特 事草 立
教 大 串 経 済 亭 命 百 十 年 史
との経済皐舎ト年史は︑主として間半曾む活動方針の誠実濯を中心とし℃執筆せられた︒
それこそは︑今日.事曾が十年の祭へある歴史を迎へるに古って︑何よりも知らなければたらないことであると信歩るが故
にで
ある
︒
鳳平
曾の
個
kの事業については.他の趨骨同な年表的記述を待つこととして︑とLには殆ど省略した︒
感舎の歴史在︑特にその活動方針にツい℃理解せんが潟には︑一般的立敬文化運動史の理問なくし℃は工くなし得ないと乙
く129)
ろであるG拳曾は︑立訟に於ける新たる文化運動の一品揚の中に生れ出亡︑その泊長に規定づけられながら自らの歴史を歩んだ
からである︒
この意味に於℃︑こむ十年史は︑﹁立敬畢生文化起動小史﹂と併説されんととを希望する︒
本稿前字︑昭和四年創立より昭和八年起を諸井が︑後牛︑昭和八牛より最近起を回選が捨官した︒
雨入とも僅かた齢暇しか持ち得十︑充分二つの部分を綜合的に検討する機曾を持たなかヲたため︑不統一の去は兎れぬもの
であるが︑時日もたいことであ一り︑敢℃このまL
護去
する
こと
とし
もん
口
先輩諸賢及皐曾員諸君の御叱正を待つと共に︑
幸で
ある
︒
この十年史が︑将来の同学舎護展の誌に︑幾分たりとも示唆を輿へ得ゐならば
昭和十四年十二月
回 諸
遺 井
ヂli忠
法 一
波 風 一
a徒の最初め悠一究的圏躍として歴史的投意義を持ったものであるが︑ 大E
十一一年三月︑問時十内に於ける吐合的関心の増大︑枇曾問題研究の傾向の一般化に感じて結成せられた粧漕皐研究曾は︑立
その後種々な事情に坊げられて︑十四年以後に於ては
自然消滅の状態に陥った︒
しかるに昭和一一三年頃より︑常時の一般的此合的土牽に立った皐誌の批判的態度と︑ぞれを汗景とした立教に於ける自治的
精神の昂揚に刺位せられて︑再び問中内陀議究的蘭間関の組織の気運が生やるに至った︒
党づ昭和四年掠め頃︑竹吋敬授の熱心な指導の下に経静科一年の事生によって経持率研究曾が設立せられて︑毎週一回同教
授︑
乞中
心に
﹁金
融資
本市
﹂
Eテキストとして好究が開始された︒と礼に刺戟されて結構科一一年に於ても︑六月十絵名め間半生に
よって研究曾が作られ︑先づ方法論の研究より始めた︒
かLる試運いか全粧掛科の単一研究閣轄の結成の方面へと準んσ行ったことは必然的なことであって︑それは六月頃よりの一
二三年有志による経構理曾設立準備曾とたって現はれ︑運動が開始されるに至った︒
官時枇舎を街動せしめた種kだ思想的諸事件に多敏感生の一連坐せるあり︑又これらの事件を契機として文部省ば︑開学生の祉
c
130 )曾科
曲学
研究
に肌
持し
て一
一厨
峻厳
芳︑
取締
り方
針を
決定
して
ゐた
時で
あっ
たか
ら︑
思ナ
校山
一口
同局
に於
ても
︑ 舎科感研究曾﹂としての危棋を抱くところがあったもの
L却︿︑最初は不許可の方針を取ってゐだ0・
併出したがら︑如何にしても息曾を設立せんとの準備委員の熱心な運動と︑や同局の忌避する進歩的車備委員の白環的辞任等の
この経横風十舎に針しては﹁世
協調的態度︑更に一般樫生の研常国牌に軒する熱望は漸︿常局によって認められるところとなり︑六月末の経漕科教授舎は菜
教授の反針あったのみで通過し︑
その後の常任委員曾に於ても審議の結果︑遂に七月四日べ運動開始以来一ヶ月齢にじご左の
僚件つきで許可されるに至った︒
一︑同合はJゼミナール講演合機踊雑誌の議行をなすこと︒
非歩
︶
︵時事問題批判は原則として許可せざるも特殊問題はこの限りに
一︑正曾員を経済科皐生及荷科有志風下生とし文周学部有志争生を準曾員とたすこと︒
一︑
合長
及幹
事は
本内
弔問
宇長
これ
を推
薦す
るも
のと
す︒
︵昭和四年七月十五日欝行立大新聞第七九鵠︶
かくて昭和四年十月十六日歴史的な経静皐舎稜舎式が︑超満員の盛況裡に奉行ぜられた︒
細川
曾に
於て
掲げ
られ
た宣
一一
一一
口は
弐の
如き
もの
だあ
る︒
出 且 一 マ 再
現代日本に於ける言論思想却ち壊舎の客観的朕勢はあらゆる念品世的思想或は保守反動理論の鼠立潟立︑思想界縛形鶏の時代に賞百せる乙
とを我等は認識せるものなり︒
今やかミる重大時期に際し︑我山部ザ立教大泉経済率科の客淑的批態を八万椋せる時︑そとに問中究機関設備の不完備︑同市徒摺究心の依乏等あら
ゆる大準々閥の存定債依を弱むる無数の材料を蒐集し得るものなり︒
勿論かLる山肌勢の存在的意設は︑我が事闘の未だ大率一建設維維の遇校にあるを充分認識する所
hu
po
然りと錐も十句も大出申の存在理由は︑血中術の硫奥を級め賞理の探求︑これが運用は閥民大衆の経済生活の向上に資ずるものな
po
我等感生大衆はか与る重大なる時期に仲間商し︑奥へられたる我俸の事生的責務を白怪し︑念廷に非ず反動に走らず︑一正しき理論を把咽惜
し︑大にしては現代枇曾小にしては我が早川に於ける我等の彪史的使命を認識し︑而して人類文化の向上進歩︑康問の山政展に努力すべき
ものなり︒きれば我が立教トヘ山県経済血中舎はそ山猿舎精紳の根底を立数スピリットに震号︑我が全血中生大衆の施中究慾の泌足︑経湾臨舎の内
容充
wH
後展︑而して立教文化の抽出炭過程に於ける一推進力拍車たらんことを期するものなり︒
時して其れが方法として立枕経済準舎の規約に基曹我等研究を総額せんとするものなり︒
希ふ会事生諸君一我盈干の誇とする立教スピリット及び白熱的協力一致図紋のカを以て恒久的に協力せられんことを切望して止ままるも
のな
り︒
c 131 )
昭和四年十月十六日
立 教 大 串 経 済 事 合 同
こ の 宜 一
一 一 一 口
は ︑
その作成に営つ℃営局の意向が考慮ぜられてゐたとしても︑山内その一限りに於ても決して充分たものであったと
一宮口ふことは出来たい︒然しそれにも拘ら歩との宣言は︑立教皐徒に向って率先的精神の確立を高揚した離に歴史的た意義があ
ったと言ふことが出来る︒
我々
は︑
﹁m m
究機関の不完備﹂﹁恩究心の紙芝﹂が︑大島一建設維枇の過樫にあったが故にであるか否かを此薩に問はゑぃ︒こ
Lでは何よりも︑かLる﹁準園の存在慣値を弱むる無数の材料﹂換言すれば大阜の所謂一怖落﹂の傾向に到して︑自らのカを
以て打破せんとした準誌の﹁良心﹂と熱意こそ高く評慣されねばならたい︒
経掛
間半
人目
は︑
それ
λF
の時代によって活動の形態を具にしてゐるしかし何時の時期に於ても︑その祈動の目標はこの﹁品Lγo
究的科撃的措岬﹂の確立であった︒
かく
て華
一−
Kしく出護した経斡与舎にと勺て︑先づ第一に直面したければならなかった困難はその活動費の問題である︒
これより先き同学生の研究開瞳議長の需の﹁助成金﹂が問題とたってゐたが︑間半国文化向上の緊念を要する恥態なるに鑑み︑
迭に昭和四年春の県友曾締曾に於て︑m学長よりこれが助成金として二千田下附する旨の聾叫が震された︒爾来︑史容曾折ハ胡学
舎英文皐曾等の文串部研究圏瞳に劃してはそれん\二一百回づL下附されてゐたのであるが︑商出品子部には研究国躍の組織がたい
愈々全経満開科を包含する経静的学舎の創立を見るに至ったので︑営然その内より一部は間半舎に劃して下附されるべき性質のも
のと︑早速補助金の申請を行び︑品回同局に於ても五百園位は下附する意向を最初はもらしてゐたのである︑しかるに如何なる語
c 132 )
まLにその方面の矯の助成金千国は蛍局によって保留されたまLになってゐたのである︒
か︑この高島ナ部研究国障に謝する助成金は︑その頃賞品によって計葺ぜられた﹁向島ナ論叢﹂の護行ぬれに振り向けられてしまっ
たのであった︒
商民平部に研究機関紙が友いことは大事の名替の震にも誠に遺憾なことで︑その意味で商皐論叢の護行は立敬皐園にとってこ
の上なく喜ばしいことではあるが︑そうであればあるだけ︑その出版費用も特別に改定されてしかるべきもので︑本来m
学生
の
研究心向上の立前で設定せられた助成金を︑設授校友のみにその護去が限られてゐる商暴論叢が肩替りすることは如何にも班
解仕難いととなあると︑あたかも皐究的日治的楕同が昂拐しつLあった時期でもあり︑熱心にとれの下附が要望せられたが︑
結局僅か﹁千分の五十﹂の下附を昆たむみで︑しかもそれは最初め一回だけで経ってしまった︒ハ設︶
誌 ζ L
で脇村に付け加へておき度いととは乙の商皐論議が﹁原稿不足﹂の銭鴇路定よPず
と遅れて務行せられたととである︒n J
乙の事が揺監期の皐舎の活動をどれだけ制約したか想像に飴りある︒
その後︑皐友曾部外圏瞳として僅k百八拾因を得るのみで今日に至ってゐるが︑これは全経横科島一生左曾員とする鼠平内唯一
の経捷拳研究圏簡とし℃はふさはしくない﹁軽密﹂だと一一一日はなければたらゑい︒
誠に経槽皐曾の歩んだ道は︑﹁精神的﹂にも﹁物質的﹂にも蔚の遣であったと一言ふことが出来るo
しか
し︑
ζの黙に闘して︑私は︑近い路来へ多くの期待を持ってゐる︒何となれば︑今日早闘の名聾が︑経硝
m m 叫
十部
の躍
進を
土憂忙して一居高められつLあることを考へる時︑この壌舎の経爵的貧困に劃しても間学校賞局によって何等かの解決が謂たさ
れるであらうことを信じて止まないからである︒閉山子曾員諸君も多くの成果の上に立って︑賞品と協カ︑経漕的基礎確立に向つ
て一歩進めねばならない︒
昭和四年より八年に至る経掛皐舎の歴史を考察する時.そこにこうの時期を劃することが出来る︒
第一期創立より昭和六年に至る揺監の時期
第二期昭和六年より八年に至る﹁大衆的﹂活動方針が確立された時期
第一期に於ては︑墜先的精紳を如何にして立敬皐徒の中に確立するかの問題について︑未だ明確た方針が把握されてゐな
c
133 )、
ハ。
雑誌は年一回蛮行せられたのであるが︑限られた抽出算の範園内に於℃︑その様な議行の仕方が舎口貝との密接た結合を妨げる
ものであったのみたらや︑何よりもそれは研究舎活動との緊密な結びつきを持ってゐなかったのである︒
島ナ曾括動の根幹であるゼミナールに於ては恐慌論︑産業合理北問題︑協同組合︑支那問題︑明治維新史等その研究の劃象も
債い範闇に一旦って行はれたが︑しかしそれは︑未だ綜令的な方針に基づいた永績的研究舎としてではたく︑
一時
的な
もの
で︑
しかも研究のテーマも寧ろ偶然的な形で揮ぽれ︑個人的護表が主として行はれた︒乙の様た状態であった各研究舎が︑費表と
機閥
との
結び
つき
を持
たな
かっ
たこ
とも
常然
であ
↑る
︒ 全韓在通じてこの時期に於ては︑合員である全経漕科皐生を如何にして皐曾の活動に積掻的に参加させるかと言ふことが常
に問題になりながらも未解決のまL
消渇
され
てゐ
たの
であ
る︒
昭和六年五月に県曾は大きた方向縛換を行った︒それは後述する所謂﹁大衆的﹂方針の確立であるが︑皐舎はその割賦の上
に立って先づその中心活動の整備より始めた︒
その最初の具瞳的な現はれは﹁コオlグリl﹂の護行である︒
その頃年一回護行せられた皐舎機閥誌に到し亡は﹁その内容に於ては飴りに高度であり︑しかも僅かに・恨られた論文︑新刊 紹介等を掲載出来るのみで︑一般舎員には儀り親しみを持ち得︑子︑従って蛮行された後も何等の反響も聞︿ことが出来なかっ
た一︵昭和六年十一月廿五日議行コオ1タリ1第一巻第一揖川妻比輯編後記より︶が委員曾に於ても︑一般舎員の聞にも批判せ
られてゐたのであるが︑との批判の上に立って昭和六年五月廿日の委員舎は︑事舎機関紙を年四回の﹁コオ
1グリI﹂として
蛮行するととを決定した︒これが決定にあたって確立された方針は先づ事舎機閣紙を事曾活動の組織的中心とすることであう た︒従って第一にそれは皐曾研究舎との密接な結合を持たなければならない︒第二に︑限られた換算内に於てコオ
1グリ1と
別箇に啓蒙的大衆的機関紙が蛮行出来たい以上︑このコオ1グリlは︑一一般合員を研究曾その他皐合活動に積極的に参加させ
る活の契機として同来るだけ皐坐に親近注編輯方針が取られたければならたい︒
との二︒のととを︑特に︑僅かた紙数に制限せられた一つの機関紙が備
1ることは蓋し容易たことではない︒皐舎はその詩
に先づ師郷撃生による各地のレポートを牧録する方針を取った︒しかし充分た成果を納めるには至ら友かった
o
ハ誌
︶
ι134 ) 設
﹁去る六月総合の席上︑従来の雑誌を年四間以上護行のコオ19Flに第更し︑庚︿一般間半生より煩稿を募集
L︑問中生の最も親しみの持
ワ乙との出採るものを夜行することにした︒ロオ
1n
9P
1の内容を準舎主催の各種研究舎に於て討論︑併究された諭交俸の外に︑曾員
諸君が休暇鼠郷された時の各地方の経済的飲況等と言ふ如きものも出来るだけ掲載しゃうと思ってゐる﹂ハ前掲川妻氏続料後記より﹀
皐舎が新た山内議に嘗って最も力を誌い叫んものは︑良平舎活動の中心である研究曾であった︒研究曾は皐舎の根幹でたければた らたい︒従ってそれが如何なる方針の下に組織ぜられ℃ゐるかと言ふことは墜舎のバロメーターである︒
昭和六年十月九日の皐曾臨時委員舎は敬育部提出の研究曾新組織業を採用した︒
この敬育部案は︑従来の研究曾活動への批判の克服の上に立って︑綜合的た組織的な研究を行ふ永績的機関を試置ぜんとし
たも
ので
︑
この方向に向って教育部直轄の下に火の六研究舎が組織せられた︒
世界経措研究舎︑日本経漕研究舎︑農業問題研究舎︑植民地問題研究合︑特殊問題研究舎︑政治較研究舎 創設せられたこれ等研究曾の最も特徴的た話動方針は︑第︺に組織的た共同的研究をその重鮪に置いたことである︒それは 誠に割則的た前進であったと言ふことが問来る︒皐舎はこの方針に主つ℃研究自身の一大飛躍を古闘とじたのみたらや
J︑更に
その研究を遇して間学生が皐び取るととろの﹁協同的精神﹂について大きた期待を持つ党のなある︒
第二に︑各研究曾は︑コオ1
グリ
1毎鵠に必十自己の研究を蛮去するととが方針として定められた︒
機関紙との結合が間られたのである︒ これによっ℃研究舎と
( 135) 研究舎は各一名の指導教授と責任者を置いて︑教育部の全臆的た指導方針との密接な聯闘の下に︑先づ金融問題研究舎及農
業問題研究曾より組織せられ︑各研究舎それん\多数合員の参加を得て活設た研究が鶴けられ℃行った︒
然し︑この営時の経積率舎を最も特徴づけるものは︑これら綜合的肝究曾の一創設︑コオ1
タリ
1の蛮行等によって組織的統
一的陀自己の中心的活動を整備した皐舎が︑その上に立うて︑本来的伝使命たる皐固に於ける息究的棒蒙的精神確立の震に採
用したところの﹁大衆的し話動方針であれJ
た ︒
︑ ︐ 恥 円 ︑
bF
研究曾は多数の熱心な曾員の参加主得究︒しかし全舎員数より見れば伏して充分友ものと一百ふことは出来ない︒如何にして
工り多数の曾員の参加を獲得するか︒
とのことの解決のために決定的た方向を輿へたものは︑事舎は畢生自治乞基底とする全立教文北運動費展の土芸の上に創立
され
︑且
円
J蛮展し来たったものであると言ふ明確な認識であった︒このことを想起するならば︑如何なる時代に於ても︑塾舎
の護展と自治精神との聯闘は明らかたことである︒
経積良市舎が立教全文化運動の中で占める濁自な役割!l一撃問的﹂﹁啓蒙的﹂役割を︑との自治精神の震に如何に役立たせる
かと一吉ふことが五営に理解せられた時に於てのみ︑始めて皐舎はその護民主確保することが出来る︒
換言すれば︑皐究的精神はm
学生自治之基礎づけ︑簡牢生自治によっ℃のみ皐究的精神は保諾されるのである︒
乙の翻賠に立って間半舎は衣の活動方針を決定した︒第一にはナ曾活動からあらゆる街皐性を躍除することである︑何とたれば
皐究的精紳は︑吐曾的契機を根底に持つ時にのみ異質皐究的精神たり得るからである︒
第二に︑皐究的思蒙的精神を虞汎に間半生生活の中に確立する需に︑一切の県内文北活動に積極的に参加することが要求せら れた︒何とたればこれら日常の文化的諸活動む中で︑その過程との密接た聯聞の下で語られてこそ︑皐究的精神は畢生に最も親
( 136)
近なものとなり又生きたものになるからである︒
狭い敬室や部屋の中で︑経捧的命題を専問的に論議することは︑それはそれなりに意味のあること勺はあるが︑若しそれだ
けに止まるならば墜究的精神は未だ﹁窓越じ﹂の風景であると一一日はねばならたい︒開学舎の過去に於ける活動の中には︑その意 圃の−如何に拘ら歩︑客観的にはとの﹁皐問をするの圃﹂が多くほなかったであらうか︒
とれが嘗時の墜舎が錯したととろの反省であった︒
かくてそれ以後︑準舎のみ一事業は︑円常の皐生生活との生き/\とした連がりを持つためにあらゆる努力が梯はれたのであ
った
日常の文化的自治的諸問題は︑常に最も闘心を以づて検討され︑それとの事問的た結がうきが活動の根本的方針とたったの ︒
であ
る︒
この﹁大衆的﹂方針の確立は︑その後の撃舎の護展にとって大きな契機となった︒白治情榊の稜展に役立ちをする遁程に於 て ︑
一般愚生の経静間学舎に劃する認識も深められ︑研究曾その他県舎の事業に積械的に参加する八百員も増大して行ったり
との方針と結びつけられた研究曾が︑その研究の基調として枇曾的命題との開聯か一第一義に押し出したととも営然であった
と一
言は
ねば
なら
ない
oそこでは︑原論||例へば剰徐憤値論等も︑狭い意味に於ける曲学究的た理解に止まらないで︑現買の生
々しい相兎封立と封照されて研究せられた︒研究舎は常に活漉た討論を持って絡始されたoそしてとれらの討論研究の中で各
舎員が率︑びとったものは︑一世舎的貢献をする誌には︑問時十問が是非とも持たなければならないととろの﹁烈しさ﹂であうた︒
経樺閉山ア舎は︑昭和八年に至る迄上越の方針によってその括動をつYけ来たったのであるが︑営時一専属の部室さへ持つことが
出来十︑毎週の委員舎も史暴科教室を間借りして聞かねばならなかったやうな物質的な貧弱さに引き較べて︑挙合が尽闘に於
ける皐究的科皐的精神確立の需に霊しだ寄輿は奮しムへきたものがあったと一言ふととが出来る︒
満別事費を契機として︑我閤民経擁は従来の所謂不景気から一脱却し様ともがき︑叉確に満州注目に依って若干の景気がもた
らされ︑皐生も就職難の吐息から解放される傾向を示した︒﹁満州に行けば﹂之が皐生の白慰ぜあり︑叉枇舎がインテりヂシ
チアを代表し︑而も涜る若さを持つ開時十生に向って期待した所のものである︒
c
137)此の経梼扶態の輔佑と共に聞学生が珂論的に︑又その持つ所の純潔なる若さを以て猫占資本主義に反劃し︑世舎大衆運動に直
接参加する事を自ら進歩的に代表的たイシテサグシチアであると自負した時代から︑日本経酵の護展の震に︑資本主義の或一
面を肯定したがら︑叉一一回修正す.るといふ理念を持ってそれを監調するといふ忠恕傾向に費って来た︒乍併之は決して草たる
塾生だけの思想の柏崎北だけでたく︑インテリゲンチア一般の思想傾向である︒満刑事態後に於ては此の修正した型に於て資本
主義を認めるといふ思超特化を経験しはじめながら従来自ら取U来った態度︑事大主義的でありたがら︑然も濁占査本主義に
反劃して来た態度と異る態皮に自ら誕恥しさを感じて︑且苧生暦の一般文化運動の沈滞又事援を契機としての上からの改革等に
謝し﹁犬墜の知能低下﹂等を叫んだが之は皐生に劃する攻撃であり叉同時に︑自ら乞鞭轄する空元気玄襲ほったイシテp
一般
の自らに鞠する一一言葉であった︒併而﹁惰面もたく豪く﹂校ワたインテリグシチアは之から更に一歩進んで︑従来の﹁蒼白きイ
ンテリ﹂から批判力と同時に﹁働きかける﹂といふ積極性の一一間主持ち始め℃来てゐる︒といふのが現在のインテリグンチア
一般
の態
度で
はな
から
うか
︒
粧爵皐舎の歴史を見る時に︑多分に此の傾向が見られるのである︒昭和四年立教大挙粧樺曲学舎が誕生したll勿論之は名目
上の誕生であり︑その核はそれ迄に充分に育くまれ︑培はれて来てゐたのであるが︒その初期は畢生が大衆運動に参加する事
の華
kしかつだ時代であり︑我が経捷鼠平曾も亦多かれ少たかれその影響を受けやにゐ去かった︒堅生の若い感情からして︑又
枇舎情勢からして︒乍而此の卒舎の傾向も枇曾の耕地轄と共に叉多少異ったものにたって来た事は営然であると思はれる︒
昭昭八九年頃は前時代め反動の時代であり︑又楠刑事費を契機とする思惣斡怖般の岐路に立った時代であD
恩一
生の
一般
文化
相場
(138)
動は沈滞してゐた︒我が立教大風干に於ても文化運動は低調の時代℃あり︑間学生はスポーツにそめ精力を向けてゐたのである︒
そして︑経横暴曾に於ても︑その劃外的活動そのものとしては沈静の時期であった事は否めないが︑之は反省の︑叉将来の飛
躍へのグルンドをたすものであり︑間早なる和四⁝京カ︑沈滞の時期で仲いたかった︒インテリグンチアらしい思慮深さから︑又早生
らしい科皐探求む熱情から︑従前の様た表面的な括動から遠ざかり︑専ら一ぺ勉県わ道にいそしむだ﹂時代である︒乍而此の時
代忙於て︑此合献勢に謝する闘心が薄らいだのではない事はその官時の皐舎の共同研究の持うたテ
17
が︑農業問題︑金融問
題等であり︑叉各町半年加わ研究舎として︑﹁憤情論L︵町議敬授︶﹁金融・銀行・市場統制﹂︵竹村教授︶﹁幕末維新粧樺史﹂
︵山下敷授︶等であり︑講演舎として︑石橋謀山氏︑美濃部亮吉氏等が招かれた事でも明らかではないだらうかJぞの位︑そ
の頃の記録を結いて見る時に︑如何に皐内の一般の星誕を文化的なものに閥心をもたしめて立歌文化を向上せしめ様かとして
熱心に努力してゐたかといふ事が好く判るのである︒と同時に︑皐校賞局が︑一部直接閥単曾の員の目的を理解される教授の外
は︑﹁勉強さして赤くなるよ
hy
は運動でもさせる﹂といふ様た甚だしい認識不足を持︒てゐたのではないか︑と疑はれる様な
事もある白拳舎の日誌に此んた事が書いてある︒
昭和九年五月十一日︵金﹀
午後六時
bT
.阿佐ヶ谷騨集合︒
七時
ii
十時︑塾長ハ木村重治氏︶ト雑談ヲ交ュ︒談タマグマ文化圏陸ノ件−一閥スルヤ木村事長ノ認識不足ノ茜シキヲ暴露
ス︒木村場長トシテハ全然文化系諸南関−一開心ヲ持ツテヰナィ︒我等一同失望ス︑ト一言フヨリ事ロ町都グラザルヲ縛ズ︒経
韓間竿曾珠算ノ必要ヲ認メズト︒斯ル皐長ノ態度ニ謝シ新苛針ノ樹立ヲ必要トス0﹂
といふのである@
五月︑新委員の選山内乞経つ℃︑新しい同市年を迎へ.大いに同学生らし︿勉強し︑立私文化の向上を計らうと希望をもち︑組中長
め許に新委員が敬意を去し︑抱負を述べ︑叉鞭聴を受けるものと切角期待して行ったのに︑文化圏憧に関心を持たぬばかりで
なく︑準生の持うてゐる唯一の経積朗学研究の圏酷である経掛皐曾の﹁換算の必要を認めやJ
一
と一
一員
ふの
では
その
時の
委員
諸君
で
(139)
な︿℃も時然たらざるを得たい︒
満洲事費の結果が︑所期の日本を中心とせる﹁東亜ブロック﹂の結成にその基礎を詩すもめではあっても︑決してそれを以
て充分でなかれJた結呆︑昭和十二年七月の草稿橋の一一設を直接の動因として今女の支那事費が勃議したのである口之が山口問初の
﹁白川戦帥決﹂主義から﹁長期建設戦﹂への移行の止むなきに到るや︑円本経慣も戦争遂行を直接の目的とし︑経掛挫構
従来t z
の濁占資本主義の採り来たった自主的統制から︑岡家的統制へ︑叉従来の部分的た統制から︑全般的統制へと編成持へせねば
たらたかうた︒於設同じ利潤追求を指導原理とせる資本主義経済機構でありながら︑相古の鑓貌を飴儀友くされて来たのであ
る。
﹁臼本的なるもの﹂がイシテリグンチアの話題の中心とたったのも斯るものへの珂論付けであり﹁東出協同睦論﹂が大いに
論議されるに至ったのもインテリのマスグ1
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1シヨンである︒叉一部前時代の﹁闘士﹂の協同盟論は世聞に封する見柴で
あり言び謹でもあった︒象牙の塔に於ても亦従来の自由主義にその茶調を畳いた鰹神間唱の研究にあ一きたらや︑買に﹁円本的た 経隣接﹂の確立が叫ばれ︑一革新経構内さの必要が唱へられるに至った︒所相帝大事件の如き世人の記憶に新しい問題が起った
のも︑斯る日本の特殊性を認識し︑戦争目的途行の震に︑
その特殊性を径三役揮ぜしめんとする理論と︑従来の一自由︑モ義的経
構墜を︑接的に最高のものとして掌奉ぜんとするものとめ現論闘争と日る事が出来るであらう︒
吾が立教大陸干に於ても︑経静岡学舎の中に於ても︑﹁認識不足に時仲間として謝策を考へる﹂ばかりでたく︑之を批批判し︑叉枝 葉末節をのみ重んやる講座の開かれてゐる授業ぶりに不平の感の高安つ℃ゐ全時︑昭和十一年七月七日木村卒長が辞職したの である︒が︑之は表面引責辞職であるが︑事賃上は木村行政に封する不信任が常職をぜしめたのである︒と同時に︑斯る時代 に於て﹁皐術の麓奥を究はめる﹂震にはあまりにもイージーゴーイングたものに聾する革所的反封でもあった︒斯くて昭和十
二年遠山郁三氏が聞学長に新任した︒そして経酔態部長に同議忠男敬授が就任したのであるo
田遺教授が︑帝大事件の一方の大立者であり︑革新涯のE
頭である事は世間周知の事である︒その教授が善が立教犬同時十経碑 鼠宇都の撃部長に就任された以上は︑決し℃従来の木村皐長時代の講座システムをその僚踏襲されるみ﹂は思はれ守︑叉誰しも従 来の講座システムを踏襲して欲しいとは思ってゐたかった︒同通開市部長の就任の酔にも︑
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140)﹁此の度私が経梼撃部長に就任じま
したに就ては︑此際経漉間早部の皐制に改章をなす事を傑件としてお受けしたしと言っておられる︒そして昭和十二年の新聞学年 から︑面白一新した時間表が識思表されたのである︒
之に聾して拳生一般は賛意を表した︒殊に慣用目制度の確立に封じて︑開且十生は時らや何れかの演習に参加ずる世帯が要求され た︒乍而その初年度に於てその目的を充分に遣する事部出来たかった事は杏めたい︒が︑沈滞の試を破った此の改革陀依って 少しでも進歩的た皐生は之に積極的に参加して︑研究の特権を亨受し様︑とした︒
経皆同学舎は従来此の演習制度の確立を何の位希望してゐた事か︒之が入れられやに︑仕方なく向学生の手を以て研究舎を︑講 演舎を聞いてゐたのである︒然らば︑此の皐制改革に依て皐舎の存在は必要たくたったか︒然うは思はれたい︒間学生のもつ意
志護去の機関は︑新開部が﹁開学生らしからぬ態度﹂といふ名目を被せられ蟹轄する枇合扶努の徐被を蒙り昭和八年解散の止む
たきに至ってから︑吾︑が経梼学舎を除いては一伺もない︒文学生の研究の成呆が
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例へそれが幼稚なものであるとしても
||等生の手で稜表される横闘は接合以外一つもないのである
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ハト舎は之等の機関として十分存在意襲がある︒叉講演舎︑研m
究舎は損習に委ねてしまふ可きであるか?
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τの上に狛何日サムシイングを加算する事を望み︑演習開曜
日以外の特殊研究を志す間学生の士粛々であり︑時品講演を聴きたい皐生も借る︒そして吾が経一面皐曾は︑経漕島ナ科全血平生を以
て組織する圏瞳であり︑早授の︑全開年生の文化圏髄であるO問中舎の委員をして直接仕事をしゐる諸若は何れかの演習に夫士参
加してゐるoそして被力乍ら全カをつくして一歩でもそれを押し上げ較と努カしてゐる︒
昭和八九年頃︑元東がたい︑沈滞してゐる︑と佳一口はれた経皆同学舎は無意味校抗附をしてゐたのでは決してたかヲたのであ
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る挙制改革を期としてその間蓄へた科果的精一耐と︑準徒らしい研究心とをグルンドとし
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飛躍せんとしてゐるのであるo現在の事舎の拾石となられた賞時の皐曾員諸君︑思ナ舎委員諸君の努を忘れてはならたい︒
皐舎の改革を記念して︑叉経掛聞学舎の重要性を一不すものとして︑五回が経掛皐舎は周到な準備の下に昭和十三年七月︑立教大
c 141コ
皐に於て始めて全隆平生の生活調査を行った︒俵へ立教大撃は皐生締数が少一いとは言三愚生だけの手で金等生の生活調茶を行
った例はない︒改革の意気の昂かった向学校営局と︑開学舎の買の円的を理解して下さった諸教授の積極的た支持があったのでそ
の結果がパンフレットの型で出版されたのには相遣ないが︑向学舎の活動を加賀に一不す一事の出来たのは︑十年来の話先輩の努力
の蓄積である事を決して忘れる事は許されたい︒後績の粧漕皐舎員諸君の意気を︑熱を︑研究心を︑同県撃たる努カを期待する
所大
であ
る︒