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アテナイ帝国と神話、宗教そして祭典

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(1)

アテナイ帝国と神話、宗教そして祭典

著者 中井 義明

雑誌名 人文學

号 173

ページ 55‑83

発行年 2003‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004405

(2)

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

中 井 義 明

はじめに

﹁エジプトはナイルの賜物﹂︵ヘロドトス︑二巻五節︶という有名な言葉がある︒この言葉を残したヘロドトスはそ

の昔エジプトを訪れたヘカタイオスについて次のような逸話を伝えている︒かつてヘカタイオスがエジプトを訪れた

折り︑ヘカタイオスが自分の家系を辿ると一六代目には神に繋がると言ったのに対して︑エジプトの神官たちから人

間が神から生まれたとする彼の説は認められないと反論され︑三四五代にわたる神官長の像を証拠として示されたの

である︒この逸話はギリシアの歴史に対するエジプトの歴史の古さを物語っているが︑同時にギリシア人が民族や

家族の系譜︑それに歴史を神々の系譜や神話によって位置づけ理解しようとするギリシア人の心性をよく表わしてい

そのような神話が単に個人的な家系の誇りを掻き立てたばかりではなく︑一国の政治生活においても重要な影響を

及ぼしていた︒例えば︑クセルクセス王のギリシア遠征を前にしてギリシア方に与しなかったアルゴス側の言い分が

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アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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そのような例を提示している︒クセルクセス王は事前にアルゴスに使節を派遣し次のように申し入れている︒ペルシ

アの国祖ペルセスはペルセウスを父としている︒従ってペルシア人とアルゴス人は同族であるから︑同族同士共に戦

うかそれが叶わないのであるならば静観すべきであろう︒このようにクセルクセスはアルゴスに干戈を交える事の非

を訴えて中立の立場を遵守する事を薦めたのである

︒そしてアルゴス人はこの提案を受け入れ︑援軍を要請するギ

リシア同盟の求めを拒否したとヘロドトスは伝える

神話が政治的目的の為に利用された例はサラミス島をめぐるアテナイとアイギナの紛争に見ることが出来る︒ソロ

ンが紛争の決着をスパルタの裁定に委ねた際︑﹃イリアス﹄の中にある﹁アイアスがサラミスから一二隻の船を率い

て︑アテナイ軍の部隊が止まっているところへ来て止まった

︒ ﹂

︵ ﹃

イリアス﹄二巻五五七︱五五八行︶という一節を

朗読し︑さらにアイアスの子供たちがアテナイで市民権を得てサラミス島をアテナイに譲渡し︑アッティカに住んだ

という神話を証拠として持ち出したのであった

土地に属する英雄神がその土地の人々を守るという観念が人々を強く支配していた

︒サラミスの海戦を前にして

ギリシア軍は神々に祈願した上︑サラミスの英雄アイアスとテラモンの加護を請い︑アイギナの英雄アイアコスとそ

の一族の救援を要請している

︒又︑サラミスの海戦を溯ること一〇年︑マラトンで戦われた戦を描いた絵について

パウサニアスは次のように説明している︒﹁画面の端にはマラトンで戦った人々がいる︒ボイオティア人の内でプラ

タイアを領する人々とアッティカを領する人々が夷狄の軍勢と戦っている︒この辺りでは両軍互角である︒戦いの場

面の中程では夷狄の軍勢は敗走しており互いに押し合いながら沼のなかへと逃げ込んでおり︑絵の端ではフェニキア

の艦隊と夷狄の軍勢の内でその中へ逃げ込もうとしている将兵をギリシア人たちが殺している﹂と戦闘の推移を説明 アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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した後︑この戦いには土地の英雄神マラトンとアテナイの英雄神テセウス︑またアテナイ軍が陣営を張っていた聖域

の英雄神ヘラクレス

があたかもアテナイとプラタイアの同盟軍を援助し守ったかのように︑﹁この箇所に︑平野が

その名前に因んで名付けられた英雄のマラトンが描かれており︑また大地より立ち向かっているテセウスやアテナと

ヘラクレスが描かれている︒﹂︵パウサニアス︑一巻一五節三︶と記している︒この最後のヘラクレスもマラトンとは

非常に関係の深い英雄神であったことはパウサニアスが指摘するところである

英雄神の崇拝が政治的手段として利用された例はキモンがスキュロス島からテセウスの骨をアテナイに持ち帰り︑

英雄神として祭ったというプルタルコスが伝える有名な逸話からも知ることができる︒

神話と宗教は続くデロス同盟期において大々的に利用された︒本来アッティカ地方の祭典であったパンアテナイア

祭やディオニュシア祭︑エレウシニア祭はパンヘレニックな性格を付与され︑同盟諸国がこれらに参列させられるこ

とによって帝国の祭典へと大きく変貌し︑アテナイの支配を合理化する役割を果たすようになる︒イオニア諸都市は

アテナイからの入植者によって建設されたという神話の中に位置づけられ︑デメテルの恵みをギリシア人の間に教え

広めたという神話がアテナイ人によって声高に宣伝された︒

ニルソンはその著﹃ギリシア宗教史﹄の中でギリシアの都市国家が宗教を自己の管理下に置き︑政治的理想と愛国

心を表現する手段として利用したと指摘している

︒本稿においてアテナイが自国の市民や諸外国からの使節や在留

外人などの大群衆の前で帝国の偉大さと盟主アテナイの力の強大さを誇示し︑その同盟諸国に対する支配の正当性を

主張しアテナイへの求心性を追求する手段としてアテナイが神話と祭典を利用した問題を論じたい

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アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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植民神話と帝国支配

前四一五年夏︑シシリー島のカマリナにおいてシュラクサイのヘルモクラテスとアテナイのエウフェモスの間で激

しい論戦が戦わされた︒ヘルモクラテスはアテナイがイオニア系のポリスであるカマリナをその母市であるカルキス

と同様の手段で隷属化を図っていると強調した上で︑﹁彼の地を己のがものとしたのと同じやり方で此の地において

今彼等は試みているのだ︒というのはペルシアに対する報復の為にという理由で自ら進んでイオニア人や彼等の血を

引いた同盟者である者たちの盟主となって後︑ある者たちは軍役忌避の廉で︑またある者たちは互いに干戈を交えた

という廉で︑それぞれに対して何がしかの罪があると尤もらしい口実で攻め立てて征服してしまったのだ︒﹂︵トゥキ

ュディデス︑六巻七六節三︶︑とアテナイの帝国政策を非難し︑アテナイの野心に対抗するために一致団結するよう

に訴えている︒

それに対してエウフェモスは自分の使命が同盟条約の更新にあることを強調しながらも︑アテナイの行為を弁護す

る︒即ち︑﹁それにペルシア戦争の後我々は海軍を擁してラケダイモン人の支配と指導から離脱し︑差し当たっては

強大な軍事力を有しているが故にということを除けば︑彼等が我々をまた我々が彼等に対して命令を下すというのは

決して適当ではなく︑その為に防衛しうるだけの力を有しているのだから︑それ故にペロポネソス人の下にあるべき

ではないと我々は信じて︑かつてペルシア王の下にあった者たちの盟主に選ばれて我々が指揮権を掌握したのだ︑そ

れに正確に言えば我々はイオニア人たちや島嶼人たちを︑同族である者たちを我々が奴隷化しているとシュラクサイ アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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人たちが語っているが︑我々が不正に制圧したのではない︒何となれば彼等はペルシア人と一緒になっ

て母市たる

我々に向かって攻め寄せてきたのだ︑そして丁度我々がポリスを放棄したように︑敢えて離反して財産を犠牲にする

勇気もなく︑彼等自身は奴隷であることを望み我々に対しては同じことを強制しようとしたのだ︒﹂︵トゥキュディデ

ス︑六章八二節三︱四︶︑とアテナイの同盟諸国に対する政策の正当性を主張する︒

ヘルモクラテスもエウフェモスも︑イオニア人がアテナイを母市として植民した子孫であるという神話を議論の前

提として論じており︑彼らはそのことに何の疑問も感じていない︒ヘルモクラテスはイオニア

人や島嶼人を

﹁ 彼 等

︵アテナイ人︶の血を引いた︵

apo sphon

︶﹂と呼び

xyggeneis

︑エウフェモスは﹁同族︵

︶﹂ と呼んでいる

︒ さらに

エウフェモスはアテナイをイオニア人たちの母市︵

metroplis

︶ と呼び

︑ ペルシアから離反する勇気を欠いていたこ

と︑その母市に向かってペルシア軍に協力して攻め寄せてきたこと︑がデロス同盟におけるアテナイの支配を正当化

する根拠として利用されているのである

︒ここに︑ギリシア人にとって神話が単に宗教上の関心事に留まるのでは

なく︑現実政治おいても大きな影響力を有していたことを知ることができる︒

その植民理念に政治的・倫理的力を付与しようと努力したのが帝国期のアテナイであった︒その為には母国と植民

都市という擬制的血縁関係を創作し︑帝国祭となったパンアテナイア祭やディオニュシア祭︑エレウシニア祭︑さら

にはデリア祭

への同盟諸国の参加を演出しなければならなかった︒

デロス同盟諸国に対する帝国政策を正当化する根拠としてアテナイはコドロス一族によるイオニア入植の神話を利

用したのである

エウリピデスは﹃イオン﹄の中で次のように女神アテナに語らせる

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アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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﹁この子を連れてケクロプスの国へ戻れ︑︵一五七一︶

クレウサよ︑そして玉座を

占めさせよ︒何となれば彼はエレクテウスの血を引きたる者である故

我が国土を支配する権利を有する︑

彼はギリシアにおいて名声を覇することになろう︒この者の︵一五七五︶

子らは一つの家より出て四名となり︑

それぞれの部族に分けられた国土並びに︑

我が高き岩山に住まいする人民の名親となるであろう︒

先ず初めがゲレオン︒次いで

ホプレテス︑アルガデス︑我が盾に因んで︵一五八〇︶

アイギコレスなる血族の名を持つであろう︒これらの

子らは何時の日にか定められたる時に

キュクラデスの島々や陸地の岸辺に諸々の町を植民者として占拠し︑

我が国土に力を付与することになろう︒

海を隔てて向かい合う二つの陸地の︵一五八五︶

平らかなる地に彼等は住まいすることになろう︑即ちアシアの大地並びに

エウロペの大地に︒その美しき名前によって アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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イオニア人と名付けられた者らは名声を博することになろう︒﹂

注目すべきは一五八三行目から一五八四行目にかけての詩句である︒﹁キュクラデスの島々や陸地の岸辺に諸々の

町を植民者として占拠し︵

Kykladas epoikesousi n esaias poleis chersous te paralous

︶﹂︑とイオンの子孫が島嶼部と小ア

ジアの沿岸部に植民することをアテナ女神の口を借りてエウリピデスが指摘している︒ここからはイオニア入植を自

分たちの祖先が行なったということに対するアテナイ人の誇りを読み取ることが出来よう

さて︑その様な意識は史料的にはどれくらい前まで遡れるのだろうか︒アテナイがイオニア諸都市の母市であると

いう意識は前六世紀の初頭までは溯ることができる︒アリストテレスが伝えるソロンの悲歌︵

elegeia

︶の断片はアテ ナイがイオニアの﹁最も年老いた地︵

presbytate g aia

︶﹂であると詠う︒﹁私は知る︑そしてイオニアの最も年老いた 地が倒れ伏しているのを目にすると

︑ 私の胸の中に悲しみが充ちるのを

︒﹂

︵ ア リ ス トテレス

︑﹃ アテナイ人の国

制﹄︑五章二節︶

ヘロドトスによるとイオニア人は元々はアカイア地方に住んでいたのであるが︑アカイア人によってその地から追

い出され

︑イオニアの地に移住し一二の町に分かれ︑四つの方言に分かれているという

︒イオニア人の中で最も

高貴な血統を誇る一団はアテナイのプリュタネイオンから移住の第一歩を踏み出したとされ

︑イオニア人の中には

コドロスの子孫を王として戴いたものもあり︑いずれもアテナイに起源を有し︑エフェソスとコロフォンを除いては

アパトリア祭を祝う習慣を有していると指摘する

後世になるとイオニア諸都市はドーリス人の移動期にアテナイ人入植者によって建設されたという神話が広く受け

入れられるようになる︒イオニアの反乱に際してのアリスタゴラスの演説や︑シシリー遠征におけるエウフェモスの

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演説にもこのような理念が強く意識されていたことが窺えるのである︒

紀元後二世紀のパウサニアスの記述において完成された植民神話を見ることができる︒パウサニアスはイオニアの

諸都市がアテナイからの植民団によって建設されたと伝える︒

コドロスの子メドンとネイレウスはアテナイの王権をめぐって争い︑デルフォイに神託を伺う︒神託がメドンにア

テナイの地を与えたのでネイレウスは残りの兄弟と一緒にアテナイ人をひきいてイオニア植民に赴いた︑と

︒ミレ

トスに入植したのはネイレウス本人である

︒エフェソスへはアンドロクロスが

︑ミュウスへはキュアレトスが

プリエネへはネイレウスの子のアイピュトスが

︑コロフォンへはダマシクトンとプロメトスが

︑レベドスへはア

ンドライモン︑テオスへはダマソスとナオクロスが

!︑エリュトライへはクノポスが

"︑クラゾメナイへはパルポロ

スが

#︑フォカイアへはデオイテス︑ペリクロス︑アバルトスが

$︑サモスへはエピダウロス出身のプロクレスが

キオスへはヒスティアイア出身のアンピクロスが

%︑植民団を引きいて入植し︑スミュルナではコロフォンのイオニ

ア人が町をアイオリス人から奪っている

&

この神話を最初にアテナイの対外政策に利用したのがペイシストラトスであった︒トゥキュディデスはペロポネソ

ス戦争中アテナイ人が行ったデロス島の清祓より以前にペイシストラトスがデロス島を清祓したと伝えている

'︒こ

の記事はヘロドトスの記事に従っているのであろうが︑デロス島がイオニア人共通の聖地として崇められていたこと

を考えると︑このペイシストラトスの行為にはイオニアに対するアテナイの強い意志の現れを感じられる︒

イオニア人がドリス人の移動に押されてピュロスやアカイア地方などのペロポネソス各地からアテナイに避難し︑

そのアテナイからコドロスの子らに率いられてイオニアの地に入植していったという神話を利用したのはアテナイだ アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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けではない︒イオニア諸国もまたペルシアの脅威に対するアテナイの庇護と存在を確保するためにそれを利用したの

である︒イオニア反乱におけるアリスタゴラスがそうであるし︑デロス同盟結成にいたる過程でもイオニア諸国によ

って利用されている︒

デロス同盟結成直前の段階で既にアテナイがイオニアの確保に強い関心を抱いていたことはミュカレの戦いの後開

かれた同盟会議において明確に示されている︒同盟会議の席でペロポネソス諸国の代表たちはイオニアの放棄を主張

したが︑アテナイはこれに強硬に反対し︑提案を撤回させるのに成功している

(︒しかもこの時アテナイはイオニア

が﹁自国の植民地﹂であるという意識を抱いていたのである︒その後行われたセストス攻囲はヘロドトスによるとア

テナイの単独の行動となるが

)︑同じ事件を記しているトゥキュディデスは﹁アテナイ人ならびに︑既に王から離反

していた︑イオニア並びにヘッレスポントスからの同盟諸国軍は留まってセストスを攻囲した︒﹂と述べて︑アテナ

イを中心としながらもイオニアおよびヘッレスポントスの同盟諸国との共同行動であったことを強調している

*

又デロス同盟結成の直接的契機となったパウサニアス事件に関してもパウサニアスに対する嫌悪感が特にイオニア

人の間で強かったこと︑アテナイ人に指導者となるよう要請する根拠として﹁同族の誼︵

xyggenes

︶﹂が挙げられて

いること

+から新同盟結成の背景にイオニア諸都市の強い意向が働いていた

,

イオニア中心にことが運ばれたことは同盟条約の誓約を記すアリストテレスの記述と整合している︒即ちアリスト

テレスは﹁︵アリステイデスは︶敵と味方は同一たるべきことという誓いをイオニア人に対して誓い︑その後で鉄の

塊を海に投じたのであった︒﹂と記している︵アリストテレス︑﹃アテナイ人の国制﹄︑二三章五節︶

-

原初のデロス同盟の構成国がイオニア諸都市に限定されていなかったが

.︑当初からデロス同盟がアテナイとイオ

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ニア諸都市を主体とする同盟であると認識されていたことは疑いが無い︒それだからこそ同盟会議はイオニア人共通

の聖地であるデロス島のアポロンの神殿で開かれたのだし︑同盟金庫もデロス島に設置されたのである

/

帝国支配の演出装置としての祭典

アテナイは同盟諸国をアテナイの支配下に繋ぎ止め︑同盟諸国に対する覇権を正当化し︑自国民には帝国支配に対

する誇りを︑同盟諸国民には帝国に属することの満足感を演出する装置として様々な祭典を利用した

0︒それがパン

アテナイア祭であり︑ディオニュシア祭であり︑エレウシニア祭であり︑デリア祭であった︒

ヘカトンバイオン月︵今日の七月後半から八月前半に相当する︶の二八日からパンアテナイア祭が始まる

1︒古代

ギリシアにおいては神話が国家の支配を肯定するイデオロギーとして活用されていた︒人々の帰属意識を支えるのは

神話であった︒アテナイの支配︵

arche

︶を演出する装置として祭典が利用され︑パンアテナイア祭やエレウシニア

祭などの祭典に同盟諸国を参加させることによって帝国は劇場化される

2︒それは祭典挙行によってイオニア人の最

も古き地としてのアテナイの国家イデオロギーを視覚化し︑外国人に顕示すると同時にアテナイ人に対してはその誇

りを満足させる手段となった︒

植民市が母市に対して一定の宗教儀礼上の義務を負っていたことは︑アリストファネスの﹃雲﹄三八六行の古註が

証言している

3︒全ての植民市はパンアテナイア祭に牛と一揃いの武具を奉納する定めとなっていたのである︒そし

て古註の指摘は同時代の碑文資料によって裏付けられる︒アテナイがその帝国時代に建設した植民市ブレアは大パン アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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アテナイア祭に牛と一揃いの武具を︑ディオニュシア祭には男根棒を持参するように求められている

4︒植民市は母

市の主神︵または主女神︶への奉納の義務を負っただけではない︒トゥディッポスの決議は植民市に対して祭典の主

要な行事である行列に参列することも求めているのである

5︒そして︑デロス同盟の加盟国はアテナイの植民市でな

くても植民市と同じくアテナ女神やディオニュソス神への奉納と行列への参加を命じられている︒しかも奉納の儀礼

遵守は明確な罰則を伴う規定によって強制的なものとなり

6︑これらの祭典は文字通り帝国祭典としてアテナイの帝

国支配の重要な強制装置と化してしまった︒

アテナイ帝国が崩壊し︑最早アテナイがこれらの諸都市に対して強制力を持たなくなってしまったにも

かかわら

ず︑アテナイで挙行されるこれらの祭典はイオニアや島嶼部の諸都市を魅了していた︒前四世紀になるとイオニア諸

郡市がアテナイからの入植者によって建設された植民都市︵

apoikia

︶であるという伝承がイオニア諸都市にも広く受

け入れられるようになっていた︒そのことを示すのがプリエネやコロフォン︑パロスの碑文である︒

プリエネの碑文は前三二五年のプリエネの民会決議である

7︒この碑文の中でプリエネの民会は四年ごとにパンア テナイア祭に血縁と友情を記念して武具一式を贈ることを決議をしている︒

IG. II

2

. 456.

はコロフォン人に対するア テナイの民会決議︵﹇

psephi

sm

a

﹈ ︶

8である︒断片a一行目のアルコン名から前三〇七/

.

六年度に属しているこ とが分かる︒断片a

.

七︱九行目にかけて碑文は﹁コロフォン人はアテナイの民衆より出た植民者であるのでアテナ

イ人の民衆に対する友情と関係を遵守している︒﹂

9と先ずコロフォンがアテナイの植民都市であると宣言する︒コロ

フォンがアテナイの植民都市であるとことを断片bにおいても再度繰り返し指摘される

:︒そして断片b四︱八行

.

目においてパンアテナイア祭のスタディオン競技において伝令使が﹁コロフォン人の民衆がアテナイ人の民衆とコロ

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アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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フォン人の民衆の為にアテナへ記念として冠と一揃いの武具を奉納したことを﹂

;宣告すべきであると定めている︒

パロスは第二次アテナイ海上同盟時代にアテナイの﹁植民者︵

apoikoi

︶﹂としてパンアテナイア祭に牛と武具一揃

いを︑ディオニュシア祭に牛と男根棒を奉納したことが碑文によって伝えられている

<

同盟国をアテナイの祭典の中に組み込むという事例は碑文資料から幾つかの事例を知ることが出来る︒エリュトラ

イに対する条約の中でアテナイはエリュトライが大パンアテナイア祭に参加し︑供物を奉納するように要求してい

=︒又サモスを顕彰する碑文では都市のディオニュシア祭の時に毎年借地から上がる地代をアテナイに持参するよ

う規定している

>︒貢税の増額を決定する碑文は同盟諸国が納付した貢税をディオニュシア祭の後︑民会においてプ

リュタネスたちが報告することを義務付けている

?︒貢税再査定を記録する碑文は貢税査定の上程を大パンアテナイ

ア祭の期間中に行なうよう規定している

@︒その上でトゥディッポスの動議によって︑﹁貢税が査定されたポリスと

同じ数の牛と武具一式をプレイスティアスが評議会の首席を勤めストラトクレスがアルコン職にあるとき全てのポリ

スが大パンアテナイア祭に携行すべきこと︒

植民者たちと同じように行列行進に参加すべし

︒﹂

I. G. I

3

. 71. 55 − 58

︶︑と貢税負担国がアテナイの植民市と同じ扱いを受けて大パンアテナイア祭への参加を供儀と奉納を義務化され

ている

A

大パンアテナイア祭が条約更新の期日として設定されていたとトゥキュディデスは伝えている︒それによると前四

二〇年に締結された同盟条約は毎年アテナイからはオリュンピア祭の三〇日前に︑アルゴスやエーリス︑マンティネ

イアからは大パンアテナイア祭の一〇日前に使節を派遣して同盟条約遵守の誓約を立てることになっていた

B

エラフェボリオン月︵今日の三月後半から四月前半に相当する︶の一〇日から始まるのが都市のディオニュシア祭 アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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である

C︒アリストファネスの﹃アカルナイの人々﹄はディオニュシア祭に帝国各地から同盟国の代表が祭典に参加

し︑上演される喜劇を参観したと伝えている︒その為に外国人の前で国家を誹謗したとクレオンに訴えられたのであ

る︒アリストファネスの﹃アカルナイの人々﹄についての古註はディオニュシア祭の時に諸都市が貢税をアテナイに

納付したと言及している

D︒帝国祭としての祭典儀式についてはイソクラテスが﹃平和について﹄の中で指摘してい

E︒イソクラテスによると同盟国から納付された貢税はタラントンごとにまとめられて舞台上に披露され︑同時に

戦災孤児たちもまた舞台上に紹介されてアテナイの富︑幸運と力︑それに個々の市民の国家に対する奉仕義務の必要

性をアテナイ市民や外国人に顕示したのである

F︒祭典そのものはディオニュソス・エレウテレオスの神像がエレウ テライに通じる街道沿いの神殿への安置から始まる︵

Eisagoge apo tes escharas

︶︒続いてそのディオニュソスの神像 に犠牲用の動物を奉納する大行列が行われる︵

Pompe

︶︒その後︑ディテュランボスを歌う合唱隊の競演が催される

Komos

︶︒悲劇の上演は三人の作者による競演が三日間行われるが︑その悲劇の競演に先立って次の四つの儀式が行

われた︒先ず神々への灌奠︒次いで同盟国から納付された貢税の披露︒国家功労者への冠授与︒武装した孤児たちの

登壇である︒

これらはゴールドヒルによればまさに帝国としてのアテナイの力の誇示であり︑その為にディオニュシア祭を利用

したのである

G︒そしてヘレノタミアイ財務官団による監査結果がパンアテナイア祭に公示されるのである︒貢税の

査定は四年目毎の大パンアテナイア祭において行われた︒既に触れたように植民都市と同様に同盟国に対してもディ

オニュシア祭に参加するように求められ︑ファロスと呼ばれる男根棒の奉納を義務化された

H

アリストファネスの﹃アカルナイの人々﹄はディオニュシア祭には外国人も祭典に参加し︑この時に貢税が届けら

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アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

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れたと指摘する︒﹁危険ではあるが正しいことをわしが語って聞かせよう︒今ならクレオンめもわしが外国人の面前

で国家を誹謗したと中傷するまいから︒なんとなればこれはレナイア祭での競演であるので我々だけなのだから︵

autoi

gar esmen

︶︑まさか外国人はこの場に居合わすことはあるまい︒貢税も諸都市からの同盟

諸国の人々も来てはいな

い︒﹂︵五〇一︱五〇六行目︶︒レナイア祭はガメリオン月︵今日の一月後半から二月前半に相当する︶の一二日から

数日間行なわれる

I︒この時には同盟諸国から人々も貢税も未だアテナイにはやっては来ていなかったのである︒と

ころが三七五行目から三八二行目にかけてアリストファネスは主人公ディカイオポリスの口から﹁このわしが去年の

喜劇のおかげでクレオンめによって酷い目に遭わされたことを︵

hapaton

︶忘れてはいない︒奴はわしを評議会に引

きずり込んで非難し嘘八百を並べたてて罵りまくりキュクロボロス川の様に騒ぎ立ててわしを罵ったのだから︑お陰

で口汚なく罵られて全くすんでのところで殺されるところだった︒﹂と語っているが︑古註は﹃バビュロニア人﹄を

指していると言う︒この作品はアリストファネスによって﹃アカルナイの人々﹄より先に上演されたものである︒外

国人の面前で抽籖や選挙による役人やクレオンを嘲笑したことが問題とされた︒憤慨したクレオンはアリストファネ

スが民衆や評議会を侮辱したという廉で告訴したのである︒都市のディニュシア祭︑即ち大ディオニュシア祭は貢税

の支払い期限と指定されていたために多くの同盟諸国の人々が祭典に参加していたことが分かる︒

トゥキュディデスは前四二一年にアテナイとスパルタとの間で結ばれた同盟条約︵

xymmachoi esontai

︶を記述して

いる︒その中で注目されるのは毎年条約締結国は相互に相手国に代表団を派遣し︑アテナイにおいてはディオニュシ

ア祭に条約更新の誓約を立てるように明文化されている点にある

J︒ここからディオニュシア祭がアテナイの外交活

動の重要な場であったことが分かる︒ アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 68 ―

(16)

エレウシニア祭はボエドロミオン月︵今日の九月後半から一〇月前半に相当する︶の一五日から始まる

K︒アテネ

の国立博物館に収蔵されているエレウシス出土の前四四〇年頃の浮き彫りはデメテルが少年のトリプトレモスに麦の

穂を与えて農業を教えている場面を描いている

L︒これはエレウシスがギリシアにおける農業発祥の地であると主張

している︒ところが前六〇〇年頃に著されたとされる﹃デメテル讃歌﹄はエレウシスにおいて農業が発祥したことに

全く言及していない︒

﹃デメテル讃歌﹄はデメテルが育てたのはデモフォオンであったこと︵二三三︱二三五︶︑トリプトレモスはエレウ

シスの殿様方︵

basileis

︶の一人に過ぎなかったこと︑デメテルが伝えたのは宗教儀礼と秘儀であったこと︑を詠って

はいるがデメテルが農業を教えたことには触れていないし︑トリプトレモスによる農業の伝播も無い

M

これらについて桜井万里子氏は

Nトリプトレモスがデメテルによって教えられた農耕を各地に伝えたという神話は

前六〇〇年頃にはまだ現れていなかった︑と主張する︒エレウシスが農業発祥の地であるという神話が作られるのが

前五一〇年から前四八〇年頃にかけての時代であった

O︒前四六二年頃のソフォクレスの﹃トリプトレモス﹄の断片

はトリプトレモスがイタリアやカルタゴなどに足を伸ばしていることを窺わせる

P︒クセノフォンは前三七一年にお

けるスパルタの民会でのカリアスの次のような演説を伝えている

Q︒トリプトレモスが秘儀を最初に伝えたのがヘラ

クレスとディオスクロイであり︑デメテルの果実を最初に伝えたのがペロポネソスであったので︑アテナイとスパル

タが戦い合うのは正しいことではない︑と両国の和平を提案している︒イソクラテスは﹃パネギュリコス﹄の中でも

っとはっきりトリプトレモスによる農業伝播を語り︑それ故にアテナイがギリシア世界の指導者たるに相応しい資格

があるのだと主張するのである

R

― 69 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(17)

前四二五/四年ないしは四二二年或いは四一六/一五

年と推定されるエレウシス出土の碑文

Sは法案起草委員団

chsyggrapheis

︶が立案したエレウシスの二柱の女神への初穂奉納を命じる民会決議である︒二行目から七行目にか けての条項で

﹁ アテナイ人は父祖伝来の慣習

patria

︶ 並びにデルフォイの神託

manteia

︶ に 従 って二柱の女神に

theoin

︶収穫物の中から﹇大﹈麦百メディムノスから六分の一︵メディムノス︶を下らざる︑小麦については百メデ

ィムノスから十二分の一︵メディムノス︶を下らざるものを初穂料として奉納すべきこと︒﹂と︑エレウシスのデメ

テルとコレーへの初穂料奉納が父祖以来の慣習とデルフォイの神託に基づいたアテナイ人の義務であると強調してい

る︒八行目から一〇行目にかけての条項は﹁区毎に﹇区﹈長︵

demarchos

︶が徴収しエレウシスの神殿監督官団︵

hiero- poioi

︶にエレウシスにおいて手交すべきこと︒﹂と︑デーマルコスと呼ばれる区長が各区毎に初穂料を徴収しエレウ

シスにおいて直接ヒエロポイオイと呼ばれる神殿監督官団に手渡すことを規定している︒本稿において注目すべきは

一四行目から一八行目にかけての条項である︒﹁同盟諸国は上記の規定に従って初穂料を奉納すべきこと︒諸都市は

徴収官︵

eglogeis

eklogeis

︶を選出し︑彼等にとってもっとも良いと思われる方法で穀物が徴収されるべきこと︒徴

収した後︑アテナイへ送付すべきこと︒運送の任に当たった者はエレウシスの神殿監督官団にエレウシスにおいて手

交すべきこと︒﹂これは全ての同盟国︵

chsymmachoi

︶がアテナイ人と同等に初穂料

奉納の義務を負わされ

︑ アテナ イにおいては区長が果たす役割を徴収官︵

eglogeis

︶を新たに選出してアテナイ国内の基準に従って徴収の任に当た

らせたことに言及しているのである︒そして二四行目から三〇行目にかけての条項で﹁犠牲式司と松明持ちは秘儀に

際してギリシア人たちが収穫物より父祖伝来の慣習とデルフォイの神託に従って初穂料を奉納したことを呼びかける

べし︒区長によって各区毎の︑都市によって各都市毎の穀物の量を告知板に記載した上でエレウシスにあるエレウシ アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 70 ―

(18)

ニオン及び評議会議事堂に設﹇置﹈せよ︒﹂と︑各同盟国がそれぞれどれだけの穀物を奉納したかが秘儀の祭式にお

いて告知され︑告知板によって公布されるのである︒ここに同盟諸国はエレウシニア祭の祭典への参加と初穂料奉納

を義務化され︑エレウシスの宗教共同体の中に組み込まれてしまうのである︒

さらにこの祭典の範囲はアテナイとその同盟諸国を越え︑可能な限り広範囲にギリシア諸国の参加が計

られてい

る︒三〇行目から三四行目にかけての条項で﹁評議会はその他の︑可能と判断される︑全てのギリシア諸都市に対し

て布告し︑アテナイ人とその同盟諸国が初穂料を奉納した根拠を語り︑彼等に対しては命令するのではなく︑もし望

むのであれば︑父祖伝来の慣習とデルフォイの神託に従って初穂料を奉納するように呼びかけるべきこと︒﹂と︑エ

レウシスの宗教共同体への参画がさらに広く呼びかけられている︒

このようにアテナイが自国のみならず同盟諸国︑さらには同盟外のギリシア諸国に対してもエレウシニアの祭典へ

の参加を呼びかけた理由はどこにあるのだろうか︒

イソクラテスは﹃パネギュリコス﹄の中で︑﹁かつて我々のポリスが正しく海上を支配したし今日不正に覇権を要

求しているのでないことは全ての人に明白となっている︒﹂︵イソクラテス︑﹃パネギュリコス﹄︑二〇節︶と主張し︑

その根拠として﹁最も経験を積んできていることと最大の軍事力を有していること︵

tous empeirotatous ontas kai m eg-

isten dynamin echontas

︶﹂︵二一節︶と﹁ギリシア人に対する最大の恩恵者であるということ︵

tous pleiston agathon aitious tois Hellesin ontas

︶﹂︵二二節︶を挙げている︒

それではアテナイがギリシア人に為した﹁恩恵︵

euergesiai

︶﹂︵二七節︶の中で一体何が﹁その重要性の故に︵

dia to megethos

︶全ての人々の間で過去も現在も至るところで語られ思い起こされている﹂のだろうか︒その筆頭としてイ

― 71 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(19)

ソクラテスは﹁伝説的︵

mythodes

︶﹂︵二八節︶と断りながらも︑デメテルから授けられた﹁二つの贈り物︵

doreas dit- tas

︶﹂︑即ち﹁穀物︵

karpoi

︶﹂と﹁秘儀︵

tereute

︶﹂を﹁全ての人々に分かち与えた︵

hapasi metedoken

︶ ﹂

︵ 二 九 節

︶ こ とを挙げる︒そしてその﹁証拠︵

semeia

︶﹂︵三〇節︶として﹁大部分の諸都市が古の恩恵︵

palaia euergesia

︶を心に

留めていて毎年穀物の初穂料を我々に送っており︑蔑ろにしている諸都市に対してはしばしばピュティアが収穫物の

一部を支払い我々の都市に対しては父祖の慣習通りに行なうように命じた︒﹂︵三一節︶と指摘しているのである︒

この演説は前三八〇年の作品とされ

T︑デロス同盟崩壊から四半世紀の年月が経っているが︑アテナイ人の祖先が

デメテルから授けられた二つの贈り物︑穀物と秘儀︑を他のギリシア人に伝えたことを恩恵と称し︑それ故にアテナ

イはギリシアにおける覇権を要求する権利を持っていると主張する︒ここにおいては神話伝承がアテナイの覇権を求

める帝国主義政策を正当化する根拠として利用されていることが明らかとなってくる

U

植民神話の有効性と帝国支配の限界

植民神話︑アテナイとの血の繋がりは都市の行動に対して絶対的な影響力を及ぼしていたのだろうか︒

ペルシアから離反するに際してイオニア人はミレトスに会したが︑ギリシア本土にアリスタゴラスを派遣する理由

は﹁何らかの強大な同盟国を見つける必要があったから︵

edee gar d e symmachies tinos hoi megales exeurethenai

︶ ﹂

あった︵ヘロドトス︑五巻三八節︶︒アリスタゴラスがスパルタを最初の交渉相手としたのは﹁戦いにおいては勇気

に関して最も優れている︵

te ta es ton polemon es ta megista anekete aretes peri

︶﹂からであった︵ヘロドトス︑五巻四 アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 72 ―

(20)

九節︶︒同様にアテナイがスパルタの次にされたのも﹁残りの諸国のなかでは最も強大であった︵

ton loipeon edynasteue megiston

︶﹂からである︵ヘロドトス︑五巻九七節︶︒つまりギリシア本土の同盟国を求める動機は軍事力が﹁強大で ある︵

megistos

︶﹂という事実に帰せられていたのである︒

血の繋がりは副次的に強調されているに過ぎない

︒ スパルタに対して二度にわ

た っ て

﹁ 同 胞

andras homai-

monas

︶﹂という言葉が使われており︵

ヘロドトス

︑ 五巻四九節

︶︑ アテナイに対してもミレトス人がアテナイ人の

﹁入植者︵

apoikoi

︶﹂であるという事実が指摘されている︵ヘロドトス︑五巻九七節︶︒しかしこのアリスタゴラスの

説得がアテナイに対して功を奏したのは既にアテナイがペルシアに対して﹁ペルシア人とは公然と敵対していた︵

ek

phanerou toisi Perseisi polemious einai

︶﹂からに他ならなかった︵ヘロドトス︑五巻九六節︶︒イオニアへの支援決定に

おいて︑イオニア人がアテナイ人の﹁植民者﹂であるという事実はアテナイ人にとってそれほど強い動機にはなって

いない︒

マラトンの戦いやサラミスの海戦の後︑アテナイはペルシアに協力した島嶼に報復攻撃を行なっているが︑その理

由はカマリナにおけるアテナイ人使節エウフェモスが掲げる﹁己の母国たる我がアテナイに対して︑ペルシア側の一

軍として攻め寄せてきた﹂︵トゥキュディデス︑六巻八二節︶からではなかった︒何れも当該の島嶼がペルシア軍に

荷担したという単純な事実が理由とされているに過ぎない︒即ち︑マラトンの戦いの後︑アテナイはパロスに遠征軍

を派遣している︒その理由は単に﹁パロス人がペルシア人と一緒になってマラトンに三段櫂船に搭乗して遠征するこ

とによって最初に口火を切った︵

hoi Parioi hyperxan proteroi strateuomenoi trieresi es Marathona hama toi P ersei

︶﹂から

であった︵ヘロドトス︑六巻一三三節︶︒また︑サラミス海戦の後︑テミストクレスはアンドロス︑カリュストス︑

― 73 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(21)

パロスなどの島嶼に金銭を要求し︑包囲攻撃を加えている︒その際︑口実に使われたのが﹁ペルシア方に味方したた め︵

dioti emedise

︶﹂であった︵ヘロドトス︑八巻一一二節︶︒

現実政治の次元においてアテナイがイオニア人の母国であるという理念が殆ど力を持たなかったことは次の逸話か

らも窺い知られる︒前四八〇年︑アルテミシオンでの対峙の後艦隊を撤退させるに際して︑テミストクレスは水汲み

場に﹁母国の住民に向かって兵を進め︑ギリシアの地を奴隷化せしめんとするのは正しい行ないではない︵

ou poieete

dikaia epi tous pateras strateuomenoi kai ten Hellada katadouloumenoi

︶﹂という文言を記した碑文を立てさせた︵ヘロド

トス︑八巻二二節︶が︑ヘロドトスが強調するように︑﹁テミストクレスの指図に応じてわざと卑怯に振る舞ったの

は彼等のうちでわずかの者たちであって︑多くの者はそうではなかった︵

ethelokakeon mentoi auton k ata tas Themistok-

leos entolas o ligoi, hoi de pleunes ou.

︶﹂︵ヘロドトス︑八巻八五節︶︒その少数に留まった中にナクソスの四隻から成

る戦隊が含まれるが︑本国から受けていた指令に反してギリシア軍側に投じたのである︒そのナクソス

人の起源を

﹁ナクソス人はアテナイ人から生じたイオニア人である︵

Naxioi de eisi Iones apo Atheneon gegonotes

︶﹂とヘロドトス

は指摘している︵ヘロドトス︑八巻四六節︶︒

イオニア人とアテナイ人が

xyggenes

であるということはイオニア人をアテナイ帝国に繋ぎ止めておく接着剤とは

ならなかった︒前四一三年のシケリアにおけるアテナイ遠征軍の壊滅のニュースはアテナイの桎梏の下に苦しんでい

たイオニアの同盟諸国を離反に踏み切らせ︑スパルタ側に走らせる重要な契機となった︒ミレトスはアテナイの植民

市であったにもかかわらずカルキデウスのスパルタ艦隊が姿を現すや離反に踏み切っているし

V︑ストロムビキデス

とトラシュクレスのアテナイ艦隊が到着してもこれを迎え入れず

W︑しばしばアテナイ側の部隊が上陸してもこれに アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 74 ―

(22)

従うことはなくスパルタ側に組してこれと戦っている

X

様々な祭典の帝国祭典化の努力は同盟諸国をアテナイの植民市に位置づけ︑擬制的な血縁関係を強調することで盟

主アテナイとの繋がりの強さを強調しようとするものだった︒パンアテナイア祭やディオニュシア祭などの帝国祭典

は同盟諸国にアテナイの力と富︑そして文化を印象づけたであろうし︑行列への参加︑各種競技の観戦は盟主アテナ

イとの一体感を同盟諸国に醸成したかも知れない︒しかし︑アテナイの支配に対する同盟諸国の不満︑軍事的敗北に

よる威信の揺らぎ︑最後に艦隊の喪失による帝国の崩壊を食い止めることはできなかった︒

Hdt.II.143.

このようなギリシア人の心性についてはP.Georges,BarbarianAsiaandtheGreekExperience,BaltimoreandLondon,1994,1−

12.を参照︒

Hdt.VII.150.

Ibid.

Plut.Solon,10.

英雄祭儀が厄除け的なものであることについては︑M・P・ニルソン著︑小山宙丸・丸野稔・兼利琢也訳︑﹃ギリシア宗教

史﹄︑一九九二年︑創文社︑︵M.P.Nilsson,AHistoryofGreekReligion,transltedfromtheSwedishbyF.J.Fielden,SecondEdition

revised,Oxford1952︶︑一八四頁

英雄が都市国家間の争いの中で神的な援助を与えるものという信仰については︑二二三〜 ;

二三一頁参照︒特にマラトンの戦いについては二二四頁︒アテナイとメガラのサラミス島をめぐる争いについては︑二二八

頁︒ニルソンはそれを﹁政治的神話﹂と呼ぶ︑二二七頁︒

Hdt.VIII.64.;cf.Hdt.V.80:テバイはアテナイとの対決の際デルフォイの神託に従ってアイギナからアイアコス一族の援

助を要請している︒

― 75 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(23)

Cf.Hdt.VI.108.

Paus.I.15.3.

Plut.Cim.8.

ニルソン︑邦訳︑二五四頁︒

この問題については既にメクズがその大著﹃アテナイ帝国﹄の中で言及しているし︑笠原匡子氏が﹁宗教政策から見た前五

世紀アテナイの対同盟政策﹂の中で論じている

ER.−912972,1Oxford,ire,mpn;iaenthAeThs,gMeig305﹁宗教政笠原匡子︑ :

策から見た前五世紀アテナイの対同盟政策﹂︑﹃関学西洋史学論集﹄

︑昭和五八年︑一〜一三頁︒シューラーは植民都市の

地位とパンアテナイア祭への参加︑それにアテナへの初穂奉納が同盟都市とアテナイとの宗教的な繋がり︑ひいては政治的

な繋がりを強固なものとしたと考えている︒W.Schuller,DieHerrschaftderAthenerimErstenAttischenSeebund,Berlin/New

York,1974,117−118.

Thuc.VI.76.3.

Thuc.VI.82.3.

前野弘志︑﹁アテナイ植民活動と種族イデオロギー﹂︑﹃広島大学文学部紀要﹄第五八巻特集号二︑平成一〇年︑八七頁

前 :

野氏はアテナイがイオニア人の母市であるということとイオニア人と同族であるということをイオニア諸都市をアテナイの

覇権の下に統合し︑保護の名目で干渉する口実に使ったと指摘している︒

プルタルコスはニキアスの伝記の中で︑デリア祭を合唱隊の行進と︑犠牲の式︑競技会︑宴会︑アポッロン神への奉納とし

て青銅製の棕櫚の木と一万ドラクメで購入した土地の寄進によって華々しく挙行したと伝えている︒Plut.Nic.3;cf.Str.X.

v.2:デロス島を取り囲むキュクラデスの島々が例大祭を挙行し︑祭礼使節団を派遣し︑供儀を行ない︑処女歌舞団を派遣

していた︒プルタルコスは民衆を懐柔する手段であったと位置づけている︵ibid.︶︒

トゥキュディデスは前四二六/五年の冬に長らく途絶えていたデリア祭をアテナイ人が再建し︑従来行われていた合唱隊

の派遣と参詣使による犠牲の奉納に加えて︑競技の再開と騎馬競技が新たに種目に加えられたことを伝えている︵Thuc.III.

104.︶︒このデリア祭が島嶼部の人々を引き付けて来たとトゥキュディデスは指摘している︵ibid.︶︒メクズはこの行為の背

後にアテナイの政治的意図が働いていたと推測している︵AE.301.

︶︒

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 76 ―

(24)

尤もメクズはアテナイがイオニア諸都市を建設したのは五世紀にアテナイが宣伝として創作した後世の産物だと多くの研究

者が主張するが︑今ではそれ程流行していないとする︵AE.294︶のであるが︒

48991Weimar&arttgSttu,Gro−EpoaulyPeuenDerides’,‘Euripn,ZimmermanB.,﹃イオン﹄は前四一三年頃の作品とされる︒︵︶

284.

シューラーはサモスに対してアテナイがアテナ・ポリアス︑イオン︑アテナイの一〇部族の名祖への尊崇を要求したと指摘

する︒Schuller,118.

=Solon,F4,2.

Hdt.I.145−146.

Hdt.I.142.

Hdt.I.146.

Hdt.I.147.

Paus.VII.1.2.1.

Paus.VII.1.2.6.cf.Schuller,117.

Paus.VII.1.2.8.

Paus.VII.1.2.10.

Paus.VII.1.2.10.

Paus.VII.1.3.3.

Paus.VII.1.3.5.

!

Paus.VII.1.3.6.

"

Paus.VII.1.3.7.

#

Paus.VII.1.3.8.

$

Paus.VII.1.3.10.

Paus.VII.1.4.2.

― 77 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(25)

%

Paus.VII.1.4.9.

&

Paus.VII.1.5.1.

'

Thuc.III.104.

(

Hdt.IX.106.

)

Hdt.IX.114;117−118;121.

*

Thuc.I.89.2.

+

Thuc.I.95.1.

,

Thuc.I.96.

- Cf.Plut.Arist.25.1.プルタルコスは﹁アリステイデスはギリシア人たちと誓約を交わし︑呪いを込めて鉄の塊を海の中に投

じながら︑アテナイ人を代表して誓約した﹂と述べ︑誓約を交わしたのがイオニア人に限定されていないことを暗示してい

る︒

.

馬場氏は同盟の原初加盟国に占めるイオニア諸都市の割合をシーリーに従って︵R.Sealey,‘TheOriginoftheDelianLeague’,in

AncientSocietyandInstitutions:StudiespresentedtoVictorEhrenberg,Oxford,1966,233−255.︶﹁無きに等しい﹂と解釈する

︵馬場恵二︑﹁デロス同盟とアテナイ民主政﹂︑﹃岩波講座世界歴史﹄二︵一九六九年︶一六〜四四頁︑

特に二五頁

︶︒ そし

て史料に登場する﹁イオニア人﹂の実態はサモスやキオス︑レスボスなどの島嶼民であったとし︑ギリシア世界の中でスパ

ルタと対等な国際的地位を獲得せんとする﹁権力への意志﹂がアテナイの同盟結成の動機であったと主張する︵同頁︶︒そ

の結果﹁イオニアの解放﹂は同盟結成の目的ではなくなってしまう︵二六頁︶︒ウォーカーは同盟結成時においてイオニア

の都市の多くは加盟していたが︑カリアやトラキアの諸都市は加盟していなかったと考えている︵E.M.Walker,‘TheConfed-

eracyofDelos,478−463B.C.’,CAH.V.1927︵1958repr.︶,33−67.esp.44︶︒ハイビーはエフェソス︑ミュウス︑エリュトライ︑

アイオリス地方の諸都市︑それにヘッレスポントスにあるランプサコスを未加盟国としている︵L.I.Highby,‘TheErytraeDe-

cree’,Klio,Beiheft36,1936,55−56.︶︒これらに対してメリットやウェイドジェリーらはサモス会議とヘレスポントス遠征の

間にヘラス同盟への新規加盟国は途切れることなく増加していたので︑貢税表のイオニア諸都市の欄に含まれる都市の全て

が同盟に加入していたと主張する︵B.D.Meritt,H.T.Wade−GeryandM.F.McGregor,TheAthenianTributeLists,iii,Prince- アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 78 ―

(26)

ton,NewJersey,1950,203.

︶︒

/

Thuc.I.96.

0

ニルソンによれば祭典はポリスの富を誇示するためだけではなく︑ポリスの名誉と恩恵の印しを与えるために役立てられ︑

さらに大観衆に祖国の偉大さを思い起こさせ︑帝国の統一を宣伝

するために利用されたのである

︵ 邦 訳

︑ 二四四

〜 二四五

頁︶︒

1

パンアテナイア祭についてはH.W.Park,FestivalsoftheAthenians,Ithaca,NewYork,1977,33−50.

2

ニルソン︑邦訳︑二四三〜二四四頁︒

3

アリストファネス︑﹃雲﹄︑三八六行目の古註

e-heenaionapoikistisAaipoleisbountyththnenoitoisPanathenaistopasaihaihypo :

somenonepempon.︵アテナイ人によって植民されたポリスはどれもパンアテナイア祭に定められた牛を送った︒︶ 4

ブレア

aiaanhopl/ianapagenesPanathenataaimegalakaiesD/ionysiIG.pk.4I.46.IG.I.45;MeL9oun,15−17:db﹈﹇﹈︵︶﹇32: phallon.︵牛と一揃いの武具を大パンアテナイア祭にそして男根棒をディオニュシア祭に持ち来るべきこと︒︶ 5

トゥディッポスの決議

pompeiikathaperapoinkeeoivvvdton/te﹇﹈こ﹈﹇﹈︵牛と一揃いの武具を大パンアテナイア祭に全てのポリスは持ち来るべき﹇ IGhaegalapepasas*mpon-mtaaia−knob:587pa,596ML.3.6.IenainhopgehatanesnPapanial﹈︶﹈﹇﹇︵﹇﹈3: と︒植民都市と同じく行列に参加すべきことvvv︶ 6

クレイニアスの決議

apneritenIG.agoge/liatetissbooseptespanpanoadiIi,.66keML.46,4s1−42:kaieh﹈︵そしても﹇﹈﹇﹈︶︵3

し何人かが牛或いは一揃いの武具の奉納に関して犯罪を犯すならば︑︶

7

InschriftenvonPriene5.

8 IG,II2.456.b.28. 9aierousintentephili/ankooiikeiotetateneistondemontoatdiophoniuepeideapoikoiontesKoltodAonaienethutomou/n﹈﹈﹇﹇﹇﹈﹇ Athenai﹇on.﹈ :

b.14−15

: ﹁民衆より出でた植民者である︱民衆に対する関係を彼らは墨守している︱﹂

︵apoikoiontestoude﹇moudiaphylat- tousintenoik﹈/eiotetatemprostonde﹇mon︱

︶︒

; ll.5−8:hotihodemoshoKolophonionanatithesi﹇tondetonsteph﹈/anonkaitenpanoplianaristeionteiAth﹇enaihyper﹈/toudemou

― 79 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(27)

touAthenaionkaitoudemoutou﹇Kolophoni﹈/on.

<

B.D.Meritt&H.T.Wade−Gery,‘TheDatingofDocumentstothemid−fifthCentury−I’,JHS.82,1962,67−74.esp.70

パロス︵ : ﹁

人は︶アテナイ人の民衆の植民者であるので祖先伝来の慣習に従いパンアテナイア祭には牛と一揃いの武具をディオニュシ

ア祭には牛と男根棒を記念として持ち来たった︒﹂︵﹇k﹈atatapa/﹇triakaieisPanathen﹈aiabonkaipano/﹇pliankaieisDiony﹈sia bonkaiphallo/﹇n﹈a﹇p﹈a﹇genaristeio﹈nepeide﹇t﹈ygchanous/﹇i﹈apoikoio﹇ntest﹈oudemoutoAthenaion.︶;cf.J.H.Oliver,‘Inscrip- tionfromAthens’,AJA.Xl︵1936︶461,ll.2−6.

=

ML.40.2−4

>

I.G.I3.96.4−6.

?

ML.46.18−22.

@ I.G.I3.71.27−28.

A

カリアスの平和でペルシアとの戦争状態に終止符が打たれると同盟諸国をアテナイの指導権の下に留めておく根拠が失われ

てしまい︑デロス同盟から拡散していく同盟諸国を引き止めておく手段としてアテナイは同盟諸国をパンアテナイア祭へ参

集させアッティカ基準の貨幣や度量衡を強制した︑とメクズは主張する︵AE.294

︶︒

B﹁アテナイ人はエーリス︑マンティネイアそれにアルゴスにオリュンピア祭の三〇日前に赴いて︑アルゴス人︑エーリス人

それにマンティネイア人は大パンアテナイア祭の一〇日前にアテナイを訪れて誓約

を更新すべきこと

︒﹂

︵ トゥキュディデ

ス︑五巻四七節一〇︶

C

ディオニュシア祭についてはPark,125−135.W.R.Connor,“CityDionysiaandAthenianDemocracy”,ClasicaetMediaevalia

150,1−32.都市のディオニュシア祭の起源についてコンナーは紀元前六世紀末のクレイステネスの民主政期に設立されたと

主張し︑パークなどの多くの研究者は︑紀元前六世紀後半︑ペイシストラトス家の

僭主支配の時代に設立されたと主張す

る︒その設立時期の問題は別として都市のディオニュシア祭は中心市アテナイによる地方の有力コーメー統合の象徴として

評価されている︒しかし︑何か不自然な印象が残る︒どうしてアッティカ各地の諸デーモスにディオニュシア祭があって︑

長い暗黒時代を通じてアッティカ最大の居住地であり続けたアテナイにディオニュシア

祭がなかった

︑ と言えるのだろう

か︒何れにせよアテナイにおいてすらディオニュソスの祭典は田舎のディオニュシア祭と都市のディオニュシア祭だけに限 アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 80 ―

(28)

らない︒アンテステリア祭やレナイア祭もまたディオニュシア祭である︒W.R.Connor,“Tribes,FestivalsandProcessions: CivicCeremonialinArchaicAtnens,”JHS107︵1987︶,40−50.本論とは関係はないがアテナイにも古くから独自のディオニュ

シア祭があって︑それが後にポリスの発展に連動させられて都市のディオニュシア祭に姿を変えられていった考えられない

だろうか︒大ディオニュシア祭の祭儀等についてはS.Goldhill,“TheGreatDionysiaandCivicIdeology,”JHS107︵1987︶,58− 76.を参照のこと︒

D

ScholiononAristophanes,Acarn.504.

E

Isoc.DePace,82.

F A.Raubitschek,“TwoNotesonIsocrates,”TAPA72︵1941︶,358−59;L.Pearson,“HistoricalAllusionsintheAtticOrators,”CP36︵1941︶,228.

G

Goldhill,68.

H

ニルソンは豊穣の儀礼として大ディオニュシア祭において男根像を持ち歩く行列にアテナイの植民市もまた男根像を送るこ

とを要求されたと伝える︵邦訳︑八四〜八五頁及び二四四頁以下︶

I

レナイア祭についてはPark,104−106.

J﹁以上の点に関して及びその他の休戦条約に関してそれぞれの側を代表して誓約した者たちが誓約するべし︒ラケダイモン

人はアテナイに赴いてディオニュシア祭において︑アテナイ人はラケダイモンに赴いてヒュアキンティア祭において毎年度

毎に誓約を更新すべきこと︒﹂︵トゥキュディデス︑五巻二三節四︶

K

Park,55−72.

L no.126:浮き彫りは高さ二四〇センチ︑幅一二五センチある︒

M﹃ デメテル

讃 歌

﹄ には次の二箇所でトリプトレモスへの言及がある

︒﹃ デメテル讃歌

﹄︑ 一五三

〜 一五五行

: ﹁ 分別ある

︵pykimedes︶トリプトレモス様やディオクレス様︑ポリュクセイノス様︑優れた︵amynon︶エウモルポス様︑ドリコス様︑ そして私どもの偉大な︵agenor︶父が居ります︑﹂

﹃デメテル讃歌﹄︑四七三〜四七九行

: ﹁掟を整えられ

る︵themistopoloi︶殿様方の下に行かれた女神は︑トリプトレモスや馬 を駆る︵plexippos︶ディオクレス︑力強き︵bies︶エウモルポス︑人民の指導者ケレオスに語り掛け彼ら全てに

礼拝の儀式

― 81 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

(29)

︵dresmosyneth’hieron︶と秘儀︵orgia︶を︑即ちトリプトレモスと

ポリュクセイノス

︑ 彼らと共にディオクレスに神聖な

︵semna︶秘儀を明かされたのだった︑それは決して逸脱してはならず損なってはならず深く悲嘆に暮れてもならないものだ

った︒﹂

N エレウシス︵Eleusis︶については桜井万里子氏の一連の浩瀚な研究がある︵これらは﹃古代ギリシア社会史研究︱宗教・女 性

・ 他 者

﹄︵ 一 九九六年

︶ 岩波書店

︑﹁ I宗教

﹂ に最近の研究に関する著者の見解を付した補論を付けてまとめられてい る︒︶︒桜井氏は主としてIG.I 2.6を手がかりに元々氏族︵genos︶の祭儀でしかなかったエレウシスの秘儀にパンヘレニック

な性格を付与することによってギリシア世界におけるアテナイの権威を高めようとする国家意思を跡付けようとする︵四二

頁︶︒桜井氏によるとデメテル︵Demeter︶への供儀はエレウシスに特定される農業祭儀ではなく︑ギリシア各地の農村に遍

在する宗教儀式であった︒又エレウシスがギリシアにおける農業発祥の地という意識もなかったしギリシア人に共有される

ものではなかった︒そのことは前七世紀末にまとめられたとされる﹃デメテル讃歌﹄に農耕発祥の地という観念が現れてい

ないことによって証明される︵三九頁︶︒後世の伝承ではデメテルから教わった農業を各地に伝播したとされるトリプトレ

モス︵Triptolemos︶もエレウシスの貴族の一人にすぎないとされる︵同頁︶︒そのトリプトレモスが農業を各地に伝えたと描

かれるようになるのは前五一〇年頃から前四八〇年頃にかけてであると桜井氏はラウビチェク︵I.K.&A.E.Raubitschek,

‘TheMissionofTriptolemos’,Hesperia,Suppl.XX︵1982︶,109−117.︶の研究に基づいて指摘する︵同頁︶︒つまりアッティカ

式黒絵様式の末期の壷絵に農業を伝播するトリプトレモスが初めて描かれ︑続くアッティカ式赤絵様式の壷絵において盛ん

に描かれると論じるのである︵五五頁︶︒そして注目すべきはこのエレウシスにおける農業発祥とトリプトレモスによる農

業伝播がアテナイの国家イデオロギーとして宣伝されるようになるというのである︒この過程は桜井氏が明らかにしたアッ

ティカ各地で崇拝されていたデメテル信仰がエレウシスに統合され︑従来エレウシスのエウモルピダイ︵Eumolpidai︶氏族

が独占していたエレウシスの祭儀執行権にポリスアテナイが直接関与するようになり︑これを国家祭儀化していく過程と一

致するのである︒桜井氏はさらに前四六二年頃に書かれたソフォクレスの﹃トリプトレモス﹄の断片においてトリプトレモ

スがイタリア︑カルタゴ︑イオニアを旅したと言及されていることに触れている︵四〇頁︶︒これは桜井自身が紹介するIG.

I 2.76に見られるアテナイの帝国政策との対応において興味深い︒

O﹃古代ギリシア社会史研究﹄︑三九頁︒ アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

― 82 ―

(30)

P

四〇頁︒

Q

Xen.Hell.VI.3.6.

R

Isoc.Pan.28−30.

S IG.I2,76+;IG.I3,78;ML73.

T

小池澄夫︑﹁解説﹂︑﹃イソクラテス弁論集一﹄︵一九九八年︶︑二七六頁︒

U

ギリシアの祭礼が地方の有力な大家族の私的な祭儀に起原を有していること︑そしてポリスが彼らの祭儀に大きな影響を及

ぼすようになっても彼らの宗教上の権利は尊重された︵ニルソン︑邦訳︑一一七頁︶︒

エレウシスの秘儀についてはニルソン︑邦訳︑二〇二〜二〇三頁を参照の事︒アテナイがエレウシスの秘儀を自らの地位向

上に利用したこと︑そしてギリシャ諸国を同盟国や植民市と同じように扱ったことを指摘している︒

V

Thuc.VIII.17.

W

Ibid.

X

24;25−27.

― 83 ―

アテナイ帝国と神話︑宗教そして祭典

参照

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