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明治期シャム国日本派遣女子留学生について

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著者 チャリダー ブアワンポン

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 42

ページ 84‑105

発行年 1990‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011053

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ロ来日以前の教育レベル白選出理由三日本での留学生活日学業の進歩についてロ日本での留学生活の問題について白経費に関して四女子留学生の成果日女子留学生のその後の去就 はじめに一女子留学生の日本派遣の子細及び背景㈹ワチラゥヅト皇太子の日本公式訪問□皇后の女子教育への情熱白御雇日本人女性教諭二四名の女子留学生

白。(-) 法政史学第四十二号

個人的背景

明治期シャム国胤本派遣女子留学生について

Q留学の成果及び問題点おわりにl明治期シャム国日本派遣留学生l主要参考資料・主要参考文献⑩シャム留学生関係年表②日本・シャム女子教育関係年表

十八世紀、帝国主義のもとに欧米列強はアジア周辺諸国にこぞって進出を開始した。特に中国は列強各国に市場として注目を集める所となった。そして、それに連なる東南アジア各国は中国同様列強の侵略の危険と絶えず向い合っていたのである。欧米列強が東南アジア諸国にその触手を伸ばしはじめた時期はタイはラタナコーシン王朝のラーマ三世時代に当たる。このごろには、すでに列強はアジア諾 はじめに

チャリダー・ブアワンポン

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国を植民地化する意志を露骨にあらわし、南及び東南アジア諸国・インド・マラャ・ビルマ・ベトナム・カンボジアなどが植民地化されていた。タイ(当時はシャム巴シ三)が列強の植民地収奪競争の渦中に直接に巻き込まれたのはラーマ四世(一八五一’一八六八)モンクット王時代である。列強の侵略圧力に対してラーマ四世は自国の独立安全を第一とし、列強及び西洋諸国との条約を結び、国の外郭領土(カンボジア東部など)を列強に割譲するなどの対応をとった。また、同時に西洋文化・教育などを導入し、近代化をはかろうとした。だが、ラーマ四世は即位後十七年で世を去り、その列強への対策は有効であったものの万全とは言えず、また近代化を成し遂げるには、あまりに短かすぎた。ラーマ五世時代(一八六八~一九一○年)に入ると、列強の侵略は激しさを増した。また一方でも摂政家と王自身の権力についての問題もおこり、初期の国王の海外訪問は「東南アジアにある列強植民地」国の近代化がまさに急務であることをラーマ五世に悟らせることとなった。しかし、当時、そのもととなるべき国内教育がまだまだ整備された状態ではなかったため、国内教育の促進が第一であった。そのために、また先進国の教育・技術などを習得する

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙 ためにも、外国への留学生派遣政策、及び外国人を一雇うという政策が遂行されることとなったのである。ラーマ五世は中興の祖とも呼ばれ、父ラーマ四世の意志を継ぎ、タイの近代化を成し遂げた国王であった。その治政は一八六八年(明治元年)から一九一○年(明治四一一一年)の概ね四十二年間に及び、ほぼ日本の明治天皇と同時期に玉座にあった。そのため、共通点も多い。日本は明治時代、自らの国の近代化のために西欧文化・文明を移入した。そのために、お雇い外国人の一雇傭・留学生の派遣などが行われた。重さに、タイでも前述のごとく同様の政策がとられ、近代化が推進されて行ったのである。しかし、タイ近代化は日本のそれと比較し、ゆっくりとしたペースで進められた。日本は一八八九年、大日本帝国憲法が制定され、法治国家として認められ、翌年の教育に関する勅語によって形式的には近代化が遂行された。アジアで最初の独立を維持した近代国家の成立である。その時分、タイではまだまだ進行過程の中途であり、西欧文明文化の摂取は行われてはいるものの、まだまだ模索の状態であった。一八九二年、この年はタイにとって重要なターニング・ポイントとなった。政策の変換が行われ、新しい方向へと進永始めたのである。留学政策にも基本方

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針の変更が見られ、日本への留学生が行われることとなった。私はこの論文において、タイの留学生政策そして、それら日本へ派遣された留学生の背景・実態・成果について述べようとするものである。こういった日本への留学生につ(1)いての先行研究は日本ではまだほとんどなされていない。また、タイでも同様で若干の文献にふれられているの糸で(2)ある。主要史料としてはタイの国立公文書館に所蔵された諸文書、日本の外交史料館所蔵の関係文書を使用し、論を進めていきたい。

ラタナコーシン王朝初期の女子教育の理念・状況はアュタャ時代から連続したものである。アュタャ時代の女子教育の状況は、まだ一般の人々をも対象としてはいなかった。上流階級の女性には学問的なたしなゑ、手芸学、礼儀作法、器楽演奏、舞踊などの学習機会が与えられたが、一般女性には全く与えられていなかったのであった。旧来の女子教育状況はラーマ一一一世迄そのまま存在した。しかし、ラーマ四世時代に入ると、王子と同じように貴族女子の教育状態に変化が表われ始めた。一八五五年イギリスと「ポウ 法政史学第四十二号

女子留学生の日本派遣の子細及び背景 リング」条約を締結して以来、西洋文化がシャムに導入され、ミッションの設立を見た。ラーマ四世自身も外国人との商売及び友好的な面での関係のために外国語を勉強する必要そして列強の影響を中心に実感した。それゆえに王族関係者(男女を合わせ)は英語などの外国語の学習をした。女王の英語授業にはミッションの奥様連中を何名か一層い宮殿で授業が行われた。ラーマ四世時代に於ける貴族の女子教育の変化はつまり旧来たしなみとしてはタイ語の読承書きする方法しか教えられていなかったのが、英語も加えられたことである。ミッションでは男子用の西洋風学校教育が行われたが、女子ではまだ行われていなかった。庶民の女子教育に関してこの時代にはまだ変化がなかったため、旧来のような教育状況が存在し続けていた。シャム・日本両国の女子教育の実情を察すれば、シャムは女子教育に皇后の信念によってスポットがあてられることになり、発展期に差し掛かっていたところであったが、一方日本の女子教育は制度・機関・人材・組織などが整備され、隆盛期に入っており、義務教育によって初等学校の就学率は九十パーセント以上にも達していた。その他にも日本の女子教育の指導理念がシャムの指導者層に好まれた。日本の女子教育を模倣しシャム式の女子教育が行われ 八六

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白ワチラウット皇太子の日本公式訪問イギリスの留学からの帰朝の際、アメリカ・日本・香港に立ち寄るという訪問計画によって一九○一一(明治三十五)年十二月十六日から翌年の一月十四日の約一カ月間、シャム皇太子ワチラウット親王が日本を訪問した。これにより皇太子自らが当時の日本の躍進ぶりに接することになったのであった。皇太子一行の他にバンコクから皇太子の送迎のために御召船「マハチャクリー」が送られ、それと共に(3)軍事及び教育の視察団が来日して、日本の諸都市を訪問 た。日本への女子留学生の派遣は日本の女子教育に興味を持ち、近代的な女性教育を目指し始動することを成功に導くための一つの方策であったと言えるかもしれない。しかし、女子留学生らが男子と共に手工学及び手芸学の学習を目的とし来日したのは、先に述べた理由以外にも別な背景があったものと考えられる。女子留学生派遣の直接の原因は一九○二(明治一一一十五)年末から翌年初頭の皇太子の日本訪問、(皇后等の)近代女子教育始動に対する意志、日本人女性教育者(安井てつら三名)の来暹、という一一一点が考えられる。

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙 し、日本文化など様々なものを視察した。帰国後、日本の美術・手工芸に感銘を受けた皇太子は婦人用の手芸学に興味を持ち、皇后と相談し、将来タイ人にその技術をもたらし、教授できるよう、手芸学に才能ある子(4)女を日本に留学させることを決定した。また皇太子の日本訪問の際、日本教育を視察にやってきたルァン。.〈イサンは文部省へ提出したレポートで、ヨーロッ.〈より経費が安く、西洋と異なる長所を認め、おそらくシャムに有効であ(5)るだろうと一一一一口う進一一一一口をした。皇太子の日本訪問及び教育視察団の成果を受けて指導層と教育関係者から日本への留学生派遣に関する意見書が提出された。しかしこういった意見書が出されたのは政府が日本の列強と肩を並べる程の繁栄に関心を示したからということばかりが理由ではなかった。一八八七(明治一一十)年、「日暹修好宣言書」が調印された。翌年一月一一十三日シャム政府の代表が批准書の交換のため来日した。その際、日本の教育を視察するために最(6)初の視察団が来日した。しかし、視察団のレポートは当時の文部局長の目には、あまりに発達した日本の状況はシャムにそぐわないものと映り国内教育には不必要であり効果をもたらすものではないとした。一方、「マハチャクリー」

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と共に来日した人の中には視察団に名を選び、皇太子も自分の小姓四名を選出した。日本に派遣された学生八名は公式には初めてのものとなり、手芸学などを学習することを目標とした。

□皇后の女子教育への情熱既に述べたように明治三十年代の半ばには日本の女子の小学校就学率は九十・〈-セント以上に達していた。当時のシャムの女子教育を見てふるとミッション系女学校一校しかなく、皇后がシャムに於けるタイ風の女子学校を創始しようとしていた所であった。こういった皇后の考えは明治三十年代の初期段階で登場したのであるが、国王の関心の低さ、教員及び経営者の問題、創立する女子学校の方針に関する諸問題があったた(7)め、女学校の創立は遅れていた。一九○四(明治三十七)年四月に創立したシャムの最初の女学校は皇后の熱意とその考えを反映し、ミッション系女学校で教えられるような西洋的文化を避け、日本の良妻賢母主義を範として創立された学校であった。皇后が以前からシャムに女学校を始めたいという考えを持っていたのになぜ開校時期が明治三十七年になったのか 法政史学第四十二号

という疑問に注目すれば、国王の関心の低さや経営者や方針に関する問題を除いて女学校の創始に対する影響を与えたポイントは、前に述べたようにワチラウット皇太子の日本訪問及び日本教育の視察結果であったと考えられる。しかし、前述の側面以外にも、何か他にあるのではないだろうか。日本側の資料によると一九○一一一(明治三十六)年一月一日、稲垣満次郎公使が皇后の誕生日に皇后に拝謁し、その際皇后から日本に男女八名の留学生を派遣したいとの話を(8)もちかけられたことが記されている。ここから察しられるように皇后自身が皇太子や。〈イサンの意見書に同意する以前に既に男女八名の留学生の派遣を希望していたことがわかる。皇太子の勧めや.〈イサンのレポートはただ皇后の決心をより強固なものとした物であったと言えるだろう。つまり日本訪問以降、皇太子の報告及び勧めによって皇后は当時の日本の女子教育状態をよく理解できるようになった。また、タイ人に教えるために女子を日本に手芸学を学習させに留学させるべきであるという皇太子の一一一一口葉は皇后にとっては、自分の意見に皇太子が賛成しているものと感じられ心強いものとたったであろう。そして視察団のレポートは日本への留学生派遣の試みに関する意見の他に、 八八

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口御雇日本人女性教諭女子学校の始まった当時、皇后は日本女子教育の基本的理念であった良妻賢母主義に関心を持ち、日本の女学校を模範としてシャムの女学校を創立し、日本人の女教員三(9)名、安井てつ・中島トシ・河野キヨを一雇った。 日本女子教育の状態も知らせることとなり、指導者の興味を向かせることになった。これらによって一九○三年初頭から一九○四年初頭にかけて女学校が急ピッチで用意され、四月一日には開校の運びとなった。教育の基本には手芸学の知識を職業として使用できるようにすること、また、英語タイ語の読み書きを可能にすること、そして婦女子の品行道徳を教えることが据えられた。この学校の基本理念は日本の良妻賢母に範をとったものであった。この学校の最初の校長には安井てつがむかえられた。女子学校の創立と同時に明治三十六年半ば頃、皇后は男女八名を日本に派遣した。女子学生四名はタイ女性に手芸学を教授できるようになることを目的として来日した。これは同時に創立した女子教育機関の教育者となることを意味した。

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙 安井てつは一八七○(明治三)年、東京に生まれ、一八九○年女子高等師範学校を卒業し、母校の教員となった。その後、岩手県尋常師範学校に転勤。一八九七~一九○○年には家政学、教育学研究のためイギリスに留学した。帰国後、シャムに渡った。退任後イギリスを再訪し、帰国後一九一八年の東京女子大学創立とともに学監に就任し、一(、)九二一一一年、第一一代学長を勤め、一九四○年世を去った。女子教育に対する彼女の指導理念はキリスト教主義的人格教育の重視、体育教育の重視、リベラルカレッジとしての学園作り、学究生活と社交的生活の調和などであった。彼女の教育観及び業績から察すれば、もっとも影響を与えたのは一八九七年のイギリス留学であった。これにより彼女はキリスト教を信仰することとなり、日本の女子教育の基本として良妻賢母主義にも反対の態度を表し、当時のイギリス流の女子教育を主張した。一九○四(明治三十七)年七月二十七日の「萬朝報」言論欄に安井てつの女子教育に関する論説が載せられた。その内容は男女の差別、女子が人であるという観念の弱さ、料理や育児法などにかたよる日本式良妻賢母主義を批判し、当時のイギリス流の夫人のご(u)とく女性を養成すべきであるという人格教育を求めた。これが彼女をシャムへ渡らせるようにさせた原因となったと

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屯考えられる。シャム側が日本の女子教育に興味を持ち日本政府に教員の派遣を依頼した。安井てつば再三文部省から要請を受け、結局国のため気が進まないまま、シャムに渡ることとなった。当時、安井てつ以上に良妻賢母主義を主唱する女性教員が他に何名もいたはずであったが、何故安井が選出されたのであろうか。おそらくこの時の日本は国家主義的儒教思想が強く、キリスト教は国に危機を与え不要のものと思われたため、教育界の指導者はキリスト教を信仰する安井てつを外国へ左遷することを望んだからと考えられる。安井てつは何にしろ、河野キヨ・中島トシらとともにシャムに渡った後、三年間異なった社会、異文化、激しい気候の中で堅実に教員生活を続けた。安井の本性から生徒との関係が深く結ばれ、生徒が安井の在シャム生活を支えた唯関係が深く結ばれ、生徒が{(皿)一つの楽しゑであった様だ。安井てつの指導によって当時のシャム女子教育は日本の近代教育をどのように摂取したであろうか。安井てつのシャム在留期間は三年と短かく、彼女の良妻賢母主義に関する考えはかなり日本の平均的思考とは異なった物であり、また、シャムでは女子教育の基本的理念がまだ定められていなかったため、日本風な女子教育を完全に享受できるは 法政史学第四十二号

ずもなかった。しかし、日本教育の基本骨格を授与し、後にそれらをシャム的に発達させ役立てた。日本の女教員を一雇ったこととの関係は以前に述べたように日本の女子教育を模範とし近代教育の摂取を指向したこと以外にも、安井らの契約切の際に備え、その後任の皇后女子学校の教員を準備するという目的があったためとも考えられる。

日本への女子留学生を派遣した経緯、両国の女子教育の相違点、類似点、皇后達指導層の思考及びそれに関連した事情などについて、ここまで考察してきた。次に女子学生らの来日する以前の個人的背景、教育レベル、選出理由について考えてふたい。

日個人的背景一九○一(明治三四)年一月頃、男女八名の留学生の日本の派遣に関する計画がたてられたが、皇后の御所労のため(旧)留学生の選出が遅れた。しかし、結局皇后が自分で四名の女子、ピット、カチョン、ヌアヱリーを選出した。彼女たちはかなりの良家の出身者であった。ピット二八八九 二四名の女子留学生 九○

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Q来日以前の教育ヒヘルピットの父は当時としては進歩的な考えを持ち、女子の教育がまだまだ進んでいなかったこの頃一校しかなかった女子学校ミッション系のワンランに彼女を入学させた。七歳から十五歳まで学校で一般教養・英語・家政科などを学(旧)習した。四名の中ではピットの承が学校教育の経験を持つものであった。 ~一九七七)は高級官僚の娘で、彼女の親戚は王族出身者と(u)結婚し、白一后の宮室で働いた人物であった。そのため、ピットは皇后と関係をある程度持っていた。カチョンニ八九○~一九八六)は軍人の娘で生後十ヶ月に父を亡くし母と祖父母に育てられた。七歳になると皇后の宮室に入り、勉強をしながら侍女の仕事をした。彼女は直接に皇后の世(応)・話を受けた人物である。ヌァンの場〈ロは皇后の宮廷の料理(胆)人が彼女の伯母にあたる人であった。リーはナーリー王女(ロ)の養子であった。彼女らの共通点は皇后と大なり小なり関連を持っていたということである。当時宮室とコネクションを持つ人物は身分が高いことを意味し良家の証であった。一般庶民にはこういった機会は全くなかったと言える。

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙 カチョンは典型的な宮廷式女性教育を受けた人物である。その教育は少女時代(十歳前)に宮室で行われ、教師は年長の侍女または王族関係者を使い、十、十一歳になると宮室の外にある宮殿関係者専用の学校で学習が行われた。この学校は男女共学のため、女子は登校の時にも洋服で登校し、隊列を整え学校まで歩くほど厳格であった。科目は午前中男性の教師によるタイ語及び一般教養(例えば数(四)学・歴史など)、午後は婦人が教』える英語の授業であった。勉強時間が終えると宮室に一民り、各自の仕事をした。カチョンの仕事は幼少のスコータイ親王(後のラーマ七世)の(別)遊戯係であった。ヌァンとリーについては、彼女たちに関する記録がなかったためはっきりとは述べられないが、男女留学生に関する第一回目の報告書によればピットとカチョンほど良い成(、)績が出せなかったということから、おそらく来日一別にピット、及びカチョン程の教育は受けていなかったのではないかと思われる。手芸学に関しては皇后の趣味で裁縫・刺繍・造花などについて宮室で学習、仕事の余暇に侍女達を相手にして講習が行われた。カチョンはこういったものに参加し、またそれ以外にも多少ミッションで手芸の手ほどきを受けていた

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□選出理由外国への留学生派遣に関する政策から見れば前述の通り一八九二年以後、政策があらためられ、各省の政策により留学生の派遣が行われること及び派遣される国が変ることとなった。しかし人材の選出についてはほとんど変化が見られなかった。ラーマ五世の在位中、外国派遣留学生の選出はまだまだ官僚の子供や家柄の高い子供に限られていた。それらの観点から人を選出する指導者たちには、家族がそれぞれの学生を保証する証明書のようなものであり、各自の能力より家が重視されることとなった。日本派遣女子留学生もこれに漏れず、家族が皇后に近いという観点で選出されることとなった。皇后の選出方法及び意図は国王と変らなかったように考えられるが、皇后の(呪)御所労で留学生選出が遅れていたので、早く留学生を派遣 法政史学第四十二号(犯)・・

ため、来日以前に彼女は既にある程度の手芸知識を持っていたと言えよう。ヌアンとリーについては、はっきりわからないが、二人の環境から推測して宮室に近い存在だったことから、ある程度の手芸学を受けていたとも考えられる。

来日以前に皇后の多忙などの理由で留学生(特に女子)(別)の選出が遅れ、その他にも日本語の壼叩学練習の準備に対す(筋)る日本側の勧めにも答塵えられなかった。一九○三年(明治一一一六)五月一一百、女子学生四名と男子学生五五名(外務省奨学生カーブ氏を含む)がバンコクから出発した。バンコクから東京までの一ヶ月ほどの間に留学生らを世話したのは法務省のお一雇い日本人、政尾藤吉夫妻であった。政尾氏が休暇をとり日本への帰国の際皇后は留学生らのことを彼に託した。初めて国を離れた留学生達を政尾氏はよく面倒を糸た。夫妻を「.〈」と「ごと呼び親しくなったが、来日 できるよう短時間のうちに選ばなければいけなかったため自分に近い関係からの選出は巳むを得ないものと言え、考慮が必要であろう。また、皇后は手芸学に興味を持ち、一般教養・手芸学を教論する女子学校を創立する計画があり、帰国後女子留学生を教師に抜擢することを目的としたため、皇后の信用を受け、一般女子よりある程度タイ語・英語・数学などの教養を持った人材が必要とされ、こういった資格を持つ彼女らは選ばれるに充分であり当然のことであると考えられる。

三日本での留学生活

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の途での船上で夫妻の幼い子供が死亡し海に遺体を流した時は、留学生たちは夫妻に同情の念を示したことが、「力(妬)チョーン回想録」に伝えられている。同年五月二十二日東京に到着した。当時、日本で休暇を過ごしていた稲垣公使と菊池文相の相談の結果、帝国大学教授兼東京外国語学校校長の高楠順次郎が男子学生を監督し、女性の担当者には女子高等師範学校校長の高嶺秀夫が選ばれた。女子学生らは五月二十五日、女子高等師範学校に入学したが同校に女子留学生用の特別教室が設けられ、同校の教員喜多見在喜の家を寄宿所(幻)として使用することになった。皇后は留学の学習状況を知りたかったため、三ヶ月または六ヶ月ごとに留学生に関する報告書を送るよう日本政府(鯛)に依頼した。日本政府の協力により、六ヶ月ごとに男女留学生の状況が報告されるようになった。女子学生の授業については第一回の報告書によれば、彼女らは日本語を理解するため週十時間の学習が行われることとなった。その他に手芸学の基本的学習、例えば刺繍・裁縫・編物・図画などと算術の授業も設けられた。特に主要修習科目となる刺繍の授業は週六時間ともっとも長かった。第二回報告書(一九○四年)によれば、二月一日から彼

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙 女達の日本語知識は以前より良くなったため、当初の目的通りの専門的授業が行われることになった。ピットとカチョンは刺繍専門で、刺繍・図画を中心とし、日本語と算術も学習することになった。刺繍・図画の授業がそれぞれ週に二十五時間と九時間で、日本語と算術の授業は週三時間、二時間に減少した。造花専門のリーとヌァンは刺繍を学ばず造花を中心に週一一十二時間勉強することとなり、他(羽)の科目はピット、カチョンと同じ時間数であった。第三回の報告書(一九○五)によると、具体的な授業科目は第二回報告書の内容と異ならなかった。各自の専門を中心とし、日本語と算術は副科目となったが、今回は新科(鋤)目として理科学が増加された。女子留学生らは終了するまで第二回の報告書に書かれたような科目を学習した。学校の授業科目にあげた以外にも、学監として同居していた喜多見在喜と雨森釧の協力で寄宿所内で日本式女礼・(Ⅲ)編物・活花・茶の湯などが教授され、夏休みにも章目多見在喜に引率ざれ海岸や有名観光地などに出かけることもあった。その目的は避暑のためと環境を変えて学習するためで(釦)あった。女子留学生用の科目から見て承ると、学校での学習の中心はただシャム側の要請通り手芸学・刺繍・造花・図画で、良妻賢母の道としての女礼の授業は行われず、そ

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日学業の進歩について来日以前の各自の教育レベルという主題にふれたように各自の異なった教育レベルにより、日本での留学の成績にたいへんな影響が与えられたようである。六ヶ月ごとの日本から報告書(女子教育報告は全部で七回)に於て四名の成績は刺繍専門のピットとカチョンの方が造花を専門としたリーとヌアンよりかなり優秀な成績を修めていたことが知られる。その原因は来日前にリーとヌァンがピットとカチョンほどの教育を受けていなかったことが原因とも言え ういった教育は監督者に任せられることとなった。女子学生らがどれ程の日本の女礼を摂取できたかについては環境によって学校で教授が行われずとも、日本人と共に生活することによって彼女らの年齢はほとんど十五歳以下であったため環境及び周りの影響を受けやすい頃であり、自然と身についていったかもしれない。逆に留学生どうしがいっしょに生活するという状態は、日本人の思考・文化を深く理解する機会としての日本人との日本語会話よりもタイ語で話す機会の方が多く、また自国で生活に恵まれ過ぎたため、日本での倹約生活に慣れづらい部分もあり、身につかなかったとも考えられるであろう。 法政史学第四十二号

ロ日本での留学生活の問題について彼女らは来日直後、カチョンの回想録によると日本の女子学生から迫害されたようだ。カチョンら留学生はへアースタイルが日本人のように結髪でなく、ショートであったため、日本人学生から「狐」と罵られた。カチョンらはタイ人の風習から、犬と比較されることを嫌い、「狐」と誹(弱)りを受けることは彼女たちにとって非常な屈辱であった。 る。また第一回の報告書には別の見方もなされている。「リー」「ヌウン」両人ノ成績不良ナルハ敢テ平日怠惰ノ結果ニァラズ両人共二刻苦勉励ヲナセリト錐天賦ノ資性一一於テ大二鋭鈍ヲ異ニスルモノニシテ四人均一(羽)ノ進歩〈到底望ミ能〈ザルモノナラン」ここからわかるように他の二名との異なった教育レベルまたは生れつぎの素質があった。しかし、リーとヌアンの学習進度はある程度は順調に推移していた。個人的な成績では、ピットとカチョンは真面目で、学習をよくし、各科目の成績は優秀であり、カチョンは図画に対して才能を持っていたことが窺われる。リーとヌァンには怠慢な所があったので成績不良であった。在日中の女子留学生の成績は(型)ピット・カチョン、リー、ヌアンの順であった。 九四

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現在でも朝鮮人の差別など根深いものがあるが、こういった外国人差別の問題は当時にもあったことがわかる。彼女らの平時の生活ではどのような問題があったであろうか。ピット、カチョヱヌアンは学監の指導を守ったため、特に問題はなかったが、リーは他の三名と異なり、学監及び担当者が彼女の行為に手をやいたことが窺われる。リーの行いに関して他三名の学生が皇后に手紙を上奏し、(妬)そのため皇后は稲垣を経てリーに注意を与陰えた。リーはこ(犯)のことを承知したが、リーの行いは変らず、一九○六(明治三九)年六月十一日リーの学習は停止され、駐日シャム公使の協力及び学監らの賛成を得て、リーは帰国させられ(幻)ろこととなった。リーの帰国の原因は第六回報告書に以下のように書かれている。「長者ノ命令ヲ守り順良信愛ノ徳ヲ養成シ朋友及男女問ノ交際ニッキテハ殊卜一一注意シテ過ナキヲ期セシメタリ四人中只リー一人ノミ此養成ノ目的一一協(ス性質執勧多辮時女乱暴ノ挙動ヲナシ明暗ニョリテ行為ヲ二一一一一一シ常二狼リニ男女間ノ交際ヲナスコトノ慎ム可キ所以ヲ訓戒シ居ルニモ拘ハラス当地在留暹国男学生ト書面ノ往復ヲナシ其際監督教師ヨリ注意ヲ与プレ〈或(怒り或〈泣キ幾ソト通常人ノナシ能〈サル行為ヲナ

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プァワンポ乙 スコトァリ之レガ為メニ他ノ’’一人トノ交情ヲ欲キ互一一反目スルコトァリ斯ノ加キ有様ニテハ寧口他一一一人ノ教育上ニモ影響スルコト少ナヵラサルヲ以テ遂一一当地在留暹国公使ト協議シ帰国ノ止ムヲ得サルヲ決定シタル(犯)次第ナリ」リーの帰国の一つの原因として日本でのシャム男子留学生との交際のことがある。彼女と交際した学生がだれであるかについて本論とははずれるが考えてゑたい。男子学生の中にサームという人物がいた。彼は卒業できずに先に帰国したが、ピットの回想録によれば、後にピットと彼は結婚した。サームは美男であり、また好色漢であったようだ。サームとピットは日本に滞在中秘密のうちにつきあっていたが、彼の性格からして他の女性とも好き合うことがあつ(羽)たようである。この点から老』えればリーと交際した学生はサームと思われる。サームの帰国原因もこの事情に関係があるかもしれない。リーの帰国以降、残った三名の女学生は明治四十年一一一月全てを終了し、同年五月二十九日バンコクへの帰国の途に(仙)ついた。

白経費に関して

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当時の留学生の必要経費は各自に一ヶ{月五十円が支給されていた。当時の相場は一円が二・ハーッに換算され、一年(虹)に六百円、四年で二千四百円の出費であった。これ程の現金を持てる人物は王族及び高級官僚以外にはいなかった。当時の日本の物価は現在と同様タイの何倍とも考えられる。しかしヨーロヅ。〈派遣の留学経費と日本派遣の経費を比べるとヨーロッ。〈の四年間の経費は一人当り、日本円で(秘)約一万六千円かかり、日本の四年間の経費約二千四百円に比べれば、ヨーロッ.〈の経費は日本の約六・六倍であった。日本への留学生派遣はシャム政府にとっても節約となった。女子留学生達の帰国後の月給は一人三十バーツ(十(い)五円)程であった。

目女子留学生のその後の去就女子学生の帰国後の動向であるが、ピットは帰国後、ラチニー女学校の教員となり、一九一一年頃、先に述べた元日本留学生サームと結婚し、二人目の子供の出産後、学校の教員を辞職し専業主婦となった。しかし八人月の娘の誕生の一年後離婚し、再びラチニーの教師となった。校長のピチット王女からの推薦によってラーマ六世の一人娘。ヘッ 四女子留学生の成果 法政史学第四十二号

チャラット王女がラチニー女学校を再び去り、王室財産管理事務省に転職した。この間の一九三七年日本で赤十字社の会議がありピチット王女の翻訳者として王女と共に来日し、安井てつとも再会を果たした。太平洋戦争前、日本とタイ国との関係が密接になった時、多数の日本人がタイに入国したため、ピットは王室財産管理事務省の仕事を続けながら、日本人にタイ語を教えたりタイ人に日本語を教えたりする仕事にもついた。その他に日本語学校が開校した時にはピットも教員として参加した。一九四二年のピチット王女の死後、王室財産事務省を辞し、別の私立学校の教諭となり、定年後日本留学会の名誉教諭となった。この間にもピットは日本語教授の仕事を続けていた様である。彼女の子供らが成長すると、日本語教授も辞め、子供と共に暮らし、一九七七年(“)十月十一日に亡くなった。カチョンは帰国後、ピットと同様にラチニー女学校で図画・刺繍を教え、学校の仕事を終えてから皇后官室で侍女の仕事を続けた。一九一二年当時の文部大臣顧問ルァン・アシアピパーンブリムサックと結婚。最初の子供を妊娠し、学校を辞し教師生活を終えた。一九二一年カチョンのご主人が駐英暹羅大使館学生部の担当官に任命されたた

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め、主人と共に英国へ渡った。在英留学生らの世話役となり、カチョンは日本留学の経験を生かし、留学生らに対して親子のように接した。こうしてカチョンの家は留学生の第二の家のようになった。イギリスから帰国後、彼女の主人がチュラロンコン大学文学部部長(後総長)、又、後にはラーマ六世の創立したワチラウット男子学校の校長となった時、彼女は彼の仕事を補佐したいへんな力となった。暇な時間には様々な社会援助活動や日・タイ関係の会合に(幅)参加し、一九八六年九月一一三日死去するまで活躍した。ヌアンはカチョンとピット同様にラチニー女学校で造花を教授する教員になった。彼女についてはラチーーーの先生となったこと以外には何も記録がなく、その後の去就は不明である。先に帰国したリーもラチーーー女学校の教員名簿にも記されていなかったため帰国以後のリーの行動は不明である。リーを除く一一一人はラチニー女子学校の教師となった。これは皇后奨学金を返却するための一つの方法であった。しかし結婚のため教職業を続けることができなくなり教員生活を辞し、主婦業へと入った。それにより日本で学習してきたしのは自動的に捨てられてしまった様である。教員生活に復帰したピットは離婚問題があったからと考えられる。

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポン) 口留学の成果及び問題点帰国後、ラチニー女学校で刺繍・造花・図画を教えたピット、カチョヱヌアンは日本風の方法をシャムの手芸に伝え、最新手芸美術が改良された。当時のラチーーー女学校の教養及び手芸美術は世に知られ、人気が高まった。三名に伝えられた刺繍・造花の方法が今でもラチニー女学校で(妬)教鯵えられているということである。彼女らの留学によって当時の女子教育に影響を与えたかという点であるが、彼女らの学習は個人的才能に頼った美術実習のようなもので、直接教育学者になるための学習ではなかった。そのためシャムの女子教育の広い範囲に普及できなく、ただラチーーー女学校の実践的手芸学の狭い範囲のみに影響を与えたに止まった。日本から伝えられた女子教育の良妻賢母という基本理念はシャムの現地に類似していたため、彼女らのもたらした物は広大な変化は期待できず、留学によって与えられた効果はただ皇后の希望に応答したものだと言える。彼女らは結婚後、学習科目についての教授は中断された。しかし離婚後ピットは自分や子供のため生活費を負担しなければならなかったため、教師への復業や日本語を教授したことは手芸学を伝えた以外にも日本語の普及ということで貢献があった。太平洋戦争前の日

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ラーマ五世期には欧米列強の侵略圧力、王室と側近との統治権力に関する抗争という国内外の政治的危機への対処という社会背景のもと国王の外国訪問が契機となって国の近代化が要求されることとなった。その方法として、西洋文明・文化の摂取が基調に据えられ、そのために国内教育の発展整備、外国人専門家の一雇用が行なわれた。それと並んで外国への留学生派遣政策は重要なポジションを占めることとなった。 本語ブーム時に日本語を収得した者は彼女以外には少数であったため、これを利用し、社会・国家に寄与することとなったようだ。日本女子留学生に関する問題では準備教育の用意、学習科目には問題がなかったが、留学生の選出方法、彼女らの生活態度について問題が起った。選出の方法には個人的能力より家柄の方が重視された。来日以前の各自の教育レベルの相違によって、在日中の学習の結果には差がでることになった。また留学生の性格・生活態度により学習の進歩の度合に違いがあり、帰国させるということまでおきた。帰国は留学の失敗を露呈させる結果となった。

おわりにl明治期シャム国日本派遣留学生I 法政史学第四十二号

シャムの留学生政策は一八六六年以降一八九二年を分岐点として、大きく変化した。その初期段階では、政策は国王の思慮を中心として行われ、派遣国はヨーロッ.〈列強諸国であった。学習科目は軍事学を中心としていた。留学生の選出方法は家柄が重視され、結果は成功した場合もあったが多くは国内教育の不整備のため失敗に終わった。一八九二年の国内改革により近代的統治方法の象徴として十二省が創出された。留学生政策も見直され各省の政策に基づく派遣へと変化した。国王は王子等とその御供の留学にのゑ責任をもつこととなった。とはいうものの各省の留学生は派遣以前に国王の許可を得なければならず、しかも学生の学習科目もその時点で既に決定されていた。結局のところ主要目的、学生の選出方法は以前とあまり変化をみるものではなかった。しかし、派遣国及び学習科目には多少の変化を見ることができる。以前のようなヨーロッ.〈諸国だけでなくタイより早い時期に近代化を成功させたアジアの国lつまり日本lへの派遣も行なわれることとなった。学習科目についても従来のもの以外に工芸美術や手芸学などの実学的学問も加えられることとなった。日本への公式な留学生派遣は一八九八年の日暹修好通商航海条約締結後の両国の公使交換後に行なわれた。国王は 九八

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日本の近代化の成功、それによる繁栄に興味をいだき、中でも軍事・教育面に深い関心を寄せた。視察団及び留学生の派遣が行われ、日本人の専門家(安井てつ・政尾藤吉・外山亀太郎等)も一層われることとなった。日本に派遣されたシャム留学生は日暹修好条約締結以前に既に来日していた非公式のウォム氏二八九五)をはじめとして、皀一后奨学金で来日した男女八名(一九○三)、彼らと共に来日した外務省留学生のカーブ氏(一九○三)、海軍留学生の十一名(一九○六)、陸軍留学生の二名(一九○九)であった。彼らは日本語の基礎教育を受けた後、女子学生は東京女子高等師範学校に、一般男子学生は東京高等工業学校と東京美術学校に、海軍留学生は攻玉社を経て川崎造船に、陸軍留学生は陸軍士官学校に、外務省派遣留学生は慶応義塾に入学した。彼らの生活はいくつかの報告書の中から窺い知ることができる。一部の者を除いて、全課程を終了し無事帰国した。彼らは帰国後その実利を生かした通訳、美術技術関係官僚、家政科教諭、下士官などの公務についた。当時のシャム社会で近代化を推進する上での人材不足という問題から考えれば、解決のためには相応しいものであったと言えよう。タイの近代化への道程に対して彼ら日本派遣留学生は

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プァワンポ己 どのような役割を担ったのであろうか。日本での彼らの学習科目は実践的な工芸美術、機械研修及び語学等を中心としていたため、近代化のための理論や思想に関する学習は行なわれなかった。そのため留学生の活躍範囲は自分の獲得した技術・学問に留まったため、狭いものであった。ヨーロッ。〈派遣留学生に比べその絶対数に於いて圧倒的に少なかったことも手伝って、国家を改革するような基本理念を作り出すまでには至らなかったのであった。日本への留学生派遣は利益を齋さなかったとは一一一一口えないが、タイの発展という側面よりも日暹関係の促進という側面の一つの重きをなした事項であったと考えられよう。留学生派遣が国の近代化発展に直接の影響を与えられなかった一つの原因は当時のタイの統治方法に基因していると言えるかも知れない。当時のタイの政治形態は専制君主制度であり、国を発展させるプランは指導者の希望や心持ちに左右され易く、留学生等が外国から新興技術や学問を吸収したとしても、上級公務員及び王族に近い関係を持つ人物であったため、王族を中心としたタイの伝統的慣習に親しゑ、君恩に報い忠節を尽くすという立場からも、賛同なく新たな変化を起こすことは難しく、結局外国で習得し

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たものは帰国後、王族の指導の範囲内に留められることとなったのである。

(1)シャム女子留学生について専門の研究は私の知る限りまだなされていない。概略的な研究としては吉川・石井両氏の手による「日・タイ交流六○○年史」がある。その他にレポートとして、吉川敬子「安井哲とタイ皇后女学校」朝日アジァレピュー雑誌、一九七六年秋、一三六’一四一ペ

ージ(2)タイ側ではこの研究はほとんどなされていない。若干ふれられているものとしては、ラオトン・アムマリソラヅトコ八六八年から一九一一一二年にかけての留学生派遣」チュラロソコン大学文学部史学科修士論文、一九七九年、がある。(3)汝ィ国立公文書館所蔵ラーマ五世・外務省文書「暹皇太子の日本訪問」外務省記録一’九一一一九○二年(4)タッサニー・プンヤクップ「カジョン・プラロヅラチャー回想録」一九八六年(5)タイ国立公文書館所蔵、ラーマ五世・文部省文書「日本の学校教育の視察についてのルアン。。〈イサンシラプラサートのレポート」文部省記録一-四一九○三年(6)タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世・文部省文書「日本 法政史学第四十二号

の学校教育の視察についてのクン・ワラカンゴーソソのレポート」文部省記録一’一一八八七年(7)ラーチニ女学校「サワ.ハーポンシー皇后創立した学校」サワ.〈-ポンシー皇后誕生百周年記念一九六四年(8)外相小村寿大郎宛駐遇公使稲垣満次郎機密第一七九号明治三六年一月二一日外務省外交史料館所蔵(9)アヅチャラチャウィ・テーワクン「ラチニー女学校史」ラチニー女学校八○周年記念一九八四年河野・中島はどのような人物か全く不明のため名前はカタカナとした。(、)青山なを「安井てつ伝」第一、二巻岩波書店一九四九年(Ⅱ)青山なを「若き日のあと(安井てつ書簡集と安井先生残後二十年記念出版刊行会一九六五年(、)前掲(9)参照(旧)外相小村寿大郎宛駐遇公使稲垣満次郎書翰第二十号明治一一一六年三月二一一一日外務省・外交史料館所蔵(u)ス。〈-.テーワクン「ピット・プーミラット回想録」一九七七年(旧)タッサーーー・プンヤクヅプ「カジョン・プラロヅラチャー回想録」一九八六年(刑)前掲(巧)参照(Ⅳ)前掲(巧)参照(旧)前掲(Ⅲ)参照 一○○

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(四)前掲(旧)参照(別)前掲(巧)参照(皿)駐暹全権公使稲垣宛小村大臣書翰第三六号明治一一一七年二月九日外務省外交史料館所蔵(型)前掲(西)参照(配)前掲(⑬)参照(別)前掲(週)参照(躯)駐暹公使稲垣宛外相小村書翰第四号明治三六年一一一月一九日外務省外交史料館所蔵(恥)前掲(栂)参照(〃)前掲(別)参照(別)菊池文相宛小村外相書翰第七四号明治三六年七月六日外務省外交史料館所蔵(釣)小林外相宛久保田譲文相書翰直普一二一一一号第二回報告書明治三七年七月二十日外務省外交史料館所蔵(別)小村外相宛久保田譲文相書翰直普三号第一一一回報告書明治三八年一月二一一一日外務省外交史料館所蔵(皿)前掲(羽)参照(型)前掲(別)参照(鍋)駐暹公使稲垣宛小村外相書翰第三六号第一回報告書明治三七年二月九日外務省外交史料館所蔵(弧)臨時外務大臣桂太郎宛文相久保田譲書翰直考第二○二号第四回報告書明治三八年八月四日外務省外交史料館所

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポ乙

(開)小村外相宛稲垣駐暹公使書翰第七四号明治三七年十月十七日外務省外交史料館所蔵(調)文部省普通学務局長沢柳政太郎宛高嶺秀夫書翰明治三七年十二月十六日外務省外交史料館所蔵(町)外務大臣林董宛牧野伸顕文相直普一一三六号第六回報告明治三九年八月四日外務省外交史料館所蔵(胡)前掲(町)参照(胡)前掲(皿)参照(伽)外務省長官プラャー・ピパッコーサー宛駐日本暹羅公使プラャー・ナリットラチャキット書翰第九/二八九一九○七年六月八日タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書(虹)駐日公使プラャー・ラチャ宛外相テーワゥォソ親王書翰第十七/一一一二一一一号一九○三年五月一一一一一日タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書(蛆)タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書「王子及び一般学生」(一八九四年三月’一八九五年一一一月)(妬)タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世・文部省文書「皇后宛ラチニー女学校の件」文部省記録五○・四/十一一九○七年(必)前掲(Ⅲ)参照(妬)前掲(巧)参照(妬)前掲(9)参照

--

(20)

主要参考資料日本外務省外交史料館「各国ヨリ本邦へ、留学生関係雑件」外務省記録三’十五I四タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書「日本のシャム留学生」外務省記録四三・二四/-1十タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書「軍事留学生派遣についての駐ベルリン日本大使の推薦に就きレポート」外務省記録四三/一一一八九六年タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書「シャム皇太子の日本訪問」外務省記録一’九二一九○二年タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世外務省文書「駐日本フランス大使調査シャム留学生統計」外務省記録四三/四一九○五年タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世文部省文書「日本の学校教育の視察についてのクン・ワラヵンゴーソンのレポート」文部省記録一’一一八八七年タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世文部省文書「日本の学校教育の視察についてのルァン。、ハイサーンシラプラサートのレポート」文部省記録一’四一九○二年タイ国立公文書館所蔵ラーマ五世文部省文書「ラチニー女学校に関するレポート」文部省記録六○・四/十一一九○七年タイ国立公文書館所蔵ラーマ六世内務省文書「ラーマ六世の教育思想」内務省記録一一一九・五/一一二第一一一巻一九二 法政史学第四十二号

主要参考文献八日本語の部V石井米雄・吉川利治『日・タイ交流六○○年史』講談社昭和六二年西野順治郎『新版日・タイ四百年史』時事通信社一九七八年青山なを「安井てつ伝』岩波書店昭和二四年青山なを(編)『安弁てつ先生追想録』安井てつ先生記念出版刊行会一九六六年青山なを(編)「若き日のあと安井てつ書簡集』安井先生残後二十年記念出版刊行会一九六五年お茶の水女子大学「お茶の水女子大学百年史』昭和五九年お茶の水女子大学『女子高等師範学校一覧』明治三八年度攻玉社学園『攻玉社百二十年史』昭和五八年阿部市助『川崎造船四十年史』川崎造船所昭和十一年文部省『学制百年史』帝国地方行政学会昭和四七年青山なを『明治女学校の研究』慶応通信昭和四五年吉田熊次『女子教育の理念」同文書院昭和十四年増訂新版発行日本女子大学女子教育研究所『明治の女子教育』同士社一九六七年片山清一『近代日本の女子教育』建帛社昭和五九年 七年

(21)

海後宗臣『日本教科書大系」(近代編第三巻修身)講談社昭和三七年志賀匡「女性教育史」福村出版一九六八年平塚益徳『人物を中心とした女子教育史』帝国地方行政学会昭和四○年国民教育研究所『近代日本教育小史」章士文化一九七四年(第三刷)仲新『明治の教育」至文堂昭和四十二年Aタイ語の部Vプアンペット・スラタナヵウィクン『ラタナコシン王朝時代の女性の社会経済的な役割一七八二年’一九八二年』カセートサ印ト大学社会学部一九八二年ラオトン・アムリンラット『一八六八年から一九一一三年にかけての留学生派遣」チュラロンコン大学文学部史学科修士論文一九七九年スランシー・タンセェンソム『ラーマ五世時代からラーマ七世に至る日・タイ関係』チュラロンコン大学文学部史学科修士論文一九七七年チャイ・ルウンシン「一八○九年から一九一○年のタイ社会史』一九七六年タイ文部省『文部省史一八九二年’一九六四年』一九六四年ドゥァンドゥーアン・ピサーンプット『タイ教育小史』モンコル印刷所一九七四年

明治期シャム国日本派遣女子留学生について(プアワンポン) ラチニー女学校『サワ.ハーポンンー皇后の創立した学校』サワ。ハーポンシー皇后誕生百周年記念一九六四年ラチーーー女学校『プラャー・ウィスットスリャサック宛皇后書翰」サワ。ハーポンシー皇后誕生百周年記念一九六四チォウプラヤー・プラサデッスレンタラティポディ『プラヤー・ウィスットスリャサック宛ラーマ五世の書翰ラーマ五世宛プラャー・ウィスットスリャサック上奏書翰集」クルサパー一九六三年タツサニー・プンヤクップ『カジョンプラロットラチャー回想録』一九八六年ス.〈-テーワクン『ピット・プーミラヅト回想録』一九七七年八英語の部V丙。ごmの旨い日ロロロロロロ》シ国]の庁。q○m目丘巴]ロロ日国目、穴○戸・尻巨円巨の四でず四F四。己[口○勺門田の》ごゴロロぐ丘用・ヨ「ご口は》『弓ケの弔○ぽば8。【内の【○日〕亘弓ほ日]四コユ》ロー臣の四画。□ご庁ざの丙の蒟口○時【旨い◎ず臣]巳○口、【日ご」zの三四口ぐのロ》目四]のロ曰く臼の岸ご勺円の、、》]@$〔付記〕本論文は修士論文「明治時代のシャム(タイ国)日本派遣留学生l留学政策の変遷・女子教育を中心としてl」の一部で、誤字などを直した以外ほぼ原文の通りである。(安岡昭男)

(22)

年表(1)シャム留学生関係年表 1824ラーマ3世即位。’

1826イギリス東インド会社との間にバーネイ条約締結。

この条約の結果,プロテスタント系ミッションがバンコクに進出。

1833アメリ力との間に友好通商条約締結al

この条約の結果,アメリカ系ミッションがバンコクに進出。

1851モンクット王(ラーマ4世)即位。

1855イギリスとの間に不平等条約であるボウリング条約締結。

1856アメリ力・フランスとの間に友好通商航海条約締結。

以後,引き続き欧米諸国との間に同様の条約を締結。

1857使節団がイギリスに派遣される。使節団と共に留学生2名が派遣されるも,使節 団が帰国の際,留学生2名も一緒に帰国する。

1868チュラロンコソ大王即位。15歳であったため,チャオプラヤー・シースリヤウォ ンが摂政に任命される。

18713月国王,ジャワ・シンガポールを視察。帰国後,王族関係者から20名を選出 し,シンガポールへ留学させる。

12月インド・ビルマを視察。

1872英語教師としてジョージ・パターソンが雇われ,シンガポールの20名の内17名を 帰国させ,残る3名(プリッサーダン親王等)はイギリスへ留学させる。

1873国王の親政始まる。

1875大鳥圭介,川路寛堂両氏,オーストリア公使に同行してシャム訪問。

1885伏見宮親王,シャム訪問。

1887『日本シャム修好宣言書』調印

1888チャオプラヤー・パッサコーソウォン来日し,批准書交換。この時,

日本の学校教育を視察するためにクソ・ワラカソコーソソ等同行する。

1892国治改革始まる。

1895最初の日本留学生ウォム氏出発。

18974月国王,ヨーロッパ訪問。皇后,摂政として就任。

5月稲垣満次郎,初代駐シャム弁理公使に任命されて着任。

初代駐日公使に陸軍少将プラヤー・リッティロンロナチェット任命。

11月政尾藤吉,シャム政府法律顧問官となるため,シャムに渡る。

1898『日本シャム通商航海条約」締結。

1902外山亀太郎が農務省蚕業顧問技師としてシャムに渡る。

12月ワチラウット皇太子の日本訪問。この時,ルアン・パイサーンシラプラサ ート同行し,日本の学校教育を視察゜

19O3シャム男女留学生8名,外務省留学生1名が日本へ出発。

19043月安丼てつ,河野キヨ,中島トシらシャムに渡る。

4月ラチニー女学校開校。安井てつが初代校長となる。

19061月シャム海軍留学生11名,日本へ出発。

9月女子留学生リー,帰国させられる。

19073月任期を終え,安井ら帰国の途に着く。

5月女子留学生3名,女子高等師範学校を卒業し,帰国。

6月外務省留学生カーブ氏帰国。

19081月シャム陸軍留学生,日本へ出発。

男子留学生ボーイ,東京高等工業学校を卒業し,帰国。

1909海軍留学生セープスマナヅ卜親王,日本で病死。

19103月男子留学生ポーソとチャルン,東京美術学校を卒業し帰国。

10月チュラロソコン壬(ラーマ5世)死去o l913日本海軍練習艦で研修訓練後,、海軍留学生帰国。

法政史学第四十二号○四

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年表(2)日本・シャム女子教育関係年表

*印はタイ(シャム),・印は日本の事項を示す 治1870.フェリス女学院,横浜に設立

期・跡見女学校,東京に開塾

ヤ1871・津田梅子ら5名をアメリカに派遣 ム・ミッションホーム(横浜共立学園)設立

胃1872・東京女学校,公立新英学校設立

本.「学制」頒布

護1873.デピバ・モルレーロ本に招かれる

女・宗教自由保障の口達(キリスト教の解禁)

重’874.モルレー学監に任命される

学*ミッション系のワンラン女学校開校

生1875・東京女子師範学校,栃木女学校,ミッション系の神戸英和女学校等開校

二1876.同志社女学校,桜井女学校開校

し、1879.「学制」を廃し,「教育令」を公布 三1886・「小学校今」,「中学校令」公布

二1887*シャム文部局開設

ワ1889.大日本帝国憲法,皇室典範発布 ン1890.「教育二関スル勅語」発布

夛1891.「中学校令」が改正され,高等女学校が尋常中学校の一種と認められる

 ̄1892*行政改革で文部局は廃止され,文部省となる

1893.尋常中学校,高等女学校,技芸学校設置のため町村学校組合設立

・女子の就学促進のため,教科になるべく裁縫を加えることを訓令 1894.「高等学校今」公布

・日清戦争はじまる(翌年,講和条約を締結)

1895.「高等女学校規程」制定 1896・日本女子大学校開校

*看護・助産婦学校開設

1897.師範学校・小学校の男女の分離がなされる

・高等女学校の設置奨励についての訓令 1899.「高等女学校令」公布

.「高等女学校ノ学科及其程度二関スル規則」を制定 .「一般の教育ヲ宗教外二特立セシムル件」出される 1900・東京女医学校開設(1912束京女子医学専門学校となる)

1904*皇后,ラチニー女学校を開設する

・日露戦争はじまる(翌年,講和条約を締結)

1906*皇后,サオワパー女学校を開設する

1907*文部省,サトリーウィタヤー女学校開設(女子師範科設置)

*ワンラーン女学校に女子師範科設置 1908・文部省,女子教育課程を制定

*スッサーナリー女学校開設

S’910.「高等女学校令」を改正し,実科及び実科高等女学校の設置を認める

・東京女子大学開校

1911*ラチニーポーン女学校開設

1912*南部のトラウソ市にウイチヤンマート女学校開設 1914*ナコンパトム市にラチニープラナ女学校開設 1915.「高等女学校今施行規則」改正

参照

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