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自分さがしの授業づくり : 教科通信のとりくみを 通して

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自分さがしの授業づくり : 教科通信のとりくみを 通して

著者 壬生 博幸

雑誌名 同志社国文学

号 41

ページ 324‑341

発行年 1994‑11

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005137

(2)

自分さがしの授業づくり三二四

自分さがしの授業づくり

教科通信のとりくみを通して

壬  生  博 幸

     一 一少女へのメッセージから

 今年も浅井秀子さんから年賀状が届きました︒大学生活の近況を

報らせながら︑自分の進路選択がまちがっていなかったことを実感

こめて書いてあったのが印象的でした︒昨年の年賀状には︑先生に

四年制大学をつよくすすめられたこと︒しかし︑自分の意志で﹁平

安女学院短大に行くことにしました︒平安女学院は︑私にとって神

の教え︑大好きな学校です︒ここまでこれたことを感謝していま

す﹂と報告されていましたから︑今年は︑いわばその続報の気味が

あったのです︒

 それを読みながら︑強い緊張と不安をまなざしにこめて︑にらみ

つけるようにみていた浅井さんの八年前︑中学一年生の幼い表情を

昨日のことのように思いうかべていました︒  さて︑中学生との新たな出会いを結ぶ授業びらき〃の日は︑いっも新鮮な緊張感にあって︑こころもち胸をどきどきさせながら︑教室の戸に手をかけます︒ 子どもたちにすれば︑その緊張感は︑もっと大きいものがあるはずです︒とくに小学校から中学校へ変わると︑授業のたびごとに担当する先生もちがいます︒そのうえ︑私立中学の場合︑地域とはなれて︑席を並べていた友ともわかれ︑多くの場合︑ひとりでやってくるわけですから︑どんな友だち︑どんな先生とめぐりあえるのか︑期待以上の不安が交錯するのはあたりまえだといえます︒ かててくわえて︑この時は︑こちらの方にも︑例年とちがい︑いささか緊張の度を増す不安要素が加わっていました︒それが浅井さんでした︒彼女の耳が︑両方ともほとんどきこえない状態であるこ

とを私たちは︑彼女の合格が決定したあとで知ることになったから

(3)

です︒ 浅井さんは︑生後四ケ月の時︑風邪をこじらせた高熱のため聴力

を失ってしまいました︒彼女の難聴の度合はきつく︑浅井さんの表

現をかりれば﹁耳からかすかな音が︑ボンボンとはいるだけで言葉

はきこえない状態﹂だといいます︒補聴器はっけているものの︑実

際は唇の動きで言葉をよみとる口話法にもっぱら頼っていました︒

 それまで授業に行ったり︑彼女と接した先生方から︑大まかな様

子はきいてはいましたが︑それでも不安でした︒うまくよみとって

もらえるだろうか? もちろん︑当の本人の方がはるかに緊張して

いたはずで︑小学校時には︑難聴児のクラスで学んでいて︑全くの

健常者との生活は︑中学校がはじめての体験となったからです︒

 彼女をふくむ︑この子どもたちとのであいにあたって︑二枚のプ

リントを小わきにかかえて教室にはいりました︒﹁出会いを大切に

  自己を語る一年に  ﹂とした教科通信でした︒浅井さんは︑

耳からはいる惰報から疎外されているわけですから︑できるだけ︑

目からの情報を多くしてやりたいと考えたのです︒いわば︑耳の不

自由な少女へのメッセージからはじまったわけですが︑それ以後︑

七年間︑ほとんど毎時間欠かすことなく発行しつづけて︑気がっく

と通算八四〇号を数えるまでに︑とは思ってもいませんでした︒つ

づけていく中で︑子どもたちや親の問に︵さらには教職員の問に

     自分さがしの授業づくり も一市民権一を得るようになるにっれやめられなくなった︑というのが偽らざるところです︒︵八四〇号の内わけをいえば︑﹃がりばあの馬の七八名の仲間たち﹄というタイトルで三年問︒﹃TETOTET079﹄で三年間︒それぞれ一年生から三年生へのもちあがりで︒﹃飛ぶ教室﹄の子どもたちだけ二年生の一年間のみ︒一

    二 思春期の自我形成にくぐらせたい三つの課題

 ぼくの勤務する私立平安女学院中学・高等学校は︑同志社とは同じ烏丸沿線で︑御所をはさんで︑その南の方に位置します︒一九九五年には︑創立百二〇周年を迎える古い伝統をもっキリスト教主義の学園ですが︑中学と高校とは教員体制もはっきり分離されているわけではなく︑授業も中・高かけもちで受けもっ教員は少くありません︒ぼく自身︑この十年近くは中学生の授業がけっこう多かったのですが︑校務分掌上は高校に位置していました︒ ところで︑ぼくはそれまで︑何度か中学生を受け持った時の経験から︑思春期の自我形成にくぐらせたい三つの課題︑というようなことを漢然と考えていました︒ その一つは︑親のくらし︑生活をしっかりうけとめさせたい︑ということです︒っまり親がどんな仕事をし︑どんなくらしを背負いながら子どもを育てているのか︒親が生きてきた歴史の中で︑子ど       三二五

(4)

     自分さがしの授業づくり

もの現在と未来にどんな願いをもっているのか︑その願いの根っこ

にあるものにふれさせたいということです︒

 二つ目は︑身近な者の戦争体験の継承という課題です︒次代をに

なう主権者として︑平和の課題は欠かすわけにはいきません︒平和

を観念的な知識ではなく︑たしかな手ざわり〃の中で考えさせる

ためには︑身近な者の戦争体験が有効であることを︑それまでの実

践で教えられていました︒遠い︑自分とは全く無縁の昔話でしかな

かった戦争が︑実は﹁もし︑あの時︑父の耳もとをかすめた銃弾が︑

少しでもずれていたら︑今の私という存在はなかったのだ﹂という

発見は︑子どもの戦争認識を一変させる力をもっているものなので

す︒ぼくが教師をはじめた二十年余の以前は︑父母の戦争体験であ

ったのですが︑今は︑戦争を知っている中学生の父母は皆無に近く

なっています︒したがって︑多くは︑祖父母の体験に頼らざるを得

なくなっているのが実情で︑年々体験をひきっぐこと自体︑困難に

なっていますが︑追求しっづけたい問題です︒

 三つ目は︑性の課題︒自分の身体や性の問題を人権の課題として

くぐり直させていくということです︒性をメカニズムの問題ではな

く︑生き方の問題として︑あるいは人が生きていく上での人と人を

つなぐ関係﹁性﹂の課題として︑いっしょに考えてみたいと思った

のです︒       三二六 こうした三つのテーマを三年問︑単元の学習とかかわりをもたせつつ︑何度もくり返して︑形を変えながら書くことを通して考えさせたい︒そして︑それらが︑個人の閉じられた〃営みではなく︑あるいは︑教師と結ばれる点と点のっながりだけでなく︑同じ思春期を生きる仲間として︑子どもたちひとりひとりをっなぐ広場〃の役割を教科通信にもたすことはできないだろうかと考えたわけです︒ この三つのテーマは︑一度やればおしまい︑というものでも︑個別の無関係のものでもなく︑相互にかかわりあい関連しあいながら︑ひとつのものに収鮫されていく︑そんなイメージで展開したいものだと考えてみました︒収鮫されていくのは︑自分さがし〃というテーマにむかって︑というイメージです︒ たとえば︑くらしの現実︑親のねがいとむきあわせたいという課題を中心に図式化してみれば︑こんなふうにいえるでしょうか︒一年時には﹁わが父わが母を語る﹂という作文を課します︒これはあくまで子どもの側からのアプローチにすぎなません︒親がどんな思いで子どもを育て︑日々接しているか︑ということはあまりでてくることはありません︒思春期の入口に立つ子どもの目から見た︑かなりシビア︵なことの多い︶父親像︑母親像が描かれることになり

ます︒

(5)

 二年時には︑﹁性の課題﹂の導入として︑﹁私の−ミ婁げ◎昌﹂と

いう作文を課すことになるのですが︑そこであらためて子どもたち

は︑親の願い︑思いにまともにふれることになります︒﹁わが父わ

が母﹂は思春期の子どもの側から一方的な親に対する見方で書ける

のですが︑﹁私の−尋富ざ昌﹂では子どもが親に取材しないでは書

けないしかけにしてあるのです︒

 三年には﹁戦争課題﹂とクロスオーバーするのですが﹁語りつぐ

戦争体験﹂の課題で︑聞き書きをさせることで︑歴史的杜会的なひ

ろがりの中で︑祖父母から父母へ︑さらに現在へと︑生命から生命

へ︑ねがいからねがいへと手わたされて現在を生きる自分というも

のに出あわせたいとねらいをおきながら︑課題設定してきました︒

いいかえれば︑歴史的存在としての自己認識の糸口となりうる通路

を将来にむけてっけておきたいと考えたわけなのです︒

    三 何に留意しながらすすめてきたか

 国語たよりのとりくみでくり返し︑あきもせずやってきたことは

簡単なことです︒各単元のちょっとした読後感想を含め︑年問十数

回書かせるわけですが︑その作文の中から︑いいものを選んで︑ぼ

くのちょっとしたコメントとともに載せる︒コメントは批判的な調

子はさける︒よいところを感想的にほめる︒紙上では絶対説教しな

     自分さがしの授業づくり い︒ いいもの一の安易な妥協はしないが︑年に一回はすべての子どもの作品が載るように配慮してきました︒どうしても書くことの得意な子と苦手な子はいるわけで︑面白いかどうかの基準で選んでいますと偏ってしまいます︒それは避けたいと思いました︒どこかで

一回は自分が主人公の号を持ち帰ることができる︑それを大切にし

たいと考えたわけです︒

 ただし︑いいものにこだわりたいという思いは︑ずっと抱きっづ

けてきました︒いいというのは作文の上手下手ということでは

ありません︒基準は︑子どもたちがああ︑先生は︑自分の作文の

一﹂ういうところを評価して載せてくれたんだな一と納得できるもの

でなくてはだめだ︑という点だけです︒自分の作文はだめだけど︑

あまり載せないのはかわいそうだから︑お情けで載せてくれたんだ

な〃︑と思わせるような載せ方だけはすべきでない︑そうこだわり

つづけてきたのです︒

 そのためにも︑作文の書き方とか︑表現の工夫とか︑原稿用紙の

使い方とか︑そういうところからは入らないで︑子どもとぼくとの

信頼関係をたがやすことを何よりも大切にしてきました︒どんなも

のでもすべて一度はうけ入れる︒何を書いてもいいんだ︑という安

心感がないところでは感性の解放はないわけですから︒

       ⁝一七

(6)

     自分さがしの授業づくり

 信頼関係という点でいえば︑子どもの作品は︑実名が原則ですし︑

子どもたちが書いてくる作文は︑載ることが暗黙の前提としてある

わけですが︑微妙な問題を含む作品にっいては︑事前に了解を求め

たり︑匿名の仮面をっけて載せるなどの配慮をしてきました︒以前

﹃飛ぶ教室﹄という雑誌の対談企画で︑心理療法家の河合隼雄氏と

対談した時︵ちなみに︑その時の対談を含む河合氏の対談集が﹃私

の子どもたち﹄というタイトルで楡書房から今秋出版されることに

なっています︶子どもの作品をあたかも自分の所有物のように扱う

教師の無神経を批判して︑子どもの作文は︑実は教師にあてた私信

のようなものだから︑それを﹁公開するということが何を意味する

か﹂深く考えなければならないといましめておられたことが︑深く

心に残っています︒大切な要件であろうと思います︒

 また紙上では絶対説教しない︑ということともかかわるのですが︑

ぼくの側からの直接的なメッセージはできるだけ少なくして︑伝え

たいメッセージは作文のコメントに感想的に託すか︑新聞記事のき

りぬきの多用による代弁︑という方法をとってきました︒いわば直

接話法ではなく︑間接話法による伝達方法を採用したわけですが︑

思春期の子どもへの距離のとり方︑という点からも有効な配慮であ

ったように思っています︒

 新聞の切りぬきは継続して行っている重要な要素です︒ニュース        三二八性の強いものは当然ですが︑目についたものをストックしておいて︑その都度の単元課題や︑先述した三つの課題にかかわる作文との関連で載せる︑という方法を採っています︒とくに戦争課題と性の問題︑環境問題は︑切り抜きなしではやることのできない課題です︒切り抜きをはじめたのは︑自分たちが生きている現代がどういう時代であるのか︑その時代の息吹とでもいうものにできるだけふれさせたい︑という思いからですが︑子どもたちの予想外のうけとめられかたにはげまされるようにしてっづけています︒ さて︑編集方針というか︑留意点の最後にあまり本質的ではないが︑案外大切なことだと思われることをひとっ︑続けるための小さな工夫に属することがらです︒それは︑紙面に遊びの要素をもたせること︒五分の一から四分の一程度︑イラストやら漫画やらのスペースとしてあてておく︒新聞の切り抜きも︑しんどいテーマのあいまに︑ナンセンスな息抜きの要素の強いものをいれてやる︒作文もいろんな種類のものをストックしておいて︑一つのテーマのものが一定期間っづかないように配慮する︒重いテーマのあいまに﹁めっちゃ腹立ったこと﹂とか﹁私の失敗﹂とか﹁思いこみ・カン違い﹂とか肩のこらないものを入れこんで︑紙面が一本調子にならないように工夫してきました︒子どもの側にとっても︑気分転換になってよかったようですが︑何よりも送り手であるこちらにとっても︑

(7)

ある意味で決定的だったように思います︒続けていけるためには︑

楽しみながら︑遊びを入れながら︑でないと息切れしてしまいます

から︒ こうして一枚︵時にニエニ枚一の国語たよりを持参して教室には

いるのですが︑子どもたちのまなざしが︑手もとに注がれるのを意

識します一たまに手ぶらで行くと﹁なんや今日はないの? 先生も

サボリやな︒国語で楽しみなのは﹃TETOTETO﹄だけやとい

うのどうしてわかってくれへんの︒﹂としっかりはげましてくれる

子がいるので︑なかなか忘れるわけにはいかないのです一︒

 配りはじめると︑休み時問の気分をひきずって︑なんとなくおち

っかない教室の雰囲気が︑今日は誰のだろう︑という点に関心がむ

いて︑全体が集中するのが肌に感じられます︒一枚のたよりを読み

おえる授業のはじめの五分問︒それで授業にはいるのです︒

 もちろん時には脱線して︑その内容にかかわる話しで授業の大部

分をっいやす時もなくはありませんが︑それもその単元の授業と関

係することが多く︑けっこう意味ある脱線だと思っています︒

 授業内容とその日に配る国語たよりとは必ずしもつながっていな

いこともあるのですが︑全体としては︑授業の流れと関連づけなが

らの編集になっています︒たとえば︑戦争教材の場合を例にとれば︑

そこにはいるすこし前から︑新聞等の切り抜き等の連載で仕込みを

     自分さがしの授業づくり はじめ︑予備学習にはいる︒その単元学習の間︑関連の内容で山をつくりながら︑授業終了後も感想文や︑あるいは戦争体験の聞き書き等の大きな課題にとりくむ時は︑ひきっづき継続することになる︒当然︑次の単元準備と重ねながらの編集方針をとるわけですが︑教材の補助プリントとしての使い方︑位置づけ方は極力さけて︑国語たよりの作品としての独立性を大切にしてきたように思うのです︒

四 ﹁私のH考婁げO;﹂を中しに

 一九九一年六月︑﹃TETOTETO﹄の子どもたちが二年の一

学期︒全国私学性教育研修会が︑平安女学院を会場に開かれました︒

 前年の秋︑その準備がすすめられる中で︑できるだけ多くの教科

でも公開授業をして参加者にみてもらおう︑ついては国語科では︑

おまえがやってみないか︑というなりゆきになりました︒

 性教育については︑大いに関心もあり︑中学生の生き方を考えさ

せる上で欠かすことのできない課題ではないか︑と考えてはいまし

たが︑性一教育という名前からうける一種オドロオドロシイ感じ

につい足すくむ思いもあり即座におことわりしたのですが︑言葉た

くみに説得されて︑こちらも勉強のっもりで︑ずいぶん横着なひき

うけ方をすることになりました︒教材も今使っている教科書一教育

出版の﹁中学国語﹂一の中の詩教材﹃生ましめんかな﹄︵栗原貞子

       三二九

(8)

    自分さがしの授業づくり

作︶をとりあげたらどうか︑とのていねいなアドバイスもあり︑全

体の流れをくみたててみようと考えました︒

 公開授業をひきうけた時︑どうせのことなら︑その日だけでなく︑

﹃生ましめんかな﹄を軸にして︑一年問の授業の流れをくみたてら

れないだろうか︑と考えてみました︒二年生の教科書には︑﹃あの

ころはフリードリヒがいた﹄とレイ・ブラッドベリ作の﹃霧笛﹄が

収められています︒以前の経験で︑この二っの作品が子どもたちに

どう受け入れられるか充分予測がっきましたので︑この二作品を柱

にして︑﹃霧笛﹄でしめくくるという見通しはすぐに立ちました︒

しかし︑それでは導入に何をもってくるか︑ということで考えこん

でしまいました︒

 一年間の授業の流れ︑という時何を思いえがいていたかといえば︑

年間を通して柱にすべきテーマを設定し︑それぞれの単元がその

テーマに束ねられていくような授業展開ができないか︑ということ

だったのです︒くくるべきテーマは﹁何のために自分はこの世に存

在し︑何のために生きるか﹂という問いかけ︑いわば﹁自分探しの

旅﹂を子どもたちといっしょに︑授業を通じてできないか︑という

問題意識だったのです︒

 そこで︑少し冒険かもしれないなと思いながら︑吉野弘の冒

ミ婁げ◎昌﹄を使ってみることにしました︒詩のよみとり︑鑑賞は       ⁝二〇もちろんのことですが︑主たるねらいは︑詩の感動体験をよび水として﹁私の−峯婁ぎヨ﹂を書かせることにあったのです︒ それまで高校一年生では何度かこの教材をとりあげたことがあったのですが︑中学二年生のはじめにうけとめられるだろうか︑という一抹の不安がありました︒そこで学習のはじめに︑子どもたちに次のようによびかけてはいることにしました︒ ﹁吉野弘の﹃−ミ葛げ◎昌﹄という詩を学びます︒みんなにはすこうし早いかな︑という気がしないでもありません︒しかし︑今の君たちの年代のどこかで︑必ずっきあたる問題です︒またどうしても中学生という年代で考えてほしい問題でもあります︒ 思春期という時期は︑自分がどこから来て︑どこへ行こうとしているのか〃という人生における根元的な問いかけを感性の中にもっている時期です︒吉野さんが詩で問いかけていることは解決できることではないかもしれません︒あるいは人問にとっての永遠のテーマなのかもしれないのです︒あなたはあなたの冒ミ富す◎昌﹄に一生をかけて答えをだしていくしかない︑そういう種類の問いかけであるかもしれないからです︒この詩の学習のしめくくりに︑あなたの冒ミ富ざ昌﹄を書いてもらおうと思っています︒しっかりがんばって下さい︒﹂ しかし︑そうした不安は杷憂にすぎなかったことが︑初発の感想

(9)

文をよんだ時︑すぐにわかりました︒子どもたちの反応はきわめて

するどく︑衝撃的な思いでうけとめたようでした︒﹃−考婁げ◎昌﹄

は今さら説明の必要のないほどによく知られた作品で︑思春期の少

年の性と生に対する微妙なゆれと不可思議さを劇的な構成の中に描

いたものです︒

 次代に生命をっなぐためだけのようにして生まれ︑生き︑生命を

おえる蜂嫉︒﹁僕﹂の母もまた蜂嫉だったのだ︑という衝撃ととも

に認めなければならない事実︒いや母のみならず﹁僕﹂も︑おそら

く自分も︑自分にっながる人問もまた⁝⁝︒生きとし生けるものの

宿命のイメージとしての蜂蝶︒

 ﹃−ミ富了◎昌﹄の感動は︑読む者をこの地点までつれてきて﹁僕﹂

とともにおきざりにされるこわさだと思います︒わたしたちは︑

﹁僕﹂とともに︑あらためて﹁私は何者なのだ﹂の問の前に荘然と

たたずむしかないのです︒ぼくが︑この詩との出会いを通じて子ど

もたちに期待したのは︑まさにその一点をおいてありませんでした︒

﹁根元的な問いかけの前に荘然とたたずむ﹂こと︒結論からいえば︑

子どもたちは期待以上のうけとめ方でこたえてくれました︒

   五 生きることの意味への問いかけを前に

そこで連休前の四月下旬︑父母への協力依頼の手紙と子どもに対

    自分さがしの授業づくり する課題提示をしておきました︒原稿用紙五枚以上︑というのがこちらの課した枚数だったのですが︑ほとんどがそれ以上の力作ぞろいでした︒生命の根づよさとうらはらのあやうさをともにうけとめつつ︑あらためて今生きていることの意味を考えようとするものがほとんどでした︒ ことに自分の記憶にない乳幼児期に︑生命にかかわる病気やけが︑事故を経験したことを親からきかせてもらったものや両親に同様の経験がある生徒の作文に︑その感を色濃くにじませたものが多かったように思います︒ たとえば丁子は次のように書きはじめました︒﹁今から十九年前︑兄が生まれました︒その時母は腎臓を悪くした︒それから数年後︑母はおなかに赤ちゃんができた︒だけどこの子を生めば︑自分もあぶないといわれ仕方なくあきらめた︒それからまたおなかに赤ちゃんができた︒母は今度こそ︑と思い産む決心をした︒だけど母の両親に頼むからやめてくれ〃と涙を流して頼まれ︑しかたなくこの子もあきらめることになった︒ そしてまた︒今度は︑私︑だ︒ 私の時も先生からもし産んだら︑あんたが危ないでと言われていた︒でも母は私を産む決心をしてくれた︒実家の母にも私が生まれる数週問前までしらせなかった︒

       三三一

(10)

     自分さがしの授業づくり

 そして私が生まれた︒

 でも母はじん臓を前よりもさらに悪くしてしまった︒今では週三

回︑一日五時問︑透析するために病院通いをしている︒﹂

 丁子は﹁私は生まれてきたのではない︒母の生命をもらったの

だ﹂と言います︒それはまさしく実感だったろうと思います︒

 この作文を書いてほどなく︑彼女の家族を不幸が見舞います︒父

親の死です︒寝たきりの祖父をかかえ︑生活の重荷が︑母の肩にか

かります︒その母を支えながら︑生活を支えるけなげな努力が丁子

にはじまります︒そしてその二年後︑母の死が⁝⁝︒

 小柄で︑ほほえみをたやさない彼女に︑生活のつかれの影がおち

る時があります︒﹁がんばりや﹂と声をかけることしかできないの

ですが︑そのたびに︑けなげにほほえみかえし︑﹁だいじょうぶで

す﹂としか︑いいません︒そうすると︑そうか︑がんばらなくっち

ゃ︑と疲れかけたオジさんははげまされるのです︒

 丁子だけではありません︒お風呂でおぼれて死にかけたというK

子︒ガソリンスタンドで車の下にもぐりこんで遊んでいて︑危機一

髪のところを母に助けられたというH子︒臨月のお腹をかかえ︑家

族の乗る車が大事故を起こし︑腹をかばって額でフロントガラスを

やぶりながら守りぬいてくれた母に︑生命をもらったのだとの思い

をかみしめるY子︒       三三二 子どもたちは﹁私の−ミ婁げ◎昌﹂をまとめる中で婬嫉や﹁母﹂や﹁僕﹂と自分を重ねながら︑受け身で︑自分の意志と全く無縁で生まれてくるしかなかった自分をあらためて確認するわけですが︑この動かしがたい事実を前にして︑ただ荘然とたたずんでいる〃だけではないのです︒けなげな子どもたちの抵抗がはじまります︒自分の生は偶然の所産でしかなかった︒それは認めざるを得ない︒ならば︑今の自分︑あるいはこれからの自分の人生もまたその偶然の流れの中にゆだねるしかないのか︒それはどうもちがうのではないか︒どこまで自覚的であるかどうかは別にして︑ほとんどの子どもが︑そういう問いかけを自らに発しながら︑こたえを求めてもだえるのです︒ 子どもたちは自分の意志と無関係に︑偶然にこの世に人として生をうけた︒その偶然を必然ならしめる人生の意味にっいて︑誰の言葉でもない自分の言葉を捜そうとあがくのです︒おそらく︑そのあがきの中に︑思春期を第二の誕生と比瞼的によぶことの意味があると思うのです︒受け身の生を能動的な生に転化していくための生みの苦しみ︒子どもから大人への﹁通過儀礼﹂としての根元的な問いかけの深い意味が︒ ある子はいいます︒生まれるというのは︑生まれてすぐ自分という自覚もない幼児までをいうのであって︑自分というものを自覚す

(11)

るようになってからは︑﹁生きていく﹂というふうになるのだ︒あ

る子はまた﹁たしかに生命は選べない︒それは自分の意志をこえて

いる︒しかし生き方は選べるんだとわかった﹂などと書くのです︒

十三や十四の子どもにこんなふうにかかれると︑ぼくとしては︑た

だいたずらに齢を重ねて四十数年問という思いにうちのめされて︑

おちこむしかないのです︒

六 思春期この劇的なるもの

 さて︑指定の紙数も残り僅かとなってしまいました︒詳しい授業

展開を紹介することはできません︒一詳しくは拙著﹃わたしが﹁わ

たし﹂に出会うとき﹄1思春期の自我形成と授業づくり1﹄文理閣

発行︑を参照していただければ幸いです一図式的にデッサンすれば

その後の授業の流れは大よそ次のようでした︒

 出発点に﹃−考婁げ◎昌﹄をおいて︑しめくくりに﹃霧笛﹄をおき︑

その展開軸の中ほどに﹃生ましめんかな﹄と﹃あのころはフリード

リヒがいた﹄という二つの戦争教材を据えるという一年問の流れで

す︒﹃−考富﹃◎昌﹄ひきつづく﹁私のH考竃﹃◎昌﹂では自分の生の

ルーツに目をむけさせてきました︒﹃霧笛﹄もまた︑︵とりあげ方に

もよるのですが一小暗い自我の奥深くにわけ入っていく気味の要素

を濃厚にもった作晶で︑﹃−ミ富ヶ◎昌﹄に直接的にっながる作品だ

     自分さがしの授業づくり といえるのですが︑孤独に自我の闇深くわけ入る作業の間に戦争課題をはさみこむことで︑歴史的︑社会的な視点をとりこませつつ︑三年時の戦争体験のきき書き作業で両者を生命の流れの歴史という観点でっなぎたいと考えてみたわけです︒ 性の課題を中心とした一年問の授業展開といいましたが︑中二でもっぱら展開してきたのは︑その前提ともなる土壌を耕やすことにっいやして︑直接的にとりあげることになったのは三年にはいってからでした︒これも︑新聞の切り抜きを中心にすすめましたが︑十五歳の少女の新聞の投書﹁性交なぜ教えてくれないの﹂を皮切りに﹁避妊﹂︑﹁性交﹂の是非をめぐる若者の意見︑﹁中絶﹂︑﹁買春ツアー﹂の問題︑従軍慰安婦問題等々︑子どもたちの反応をみながら︑多面的なとりあげ方を工夫してみました︒それを一学期はじめから二学期半ばまで一一学期後半からは問隔をあけて︶っづけていったのです︒ その中で一学期のおわり︑F子が書いてきた次の文章は象徴的なものとして感概深かったのです︒ ﹁エイズになるか万年処女かどっちがいい?一先日母と話していました︒母は万年処女といいました︒私も万年処女派です︒三年生になってからテトテトにいくっも性の問題が載っていました︒私の心に残っているのは︑赤ちゃんをおろす時のものでした︒その

       三三三

(12)

    自分さがしの授業づくり

プリントが配られた日︑私と母とでいろいろ話しあいました︒六

週問目にはもう意識があるんやて〃お腹の奥まで逃げるんやてな

あ︒知らんかったそして︑はじめのエイズか万年処女か次の日

はおばあちゃんもいれて三人で討論会︒おばあちゃんの話しによる

と︑おばあちゃんも仕方なく子どもをおろしたことがあるそうです︒

 あのテトテトをもらって︑本当にいろいろ考えさせられました︒

もし私に赤ちゃんができたらどうしよう︑とか︑結婚するまで絶対

肉体関係をもたないぞ︑とか︑もし赤ちゃんができても殺さないぞ︑

とか︑その他もっともっと考えました︒

 中学一年生の時︑私は性にものすごく興味をもち︑早く経験して

みたいなあ︑と今から思えば顔がまっ赤になるようなことを思って

いました︒でもいろんな知識がはいってくるにっれて︑一時の愛で

許すなんて︑男の人に軽くみられるし︑それに後悔するかもしれな

い︑その人と結婚すると決まった人でもないのに︑本当に結婚する

人が知ったらどんなに傷っくだろうかとか︑もしエイズにかかって

たらいやだし︑絶対に軽くは許せない︑と思うようになりました︒

 性は興味本位でするものではないと思います︒だって昔から子孫

繁栄のために行われてきたことだからです︒それを出来心でとか︑

経験してみたかったからとかでしては絶対いけないと思います︒だ

から私は︑結婚するまで絶対に処女でいようと思います︒自分自身       三三四を傷つけないためにもそうしようと思います︒そうしたら︑この世で一番素敵な初体験が︑一番好きな婚約者とできると思います︒﹂ ﹃TETOTETO﹄にのせる作文のタイトルは子どもがつけてこないかぎり︑ぼくの方でつけるのですが︑F子の場合は︑最後の箇所からとって﹁一番素敵な初体験のために﹂としました︒匿名の仮面はつけてやりましたが︑こんなふうに﹁性﹂というものを何のてらいもなく︑まぶしいくらいにまっすぐにうけとめて表現する率直さに︑ほほえましいどころでなく圧倒される思いがあったのです︒ またF子に関しては︑特別な感慨もありました︒一年前のちょうどこの時期に︑この子がどんなことを書いていたのかを考えて︑﹁あのF子がね﹂の思いを禁じえなかったのです︒ 毎年六月上旬︑中学生は宿泊学習会に行きます︒子どもには︑学習会の作文を︑というのも芸のない話しでしたから︑事前に﹃伊勢物語﹄の中の﹁筒井筒﹂を投げこみ学習をして︑みんなもひとっ

歌物語をつくってみよう︒学習会で印象的なできごとや体験を

短歌︵三首以上︶にしてその解説やできごとを地の文につないで書

くこと︑という課題を与えておいたのです︒

 二年生は丹後半島にある学院のセミナーハウスで︑二泊三日の日

程で行いました︒一応﹁消灯は十時﹂といってありますが︑ま︑そ

こは我々もおおようにかまえていたのですが︑まさか夜半にこんな

(13)

ことをしていようとは夢にも思わなかったのです︒

 ﹁もぞもぞと真夜中すぎに大移動みんなでやろう野球けん﹂夜中

に見張りをたててパンツ一枚までという条件で野球けんをやって大

いにもりあがったというのです︒そのうちの一人がF子でした︒

﹃TETOTFTO﹄に載ることを前提とした作文に書いてくる方

も書いてくる方ですが︑載せる方もまた︑といえるかもしれません︒

 F子は﹁性にすごく興味をもち︑早く経験してみたいなあ︑と今

思うと顔がまっ赤になるようなことを思っていました︒﹂といいま

す︒思っていただけでなく︑口に出して言うので不意をうたれてこ

ちらはあわてるのです︒F子だけでなくクラスの中に何人か特別に

性への関心の強い子がいて︑クラス全体に独特な雰囲気をつくって

いました︒時期にすれば二年生の一学期半ばすぎの一ケ月くらいが

ピークでした︒﹁歌物語﹂の野球けん事件の頃がそれでした︒

 ところがおもしろいことに︑ある時期がすぎるとまるでっきもの

がおちるように沈静化していくのです︒それは一種不可思議な現象

でした︒三年生になって︑﹁性﹂関連の課題を集中して連載しはじ

めた頃には︑むしろ︑一種おごそかな雰囲気すらある中でうけとめ

られるようになり︑それもまた予想外のことでした︒

 そのことをぼくはうまく説明できません︒ただF子に即していえ

ば︑こんなふうにいえるかもしれないと考えています︒﹃−ミ易

     自分さがしの授業づくり ぎヨ﹄﹁私のH考易げ◎昌﹂からはじまった自分の生のルーツをさぐ

っていく自分さがしの旅は間に﹃生ましめんかな﹄や﹃フリー

ドリヒ﹄をはさみながら︑﹃霧笛﹄に行きあたる︒その中で︑自分

の生が︑自分の意志と無縁に︑偶然にもたらされたものでしかなか

ったという発見を通じ︑受け身の生から主体的に生きなおす︑第二

の誕生にむけてのあがきをこころみはじめる︑ちょうどその時期に︑

﹁性交﹂や﹁中絶﹂等の問題を自分さがし〃のプロセスにくぐら

せることで︑それまでは︑生まれる側の延長線上・子どもの側にも

っぱら軸足をおいて考えてきた自分というものを︑今度は自分も母

親になりうる女性性をもつ存在なんだというふうに意識の上で軸足

を一八○度移していく転換点のようなものがあったのではないか︒

そういうドラスティックな成長の姿をよみとるべきではないかと思

うのです︒

 そしてそれはF子のみではなく大多数の子どもに共有の体験だっ

たように作文をよんでいても︑そう思えるのです︒ああ教師をして

いてよかったと心から思えるのが︑こういう時です︒子どもが仲問

とともに揺れ︑葛藤し︑悩み︑傷っけあい︑生みの苦しみを苦しみ

っっ︑自らを生ましめていく︑そのドラマにたちあえる喜びが︑こ

の仕事を支えているし︑ある意味で︑それがすべてだと思うのです︒

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(14)

自分さがしの授業づくり三三六

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と口口庁が二十六8にまとめ た昨隼の口日o告で明らかになりました. オゾンロは生吻に青竈な竈 昨年の8月司告外8を吸収する浬口を只たしでいます.口o庁の﹁成口ロ

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自分さがしの授業︑づくり

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二月︶は一〇二一%饒と−し く︑昨年十二月は︑同月としては迫妻1低oを園讐しました. 蘭oのオゾンホールも昨年のコ8畑︵十月初め︶は萬o全体をすっほり口うほど.日口︵灼千七百万平方︶は十年前に比ぺ十三笛︑オゾンの触口●は灼五手五百万ナと同囚・=唇に迫しました. 日本付近の有口纂外旧の1は︑オゾンーが一%口少すると︑一エハ五−一・九〇%幻加することが分かりました. 鴛外聰が一%氾加すると︑皮口がんは二%固区心加する

といわれています.

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(16)

自分さがしの授業づくり⁝二八

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自分さがしの授業づくり

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掌︶  含; ○パンー坐孔1おかずの

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讐︶  ︿思OV ○はだ■の魯は︑捻だ色

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が十八弓以上あるものに国

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・申掌︶ ︿引口V

 ○天忽ウニープについて

は︑入学あるいはこ入羊爵

に生氾竈−こ串讐し景呂を

三ける︵口同・中争︶

 O︵︐手︶口をわけたり

池をつけたりしない. ︵女

手︶呈くするむ合ほ口むか

竈ねる^8コ眉そ出すこ

と︶︵戻箏・中掌︶

休目干前は外出素止

 衰丙生導 ○口雀の完生と嗜すカ合

は二十弓以上凹蠣をとろ

︵薫皇・申学︶

 O.−Oはすぺて口口回を

用いる︵o日・−蟹︶ ○トイレットペーパーの

蟹周竈は回につき二十︸7

以内︵竈真.中学︶  ︿便外生着V ○羊区外への外山⁝の岬台は︑必す卿肥椚用︵手貝・申掌︶ ○休目勺硯8に午而巾は外出し︷い︵茨以・申享︶ ○表贋以外が巫伝する−に同箏した呂合は退享処分

︵9同・女子冨︶

 ○公2︷竃の倶用にけa

副の町がいる︵療良・中

羊︶ ○蟹目目湿をつけて遍に

一回な師にみせる︵手兵・

芯凄︶臭性と.おに歩くな

く更奪 ○友人として交︐する人

勿は︑同じ享唖の空砥がヨ

ましい^栢岡・申享︶

 ○黎外で只性といっしょ

に歩いてはいけない.帽手

が父口p兄弟であってもい

け居い︵貫貢・女手高︶

 ○只女更︐は9止︵文辿

も舎む︶.言壼凹︑掌史に−念ずる︵憂知・女手高

壇︶ ○夜丙でみだりにハ宙と

舎宿しない.会蟹アるオ合

は学凄に﹁会屠用晒﹄を湿

出して粋司をもらい︑会雷

ヨでおこなう︵口頁・莇壇︶

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自分さがしの授業づくり三四

参照

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