︶
※岡崎清一郎﹁雜一束﹂︵八〜九頁︶
※八十島稔﹁続俳諧綺羅説﹂︵九〜一〇頁︶
※城左門﹁︵続々︶半夜記﹂︵一〇〜一一頁︶
※龜山勝﹁芭蕉と蕪村 岡崎清一郎氏に駁す﹂︵一一〜一三頁︶
※近藤東﹁LE CADAVRE EXQUIS﹂︵一三頁︶
高橋友鳳子︑鹽谷安郎︑秋久卓士︑西菖兌太郎︑伊藤逸太郎︑橋
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三七 口平︑鈴木白鈴子︑河村瑞山︑由佐利九離﹁風流陣俳句﹂︵一
四頁︶
※︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︻第四冊︵昭和一一年二月一日発行︶︼
竹村俊郎﹁越年﹂︵二頁︶
那須辰造﹇無題﹈︵二頁︶
村野四郎﹁茶の花﹂︵三頁︶
岡崎清一郎﹁名月薔薇風の日雀﹂︵三頁︶
佐藤十彌﹁句帖より﹂︵四頁︶
北園克衛﹁新年﹂︵四頁︶
吉川則比古﹁鶴﹂︵四〜五頁︶
岩佐東一郎﹁冬のサーカス﹂︵五頁︶
川田總七﹁越年﹂︵五頁︶
奈加敬三﹁回春鈔﹂︵六頁︶
莊生春樹﹁春寒﹂︵六頁︶
八十島稔﹁銀座界隈﹂︵六〜七頁︶
笹澤美明﹁たるひ﹂︵七頁︶
天野隆一﹁紙魚の色﹂︵七頁︶
※藤田初巳﹁陣中訪問﹂︵八〜一〇頁︶
※北園克衛﹁ちよいちよい録﹂︵一〇頁︶ ※岡崎清一郎﹁失言?を取消さず―龜山勝君に﹂︵一一〜一二
頁︶
※八十島稔﹁親子俳談﹂︵一三頁︶
高橋友鳳子︑斉藤堊樹︑河村瑞山︑山内恙︑小林朝治︑山菖兌太
郎︑鹽谷安郎︑秋久卓士︑橋口平︑鈴木國男﹁風流陣俳句﹂
︵一四頁︶
※︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︻第五冊︵昭和一一年三月五日発行︶︼
田中冬二﹁春愁﹂︵二頁︶
室生犀星﹁梅﹂︵二頁︶
北園克衛﹁梅輪輪﹂︵二頁︶
渡邊修三﹁春欝々﹂︵三頁︶
川田總七﹁猫の戀﹂︵三頁︶
古川則比古﹁雪情相聞﹂︵四頁︶
八十島稔﹁紫の衣﹂︵四頁︶
那須辰造﹁冬﹂︵五頁︶
竹村俊郎﹁をりをり﹂︵五頁︶
岡崎清一郎﹁春句﹂︵六頁︶
池永治雄﹁雪其他﹂︵六頁︶
一戸務﹁雜句﹂︵七頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三八
扇谷義男﹁春光遅々﹂︵七頁︶
高橋友鳳子︑山内恙︑花巻弌︑鹽谷安郎︑橋口平︑鈴木國男﹁風
流陣俳句﹂︵八〜九頁︶
※竹村俊郎﹁細み︑その他のことども﹂︵一〇〜一一頁︶
※百田宗治﹁陋巷痴夢一句﹂︵一一頁︶
※一戸務﹁俳句の社会性﹂︵一一〜一二頁︶
※城左門﹁半夜記補逸﹂︵一二〜一三頁︶
※佐藤十彌﹁綴方﹂︵一三〜一四頁︶
︿広告﹀﹁文芸汎論新年號﹂︵一四頁︶
※︵無署名︶﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︻第六冊︵昭和一一年四月二〇日発行︶︼
竹村俊郎﹁馬込淺春﹂︵二頁︶
坂本越郎﹁春の月﹂︵二頁︶
那須辰造﹁蝶 その他﹂︵三頁︶
村野四郎﹁梅の蕚﹂︵四頁︶
近藤東﹁★﹂︵四頁︶
平野威馬雄﹁荒日﹂︵五頁︶
奈加敬三﹁青柳鈔﹂︵五頁︶
笹澤美明﹁春二題﹂︵六頁︶
杉本駿彦﹁青雀亭雜句﹂︵六頁︶ 花巻弌﹁近詠﹂︵七頁︶
瀧口武士﹁四句﹂︵七頁︶
扇谷義男﹁春の塵﹂︵八頁︶
川田總七﹁浮雲﹂︵八頁︶
八十島稔﹁花の召﹂︵九頁︶
岡崎清一郎﹁秋日閭巷﹂︵九頁︶
※城左門﹁半夜記ノ帖﹂︵一〇頁︶
※竹村俊郎﹁春雨の日に﹂︵一〇〜一二頁︶
※北園克衛﹁続ちよいちよい録﹂︵一二〜一三頁︶
高橋友鳳子︑秋久卓士︑河村瑞山︑鈴木國男︑鹽谷安郎﹇無題﹈
︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
◆編輯兼発行人が八十島稔に変更︒
◆発行所が風流陣発行所︵東京都赤坂区中ノ町一九︶に変更︒この
住所は八十島稔宅の住所と一致する︒
◆印刷人が亀井善治郎に変更︒印刷所も亀井印刷所︵東京市神田区
西神田一ノ四︶に変更︒
◆奥付の記述が﹁毎月一回二十日発行﹂に変更︒
︻第七冊︵昭和一一年五月二〇日発行︶︼
田中冬二﹁麥烏賊﹂︵二頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 三九 村野四郎﹁樹の花﹂︵二頁︶
岡崎清一郎﹁噩房帖抜萃﹂︵三頁︶
城左門﹁佳人頌﹂︵三頁︶
古川則比古﹁徂春微吟﹂︵四頁︶
莊生春樹﹁屑籠﹂︵四頁︶
扇谷義男﹁暮春吟情﹂︵五頁︶
奈加敬三﹁遅日鈔﹂︵五頁︶
川田總七﹁衣更﹂︵六頁︶
花巻弌﹁春盡譜﹂︵六頁︶
笹澤美明﹁乙鳥﹂︵七頁︶
八十島稔﹁蜜蜂﹂︵七頁︶
中村千尾﹁鳶尾草﹂︵八頁︶
那須辰造﹁旅のノオトより﹂︵八頁︶
衣巻省三﹁葉櫻﹂︵八頁︶
岩佐東一郎﹁動物園﹂︵九頁︶
竹村俊郎﹁蜘のいのち﹂︵九頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
1﹂︵一〇頁︶
※岩佐東一郎﹁私家私言︵一︶﹂︵一一頁︶
※長崎謙二郎﹁俳句の思ひ出﹂︵一一〜一二頁︶
︿広告﹀﹁北園克衛著﹃鯤﹄﹂︵一二頁︶ ※竹村俊郎﹁陣中饒舌﹂︵一二〜一三頁︶
禿徹︑鈴木國男︑高橋友鳳子︑秋久卓士﹁春句﹂︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︿広告﹀岩佐東一郎﹃神話﹄︵裏表紙︶
︻第八冊︵昭和一一年六月二〇日発行︶︼
那須辰造﹁松の葉ちる﹂︵二頁︶
川田總七﹁青梅﹂︵二頁︶
奈加敬三﹁椎落葉﹂︵三頁︶
八十島稔﹁盛装﹂︵三頁︶
安藤一郎﹁牡丹園にて﹂︵四頁︶
草野壯次﹁無題﹂︵四頁︶
長田須美﹁庭﹂︵五頁︶
田中冬二﹁手帖から﹂︵五頁︶
岡崎清一郎﹁青葉﹂︵五頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
2﹂︵六頁︶
※岡崎清一郎﹁府川恵造の撥句﹂︵七〜八頁︶
※近藤東﹁バレ句﹂︵八〜九頁︶
※岩佐東一郎﹁私家私言︵二︶﹂︵九〜一〇頁︶
※奈加敬三﹁食卓に寄つて﹂︵一〇頁︶
︿広告﹀杉山田庭著﹃子規没後集﹄︵一〇頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 四〇
※竹村俊郎﹁撥句精神覚書﹂︵一一〜一二頁︶
︿広告﹀田中冬二著﹃花冷え﹄︵一二頁︶
※一戸務﹁断りの辯﹂︵一二〜一三頁︶
竹村俊郎﹁暮の春﹂︵一四頁︶
岩佐東一郎﹁青葉若葉﹂︵一四頁︶
とみ女﹁波の穗たち﹂︵一五頁︶
花巻弌﹁降雨期﹂︵一五頁︶
野長瀬正夫﹁句抄﹂︵一六頁︶
禿徹﹁青葉吟﹂︵一六頁︶
笹澤美明﹁夏花三態﹂︵一六頁︶
莊生春樹﹁雨期﹂︵一七頁︶
村野四郎﹁茨の花﹂︵一七頁︶
※村野四郎︑北園克衛︑岩佐東一郎﹁執筆家鈔﹂︵一八頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一九頁︶
︻第九冊︵昭和一一年七月二〇日発行︶︼
室生とみ子﹁輕井澤駅途上﹂︵二頁︶
岡崎清一郎﹁夏女房﹂︵二頁︶
草野壯次﹁工房﹂︵三頁︶
村野四郎﹁花あふひ﹂︵三頁︶
永田助太郎﹁白と鼠色と﹂︵四頁︶ 杉本駿彦﹁麥秋遊記﹂︵四頁︶
安藤一郎﹁初夏断片﹂︵五頁︶
禿徹﹁夏句抄﹂︵五頁︶
花巻弌﹁小さき命﹂︵五頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
3﹂︵六頁︶
※岡崎清一郎﹁来歴﹂︵六〜八頁︶
※城左門﹁半夜ノ記﹂︵八頁︶
※竹村俊郎﹁続撥句精神覚書﹂︵八〜九頁︶
岩佐東一郎﹁上海行旅﹂︵一〇頁︶
川田總七﹁孑子﹂︵一〇頁︶
長田須美﹁山居﹂︵一一頁︶
青宿清太﹁無題﹂︵一一頁︶
奈加敬三﹁私抄﹂︵一一頁︶
八十島稔﹁海市﹂︵一二頁︶
竹村俊郎﹁茅舎﹂︵一二頁︶
莊生春樹﹁花精﹂︵一三頁︶
那須辰造﹁望郷﹂︵一三頁︶
田中冬二﹁心太﹂︵一三頁︶
※那須辰造︑岡崎清一郎︑川田總七﹁執筆家鈔﹂︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 四一 村野四郎︑那須辰造︑安藤一郎︑八十島稔︑北園克衛︑花巻弌︑
中村千尾︑長田恒雄︑川田總七︑莊生春樹︑近藤東︑永田助太
郎﹁句会作品抄﹂︵一五頁︶
︻第一〇冊︵昭和一一年八月二〇日発行︶︼
北園克衛﹁☆﹂︵二頁︶
竹村俊郎﹁☆﹂︵二頁︶
岩佐東一郎﹁孟夏三伏﹂︵三頁︶
川田總七﹁夏盡る﹂︵三頁︶
花巻弌﹁夏季雜句﹂︵四頁︶
草野壯次﹁★﹂︵四頁︶
中村千尾﹁驟雨﹂︵五頁︶
鈴木國男﹁雜詠﹂︵五頁︶
村野四郎﹁二句﹂︵五頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
4﹂︵六頁︶
︿広告﹀北園克衛詩集﹃鯤﹄︵六頁︶
※岡崎清一郎﹁赤口日⁝⁝五銭の綴方帖⁝⁝﹂︵七頁︶
※竹村俊郎﹁花と虱﹂︵七〜九頁︶
※八十島稔﹁風流時評﹂︵九頁︶
※岩佐東一郎﹁愚問答﹂︵九頁︶
岡崎清一郎﹁夏書﹂︵一〇頁︶ 青宿清太﹁無題﹂︵一一頁︶
永田助太郎﹁蟲と花と﹂︵一一頁︶
禿徹﹁氷柱﹂︵一二頁︶
安藤一郎﹁海の八月﹂︵一二頁︶
室生とみ子﹁輕井澤山莊﹂︵一三頁︶
八十島稔﹁夏山﹂︵一三頁︶
※永田助太郎︑草野壯次︑花巻弌﹁執筆家鈔﹂︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︻第一一冊︵昭和一一年九月二〇日発行︶︼
︽作品特輯號︾
竹中郁﹁☆﹂︵二頁︶
室生とみ子﹁山居﹂︵二頁︶
岡崎清一郎﹁足利市﹂︵三頁︶
莊生春樹﹁涼秋﹂︵四頁︶
安藤一郎﹁縞すゝき 其他﹂︵四頁︶
奈加敬三﹁旅信抄﹂︵五頁︶
鈴木國男﹁初秋﹂︵五頁︶
禿徹﹁雜句﹂︵六頁︶
八十島稔﹁秋の蝶 其の他﹂︵六頁︶
杉山田庭﹁大文字﹂︵七頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 四二
杉本駿彦﹁海村にて﹂︵七頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
5﹂︵八頁︶
︿広告﹀川田總七著﹃若い蛇﹄︵八頁︶
※竹村俊郎﹁かくあるべしの説﹂︵九〜一〇頁︶
※岩佐東一郎﹁茶煙雜記﹂︵一〇〜一一頁︶
※八十島稔﹁風流時評﹂︵一一頁︶
室生犀星︑竹村俊郎﹁信越戯吟﹂︵一二〜一三頁︶
那須辰造﹁豚など﹂︵一四頁︶
山中散生﹁惚れざけ﹂︵一四頁︶
花巻弌﹁初嵐﹂︵一五頁︶
永田助太郎﹁空間﹂︵一五頁︶
乾直惠﹁自由畵﹂︵一六頁︶
草野壯次﹁箱根行﹂︵一六頁︶
川田總七﹁秋立つ﹂︵一七頁︶
岩佐東一郎﹁空の旅﹂︵一七頁︶
※八十島稔︑禿徹︑安藤一郎﹁執筆家鈔﹂︵一八頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一九頁︶
︻第一二冊︵昭和一一年一〇月二〇日発行︶︼
竹村俊郎﹁那須山腹﹂︵二頁︶
天野隆一﹁立秋﹂︵二頁︶ 安藤一郎﹁雜詠﹂︵三頁︶
永田助太郎﹁時間﹂︵三頁︶
川田總七﹁いてふ﹂︵四頁︶
草野壯次﹁村祭﹂︵四頁︶
花巻弌﹁秋山﹂︵五頁︶
室生とみ子﹁しぐれ﹂︵五頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
6﹂︵六頁︶
※岡崎清一郎﹁蕪村翁墓﹂︵六〜八頁︶
※安藤一郎﹁俳句の構成に就いて﹂︵八〜九頁︶
※竹村俊郎﹁Hard and Plastic﹂︵九︑一四頁︶
村野四郎﹁秋日﹂︵一〇頁︶
奈加敬三﹁子規忌﹂︵一〇頁︶
笹澤美明﹁秋﹂︵一一頁︶
禿徹﹁火屋﹂︵一一頁︶
中村千尾﹁スケツチ﹂︵一一頁︶
岡崎清一郎﹁句集﹃名月﹄抄﹂︵一二頁︶
八十島稔﹁秋時雨 其の他﹂︵一三頁︶
那須辰造﹁旅そのほか﹂︵一三頁︶
※奈加敬三︑杉本駿彦﹁執筆家鈔﹂︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
神奈川近代文学館蔵 俳句雑誌﹃風流陣﹄総目次 四三 ︻第一三冊︵昭和一一年一一月二〇日発行︶︼
岡崎清一郎﹁秋十三句﹂︵二頁︶
草野壯次﹁落葉﹂︵三頁︶
竹村俊郎﹁籬落﹂︵三頁︶
瀧口武士﹁中秋﹂︵四頁︶
奈加敬三﹁觀艦式拜觀﹂︵四頁︶
安藤一郎﹁拾遺一句﹂︵五頁︶
花巻弌﹁闌秋﹂︵五頁︶
※北園克衛﹁糞やけ俳諧道
7﹂︵六頁︶
※竹村俊郎﹁犀星断簡﹂︵六〜八頁︶
※城左門﹁半夜記覚え﹂︵八頁︶
※安藤一郎﹁﹁連作﹂に関するノート﹂︵八〜九頁︶
※八十島稔﹁風流時評﹂︵九頁︶
杉本駿彦﹁濃州青墓村﹂︵一〇頁︶
村野四郎﹁冬日﹂︵一〇頁︶
禿徹﹁ラグビー﹂︵一一頁︶
永田助太郎﹁因果﹂︵一一頁︶
八十島稔﹁菊花草紙﹂︵一二頁︶
川田總七﹁相模野抄﹂︵一二頁︶
室生とみ子﹁墓参﹂︵一三頁︶ 中村千尾﹁一句﹂︵一三頁︶
※草野壯次︑岡崎清一郎︑禿徹︑村野四郎︑奈加敬三︑竹村俊郎︑
竹中郁﹁風流春秋﹂︵一四頁︶
※八十島稔﹁風流陣記﹂︵一五頁︶
︻第一四冊︵昭和一一年一二月二〇日発行︶︼
岩佐東一郎﹁初冬日記﹂︵二頁︶
室生とみ子﹁短日﹂︵二頁︶
奈加敬三﹁霜夜抄﹂︵三頁︶
秦はま﹁秋﹂︵三頁︶
花巻弌﹁碧麓亭雜句﹂︵四頁︶
禿徹﹁冬句﹂︵四頁︶
岡崎清一郎﹁冬至﹂︵五頁︶
※衣巻省三﹁生理﹂︵六頁︶
※岡崎清一郎﹁ヨタ﹂︵七頁︶
※安藤一郎﹁﹁連句﹂に関するノート
2﹂︵八〜九頁︶
※岩佐東一郎﹁茶煙雜記﹂︵九頁︶
永田助太郎﹁分量﹂︵一〇頁︶
草野壯次﹁火事 其の他﹂︵一〇頁︶
山中散生﹁冬﹂︵一一頁︶
杉本駿彦﹁冬夜抄﹂︵一一頁︶