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「教育行政及財政」講義(下)

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「教育行政及財政」講義(下)

黒崎  勲

IV 教育の公共性

1 教育の私事性と公共性の対立

1・1 フランスにおけるチャドル事件を端緒として

 樋口陽一氏の議論に促されて,長谷部恭男氏は「私事としての教育と教育の 公共性」(『ジュリスト』1993・5・1−15号)という興味深い論文を書いている。

要旨を抜粋して,検討の材料としよう。

 「フランス革命は政治制度を民主化すると同時に中間団体を破壊してその輻  から個人を解放するという社会の急激な変革をも遂行した。従来の社会的紐  帯が破壊された以上,それに代わる社会の統合原理を国家が提供する必要が  ある。これがフランス公教育の使命となる。っまり『そこでの公教育の理念  は,あるべき社会秩序および市民を国家が教育を通じて創出するという共和  主義の思想によって支えられている』。こうしたフランス公立中学校の教室  に,イスラム教の戒律を象徴するチャドル(Foulard)を着けて現れた女生  徒は,公教育によって伝えられるべき男女の平等と国民の一体性という共和  制理念への挑戦として受け取られ,そのたあに議論が引き起こされた。」

 「あるべき社会秩序を担保するたあに,国家が望ましい文化や価値を生産し  維持すべきだとするならば,学校教育における私事性と公共性との調節も単  純となり,私事性は公共性が許容する範囲内でのみ認められる。…国家はそ  もそも平等な市民からなる単一不可分で非宗教的な共和国という実質的な価  値秩序にコミットしており,したがってあらゆるイデオロギーに対する厳密  な中立性を国家に要求することはできない。」

 「共和主義と対照的な思想として,社会における価値や道徳のあり方を個人

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の自律的な選択に任せ,国家に対していかなるイデオロギーからも中立的で あることを要求する多元的自由主義を対置させることができる。このような 立場に対する共和主義(から)の批判は,その要求が自己破壊的であるとい

う点にある。」

「多元的自由主義が尊重する個人の自律が可能であるためには,少なくとも 多元的な文化や価値の共存が必要である。しかし,文化や価値の多元的な共 存は,決して自動的に達成されるわけではなく,それを積極的に維持し,と

きに強制する国家の活動を必要とする。自由主義が要求する徹底した国家の 中立性は,文化の自由市場を維持する国家の活動をも禁止するが,その結果,

イデオロギー間の激烈な対立は社会の一体性を破壊し,原子化された諸個人 へと分解する危険がある。自由主義に対するこのような批判は,国家から分 離した社会および個人の自律性への懐疑を前提とする。逆に,自由主義者は 国家の活動がなくとも文化の多元的共存は可能であると想定していることに

なる。」

「平準化された初等義務教育は,基礎的な言語や科学上の知識が社会全体に 行き渡る事態の公共財的性格を根拠に(共和主義・自由主義のいずれの側か

らも)正当化されると思われる。…公立学校と並んで多様な私立学校の存在 を認めることが問題を解決する。」

「国家が教育を通じて同質の国民を形成するという共和主義的発想に立っと き,教育活動を具体的に担う各学校の教師が国家の強行するイデオロギーか ら離れて自由な教育を行う権利は否定されるはずである。逆に,学校教育の 意義が保護者の意図の通りに子女を教育することであり,その限りでの私事 の組織化にすぎないのであれば,そこでも保護者の代理人にすぎない教師は 保護者の指令に従うべきであり,技術的裁量を除けば教師に固有の自由を認

める理由はない。…国家および保護者の指令を遮断する教育の自由が教師に 認められるとすれば,それは,制度としての学校の自律性を尊重することが,

公教育本来の機能をよりよく果たすことにつながる限りにおいてであろう。

そのとき,公教育の意義は,保護者が支配する私事の組織化でも,国家が支 配する市民の産出の過程でもありえない。

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「教育行政及財政」講義(下) 3

 マイケル・ウォルツァーによれば,将来の市民たるに必要な教育を子女の 社会的出自の差異にもかかわらず平等に提供するという公教育の任務を果た すためには,学校は国家からだけでなく,家庭を含めた社会からも自律的な 空間でなければならない。このような自律性を確立した『強い学校』のモデ ルを,彼は戦後の日本の学校を理想化することによって抽出する。」

1・2 教育の私事性・公共性論争

 ここで紹介されている教育の私事性と公共性の対立は,必ずしもフランス公 教育制度に固有なものではない。たとえば,1970年代のアメリカ合衆国の公教 育制度のあり方をめぐってバッツとクーンズの間で行われた論争は,ほぼ同じ

内容をもっものである。

 「公教育の第一義的目的は政治的なものである。それは若い世代を自立的な  市民としての新しい役割へ準備するものであり,他国の支配者へ従属するも  のとしての役割へ準備するものでもなく,また,家族,親族,教会,地縁あ  るいは民族的な伝統へまず帰属するような私人としての役割へ準備するもの

 でもない」(バッツ)。

 「ふっうの人々は,たとえば学校にっいて,適切な情報が与えられ,必要な  助言が与えられるならば,自らの事柄については自分自身が最良の統治者で  ある」。したがって公教育も「行政官によって指定された学校へ強制的に就  学させられるということではなく,彼ら自身に自ら学ぶ学校を判断させる」

 ものであるべきだ(クーンズ)。*この部分の引用に興味がある人は黒崎勲  『教育と不平等』を参照のこと。

 教育が,個人の成長・発達という基本的・生理的要求に対応すると同時に,

社会的分業に分化させるという社会の派生的要求にも二重に対応するものであ り,教育の営みが新しく入ってきた個人にその社会の価値体系を教え込み,ま た,社会構造の中の特定の位置を占めるように彼を訓練するものであるという ことは,この講義でもすでに述べたことである。教育が私的で家庭的な事象で あり,国家は教育において家庭の補助者としての役割に止まるべきか,あるい は教育事業を方向づける積極的な役割を担うべきかという問題は,デュルケム

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の教育論の主要なテーマでもあった。第ll部で扱った教育権論論議もまた,こ の問題を中心的なテーマとするものであった。

 教育の公共性をあぐる問題が複雑な様相を示すのは,基本的人権概念にとっ て教育の権利が例外的な構成要素を含んでいるからである。かっては,「植民 地」と「子ども」とが人権概念からの二っの例外と呼ばれていた(「女性」も

というべきだろうか)。植民地の存在はすでに理論的には解決され,原理とし ては否定されているといってよいだろうが,子どもの存在は依然として解決さ れていない。子どもが人権の対象であることを疑う人はいないだろう。子ども にも精神的自由があり,遺産相続権などの例をみてもわかるように,所有権の 主体としても認められている。しかし,教育の営みにおいて,子どもは学習の 主体であるとともに,教育の対象でもある。子どもは働きかけられるのであり,

働きかけは,いずれかの点において,強制的であるほかはない。さらに,教育 は個人にのみ関わるものではなく,他人の生活に関わっている。他人の生活と は,社会のあり方ということでもある。よく教育を受けた隣人とのみわれわれ は安定した社会生活を営むことが出来る。他人の子どもの教育にまったく無関 心ではいられないのである。これらが教育の公共性をめぐる固有の問題構造を っくりあげる。それとともに,国家の権力が政治過程を通じて文化の装置を奪 取し,これを思想統制の強制装置に変質させるという危険を見なくてはならな

い。この点では,戦前のわが国の教育は大きな教訓をもっている。戦後の「強 い学校」のモデルは,こうした戦前の日本教育の歴史と無関係ではない。

1・3 教育の公共性と教育の自由

 教育の公共性と私事性の葛藤とは,民主主義社会,あるいは基本的入権の概 念を中核として構想される社会においては,民主制の主体を形成するという要 請と精神的自由の保障という要請という二っの,基本的要請を同時に満たす社 会制度の究明という課題に行き着くことになるだろう。子どもはそのままでは 基本的人権を享受する主体としても,民主制の構成員としても十分な能力をも たないという前提は広く認められるだろう。そのうえで,親が自分の子どもを どのように育てるのかということが,親の精神的自由に属すること,子どもも

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また精神的自由の主体であること,国家にはこれらの精神的自由を損ねる権能 は与えられないことなどは,相互に対立点を含みつっ,いずれもこの社会の基 本原則として認めうることだろう。

 では,教育の自由については,どうだろうか。長谷部の先に論点整理は,わ れわれに興味深い話題を提供していると言えるだろう。

 教育の公共性を強調する共和主義からも,教育の私事性を主張する多元的自 由主義からも,教師の自由を導き出せないというのが,長谷部の論点の第一で ある。そして,教育の自由は強い学校の観念の承認によってのみ導き出せると いうのが,その論点の第二であり,この強い学校の観念が戦後日本の学校像か

ら抽出されているというのである。

 すでに注意深い諸君は,前期にとりあげた国民の教育権論の論理構成が,こ の強い学校の観念とよく整合したものであることに気がついているだろう。国 民の教育権論は,自由主義の論理を採用することによって,国家の教育行政の 権限を教育の条件整備の領域にのみ限界づける。学校は国家から自律的な空間 とされる。ここでは,権利概念の基底に子どもの権利がおかれる。子どもの権 利を基底に置くことは実は共和主義の権利概念にも見られることであり,国民

の教育権論の特徴とはいえない。その論理構成の特徴は,子どもの権利が親の 義務によって実行されるとする親の教育権の主張にある。しかし,ここでは教 育=学校はまだ家庭を含めた社会から自律的な空間にはなっていない。っいで 国民の教育権論は,親の教育権が専門家教師への信託されると規定する。この 論理構成によって教育=学校は国家からだけでなく,家庭を含めた社会からも

自律的な空間となる。

 こうした強い学校の観念は,それが公教育の要請をよく実現し得ているとき にのみ支持されるものであろう。強い学校に要請されたものは,将来の市民た るに必要な教育を子女の社会的出自の差異にもかかわらず平等に提供するとい う公教育の任務を果たすことであった。では,今日,わが国の公立学校はこう した要請をよく果たしているものと評価されているだろうか。私立中学校への 進学率が30パーセントに達するなどの状況をもちだすまでもなく,わが国の,

とりわけ大都市における公立学校の現状は,こうした強い学校を肯定しうるよ

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うな状況にはないといえよう。ところで,このような状況に照らしてみるなら ば,ここでいう強い学校の観念には,この学校の実態が,本来の理想を裏切っ た場合に,これを改善し,理想に近づけるためのメカニズムがどこにも用意さ れていないことに改めて気づかされるのである。国家からも,社会からも自律 した空間の中で,自由に営まれる教育活動が,子ども,親,社会諸グループ,

そして国家のいずれをも満足させるものでないとしたら,強い学校は誰によっ て,どのように正当化されるというのだろうか。

 学校改革をめぐる様々な議論がこうして展開されることになる。

2 公教育の概念

2・1 学校教育法による学校の規定

 教育の公共性の概念は,結局,教育制度を法制度として整備することとして 具体化される。今日,わが国の学校は,目的・種別・対象・教育課程の基準な

ど,様々な点を法規によって標準化されているのである。

  [学校の定義]

  第一条 この法律で,学校とは,小学校,中学校,高等学校,大学,高等専門学校,

 盲学校,聾学校,養護学校及び幼稚園とする。

  [設置者]

  第二条 学校は,国,地方公共団体及び私立学校法第三条に規定する学校法人(以  下学校法人と称する)のみが,これを設置することができる。

  ②この法律で,国立学校とは国の設置する学校を,公立学校とは…

  ③ 第一項の規定にかかわらず,放送大学学園は,大学を設置することができる。

  [設置基準]

  第三条 学校を設置しようとする者は,学校の種類に応じ,監督庁の定める設備,

 編制その他に関する設置基準に従い,これを設置しなければならない。

 以下,各条に付された表題を列挙すれば,設置廃止等 管理,経費の負担 校長・教員の配置 校長・教員の資格 私立学校長の届出 健康診断 学校閉 鎖 設備・授業等の変更 学齢子女使用者の義務 と続き,さらに学校段階毎

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の規定に及んでいる。

  第二章 小学校   [目的]

  第一七条 小学校は,心身の発達に応じて,初等普通教育を施すことを目的とする。

  [教育の目標]

  第一八条 小学校における教育にっいては,前条の目的を実現するために,次の各  号に掲げる目標の達成に努めなければならない。

   1 学校内外の社会生活の経験に基き,人間相互の関係にっいて,正しい理解と

 協同,自主及び自律の精神を養うこと。

   2 郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の  精神を養うこと。

   3 日常生活に必要な国語を,正しく理解し,使用する能力を養うこと。

   4 日常生活に必要な数量的な関係を,正しく理解し,処理する能力を養うこと。

   5〜8 省略

  [修業年限]

  第一九条 小学校の修業年限は,六年とする。

  [教科]

  第二〇条 小学校の教科に関する事項は,第一七条及び第一八条の規定に従い,監  督庁が,これを定ある。

  [教科用図書・教材の使用]

  第ニー条 小学校においては,文部大臣の検定を経た教科用図書又は文部省が著作  の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。 以下省略

  [就学義務]

  第二二条 保護者(子女に対して親権を行う者,親権を行う者のないときは,後見

 人をいう。以下同じ)は,子女の満六才に達した日の翌日以後における最初の学年の  初から,満一二才に達した日の属する学年の終りまで,これを小学校又は盲学校,聾

 学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う。ただし,…

  [就学義務の猶予・免除]

  第二三条 前条の規定によって,保護者が就学させなければならない子女(以下学

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 齢児童と称する)で,病弱,発育不完全その他やむを得ない事由のため,就学困難と  認められる者の保護者に対しては,市町村の教育委員会は,監督庁の定める規程によ  り,前条第一項に規定する義務を猶予又は免除することができる。

 以下,就学援助 児童の出席停止 学齢未満子女の入学禁止 と続き,

  [職員]

  第二八条 小学校には,校長,教頭,教諭,養護教諭及び事務職員を置かなければ  ならない。ただし,特別の事情のあるときは,教頭又は事務職員を置かないことがで  きる。

  ② 小学校には,前項のほか,必要な職員を置くことができる。

  ③ 校長は,校務をっかさどり,所属職員を監督する。 以下省略   [設置義務]

  第二九条 市町村は,その区域内にある学齢児童を就学させるに必要な小学校を設

 置しなければならない。

 さらに,学校組合 教育事務の委託 設置の補助 私立小学校の所管庁 と 続いて終わる。第三章は中学校,第四章は高等学校,第五章は大学という具合 である。これらの規定を通して標準化された学校によって初めて教育の公共性 が保障・実現されるというのである。

2・2 教育課程についての規定

教育の公共性をめぐる法規定の中心にあるものは教育課程に関するものであ ろう。次にこれについてやや詳しく見ておこう。学校教育法第二〇条[教科]

の規定を受けて,学校教育法施行規則では,次のように規定されている。

  [教育課程の編成]

  第二四条 小学校の教育課程は,国語,社会,算数,理科,生活,音楽,図画工作,

 家庭及び体育の各教科,道徳並びに特別活動によって編成するものとする。

  ② 私立の小学校の教育課程を編成する場合は,前項の規定にかかわらず,宗教を  加えることができる。この場合においては,宗教をもって前項の道徳に代えることが  できる。

  [教育課程の基準]

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  二五条 小学校の教育課程にっいては,この節に定めるもののほか,教育課程の基

 準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。

 なお,監督庁としての文部省が定めるものは教育課程の基準であって,具体 的な教育課程は学校において編成されると考えられていることも,留意してお こう。しかし,各学校における教育課程編成上の裁量がどの程度残されている かは,論議の分かれるところだろう。

 また,第ニー条[教科用図書・教材の使用]を具体化して,教科用図書検定 規則・教科用図書検定基準がつくられている。現行の教科書検定の仕組みと手 続は,次のようになっている。

 ①著作者または発行者が申請した図書(白表紙本)について,文部大臣は客 観的に明白な誤記,誤植または脱字が基準を越えて存在すると認めるときは,

その旨を申請者に通知する。修正再提出がなかったときは,教科用図書検定審 議会の議を経て不合格の決定を行うことができる。②上の手続を経た申請図書

にっいて,文部大臣は検定審議会に諮問し,その答申にもとづき検定の決定ま たは検定審査不合格の決定を行い,申請者に通知する。ただし,修正後再度審 査を行うことが適当だと検定審議会が認めた場合には,決定を留保して検定意 見を申請者に通知し,検定意見に従って修正した申請図書については,検定審 議会の答申にもとづき合格・不合格の決定を行い,申請者に通知する。③文部 大臣が不合格の決定を行おうとするときは,不合格理由を申請者に事前に通知 するものとし,反論書の提出がないときは不合格の決定を行い,反論書の提出 があったときは検定審議会の答申にもとづき合格・不合格の決定を行う。以下,

省略。(以上は,平原春好『教育行政学』一九一〜一九二頁)。

2・3 教育の公共性概念の類型

 教育のこうした法的規制が教育の公共性の概念によって正当化されるもので あることはこれまで述べてきたとおりである。しかし,教育の公共性の主張が 教育の国家統制となり,教育の政治的支配および利用に陥る危険性をもっこと は,教育史上の教訓である。この点から,わが国の教育に関する法的規制の具 体的内容がはたして教育の公共性の概念によって正当化しうるものかどうか,

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常に慎重で,批判的な検討が必要であろう。たとえば,教科書検定制度をどの ように評価するかということ。

 ここで,改めて教育の公共性とはなにか,という問題が浮上するのである。

 最高裁による教育の公共性の理解は単純明快である。教育には公共性があり,

公共性とは国民の意思を代表する議会での多数によって支持された理念に従う ことである,というのがそれである。

 「憲法上,国は,適切な教育政策を樹立,実施する権能を有し,国会は,国  の立法機関として,教育の内容及び方法についても,法律により,直接に又  は行政機関に授権して必要かっ合理的な規制を施す権限を有するのみならず,

 子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益のためにその  ような規制を施すことが要請される場合もありうる」(最高裁学テ判決)。

 他方,教育の私事性の主張,すなわち教育は私事であり,その内実は当事者

(ここでは子どもと親のことだが)の求めるものにのみ従うべきであるとする 主張は,これらの法的規制のあり方を根本的に問い直すものとなる。もっとも 教育を私事として把握したからといって直ちに教育に対する法的規制の撤廃が 主張されるわけではない。この観点からすれば,教育制度に対する法的規制は 教育を求めるものの利益を損なう虞を除去するものとしてのみ意義をもっこと になろう。たとえば,不当表示の禁止とか,危険な商品の販売を禁止する法的 規制にも似たものとなろう。こうした観点からは,教育行政が担う公共性は,

教育の公共性を直接体現するといったこととは別の意味で,すなわち私事を保 障するという公共的責務といったものとなる。こうした観点からもっとも重要

となる法的規制は,教育の機会均等の保障および学校教育の質を維持するため の条件の整備に関わる諸規制であろう。

 さらにここまでは意識的に私事としての教育と教育の公共性とを対立的に理 解してきたが,私事としての教育の主張には,私事として教育を理解すること

によって,むしろ教育の公共性の主張者がいうような公教育の目的をよく達成 できるという含意がある。それは,前回紹介したクーンズの言葉にはっきりと みることができよう。

 こうした私事としての教育の含意を一歩進めて,教育の公共性の概念自身を,

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「教育行政及財政」講義(下) II

そうした方向から再把握しようとする試みも存在する。「親義務の共同化=私 事の組織化としての公教育」という主張がそれである。この考え方にっいては すでに第II部で触れたところである。それは教育の公共性が私事としての教育 と質を異にするものではないという主張(したがって教育の公共性の言葉によっ て私事としての教育を制限しうるという発想は成り立たないという主張)から 出発して,しかも私事そのままではなく,新たな公共性の内実を創造あるいは 構想しようとする試みである。この論の主張者は,それを「一人は万人のため に,万人は一人のために」という精神の実現と述べ,共同保育所運動を例にとっ て,親と専門家集団との協同による公教育=学校の創造であると語っていた。

この私事の組織化としての公教育という観念は,いわゆる国民の教育権論の鍵 ともなる理念となり,大きな影響力をもっにいたった。しかし,その言葉それ 自体はあまりに空想的であろう。この主張は,事実上,私事としての教育を専 門家集団に委託するという論理によって,あの「強い学校」を作り上げようと する試みなのだと理解するのが妥当であろう。

2・4 公教育の新しい概念

 一九六〇年代半ばのアメリカ教育政策の構造的転換のなかで,ジェンクスは,

公教育の概念にっいての新たな定義を提案している。それは大都市の公立学校 制度の衰退一一親の不信感増大と官僚主義による硬直化など一一のなかで,公 教育の課題を担いうる公立学校制度の再生を求めるものであった。

 ジェンクスは,次のように主張している。

 「公教育の概念は公立学校であるか私立学校であるかという点にではなく,

 その教育活動の実質が,いかに広く人々の要求に応えているかという点に基  準をおいて考えられるべきである。

  (伝統的な公教育の概念は)学校を,いかに運営されているかではなく,

 誰が運営しているかという観点から分類してきた。…われわれは,もし学校  が非差別的な基礎の上に誰に対しても開放されており,授業料をとらず,関  心をもっ人々に対して完全な情報を提供するならば,その学校を公的なもの  と呼ぼう。反対に,希望者を差別的な方法で排除し,自らにっいての情報を

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 隠すならば,そういう学校はどんなものであれ,私的な学校と呼ぼう。…も  ちろん,誰が管理しているかという問題は,学校を分類する際に完全に無視  するというわけにはいかないが,学校がいかに運営されているかという問題  よりはかなり重要度が低いと思われる。」(黒崎勲『学校選択と学校参加』東  京大学出版会,三二頁参照。)

 これは公教育を制度的実態から分析するのではなく,機能から分析する試み とも考えることができる。原さんのレポートに,「学校教育によるよりも親の 家庭教育や私教育による方が本当に子供の利益につながる,ということが客観 的に判断される場合においては,こうした私教育の自由が認められてよいはず である」という一節があった。教育の公共性の主張される根拠が「将来の市民 たるに必要な教育を子女の社会的出自の差異にもかかわらず平等に提供する」

(ウォルッァー)というところにあるとすれば,この公教育に課せられた課題 をよく果たしているものこそ,公教育であり,教育の公共性の担い手という事 になろう。制度的実態を根拠とする伝統的な公教育の概念が,国家や地方公共 団体といった公共機関が管理される教育を公教育と呼ぶという論理をもっのに 対して,機能を根拠とするジェンクスなどの新しい公教育の概念は,学校の実 際の働きの結果に即して,公教育であることの判断を行うのである。では,そ の判断はどのようにして可能になるか。この問題は,難問である。

 増田君が<「教育制度や内容の基本的事項を法律で定め,立法による監督を 行う」といった論理が市民社会の力学に対応できないものとされるほど,市民 社会の中での教育行政という位置づけは難しいことがうかがわれる〉とレポー

トに書いたように,市民社会の動態の中で,これまでの公教育概念が揺らいで いるというのが,この講義のポイントです。朝永君が言うように,市民社会の 動態とは人々の動いている姿を指すものです。制度的実態を根拠にする議論を,

朝永君のいう「制度寄り」,機能的な観点からの議論を「もう一方の側面」と いう言葉に充てることができるように思います。

 市民社会の動態の中で教育行政のあり方を問い直すという,この講義の基本 的観点からは,公教育の概念あるいは教育の公共性の概念もまた,こうした機 能的分析という方法によってはじめてその意味を把握しうるものとなるという

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「教育行政及財政」講義(下) 13

結論が導かれてきます。さらには小坂さんのレポートにあるように,一っ一っ の権利や当事者(親や教師など)のあり方というよりも,それらの関係をどの ようにっくりあげていくかという接近方法こそ重要なものとなってくると言っ て良いでしょう。

2・5 私立学校の法的性格

 日本における私立学校の性格にっいて,公教育の範囲に属するかどうかとい う質問をしましたので,一応の正解を紹介しておきましょう。

 教育基本法の第六条には,次のような規定があります。

  第六条(学校教育)法律に定ある学校は,公の性質をもっものであって,

 国又は地方公共団体の外,法律に定める法人のみが,これを設置することが

 できる。

  ②法律に定める学校の教員は,全体の奉仕者であって,自己の使命を自  覚し,その職責の遂行に努めなければならない。このためには,教員の身分  は尊重され,その待遇の適正が,期せられなければならない。

 この規定を根拠として,私立学校もまた公教育であると考えるというのが,

現行教育法の解釈として定着しているといえる。ところで,日本の現行法制に おいて公教育の範囲が問題となるのは,憲法八九条に以下の規定があるからで ある。すなわち,「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは維持のた め,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支 出し,又はその利用に供してはならない」と。これによって,私立学校が公の 支配に属するものかどうかが,私学助成等において争われることになる。この 点で,私立学校法五九条には,国又は地方公共団体は,教育の振興上必要があ ると認める場合には,別に法律で定めるところにより,学校法人に対し,私立 学校教育に関し必要な助成をすることができる,との規定がある。

注 前期講義ノートについての受講生の感想

 19人の人から宿題が提出されました。読んでみて,勉強になりました。それ ぞれずいぶん違ったタイプのレポートとなっているので,全体として,という

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言い方は難しいのですが,苦労して講義ノートを読み,工夫してレポートを書 いた様子がうかがえました。

 本文中でもいくつかのレポートに言及しましたが,それは今後の講義の進行 との関わりで取り上げたのであって,これら以上に重要な論点を提起している

レポートもありました。各レポートの主たる論点を列挙してみます。

1 特に印象に残ったのは,三八頁前半の議論,っまり,現実に起こっている 問題をすべて教育行政の責任にすることに対する指摘である。この指摘は,非 常に的確である。…ただ,そこから「教育行政の挑戦」へと流れることには,

やや違和感を覚える。…文部行政に対しては,やや的外れな挑戦が多いのでは ないかと,私は思う。

2 「先行研究の批判から自らのテーマを見出す」との指摘には強く心打たれ た。私は,ある文献を読んで納得することこそあれ,それを現代の社会が抱え る問題と照らし合わせて課題を問い直すといった批判的な読み方ができないで いる。…目の前に出されていることを比較する「何か(すでにある知識)」が ないことが,ここでも証明される。

3 感じた疑問は,「なぜ教育は難しい問題になるのであろうか」ということ です。…今日の社会の中で教育というものは,どうして難しいのかということ を考えてみたいと思います。その一っには民主主義という,内部に競争原理を 持っ制度の中での教育の権利化ということ…現代国家の中で,教育行政と言う ものが存在するという時点においてすでに教育問題というものは複雑にならざ るをえない。

4 教師への絶対的信頼など全くといってよい程存在しないし,現代の社会の 内でその様なものが必要だとも私は考えない。/教育政策は権力が支持する教 育理念であると宗像氏は述べているが,その教育理念とは社会が,国民が支持 するものと言うことは出来ないだろうか。これは極論かもしれないが,戦前の 軍国主義のもとでの教育政策ですら,権力側の一方的な押しっけのみで実施さ れていたとは言い切れないのではないだろうか。/教科書検定について実は特 別悪い印象を持った事がない。…(教科書)以上に他の本などから得た情報か

ら受けた影響の方が,かなり大きなウエートを占めていたと確信している。

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5 「行政」は,すべてが自分たちの思いどおりになると過信してもいけない が,「内外区分論」に縛られて手をこまねいていてもいけないと思う。すべて を「行政の責任」にするのもどうかと思うが,例えば今,厚生省が糾弾されて いるのは「何も手を打たなかった」からなのであり,なんらかの手をうっこと は悪いことではないと思う。

6 「教育制度や内容の基本的事項を法律で定め,立法による監督を行う」と いった論理が市民社会の力学に対応できないものとされるほど,市民社会の中 での教育行政という位置づけは難しいことがうかがわれる。

7 一っの基準に頼らず,より多面的な評価を行える教育が現れれば良いのだ ろうか。上の提言は美しいが,理想に走っていて実現が難しいと思われる。な ぜかというと,集団というのはだいたいある目的のもとにっくられていて,そ ういった中で集団の一員として生活している以上,ある程度の序列づけや評価 が存在するのは仕方のないことだと私は考えるからである。…義務教育を今よ

り縮小する事で改善できると考える。

8 随分と頻繁に法が登場してくるものだ,というのが当初の率直な感想であっ た。…教育行政を考えていく上で法が参照されるのは当然のことであろう。し かしそもそも,こういった一種の違和感のようなものを私が感じたのはなぜだ

ろうか。それはまさに,「教育」に関することといったときには理想的なこと として語られるはずだ,といったような感覚がどこかにあったからなのだろう。

/忘れてはならないのは,この「市民社会の動態の中で」というコトバである。

この社会の中のものとして教育を現実に考えていくときの,制度寄りでないも う一方は,まさにこの側面であると思う。「市民社会の動態」といったとき,

そこには制度的なものというよりも,まさに動いている人間そのものを私は感

じる。

9 親は子供の学校教育についてどのような権利をもっているのだろうかとい うことを考えさせられた。…学校教育によるよりも親の家庭教育や私教育によ る方が本当に子供の利益にっながる,ということが客観的に判断される場合に おいては,こうした私教育の自由が認められてよいはずである。…親は学校や 教師の教育においての過ちに対して,責任を追及することを認められているの

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だろうかということにも考えがおよんだ。例えば,不適切な教育に対しての責 任,不適切な教育評価に際しての責任などは実際どうなっているのだろうか。

教育の考え方が悪いといった学校側の問題から生じた教育成果に対して,親は 学校や教師に責任を問うことができるのだろうか。

10教育権論を理解するにあたって明快だったのは,教師の教育権と親の教育 権の権利関係がいかにあるかという問いに親から教師への信託,委託によって 成り立っているという,親の教育権は教師の教育権を正当化するための論理的

な媒介としてのみ位置づけられていることであった。…今,本当に教育権をもっ ているのは親だけのような気がする。…いっそのこと親だけに教育権を与えて,

信託する教師も親が決めればいいとさえ思う。…市民社会が欲する教育を教育 行政がむしろ受動的にその役割を果たせばいい。そういう時代だと私は思って

いる。

11親は教師や学校を信頼して,自分の子どもを預けるわけですから,教師や 学校の教育活動に疑問を感じたら,積極的に意見を出すべきです。しかし,そ

のような問題を生み出してきた状況に,自分たちく親〉が子どもの教育を教師 や学校に任せきりで,いざ問題が生じると,教師や学校を徹底的に責めるといっ た,親による教育の放置を忘れてはいないでしょうか。…子どもの教育に責任 を持っ親と,その親に子どもの教育を信託されたく専門家〉としての教師の両 者が,互いの責任を自覚しながら,歩み寄り,教育について語り,考える場面,

あるいは機会があまりに少ないと思います。

12本来の教育委員会の姿,教育の民衆統制の原理の鍵としての役割を知り,

驚くと共にそれが,徐々に骨抜きにされ,変質されていった事に対して,残念 な気持ちにならざるをえませんでした。

13内外区分論というものの考え方には,納得できるし,現実化されれば,日 本の社会も変化していくと漠然とは思っている。しかし,それを具体的に考え

られないのは,たぶん,社会の変化の予想がっかないからであると思う。…政 治・経済・文化→教育行政→教育活動の場という権力の移動は有効にさせても,

そのベクトルを逆方向にかえることはできないのが現状ではないか。

14 教科書を実際現場で使う教師にとっては,扱いたい内容を扱いたいように

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「教育行政及財政」講義(下) 17

扱えるのが一番なのではないかと思う。教育は,基本的に人と人との関係から 生まれてくるものであると同時に,その人が社会にでてからのことをも対象と していなければならない。ここに,教育という概念のもつ最大の,そしてその ほとんどの問題の原因となり解決を妨げているパラドックスがある。

15 「教育を観念的に捉えすぎる」という自分の癖のひとっを発見出来たのが 収穫だったと思います。

16 教育にとって重要なのは,被教育者を取り巻く社会的環境であるというこ とがいわれている。まさにそのとおりだと思うのだが,このような事実はなか なか気づきにくいものである。

17私は講義の「はじめに」の部分を読んだとき正直いって驚いた。教育政策・

教育制度改革が公立学校離れの引き金になったことに対してでなく,公立学校 離れという現象が存在することにである。小中高大とすべて公立学校で通して きた私にとって公立学校離れという現象はいまいちぴんとこない。…学校とい うものはあらゆるタイプの子どもに共通の教育を行うことが理想とされてきた わけで,公立学校制度はそれを実現する使命を担ってきたのである。

18人は生まれた以上どうしたって生きていかなければいけないわけだし,そ のためには学習が必要。…こういう至極当然のことをあらためて壇上から権利 だと叫ばれても,今の私にはそれより先に進めません。あまり関係ないですが,

私は,何から何まで権利だと主張している最近の風潮はすごく危険だと思って

います。

19 印象に残った部分は,教育制度の機能に言及した所で,…最初はここで違 和感がありましたが,それは多分,私が今まで教育の目標や課題を社会とのか かわりを考慮に入れないで見てきたので,少なからずの抵抗があったように思

います。

3 教育の公共性の構造 3・1 公共性概念の構造

なにが公共性の名に値するかという問いは複合的な問題にわれわれを導くこ とになる。私信(たとえば,ラブレターのようなもの)を相手に届けることは

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私事に属することであり,公共的なこととはみなされない。しかし,すべての 人が公正に利用できるような,私信を安全に届けるための郵便制度を設けるこ とは公共的な要請といえるだろう。公共性とは,その事柄が私事を越えた何物 かであるという要件によってのみ成立するのではなく,一人一人の私事に属す ることであっても,その達成を平等に,あるいは公正に支援する場合,それは 公共的な要請に従ったものと観念されうるのである。「人間が集団に組織され,

社会的存在として生活する」あるいは「どのような目的を達成するにも,どの ような目標に到達するにも,人間は組織をっくらなければならない」と先に述 べ(12頁),そのことは,私事を越えた,社会の文化的要求というものを派生 させ,教育制度にも「人的素材を更新・形成・訓練する」という派生的要求を 課すことになっているということを指摘した。しかし,公教育ないし教育の公 共性を,こうした派生的要求に対応するものと理解するだけでは,公共性の一 側面を把握するに過ぎないということである。一人一人の,私的な,いわば基 本的要求を充足すること自身が社会を作り上げる必要の根拠であったのだから,

私事に関わる事柄もまた公共性の対象となるのは当然であろう。教育制度にお いては,とりあえず,充分な質の教育の機会を公正に保障することがこれにあ たるといえるだろう。たとえば,公共的な関与によって実施される義務教育の 問題は,社会を維持し,機能させる派生的要求からその意味が理解されるだけ でなく,子どもひとりひとりの成長の要求を公正に保障するという点からもそ の意義が理解できることになる。

3・2 公教育概念論争の整理と課題

 このような公共性概念の構造に注目するならば,先に取り出した公教育概念 をめぐる論争も,違った様相をもっものとなるだろう。文部行政の公教育理解 は社会の派生的要求に従うもののみを公共性の名において把握し,前者の観点 から,っまり公教育をこうした社会再生産に機能する観点から一元的に理解す るものとみることができよう。であればこそ,かってこの立場は,これに反対 する人々からではあるが,国家の教育権論と呼ばれたのであろう。これに対し て,私事の組織化としての公教育の主張は後者の観点から教育の公共性を捉え

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「教育行政及財政」講義(下) 19

るという理解を出発点にしたものといえよう。国民の教育権論と自ら名づける この立場の教育学説が,「教育の私事性」の観念を土台としていたことは明ら かである。こうしてここで展開される教育の公共性の概念はいずれかが正しく,

いずれかが誤りであるといったものというよりは,それぞれ公共性の別の側面 に注目するものであったといえるだろう。

 もちろん,公共性概念の二重構造に対応して,この両者の公共性の主張自身 もまた複合的な内容をもっことになっている。いわゆる国家の教育権論も,一 人一人の親の委任を国家が受けるという論理構成を採用するという点では,公 共性の概念を後者の観点から導こうとするものといえる。この点に注目して,

もはや国家の教育権論と呼ぶことは誤りだとする説が登場することになる。一 方,国民の教育権論もまた教育の私事性を主張するだけではなく,私事の組織 化によって新しい公共性の創造を標榜するにおよんで,社会の派生的要求に対 応する公共性の観点を含むもののようにもみえる。しかし,その内容は,こう

した公共性概念の複合的な構造に着目し,公共性概念の二重性といった観点か ら自覚的に整理されたものではなかった。多くの場合,公共性概念の複合的な 構造は十分に考慮にいれられず,前者の観点と後者の観点が対立する公教育の 二っの概念として,いずれが正当な公教育の概念かを争うものと位置づけられ ることになっている。この結果,教育の公共性の概念は,教育行政の理論と実 践における重要な概念とされるにも拘わらず,かえって問題の解明を妨げる概 念となり,いたずらに議論を争論的,対立的なものとする原因となっていると

いってよいかもしれない。

 こうした公教育概念のもっ二重性という構造に自覚的な立場に立っときには,

これまで教育の公共性ないし公教育の概念をめぐる問題とされてきたものは,

二っの課題に分節化され,新しい角度から検討されるべきものとなるように思 われる。第一の課題は,教育権をめぐる問題であり,これは教育の正統性の問 題となるだろう。っまり,誰が子どもの教育を行う権限をもっているのかとい う問題であり,どのような根拠をもって教育活動は正統なものと呼ばれうるの かという問題である。現実の姿に即していえば,「なぜ」,そして「どのような 活動内容において」国家は教育に関与することが認められるのか,あるいは認

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められないのか,そして国家の関与を否定する場合には,では誰が,どのよう にして,特定の教育のあり方を決定しうるのかという問題である。第二の問題 は,公共性の二重の構造に対応しうる公教育制度を構成するメカニズムの問題 となるであろう。ここでは,実際にどのような条件と構造をもった関係が教育 制度として成立するときに,教育は実際に子どもの利益に適ったものとなるの かという関心から「制度としての教育」ヘアプローチすることになるだろう。

 ジェンクスが公教育概念の転換を求あたのは,上記の二っの課題に照らして 公教育の意義を問い直すことを主張したものとも理解することができる。国家

を初めとする公共の機関が設置・管理しているということがその学校の公共性 を保障するものではないという主張は,まず,「なぜ」,「どのような意味で」,

公共機関が教育を設置・管理することが正統なのかという問題を検討すること の必要性を提起するものといえた。また,実際に公共性に適う営みを実現して いるときにそれを公教育と呼ぼうという主張は,「公共性に適う」かどうかの 判断の基準と主体(あるいは手続)を明らかにするという理論的課題を提起す るものだが,(その都度その都度の個別の判断でしかなくなるという事態を避 けようとすれば,)公共性に適うような教育制度のあり方(条件と仕組み)を 研究するという課題に帰着すると思われるのである。実際,ジェンクスは上記 の公教育概念の転換にっいての問題提起につづいて,学校選択制度という,新

しい学校制度のあり方を提案したのである。

V 教育の正統性とアカウンタビリティ 1 教育の正統化

1・1 教育権論と教育の正統性

 教育権論の提唱において,宗像誠也は,「教師は,いったい何の権利があっ て,人の子を教育するなどという大それたことをしているのか」と問いかけて いた。この問いこそ,教育の正統性に対する問題提起ということができよう。

宗像は,この設問に対して,「教師が真理の代理者たることにもとつく,とい うほかないと考える。真理の代理者とは,真理を伝えるもの,真理を子どもの 心に根づかせ,生かし真理創造の力を子どもにもたせるもの,というような意

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味である」という解答を与えたのである。この教育の正統性への解答が,先に 紹介した「強い学校」という学説をなすものであることは言うまでもないだろ

う。同じく教育権論の議論において,堀尾輝久のいう「親義務の共同化」は,

まず,学校を親の教育権の信託を受けるものとして正統化しようとするもので あったといえよう。この論理はそのままであれば,<学校教育の意義が保護者 の意図の通りに子女を教育することであり,その限りでの私事の組織化にすぎ ないのであり,保護者の代理人にすぎない教師は保護者の指令に従うべきであ

り,技術的裁量を除けば教師に固有の自由を認める理由はないという論理に帰 結する〉と長谷部がいうようなものである。

 しかし,国民の教育権論は教師の権利を積極的に擁護するものであった。で は,この堀尾の理論から教師の教育の自由を導きだすのは,どのようにして可 能になるのだろうか。堀尾は,学校を正統化する親の教育権が必然的に専門家 教師に信託されるとする。この親の権利の教師への不可避的な信託という観念 によって,教師の自由が導きだされるのである。しかし,ここでは教育(学校)

を正統化する根拠が厳しく問われているという問題感覚が希薄であるといえよ う。先にこの論理構成の問題点として親の教育権と教師の教育権とを予定調和 的に関係づけていると批判的に指摘したのは,このとである。

 他方,国家の教育権と呼ばれることもある国・文部行政における教育の正統 化の論理は,長谷部のいう「国家が教育を通じて同質の国民を形成するという 共和主義的発想」に立っものといえよう。さらにそれは実定法に明文の根拠を

もっという論理を前面に主張されている。「国は,適切な教育政策を樹立,実 施する権能を有し,国会は,国の立法機関として,教育の内容及び方法にっい ても,法律により,直接に又は行政機関に授権して必要かっ合理的な規制を施 す権限を有するのみならず,子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社 会公共の利益のためにそのような規制を施すことが要請される場合もありうる」

との判例は,現行法規によって教育が正統化されるプロセスの解釈であったと いうことができる。いずれにしても,こうした正統化の論理からは,教育活動 を具体的に担う各学校の教師が国家の強制するイデオロギーから離れて自由な 教育を行う権利は,教育上の特殊な性格を考慮すべき問題処理の範囲(たとえ

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ば言葉の正しい発音をどう教えるかなどの問題はきわめて分かりやすい例とな ろう)を越えては,否定されるはずである。

1・2 教育の正統性の危機

 ささやかな一例として,次のような事例を検討して見よう。東京都内のある 市において,新設校にPTAを設立する動きがあり,その準備過程として学校

と父母との連絡会がつくられていた。ここで学校の姿を親に伝え,学校と家庭 の協力関係を培うために,教職員の写真を載せ,あわせて一人一人の教育にっ いての方針・抱負を掲載したニュースを発行した。このニュースは父母には大 変好評で,連絡会で中心的に活動した父母の間にも一年間の活動の大きな充実 感があった。翌年の連絡会の活動計画では,このニュースの発行がまず第一の 課題となって,新学期から準備が始まったという。ところが,ある日,突然,

写真を載せ,一人一人の教職員の教育にっいての考えを掲載するニュースは無 意味なので発行には協力しないということが,職員会議の決定となったと連絡 会の父母メンバーに伝えられた。これによってニュースの発行は不可能になっ

たのである。

 ここで起きている問題は教育の正統化をめぐる問題である。ここでは職員会 議が学校としての意思決定機関とされ,<学校教育は親の信託にもとつく教師 の専門的判断によって決定されるもの〉と,教育が正統化されているのである。

これに対して親の側の不満は,個々の教育活動の成果に対して向けられている というよりも,このような学校教育活動を正統化する論理とプロセスとに向け られているいうことができよう。学校の正統性の危機をもっとも代表する事例 のひとっは不登校の問題として現われている。不登校問題が学校を嫌がる怠学 児童生徒の問題に解消されてしまうことはもはやないだろう。しかし,これを 学校の正統化の危機と見ることも,必ずしも定着した見方とはいえない。

 公立学校,とくに公立中学校を忌避して私立中学校への進学がブームになっ ている。私立学校に対する公立学校の「競争力」の問題が問われているという 見方が間違いだというのではないが,これを学校の正統化の危機と見ることな しには,事態の十分な理解には行き着かないだろう。もはや学校は個々の教育

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「教育行政及財政」講義(下) 23

成果において問われているのではない。学校の事実上の管理と運営を独占して きた現行の体制は,単なる非効率という点から非難されているのではなく,誰 の意思にしたがって教育が行なわれるべきであるのかという点において,批判 的に問いなおされているのであろう。学校選択の理念がアメリカおよびイギリ スにおいて,教育改革の鍵的な理念となっているのは,そうした学校教育活動 をめぐる正統化の危機を前提としている。情報公開を求める運動の高まりのな かにも,同じ動きが含まれていると思われる。

1・3 学校のアカウンタビリティ

 学校の正統化の危機とは,学校における教育活動を無条件,無前提的に善と する観念の衰退を意味している。伝統的なわが国の公立学校制度を支える精神

は,個々の学校の個別の状況には問題があるとしても,学校教育の活動が本質 的に善であるとするものであった。したがって,教育問題とは,こうした教育 の価値から疎外された人々および場所をいかに真の教育の場として回復するか というものとなっていた。学校の正統性が危機にあるとき,教育問題はもはや そのようには理解されない。ここでは,教育が不十分であることが問題となっ ているのではない。個々の教育の成果が具体的に問われているのでもないとさ えいえる。何が教育であるのかが問われ,さらにはく教育を無条件的に善であ

る〉とすることが疑われているともいえるのである。

 学校のアカウンタビリティという言葉は,次のような考えである。すなわち,

高度に分業化がすすんだ現代社会においては,専門家の役割が増大するが,そ れとともにその専門家の専門職業的活動の内実はともすれば一般公衆の関心か ら切り離され,専門家の活動の実際は一般公衆の目の届かない,閉鎖されたブ ラックボックスの中に閉ざされる傾向を帯びていく。それは専門性の名の下で 専門職業行為が空洞化し,堕落する危険をもっことを意味する。こうした状況 認識に立てば,専門家の専門的職業行為を一般公衆に責任あるものとさせる意 識的な方法の探求が必要となる。アカウンタビリティとはく責任〉という意味 の言葉だが,ここでは特にこうした専門家の職業的行為の責任を意味するもの である。〈やぶ医者〉というのは,アカウンタビリティを果たさない医者のこ

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