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鋤鰻爵蒜

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一 一神 家 墓 地 調 査 中 間 報 告 田 代 郁 夫 ・若 松 美 智 子

二神家墓地調査中間報告

1.調査・研究の主旨

愛媛県松山市から北西に海上約一〇キロメートルに位置する二

神島については二神家所蔵の古文書等による研究︑島内の民家や

集落形態に関する建築学的研究が進められている︒また島内の民

俗学的研究の準備も進められている︒こうした二神島に対する総

合調査の一環として考古学的調査・研究を行なってきた︒

二神家墓地(図1)は二神島の現在の海岸線から約七〇〇メー

トルの瀬戸内海および二神島集落を見下ろす北東斜面に位置して

いる︒この二神家墓地は中世から現代に至るまで連綿として続く

墓地景観が残されており︑とりわけ墓地内の中世墓群は中世領主

層の墓地形態を解明するうえで貴重である︒二神家墓地の調査研

究は︑中世から現代に至る墓制の展開を通観するうえで極めて有

意義であるとともに島内における他の墓地との比較研究は島の歴

史をより鮮明に描く素材と成り得るものと思われる︒

地 位 置 図(120000)

⁝⁝ 

(2)

2.これまでの調査の概要

二神家墓地の考古学的調査は︑一九九五年七月に由利島の考古学的調査を実施した際に︑二神島の二神家墓地を見

学し︑中世の供養塔類がまとまって散乱している状況を確認したことに端を発している︒二神島についてはすでに二

神文書の調査や島内の民家と集落の建築学的調査が実施され︑特に文書の調査研究によって二神氏の歴史が中世まで

遡り得ることが明らかにされていた︒したがって考古学的にも墓地の調査を通じて特定の一族の中世から現代に至る

墓制を通観し︑さらには墓地景観の歴史的変遷を具体的に辿ることが可能なのではないかと期待されたのである︒

墓地の本格的な調査は一九九六年三月の第一次調査以来︑一九九七年三月︑二〇〇〇年三月の三次にわたって実施

してきた︒

見蕪 戴 鯵 難 擁 珪暇 翫 ボ騎 鵜 雛 て ヵ 嚢 灘

子氏が近世以降の墓標の銘文と型式の基礎データ作成を担当し︑東国歴史考古学研

究所のメンバーは︑鶴見大学の河野真知郎氏の指導の下に近世墓標の模式図と配置

図の作成︑中世石塔の散乱状況の平面図作成︑写真撮影などを担当した︒一九九五

年に多くの中世石塔類を発見したのは︑中段平場から上段平場にかけての斜面下半

部であり︑この他︑最下段にも中世石塔類を若干確認した︒

第二次調査では︑中段平場で発見した中世石塔類の上に多量に積もった枯葉を取

り除き︑散乱状況をより明確に図化した︒同時に島内の石造物の分布調査も実施し

た︒なお︑この時点まで墓地の各平場を上段平場・中段平場・下段平場.最下段平 }︑讃

〆 醗 ・,

鋤鰻爵 蒜

写真1二 神 家 墓地 遠景

184

(3)

二神家墓地調査中間報告

場と四段に分けて呼称し︑現在︑五

ノ段.四ノ段と区別して呼称してい

る平場を一括して上段平場としてい

た︒五ノ段と四ノ段との比高差がわ

ずかであり︑かつ︑墓地を管理して

いる地元の二神春子さんから両平場

の間を切り通した墓道が比較的近年

に開削されたものと聞き及んだから

である︒ところが各段の呼称につい

ては︑第二次調査の後に︑二神家伝

来の過去帳に記載された各墓標の所

在地を示す⊃之段﹂から﹁五之

段﹂の記述が︑現況における墓地の

各段に符合し︑墓道によって分断さ

れた上段平場も各々別個の平場とし

て把握すべきことが判明したため︑

我々も過去帳の記述に則り最下段を

一ノ段とし︑上段平場を二つの平場

に分け︑最上段を五ノ段とし墓道で

図2二 神 家 墓 地 各 段 位 置 図(1:300) 185

(4)

分断されたやや低い平場を四ノ段とした︒

第三次調査では三ノ段(中段平場)に発見された

中世墓の発掘調査を実施した︒その際︑中世墓を調

査するためには四ノ段の平場上にある近世墓を一部

調査せざるを得ない状況であったため︑その範囲で

四ノ段の近世墓の発掘調査も実施した︒

3.二神家近世墓地の調査

中世以来︑二神家の屋敷が所在したといわれる本

浦は︑三方を山に囲まれ︑北側は眼前に海が迫って

いる︒この本浦を囲む山の西側︑海に向かって張り

出した山腹の北東斜面に︑五段からなる平場を造成

して二神家墓地は営まれている︒墓地から眼下を見

下ろせば︑本浦をはじめとする島内の集落が一望で

き︑あたかも子孫をはじめとする島民の生活や島内

への船の出入りを見守るかのような位置にある︒二

神家伝来の過去帳によれば︑墓地は﹁西畑﹂あるい

は﹁西畠﹂と記されている︒集落から見て西端つま

り﹁にしのはた﹂の意であろうか(図1)︒

灘〆 野 貫 雫

桝 窓ド̲

熟 飯!薄 賑

講 磯蘇響

噸 貫

写 真2ニ ノ段

鞍 ∵ 論 ピ 階.

継 轡 賢 詑 ∫\

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.,デ 臨! .、

写 真4四 ノ 段 お よ び 五 ノ 段

魂欝{関 柔…%

磯鰍 湯

、 一轟 犀べ ㌦H

写 真3三 ノ 段

第 晋宝}

駕 冠 礁

幾1噺 ン 詑

.,轟/

写 真5五 ノ段

186

(5)

二神家墓地調査中間報告

過去帳は元禄二年に作成されたものが存在したが︑種章によって安政五

年に改めて作成されている︒それには﹁先年具院安養寺焼失之時過去帳回

禄其後宝暦六子年當浦焼失之時具院過去帳ハ出トイエトモ古来之事ナシ其

時當家所持之控回禄失本﹂とあり︑﹁古来﹂の分については元祖道隆と同

日に俗名.実名を記し︑家種からは﹁分明﹂にこれを記すとある︒この過

去帳を参考に近世墓標の銘文︑型式︑墓標の配置から近世墓地の形成過程

を探ってみたい︒

これまでの調査の経緯で述べたように︑二神家墓地における近世の墓標

の調査は︑第一次調査以来継続して実施してきたが︑未だ墓地全体の測量

図の作成や︑各墓標の実測図作成とそれに基づく詳細な型式分類及び編年

等々やり残している作業は多い︒今回報告するのは︑あくまでも中間的な

ものであることをあらかじめお断りしておきたい︒

4.

近 世 墓 地 各 段 の 様 相 (図 2 )

(1)一ノ段(図2・図3)

一ノ段は最も下段に位置する(図2)︒調査開始当初︑最下段と称して

いた平場である︒大小二基の石廟(D‑2・7)と六基の墓標(D‑1・

3.4.5.6.11)が並ぶ︒石廟は大小共に切妻造平入で︑大型の石廟

!艶 ◎ ⑩ β

匹 ◎

187

(6)

は北東方向を向き︑その前面のやや離れたところに南東方向を向いて小型の石廟が位置している︒大型の石廟内部に

は宝簾印塔が一基納められ︑塔の周囲に五枚のかわらけが置かれていた(図4参照)︒小型の石廟の内部には一石五

輪塔が納められている︒その他の墓標は︑板碑型三基︑圭頭碑一基︑角柱碑一基︑不明一基である︒平場入り口側に

三基の板碑型墓標(D‑3・4・5)が位置し︑圭頭碑(D‑1)一基は大型石廟の奥に位置している︒これら墓標の

空間を充填するかのように角柱碑(D‑6)が一基まんなかに建てられている︒いずれの墓標の基部周囲には礫が配

されており︑原位置を保持しているものと思われる︒

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1四 圏 一 一二

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図4D‑2石 廟 内 出 土 遺 物(13)

さて︑石廟型式は二

神家墓地内には他に存

在しないため︑この石

廟に誰が葬られている

のかが問題となってい

た︒中島町教育委員会

の豊田渉氏は︑当初か

ら近世初祖たる二神家

種(法名穐轡院一山

宗清居士)とその後妻

の墓ではないかと考え

ておられた︒過去帳に

よれば︑家種の﹁後ノ

188

(7)

二神家墓地調査中間報告

室﹂の廟は西畠の一ノ段にあり︑﹁宗清﹂すなわち家種と﹁同処﹂

に葬ったとある︒そして﹁明堂有之﹂と記載されている︒﹁隙聾﹂

とは︑この石廟のことではないかと予想されていたのであった︒

三次にわたる調査を通じて︑大型石廟内部に納められた宝簾印塔

に﹁宗清禅定門﹂の刻銘が発見され︑豊田渉氏の予想はみごとに

的中したのである︒このことから一ノ段は二神家墓地の各平場の

中で近世の墓地として最初に選定された平場であることが判明し

た︒

過去帳によれば家種の﹁後ノ室﹂の没年は明らかでないが︑家

種は寛永五年(一六二八)に没している︒墓標型式不明の一基

(D‑11)に刻まれた年号は承応元年(一六五二)︑三基の板碑型

墓標のうち︑年号が判明する二基(D‑3・4)は承応二年(一

六五三)︑明暦四年(一六五八)で︑各墓標群の空間を充填する

かのように建てられた嘉永元年(}八四八)の角柱碑(D‑6)

を除けば︑いずれも近世初頭の年号を示している︒家種夫妻の近

親の墓標ではあろうが︑過去帳からはこれらに刻された法名を見

出すことはできなかった︒一ノ段には中世後半と考えられる石塔

類の残欠がまとまって確認されている︒また︑一ノ段に登ってく

る墓道の崖面は︑ちょうど一ノ段の地下部分の断面が露出してい

\ 道

=rで 掴9齢

C‑22C

騰 も

‑6C .8C‑17C‑15〔]じ13

曹5回7凹

C‑1。

讐黒

C‑9

05m

̲̲i

図5 ニ ノ 段(1:150) 189

(8)

ることになるが︑その断面にも中世石塔類が露頭している︒一ノ段に限らず墓地全体の近世以前の様相の把握は今後

の課題である︒

(2)ニノ段(図2・図5)

フ段を右手に見ながら墓道をさらに登り︑左手の崖を少し上がるとニノ段の平場がある︒調査開始当初から下段

と称していた平場である︒毛基の墓標が並ぶ(C‑2〜11︑C‑13〜20)︒圭頭碑五基︑圭頭角柱碑塞︑円頂碑三

基・円頂角柱碑二基︑角柱碑四基︑唐破風屋根付石碑塞︑舟形地蔵座像塞である︒この他︑礫による方形の区画

(C‑21〜23)と中世後半の五輪塔残欠(C‑1)︑近世墓標の台座(C‑12.24)を確認している︒

各墓標の配置は・ChからC‑⑳までほぼ]線上に並び︑その延長線上に礫による方形の区画(C‑21〜23)が続

き・最後は近世墓標の台座(C塾だけが残されている︒ほぼ一線上に並ぶ上記墓標群の・つち︑C血からC幽に

かけての前面にさらに一列墓標群が列状に建ち並んでいる(C‑2〜10)︒このうち︑C‑2.3はやや離れた位置に

ある︒

このようなニノ段の墓標群の配列分布は︑墓標に刻まれた年号の年代別分布と符合する︒すなわち︑C‑15(円頂

碑)が宝永三年二七〇六)︑Cb(圭頭碑)が正徳二年(毛三)︑Ch(圭頭碑)が正徳五年(毛一五)︑

C‑19(圭頭角柱碑)が享保一〇年二七二五)︑C‑18(唐破風屋根付石碑.夫婦墓)が宝暦八年(一七五八)︑C‑

17(円頂角柱碑・夫婦墓)が宝暦 二年(一七六二)で︑一八世紀初めから中頃の年号を示している︒これに対して

前列のCー(円頂碑)は文化八年二八二)︑Cー(円頂角柱碑)は天保]四年(天圏一一)︑Cー(円頂碑)

は嘉永三年(一八五〇)︑C‑7(角柱碑)は安政二年(一八五五)で︑いずれも一九世紀代初めから中頃の年号を示

している︒一八世紀後半に墓標群の形成上一定の断絶を看取できる︒C‑2.3はいずれも圭頭碑でほぼ同じ大きさ

(9)

二神家墓地調査中間報告

である︒それぞれ信士︑信女とあり︑C‑3には正徳二年(}七

一二)の年号が刻まれている︒C‑4から10までの列とやや離れ

ていることは前述したが︑年代も一八世紀前半であり墓標群形成

上は別群とすべきである︒

C‑6(角柱碑)は夫婦墓で明治一九年(一八八六)・明治三二

年(一八九九)の年号が刻まれ︑他の墓標がいずれも一九世紀初

めから中頃にかけての年号を示すのに対して一基だけ﹁九世紀末

の年代を示している︒C‑9(角柱碑)の昭和四年(一九二九)

の墓標と共に︑一九世紀中頃までの墓標群形成とは一定の断絶を

考えるべきであろうか︒

ニノ段の墓標群に刻まれた法名は︑二神家伝来の過去帳に見出

すことができない︒墓地を管理している二神春子さんによれば分

家筋の墓地であるという︒

(3)三ノ段(図2・図6)

ニノ段の直上に開かれた平場で︑調査開始当初には中段平場と

称していた︒中世後半から近世初頭の石塔類を大量に確認し︑二

神家墓地調査の端緒となった場所である︒中世石塔類は更に上段

の四ノ段から五ノ段にかけての崖裾に半ば埋もれていた︒その前

B

・ 器 簿

邸 08 翻 ◎ 勾 呵 贈

編 鰯 零

匪 @

O

ゆ日

191

(10)

面に列状に近世墓標群が林立する︒

平場入り口から見て奥側に近世初祖家種から二代の二神種長の墓標(B‑5)︑手前に三代の種忠の墓標(B‑8)

が建つ・種長の墓標は圭頭碑で没年は明暦三年(エハ五七)︑種忠の墓標も圭頭碑で没年は貞 ︑子五年(一六八八)で

ある・二代種長の墓標の右側に近接して天正一七年(三八九)銘の濠(Bー)が建つ︒過去帳に暫勝院雪旦

理永大姉天正十七巳十一月七日二神修理尉家種前之室先達テ死元来居屋補内二葬後西畑下ヨリ三之段二引直ス﹂

と記されている・種長自身が﹁居屋補内﹂から﹁引直﹂したものか︑種長の没後に種長の墓標の隣に﹁引直﹂された

のかは不明であるが︑墓標自体の型式は天正期のものではない︒種長の墓標(B‑5)が総 口同九九センチメートルで

あるのに対して豪種前之室Lの墓標(早6)は総高一〇八・五センチメールとやや大きいが︑いずれも大変よ

く似た圭頭碑である︒二代種長は家種の前妻の子であったのだろう︒三代種忠の墓標(阜8)の右側やや離れたと

ころに種忠の室の墓標(B‑9)が建つ︒圭頭碑で︑没年は宝永四年(一七〇七)である︒種忠の墓標の総高は一〇

〇センチメートル︑驚室の墓標の総高は八六センチメートルとやや小型である︒二代種長墓(B15)︑三代種忠墓

(B‑8)・三代種忠の室(撃9)︑早m︑B也︑Bbは︑ほぼ等間隔で並んでいる︒B血は四代種次室の父の墓

標で圭頭碑没年は元禄六年(一六九三)である︒B也は五代種永の﹁前ノ室﹂の墓標で唐破風屋根付石碑である.

二五歳で没している・没年は宝永二年(一七〇五)である︒Bbは風化摩滅が激しく銘文は不明である︒二代種長

の左手・平場の最奥部分にBーからB‑4が建てられている︒B‑2から早4は連接しているが︑Biは列を異に

しやや離れている・阜2は圭頭碑︑四代種次の娘の墓標で︑過去帳に倉橋より戻るとある︒没年は元禄四年(エハ

九一)である・早3は圭頭碑で同じく四代種次の三男の墓標で︑与州三津浜へ別家したが子孫無くとある︒没年は

享保四年(一七一九)である︒B‑4は舟形光背を持つ地蔵立像碑で︑銘文は判読不能である︒総目同六五.五センチ

メートルある・B‑1は四代種次の娘夫妻(夫は養子)の法名が刻まれた墓標で︑圭頭碑である︒没年は夫が元禄元

192

(11)

二神家墓地調査中間報告

年(=ハ八八)︑娘が享保二〇年(一七三五)である.三ノ段のこの颪には︑四ノ段に藻のある四代暴次より先に没した養子を含む子供達の藻群がまとまって建てられている︒Biは前述のように夫婦連名碑である・種次の娘は享保二〇年に没しているので︑種次より後に没したことが分かるが︑連名を意図した墓標に追刻され・こ2画に葬られたものであろ・つ︒Bーと撃8の間に高さ四八センチイトル程の自然石が立てられている・過去帳に罹大僧都大阿企.梨法印慈鷹二神種永五男忽那大浦長隆寺二士一笹ノ住僧名蓬留寺二有二神テア印所西畑三

ノ段二有延享四年丁卯六月+百遷化スLと記されている︒この昂所Lとは・あるいはこの自然石のことであろ

過去帳に三ノ段に葬ると記藝あって所在の不明なものは︑まず二代種長の室である・﹁居矯内二葬後西畑三ノ段長春同所工引直ス﹂とある.蒙種前之室Lと同じように﹁居屋補内﹂から引直し︑しかも種長の法名である﹁長春﹂と同所であるとしているが︑それらしき藻は見当たらない︒四代種次の娘は︑津和地柳原に嫁ぐも宝永五年(一七〇八)に﹁當家病死廟所西畑下ヨリ三之段二葬﹂とある︒あるいはB血の銘文判読不能な圭頭碑であうつか・三ノ段に葬られたが所在不明の成人はこの二人である︒

過去帳に三ノ段に葬られた.︑とが記されているが所在の不明な子供が二人いる︒四袋次の早世した兄と五代種永の早世した四女である︒B‑4の舟形光背を持つ地蔵立像碑とB詣の舟形光背を持つ畿立像碑は・子供の藻であろ,つ︒四代種次の早世した兄は︑本来は三代種忠の嫡男であったわけであるから︑藻の配置関係からみて二代種長と三代種忠の中間やや後ろにあるBぬがそれであろうか︒五代種永の墓標は五ノ段に建てられ・八〇歳で延享四年

二七四七﹀に没している︒五ノ段で最も古い年号を示し︑この段に五代目当主の墓標として最初に建てられたものと思われる︒そ.つであるならば︑種永の三女竺九歳で享保元年(一七=ハ)に早世し・四ノ段に葬られているので種︑永の存生中は四ノ段までが開かれていたのであろう︒そして︑過去帳によれば︑種永の四女であっても三ノ段舞

193

(12)

られたというのであるから︑この女子は︑三女の没する以前︑まだ三ノ段を

使用する意識の強いうちに幼くして没したものと考えられる︒俗名を於ミズ

という童女の墓標は︑B‑4ではないかと思われてならない︒

(4)四ノ段(図2・図7)

近年・新しく切り通されたという墓道の手前に位置する平場で︑調査開始

当初上段平場と称して五ノ段と区別していなかったところである︒

墓地を管理している二神春子さんによれば︑この平場は﹁あたらしや﹂の

墓域であるという︒A‑29a・bからA‑32までの墓標に刻まれた法名は︑二

神家過去帳に一切記されていない︒分家筋の墓標のようである︒A‑29aは

円頂碑で享保一八年(一七三三)と元文四年(一七二九)の年号が刻まれ︑

夫婦の連名碑である︒A‑31は宝暦=年(一七六一)の年号が刻まれてい

る︒この墓標の下部は第三次調査の際︑三ノ段の中世墓の広がりを把握する

必要から発掘した︒調査成果については別項で論じている︒A‑29b.30.

32は台座のみである︒

A‑26・27・28は列状に並んでいる︒下部を発掘調査した結果︑墓塙は検

出できなかった︒想像するに︑前述したように︑近年に墓道が切り通される

以前には︑これらの墓標は現在の墓道の部分に建てられていたのではなかろ

うか︒墓道を開削したために︑より前面に墓標だけが移動させられたものと !

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呼A

も ︒ ◎

)5m

図7四 ノ 段(115⑪)

194

(13)

二神家墓地調査中間報告

思われる︒ちなみにA‑28は円頂碑

で︑四代二神種次の墓標である︒没

年は享保一〇年(一七二五)である︒

右隣に近接して唐破風屋根付石碑

(A‑27)があるが︑銘文は判読不能

である︒種次の室は﹁廟所西畠下ヨ

リ四ノ段二葬﹂とある︒墓標の型式

及び規模からも種次の室の墓標の可

能性が高いのではなかろうか︒A‑

26は円頂碑で︑五代種永の三女の墓

標である︒享保元年(一七一六)に

没している︒

(5)五ノ段(図2・図8)

二神家墓地の中で最も上段に位置

する︒}八世紀中頃から現代までの

墓標が林立する︒円頂角柱碑四基︑

唐破風屋根付石碑六基︑唐破風屋根

があったと思われる石碑一基︑唐破

五 ノ 段(1:150)  

那 剛

(14)

風屋根部分ひとつ︑角柱碑一二基である︒

ここでは近世の墓標を中心に述べることとする︒近世の墓標は︑南側山裾に列状に建ち並ぶ︒A‑1からA‑4は

近・現代の墓標で︑それらの前列に建ち並ぶ︒

五代種永から八代種福までの墓標が一定の間隔をおいて占地し︑九代種五の糠は前列に占地する︒δ代種式の

墓標は窮屈そうに八代種福の藻に近接して建てられている︒A必とA古のと.﹂ろで直線的に建ち並んでいた藻

列が若干折れ曲がっているが︑Aおは六代の室で︑A古は六代の娘であるから︑六代と七代の間で簸を区画する

意図ではなく︑墓地の地形に則した列方向の違いとみるべきであろう︒

七代種章までは・八歳で早世した四男の墓標(A‑茄)が飛び離れて存在するものの︑夫妻と子供達が歪のまと

まりをもっている︒ところが・八代種福の代になると墓地空間に限りが出てきたのであろう︒嫡子の墓標(A‑8)

は近接しているが・娘の藻であるA中卒2・・A‑ηは︑いずれも五代種永や六代種信の代の墓標群のムロ間を縫

って占地している︒こうした情況のなかで︑九代種五の墓標は前列に占地したのであろう︒

ちなみに・五代種永の藻は円頂角柱碑で︑延享四年二七四七)銘︑六代種信の墓標は円頂角柱碑で︑明和二年

(一七六五)銘・七代種章の藻は唐破風屋根付石碑で︑寛政六年(一七九四)銘︑八代藩の墓標は角柱碑で︑文

政三年(天二〇)銘・九代種五の墓標は角柱碑で︑謄二年(一八六六)銘︑一〇代種式の墓標は角柱碑で︑慶応

三年(一八六七)銘である︒

19b  

5.近世墓地の形成と墓標型式の変遷について(図9.図10)

これまで述べてきたように︑二神家近世墓地の形成過程は︑明らかに最下段の一ノ段から始まり︑

へと展開している︒ 最上段の五ノ段

(15)

二神家墓地調査中間報告

一ノ段から五ノ段への墓地各段の

墓標群の形成過程に︑墓標型式を重

ね合わせたものが図9である︒

前述したように︑一ノ段の石廟型

式はD‑2︑D‑7だけで近世の初祖

夫婦たる所以であろう︒板碑型は一

ノ段だけに限られ︑一六五〇年頃ま

で採用されていたようである︒

ニノ段の墓標群に刻まれた法名は

過去帳に記載なく︑ニノ段は分家筋

の墓域と考えられた︒墓群が三群に

分かれることは前述したが︑C‑4

からC‑10の群では角柱碑と円頂碑

が多い︒比較的新しい分家筋が占地

したことを示していよう︒C‑2・

3の群とC‑11からC‑19の群は︑圭

頭碑が目立ち古い段階の分家筋であ

ることが看取できるが︑三ノ段の圭

頭碑に比べて年代的にはやや後出で

θ

A

A6Ω21A8

A 搾

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試 " 轟 豊 誠

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板碑型 圭頭碑 圭頭角柱碑 唐破風屋根付石碑 円頂碑

円頂角柱碑 角柱碑

図9墓 標 型 式 別 位 置 図 197

(16)

1650

1750

▲師

△胴

△凹

轟 むAAD ‑1

▲B騨9∴ 論1幽13

B‑3

C一 四

鳥 黒

5

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臼 一12

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A‑a,(Q ‑1、

A‑9蕊OA‑16Q

A‑12

O飼

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■醐 ■喝C

A

■荊A

且 愚

■M

図10墓 標 型 式 変 遷図

C‑15 i

A‑26●

A‑28

A‑29・

OA闇21 A‑191Q

A‑31A ̲18C‑1T

O A‑25

A‑Z2

●A‑20 C‑$

●4C

鯉 繍驚 融

△▲△O●ロ■

198

(17)

ある︒分家の時期を検討する好材料であろう︒

三ノ段のほとんどの墓標は圭頭碑である︒板碑型の次に登場する型式で︑一六五〇年段階に採用されているが(B

‑5)︑主流となるのは一七〇〇年前後から一七〇〇年代の早い段階である︒圭頭碑は板碑型を主流とする一ノ段にも

一基存在している︒

圭頭碑が主流を成している時期に唐破風屋根付石碑が登場する︒三ノ段に一基存在し(B‑12)︑四ノ段︑五ノ段で盛んに用いられる︒主流となった年代は一七五〇年代から一八〇〇年頃までである︒唐破風屋根付石碑が盛んに用い

られた時期に並行して︑円頂碑も登場する︒一七〇〇年から一八〇〇年にかけての約一〇〇年間である︒円頂角柱碑

は円頂碑に比べてやや後出のようであるが︑一七五〇年代から一八五〇年代にかけてが主流のようである︒円頂角柱

碑は円頂碑の型式的変化のように思え︑一連のタイプと考えるべきであるならば︑唐破風屋根付石碑と円頂碑・円頂

角柱碑が並行関係にあるといえよう︒そうであるならば︑いずれかの型式を選択する原因については今後の検討課題

としておく︒これらの型式は四ノ段︑五ノ段を中心に用いられている︒

一八〇〇年以降は角柱碑全盛の時代である︒五ノ段で最も多く用いられ︑ニノ段の分家筋の墓域でも用いられてい

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二神家墓地調査中間報告

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