The Japanese Society for Plant Systematics
NII-Electronic Library Service
The Japanese Sooiety for Plant Systematios
December
1996287
【 雑 鋤
あ り か
北 村 四
郎
:木
村有香
さんを偲
ぶ〒
606
京 都 市左京区 田 中東高原 町15
木 村 さん は
1900
年生 れで ある。 少 年 時 代は 小学 校5 年生 か ら京
都で育
た れ た。
高 等学校
は七高で 鹿 児 島で学ば れ
,
東 京大学で早田 文蔵さ んの指 導を受
け,
卒業後 東北 大学に 就 職 し,
以来 仙 台に居 住し
,1996
年9
月1
日 に逝去
さ れ た。
えぬ ま
木 村さ ん は石川県江沼 郡 橋立 村の 生 れ で, 代々北前船で, 蝦 夷か ら大 坂へ 物 資 を運 び, 明 治の 初め に常 盤 丸
( 1200
石)
で使っ た麻の 大 風 呂 敷 が あ り,Hasitate
Kimra
と染めて あっ たと木 村さんの手 紙 (
1986
年7
月27
日付 )にある。もと い エ
木 村 有
香
さんの 令兄素 衛さ ん は京 都 大 学 文 学 部 教 授で, 敗 戦後
, 長 野 県に講 演に行き,
病 を得て,
長 野 県で な くなら れ た。 私は兄,
北 村三雄の兵 隊 友 達で私が学生の時,
下 宿 していた相国寺の近 くに住ん でい た同 志 社 大 学 教 授
(
後 名 古屋 大学文
学部
英文
学教授)
の とこ ろへよく
遊
びに行っ た。 加 藤さ ん は木 村 素 衛さ ん と親 交が あ り,
私 をつ れ て木村素衛
さ んの宅 に 連れて行っ て くれ た。 素 衛さん はい ろい ろ話して下 さり,
ご尊
母に お 目にか かっ た。 ご尊
母の姓 は菅谷 で
,
初代菅 谷 九 右 衛 門 は 織 四 信 長の重臣 で文 功があっ た との こ と,
戦国時 代や徳 川 時 代に はす げの や との こ とで今はす が やで あ る(
上記の手
紙に よ る)
。木 村 有 香さん の妹
,
はつ 子さんには加 藤 龍 太 郎 さん宅に しばら く居 られた ときお 目にか かっ た。 現在は京 都 大 学 名 誉 教 授 出口勇 蔵 さん の夫 人で宇 治 市 木 幡 御 蔵 山39−66
に住ん で居 られる。 出口 さんは もと経 済 学 部 教 授であっ た が,
今は京 都大学 名 誉 教 授の会で度々 お 目 に か かっ て木 村 有 香 さん の最 近の 情 報を伺っ てい た。 木村 有 香 さ んは出口さ んの お宅に泊ら れ たこと があ り,
私も 出口 さ んの お 宅 に木
村 さ ん に お 目 に か か る た め京
都市
内の お宅へ,
転 宅 後は宇 治のお 宅へ 木 村さ んのお伴で行っ たこ と が あ る。
仙 台へ は私 は
1930
年10
月の 始 め に松 島にアザ ミを採 集 し,
Cirsium sendaicum Nakai を調べ た。 そ れ は 大部分 は ナン プアザ ミ
C .
nipponicumMakino
であっ た。 その峙に東 北 大 学 に行か な かっ た。木 村 有 香さん に私 が 最 初に お 目にか かっ たのは, 木村 さんが 京 都 大 学ヘ ヤ ナギ 属の標 本 を 調べ に来ら れ た ときで, 私は当 時大学 院 学生で, 大学の近 くの洛 東アパ
ー
ト にい た。 木 村さ
ん を
1935
年の2
月に洛 東アパー
トに お世 話し た。 時に は喫 茶 店に
,
夕に は一
緒に アパー
トの前の蜻 梅で
夕
食を 共 にし,
大 変 面白かっ た。
木 村さ ん は東
北 大学 助教授で,6 年
も年
が 上で
,
い ろい ろ お 教 を受
けた。 得 る ところ多
大 で,
今も 深謝 し てい る。 小泉 源一
先生 は ヤ ナ ギ 属で大 きなよい仕 事 をさ れた方なの で, 木 村さんが七高に居 られるとき,京
都大学助教 授で あっ た小 泉 先 生に, 京 都 大 学に 入っ て指 導 を受 け たい と申し出ら れた が, 小 泉 先 生は 目下京 大 に は本
も標 本も ない の で, 束 京大学に入学 する ようにと勧め ら れ た と, 木 村さ ん か ら伺っ たe 木 村 さん の私へ の忠 告には 「慎 重に研 究,
行 動 するように」との ことで,
私にとっ て は 生涯 あ りが たい ことである。 とこ ろ で 今な お,
本 村さ んの云 う 「そ そっ か しい 」のは な お ら ない で,
折 り折 り に 思い 出 して,
い ま し め てい る。木 村さん は京 都へ 度々来ら れ た。 私は木 村さん に よ くお伴 し て歩い た。 チ リッ バ キの椿 寺
へ も
一
緒に行っ た。 セ イコ ヤ ナギ
Satix
bahytonica
L .
var.
Lavallei
Dode
f.
Seiko
Kimura
を とりに宇 治 市 宇 治蓮華
47,
上林一
雄 氏の 庭(
橋 姫 神 社の 庭 )へ お伴 した。 その と きは宇 治の 出口勇 蔵さん宅 に 伺 っ た。
N工 工
一
Eleotronio LibraryThe Japanese Society for Plant Systematics
NII-Electronic Library Service
The Japanese Sooiety for Plant Systematios
288 Acta
Phytotax.
Geobot . Vol .47
1935
年10
月 中旬,
北 大 で研究の帰 途,
初めて東 北大学 理 学 部生物 学 教 室へ 行 き, 木 村 有香さん の お宅に泊めて頂い た
。19
日 に宮 戸 島ヘ ミヤ ト ジマ ギク の採 集に案 内 して頂い た。1958
年8
月2
日 か ら4
日まで,
那須の ご用邸
で,
昭 和天 皇の お伴を して山 路を歩 き,3
日 夜は ご進 講 した。 こ の とき本田正次, 木 村 有香
, 原寛,
佐 藤達夫さん と一
緒で
,
木 村さ ん は それ 以前,
仙 台で ご進 講,
次い で宮 城でヤ ナギ 類 を拝 見,
那 須で のお伴 をさ れ てい た。
以後,
毎 年,
度々那 須で,
上記の方がたと共に昭和天皇の お伴 をし た。 昭 利 天皇の こ著 作「
那 須の植 物』(1962) , 「
那 須の植 物 誌 』( 1972)
が出版 され た。 次い で上記の 方々 と伊 豆の須 崎へ も 昭和天皇の お伴を し
, 『
伊豆の 須 崎の植 物 』( 1980)
が出 版さ れ た。 那 須ではその後 もお伴 をし た が,
佐 藤 達夫
さ ん が 須崎の植
物の調査途 中,
病 気で東 京で なくなっ た。 佐 藤さん の紹 介で, 伊 藤 洋さ ん が,
『
那須の植
物 誌』
以来,
お伴に加わっ てい た。 本田 さ ん は1984
年にな くなっ た。 『那須の 植 物 誌 続 編 』(
1985)
は木 村,
伊 藤,
原,
北村
な ど が お伴 し, ご 著 作の ご相 談にあ ず かっ た。 原 寛さん は1986
年に なくなっ た。
『皇居の植
物』( 1989 )
の こ 著 作は原さ ん が な くなっ たあと木 村,
伊 藤, 北 村 などが,
ご著 作の ご相 談にあ ずか り,
昭和 天皇 崩 御のあと に出版 され た。以 上の ように木村 さん と は長 年にわ たっ てお話 する機 会が多 く, い ろい ろ親 交があっ た。
1932
年3
月5
日,
私は台 湾の 日月潭で ス イシャ ヤ ナギ を 多 量に採 集 した。 木 村さんがほ しい とい うの で 多くの標 本 をあげ た。
私が保 育 社から原 色 日本 植 物 図 鑑 木 本 編 をまとめ ると き
,
ヤ ナ ギ属は どう
し よう
か と木
村 さん に相 談 した ら, 木 村さん は,京
都 大 学には小泉先 生の標
本 が 沢 山あり,
同定
も あ るの で,
私に書 くように云われた。 それで私 もヤ ナギ属につ い て 野外で観 察 し,
勉 強し た。 大変
面白くて, ヤナ ギ属に興 味をもち, 木 村さ ん の著 作をよく読んだ。 大 体 木 村さん の 見
解
を採用 した。 ヤナギ類は雑 種が多 く
,
それ ら に木 村さんは学 名をつ けて い られるが, キク科で も雑 種 が多
く,
種の 多い アザ ミ属な どでは雑 種にそれぞれ名 付 ける の はめんどうで,
雑 種はその両親
を示 す記号だけで よい と 思う
。 然し属 問 雑種
は ま れ で あ る が,
私も学 名をつ けてい る。 木 村さん はヤ ナ ギ属を若
い ときか ら専攻
し,
分類学上の 仕事
は ア ジアの ヤナギ属で,
特に敗 戦 前の樺 太,
千 島,
北海 道,
本 州の ヤ ナ ギを詳細 に 研 究 さ れ た。
小泉 先生 も多
くの新種
を発表 し た。 これ らの種で私 も確 認で きる もの が多
い が,新
種と し て私の認 め ること が で きない も の もある。 それ らにつ い て,
木 村 さんの 日本の ヤナギ 属の モ ノ グラ フが出 版 されるの を望んでい た が
,
つ い に出版さ れずにな くなっ た。 ずっ と 以前, 私は出 版 を木 村 さん にお願い し た が,
慎重 な性 格の た め残 念な こ と である。 木 村さ ん は小 泉 先生のヤナ ギ 属で の仕 事を高 く評 価し てい ら れ た し,
小泉 先生 も木 村さ んの慎重 な仕 事に感 心 して お ら れ た。 ユ930
年の夏に 樺 太の 敷香の郊外で,
木村 さんが 野 性の ヤ ナ ギ に番 号をつ けておい たの に感心 してお ら れ,その木の枝を採
集
さ れ た。 木 村さ ん は夫人冨士 さ ん と共に南 千 島の色丹 島に採 集さ れ た。 その う ち私ヘ キク科 植 物の 標 本 を下さっ た。 木 村さん は外 国へ
・
は行かなか っ た
。
木村 さんの 人 柄が温 厚で,
その研 究 態 度が 立派 なの に心 服 し,
東 北 大 学の学生で あっ た津田弘 さんが 名 占 屋で製 菓会社で 成 功 し,
東北 大学に植 物 標 本 館を1986
年に寄 贈さ れ た。 青 葉 山 植 物 園 内に あ り,木
村さ ん は その 中の研究 室 で研究 さ れ てい た。ひ ご な か
木 村 さん はラ テン語に熱 心で , 疑 問は
,
京 都 大 学 文 学 部の 田巾 秀 央 先 生に質 問さ れた。
私 も学生の と き,
田 中さん の週1
回の講 義に 出 席し た が,H .
Tanaka
:Nova
gramatjca latina
が教 科 書であ っ た。 あ まり出席で き な か っ たの で,
病 気の と き な ど,
こ の本で勉 強し,
ラ テ ン文を暗記 し た り して勉強 し た。木 村さ ん はラ テ ン語が得 意で ギ リ シャ 語も学んでい た。
N工 工
一
Eleotronio LibraryThe Japanese Society for Plant Systematics
NII-Electronic Library Service
The Japanese Sooiety for Plant Systematios
December
ユ996 289
ラ テ ン語を停 年 後
,
分 類 専攻の 学 生 に 教 えてい る と 云っ て お ら れ感 心し た。キ キ ョ ウの 学 名 Platycodon
grandifiorum
DC .
は一
us とすべ きで あると か, 中 井 猛 之 進 先 生 はsub anthesin と書か れ る が sub anthesi が 正 しい と か,
Satix
Flodersii
Nakai
とあるの はSalix
Florderi
が正 しい とか教えて もらっ たの は木 村さんか らで ある。
幻の樹 木 図 鑑で ある中 井
・
小 泉 :大日本樹 木 誌の小泉先 生 担当の部 分の 図 は,
山 田寿雄 さん の画い た もの である。 小 泉 先生の 原 稿は ない が
,
図 は同 定してお ら れ た。
先 生 が 停 年で退 官さ れ る とき,
無 言で私に渡さ れ た。 これ は出版 さ れ てい ない し,
私の原 色日本 植 物図鑑の 図の作 成の と きは,
こ れ を見ない で 画 かせ た。 現在
こ の図は京都 大 学にある が, 私が ゼ ロ ッ クス で複 写し て持っ てい るn その う ちヤ ナ ギ科は2
通 作 成し,1
部 を木 村 さん に送っ た。
木 村さ ん は 大変 喜ば れ て, 仙 台の美 味な最 中 を送っ て下 さっ た。 私 もそんなに気にい るとは思い が けな く
,
ヤ ナギ 学へ の 熱 情に当 方が びっ く りし た。木 村さん は牧 野 富 太 郎 さん に敬 服 してい た。 牧 野さ ん か ら飯 沼 慾 斎の 『草 木 図説 』の本 部
の ヤ ナギの 部 分の原 稿を借り出 し
,
複 写 し てい た。木
村さ ん か ら その こ とを教えて も らっ て,
高 知の植 物 園の牧 野 文 庫の 目録を調べ た とこ ろ『
草 木 図 説 木 部」
の写 本が 二部あ ること が わ かっ た。
そ れで私 は 幻の 図 巻 『草木図 説木 部 』(
1977)
を 出 版 する こ とがで きた。木 村 さ ん が原 寛さ ん に敬 服し
,
い ろい ろ 相談さ れ たこ とは 『原寛 博 士 追 悼の 記』
(1987
) 175−
177 に書い て い る。
全 くその通 りである。木 村 有 香さんか らの手 紙は大 変 面 白い の でずっ と残して い た。 それ を読みか えすとい ろい ろなこと が わ かっ た。
木 村 さん は こ丿こ人を手 紙で は冨士子と書い てい ら れ る が
,
ご夫人 か ら頂い た葉 書に は冨士 とある。 冨士 さん は植 物分 類学が お好 きで ある。
若い と きご主人 と一
緒に色丹島に採 集に行か れ た し
,
木 村さ んの那須 で ヤ ナ ギ 属の採 集の と き,
つ い てこ ら れ た。
リン ド ウ荘 で泊っ た り,
秋 本 さん宅で 泊 っ た り さ れ,
私 も リン ドウ荘に伺 った り, 那須の ご用邸で お 目にか かった。 晩 年の ことで ある が
,
京 都 大 学の標 本 室にご主 人と一
緒に来 られ, お世 話 を された。 そ
の 時は私 も京大 を退 職し てい た が , 標 本の 出 し 入 れ な ど し た。 木 村さんも館 脇さんも京 都の 素 うどんが 好 きである。 醤 油の薄口 の味が珍 しい の であろう。
1935
年に私の行 きつ けの蛸 梅の料 理 が 木 村 さん の気に入っ た。さいせ き
その頃
,
木 村さ んのお伴で京 都四条西 垣 の「
な る せ」
へ,木
村 さ んの一
中の同 窓の 人の ごち そ うに なっ た。 大変おい しく
,
精力の い や ちこに な る とい うギ ョ ウ ジャ ノ ニ ンニ ク も食べ た。木
村さ ん は「
鳥の 脚の 荒 塩 焼が忘れ ら れません」
と1964
年5
月21
日の手 紙にある。
私 は保
育社の 山 崎 さ んの案 内で 「な る せ」
へ 行っ た が,ギ ョ ウ ジャ ノニ ン ニ クは食 えな かった。
木 村さん のお宅へ 行っ た の は仙 台 市 花 壇五 五 のお宅であっ た。 その後 火 災にあわれ て消 失 し た本や手 紙な どもあっ た。 私は若い 時か ら頂い た手 紙は 全部ま と めて残してあ るの で 以 上
の ようなこ と を書い た次 第で あ る。
1935
年に木
村 さ ん に 依 頼 さ れて Dode の 可成 り長い 仏文 を和訳 し たこ とがある。
こ れ は 急い だの で出 来が悪い 。 焼け た ら幸である。木 村さん に親 交のあっ た植 物 学 者は館 脇 操さ ん
( 1899− 1976)
で,
木 村さ んの仕 事に感 心 し,
名人芸と 云っ てい た、 ,
お 宅へ も泊 っ た ようで あ る。
東 京大学理学 部 植 物 学 科の同窓で は 服 部 靜夫
さ ん(
1902 生 れ)
と松 浦・
さん(
19{〕0 年 生れ)
で,
親 交があっ た。
服 部 夫人の ふみ 子 さんは京 都生 れで , 木 村さんの招 待さ れ た京 都のマ ツタ ケ 刈 りの と き, 対 面さ れ, 結 婚のN工 工
一
Eleotronio LibraryThe Japanese Society for Plant Systematics
NII-Electronic Library Service
The Japanese Sooiety for Plant Systematios
290
Acta Phytotax.
Geobet . Vol .47
きっ かけとなっ た と木 村さんか ら聞い た
。
ふみ 子 さ ん は私が1935
年10
月に木 村 さん宅に泊 めて頂い た とき,お 目にか かっ た。ふ み 子 さ ん に は その後1959
年カナダの モ ン トリオー
ルや,
ご 主 人 が岡 山 大 学 学 長のとき, 私は岡 山 大 学へ 非 常 勤 講 師で
行
き,
お 宅へ 伺っ た。 心 安 くして頂い た。 服 部 さん は生化 学 者 だが, 植 物 をよ く採 集さ れ た と木 村さ んの手 紙にある。
コ ヨ ウ
コ ト カ ケ ヤ ナ ギ
Poputus
euphraticaOlivier (
ユ807)
,Turanga
euphratica( Oli
>. ) Kimura (1938),
Balsamiflua
euphratica( Oliv. )Kimura
(1939
),Populb
{sdiverstfotia
Shrenk
〔 1842).
胡 楊 (陳蠑 :中 国 樹 木分類
学 ( 1937 ) ,
中国で はフ ウ ヤ ン と 云う。 木 村 さん か らコ トカケ ヤ ナギとい う和 名 を戦 前に聞い た。
聖書の 中 でこ の木に 竪琴を か けて シ モ ン を 思い だ し て泣い た囚わ れ人の話に もと つい た 名で, 木 村 さ ん が 面白が っ てつ けた名
であろ う。 こ の話は 上原敬
二 :樹 木大図 説1580
頁に出てい る が, 和 名は出てい ない 。 大場 秀 章 「秘 境・
崑 崙を行 く』( 1989 )86 − 89
頁にフー
ヤ ン林の項で, こ の話とコ トカケ ヤ ナ ギの利 名 を書 き
,
フー
ヤ ン と同種か
,
たい へ ん近 似の種である と書い てい る。 中 国植 物 志 第二 十 巻第二分 冊 :76− 78
頁(
工984)
に 胡楊をP .
e“phratica
と してい る。 私は京 都の 国 際日本 文 化セ ン ター
で話し た胡 楊の話を 北村四 郎 選
集
V102−
103(
1993)
に再 録し た。胡 楊の分 布は内 蒙 古の西か ら甘 粛,青 海,新 疆, 外 蒙古
,
ロ シアの 中央ア ジア,
コー
カ シア,
エ ジ プ ト,
シ リ ア,
イ ン ド,
イラン,
アフ ガニ ス タン,パ キス タン と広 く分
布
し,
楼 蘭の 遺 跡に出て くる建 築 材や燃 料は これである。木 村さ ん か ら頂 載 した もの で今 も大 切に してい るのは
,
私の結
婚 祝に 下 さっ た花 籠,
学 位 祝に下 さっ たアザミ模 様の東 北工芸 製 作 所の ア ザ ミ文様
の玉蟲菓
子 器,
アキ タ ブ キの フキ刷り
,
これ は大 変立派 な もの で,
京 都で 二 つ 折 りの 屏 風に作らせ た。
木 村さん は七高の とき キム ラ グモ を発 見 され た。 原 始 的 なクモ で, 穴の中 で くら し,
餌
物 が近づ く と穴 か ら出て,
く わ え 込 ん で食
う。 時々 テ レビで説 明があるが,
先日は木 村 有 香 が 発見 し た と 云 っ てい た が,
以前に木 村 有 香とい う女 性が発 見 し た と誤っ て放 送 し たこと が あっ た と木村さんか らずっ と以前に聞い て,
面白かっ た。N工 工