研究ノート
ス ペ イ ン の ﹁ 大 航 海 ﹂ の 資 金 調 達
ー一六世紀の国際金融史における南ドイツとスペイン(その})Ii
諸 田 實
目次
はじめに
ーコロンブスの西インド大航海
πその他の西インド大航海
mモルッカ諸島への大航海
Wスペインの﹁大航海﹂の転機
は じ め に
101
西九二年δ旦.臼︑瓦週間余の航海ののちにコ・ンブスがグアナハー島ヘサでサルバド巨ル島)に到着
してか︑b︑冗九二年はちょうど1100年目に当たっている︒これを機会にコ・ンブス自身についても・コ︒ン
ゆフスをはじめとするスペインの﹁人航塵についてもさまざまな事実が明・bかにされ︑また・それが及ぼした影
響やその意味がさまざまな視点から問いなおされている︒本稿で取り上げる天航海Lの資金調達とい.つ問題も
その一つといってよいであろう︒
周 知 の よ う に ・ 生 産 の 集 積 を 議 と す る 大 規 模 な 産 業 経 営 の 成 音 ︑ 多 額 の 設 備 投 資 を 必 要 と す る 資 本 護 の
高度化も巖に進んでいなかった当時においては︑長期間の大洋航海を必要とする東インド貿易やアメリカ貿易
はとりわけ多額の資金を必要とする大事業であった︒長期間の航海に耐える船舶の調達︑船長と水先案内人︑多
数の乗組員の確保・長期間の食料と飲料︑現地で交易する商品の買付け︑などに多額の資金を必要とした}﹂とは
容易に想像できる・コ・ンブスやマゼランなどの名前で智れるスペインの天航海Lの資金はどのよ.つに調達
されたのであろうか・スペイン(カスティーヤ)人以外の外国人の資金はどのよ・つな形で︑どの程度入っていた
のであろうか・資金調達というスペインの天航海Lのいわば台所を調べる}﹂とは︑﹁大航海﹂を天世紀のヨー
︒ッパの国際金融ないし国際経済の関連の中に位置づけて捉えるためには︑困難ではあ.ても不可欠の作業であ
ろうむ
但し・実のところ箸はスペインの天航海Lについても︑エハ世紀のスペイン史についても嵩外であり︑
天世紀の国際金融で活躍し︑特に巨額の貸付け(公偏)によ.てスペインの王室とも関係の深い南ドイッの商
人フッガ象についてこれまで勉強を続けてきたにすぎない︒したが.て︑以下の小稿は︑スペインの天航海L
や=ハ世紀のスペイン史については嵩家の研究に全隅に頼り︑故ケレンベンツ教授の論文を手がかりにし
(マ南ドイツの側からみたスペインの﹁大航海﹂との関わりを明りかにしよ,つと試みたノ智トである︒ドイッの
経済史家の中でも︑フッガ面究を通してエハ世紀の南ドイツとスペインとの関連の重要性を指摘してい筋は
ケレンベンツ教授であった・そこで本論に入る前に︑南ドイッの商業のスペインとの関わりを一瞥てお}し,つ︒
103ス ペ イ ン の 「大 航 海 」 の 資 金 調 達
一六世紀のヨーロッパは宗教改革の激動の時代であったが︑その中で南ドイッ商人の財力(﹁貨幣権力﹂○Φ一αヨ甲
︒葺.)が国際商業の分野でも国際金融の分野でも重要な役割を果したことは︑南ドイッ商人を代表するフッガー
家の名則をとっ(脈︑}﹂の時代が経済史去フッガ象の時代L(α器NΦ量簿暑・・呈呼ばれていることからも叩りかであろ.つ︒アゥクス︒フルク圭ユルンベルクをはじめ南ドイッ諸都市の商人は・すでに五世紀にはド
イツ各地ばかりか︑東はティロル︑ケルンテン︑ス・ヴァキァ︑ハンガー︑ポーフンドと広く東ヨー︒ッパ
に︑北はネ﹁デをフンドか︑bバルト海の商業圏に︑南はアルプスを越えてイタリアの諸都市にまで窃の手を伸
レコンキスクばしていたが︑国土回復運動が進むイベリア半島も彼らの活動と無縁ではなかつ(規・
イベリア半島の東部の諸都市︑バルセ・ナ︑サラゴサ︑ヴァレンシアなどには︑一.五世紀にはすでにかなりの
数の南ドイッの商人が進出して︑サブ一フンをはじめ砂糖︑果物︑絹︑グラナ(染料)など・スペインや地中海地域
の特産物を買付けていた︒南ドイッ製の麻織物を販売し︑これらの特産物を買付けていた﹁大ラーフェンスブル
ク会社﹂の活動はその袋的なもので蒙︒アウクスブルクのヴェルザi会社もサラゴサに支店を開設して転規・
しかし︑半島の東部︑τフ︒コンE国の諸都市での曹⁝取引は︑カスティーヤの興隆と南部アンダルシア地方を
起点とする中南米やカナリア諸島との交易に押されて︑一六世紀にはしだいに重要性を失っていった︒
大航海時代が始まると︑イベリア半島に向ける南ドイッ商人の関心はしだいに大西洋岸に移り︑ポルトガルの
東インド貿易の根拠地リスボンとスペイン(カステーーヤ)のアメリカ貿易の根拠地セギリャには南ドイツ商
人の支店や代理店︑居留地が形成された︒このうち︑南ドイッの商人が最初に進出したのはポルトガルのリスボ
ンであった︒ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰喬ってインド西海岸のカリカットに到達したのは西
九八年であるが︑すでに一.五〇三年二月にはヴェルザー目フォェーリン会社の委託をうけたシモン.ザイツ
⁝姻
(ωぎ昌ω量がエマヌエル国王と協約を結んで︑ドイッ人に対して支店開設の許可と東洋の産・㎜の取引の免税措
置を獲得した・翌五〇四年八月にはヴェルギ会社の代理人牛カス.レム(ピ・閑⁝胃.ヨ)が国王と新たな協約
を結び・リスボンに代理店をもつ南ドイッの商人に対して︑東インド貿易に直接参加し︑次の航海に彼,り自身の
計算で袋者藁り組ませ︑交易品を船積みする許可を獲得した.▼︑の協約にもとついて︑五︒五年の押ン
ド貿易(第茜船隊)に縞ドイッの商人団がイタリア商人とともに参加し三七割五分の利益をあげたとい.つ︒
しかし・南ドイッの商人が東インド貿易に直接参加したのはこの時が面だけであり︑ポルトガルの香辛料取引
の中心もアントウェルペンに移ったので︑五6年代にはリスボン支店は重要性を朱つ}﹂とになる︒
これに対して・スペイン(カステfリャ)の大航海はどのようにして始まり︑また︑その資金調達に南ドイツ
の商人はどのように関わっていたのであろうか︒これが本稿の課題である︒
(1)缶.函亀魯g長惣Φ閃一霧藍Φ﹃琶σqαΦ﹁︒︒B三ω︒ゴ2国三g︒蒼旨αqΦ戸胃壽鳴﹁縣鳴な自濤塁ら鳶ミ達﹃⑦︒N軌自執‑§織葦﹃琳働ら壽自︑
露§ミ§窪㊤・お.・N■この問題に関連するケレンベンツのム柵文はたくさんあるが︑そのつど記す﹂とにする︒
(2)甲閑巴Φ筈Φ暴oΦ三ω︒三僧巳§ユω冨巳Φコ.≦Φ︒qρ↓&㈹2巷αO葺㊦村αΦω田コOΦ一︒︒印⊆ω一山=︒∩︒ゴω・圃56Φ吋︒︒.︑肉趙︑︒博黛.
貯§ミ羨ミ§ミ爵鳴内§q・§ミωミミ§ト一㊤三︒dΦ剛藝㊤・.N隻し︒零)のFコΦ︒σΦ乙︒=8ω︒ゴΦロヨ吋学
ω07P津ωσΦN冨ゴじロσqΦコN二QoO騨コ帥Φロ百ωヨωミ・}麟7﹃ゴロコO①二・
(3)即国訂Φコげ巽αq}b自︒︒Nミ言︑器﹁織ミ︑貸鴇ミト︒ゆαρ一c︒¢Φ・
(4)南ドイッの諸都市のうち︑エユルンベルクの商人はすでに西世紀にフ一フンドル︑7フバント︑イギリス︑イタリア
態 彩 転 窮 狩フ.翰 島 郷 引縫 辮 ゾ㌧ ︑擁 飛 箆 準
ハ・ポ!ランドで確認されている︒拙稿二六︑一七世紀中東部ドイッ麻織物棄におけるツンフトカウフ﹂(﹃商経論
叢﹄一六‑四)︑拙著﹃フッガー家の遣産﹄(有斐閣︑一九八九年)︒
105ス ペ イ ン の 「大 航 海 」 の 資 金 調 達
(5)﹁木フーフェンスブルク会社﹂(︒繭Φρ&島塞喜壽Φ﹁霞p・塁馨Φ=.・6翼)はムントプラット・フンピス・モ︑.テリ9.蒙族が結合して生まれた会社で︑南ドイッの帝国自由都市ラ←エンスブルクを本拠に・六年間の会社契約を二五回更新して一三八〇年から一五三〇年まで一五〇年間活動を続けた︒一五〇〇年頃には・ベルン・ジュネーヴ︑リヨン︑アヴィ言ン︑マルセ去︑‑ラノ︑ジェノヴァ︑バルセ・ナ︑ヴァレンシア・アントウェルペン・ケルン︑ニュルンベルク︑ウィーン︑ブタペスト︑フランクフルト・アム・マイン︑アよンに支店を開設したり・代理店を置いたりしていた︒﹀・ω︒びロ潔Φ・b蕊尋沁§§§電きミ鳴癒匙§ミ§山§も・︒σα£§人塚久雄﹃株式会社発生史論﹄(﹃著作集﹄岩波書店︑第一巻)後編箪章第︑節︒クーリッシェル﹃ヨ占ッパ中世経済史﹄(増禺郎監修︑伊藤栄︑諸田實訳︑東洋経済新報社︑一九七四年)四六五ページ以下︒
(6)ヴ︑ルザ豪はアウクスブルクの都市貴族の家柄で︑西仁.︑年に四人の兄弟が会社を結成・メミンゲンの商人フォ︑ーリンと結んで隆盛に向かった︒フッギ会社が社員を旗の成人畢に限り︑封建的権力者相手の金融業を積極的に行な︒たのに対して︑ヴ︑ルギ会社の社員には旗以外の者も多数含まれ(五〇八年に天人・同年フッガーは兄弟二人)︑商ロ㎜取引に重点をおいていた︒ニュルンベルク︑フライブルク︑ダンツィヒ・アントウェルペン・
チュ}リッヒ︑ジュ子ブ︑ベルン︑リヨン︑ヴェネツィア︑‑ラノ︑・←︑サラゴサ︑リスボンに支店を開設し・スペイン︑ポルトガルの商業に積極的で︑ヴェネズエラに植民地を作った会社としても知られている・エハ西年に破
産G即図耳魯σ①﹁σq圃騨舜P'ゆ9ドQ︒﹂り︒︒h
(7)五〇五年︑︑棊ル芳ル国王竺九隻の船をインドに派遣し奈︑この時︑ドイツとイタリアの商人は独自の纂で三隻の船喬行させた︒}しの﹁董又に舶載せられたるもの﹂は全額六万五四〇〇ドゥカ轟・そのうちイタリア人が二万九四〇〇ドゥカ占︑ドイツ人が.方六〇〇〇ドゥ空ド︑また︑ドイッ人の内訳はヴェルザー・フォェ﹁リン会社が︒万︑フッガ去荘が四〇〇〇︑→ヒシュテッ字が四〇〇〇︑ゴッセンブ7トが600・イムホフが・6
00︑ヒルスフォーゲルが.600ドゥカードで最後の.天がニュルンベルクの商人︑他はアウクスブルクの商人である︒大塚久雄︑前籔田︑後編篁章第節︒国まσ互b蕊§ミg︑§き窯最§ミミ壽焼善§こ︒・Φぴ鯉い
ーコロンブスの西インド大航海
コロンブスの西インド(インディアス)大航海(一四九・︑/九...年)とヴァスコ・ダ・ガマの東インド大航海(一四
九ヒ/几八年)が行われるまで︑アフリカ西海岸と人西洋上の諸島への進出において先頭に立っていたのはポルト
ガルであった・ポルトガルはセウタの嶺(西︑五年)を皮切りに︑ポジャドん岬(西...六)とヴェルデ岬
(両四四年)を越えて・エルーナ︑フェルナンド・干︑サン・トメなど︑ギネア湾に拠点を確保する万︑マ
ディラ諸島(西充怨︑アソレス諸島(画・,㌣..︑・︑年)︑アルギム島二四四.︑.年)︑ヴェルデ岬諸島(画五六
1五八年)を次々と手中に収めた︒これに対してスペイン(カスティーリャ)はグラナダの征服に全力を注いでいた
ために・この方面ではカナリア諸島(一四ヒ几年)を領有しただけであった︒
西ヒ九年にアルカソヴァス条約を結んで両‑ー国が布教と征服の領域の分割に食日心した時︑ギネアとマティ
ラ・アソレス・ヴェルデ岬諸島(畠ΦN尚)はポルトガルに︑カナリァ諸島はスペインに属した︒}﹂れが︑コロ
ンブスが歴史の舞台に登場する頃の状況であった︒
コロンブスと彼の人航海についてはすでにくわしく知られているので︑かんたんに述べるにとどめよう︒コロ
ンブスは一四五一年にジェノヴァの毛織物商の息子として生まれたが︑西インド大航海以前にも何度か航海をし
ている︒最初は一四七四年のキオス島(エーゲ海の島で当時ジェノヴァ領)への航海で︑この時はジェノヴァの有力
な商人スピノラ(︒・書量家とディ・ネグ三︒凶蚕・)家が船︹の礒装資金?︺を提供してくれた︒Ψ﹂のあと同
じくジナヴァの有力な実業家チェントリすネ(︒①暑§Φ蒙に雇われたり︑ジェノヴァの船隊に乗り組んだ
りして・西七六年から八五年までポルトガルで過ごした︒その間︑西七八年にディ・ネグロ家の仕事でマ
隙「 申M 一
舳u幽1[血剛印同閣u
」」"口四
107ス ペ イ ンの 「大 航 海1の 資 金 調 達
ディラ島へ砂糖の買いつけに行き︑翌年ここでピアチェンツァ︹の貴族︺出身のペレストレーロ家の娘フェリパ
と結塑る.西八︑集八三年にア冒力西海岸ギネア湾の交易城館サン・ジョルジ︑・ダーナへの航海も
している︒その直後の一四八三年末か八四年初めに西方への大航海の計画をポルトガル国王ジョアンニ世に提出
したが︑断わられて翌八五年ティント川沿いの小港パロス(スペイン・カスティーリャ領でギネアへの航海の拠点)に
移った︒
スペインへ移ってからも︑彼は西方への大航海の成功の見込みについて確信をもち続け︑ポルトガル王室に何
度も働きかけたり︑また︑弟のバルトロメをイギリスとフランスの宮廷に派遣したりしているが・いずれも成果
はなかった︒これと同時に︑A,度はスペインの宮廷にも西方への人航海の計画をもちかけた︒スペインでは計画
を検討する委員会の審議に手間どっていたのが︑一
ブリrン
●サ
ギネア湾 四九.﹁年の年頭にグラナダが陥落すると︑一転してカス
ティーリャ国王(スペイン国Eであるカトリック両王の
一人)イサベルの翻意︑交渉の再開と進み︑三か月後
(一四九..年四月一七日)に﹁サンタ・フェの協約﹂が
成ヴする︒この間の劇的な経過についてはよく知ら
(3)
A M K
ア ソ レ ス 諸 島 マ デ ィ ラ 諸 島 カ ナ リ ア 諸 島
れている︒
コロンブスの第一回大航海(一四九..年八月︑一.日‑
一四九︑︑.年三月↓五日)は三隻の小船隊1ー・サンタ・
マリア[︑5は一〇〇〜一.↓○積載トンのナウ船︑二ー
ニャ号とピンタ号は六〇積載トンと八〇積載トン
のカラヴェル船11で行なわれ︑参加者も九〇人と小規模であった︒この航海に必要な資金二〇〇万マラベディ
(約五三言ウカード)は次のようにして鯉されたことが判って境.まず︑アラゴン詣の財務官ルイス.
デ・サンタンヘル(ピ三ω書三節琶とジェノヴァ人フ調フンチェスコ・ピネリ(津き8ω8勺ヨΦ二納)摩響万マ
ラベディを提供した︒二人はアラゴンのサンタ・エルマンダーという警察組織の金庫を管理していたので︑そこ
から捻出したのであろう・サンタンヘル家はカラタユド出身のユダヤ系改宗者で︑ルイスはヴァレンシアで生ま
れ・地代収入を担保とする金融業を営んでいた︒のちにバルセ・ナに移・てジ︑ノヴ.人の棄家と共同で箋
を行い・アラゴン国王フェルナンドの財務官になった︒彼は西九.璽‑ーにイサベル女.走劇的な遡田心Lを
うながして・コロンブスの大航海を実現させた陰の人物であり︑ヴァレンシアにいた頃にピネリと知り合ったと
思われる・ピネりはカナリア諸島の征服に参加したことがある︒チェントリマ︑不兄弟の天クリストフォロ
(ヴァレンシア商人)とピネリ家のべニトは西八三年以来︑サンタンヘルの仲介でフェルナンド国.kに貸付を行つ
金融業者であった︒
残りの六〇万マラベディのうち三五万マラベデイもサンタンヘルがτフ︒コンの国庫かり畜し︑.五.力﹃フベ
ディはコ︒ンブスの名前で・しかし実際にはピネリとつながりのあるジェノヴァ人やその他のイタリア人々り借
金して調達擁・このように︑コ・ンブスの人航海の実現には︑国王かり大航海の許可を獲得する点についても︑
大航海に必要な資金の調達についても︑アラゴン国王(スペイン国Eであるカトリ.ク両王の一人)フェ(Dナンドの側
近のグルLフ・ユダヤ系改宗者︑ジェノヴ・人の商人・銀行家がそれぞれ大きな役割藁たしていた︒
コロンブスはインディアスへの人航海を全部で四回行なつたが︑あとの三回の大航海の資金についてはくわし
い金額は判らない・しかし︑第二回の大航海(西九.・.‑九六年)は︑第面の大航海かりコ・ン︒フスが無事に帰還
109ス ペ イ ンの 「大 航 海 」 の 資 金 調 達
したために︑資金の調達も乗組員の募集も比較的容易に進んだ︒ナオ船三隻とカラヴェル船一四隻・合計一七隻
の人船団で︑参加者も五〇〇人といわれる︒この第・面の大航海には教会の関与がいちじるしく・特にト︒生
まれで当時セギリャの助祭長だった実力者のファン・・ドリゲス・デ・フォンセカ(畜コ窪曇①誉閏8,
︒︒︒︒餌)師が船団の礒装費用の大部分を引受けている︒その他の事業の資金は︑前述のフランチェスコ.ピネリがジ
ァノット.ベラルディ(注(6)参照)と共同で調達した︒この航海では大小六〇ばかりの島を﹁発見﹂したが・
爆の人陸に到達することはできず︑妻としては失敗であった・この失敗でコ﹃ンブスの後響も資金の提
をためらい︑フォンセカ師のコロンブスを見る目も厳しくなった︒
箏画の人航海(西九八上五〇〇年)はカラヴ︑ル船五隻とナオ船一隻の船団で出航したが・この時には現心ら
くスペイン人の他にジェノヴァ人が資金を提供したようである︒第四回の大航海(一五Q下〇四年)はカラヴェ
ル船四隻の小船団で︑そのうち一隻の船長はジェノヴァ人バルトロメオ・フィエスキ(bウp﹃葺︒一︒日8霊①ω︒琶で
あった︒この時にもジェノヴァ人が資金を提供したのであろう︒この間にスペイン王室は民間人に対するイン
ディアス航海の禁止を解除したので︑西九五年に最初の航海が企てられた︒コ・ンブスは第二回大航海から
帰ってか︑b▼﹂の解禁措置に異議を申し航てて︑いったんは独占事業(﹃ぞ巳ク両弄コ︒ンブス商会﹄による義
直営独占妻方式L稟康征)に戻す﹂とに成功した︒しかし︑王室は呂ンブスに与えた特権を損ねないとい.つ条
件で︑西九し年に再び解禁したので︑以後︑Lとしてスペイン南部アンダルシア地方の人々によって多数のイン脚アィアス(西インド)人航海が行なわ勉.ラモスのいう﹁発見と交換の航海﹂£一量αΦぎσ量き団
.Φω︒餌件①.)︑パドロンやヴィグネ一フスのいう﹁アンダルシア人の航海﹂(い"<亙①︒︒きα餌ど8帆﹂の時代が始まった︒
(‑)コ︒ンブスと彼の大航海に関する参考文献は数えきれないが︑嵩家の手になる蔽向けの名著として次の︑︑冊をあ
げるにとどめる︒増田義郎﹃コロンブス﹄(岩波新書︑.九七九年)︑青木康征﹃コロンブス︒大航海時代の起業家﹄(中
公新書︑一九八九年)
(2)青木︑前掲書︑四ページ︒
(3)留・前掲書・三九ぺ←以ド︒こうした劇的な展開と船や船員の調達(航海の実現)には多くの人物の力がA口成さ
れていた・増田氏はラ・ラビダ修道院長フワン・ペレス・デ・マルチェーナ神父しGセギリャのアントニオ.デ.マル
チェーナ神父の尽力・ならびに︑コ・ンブスの計画を検討する委員会をセ宰した2ブイ.エルナンド.デ.をフベエフ(改宗者で初代グラナダ司教になった)と委員会のメンバあ天ディエゴ.デ.デサ(改宗者でド・︑ニコ会L)の役割
に注目している・菓氏は船と乗組員の募集についてコ・ンブスを助けたピンソン兄弟の役割を強調して︑﹁コ︒ンブス
の第面航海はカトリック架とラビダ修道院をバックにしてバ・スに乗り込んできたよそ者コ・ンブスと︑航海の現
場を担う船乗りたちの人署あつめる地.兀の劣者ピンソンとが対峙するとい・つ緊張した関係を秘めて進行していく︒﹂
と述べている・前掲書︑・.午.︑.︑.疫}︒ケレンベンツは︑コ・ンブスがスペイン王室の財政担当者に接近するこル}
ができたのはチェントリオーネ家とつながりがあったた竺cはないか︑と述べている︒チェントリ亨ネ兄弟では︑ク
リストフォ︒がヴァレンシアの商人︑マルチノがグラナダの銀行経営者︑ガスパルがセギリャの銀行所有者︑メルヒ
オールがカディスの商人であった︒
(4)以ドの金額はケレンベンツによるが︑異説もある︒増田︑前掲書︑四ぺ←︑虹門木︑前璽凹.....ざジ以ド参照︒
(5)サンタ・エルマンギは道路の通行案などを管理する警察紺織で︑匝ヒ六年に発足した︒
(6)このイタリア人の中に恐らく︑セギリャでメディチ家の代理商をしていたフィレンツェの商奏ソァノット.づフル
ディ(言窪〇一〇ごd頸賃象)が含まれていた,
(7)﹁サンタ・フェの協約﹂のお膳立てをしたのはフェルナンドの秘書プアン.デ.コロ←だと言われている︒なお︑
駕鞍(ユダヤ教からキリスト教に改宗した新キリスト教徒)の果たし矢きな役割については︑増田︑前禦臼︑て︑
七ぺ!ジ以ドを参照︒
(8)この間の経緯については︑青木︑前掲書︑第四章︑特に.六八ぺ←以下にくわしい説明がある︒
111ス ペ イ ン の 「大 航 海 」 の 資 金 調 達
皿 そ の 他 の 西 イ ン ド 大 航 海
コ︒ンブスがインディアスの島へ初めて到達して︑しかも無事に帰還したことは︑それが黄金の国Lジパン
グではなかったとしても︑スペインの航海者や資産家に盈千金の夢を与・κた・第︑回の大航海が第面と較べ
てはるかに大規模な編成(︑..隻‑壷一L隻︑九〇人ー一︑五〇〇人)で︑しかも僅か・∴か月後に行なわれたことからも判
る︒しかし︑その後エスパニ.ーフ島の状況について悪評が伝えられ︑インディアスへの渡航の自由化を求める
動きと︑王室を後楯にしてインディアス妻の独占と特権を守ろうとするコ・ン・フスとの対嘉あって・結局・
王室の共同事業でない→室が共同出資者にならない)︑民闇人によるインディアス人航海が行なわれたのは・コ︒
ンブスの箪面の大航海々り﹁インディアス通商院顕9詮魯∩・暑帥藝・)の創設(五9年)までの間で
あった︒これらの航海は﹁多数の航海﹂︑﹁アンダルシア人の航海﹂︑﹁発見と交換の航海﹂などと呼ばれている︒
アン福新し強面を開いたのは︑晶肘記のフィレンツ︑人べ一フル脚アぷ西九奉四月に王室との間繕んだ契約であった︒しかし︑づフルディは同年末に死んだので︑この契約は実行されなかった・ベラル鱒アイ商会の番
頭で遺言執行人となった同郷人のアメリゴ・ヴェスプッチ(憲書ぎ量)が翌年初めに航海を企てたが・カディス湾で船が破損したために失敗した︒ヴェスプッチはこのあと航襲として成功するが・ヲメリカ奨陸L
ヲメリカ新世界﹂とい・つ呼称は︑薪世界質圧o...年)という彼の書簡本に由来していると娠契〜・
西九九年か︑り万○○年にかけて企て・bれた人航海の資金調達については不明な点が多い・航海の許可は航
海家自身が︑王室の代理人として航海叢りしき.ていた実力者のフォンセカ師と結んだ契約によって与え︑り
れ︑資金は一般に航海家が調達したようである︒
以下︑この間の航海を箇条書きに記そう︒
Dア︒ンソ.デ.オ→ダ(≧8ω︒ユ量Φ量の航海︒オ→ダはクエンカの出身でコ・ンブスの第二回航
海に参加したことがあるが・この時はメディナセリ侯に什えてプエ乍.デ.サンタ.マリアにいたので︑西
九九年五月にここから出航した︒この航海の資金の出所は不明であるが︑オ→ダにはヴェス.フッチとファbノ.
デ:フ三←(言薮99u・接ペイン北部サζナ出身)が同行した︒翠六月に帰還︒エメ}フルドの産出場所
を発見して獲得した航海として知られ︑以後︑王室はこのコクイバコア地域への渡航を禁止して︑独占を図.た︒
勃ペワア︒ンソ三⊥三雪︾霧・Zぎ)の航海︒二上ヨはモグエル出身であるが︑資金が不足し
ていたためであろう・セギリャ郊外トリァナで航海用の乾づを製造していたゲーフ家の三兄弟と組んだ︒長
兄のルイス・ゲ←は銀行萎営なんでおり︑航海には末弟のクリスーバル・ゲーフ(︒.一.け︒げ鋤囲︒仁︒..鋤)が参
加して・西九九年六月にティζ川を出航︑翌年四月に帰還した︒西九八年つまりコ・ンブスの第三回航海
以来・ヴェネズエラ沿岸のクバグア島とマルガータ島で真珠のとれる}しとが知りれており︑†ニョはコ︒ン
ブスの笙次と第三次航海に参加してその}とを知.ていたので︑}しの時には真珠をたくさん持ち帰.た︒
鋤ジャネス.ピンソン(畷蹄ΦN勺ヨN9)の航海︒コロンブスの第一次航海の際に船の調達や船員の募集を助け
た地元パ︒スの有力者︑前記ピンソンの弟で︑第一次航海に参加した︒Aコ回はピンソンと甥(アリアス.ペレスと
ディエゴ.フェルナンデス・コルメネー・)が資金を出し︑歪分は外部資金も受けいれた︒成功を期待して王室は成
果の五分璽を留保した・西九九年末にティント川を出航してゴフジル(アマゾン川)に達したが︑ブ一フジル
聾と準宝石を持ち帰っただけで︑帰国後︑債権者との間に争いが続いたとい,つ︒
のディエゴ騨デ.レペ(O冨σqo9ピΦ需)の航海︒彼はパ・スの出身であるが船乗りの経験がなかったので︑コ
ス ペ イ ン の 「大 航 海 」 の 資 金 調 達 113
ロンブスの航海に参加したことのあるバルトロメ・ロルダン(じd鉾εδ幕幻︒箆曾)と組んで︑一五〇〇年一月末に
セビーリャを出航した︒この航海も経済的には成果がなく︑借金で航海の準備をしたレペは︑帰国後パロスの債
権者に責めたてられたということである︒
㈲アロンソ・ベレス.デ.メンド←(とo暴o<伽剛ΦN臼ζ①巳oき)とルイス・ゲ⊥フの航海・ルイスは前記
ゲーラ三兄弟の長兄で︑一行は二隻の小船団で一九〇〇年夏にセビーリャを出航した︒
⑥クーーストーバル・ゲ!ラの航海︒前年ニーニョと組んでたくさんの真珠を持ち帰ったゲーラは・一五〇〇
年八月初めふたたび大航海に出た︒この航海には王室が資金を提供した︒
σロドリゴ.デ.バスティーダス売c二二αqoα︒じご霧口a霧)の航海︒一五〇一年・六月以降(一二月?)に出発した
この航海には︑著名な航海者プアン・デ・ラ・コーサ(冒きαΦ冨o︒留)やヴァスコ・ヌネス●デ・バルボア・ア
ンドレス.モラレスも参加している︒この航海については資金調達が判っている︒航海の費用は全部で三七万七
〇〇〇マラベディ(約一〇〇五ドゥカード)で︑出資者は二〇人︑その大部分はセビーリャの人間であった︒毛織物
商人が三人へ蒙れ︑その天アルフォン了・ドリゲスが最高額の五万マラベディ(約τ・.・・ドゥカ﹁どを出資
した︒高額の出資者ではカルキア・ペレス・デ・カブレラとファン・デ・レデスマが四万マラベディずつ・ディ
エゴ.デ.アロ(望Φσq︒OΦ鵠輿︒)が一.一万瓦○○○マラベディ︑その他は.一万五〇〇〇〜一万マラベディであった︒
セビーリャ人以外ではジェノヴァ人ルイス・デ・ネグ・二(万四〇〇〇マラベディ)と並んで︑特に・前記のブル
ゴスの商人ディエゴ.デ.アロが加わっている点が注目される︒アロはアントウェルペンで活動していたブルゴ
ス商人の代表格で︑後述するよ・つに︑弟のクリスト夫ルと協力してスペインのモルッカ大航海の資金調達に改 ヨ 要な役割を演じた︒この時には恐らく︑このバスティーダスとコーサの航海の準備のためにセビーリャに滞在し