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教育財政研究入門

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教育財政研究入門

黒 崎

1 教育財政研究の意義および課題

A 堀尾輝久はその後の日本における教育制度理論の枠 組を決定づけるにいたった論文「公教育の思想」におい て,その検討を総括して,次のように結論していた.

 「それ自体意味ありげな公教育という用語(したがっ  て私教育という用語)はほとんど何も限定していない  ことになる.だから,このような曖昧な用語を教育学  上の分析的カテゴリーにすることは不適当だといえよ  う.ただすべての公教育に共通しているもう1つの要  素である公費教育ないしは公立学校教育は,それ自体  分析の対象でもある。

  『公費』はそれ自体思想性をもった用語である.な  ぜなら,公費(租税)は,人間労働の変形されたもの  である.だから『すべての人間の普遍的権利』であり,

 『幸福な生存』のための『普遍的な道具』としての教  育を,労働者・大衆(国民)全部が受けるためには,

 多数の学校が不可欠であり,公費による学校がもっと  もふさわしい.さらに,権利思想に支えられた公費教  育の思想は,必然的に,世俗性と無償性の原理を生み  だしてくる.しかし,公費(租税)が国王の私有物で  あったり,特権階級に当然の権利として帰属するとい  うような公費観(絶対主義的)に立てば,公費教育も,

 支配階級の慈恵にすぎないということにある.これと  同列の発想の中で義務(強制)教育観が生まれ,無償  性は,義務性の系として位置づけられる.そして,世  俗教育ではなく,カテキズム(政治的カテキズムをふ  くむ)が肯定される.このようにみてくれぽ多様な公  教育の質を規定する1つの規準は,それが,どのよう  な公費観をもっていたかということと密接に連関して  いることがわかる.公費それ自体の本質究明,および  公費観の変遷をたどる仕事は,教育思想史の研究上も,

 また,教育学のカテゴリーづくりという基礎的作業に  とっても重要であり,その解明は豊かな成果を予想さ  せる」(1961:47〜48).

 教育財政研究の領域において最も独創的な研究方法を 提示したと見倣しうる五十嵐顕は,後に,この堀尾の指

摘について,次のようなコメントを与えていた.

 「堀尾論文はいう.『公費は,それ自体,思想性をも  った用語である』/公費,すなわちその現発展形態の  国家教育費をも貨幣教育費の教育外的性格のものとし  て理解しようとしてきた私にとって,堀尾論文の公教  育費観点はまずは衝撃であり,ついで私の理論的反省  をよぎなくさせる導きの糸であったといわねぽなら

 なし、」 (1973:134).

 ここでの教育財政研究も,この点から出発したいと思 う.とすれば,教育財政研究の第1の意義は,教育費が 教育制度・教育行政諸関係を最も明確に表現する対象で       むあるというところに見出される.さらに第2の意義は,

その教育費が思想性をもった対象,いいかえれぽ理念を 内に含む対象であり,したがって,教育費をめぐる分析 は教育制度・教育行政諸関係の,すすんでは教育そのも のの質的内容に深くかかわるものとなりうるというとこ ろにあるということができよう.

 B 国家が教育において権威を確立し,特定の政治と 教育の関係を公教育制度として創出することに成功する のは,公教育費を組織し,支配することを媒介にしてで ある.公教育制度における国家の地位が厳しく問われて いる教科書訴訟において,被告・国が次のように自らの 地位を正当化しようとしていることは,このことの1つ の例証であるといえよう.

 「公教育制度を必要とするにいたったのは,個々の国  民が子どもを理想的に教育することは不可能になった  ことによるものであるとするならば……公教育制度は  国家が単に公教育としての学校教育の施設を提供し,

 その中において個々の国民が教育の自由を行使すると  いった趣旨のものと解することは不合理である.すな  わち,国民はみずから行なうことのできなくなった教  育の一部を他の者に付託し,その付託された者を介し  て公教育を実施するのである.そして,この教育を付  託されたものは,まさに国家であるといわなけれぽな  らない。」(東京高裁民事第一部の控訴理由書〔r家永  ・教科書裁判 高裁篇1』〕)

(2)

 公教育費の問題の理論的解明は,公教育理論,政治と 教育の関係の理論的解明,あるいは教育政策の分析にお いて,中心的な位置を占めることになると思われる.逆 にいえば,公教育費の国家的制度の不可避的存在が,政 治と教育の関係についての理論的問題を必然的なものと しているともいうことができよう.

 教育費の問題を単に教育の条件の整備の問題とのみ把 握し,家計の経済的負担の問題と把握するにとどまるの ではなく,教育費が教育の質的内容あるいは教育的価値 に深くかかわるものとして,したがって,教育費の分析 をとおして教育諸関係の最も基底にせまることが可能と なるとする観点から,教育財政研究をすすめていきたい というのが,ここでの教育財政研究の仮説的な出発点で

ある.

II 教育財政制度の概要

A 教育費

 教育をおこなうために必要な人的物的諸条件を整える ための経費を教育費と呼ぶ.負担者の側面からは,<国 の教育費・地方の教育費・家計の教育費〉,<公費・私 費〉,<国家的教育費(国および地方財政中の教育費)

・社会的教育費(私立学校の教育費)・個別分散的教育 費(家庭の教育費)〉等の分類がなされ,支出内容の側 面からはく学校教育費・社会教育費・家庭教育費〉,

〈学校教育費・社会教育費・教育行政費〉,〈消費的支 出(人件費・教育研究費・管理費等)・資本的支出(土 地建物費・設備備品費・図書購入費等)〉等々に分類さ

れる.

 教育投資論は義務教育以後の教育機会を得る者が仮に 進学せずに就職していた場合には稼得したはずの所得

(放棄所得)をも教育費と見る.発達に影響を与える家 庭環境も潜在的に教育費と見倣しうる.教育的文化的に 貧困な家庭環境にある児童生徒の不利益を補うための補 償教育政策における教育費支出の内容には健康診断およ び医歯療サービス,家庭生活を改善するためのケース・

ワーク,レクリェーショソ活動の費用が含まれている.

 教育費負担の原理としては,教育のもたらす利益を公 的なもの(社会全体の経済的政治的文化的発展への寄与)

と,私的なもの(個人の生涯所得の増加への寄与)とに 二分し,私的利益に対応する部分は受益者である学生・

生徒およびその家庭の負担とすべきであるという考え方

(受益老負担主義)と,教育を受ける権利の保障および 教育の機会均等の実現のために,学校教育費と社会教育 費のすべてを公費負担とすべきであるという考え方(無 償教育=公費負担主義)がある.日本国憲法26条は「義

務教育はこれを無償とする」と規定したが,無償の範囲 が義務教育の授業料不徴収に止まるか否か,また,高等 教育の教育費負担のあり方に対して,この規定が如何な

る意義を有するかについて見解がわかれている.

 教育費の受益者負担主義は私的な利益の追求のための 教育という観念を助長するものであると見ることができ る.適性を無視した,偏差値を基準とした医学部志向の 弊害は,この典型である.一方,無償教育=公費負担主 義の原理は,教育の成果である学習者の能力の発達は社 会的公共的利益のために役立てられるべきであるとの観 念を促すという意義を現に発揮するとき,真に正当性を 得ることができるといえよう.

 最近,国・地方の教育費の運用の方法として,定額の 一人当りの教育費を個別の家庭に保障し,公私立いずれ の学校へ就学するかの自由を父母および学生・生徒に与 えるという提案(学校クーポン券=ヴァウチャー・プラ ソ)が一部でなされている(後に検討する).この場合に は,公費負担の教育費が受益者負担主義の教育費と同じ 機能をはたすことが意図されているといえよう.

B 教育財政

 国家・地方財政中の教育費に関する部分を通常,教育 財政と呼ぶ.アメリカ合衆国の教育財政制度では伝統的 に学区が準公共団体とされ,公立学校を運営するための 独自の課税(教育税:school tax)をおこなうことが認 められており,教育財政についての観念も発達をとげ,

日本の教育財政制度に強い影響を与えてきた.

 教育施設の経費は設置者の負担が原則とされる(設置 者負担主義).公立学校制度においては,義務教育学校 は市町村を,中等教育諸学校は都道府県を,大学は国を 設置者とするという原則が戦前の教育制度の下で早くか ら確立していた.市町村立高校,公立大学は,今日なお 例外的な存在と見られている.

 教育財政の財源は,授業料収入の外は,一般の租税に よるが,地方教育財政に対して国家財政から援助を与え る制度が発達している.この制度は国庫負担・補助金制 度と地方交付税制度とからなり,国庫負担・補助金は教 職員給与・教材設備・就学援助・僻地教育振興・学校教 育振興・公立文教施設整備・私立学校経常費助成・社会 教育・文化振興・体育振興・学校保健等振興・文化財保 存事業・文化財保存整備・その他に分類されている.こ の制度は教育についてのナショナル・ミニマムと教育の 機会均等の実現を目的とするものである.

 国家財政中,文部省所管の教育予算は文部省費・国立 学校費・地方教育費補助費・私立学校助成費・育英奨学

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費から構成される.

 旧教育委員会法(1948年7月〜1956年6月)の下で は,一般財政中の教育財政の独立性を高める方法として,

教育委員会による教育予算の原案送付権ならびに二重提 案権が認められていた,なお,教育財政において,財政 中立主義(丘scal neutrality)と呼ぼれるものは,地方教 育財政能力の不均衡によって生徒一人ひとりの教育の機 会の水準が左右されてはならないという理念であり,近 年,特にアメリカ合衆国の教育財政制度の改革理念とし て注目を集めている(足立英郎「アメリカ合衆国にお ける教育財政改革と教育の機会均等」『法律時報』1982。

10).

B−2 地方教育財政に対して国家財政から援助を与える 制度は,(1)特定の使途に対する国庫負担・補助金制度

と,(2)使途の特定されていない地方交付税制度とから構 成されている.

 補助金制度は義務教育費国庫負担金や義務教育諸学校 施設国庫負担金など地方公共団体に一律に与えられる一 律補助金と,産業教育設備費補助金・理科教育設備費補 助金・僻地学校設備費補助金など特定の教育目的を実現 するための奨励的補助金とに類別される.いずれの場合 も,補助金制度は一般に地方公共団体の財政能力に関係 なく定率ないし定額の国庫資金を支出し,またそれに見 合う地方財政の支出を求めるものであり,国と地方公共 団体との間の財政能力の格差(垂直的不均等)を是正す る制度と呼ぼれる.

 地方交付税制度は,地方公共団体の財政力と標準的な 行政活動をおこなうのに必要な経費とのギャヅプを埋め るために,各地方公共団体の財政力に応じて国家財政が 援助を与えるもので,地方公共団体相互間の財政能力の 不均衝(水平的不均等)を調整する制度となる.地方交 付税交付金による教育費は,生徒一人当り・一校当り・

一学級当りの,それぞれ定められた単位費用にもとつい て,いわぽ教育費の最低必要額として基準財政需要額を 算出し,他方で地方税法にもとついて算出する地方公共 団体の税収である基準財政収入額と比べ,収入の不足分 を,社会保障費・土木建設費など他の費目と一括して国 家財政から交付されるものである.この財源としては,

所得税・法人税・酒税の32%があてられることになって

いる.

皿 教育財政政策の理念および論理

A 教育予算編成に端的にあらわれる教育財政政策の理 念を最もよく理論化して提示しているのは日本経済調査

協議会報告書(1972)である.植村甲午郎,中山伊知郎,

水野重雄,岩佐凱美といった財界主脳が代表理事となっ ている日本経済調査協議会は,1968年,土光敏夫を会長 に,平塚益徳を主査として,長期的観点からみた教育の あり方を検討するための専門委員会を設置し,1972年 に,その報告書r新しい産業社会における人間形成』

(東洋経済新報社)を刊行した.教育研究者としてこの 委員会に参加したのは国立教育研究所の平塚益徳所長お よび市川昭午,天野郁夫所員(いずれも当時)と明治大 学の野辺忠郎教授である,

 目経調報告書は,教育財政の基本問題を,以下のよう に設定していた.

 (1)教育機会の増大,それにともなう教育費支出の増大   は,ほとんど専ら国民大衆の教育機会への欲求とい   う社会需要によって支配されてきている.あらゆる   面から検討して教育の社会需要は今後,加速度的に   増大する可能性こそあれ,減少するおそれは,ほと   んどありえないといえよう.

 ②教育サービスについては,一般商品における需給法   則一需要がたかまれぽ価格が上昇し,その結果,

  需要は衰退し,供給も増加して価格がおちつく一   は種々の介入要因によって阻止されてくる.需要が   たかまっても価格を上昇させることはむずかしく,

  他方,生産費用は上昇するが,それらの差額は公共   負担に求められることになる.

 (3)教育需要がますます増大し,教育サービスのコスト   は急速に上昇していくとするなら,当然,教育の総   費用は膨張する.その負担限界はどこにあり,それ   は一体誰が負担するのか.

 このように設定された問題に対して,報告書は,ま ず,公教育支出の最適基準および教育資源の教育部門内 部での配分基準について検討して,次のように結論して

いる.

 「国民所得のうち何%を教育支出にあてたらよいの  か,また,政府支出のうち,どの程度を教育費にさく  べきかという問いに対する一般的な答えはない.」

 「教育支出の最適化を目ざすといっても,他分野に対  する支出と(および教育部門相互での)バランスのと  れたものでなけれぽならないといった月並みなことし  かいえない.ただ,この基準は陳腐ではあるが重要な  ことである.」

 この,一見きわめて常識的な主張の中には,これまで 伝統的に教育財政上の価値理念とされてきた無償教育の 主張に対する次の2点の批判が含まれていた.

 (1)消費的見地からすれぽ,公共負担による教育〔つま

(4)

 りは無償教育=公費負担主義の主張〕は多ければ多  いほどよく,過剰生産ということはほとんどありえ  ないから,財政の許す限り教育費を支出すべきだと  いうことになってしまい,(公教育費支出の最適化  のための)基準を求めることはできない.

②教育政策は人口政策,産業政策,労働政策,所得・

 物価政策,社会政策などとの関連において統合的に  展開されなけれぽならない.単に教育費を増額でき  れぽよいといった予算分捕り的な考え方では,他の  分野における同じような態度との絶えざる軋礫を免  れず,結局,いわゆる「政治的」裁量による配分に  依拠するほかなくなる.

A−2 では,自ら設定した問題に対して,日経調報告書 が解答として提案する教育財政改革の構想とは何であっ たのか.一般的に,1960年代以降の日本の教育財政政策 の基調となった理念は,教育の成果を公共的な利益と私 的な利益との領域に区分し,公共的な利益のための教育 の経費は公的負担で,私的な利益のための教育の経費は 私的な負担で,というものであり,ふつう負担区分ない

し受益者負担の原理と呼ぼれてきた.日経調報告書は,

この前提に立ち,しかも,これをさらに徹底することを 企図するものであった.

 「義務教育については公費負担による無償財として配  分されるのが当然と考えられる. (中略)義務教育が  まさに義務教育たるゆえんは不可分的な社会的便益が  大きいからであり,したがって公費負担の割合は当然  大きくてしかるべきである.(中略)ただし初等教育  といえどもその便益がまったく社会にのみ帰し,両親  は負担だけということはありえないから,受益者たる  父母に費用の一部を負担させて悪いということはな  い.とくに検討に値するのは,給食費,医療費など就  学の有無に関係なく,当然,生計費に含まれる部分ま  でを公教育費として扶助するのは根拠薄弱であるとい  う点である.」

 「義務教育では原則として公共負担が妥当であるのに  反し,それ以外の教育,とくに高等教育については,学  生またはその家庭にフルコストを負担させることを原  則とすべきである.なぜなら……高等教育は現段階で  は決して必要財とはいえないし,これを享受している  のは相対的にいって富裕な階層だからである.(中略)

  相対的に裕福な家庭の子弟に大衆課税によって調達  された公費を支出するというのは公正負担の原則に惇  るといわざるをえない.それゆえ少なくとも教育費用  の大部分を自己負担とする方が社会正義に合致してい

 る.」

 こうした日経調報告書が教育財政政策の理念として,

固有に,積極的に主張しているのは,この負担区分の原 理を前提としながら,公教育費について市場原理を導入 して,教育費の過剰投資を防止し,かつ,その運用の効 率化を実現するということであった.

  要するに教育サービスの供給については,まったく  の自由放任主義をとることはできず,公共介入が必要  であることは否定できないが,それは政府が直接教育  サービスを提供しなければならぬということではな  い.それは民間の供給を財政的に補強することによっ  てよりよく達成できる.具体的には公費負担で民間経  営という構想である.

 (1)私学進学者にも公立進学老と同額の補助を与える.

  この結果,私立学校は財政的なハソディキャップが   なくなり,公立学校は競争の刺激を与えられる.

 ②私学進学を選んでも税金と授業料の二重負担に苦し   むことはなくなるから,国民は国公私立を問わず自   由な選択ができる.

 (3)国民の側に学校選択の自由が拡大されるのに見合っ   て,学校側にも教育の自由の幅が広げられてよい.

  教育の多様性,創造性,弾力性が保証されることに   なる.

 〔4)補助金は,父母に学校利用券(教育バウチャー)の   形で与えられるから,政府による教育統制の恐れは   ない.

 (5)補助金による振替所得は総合課税の対象に含めるか   ら,無償教育であってもマイナスの所得再分配には   ならない.

 (6)高等教育や専門教育は原則として資金貸付制をとる   から,一方では能力ある者に教育の機会を保障しな   がら,他方では過剰投資をチェックし,教育に対す   る社会支出の最適化をはかることができる.

 (7洛専攻分野ごとに貸与人員の枠を設定したり,貸与   条件に差をつけることなどによって,高等教育の拡   充計画を調整することが可能になる.

  (公費負担で民間経営という構想は)教育サービス  に関する消費者選択の自由と教育の自由な実験と創造  的革新を両立させ,教育機会の均等化をはかりながら,

 しかも過剰消費をひき起こさせることなく,教育支出  の適正と負担の公平を実現する方策といえよう.

 これが日経調報告書が提唱する教育財政制度の改革構 想である.ここで注意しておく必要があるのは,この改 革構想が教育費問題の検討において,所得の再分配機能 に相当な意義を与え,社会的不平等問題に対して,新し

(5)

い平等主義の観念を主張していることである.ここでい う新しい平等主義の観念とは,義務教育においては,環 境の不平等が一人ひとりの発達の機会に与える影響を重 視し,一人当り教育費の均等という内容によって定義づ けられる教育機会の平等な保障をもって平等の達成とみ ることはできないというものであり,高等教育において は,公費教育という一般的な形での無償化が上・中流階 級の受益におわるとするものである.日経調報告書が周 到な検討という印象を与え,単なる教育費の削減プラソ と断定することを許さないのは,この点に理由があり,

その社会的不平等問題へのアプローチは,ここでも,伝 統的な無償教育の主張に対する批判として,一面の説得 力をもちえているといわざるをえない.

B 日経調報告書を単なる言葉による欺隔とみること は,今日の教育政策の動向を正確に把握することになら ないであろう.なぜなら,この報告書の内容が教育財政 政策に関する新たな国際的動向を背景にしていたことは 明らかだからである.この新たな国際的動向の端緒をな したと見られる1960年代半ぽ以降に展開されたアメリカ 合衆国の教育政策については,たとえば次のように総括

されている.

 「すでにアメリカ社会においてはいわゆる『メリトク  ラシー(meritocracy)』(能力主義)の弊害が説かれ,

 r機会の平等』に代って『結果の平等(equality of  result)』を求める声が高まるなかで,このような平等  原理の転換がはじまり,とくに公民権運動の高揚を背  景に50年代末から連邦政府によって推進されてきた教  育・職業等々の領域における実質的平等の保障をめざ  す公共政策のなかで,かなりドラスティックな形で実  施されてきている」(田中成明,1974:92).

 アメリカ合衆国における,こうした新しい一連の教育 政策を理論化したJohn D. Owenは,伝統的な教育財 政制度に対して,分権化,無償教育,ミドル・クラスへ の偏向という3点から批判のメスを加えていたが,日経 調報告書がこの批判を参照していたことは明らかであろ

う.

 (1)教育財政の分権化

  大都市には絶えず貧困層を構成する人々が流入して   おり,大都市で貧困対策の特別の教育をうけた人々   はより豊かな郊外へ流出していく.こうして,教育   財政の単位が学区に細分化されている限り,貧困対   策としての教育財政支出(投資)は長期的効果とし   て産出(成果)を蓄積しえない.また,教育財政の   分権化は財政能力の学区間格差により教育資源の不

 平等な分配の原因となっていることは明らかであ  る.社会的不平等問題の解決に資するためには,教  育財政制度が連邦政府の主導性の下に一元化される  べきである.

②無償教育

 貧困層は授業料が無料化しても,生活費の援助を受  けなければ教育の機会を保障されない.実際上,授  業料の無料化はミドルクラスの利益にのみ役立って  いる.ミドルクラスは初等教育についても授業料を  払うだろうし,彼らの多くは高等教育の費用の全額  あるいは大部分を払うことができるだろう.その分  を貧困層の教育機会の保障のために用いるべきであ  る.家計調査を採用し,家計の必要に応じて援助す  るという方法が民主的であり,そうすることによっ  て,今と同じ教育費でずっと多くの貧困対策のため  の教育財政の財源を確保することができる.

(3)教育行財政のミドルクラスへの偏向

 有能な教師がミドルクラスの有能な生徒を教え,貧  困な地域の学校建築が古いままで放置され,富裕な  地域の建築が新しく建て直されている.公立学校の  平等主義は実際上はミドルクラスの利益に偏向した  不平等な資源の配分として機能している.

C 日経調報告書の教育財政政策ないし制度の改革構想 を公教育費問題への市場原理の導入一具体例としては 学校利用券制度一とみた場合,そのモデルを提供して いるのはM.&R.Friedmanの議論であろう.それ

は,次のように要約される.

 (1)学校教育に関して1いえぽ,「過剰統治社会の病気」

  は,親が自分たちの子弟が受ける学校教育の種類に   対して,これに影響を与えることができないように   するという形をとった.すなわち,自分の子弟が進   学する学校を選択したり,これに対する費用を支払   うという直接的な方法においても,また地方の政治   活動を通じてという間接的な方法においても,いま   や親は学校に対してどんな影響も与えることができ   なくなった.学校教育に対する権力は,親に代わっ   て職業的教育者の手へと吸収されていった.「過剰   統治社会の病気」は,とりわけ大都市における学校   教育の中央集権化と官僚化が増大することによっ   て,いっそう悪化させられてきた.

 (2)親がより大きな「選択の自由」をもてるように保証   することができ,それと同時に現行の学校教育財政   支出のための財源を維持することができるひとつの   簡単で有効な方法は,授業料クーポン制度だ.

(6)

  政府が次のようにわれわれにいったと仮定しよ  う.「もしもあなたが自分の子弟のための公立学校  教育費を使わないようにしてくれるならば,その代  わりに政府はあなたに授業料クーポソ,すなわちこ  のクーポンを認可された学校で自分の子弟の学校教  育費用として支払うために使用するならぽ,そして  使用する限りにおいて,クーポソの額面に明示して  ある金額だけ支払われることを確約する証明書を渡  すことにしよう」と.その額面金額は2千ドルかも  しれないし,節約された金額をあなたと他の納税者  全体との間で分割することにするとすれぽ千五百ド  ルか千ドルになるかもしれない.しかしそのクーポ  ンの額面金額があなたが節約した約2千ドルの金額  であろうが,それより少ない金額であろうが,今  日,親が学校を選択するにあたってその自由を制限  されることになっているあの財政的な罰金,すなわ  ち学校教育のための税金を支払い,それと同時に私  立学校の授業料も支払わなければならないという罰  金の,少なくとも一部は取り除かれることになるだ

 ろう.

(3槻たちは私立学校だけでなく,どこか他の公立学校  でもクーポソを使用することを許可されることがで  きるし,許可されるべきだ.また,自分が住んでい  る学校区や市や州の学校だけでなく,自分の子弟を  喜んで受け入れてくれるどんな学校でも,そのクー  ポソを使用できる自由が親に与えられなけれぽなら  ない,こうすれぽ,すべての親はその子弟のために  学校を選択できる広範な機会を与えられることにな  り,また同時に公立学校に対してはその財政をまか  なうために授業料を徴収するように要求することが  できる.……このような制度になれぽ各公立学校は  その他の公立学校とだけでなく,私立の諸学校とも  競争しなければならなくなる.

D OwenにしろFriedmanにしろ,いずれの議論も,

一般的な公費負担による教育機会の平等の達成という,

従来は自明のこととされてきた観念に対して鋭い批判を 加えるものであった.公費負担の拡大によって整備され てきた教育制度が,事実上は相対的に上層の人々の利益 にのみ役立っているという教育の社会的機能の分析は,

事実認識としては,我々も避けてとおることのできない ものであろう.さらに,稀少資源の適正配分と効率的運 用という課題もまた,我々の検討にとって欠かすことの できない観点というべきであろう.

 ところで,Owenの議論は,上の事実から,一般的な

教育費の公費負担にかえて貧困な人々の教育に対する特 別な公費支出(教育投資)の必要性と合理性とを主張す るものであった.彼はこれを貧困対策のための教育政策 Poverty−Reducing Educational Policy(PREP)と呼ん でいた,それは次のように正当化されている.

 (1)福祉社会は生活保護制度と最低賃金制度という新し   い環境を労働力市場に与える.この環境は生産性の   低い労働者の就業意欲(及び雇用意欲も)の減退を   招く.貧困は加速度的に膨大な社会的経費を伴うも   のとなる.

 (2)PREPは低生産性労働者に教育を与えることで,よ   り収入の高い職業への移行を可能にし,また,低生   産性労働者の供給を減ずることによって,その賃金   を上昇させる.

 (3)教育への投資は物的資本への投資に相当する利潤を   期待することができるのでPREPは長期的には採   算のとれるものとなる.

 (4)PREPは他の貧困対策経費を減少させる.

 (5)PREPは初期には多くの税負担(財源)を必要とす   るが,その後は自ら産出する利潤によって次第に外   部からの財源の必要を減少させ,長期的には独立採   算を可能にする.他の貧困対策経費の減少とPREP   の必要経費の減少とは一般の人々の税負担を引下げ   る.

 Owenの議論は,教育投資論のもつ一般的な弱点をも っている.教育投資論においては,教育の機会の長さ

(学歴)に応じて発生する生涯所得の差が教育の産出と して計算されるが,そうした生涯所得の差は教育の産出 を直接に表わすのではなく,むしろ,労働力の階層的構 成(ないし社会的分業)の下に発生する生涯所得の格差 を正当化するために教育機会(学歴)の差が利用されて いる可能性があること,また,すくなくとも,教育の機 会の享受による特定の教養(能力)の水準の獲得がその まま特定の所得にむすびつくわけではないこと,このこ とは明らかであろう.

D−2 低生産性労働者に教育を与え,生産性を高めて収 入を増加させるという教育投資論の労働力市場について の前提には賃金競争モデル(wage competition model)

という名が与えられているが,これは事実とは著しく乖 離している.実際の労働力市場に働いているメカニズム は職業競争モデル(job competition model) と呼ぼれ るものに近く,それは次のように説明されるものであ る(L.Thurow).

 (1)労働力市場は技術,能力についてのマーケヅトでは

(7)

  なく,異った訓練可能性を持つものとして序列化さ   れた個々人に対応するマーケットとみなされるべき   である.

 ②ある1つのポスト(職)に対して,最低の訓練経費を   約束する背景的特徴(background characteristics)

  をもった労働者が採用される.

 (3)採否を決定する基準となる背景的特徴には,学歴お   よび資格が含まれるが,それ以外にも年令,性,前   歴,その他の様々の要素が含まれ,採用者の主観的   要素も大きな働きをする.

 (4)教育は労働者に特定の訓練可能性を附与するのであ   り,学歴は特定の訓練可能性の資格証明となる.

 (5職業競争モデルでは個人の収入は彼が占める労働力   市場での序列(labor queue)における相対的地位   と求職の機会に依存する.

 このモデルにしたがえぽ,PREPによる教育機会の 保障がその個人の収入の増加を直ちに保障しないことは 明らかであろう.貧困は個人の技能の水準の問題ではな く,社会の階層化の構造から導かれる問題ということに

なる.

 Owenの議論は,教育の機会の不平等の原因をミドル

・クラスの下降移動への抵抗という私的要求の強さに求 め,公教育制度がこの私的要求に不当なウエイトを置く ことを止め,教育資源を社会的観点から適切に配分する ことを求めるものである.しかし,社会的不平等ないし 貧困の解決のためには教育政策という迂路を回するので はなく,賃金格差および社会の階層的分業のあり方その ものの検討にむかうべきであろう. Owenの議論は公 教育費の拡大を提唱するものではあるが,それも,教育 を経済的あるいは政治的目的達成のための手段としてみ るという政策の限界の中にあったというべきであり,そ のことによって,教育を私的利益の追求の道具としてみ るという意識を促進することになるというべきであっ

た.

D−3他方,Friedmanの議論は教育財政政策・制度の ミドル・クラスへの偏向という事態を専門家および官僚 組織による公教育制度の拡大と支配とに帰因するものと

し,自由市場制度のメカニズムの導入によって公教育制 度を活性化させようとするものであった.

 しかし,この議論においては自由市場制度の下で公教 育制度を必然的に発展せしめた諸要因への注目が全く捨 象されており,また,教育機会に対する社会階層間の対 応の差異の把握についても全く単純化されていた.そこ では,何故,教育機会が社会諸階層間において著しく不

平等なものとなっているかは,到底理解されないであろ

う.

 Owenは,教育投資論にとっておなじみの定式を用 いて,教育機会が社会諸階層間によって不平等なものと なるメカニズムについて,次のような検討をおこなって

いた.

  教育を継続することの家庭にとっての価値=教育を   継続することから期待できる所得の増加+職業的利   益+他の消費的利益一教育費(学費+放棄所得)÷

  在学中の消費的価値

 上のようなモデルを仮説すれぽ,教育機会の階層間の 不平等は,以下のように生ずることになる.教育の機会 の不平等は自らに投資する意欲の差異の結果とみられる が,それは教育に使える資金と教育の結果の評価につい ての階層間の差異にもとついている.農業労働者の家庭 では教育のために使える資金が不足している.一般の労 働者階級の家庭では,アイビーリーグの大学へやるよう な資金が全くないわけではないが,それをするには家計 の負担が大きすぎる.労働者階級の家庭では高等教育へ の支出は贅沢なものだと考えられている.ミドル・クラ スでは倹約や借金による教育への支出が投資とみなされ る.こうした教育支出の階層間の感じ方の違いは,ミド ル・クラスにとって学歴を獲得することが現在の職業的 地位を維持するためにも必要なことであるのに対して,

労働者階級にとっては一一人前の稼ぎを得るのにミドル・

クラスほど学歴を必要としないという事情による.

 こうした検討と比較するならば,Friedmanの議論が いかに事態の不当な単純化の上に展開されているかは明 瞭であろう.

 「社会が豊かになれぽなるほど,また社会の内部にお  いて所得の分配が平等になっていけばいくほど,学校  教育のための財政を政府の責任にしなけれぽならない  理由はますます少なくなっていくのではないだろう

 か.」

 「授業料クーポソ制のひとつの側面で特別の関心を呼  び起したのは,授業料クーポソによる支払いのほかに  も親たちがさらに『付け加える』ことができ,またそ  うするのではないだろうかという可能性の問題だっ  た。たとえぽ授業料クーポソの額面が千5百ドルだと  して,親がさらに5百ドルをこれに加え,授業料が2  千ドルの学校へ子弟を進学させるとすれば,どういう  ことになるだろう.その結果は,今日よりも教育の機  会にさらに大きな差異を発生させることになるのでは  ないかと,何人かの人は心配している.その理由は,

 低所得の親はクーポソ額面に何も付け加えられないの

(8)

 に対して,中間階級や上流階級の親は,これに余分の  支払いを大幅に付け足すのではないかということだっ  た. (中略)このような反対意見は,貧困な親たちを  侮辱するインテリの傾向を示すもうひとつのよい見本  であるようにわれわれには思えるのだ.きわめて貧し  い人でさえ,公立学校の現行費用の全体を自分たちρ  資金で置き替えることまではできないにしても,子弟  の学校教育の質を改善するためなら,少しながらでも  余分の資金をかき集めることができるし,実際にもそ  うしてきている」(Friedman).

 Friedmanの議論は官僚制と専門家の支配という現代 社会の病理に対する鋭い批判を含んでいるけれども,上 にのべてきたような議論の単純化は,彼の提案が私的利 益の追求というレベルでの競争を教育において全面的に 肯定することによって,能力主義イデオロギーに立つ排 他的競争の観念の正当化を目的とするものであったこと をあきらかにしているといわざるを得ないであろう.

 「親の所得や社会的な地位や住んでいるところや人種  にまったく無関係に,すべての若い男女が高等教育を  受ける機会をもつことができることほど,きわめて望  ましいことはない.ただし,その際に必要な条件は,

 その学校教育がやがて稼ぐことを可能にしてくれる将  来におけるより高い所得か,それとも現在の所得かの  どちらかを基礎として,必要な経費を喜んでそれらの  若者たちが自己負担において支払うということだ.

 (中略)高等教育のため毎年支出されている財政資金  の総額を,毎年助成したいと望む学生たちの数で除  し,その数に等しい学生たちにこの計算から出てくる  金額に等しい授業料クーポンを交付するのだ.(中略)

 もしも授業料クーポンを要求する学生の数が,学生が 利用できる授業料クーポンの数よりも多いとすれぽ,

社会がもっとも受け入れやすいと考えるなんらかの基 準,すなわち競争試験とか体育活動における能力とか 家庭の所得とかその他いろいろな基準によって授業料  クーポソを学生たちに配給すれぽよい」(Friedman).

D−40wenの議論は教育への私的要求にウエイトを 置くことを否定し,公教育費を社会的観点の下に適切に 配分する新しい計画の必要を説き,他方,Friedmanの 議論は公教育費の運用を私的要求にまかせることを提唱 するという具合に,公教育費の制度論としては対照的な 構想を提示していた.しかし,そのいずれの議論におい ても,教育を私的経済的利益の追求の道具として意識す ることは当然のこととみなされ,あるいは,むしろ,こ うした観念を強化する必要が強調されていたともみるこ

とができる.

 今日,日本の教育問題の核心的な内容を 能力主義と 教育 というテーマの中に見出そうとするものにとって は,これらの教育財政理論及びそれを主たる参照理論と するわが国の最新の教育財政政策は根本的に批判の対象 であるといわなければならない.

IV 教育財政研究の理論的枠組み

 今日,教育権論が教育制度ないし教育行財政研究の支 配的枠組みを提供していることは,すでに周知のところ であろう.教育権論の理論的枠組みの設定は教育財政研 究,とりわけ無償教育の理論にとっては決定的な意味を

もっている.すなわち,この理論的枠組みにおいては,

教育財政の研究は,ほとんど次のような意味をもってと らえられるほかはなくなるからである.

 「(憲法第26条の義務教育無償の規定,また教育基本  法第10条の教育の条件整備の規定,すなわち教育行政  による教育機会の保障という)側面は,理論的にはま  ず紛れはない.憲法は明文で義務教育の無償をうたっ  ているのだし,教育基本法は条件整備を教育行政に命  じているのだから,国民は,まちがいなく,その実現  を公権力に要求することができるのである」(宗像誠  也,1965:165).

 しかし,無償教育を理論的にまず紛れのない単純な内 容として理解することを,教育財政研究にとって必然的 なものとすることはできない.

A 無償教育論

 さて,今日,実際に無償教育論のほとんどが教育権論 によって設定された理論的枠組みに拠っていることは明 らかである.そこでは無償教育の概念の内容は,教育費 の「直接負担から間接負担へ,あるいは個人負担から公 共負担へ」の転換と把握され,具体的には「受教育権思 想に基づき予算上の優先権を尊重する立場」から「無償 の内容と対象を可能な限り拡大すべきである」と主張さ れるのであった(馬場将光).

 たしかに,すでに述べたように,今日の教育財政政策 は教育を公共財と私有財との領域に区分し,公共財とし ての教育の経費は公的負担で,私有財としての教育の経 費は私的負担でという負担区分の理論をもち,教育費の 受益者負担の原理を意識的に貫徹しようとするものであ る,こうした政策動向に対して,教育費の私費負担を原 則的に否定するというところに無償教育論の実益がある とされている.しかし,こうした理論では,公的負担の 教育費もが教育の成果の私的追求(私的利益追求の道具

(9)

としての教育)の手段として機能しているという現状を とらえることができず,また,教育を私的利益の追求の 道具とするという観念を培養することを目的として,公 教育費のあり方を「改革」しようとする今日の教育財政 政策の核心的内容を把握することはできない.それは,

「(生涯所得の格差を発生させる)原動力となる進学費用 投資は,本人によってではなく,国家によって行なわれ ることが『社会正義』だという根拠は何だろうか」(日 経調,1977)という無償教育論に対する公然たる批判に

も沈黙せざるを得なくなる.

 くりかえしていえば,今日の無償教育論は教育費の公 費負担と私費負担とを価値的に対比し,教育における受 益者負担の理念を受教育権思想に立ってただちに否定す るものとなっている.そして,そのことによって,教育 財政政策の理念とそれに対置されるべき概念(すなわち 無償教育)の実質的内容の把握は,きわめて主観的な一 面性を帯びることになるようにみえる.それは,一定の 理念に裏付けられたところの定義を媒介とした法解釈学 的概念と社会科学における範疇概念との差異についての 方法論的自覚を欠いていることに起因する問題とみるこ

ともできよう.

B 公費教育論

 教育財政政策・理論の動向を批判的にふまえつつ,独 自の教育財政研究を構想しようとする場合,五十嵐顕

(1961)は,ほとんど唯一の手掛りというべきものであ

る.

 五十嵐は教育財政研究の現状に対して,次のような批 判を加えていた.

 「教育費や教育財政を条件設定視する考え方〔これが  現状を支配する,教育権論にもとつく教育財政の考え  方である〕は,それじたい教育の物的基礎が依存する  社会の経済的土台の歴史的,社会的産物であったので  ある.ほんらいアメリカで教育財政研究が発達すると  き,ホレース・マソにしても,その教育費,教育財政  論は教育維持の基本問題や教育と社会との関係や教育  と民衆との関係を考えるものであった.こうした根本  的性格は条件設定観にはきわめて稀薄になってしまっ  ていた.すでに教育固有のものを変革できないものと  して前提にして,それにたいして条件を合理化する性  格が優位し,研究が形式化する.このような見方は,

 戦後の日本の教育財政についてもあてはまる.教育改  革の気運が存した短いあいだをのぞいて教育研究とし  ての教育費,教育財政的関心は法規制度の説明以上に  教育学的魅力を失った」(p.181).

 これは,すでにここ検討してきたものとほぼ同一の批 判といえよう.さらに五十嵐(1961)は 教育維持の基 本問題や教育と社会との関係や教育と民衆との関係 を 問題とする同時代の対抗理論として教育投資論を批判の 対象にすえつつ,自らの教育財政研究の方法を提起する

ものであった.

B−2 教育費の概念規定

 五十嵐の教育費の概念規定と教育財政理論の枠組み は,以下のように要約しうる.

 (1)教育費は近代資本主義社会における社会と教育の関   係を反映している教育の基礎的概念である.

 ②教育費は,社会が教育にたいして提供する経済的条   件を貨幣形態で示すものである.まさにこのことに   おいて,教育が社会と取り結ぶ諸関係は,資本主義   社会における貨幣の歴史的,社会的性質をうけて抽   象的に同質化される.

   教育費は諸々の働きや物が教育の経済的条件とし   て教育に提供されるさいの,教育と社会との関係を   反映する.かんたんにいえぽ,教育費は,いわぽ一   定の形に総括された教育の経済条件である.経済的   条件は1つの条件として,それは教育と社会との関   係の部分的規定である.だが上述のように,教育i費   はその特定の性質によって,教育と社会を全面的に   規定しているのである.

 (3にうして,いわば教育費という衣装をまとうことに   よって,教育は資本主義的商品生産が基本的である   社会に同化せしめられて,公然と社会に関係づけら   れる.

 これが五十嵐の教育財政論・公費教育論の基本的主張 であるが,それは,具体的には次のようなものとして,

ひとまずは説明されている.

 〔(教育の)諸要素や条件は教育費に媒介されることに  よって一いろいろな屈折を経ながらも一商品的性  格を教育の全面にわたってつけ加える.〕たとえぽ「福  沢諭吉は,すでに教育を親が子女に買ってやる着物と  同じだといって,端的に資本主義社会において教育に  加えられる売買的性格を鋭く指摘している(「教育の  経済」福沢諭吉全集,11巻)」(五十嵐,1961:158).

B−3 方法的観点

 「教育費の発生は基底において生産労働と結びついて  いる人間形成が近代工業の改革的発展によって新しい 形態を要求されるようになった段階においておきた.

 (中略)未成年者を社会生活ができるまでに育てあげ

(10)

 ることを教育と考えるならぽ,あらゆる歴史の段階で  大衆の教育は特有の形でなされたのである.しかしな  がら,今日のような形式と意味をもつ教育費は産業革  命以前には問題にならなかった.」

 「一人前になるための未成年の技能や認識の訓練が大  衆の生産労働と結びついて果されていた段階にあって  は,ちょうど労働と訓練(教育)をささえる経済的基  礎づけは労働のうちにふくまれていたということであ  る.(そこでは)教育の経済的基礎づけはなされていた  が,それは教育費という特別の形をとることなく,教  育の経済的な基礎づけは,いわば生産用具の大衆的所  有形態のもとでの労働によってなされたのである」

 (五十嵐,1959:126).

 このように,教育費を教育の近代的発展を特徴づける 歴史的カテゴリーとして把握するのが,五十嵐の教育財 政研究の方法的観点の第1であるといえよう.

 しかし, 教育費としての貨幣額そのものにおいては,

その目的を規定する実践的諸関係は識別されないのであ る.かかるものとして,教育費は近代教育の基礎的性質 をかくすものであると考えるのである.公教育費も,教 育費の国家目的も,国家権力が基礎づけられている社会 によって,われわれのぼあい,資本主義的商品生産が基 本的である社会諸関係によって律せられているのであ る.にもかかわらず,公教育費は国家目的が社会の共同 利益を表わすかに見せる外観によって,支配する階級の 教育目的の,国家権力による強制をかくしてしまう,

すなわち,「貨幣の歴史的社会的性質」に由来する抽象 化(物象化)の理論に即して教育費の機能を把握すると いうのが,五十嵐の教育財政研究の第2の方法的観点で ある.そして,いうまでもないが,この第1の方法的観 点と第2の方法的観点とは,同一の事柄の2つの側面と みることが妥当であろう.

 「一般に教育費がそれを成り立たせている商品や貨幣  の資本制社会的特性にもとついて把握されず,超歴史  的なものとしてうけとられる場合,社会と教育とが現  実的に取り結ぶ本質的関係は,いいかえれば,単純に  教育費貨幣額の大小では明示されない真の問題はかく  されるのであり,同時に,反面では,その金額の大小  を規定する現実関係における真の根拠がかくされるの  である」(五十嵐,1961:159).

B−4 教育財政研究の展望

 五十嵐の議論の結論は,教育費がとる貨幣形態を否認 することではない.以上の検討から導かれるとする五十 嵐の教育財政研究の課題は,次のように展望されるもの

であった.

 (1)当然視されている(あるいは教育費という教育維持   の形態をあたかも超歴史的なものとしてうけとる,

  という)教育費に含まれて当然視されている教育の   社会的性質の批判的検討.

  「『人材養成』やr国民的生産性』を名分とする教   育投資が一見公共性をかくとくしているとみられる   事態は,高い程度に養成された人材をも労働力商品   として,人権としてすら,自由に売買することが認   められている社会秩序の虚像ではあるまいか.『国   民的生産性』などの名分に照応する社会的公共性   は,現実には剰余価値生産の利益の立場にとって主   体的であるのみであって,『国民的生産性』等々の   大義名分は資本家階級にとっての主体的立場を幻想   的に国民の立場と観念させる虚像のイデオロギーと   いわねばならない」(1961:174〜5).

 ②教育費なかんずく公教育費概念を「教育と社会およ   び教育と国家権力との現実関係の認識と変革をいき   いきと反映する」概念として再構成すること,

  「人々はこれまで,なんらかの形で教育文化の経済   的基礎を提供する生産労働の成果の生産関係による   遮断を実践的,理論的に批判することによって,近   代的大工業の本質が提起する教育要求を汲みとるこ   とができ,また,この要求を実現する経済的基礎を   生産労働のなかに見い出すことができたのである.

  /この点に,労働者が大衆教育を自己の問題とし,

  その経費をみずからの労働の成果を享受する権利と   みなすか,さもなけれぽ,労働の成果を私有財産と   して固守する国家からの慈恵として受け取るかの分   れ目がある⊥

  「ほぼ19世紀前半までの歴史的な教育運動,なかん   ずく労働老階級のそれにおいては,公教育費ないし   公費教育の観念は現実的な諸関係の変革と結びつい   ていた.公教育費は実践的にも理論的にも,いきい   きした概念であった」(1961:183).

C 公費教育論(その2)

 以上の五十嵐の議論は,いわぽ公教育費の資本主義社 会における体制的性質を問題にしようとしたものであっ た,「国家教育費はそれがその貨幣教育費の効力によっ て,その政策にたいしてどんな社会的同化性,社会的承 認性をかくとくしようとしても,貨幣教育費じたいの歴 史的限界に対する批判から解放されるものではない,

という気持が働いていた」と五十嵐は自ら述べていた

(1973:135).

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