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著名人と子ども

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(1)

ドニ・ディドロの執筆とされる『百科全書』の項目「幼稚性

PUERILITE

」 には,子どもじみた性質が人間にとって逃れえない「性」であるかのよう に描かれている.もちろん,「幼稚性」とは何よりもまず子どもに帰され る性質であり,ディドロも項目の冒頭で「子どもに特有の言動を指す」と 一言で説明している.しかしながら,興味深いのはこの簡潔な定義の後に 続く記述であり,そこに描き出されるのは,むしろ「父親たち」の姿であ る.

 よく言われるように,父親たちの愚かしさは,子どもたちの「幼稚さ」を語 ってしまうことである.なんと微笑ましい愚かしさ!父親たちも幼稚さから逃 れられないことを,彼らの過ちそのものが露呈しているのだ.彼らは,他の 人々がうんざりしているのにも気をとめず,自分のしていることがいかにも重 要だと思って,話をし続ける.自分の考えに新奇な様相を与えようとして,人 はしばしば「幼稚性」に陥ってしまう.「幼稚性」は趣味において表現される.

理性や判断力を欠いているとみなされるものはすべて「幼稚性」を帯びてい る

1)

ディドロのテクストの常として,ここにも彼特有の二枚舌と,その上で 危ういバランスを保つ哲学的省察(の萌芽)が姿を覗かせている.「幼稚 性」,もしくはその形容詞である「幼稚な,子どもじみた」という表現は,

子どもに固有の性質を示すとともに,必然的に子ども以外の存在にも用い られる.その意味で,「子どもじみている(こと)」という表現が根本的に 含んでいる暗喩と皮肉を,ディドロのテクストは明かしている.自らの幼 稚性を疑うことなく,夢中になって子どもたちの幼稚性を語る父親たちの

「子どもじみた」姿を描き出す彼の筆致は辛辣であるが,おそらく,その 目的は「いい年をした男たち」を単に揶揄・風刺することにあるのではな

著名人と子ども

̶̶ ルソーにおけるセレブリティと稚戯性 ̶̶

齋 藤 山 人

(2)

い.むしろ,「幼稚性」という概念が持っている多重性を通して,他なら ぬ「父親たち」こそ特権的に「子どもじみる」ことができるのだという転 倒的な真実を,ディドロは仄めかしているのではないだろうか.いかにも 軽やかに書かれたこの項目には,おそらく,人間は果たしてこの「幼稚性」

を脱することができるのかという問いが,あるいはもっと言えば,いかに して父親たちは然るべく―つまり,子どもじみることなく―父性を体 現できるのかという問いが見え隠れしている

2)

.そうであるとすれば,デ ィドロの項目に響く笑いは,啓蒙主義の(典型的な哲学素とみなされる)

自律性の理想と根本的に背反する人間像を描き出していると言えるだろう.

このような反カント主義的とも言えるような人間観がすでに,啓蒙思想 の中に伏在していた例として,たとえば,他ならぬカントその人に多大な 影響を与えた教育論=人間学的著作を挙げるのは韜晦を弄するに等しいだ ろうか.確かに,「教育について」と副題されたジャン=ジャック・ルソ ーの『エミール』においては,子どもの「自律性」をいかに形成するかと いう問題が常に懸案になっているように見える.しかし,この教育論をル ソー最晩年の自伝的著作『孤独な散歩者の夢想』との間テクスト性におい て読み解くとき,そこから浮かび上がるのは,いかにも啓蒙的な―とい うのはつまり,楽観的な人間中心主義としてしばしば単純化される―自 律性の理念ではなく,むしろ,人間の脆弱性の思想である.そして,幼年 期と老年というそれぞれ対照的な人間の様態が描き出される,これら二つ のテクストを結びつけるのが「著名性」の問題にほかならない.ルソーに おける著名性については,すでにアントワーヌ・リルティが(特に『ルソ ー,ジャン=ジャックを裁く―対話』に注目しつつ)主題論的に分析し ているが

3)

,本論稿では,ルソーの著作間の関係に著名性の経験が持ち込 むダイナミズム(の可能性)に焦点を当ててみたい.著名性のテーマはル ソーのテクストの中に多様なかたちで存在しているが,その中に,「著名 人」が不可避的に体現してしまう脆さ,弱さ,あるいは,「成熟」と言う にはおよそ程遠い,絶えざる動揺と変節に対する人間学的な関心も挙げら れるのではないだろうか.以上の観点から,ルソー晩年の自伝的著作で述 懐される有名作家の老境と,『エミール』で彼が架空の子どもに施す試練 との間に,奇妙な一致があることを指摘しつつ,二つのテクストが折れ重 なる場所にルソーが描き出す「著名性」の形象を考察する.

(3)

1 . 『孤独な散歩者の夢想』における著名性の表象

1776

年から

1778

年の死に至るまで執筆された未完の遺作,『孤独な散 歩者の夢想』(通称『夢想』)においても尚,ルソーは彼の「著名性」と,

それが彼の人生に及ぼした影響に自己言及している.「こうして私は,い まや自分自身のほかには兄弟も,近しい者も,友も,つき合う相手もなく,

この地上に一人きりになってしまった」という有名な一文から始まるこの テクストには,アントワーヌ・リルティが「不幸の著名性」と呼ぶような,

ルソーのセレブリティの典型的なイメージが表現されていると言えるだろ う.いずれにしても,ルソーが(他の自伝的著作におけるのと同様に)常 に強調するのは,彼がたどることを余儀なくされた「運命」の特異性であ る.

 ああ,どうして自分を待ちうけている運命を予見できたろうか.その運命に 翻弄されている今日でもまだ,どうしてそれが理解できるだろうか.まっとう な頭で考えて,この同じ私が,いまなおその頃と同じである私が,一個の怪物 として,毒殺者,暗殺者として,だれ疑うこともなく通るようになり信じられ るようになろうなどと想像することができただろうか.自分が人類の惜悪の的 となり,下賎な輩の慰みもの(

le jouet de la canaille

)となりはて,通りすが りの人たち(

les passans

)のよこす挨拶が,私につばきすることでしかなくな り,一つの時代の人々全員がこぞって私を生き埋めにして喜ぶことになろうな どとは

4)

著名性の経験は,人類からの逸脱として描かれる.他者との差異は文字 通り,同質性(

homogénéité

)を破壊し,著名人を怪物(

monstre

)やエイ リアン(他との絆

lien

を絶たれた存在)へと転化させる.「通りすがりの 人たちのよこす挨拶」が,「つばき」を吐きかけられるような侮辱に思わ れるというのはいかにも偏執病的な記述であるが,注目すべきはルソーと 彼を眼差す人々が共に立っている「通り」,すなわち街路という場所の特 性である.このテクストにおいて,著名人と公衆との関係は 散歩 の空 間を通して演出されている.見知らぬ通行人たちの好奇の眼差しは好意と も敵意とも解釈できるゆえに,老いた著名作家を不安に陥れる.

そして,興味深いのはルソーがここで,彼のような著名人の立ち位置を 形容するために用いている「慰みもの,玩具(

jouet

)」という表現である.

他人の手のひらの上で自在に操られる存在という(『夢想』に繰り返し回

(4)

帰する)テーマは,自律的な人間(来るべき市民)の形成を目指す,いわ ゆるカント的な啓蒙の理念と好対照を成している.ところで,自律性から 遠ざけられているのは,著名性という「不幸」を生きるルソーばかりでは ない.彼が語りかけようとする公衆もまた,他者の後見なしに自らの判断 力を行使する能力を欠いているという意味で自律的であることができず,

両者は―それぞれの仕方でという留保はつくものの―鏡像のように似 通い,対峙している.

 それでも,まだ私は未来をあてにしていた.いまにもっとよい時代がきて,

いまの世の人々が私に下している判断や私に対する彼らの振舞をもっとよく検 討し,いまの世を牛耳っている連中の策謀をあっさり見破り,ついに私のあり のままの姿を見てくれるようになるのでないか,と望みをかけていた.[…]

こうした望みは,はるかな未来にかけたものであっても,この時代に心正しい 人をまだ探し求めていた頃と同じように,激しく揺れ動く不安のなかに私の魂 をつなぎとめずにはおかなかった.いかに遠い先に投げかけてみてもむなし く,希望がある以上,やはり私は今日の人間たちの慰みもの(

le jouet des hommes d’aujourdui

)になってしまうのだった

5)

ルソーがここで語っているのは公衆に対する絶望であり,彼らは進歩や 成熟の可能性を奪われた存在として描き出されている.つまり,「後世」

に語りかけるという身振りを自らに禁じながら(あるいはそのような素振 りを装いつつ),ルソーは,彼が逃避/対峙しなければならない公衆が本 質的に「今日の」人間でしかありえないと断じ,(彼が表象として構築す る)公衆のすぐれて現在的な性質を強調するのである.いずれにしても,

ルソーの記述の中で,公衆は著名人を玩具のようにもてあそぶ―それゆ えに子どものような―存在として描かれるのであり,著名人であるルソ ーも,人々の嘲弄に直面して絶えず動揺する「子どもじみた」老人として 表象される.幼稚性において,両者は奇しくも似通っているのだ.『夢想』

の「第三の散歩」には以下のような記述がある.

 逆境はたしかに偉大な師ではあるけれど,高い授業料を払わせるうえに,し ばしばその教えから得られる利益は,かかった費用に見合わない.そのうえこ んなに授業に時間がかかっては,こういう知識をすっかり身につけるまえに,

それを活用する適当な機会は過ぎ去ってしまう.青年期は知恵を学ぶ時であ

(5)

り,老年期はそれを実行する時である.経験はつねに勉強になる,それは私も 認める.しかし経験は,それから先の人生にしか役に立たない.死ななければ ならない今頃になって,いかに生きるべきであったかを学んでいて,いいもの だろうか.

 ああ,こんなに遅まきに,こんなに苦しい思いをして,自分の運命や,それ を作りあげた他人の心の動きが,いろいろとわかったとて,私にとってなんに なろう.人問がいままでよりよくわかるようになったことはなったものの,彼 らのために陥れられた悲惨な境遇がいっそうよくわかるようになっただけの話 だった.そんな知識が得られたおかげで彼らの仕掛ける罠がすべてはっきり見 えるようになって,その一つでも避けることができたのなら話はわかるが,そ んな具合には行かなかった

6)

老境にあって尚,学ぶことに事欠かないルソーの状況は,この「第三の 散歩」の冒頭に掲げられたソロンの言葉「私はつねに学びつつ老いてい く」に対する,アイロニーを表現している.このアイロニーは同時に,「教 育」や「人間精神の進歩」といった啓蒙のステレオタイプを成す原理にも 向けられていると考えられるだろうか.知識や経験はそれ自体として称揚 されるものではなく,時宜を得ない仕方で獲得されることによって,逆に 人間を悲惨と不幸に陥れる可能性があるというのだから.この点で,ルソ ーが自らのものとして語る老年は,達観や成熟とは程遠く,死を目前にし ていかに生きるべきかを学ぶことを余儀なくされるという転倒的な事態に 陥っている.そして,この転倒をもたらしているものこそ恐らく,一種の

「逆境」として描き出される著名性である.

2 . 『エミール』の反復としての『夢想』

若い日々に学んだことを実践する成熟期を迎えることができず,恐らく はこの先に役立てる機会がないほど学ぶべきことが山積している老境は,

逆説的に,幼年期の不安定性や脆弱性へと接近する.実際,『孤独な散歩 者の夢想』というテクストは,ルソーが老年に至って得ることのできた

「学び」から語り起こされる.

 ついにいっさいの努力のむなしさをさとり,まったく無駄な苦しみを味わっ ただけで,私は最後に残された唯一の方策をとることに腹をくくったが,それ は,必然(

nécessité

)にこれ以上逆らうのはやめ,運命(

destinée

)に服従す

(6)

るという決意なのであった

7)

ここで「必然」と呼ばれるのは,ルソーがいわゆる「迫害」として認識 する状況―そこには公衆の無理解・偏見(と彼の目に映るもの)も含ま れる―の動かしがたさであり,それはほとんど物質的な障害として描か れる.『夢想』以前のルソーの状況が,彼を包囲する言説の繁茂と好奇の 視線への絶えざる抵抗であったとすれば,『夢想』において彼の至った新 たな境地(ないし戦略)は,このような「運命」にも等しい絶対的な力へ の服従によって特徴づけられる.この「学び」によって,彼はもう二度と 自分が動揺することはないと宣言するにいたる.

 この違いはどこから来るのだろうか.たった一つのことから来る.それは私 が,不平を言わずに,必然性のくびき(

le joug de la nécessité

)をつけるこ とを学んだからである.まだたくさんのものにしがみつこうとしていたのが,

そういう手がかり足がかりを次から次へとことごとく失って自分一人にされて しまい,けっきょく,本来の安定した位置を取り戻したからである.四方八方 から力を加えられても,私が平衡を保っているのは,もう何にも頼らなくなっ て,ただ自分だけに支えられているからである

8)

このように,「必然性のくびき」への服従(を学ぶこと)というテーマは,

『夢想』を通じて繰り返されるが,とはいえ,それはルソーが晩年に至っ て初めて見出したものではない.これと同様の表現が,

1762

年に出版さ れた『エミール』においても用いられている.奇妙なことに,晩年のルソ ーが,老いて尚自らを苦しめる動揺を乗り越えるために学んだことは,そ の十年以上前に,他ならぬ彼自身が,架空の子どものために用意した教育 プログラムと酷似しているのである.『エミール』の第二篇では,教師が 教え子に対して「必然性のくびき」のような絶対的な力を体現することが 要求される.

 子どもが知るべきは,自分が弱い(

foible

)存在で,あなたがたが強い存在 だということ,そして力関係上,彼は必然的にあなたがたの意のままにならざ るをえない存在だということです.彼はそのことを知り,学び,感じなければ ならない.彼は早いうちから,自分の居丈高な頭の上に,自然が人間に強要す る動かしがたいくびきがのしかかっていることを感じる必要がある.それは必

(7)

然性の重いくびきであり,その下では有限な存在は頭を垂れざるをえない.子 どもがこの必然を見出さなければならないのは事物(

choses

)の理の中にで あって,決して人間の気まぐれの中にではない.子どもの行動を制約するのは あくまでも物理的な力(

force

)であって,権威であるべきではない

9)

もちろん,ここで問題となっている「必然性のくびき」は,「運命」に なぞらえられるような比喩的な意味での障壁・障害ではなく,文字通りの 意味での「物理的な力」である.ただし,ルソーの教育論において,暴力 や体罰が決して奨励されているわけではない以上,子どもと教師との関係 を基礎づける「必然性のくびき」は,「物理的な力」の行使ではなく,力 の差異の認識を介して学習されるものとして解釈される.問題は,子ども が対他的な関係において自らの「弱さ」を知ることにある.

実際,『エミール』第二篇には,ルソーが家庭教師を務めた際に,我儘 な子どもを従順にするために実践した(と彼が 証言 する)方法が紹介 されており

10)

,そこでは,教師と子どもとの間にある明確な力関係を認 識させることに主眼が置かれている.甘やかされて育てられた子どもは,

大人に命令することに慣れてしまい,好きなときに自分を散歩に連れ出す ことを教師にも要求する.子どものわがままに付き合わされることに辟易 した若き家庭教師は,あるスペクタクルをしかけることを考案する.

準備を整えたルソーが罠を張って待っていると,いつものように,子ど もは一緒に出かけてほしいとせがみにやって来る.教師は多忙を理由に頑 として応じない.そうすると,子どもは一人で外出すると言って教師を脅 し,その関心を引こうとする.当初の予期に反して,家庭教師ルソーが自 分の身を心配してついてきてくれないことに,子どもは不安を感じ始め る.一人で外出する不安は「自分の知らない人々の中で一人きりになるこ と」と表現されているが,それは実際,子どもが一切の庇護を奪われたま ま,通りに立つことによって如実に感じられるものとなる.

 他の全ての人にとって自分が重要な存在だと信じていて,宇宙全体が彼の運 命に関心を寄せていると考えている彼にとって,一人で外出することを許され るなんて思いもかけない.彼は自分の弱さを感じ始め,自分の知らない人々の 中で独りきりになるのだと理解する.彼は自分に降りかかるであろう危険をあ らかじめ想像する.今や彼を支えているのは強情だけだ.彼は狼狽しつつゆっ くりと階段を降りる.ついに彼は通りに降り立ち,もし何か少しでも悪いこと

(8)

が起これば,私のせいになるだろうとただそれだけを自分の支えにする

11)

普段ちやほやされている良家の御曹司は,庇護者の大人がいなくなるや 否や近所の人々の好奇の眼差しに晒され,悪童たちにからかわれて,当惑 を感じるような様々な出来事に遭遇する.しかし,これらはすべて,ルソ ーがあらかじめ仕組んでおいた芝居であり,通りで子どもが遭遇する人間 たちもみなエキストラを演じるように頼まれた者たちであって,実際に は,彼の依頼した人間が,子どものことを常に注意深く見張っていたこと が明かされる.彼の仕掛けた(およそ非現実的な)芝居が成功を博し,望 み通りの効果を上げたことを,ルソーは誇らしげにこう記している.

 そうなることを私は予期していた.全ては前もって準備され,みんなで一種 の芝居をうつこと(

une espéce de scène publique

)について,子どもの父親 からも了承を得ていたのだ.数歩も踏み出さないうちに,左右から彼のことを 様々に噂するのが聞こえる.近所に住む男が,立派な旦那様のお出ましだ!た った一人でどこに行くんだろうね?迷子になってしまうだろうよ.ぜひうちに いらしていただきたいもんだね,と言う.そうすると,近所に住む女がこう言 う.見てわからないんですか?あれは,真っ当になろうとしないせいで父親の 家から追い出された放蕩者ですよ.放蕩者なんて家に入れたらいけません.好 きなところに行かせたらいいじゃないですか.神様が彼を導いてくださればい いけど,彼に何か悪いことでも降りかかったらご生憎なこと.さらに少し先に 進むと,自分とほぼ同じ年の悪童たちに出くわして,彼らにつきまとわれ,か らかわれる.彼が先に進めば進むほど,当惑するようなことが起きる.ただ一 人で,自分の身を守る術もなく,彼は全ての人の慰みもの(

le joüet de tout

le monde

)になる.彼は自分の肩の飾り結びや金の袖飾りが,尊敬を集めて

いないことを知って驚きを禁じえない

12)

このように,現実の近隣街区を舞台空間とし,生活世界そのものと見紛 うかたちで構成されたスペクタクルの中に一人放り込まれて,子どもは自 分自身の立場を認識する.教師の監視と後見を離れて街路に降り立つこと を余儀なくされた子どもは,実体験を通して,自らが「全ての人の慰みも の(

le joüet de tout le monde

)」にならざるを得ない存在であること,す なわち,彼自身の「無力」と「弱さ」を学ぶのである.また,この教訓は 架空の少年エミールだけでなく,未来の教師たるべき人々にも同時に向け

(9)

られている.

 このような手段で,私はこの子と一緒に過ごした僅かの間に,命令も禁止も 説教も勧告もせず,無駄な教訓で彼を飽き飽きさせずに,私の望むことを彼に させるに至った.同様に,私が彼に話しかけているかぎり彼は何も心配しなか ったが,私が沈黙していると不安になり,何か問題があるのだと理解するよう になったのである.そして,教訓は常に事物そのものによってもたらされた

13)

言語的な媒体によらずに子どもの行動に働きかけ,自らの望むように子 どもを操作して,あらゆる言語的抵抗の可能性を奪うこと.子どもを支配 するために,ルソーが若い教育者たちに教示する方法は,公人としての彼 が晩年に被った(と彼自身が語る) 口封じ と奇妙なほどに似通ってい る.エミールという架空の子どもも,老境にある著名作家ルソーも,マリ オネットのように操作可能で,かつ玩具に喩えられる対象として表象され るのである.いずれにしても,この教育実験を通して分析されているの は,「必然性のくびき」という(ほとんど物理的と言ってよい)拘束力が,

「弱さ」の認識を生み出し,同時にそれを内面的な規律に変化させてしま うメカニズムである.別の言い方をすれば,脆弱性の認識―というトラ ウマティックな経験―は,(それが期待された教育的効果を発揮するな らば)子どもの欲望を教師の意向と混同させて,自律性の幻想を生きるこ とを可能にする.このようなしつけ=馴致によって,眼差すものと眼差さ れるもの,監視するものと監視されるものとの間に統治の形式が生み出さ れる.

3 . 散歩者と街路

ひとまずは以上のように,ルソーの(何重にも虚構的な)教育的スペク タクルの教訓を要約することができるだろうか.果たして,家庭教師時代 にルソーが本当にこのような大がかりな(ゆえに,実現が困難であるとし か思えない)実験を行ったのかどうか.真偽のほどが甚だ怪しいエピソー ドではあるが,それだけに興味深く思われるのは,この『エミール』の記 述において,絶えず動揺に苛まれる子どもの状況を形容していた「万人の 慰みもの」という表現が,著名作家の老境を形容するものとして,『夢想』

のテクストに再び回帰する点である.

それと同時に,人々の視線と野次によって子どもを恐縮させるために作

(10)

られた―まるで映画のセットのような―街区は,老作家が自らの著名 性を意識ながら歩を進める街路と奇妙に似通った相貌を取り始める.ただ し,成功裡に終わる『エミール』の実験と対照的に,『夢想』の「第八の 散歩」で老境のルソーが体現するのは皮肉にも,教育の失敗ないし不可能 である.

 いまでも人々[人間たち]にとりかこまれて,その親切めかしい態度だの,

大げさで人を小馬鹿にしたお世辞だの,蜜をぬられた悪意だのの慰みものにな って過ごすみじめな折は,こうは行かない.どんなふうに私が振舞えたとして も,そのときには自尊心が登場する.彼らの心のなかに,その粗悪な殻を透し て,憎悪と敵意が見えてしまうと,私の心は苦しみに引き裂かれる.こんなに 愚かにも自分がだましやすい人間と思われているのかと思うと,この苦しみに なんとも子どもっぽいくやしさがさらに加わる.これはくだらない自尊心の生 みだすもので,その馬鹿馬鹿しさは重々承知しているのだが,私にはそれを抑 えることができない.人を侮辱し小馬鹿にするようなまなざしに慣れるため に,私がどんなに努力したかは信じられないくらいだ.こうしたひどいペテン に慣れるというただそれだけの目的で,幾度となくみんなが散歩に出かけると ころやいちばん人出の多い場所を通ったものだった.私は目的を果たせなかっ たばかりでなく,まったく進歩さえしなかった.そしてあんなにつらい,しか もむなしい努力を重ねたあげくが,私はあいかわらず元通り,いとも簡単に動 揺し,傷つき,怒りだす人間のままなのだった

14)

果たして,『夢想』の諦念は『エミール』の教育プログラムをアイロニ カルに反復したものであるのか.思わず,十分に根拠のない―こう言っ てよければ妄想と言ってもいい―比較に流されそうになるほど,対照的 な二人の散歩者たちが歩む街路は似ている.しかしながら,この通りは,

「自律(の不可能性)」,「自尊心」,「不安定性

15)

」,「弱さ」といった啓蒙 と表裏を成すトピックが交差する場所であり,その意味で,二つの「子ど

もじみた

puéril

」形象―甘やかされた少年と成熟しない老人―がすれ

違う必然性のある十字路でもある.

また,上の引用の記述が興味深いのは,ルソーの散歩の動機が帯びる両 義性を明かしている点である.著名作家は果たして,公衆の視線や喧騒を 避けるために散歩をしているのか.あるいは,自らをスペクタクルの対象 として差し出しつつ,自律と成熟を達成するための最後の機会に賭けてい

(11)

るのか.ルソーを散歩へと誘う二つの対照的な動機が,ここでは曖昧なか たちで結びついている.同様な両義性は「第七の散歩」にも記述されてい るが,奇しくもその際に姿を見せるのが著名性のテーマである.

 このような余暇の営みには,情念がまったくなごやかに静まっているときに しか感じられない魅力がある.しかし,その魅力はこのとき,それだけで十 分,人生が幸福で甘美なものになるほど素晴らしいものだ.しかし,いったん そこに,地位につくためだとか,本を書くためだとかいう,利害や虚栄心のか らんだ動機が入りこんできたり,人に教えるためにのみ学ぼうとしたり,作家 や学問的権威になるためにのみ植物採集をするようになると,この楽しい魅力 はたちまちにしてすっかり,消え失せ,もう植物のなかには,私たちの欲望を 満たすための手段しか見なくなってしまう.もう植物の研究に,ほんとうの喜 びはなにひとつ見出さなくなり,もはや知ろうと欲するのでなく,知っている ことを見せびらかしたいと望み,森にいても,世間という舞台に立っているの と変わりなく,もてはやされることばかりに気をつかうことになる.[…]こ うしたことから,本書きの植物学者のあいだに,他の分野の学者たちの場合に まさるとも劣らぬくらいに,著名性を争う競争心のせいで,いろいろ憎悪や嫉 妬が生みだされることになる.彼らは,この愛すべき研究の本質をゆがめて,

都会やアカデミーのまんなかに移しかえるが,そうなると,好事家の庭園に移 植された異国の植物と同じことで,これは変質してしまうのである

16)

著名性を追求するために,そして,書物を生産するために植物学に従事 する学者が,植物を都市空間の中(たとえばキャビネや庭園)に移す傾向 があるのに対し,ルソーはこれを虚栄心に立脚した仕事として批判しなが ら,自然の中にこそ植物を観察する喜びを求めるべきであると主張する.

これに続いて,彼はかつて植物の観察のために入り込んだスイスの山奥 で起こった出来事を想起する.植物採集に夢中になっているうちにいくつ もの山や森を超えて,地上の最果てのような場所にたどり着いたルソー は,人類がいまだ足を踏み入れたことのない純然たる自然の深奥に自分が いるのではないかという感覚にとらわれる.ところが,人間社会とそれを 支配する名声の原理から隔絶されたこの地で,奇しくも,ルソーは自らを コロンブスのような著名人になぞらえるのである.

 ここは世界中でだれひとり知る人のいない隠れ家で,ここなら迫害者に見つ

(12)

けだされることもあるまいなどと考えながら,すっかりくつろいで夢想にふけ りはじめた.うぬぼれた気分が,やがてこの夢想にまじってきた.私は,無人 島を発見する大旅行家たち(

grands voyageurs

)に自分をなぞらえ,きっと 自分はこんなところまで入りこんできた最初の人間なのだ,などと悦に入って 考えるのだった.自分をもう一人のコロンブスとみなさんばかりだった.こん なことを考えて得意になっていたとき,ほど遠からぬところで,なにかかちゃ かちゃいう音が聞こえた

17)

最果ての地でルソーが自らのうちに見出すのは,人間社会の喧騒から離 れた無私と透明の境地などではなく,むしろその不協和音の主要な構成要 素である虚栄心や競争心である.記憶をもとに書かれたこのエピソード は,(先に見た『エミール』の実験のように)現実に起きたと思えないほ どテマティックに構成されている.ルソーが,冒険者としての著名性とい う想像上の栄誉と自尊心に酔い始めた瞬間,機械音が聞こえてきて,自己 充足の幸福は破壊される.ふと気づくと近くには靴下工場があり,人間の 営みがこのような場所にも存在していることに彼は喫驚するのである.

「孤独な散歩者」が歩む空間の二重性が明らかになるのは,まさにこの時 である.

 私が最初にここまで来た人間だと思っていたその場所からわずか二十歩ばか りの小さな谷間に,靴下工場の建物が見えるではないか.

 そんなものに気づいたとき,どんなに私が困惑し,矛盾した気持を感じたか は,とても言いあらわせない.とっさに感じた気持は,まったく一人きりだと 思っていたのに,人間のなかにいることがわかった喜びの感情だった.しか し,この気持は,稲妻より速く,たちまちつらい感情にとって代わられ,アル プスの洞窟にいてさえ,執拗に私を責めさいなもうとする人間たちの残忍な手 から逃れることはできないのか,といった思いが重く尾をひくのだった.とい うのも,あのやくざ牧師のモンモランが首謀者になってはいたが,その淵源は もっと遠いところにあったあの陰謀に加担していないものは,おそらくこの工 場には二人といないことを,私は確信していたからである.私は急いでこの嫌 な考えを振り払った.そしてしまいに,自分の子どもじみた虚栄心(

ma vanité

puérile

)のことが,そのために滑稽な具合に罰せられることになったことが,

われながらおかしくて笑いだした

18)

(13)

人間社会を逃れて自然へと向かっていた(はずの)散歩者の意識は,し かしながら,彼の著名性とそれを支える都市空間にしばしば浸潤される.

無人の地に踏み込んだルソーは―あたかも子どもがごっこ遊びに興じる ように―自分自身をコロンブスのような著名な冒険者になぞらえて満足 している.さらに,工場の存在に気づくや否や,ルソーは,最果てのよう な地で自分を知る人間がいること(彼の言う「陰謀」の普遍性)を恐れつ つ,同時に,それほどまでに自分の名前が知られていることを少し期待し てもいる.自らの「子どもじみた虚栄心」を描き出すルソーの記述は,記 憶の彼方の―ほとんど夢幻的と言ってもよい―空間に,著名人の心理 的メカニズムを投影したものではないだろうか.いかなる目撃者も登場し ないこのエピソードにおいて,無人の地の経験はルソーの内面的なドラマ とほとんど同義であると言えるだろう.実際,「第七の散歩」のテクスト も過去の事実を正確に想起したものなのか,あるいは回顧的に構築された エピソードであるのかという点が―自伝的な言説の常として―判然と しない.

いずれにしても,自然の中の植物を都市空間に移植しようとする植物学 者と,彼らの「研究」を動機づけている著名性への欲望とが批判された直 後に,それとは対照的に,植物に対する情熱に駆られて自然の中へと迷い 込み,森の暗がりの奥深くで―驚くべきことに―著名性に呪縛された 自己意識を見出すルソーの「散歩」の展開は,忠実な回想の記録と言うに はあまりにもよくできていると言えるだろう.

この「第七の散歩」の記述においてもう一つ注目すべき点は,ルソーが,

スイスの自然を一つの巨大な都市空間として幻視していることである.

 しかし,まったく,だれが断崖の奥に工場を見かけることなど予期したりし たはずがあろうか.原始のままの自然と人間の営みのこんな混淆が見られるの は,この世でスイスしかない.スイスは全体がいわば一つの大きな都会にほか ならず,サン=タントワーヌの通りよりも広く長い通りには,ところどころに 森林が点在し,山が行く手をはばんでおり,散り散りに孤立した家々は,イギ リス式の庭園を通じて互いにつながっているだけである

19)

ルソーの想像力の中で,自然豊かなスイスは一つの街路へと変貌する.

この「通り」という場所は,奇しくも,作家が著名性ないし著名人のトピ ックに触れる際に重要なトポスを構成していたものにほかならない.彼

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が,都市空間と二重写しになったアルプスの山奥で見出す,自分自身の

「子どもじみた虚栄心」と著名人としての自己意識は,衆人環視の中にあ えて歩を進める「第八の散歩」へとリレーされる.このパリの路上でも,

先に見たように,作家は自律と成熟の困難という問題と(すなわち,著名 人を呪縛する脆弱性の意識と)直面することを余儀なくされる.

4 . 結びにかえて

幼年期と老年期が交差する場所に,著名性のトピックが現出するのは,

果たして偶然か否か―本論稿は,『エミール』と『孤独な散歩者の夢想』

という(それぞれ子どもと老人を象徴的な形象として掲げる)テクストの 二重折れ0 0 0 0に注目しつつ,そこに,ルソーの著名性に対する思考を見出そう としてきた.『夢想』が実際に,それより十年以上前に書かれた教育論を 反復・再生産したテクストであるのかどうか確かめるすべはないが,二つ の著作が子どもと老人の生,つまり,成年期の外にある人間の様態に関心 を寄せているのであれば,両者の記述に―発生論的な関係があるかどう かはさておき―類似性が見られるのも不思議はない.エミールと彼の

(かつての)師が似通った輪郭を持つのは,両者ともに,「必然性のくびき」

のもとで自らの脆弱性の認識に直面するからである.

 それが必然性(

nécessité

)であれ,人間(

hommes

)であれ,いったんく びき(

joug

)につながれていると感じると,たちまち私は反抗的になり,とい うか,むしろてこでも動かなくなる.そうなると私は無に等しい存在である.

自分の意志と反対のことをしなければならないときには,どんなことになろう と,私はそんなことはしない.かといって私の欲することもしない.なにしろ 私は弱者なのだから.私は行動を控える.まったく,私の弱さ(

foiblesse

)は すべて行動に対するもので,私の強さはすべて消極的に働くものであり,私の 罪はすべてが怠慢の罪であって,作為の罪であることはまれなのである

20)

老いた著名作家は,教え子を服従させるためにかつて用いた不可視の

(そして,しばしば想像上の)拘束具を自らはめられる段になると,何も しないという子どもじみた0 0 0 0 0 0方法であらがい始める.このような消極的抵抗 と脆弱性の意識は,人間社会からの撤退,あるいは社会の有用な構成員と して存在することの拒否としてひとまず解釈されるだろう

21)

.しかし,

それは同時に,父性の不可能性(ないし不能性)と表裏の関係にあるテー

(15)

マとしても読むことができるかもしれない.社会関係の生産と再生産のサ イクルから自分自身を排除している点で,ルソーのような(文字通りの意 味においても,比喩的にも,父になることを拒否する)著名人が生きるこ とを余儀なくされるのは,本質的に現在的な生の形態である.このとき,

子を持たない(ゆえに),子どもじみた老人の境遇は,すぐれて象徴的な 著名人のシルエットを描き出しているのではないだろうか.いずれにして も,『夢想』において様々な形態で展開されているのは,老成の困難と死 にいたる未熟というテーマである.そして,この「弱さ」についての人間 学的思考ときわめて密接に関わっているのが,彼が描き出す―絶えず動 揺を繰り返しつつ,成熟というモメントを構造的に奪われる―著名人の 形象にほかならない.ひとたび著名性を手に入れた人間は果たして,自律 的な存在として生きることができるのだろうか.著名人の生と緊密に結び ついたルソーの人間学は,教育論と自伝的言説の二重折れの上で揺らぎ,

傾き続けている.

1) Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres, Paris, Briasson, David, Le Breton, Durand, vol. XIII, 1765 , p. 554 a.

2)

フランス啓蒙期の知識人と父性性の呪縛というテーマについては,以下の文 献を参照.

Jean-Claude Bonnet, « La malédiction paternelle », Dix-huitième siècle, n° 12 , Paris, La Découverte, pp. 195 - 208 .

3)

アントワーヌ・リルティ『セレブの誕生―「著名人」の出現と近代社会』

松村博史・井上櫻子・齋藤山人訳,名古屋大学出版会,

2019

年.

4)

ル ソ ー の 著 作 の フ ラ ン ス 語 原 文 は,

Jean-Jacques Rousseau, Œuvres complètes, dir. B. Gagnebin et M. Raymond, Paris, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959 - 1995 , 5 vol.

(以下

OC

と略す)を参照し た.日本語訳は『ルソー全集(全

14

巻・別巻

2

)』(白水社,

1978 - 1984

年)

を参照しつつ適宜改変を行った.フランス語を併記する際は,現代化せずに原 文の綴りに従った.強調はすべて引用者による.

注の該当箇所は『ルソー全集』第

2

巻,『孤独な散歩者の夢想』「第一の散歩」,

306

頁.

OCI, p. 995 - 996 . 5)

同書,

309

頁.

OCI, p. 998 .

6)

同書,「第三の散歩」,

325 - 326

頁.

OCI, p. 1011 .

7)

同書,「第一の散歩」,

306

頁.

OCI, p. 996 .

8)

同書,「第八の散歩」,

407

頁.

OCI, p. 1077 .

(16)

9)

『ルソー全集』第

6

巻,『エミール』第二篇,

98

頁.

OCIV, p. 320 . 10)

ここで暗示されているのは恐らく,ルソーがデュパン夫人の子どもの家庭教

師を務めた際の経験である.

11)

前掲書,『エミール』第二篇,

152

頁.

OCIV, p. 367 . 12)

同書,

152 - 153

頁.

OCIV, p. 367 .

13)

同書,

153 - 154

頁.

OCIV, pp. 368 - 369 .

14)

前掲書,『孤独な散歩者の夢想』「第八の散歩」,

413

頁.

OCI, p. 1081 . 15) Jean Deprun, La philosophie de l’inquiétude en France au XVIIIe siècle,

Paris, Vrin, 1979 .

16)

同書,「第七の散歩」,

397 - 398

頁.

OCI, pp. 1069 - 1070 . 17)

同書,

399

頁.

OCI, p. 1071 .

18)

同書,

399 - 400

頁.

OCI, p. 1071 .

19)

『ルソー全集』第

2

巻,『孤独な散歩者の夢想』「第七の散歩」,

400

頁.

OCI, pp. 1071 - 72 .

20)

同書,「第六の散歩」,

385

頁.

OCI, p. 1059 .

21)

著名人と市民という二つのカテゴリーの緊張関係について,ここでは詳細に 扱う余裕がないが,以下の文献は両者を結ぶ一つの手がかりになる.

Alain

Brossat, Le Plébéien enragé. Une contre-histoire de la modernité de Rousseau

à Losey, Neuvy-en-Champagne, le Passager clandestin, 2013 .

参照

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