135
<論 説 〉
鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(上)
一 別 子 銅 山 に お け る労 務 管 理 と 『 地 方 後 栄 』一一
山 本 通
目 次
1)は じ め に
2)背 景 と し て の 別r銅 山 史
2‑1)鷲 尾 入 社 ま で の 別 子 銅 山
2‑‑H)明 治 期 別 子 銅 山 に お け る 労 働 と 管 理 II)鷲 尾 在 職 中 の 住 友 と別 子 銅 山
3)鷲 尾 勘 解 治 の 生 立 ち と 住 友 へ の 入 社 3‑‑1)は じ め に
3‑一)禅 寺 の 修 行 生 活 か ら 得 た も の A)禁 欲 的 で 規 律 あ る 生 活
B)仏 教f特 に 禅 宗 の 思 想 C)慈 愛 と奉 仕 の 精 神 3‑・m)住 友 へ の 入 社
4)鷲 尾 勘 解 治 の 労 務 管 理 の 思 想 と実 践 4‑1)労 務 管 理 者 と し て の 鷲 尾 勘 解 治 4‑H)「 自 彊 舎 」
u)大 正 期 の 別 子 労 働 運 動 と 「改 善 会 」 5}「 末 期 の 経 営 」 と 「地 方 後 栄 」
5‑‑1)「 末 期 の 経 営 」 論
5‑m「 地 方 後 栄 」:鷲 尾 の 新 居 浜 開 発 6)鷲 尾 追 放 の 背 景
6‑1)鷲 尾 追 放 の 経 済 的 背 景 6‑H)鷲 尾 追 放 の 思 想 的 背 景 7)お わ り に
付1)鷲 尾 勘 解 治 関 係 年 表 付2)主 要 参 考 文 献
(以 ヒ本 号)
1)は じ め に
鷲 尾 勘 解 治 は明 治14年(1881年)に 兵 庫 県 に生 まれ,熊 本 の 第 五 高 等 学 校 と京 都帝 国大 学 の学 生 時代 に は,禅 寺 に飯 炊 き小 僧 と して住 み 込 ん で修 行 を行 い,帝 大 卒業 後,住 友 に入社 した とい うユ ニ ー クな経 歴 の 人物 で あ る。 住 友 に 入社 後,別 子銅 山 で 自 ら進 ん で労 務 管理 の仕 事 を引 き受 け,「 自彊 舎 」 を設 立 して労 働 者 に禁欲 的 生活 態 度 を植 え付 け,大 正 末期 の 大争 議 にあ た って は 「改 善 会 」 を組織 して これ を鎮 圧 した。 昭和2年 に は住 友 別子 鉱 山の最 高責任 者 と
して 「末期 の 経営 」 と 「地 方後 栄」 を唱 え,新 居浜 の 開発 に情 熱 を傾 けた。 市 民 か らは敬 愛 され たが,恐 ら く新 居浜 開発へ の熱 意 が 度 を越 してい た ため に, 彼 は昭和8年 に住 友 か ら追 放 され た。 鷲尾 は,そ の 後 約20年 にわ た り苦 難 の
日々 を送 っ た。 しか し戦 後 復 興 が 本 格化 す る昭和28年 には,新 居 浜 市 民 か ら の 召 還 を受 け た。 以 後,新 居 浜 で 教 育 者 と して 活 躍 し,「 黙 翁」 と呼 ばれ て親
しまれ,99歳 の 長寿 を全 う した(1)。
この よ うな略歴 を持 つ 鷲尾 勘 解 治 の思 想 と行 動 は,二 つ の意 味 で 私 の興 味 を そ そ る。 まず 第 一一に,鷲 尾 が若 い鉱 山労 働 者 た ち のた め に 「自彊 舎 」 と名づ け られ た独 身 寮 を設 立 し,み ず か ら もそ こで寝 起 き して彼 らを教育 し,禁 欲 的生 活 態 度 を植 え付 け た とい う点 。 禁欲 的 生活 態 度 とい う と,経 済 史 の研 究 者 はふ つ う直 ちに ピュー リ タ ンの職 業 倫理 を想起 す るが ②,し か し,近 世 ・近 代 の 日 本 で も禁欲 的 生活 態 度 が実 践 され た こ とは,周 知 の事 実 で あ る。 例 えば安 丸 良 夫 に よれ ば,民 衆 の伝 統 的 な 生活 習慣 を克服 して生 活 に規 律 と計 画性 を持 ち込 む こ とを説 い た 諸思 想が,石 門心 学7老 農 運動,報 徳 運動,民 衆 的 諸宗 教 な ど と して 日本 の 「近 世 後 期 に ほ ぼ全 国 的 な規模 で 展 開 し,明 治20年 代 に最 底 辺 の民 衆 まで巻 き込 んだ(3)」の で あ る。 安 丸 は また,明 治 後期 以 後 にな る と,こ の よ うな通 俗 道 徳 的 な秩 序 原 理 が,逆 に上 か ら,修 身教 育 や 「官 製 国民 運動 」 に よって繰 り返 し宣 伝 され て,一 一連 の欺 隔 的 な徳 目とな り,つ い には,強 力 で 普 遍性 を持 った 虚 偽 意識(イ デォ ロギー)の 体 系 が 成 立 した,と も言 う(4)。安 丸 は 「官 製 国民 運 動」 の 中 に報 徳 社 運動 を挙 げ て い るが,瀬 岡誠 の研 究 に よれ
鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(上)137
ば,住 友 の 経 営 最 高 責 任 者 で あ っ た 鈴 木 馬 左 也(明 治37年 か ら大 正11年 まで住 友総理事)や 小 倉 正 恒(昭 和5年 か ら昭和 ユ6年 まで住 友総 理 事)は,み ず か ら熱 心 に 参 禅 す る と と も に,東 亜 報 徳 会 や 中 央 報 徳 会 の 指 導 者 た ち と も親 し く交 わ りiこ れ ら に対 して 物 心 両 面 の 協 力 を惜 し ま な か っ た(5)。 こ れ ら住 友 の 経 営 者 た ち の 思 想 的 傾 向 の 中 で,鷲 尾 は ど の よ う に 位 置 づ け ら れ る の で あ ろ うか 。 ま た,鷲 尾 に と っ て,ま た 鈴 木 や 小 倉 に と っ て は,禅 宗 の 思 想 と儒 教 的 報 徳 思 想 は ど の よ う に結 び つ き,そ れ らが 禁 欲 的 生 活 態 度 と ど の よ う な 意 味 で 関 連 して い た の で あ ろ うか 。
鷲 尾 勘 解 治 の 思 想 と行 動 に お い て 興 味 深 い 第 二 の 点 は,彼 が 住 友 別 子 鉱 山 の 最 高 責 任 者 で あ りな が ら,地 元 へ の 恩 返 しの た め に新 居 浜 を 工 業 都 市 と して 開 発 す る こ と に積 極 的 に取 り組 ん だ,と い う点 で あ る 。 家 父 長 主 義 的 企 業 家(19 世紀)や 大規 模 な 法 人 企 業(20世 紀)が 自社 の 労 働 者 の た め に,労 働 者 用 住 宅 や 年 金 な ど の福 利 厚 生 を 図 る と い う例 は 近 ・現 代 の 欧 米 に お い て 広 く見 られ る と こ ろ で あ り,日 本 で も明 治 時 代 末 期 以 後 の 大 企 業 の い わ ゆ る 「経 営 家 族 主 義 」 に よ っ て 実 践 さ れ た ⑥。 しか し,地 元 社 会 の 福 祉 の た め に 利 潤 の 一 部 を 寄 付 す る とい う例 は,欧 米 の 近 代 史 に お い て は 広 く見 られ る が,日 本 に お い て は 珍 しい こ と で あ る。 ヨ ー ロ ッパ で は 古 くは,南 ドイ ツ の 富 豪 ヤ ー コ プ ・フ ッ ガ...̲..は,1520年 ご ろ に ア ウ ク ス ブ ル ク で 巨 額 の 寄 付 金 に よ っ て 財 団 を 設 立
し,カ トリ ッ クの 貧 しい 手 工 業 者 た ち の た め に 「フ ッ ゲ ラ イ」 と呼 ば れ る 公 共 住 宅 街 を 建 設 し た ω 。19世 紀 イ ギ リ ス で は,ク エ イ カ ー 企 業 家 の ラ ウ ン ト
リー や キ ャ ドベ リー が 建 設 し た 模 範 的 住 宅 団 地 は,自 社 の 労 働 者 だ け で は な く,地 元 住 民 に 対 して も 開 か れ た も の で あ っ た 。 ま た ハ ウの 研 究 に よ る と ラ ン カ シ ャ ー の 多 くの 綿 業 企 業 家 が 地 元 の た め に教 会,学 校 な どの 公 共 施 設 を 寄 付
した 。 彼 ら19世 紀 イ ギ リ ス の 企 業 家 は,自 分 た ち が 神 様 か ら 「富 の 管 財 人」
と して の 役 割 を与 え られ て い る と信 じ,こ う い う考 え 方 に立 っ て,企 業 利 潤 の 一 部 を社 会 に還 元 した の で あ る(8)。 しか し,鷲 尾 の よ う に 「企 業 と地 元 社 会 と の 共 存 共 栄 」 の た め に 企 業 の 利 益 を 危 う くす る と こ ろ ま で 突 き進 ん だ 経 営 者 は,イ ギ リ ス に お い て も珍 しい の で は な い だ ろ う か 。 後 に詳 し く検 討 す る よ う
に,鷲 尾 の 考 え 方 は 「地 方 後栄 」 とか企 業 と地元 社 会 との 「共存 共 栄」 とい う 言葉 に集 約 され るが,鷲 尾 は新 居 浜 を工 業都 市 と して 開発 す るプ ラ ンをみ ず か ら練 り,住 友 の カ ネで港 湾 施設 を建 設 し よ うと し,住 友 の労働 者 と新居 浜 市 民 の ボ ラ ンテ ィ アの 「作 務 」(こ れは禅宗 の用語である)に よ って 新 居 浜 の 幹 線 道 路 を建 設 した。 これ を 見た住 友 の 本社 経 営 者 た ち は,鷲 尾 の熱 意 に よっ て住 友 の利 益 が犠 牲 に され る こ とを恐 れ,彼 を追 放 し,彼 の意 図 をい わ ば換 骨 脱 胎 し て,新 居 浜 を いわ ゆ る 「企 業 城 下 町」 に変 え て い った ので あ る。 企 業城 下 町 は 企 業 を中心 と して形 成 され た都 市で あ り,市 民 は企 業 に対 して便 宜 を 与え る こ とに よ って発 展 し,ま た,企 業 の発 展 に よっ て その 利潤 の 「お こぼ れ」 にあ ず か るの で あ る。 鷲尾 勘解 治 の 「地 方後 栄 」 の理 念 は そ うい う もの で はなか った の で あ り,彼 の 理 念 は 同時 期 の 倉 敷 紡 績 の 大 原 孫 三 郎 の 「労 働 理 想 主 義 」 や
「共 同作 業場 の理 念」 と相 通 じる ところ が あ る よ うに思 わ れ る(9)。
ここで思 い起 こ され る の は,角 山 栄 に よ る次 の よ うな指摘 で あ る。 「イギ リ ス産 業 資本 家 の経 営 理 念 は,い うな れ ば博 愛 主 義 を基 盤 と した コ ミュニ テ ィー 志 向 の経 営 理 念 で あ った。 そ の 点が 日本 の よ うな 『家』 を中心 とす る経 営 理念 と違 う と ころ で あ る。 す な わ ち 「家 』 中心 の経 営 理 念 で は,『 家 』 や 家 族 の 繁 栄 を志 向す る けれ ど も,そ れ が あ る ため に社 会 に対 して 閉鎖 的 に な る。 … そ し て 『家』e家 産 指 向 型 の 企 業 は,家 族 的 利 己主 義 に 陥 る か,さ も な け れ ば
『家 』 は擬 制 化 に よって 『大 家(お おやけ)』e天 皇 制 国 家 に まで 拡 大 され,国 家 主 義 を志 向す る性 格 を持 って い る。 そ の場合 で も,社 会 を媒 介 に して 国家 に 関 係 す る の で は な く,社 会 的媒 介 契 機 を 欠如 して い る の が 特 徴 で あ る(lo)」
と。 中川 敬 一郎 らは,つ とに 日本 の 財 閥経 営 者 た ちの 国益 志 向性 を指摘 して き た が(11),森 川英 正 は,住 友 財 閥 の経 営 者 た ちが特 に強 烈 な国益 志 向 性 を持 っ て い た こ とを指摘 した(12)。また,瀬 岡 誠 は,鈴 木 馬 左 也 や 小 倉 正 恒 が 「国 家 的 な規模 で の住 友 家 の意 地 と発 展」 を求 め るの で は な くて,む しろ 「国家 の発 展 の ため に こそ 住 友家 を活用 」 しよ う と した こ とを明 らか に し,そ の志 向性 が 彼 らの準 拠 集 団 の報 徳 運動 や修 養 団 な ど との交 わ りの 中で 育 まれ た こ とを,詳 細 な検 討 に よっ て 明 らか に した(13)。もち ろ ん鷲 尾 勘解 治 に も国 家 主 義 は 見 ら
鷲 尾勘 解 治 の経 営 理 念(上)139
れ る 。 しか し 「地 方 後 栄 」 を唱 え た 時 期 に お い て は,彼 の 心 中 で は,コ ミュ ニ テ ィー 志 向 性 が 国 家 志 向 性 を完 全 に圧 倒 して い た の で あ る。 そ れ は何 故 で あ ろ うか 。 大原 孫 三 郎 の 理 念 の 背 後 に は キ リ ス ト教 徒 と し て の 彼 の 信 仰 が あ っ た の で あ ろ う。 鷲 尾 の コ ミュ ニ テ ィ ー 志 向 性 の 背 後 に あ る もの は,何 で あ ろ うか 。 も し,瀬 岡 誠 の 方法 論 に 従 う な ら ば,鷲 尾 の 企 業 者 活 動 の 社 会 的 基 盤(「 重 要 な 他 者」,「準拠 集団」,お よび,「 関係 者 や関係 団体」)が 鈴 木 や 小 倉 の そ れ と異 な っ て
い た か らで あ る,と 言 うべ き で あ ろ う。 この こ と は,も ち ろ ん 間 違 っ て は い な い は ず で あ り,こ の 点 に つ い て の 検 討 も大 切 で あ る 。 しか し私 は,鷲 尾 と鈴 木 や 小 倉 の 志 向性 の も う 一つ の,あ る い は 更 に 重 要 な 要 因 と して,両 者 の 思 想 の 深 さや 傾 向 の 違 い を検 討 す るべ き だ と考 え る 。 わ た しの 予想 に よ れ ば,鷲 尾 が 禅 の 修 業 に よ っ て 体 得 した 思 想 ・宗 教 性 は,鈴 木 や 小 倉 が 禅 の 修 行 に 求 め,ま
た そ れ を 通 して 得 た もの とは,異 な っ て お り,そ の こ とが 鷲 尾 と鈴 木 ・小 倉 の 志 向 性 の 相 違 の 大 き な 原 因 で あ っ た の で あ る 。
以 ヒの よ う な 二 つ の 問 題 群 は,い ず れ も鷲 尾 勘 解 治 の 思 想 と経 営 理 念 に 関 す る もの な の で,以 下 の 分 析 は思 想 を 中 心 とす る も の に な る。 しか し,分 析 に 入 る前 に,ま ず,鷲 尾 の 活 動 の 背 景 を な す 事 柄 に つ い て,正 確 に 認 識 して お く こ とが 必 要 で あ ろ う。
[注]
(D鷲 尾勘解 治 を紹介 した文章 は数多 くあ る。 自彊舎 記 念会 の さまざ まの 出版物 ば か りでは な く,結 城 三郎 『「住 友城 下町」 混沌:別 子銅 山300年 の宴 の あ と』(ダ イ ヤ モ ン ド社,1991年)や 『に い は ま市 政 だ よ り』654箋},(2000年12月1 日)な どで も,詳 しい紹 介が な され てい る。 しか し,彼 の思想 と行動 の社 会科学 的 な検討 を試み た研 究 論文 は,私 の 知 る 限 り,瀬 岡 誠 「鷲 尾 勘 解 治 と自彊 舎精 神 」 『京都学 園 大学創 立10周 年 記念 論 集』昭 和54年(1979年 〉 だけ で あ る。 し か し瀬 岡の この論 文 は,鷲 尾 の 「自彊 舎」精 神 に焦点 を当てた もので あって,彼 の思想 を評価 す るため に見逃せ な い もう一つ の 試み一 一す なわ ち 「地方 後栄」 論 とそ の 実 践 一一 一を 全 く無 視 して い る。 この こ とに よ っ て,鷲 尾 の 経 営 理 念 分 析 は 不十分 な ものに なって い る」 また,瀬 岡論 文 は,一 一次 資料 の検討 を充分 に行 わ な いで,書 か れて い る。 鷲尾勘解 治 の研 究 のた めに は,新 居 浜市 『鷲尾勘解 治翁 』 昭和29年(1954年 〉 や 自彊 舎 記念 会 『黙 翁 鷲尾 勘 解 治 』昭 和62年(1987年)
だ け で は な く,鷲 尾 勘 解 治 自 身 が 書 い た 文 章(そ の 多 く は,改 善 会 機 関 誌 『改 善 』 や 益 友 会 機 関 誌a益 友 』 に 掲 載 さ れ て い る)を 検 討 し な け れ ば な ら な い 。 な お,新 居 浜 市 『鷲 尾 勘 解 治 翁 』 は,新 居 浜 市 の 宗 像 神 社 宮 司 で あ り,鷲 尾 を 新 居 浜 に 召 還 す る 運 動 の 中 心 人 物 で あ っ た 合 田 正 良 が,各 方 面 に 精 力 的 に 取 材 し て 書 き上 げ た 鷲 尾 の 伝 記 に,5名 の 序 文,44名 に よ る 逸 話 集 お よ び,先 輩 と 知 友 の 22通 の 書 簡 を 付 け 加 え た も の で あ る 。 ま た,片 山 修 が 編 纂 し た 自 彊 舎 記 念 会
「黙 翁 鷲 尾 勘 解 治 』 は,新 居 浜 市 「鷲 尾 勘 解 治 翁 』 の コ ン パ ク ト版 で あ る 。 こ こ で は 後 者 の 伝 記 分 が 約 半 分 に 圧 縮 さ れ,序 文 と 書 簡 集 が 削 除 さ れ,逸 話 集 の う ち 26点 が 削 除 さ れ,新 た に 若 い 世 代 に よ る 逸 話9点 が 追 加 さ れ て い る 。 ま た,鷲 尾 勘 解 治 『鷲 尾 勘 解 治 自伝 一 寺 小 僧 か ら 坑 夫 に 一 』(益 友 会,昭 和56年(1981 年))と 名 付 け ら れ た 本 が あ る が,こ れ は 鷲 尾 が 書 きrう し た も の で は な く,『 益 友 』 誌 上 に 掲 載 さ れ た 鷲 尾 の 伝 記 的 文 章 を 中 心 と し て,鷲 尾 の 文 章 の 幾 つ か を, 片 山 修 が 編 集 し た も の で あ る 。
(2)Weber,Max,"DieprotestantischeEthikandder≫Geist≪desKapitalismus",Ge‑
3α御耀"θ 、4添α伽 卿71〜θ」頓oηssozゴoJo9∫θ,Bd.1,1920,SS.17‑206.(大 塚 久 雄 訳 『プ ロ テ ス タ ン テ イ ズ ム の 倫 理 と 資 本 主 義 の 精 神 』 岩 波 書 店,平 成3年(1991 年));お よ び 山 本 通 「イ ギ リ ス 資 本 主 義 と 諸 教 会:資 本 主 義 の 成 立 と 展 開 へ の 教 会 人 の 対 応 」 『教 会 』(近 代 ヨ ー ロ ッ パ の 探 求 ③)ミ ネ ル ヴ ァ 書 房,平 成12年
(2000年),第4章,な ど を 参 照 せ よ 。
(3)安 丸 良 夫 『日 本 の 近 代 化 と 民 衆 思 想 』 青 木 書 店f昭 和49年(1974年),11 頁 。 平 凡 社 ラ イ ブ ラ り 一 版,平 成11年(1999年),23頁 。
(4)同 上,青 木 書 店 版,・ti頁 。 平 凡 社 ラ イ ブ ラ リ ー 版,108‑112頁 。
(5)瀬 岡 誠 『近 代 住 友 の 経 営 理 念:企 業 者 史 的 ア プ ロ ー チ 』 有 斐 閣,平 成10年 (1998年)第4章,第5章 。
(6)19世 紀 末 か ら20世 紀 は じ め の イ ギ リ ス 企 業 の 福 利 政 策 に つ い て は,Fit3ger‑
ald,R.,BritishLabourManagementandIndustrialWelfare,1846‑1939,London,
1988.(山 本 通 訳 『イ ギ リ ス 企 業 福 祉 論:イ ギ リ ス の 労 務 管 理 と 企 業 内 福 利 給 付,146‑1939』 白 桃 書 房,平 成13年(2001年))を 参 照 せ よ 。 ま た,日 本 の 経 営 家 族 主 義 に つ い て は,問 宏 「日 本 労 務 管 理 史 研 究:経 営 家 族 主 義 の 形 成 と 展 開 』 御 茶 の 水 書 房,昭 和53年(1978年)を 見 よ 。
(7)諸 田 實 『フ ッ ガ ー 家 の 遺 産 』 有 斐 閣,平 成1年(1989年),IV‑1。
(8)例 え ば,山 本 通 『近 代 英 国 実 業 家 た ち の 世 界:資 本 主義 と ク エ イ カ ー 派 』 同 文 舘,平 成6年(1994年)第5章;Howe,A.,TheCottonMasters}1830‑1860,0X
ford,1984.Chapter8な ど を 参 照 せ よ 。
(9)大 津 寄 勝 典 「大 原 孫 一三郎 の 企 業 者 活 動 と 経 営 理 念 」 『経 営 史 学 』26巻,1号,
鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(r̲)141
(1991年)を 参 照 。
(10)角 山 栄 「19世 紀 イ ギ リ ス 産 業 資 本 家 の 経 営 理 念 」(竹 中 靖 ・・宮 本 又 次 監 修
『経 営 理 念 の 系 譜 』 東 洋 文 化 社,昭 和54年(1979年)所 収),204‑205頁 。 (11)中 川 敬 一郎 『比 較 経 営 史 序 説 』 東 京 大 学 出 版 会,昭 和56年(1981年),156‑
159頁 。 ま た,ヒ ル シ ュ マ イ ヤ ー と 由 井 は,明 治 初 期 の 民 間 の ビ ジ ネ ス マ ン全 般 に つ い て,経 営 ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 存 在 を 指 摘 して い る 。(J・ ヒ ル シ ュ マ イ ヤ ー/
由 拝 常 彦 『日 本 の 経 営 発 展:近 代 化 と 企 業 経 営 』 東 洋 経 済 新 報 社,昭 和52年 (1977年)),182頁 。 ま た,阿 部 武 司 は 同 時 期 の 日 本 の エ ン ジ ニ ア の 「強 烈 な ナ シ ョ ナ リ ズ ム 」 に 言 及 し て い る(宮 本 又 郎 ・阿 部 武 司 ・宇 田 川 勝 ・沢 井 実 ・橘 川 武 郎 『日 本 経 営 史:FI本 型 経 営 企 業 の 発 展 ・江 戸 か ら 平 成 へ 』 有 斐 閣,平 成7年
(1995年),118頁)。
(12)森 川 英 正 『日 本 型 経 営 の 源 流;経 営 ナ シ ョナ リズ ム の 企 業 理 念 』 東 洋 経 済 新 報 社,昭 和48年(1973年);同 『財 閥 の 経 営 史 的 研 究 』 東 洋 経 済 新 報 社}昭 和53 年(1978年),139‑143頁 。
(13)瀬 岡 誠,前 掲 書 。
2)背 景 と しての 別 子銅 山 史
こ こで は,鷲 尾勘 解 治 の 活 動 の 背 景 とな る別 子銅 山 史 を,「 鷲 尾 入 社 以 前 の 別 子銅 山」 「明治期 別子 銅 山に お け る労働 と管 理」 「鷲尾 在 職 中 の住 友 と別子 銅 山」 の三 つ の項 目に ま とめ て概 観 して お こ う。 ここで依 拠 す るの は主 に,本 格 的 な 社 史 で あ る 『住 友 別 子 鉱 山 史』,地 域 経 済 史 の 専 門書 『新 居 浜 産 業 経 済 史』 や{14),住 友 財 閥 史 につ い て の麻 島 昭 一 や 畑 山秀樹 らに よる優 れ た研 究(15) で あ る。
2‑‑1)鷲 尾 入 社 以 前 の 別 子 銅 山
別 子 銅 山 の 鉱 床 は,別 子 山 村 の 海 抜 約1,300メ ー トル の 峰 に 近 い と こ ろ に 現 れ た 露 頭 か ら,斜 め 下 に 海 面 下1,000メ ー トル以 上 も地 中 深 く入 り込 ん で い る 大 鉱 床 で あ る 。 別 子 銅 山 は江 戸 時 代 に は 幕 府 領 内 に あ り,そ の 露 頭 は 元 禄3年 (1690年)に 住 友 家(泉 屋)の 吉 岡 銅 山 支 配 人 で あ っ た 田 向 重 右 衛 門 ら に よ っ て 発 見 さ れ,翌 年 に は 住 友 家 に対 して 別 子 銅 山 開坑 が 許 可 さ れ た 。 住 友 家 の 家 祖 は 住 友 政 友 で あ る が,天 正18年(1590年)に 京 都 で 吹 屋(銅 精 錬 所)を 始 め た
蘇 我 理 右 衛 門 と知 り合 い,こ れ を 姉 婿 と し た と こ ろ か ら,住 友 家 の 銅 精 錬 業 が 開 始 され た の で あ っ た 。 住 友 家 は 南 蛮 渡 来 の 優 れ た 銅 精 錬 技 術 を持 っ て い た の で,幕 府 は,食 料 米 を市 価 よ り も安 く供 給 す る 制 度(買 請 米 制)を 導 入 し た り,幕 領 と西 条 藩 領 の 一 部 交 換 を 行 な っ て粗 鋼 の 輸 送 距 離 の 短 縮 を計 る な ど し て,住 友 の 別 子 銅 山 経 営 を 支 援 し た 。 採 鉱 は 明 治 初 期 ま で 盤 と槌 の 手 作 業 に よ っ て い た が,別 子 銅 山 の 元 禄11年 の 産 銅 量 は 国 内 産 銅 量 の 約4分 の1を 占 め,明 治 以 前 の 最 高 値 を 記 録 し た 。 しか し そ の 後 は 産 銅 量 は 低 下 傾 向 に あ っ た 。 こ れ は,薪 炭 や 坑 木 の 材 料 と な る木 材 の 枯 渇 や,採 掘 場 所 が 深 く な っ て 水 が た ま っ て,排 水 が 困 難 に な る な どの 技 術 的 理 由 に よ る もの で あ っ た。
別 子 銅 山 は 幕 末 か ら明 治 初 期 まで 幾 度 と な く経 営 上 の 困 難 に遭 遇 した が,最 大 の 危 機 は,維 新 政 府 が 土 佐 藩 に 別 子 銅 山 を没 収 す る よ う命 令 し た と き に 訪 れ た 。 江 戸 幕 府 と密 接 に 関 わ っ て い た 住 友 が,新 政 府 に よ っ て 敵 対 者 と み な さ れ た か らで あ っ た。 こ の 難 局 に 当た っ た の が 当 時 の 別 子 銅 山 支 配 人,広 瀬 義 右 衛 門(広 瀬宰 平)で あ っ た 。 彼 は土 佐 藩 の 川 田 元 右 衛 門(小 郎)を 説 得 して,住 友 に よ る別 子 銅 山経 営 を守 り抜 い た 。 そ れ だ け で は な く広 瀬 は,ル イ ・ラ ロ ッ
ク ら の 外 国 人 技 師 を 招 く と と も に,職 員 の 留 学 派 遣 な ど に よ っ て 人 材 を 育 成 し,別 子銅 山 の 経 営 基 盤 強 化 の た め に 近 代 化 を 強 力 に 推 進 した 。
明 治10年2月 に,住 友 家 第12代 家 長 ・友 親 は病 気 の た め,広 瀬 宰 平 に住 友 家 総 代 理 人 を 委 嘱 し た。 これ に よ っ て 広 瀬 は,別 子 銅 山 経 営 を 含 め て 住 友 家 の 事 業 全 般 の 権 限 を一一手 に 掌 握 す る こ と に な っ た 。 瀬 岡 誠 は 広 瀬 宰 平 を 「テ イ ク ・オ フ期 の カ リス マ 」 と特 徴 づ け て い る が(1G},そ の 辣 腕 ぶ り は,次 の よ う な 諸 施 設 建 設 の 業 績 か ら確 認 す る こ と もで き る。 第1に,大 坂 で の 精 銅 をや め て 精 錬 所 を 別 子 山 中 お よ び 新 屠 浜 に 建 設 した こ と。 建 設 さ れ た製 錬 所 は 複 数 で あ り,採 鉱 が 次 第 に深 部 に 及 び,出 鉱 口 が 山奥 か ら 山 元 に 移 る に つ れ て,新 た な 精 錬 所 が 建 設 され て い っ た(明 治9年 ・、k川 〔たつ か わ〕 精銅 場,明 治12年 ・高 橋 〔たか ば し〕溶 鉱炉,明 治17年 ・惣 開 〔そ うび らき〕精錬 所,明 治19年 ・山根精 錬 所)。 第2に,新 し い 坑 道,運 搬 路 な ど の 開 さ く。 従 来 の 坑 道 は ほ ぼ 水 平 で あ っ た の に対 し て,新 た に 東 延 〔と うえん〕斜 坑 が 鉱 脈 に 沿 っ て(水 平面 に対 し
鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(上)143
て)49度 の 角 度 で 掘 られ,当 初 は馬 捲 揚 機,後 に は 蒸 気 捲 揚 機 を使 用 して 開 さ くされ た。 東 延斜 坑 は採 鉱 の効 率 を一挙 に向 上 させ た と言 われ る。 広 瀬 は物 資 運搬 の ため に山 中 に牛 車道 を開 さ くさせ たが,の ち には 山 を貫 通 す る トンネ ル であ る 第一 通洞 を,日 本 の鉱 山で初 め て ダ イナ マ イ トを本 格 的 に使 用 して 開 さ くさせ た。 また 坑 道 内湧 水 を排 水 す る た め の小 足 谷 〔こあ したに〕疎 水 道 を 開 さ くさせ た。 第3に,明 治24年 以 後,わ が 国初 の 山岳 鉱 山 専 用鉄 道 で あ る 別 子 鉱 山鉄 道 の敷 設が 開始 され た。 第4に,労 働 者 用 の福 祉 施 設 の建 設 。 別子 山 中の 鉱 山労 働 者 家 族 の た め に,明 治6年 には住 友 私 立 足 谷 〔あ したに〕小 学 校 が,明 治16年 には 私立 住 友病 院が,明 治22年 には 劇場 が,さ らに は数 多 く の労 働 者 社 宅 が建 設 され た。(〔図1〕 を参照)
〔図1〕
1日別子案内図
出典:新 居浜市 『歓喜の鉱山』
巻末付図(別 子山村提供)
轟1瓢
葦 ! ㊥
耽鞭澗電肌
磯
1卜敬
晶 搬
鯛 山川
広 瀬 は 明 治15年(1882年)に は,こ れ ま で の 法 令 を 集 大 成 し て 「住 友 家 法 」 を制 定 し,み ず か ら総 理 人 に就 任 した。 さ らに 明 治24年 に は これ を改 正 し,家 法 と家 憲 を分 け た。 この家 法 の 制 定 に よって合 議 制 原則 が確 立 し,家 長 の 象徴 化 が 果 た され,広 瀬 に よる近 代 化 と多 角化 の路 線 が 実 現 した。 明 治23 年11月 に は住 友 友 親 と,そ の 子13代 家 長 友 忠 が 相 次 い で 他 界 した が}明 治 25年 に は華族 出 身の徳 大 寺 隆麿 が故 住 友 友忠 の 妹 満 寿 〔ます〕 と結 婚 して 住 友
家 の 養 嗣 子 と な り,翌 年4月 に正 式 に 家 督 相 続 し て,15代 住 友 吉 左 衛 門 を 襲 名 し,友 純 〔ともい と〕 と名 乗 っ た 。 明 治 ・大 正 期 の 大 政 治 家,西 園 寺 公 望 が こ の 住 友 友 純 の 実 兄 で あ る こ と は,周 知 の 事 実 で あ る 。 住 友 友 純 は そ れ 以 後, 大 正15年 に 至 る ま で の34年 間,住 友 家 の 家 長 で あ っ た が,住 友 財 閥 の 象 徴 と
して 君 臨 す る の み で あ り,こ れ を統 治 す る こ とは な か っ た 。 住 友 家 の 事 業 は, 総 理 事 を 中心 とす る 経 営 陣 に 任 せ られ た の で あ っ た(17)。
広 瀬 宰 平 が 推 進 した 近 代 化,特 に 数 多 くの 西 洋 技 術 の 導 入 に よ り,明 治30 年 頃 に は 別 子 銅 山 の 年 間 産 銅 量 は 明 治 元 年 の 約8倍 に 達 し,別 子 銅 山 は 文 字 通
り 「住 友 の 財 本 」(住 友 の ドル箱)に な っ て い た 。 そ の 就 業 者 数 は2,200人 を 数 え,別 子 山 中 の 人 口 は1万 人 を 越 え て い た と推 定 さ れ て い る 。 広 瀬 が 住 友 を 退 職 した 明 治27年(1894年)に は 伊 庭 貞 剛 が 別 子 銅 山 支 配 人 と な っ た。 伊 庭 貞
剛 は 広 瀬 宰 平 の 甥 で あ り,広 瀬 と 同 じ く近 江 出 身 で あ る(18)。 明 治12年(1879 年)に 大 阪 上 等 裁 判 所 判 事 を辞 め,住 友 入 り して,い き な り住 友 本 店 支 配 人 に 抜 擢 さ れ た 人 物 で あ っ た 。 伊 庭 は 禅 宗 信 徒 で あ り,京 都 の 天 竜 寺 管 長 橋 本 峨 山
や 滴 水 宜 牧 の 教 え を受 け,参 禅 して 「臨 済 録 』 に 親 しん だ 。
別 子 銅 山 支 配 人 在 任 期 間 の 数 年 間 に お け る 伊 庭 の 業 績 と して は,二 つ の 事 実 が 有 名 で あ る 。 第 一 に,新 居 浜 の 沖 合 約20キ ロ に 浮 か ぶ4つ の 無 人 島 か ら な る 「四 阪 島 」 を購 入 し,そ こへ の 製 錬 所 の 移 転 を 指 揮 した こ とで あ る。 こ れ は も ち ろ ん,煙 害 対 策 の 施 策 で あ る。 煙 害 は 明 治26年(1893年)か ら社 会 問 題 化 して い た 。 しか し四 阪 島 へ の 製 錬 所 移 転 は 煙 害 を新 た な 地 域 に もた ら した だ け で あ り,そ の 後 も住 友 別 子 銅 山 は 煙 害 問 題 の 処 理 に 苦 し む こ と に な る 。 そ の 最 終 的 な解 決 は,昭 和13年 に 亜 硫 酸 ガ ス を ア ンモ ニ ア 水 で 中 和 して 硫 安 を製 造 す る 方 法 を 導 入 す る こ とに よ っ て,よ うや く果 た さ れ た の で あ っ た(19)。
第 二 に伊 庭 は,煙 害 に よ っ て 荒 涼 た る 景 観 と な っ た 別 子 山 一 帯 に緑 を取 り戻 す た め に,植 林 事 業 を 開 始 し た 。 こ れ が 現 在 の 住 友 林 業(株)の 基 礎 に な っ た,と い わ れ て い る 。 更 に伊 庭 は,か ね て か ら の 難 題 で あ っ た 三 角 〔み す ま〕
坑 の 排 水 を実 現 させ て,富 鉱 帯 の 採 鉱 を可 能 に させ,よ り深 部 の 採 鉱 を 可能 に す る た め に,東 延 斜 坑 底 と東 平 坑 口 と を む す ぶ 第 三 通 洞 の 開 さ くを 指 揮 した 。
鷲 尾勘 解 治 の 経 営理 念(上)145
伊 庭 貞 剛 は 明 治32年 に住 友 大 阪 本 店 に 帰 任 して,明 治33年 に 住 友 家 第2代 総 理 事 に 就 任 した 。 伊 庭 に 代 わ っ て 別 子 鉱 業 所 支 配 人 に 就 任 した の は,鈴 木 馬 左 也 で あ っ た(20)。 鈴 木 馬 左 也 は,日 向 高 鍋 出 身 で,金 沢 の 啓 明 学 校 卒 業 後 東 京 帝 国 大 学 卒 業 後,内 務 省,農 商 務 省 を 経 て,伊 庭 貞 剛 の 要 請 を 受 け て 明 治 29年(1896年)に 住 友 に 入 社 した 人 物 で あ る。 東 京帝 大 時 代 に 鎌 倉 円 覚 寺 の 今 北 洪 川 に つ い て 禅 の 修 行 を した が,瀬 岡 誠 の 研 究 に よれ ば,参 禅 を通 して 人 脈 を 広 げ,金 沢 出 身 の 人 々 と の 人 脈 を 通 して,報 徳 社 運 動 に も深 くか か わ り,強 烈 な 国 事 意 識 を も っ て 住 友 の 経 営 に 当 た っ た 。
鈴 木 が 別 子 鉱 業 所 支 配 人 に 就 任 した 年 の 夏 に は,別 子 鉱 山 は 大 水 害 に 見 舞 わ れ,鉱 業 所 本 部 は 別 子 山 中(旧 別f・)か ら新 居 浜 に 移 さ れ た 。 以 後 別 子 山 中 で は採 鉱 か ら焼 鉱 ま で,新 居 浜(精 錬 所)で は 溶 鉱 か ら精 銅 ま で が 行 わ れ る こ と に な っ た(211。 鈴 木 は 明 治37年(1904年)に 住 友 家 第3代 総 理 事 に 就 任 し,以 後 大 正11年(1922年)に い た る18年 間,住 友 の 経 営 の 最 高 責 任 者 と して 君 臨
し,多 角 的 事 業 経 営 を積 極 的 に展 開 して,住 友 を 三 井,三 菱 に 次 ぐ巨 大 な 事 業 体 に 育 て 上 げ た(22)。 ま た,別 子 銅 山 で も,延 長 約1800メ ー トル の 第 三 通 洞 が 明 治35年(lgO2年)に 貫 通 し,動 力 の 電 力 へ の 漸 次 的 転 換,運 輸 ・輸 送 の 機 械 化,排 水 の 近 代 化,削 岩 機 の 増 加 と採 鉱 法 の 合 理 化 な ど に よ り,別 子 銅 山 の 出 鉱 量 は 年 ご と に増 加 し,大 量 出 鉱 体 制 が 確 立 した 。 明 治35年 出 鉱 量 は 約1⑪ 万 トン で あ っ た が,42年(1909年)の 出 鉱 量 は そ の2倍 以 ヒの 約22万 ト ン に 達 した の で あ る(L3)。
鈴 木 が 本 店 総 理 事 に 就 任 して,別 子 鉱 業 所 支 配 人 を退 い た 後 の 別 子 銅 山 の 歴 代 最 高 責 任 者 は 次 の と お り で あ る(24)。植 村 俊 平 支 配 人,明 治35年(1902 年)。 中 田 錦 吉 支 配 人,明 治35年 〜41年(1902〜1908年)。 久 保 無 『二雄 支 配 人, 明 治41年 〜 大 正2年(1908〜1913年)。 久 保 無 二雄 所 長,大IE2・ 年〜 大 正7年
(1913〜1918)。 大 平 駒 槌 所 長,大 正7年 〜 大 正11年(1918〜1922年)。 岡 田 宇 之 助 所 長,大 正11年 〜 大 正14年(1922〜1925年)。 松 本 順 吉 所 長,大 正14年 〜 昭 和2年(19̀L5〜1927年)。 臼 井 定 民 常 務 取 締 役,昭 和2年(1927年)。 鷲 尾 勘 解 治 常 務 取 締 役,昭 和2年 〜 昭 和5年(1927〜1930年)。 鷲 尾 勘 解 治 専 務 取 締
役,昭 和5年 〜 昭 和6年(1930〜1931年)。
[注]
(14)『 住 友 別 子 鉱 山 史 』(上 巻,下 巻,別 巻)住 友 金 属 鉱 山(株),平 成3年(1991 年);新 居 浜 市(編)『 新 居 浜 産 業 経 済 史 』 昭 和48年(1973年)。 な お,新 居 浜 市(編)『 歓 喜 の 鉱 山 』 平 成8年(1996年)は 別 子 銅 山 史 の コ ン パ ク ト な 概 説 書 で あ り,写 真 や 図 版 を 多 く含 む 。
(15)宮 本 又 次 ・作 道 洋 太 郎 編 『住 友 の 経 営 史 的 研 究 』 昭 和54年(1979年);作 道 洋 太 郎 編 『住 友 財 閥 』 日本 経 済 新 聞 社,昭 和57年(1982年);森 川 英 正 『財 閥 の 経 営 史 的 研 究 』 東 洋 経 済 新 報 社,昭 和53年(1978年)。 麻 島 昭 一 『戦 間 期 住 友 財 閥 経 営 史 』 東 京 大 学 出 版 会,昭 和58年(1983年)(本 書 は,「 実 際 報 告 書 」 な ど の 非 公 開 文 書 を 研 究 し て,両 大 戦 間 期 の 住 友 財 閥 の 経 営 分 析 を 行 っ た 貴 重 な 研 究 成 果 で あ る);畠 山 秀 樹 『住 友 財 閥 成 立 史 の 研 究 』 昭 和63年(1988年),
同 二普 及 版,平 成8年(1996年)(以 下で は 後 者 の 普 及 版 を 利 用 す る 。 本 書 は 住 友 財 閥 史 研 究 の 標 準 書 で あ る)。
(16)瀬 岡 誠 『近 代 住 友 の 経 営 理 念:企 業 者 史 的 ア プ ロ ー チ 』 有 斐 閣,平 成10年 (1998年)第4章,第5章 。
(17)住 友 友 純(=大 徳 寺 隆 麿)の ラ イ フ ・ヒ ス トリ ー を 分 析 し た もの と し て,瀬 岡 誠,同 上 書 の 第6章 が 大 変 興 味 深 い 。
(18)伊 庭 貞 剛 に つ い て は,瀬 岡 誠,同 上 書 の 第3章 と 西 川 正 治 郎 編 『幽 翁 』,昭 和 6年(1931年)を 参 照 せ よ 。 な お 最 近,ノ ン フ ィ ク シ ョ ン 小 説,木 本 正 次 『別 子 銅 山 中 興 の 祖 ・伊 庭 貞 剛 物 語 』 愛 媛 新 聞 社,平 成11年(1999年)が 出 版 さ れ た 。
(19)な お,も ち ろ ん 鉱 毒 問 題 も存 在 し た 。 開 坑 以 来,鉱 毒 が 吉 野 川 と 国 領 川 の 上 流 に 流 れ 込 ん で,い ず れ も 足 谷 川(悪 し き 谷 の 川 の 意 味)と 呼 ば れ て き た が,鉱 毒 水 の 処 理 は 明 治9年 に 成 功 し た とr7わ れ て い る 。
(20)鈴 木 馬 左 也 に つ い て は,瀬 岡 誠,同 上 書 の 第3章,お よ び 『鈴 木 馬 左 也 』 鈴 木 馬 左 也 翁 伝 記 編 纂 会,昭 和36年(1961年)を 参 照 。
(21}
(22) (23) (24)
『住 友 別 子 鉱 山 史 』 上 巻,478頁 一484頁 。 畠 山 秀 樹,前 掲 書,263頁 一272頁 。
『住 友 別 子 鉱 山 史 』 下 巻,30頁 一37頁 。
『住 友 別 子 鉱 山 史 』 別 巻,234頁 。
2‑II)明 治期 別 子銅 山 にお け る労働 と管 理
被 雇 用 者 の 中 に は事 務 管 理 に携 わ るホ ワイ トカラー と,肉 体労 働 にい そ しむ
鷲尾 勘解 治 の 経 営 理 念(上)147
ブ ル ー カ ラ ー とが あ る が,戦 前 の 住 友 に お い て は 前 者 は 「雇 員 」 な い しは 職 員 と呼 ば れ,そ の 中 に もた く さ ん の 階 層 が あ る が,一 般 に 住 友 の 「家 」 制 度 の 中 に 取 り込 ま れ て い た(25)。 後 者 の 労 働 者 は 「鉱 夫 」 と呼 ば れ,明 治 期 に お い て は 「飯 場 制 度 」 の 下 に あ っ た 。 した が っ て,雇 員 と鉱 夫 の あ い だ に は 身 分 的 な 区 別 が あ り,そ の 生 活 様 式 に も格 段 の 違 い が あ っ た 。 明 治44年(1911年)の
雇 員 数 は553名,鉱 夫 数 は5,087名 で あ っ た(26)。 「鉱 夫 」 の 中 に は 坑 道 の 中 で 採 掘 作 業 を 行 う坑 夫,坑 道 の ケ ア をす る 支 柱 夫,坑 道 内 外 の 鉱 石 な どの 運 搬 を 行 う負 夫,そ して 坑 外 で の 労 働 に 従 事 す る 機 械 夫,選 鉱 夫,製 錬 夫 な ど が い た ⑳ 。 負 夫 は 不 熟 練 労 働 者 で あ り,他 は 熟 練 ・半 熟 練 労 働 者 で あ っ た 。
明 治 期 の 鉱 山 労 働 は極 め て 苛 酷 で あ っ た。 地 下 数 百 メ.̲̲.トル の 灼 熱 の 作 業 場 で,ガ ス や 湧 き水 の 突 然 の 噴 出 ・落 盤 な どの 危 険 に さ ら され,粉 塵 の 混 じっ た 空 気 を 吸 い 込 み な が らの 昼 夜3交 代 制 の 重 筋 肉 労 働 が 課 せ られ た の で あ る。 鉱 山 労 働 者 の 移 動 率 は 一般 労 働 者 よ り も高 い と考 え られ る け れ ど も,別 子 銅 山 の 発 展 と と も に 定 着 率 は 高 くな っ た よ うで,明 治30年 〜40年 頃 に は 愛 媛 県 出 身 者 が 鉱 夫 全 体 の6割 か ら7割 を 占 め て い た(28)。
銅 山 発 展 期 に は 労 働 力 不 足 を 緩 和 す る た め に,囚 人 や 婦 人 も雇 用 され た 。 囚 人 を 坑 外 の 負 夫 と して 雇 用 す る こ と は 明 治14年(1871年)に 始 め ら れ た が, 県 民 世 論 の 要 望 に よ っ て 明 治32年(1899年)に は 廃 止 さ れ た(29)。 こ れ に 代 わ っ て 同 年,婦 人 労 働 が 導 入 さ れ た 。 こ れ は 当 初 は,渡 り鉱 夫 の 「女 房 に 婆 さ ん や 娘 」 な ど飯 場 関係 の 身 内 を 主体 と し た もの で あ っ た が,の ち に は 地 元 の 別 子 山村 の 女 子 も 入 坑 させ る よ う に な っ た 。 彼 女 た ち は 坑 内 と坑 外 の 負 婦 と して 雇 用 さ れ た が,大 正5年 に は 全 員 解 雇 され た(3。)。
労 働 災 害 も 多 数 発 生 した 。 小 林 漢 二 に よ る と,明 治34年 か ら大 正5年 ま で の19年 間 の 労 災 死 亡 者 数 は236名 で あ っ た 。 年 平 均 で 約13人 弱 で あ り,ほ ぼ 全 国 並 の水 準 で あ っ た 。 そ の 原 因 と して は,「 落 盤 の た め 」 が 最 も多 く,「 坑 内 爆 薬 に よ る もの 」 と 「巻 上 げ 坑 道 で の 墜 落 」 が こ れ に 次 ぐ と推 定 され る 。 鉱 山
に お い て は,「 死 者 一 人 二 対 シ負 傷 者 四 十 人 」 と い う の が ふ つ う で あ っ て,多 くの 負 傷 者 が 存 在 し た と推 定 さ れ る 。 さ ら に 鉱 山 で は 呼 吸 器 疾 患,消 化 器 疾
患,神 経 系 疾 患 に苦 しむ労 働 者 が,他 の 業 種 よ り もず っ と多 く存 在 した と推 定 さ れ る が,別 子 銅 山 に つ い て の 正 確 な 数 字 は 私 の 手 元 に は 無 い(31)。 以 上 は 通 常 の 労 働 災 害 で あ る が,鉱 山 の 歴 史 に は 異 常 な 大 災 害 が 付 き物 で あ り,別 子 銅 山 も例 外 で は な い 。 特 に 有 名 な も の の 第 … は,元 禄7年(1694年)の 別 子 大 火 災 で あ る。 こ の と き に は 別 子 銅 山 の 主 要 施 設 が 焼 失 し,132人 が 焼 死 し た 。 ま
た 明 治32年(1899年)に は,台 風 が も た ら し た 大 雨 に よ っ て 山 津 波 が 発 生 し,別 子 山 中 の 高 橋 製 錬 所 や 多 くの 社 宅 が 破 壊 さ れ た だ け で な く,513人 もの 死 者 が 出 た 。 こ れ らの 災 害 の 規 模 の 大 き さ は,鉱 山 労 働 者 の 生 活 実 態 の 把 握 な
しに は,理 解 し難 い 。
明 治32年 以 前 に お い て は 別 子 銅 山 の 中 心 は 山 中 に あ り,海 抜1,000メ ー ト ル 以 上 の 急 勾 配 の 山 の 斜 面 の 石 積 み の 上 に,長 屋 や 寄 合 所,あ る い は 飯 場 の よ
う な施 設 が 密 集 して 建 ち,そ れ らが 集 落 を形 成 して い た 。 明 治 期 に は 銅 山 峰 南 側(旧 別子)に 目 出 度 〔め った〕 町,見 花 谷 〔け んか だ に〕 を 含 む15の 集 落,北 側 に は 東 平 〔と うな る〕 を 含 む11の 集 落 が 形 成 さ れ た(32)。 周 辺 の 樹 木 は,燃 料 確 保 の た め の 乱 伐 と煙 害 と に よ っ て ほ とん ど無 く な り,住 宅 か らの 景 観 は ま
さ に 殺 伐 と し た も の で あ っ た 。 災 害 は こ の よ う な 環 境 の 中 で,大 惨 事 と な っ た の で あ る。 前 述 の よ う に,広 瀬 が 総 理 事 で あ っ た 時 代 に小 学 校,病 院,劇 場 な ど の 公 共 施 設 が 建 設 さ れ た が,そ れ ら は 経 営 側 の 温 情 主 義 の 結 果 な の で は な く,む し ろ そ れ ら な しに は労 働 者 た ち の 生 活 が 成 り立 た な か っ た か らだ,と 考 え るべ きで あ ろ う。
労 働 者 の 賃 金 に つ い て は,各 職 種 ご と の 正 確 な 数 値 を示 す こ と は 出 来 な い 。 会 社 側 は 飯 場 頭(請 負 者)に 一 括 して 賃 金 を 支 払 い,労 働 者 は 「飯 場 制 度 」 の 下 で,飯 場 頭 通 して(中 間搾 取 された)賃 金 を 得 て い た か らで あ る。 しか し,推 定 値 を 算 出 す る こ とは 可 能 で あ る。 例 え ば,星 島 一 夫 は 明 治40年 当 時 の 「別 子 銅 山 の 運 搬 夫(坑 内)の 賃 金 は 今 治 の 日雇 人 夫(中 等)や 周 桑 郡 の 製 紙 工 場 で 働 く男 子 労 働 者 の 賃 金 と ほ ぼ 同 じ水 準 に あ り,製 錬 夫 や 坑 夫 の 賃 金 は 県 内 で は 最 も高 い 水 準 」 で あ っ た,と 結 論 し て い る(33)。 しか し,苛 酷 な 労 働,劣 悪 な 労 働 ・生 活 環 境 お よび 山 中 の 閉 鎖 的 な社 会 環 境 が 相 対 的 な 高 賃 金 と結 び つ くな
鷲尾 勘 解 治の 経 営 理 念(上)149
ら ば,労 働 者,特 に 若 い 労 働 者 は そ の ス ト レ ス を 「荒 れ た 生 活 」 で 発 散 さ せ る こ と に な る の で は な か ろ うか 。 例 え ば 当 時 の 新 聞 の 記 事 は ,別 子銅 山 で は な く て 四 阪 島 の 労 働 者 に つ い て で あ る が,次 の よ う な 現 地 報 告 を 行 っ て い る 。 「交 代 時 間 又 は 休 日 に は,3人,5人 宛 て 集 ま っ て 酒 を飲 む,賭 博 を す る,又 は 飲 ん で 喰 っ て寝 る と い う調 子 で あ る が,1.に 見 逃 す べ か ら ざ る 問 題 は性 欲 的 問 題 で あ る 。 年 か ら 年 中 明 け 暮 れ,耳 を聾 す る エ ン ジ ンの 音 と呼 吸 の 詰 ま る よ う な 鉱 石 の 燃 へ る 悪 臭 との 中 に 生 活 し,足 一歩 を 島 〔四 阪 島〕 よ りは 出 ら れ な い 為 に,人 間 と して の 極 め て 自然 な る本 能 欲 を満 た す 機 会 に乏 し く,従 っ て 性 情 も 殺 伐 と な り冷 酷 と な り,飲 酒 し た る と き な ど は,些 細 な 事 よ り喧 嘩 口 論 と な り,果 て は 格 闘 を は じめ て,斬 る の 突 くの と い う騒 動 を惹 起 す る 事 も珍 しか ら ず,ひ い て は 不 倫 の 性 欲 に 走 る 事 と な る を免 れ な い …(39)」 と。
別 子 銅 山 の 肉 体 労 働 者 た ち は 鉱 山 業 に 一一般 的 に 見 られ る 下 請 制 度 の 下 に あ っ た が,下 請 制 度 は 明 治 以 降,飯 場 制 度 に 転 化 した と い わ れ る。 「元 来 飯 場(ま た は納屋)は,鉱 夫 の 合 宿 所 ま た は 寄 宿 舎 の よ う な も の で,独 身 の 鉱 夫 を こ こ で 起 居 させ,家 族 も ち の 鉱 夫 に は 別 に 一一軒 ま た は 長屋 の 一部 を 貸 与 し,家 庭 生 活 を営 ませ た 。 鉱 夫 は 鉱 業 主 と 直 接 雇 用 関 係 を結 ばず,飯 場 に所 属 し飯 場 の 長 で あ る 飯 場 頭(納 屋 頭 〉 の 支 配 を 受 け 鉱 山 労 働 に 従 事 し た(35)」。 明 治39年 当 時,別 子 に は17の 飯 場 が あ り,一 つ の 飯 場 に は 大 体100人 の 鉱 夫 が 所 属 して い た 。 飯 場 頭 と飯 場 所 属 の 鉱 夫 と は 「親 分 繍子 分 の 関 係 」 を取 り結 び ,前 者 は 後 者 の 雇 用,作 業 の み な らず,生 活 に 関 す る 一 切 を も管 理 して い た 。 飯 場 頭 は 下請 組 織 の 長 で あ る が,住 友 側 の 管 理 組 織 の 末 端 に は,企 業 へ の 貢 献 度 の 高 い 鉱 夫 の 中 か ら抜 擢 さ れ,準 職 員 の 地 位 を 与 え られ た 坑 夫 頭 が い た 。 坑 夫 頭 に は,入 坑 す る坑 夫 や 負 夫 の 人 員 の 点 検,飯 場 頭 へ の 堀 場 の 割 り当 て,仕 上 げ た 作 業 量 の 査 定 な どの 重 要 な 仕 事 が 任 され て い た 。 と こ ろ が 坑 夫頭 と飯 場 頭 は し ば しば 結 託 して 不 正 を働 き,会 社 と労 働 者 の 双 方 に損 失 を 与 え な が ら,利 益 を む さ ぼ っ て い た(36)。
会 社 側 が 牧 相 信 を 九 州 の 炭 鉱 か ら招 い て 採 鉱 課 主 任 に 任 じ,明 治39年 (1906年)に 飯 場 制 度 の 「hか ら の 改 革 」 を 行 わ せ た 理 由 の 一・つ は,こ の 点 に
あ る(37)。 一 般 鉱 夫 が,こ れ に よ っ て 坑 夫 頭 と飯 場 頭 に よ る 中 間搾 取 が な く な る こ と を期 待 して 事 態 を静 観 した の で,改 革 は 成 功 した 。 しか し確 か に 中 間 搾 取 は な く な っ た が,会 社 側 の 締 め つ け も 厳 し く な っ た の で,一 般 鉱 夫 の 生 活 は 改 善 され なか っ た。こ の よ う な事 態 を背 景 と して,翌 年 の 「別 子 大 暴 動 」が 発 生 し た(38)。暴 動 自体 は 警 察 の 介 入 に よ っ て 鎮 圧 さ れ た け れ ど も,こ の 経 験 は 鉱 夫 の 側 で の 組 織 的 な 労 働 運 動 へ の 傾 斜 と,住 友 側 で の 労 務 政 策 の 転 換 を促 した 。 わ が 鷲 尾 勘 解 治 が 住 友 に 入 社 した 明 治40年 は,こ の よ う な 時 期 だ っ た の で あ る。
[注ユ
(25)新 居 浜市編 『新 居浜 産業 経 済 史』昭和48年(1973年)第 三章 「住 友の 『家』
制 度 と雇員」(須 賀俊 夫 稿);須 賀 俊 夫 「住 友 家の 雇 員の等 級 制 と 『家』 制度 に つ いて=明 治元 年〜 明治24年 」 宮 本 ・作 道編 「住 友 の経営 史的研 究 』所 収(第 5章);「 住 友 別 子 鉱 山 史』(ヒ 巻)333〜337頁;『 住 友 別 子鉱 山 史』(下 巻)
102〜105頁 な どを見 よ。
(2s>
(27) (28) (29) (30) {31) (32) (33}
(34)
『新 居 浜 産 業 経 済 史 』153頁 。
『住 友 別r鉱 山 史 』(ド 巻)104〜107頁 。
『新 居 浜 産 業 経 済 史 』167〜68頁 。 同 書,43‐47,1fib頁 。
同 書,147,164‑166頁 。 以 上,同 書,147〜150頁 。
新 居 浜 市 編 『歓 喜 の 鉱 山:別r銅 山 と 新 居 浜 』 平 成8年(1996年),44頁 。
『新 居 浜 産 業 経 済 史 』171〜72頁c、
占 田 弧 幽 『東 予 巡 礼 記(83)』(愛 媛 新 報,対 象9年12月18日 付 け),(『 新 居 浜 産 業 経 済 史 』271頁 か ら 引 用)
(35)『 住 友 別f鉱 山 史 』(下 巻)37頁 。
(36)同 ヒ,37〜 ・39頁 。 ま た,飯 場 頭,請 負 頭 お よ び 坑.1二頭 の 相 互 関 係 に つ い て は
『新 居 浜 産 業 経 済 史 』 ユ53〜159頁(星 島 ・夫 稿)が 詳 し い 。 な お 金 属 鉱lhに は, 飯 場 制 度 と は 別 に 「友 子 同 盟 」 に お け る 親 分 子 分 関 係 が 存 在 し た 、}これ は 鉱 夫 の 特 権 的 地 位 を 守 る た め の 熟 練 技 能 の 伝 授 と,自 主 的 相 互 扶 助 を 目 的 と し て(徳 川 時 代 に)熟 練 鉱 夫 に よ っ て 形 成 さ れ た 全 国 的 組 織 で あ っ た 。 別 子 銅 山 に も 「友 」な 同 盟 」 の 加 人 者 は い た が,星 島 一夫 に よ れ ば 大 正]4年 ご ろ 「東'lz1,400人,端 出 場1,100人 の う ち,(友J同 盟 の)親 分 争分 関 係 に あ っ た の は200‑‑300人 程 度 に 過 ぎ な か っ た 」(同 書,161頁)。 な お こ の 友r同 盟 は,大 正9年 に 会 社 側 が 設
蹉 し た 親 友 会 に 実 質 的 に 吸 収 さ れ て い っ た(『 住 友 別J鉱 山 史 』(ド 巻)124〜25
鷲 尾 勘 解治 の経 営 理 念(上)151
頁)。
(37)も う …つ の理 由につ いて は,次 節 を見 よ。
(38)『 住 友 別 予鉱 山史」(下 巻)40〜45頁;『 新 居浜 産業経 済 史』173〜82頁(星 島 一夫稿) 。
2一 皿)鷲 尾 在 職 中 の 住 友 と別 子 銅 山
鷲 尾 が 住 友 に 入 社 し た 明 治40年(1907年)か ら,彼 が 退 社 を 余 儀 な く さ れ る 昭 和8年(1933年)ま で の 時 期 は,住 友 の 事 業 が 大 発 展 し て 巨 大 な コ ン ツエ ル ンが 形 成 さ れ る 時 期 で あ っ た 。 この 期 間 の 日本 経 済 を時 期 区 分 す る な ら ば, 日露 戦 争 後 の 日本 資 本 主 義 確 立期(1905〜)→ 第 … 次 大 戦 の ブ ー ム 期(1914〜)
→ 戦 後 不 況 期(1920〜)→ 世 界 恐 慌 後 の 不 況 期(1929〜)と 概 括 で き る だ ろ う。 まず,明 治39年(1906年)に は 日露 戦 後 反 動 恐 慌 が 起 こ っ た が,鈴 木 馬 左 也 は こ れ に 対 し,銅 価 下 落 が 有 利 に 作 用 す る 金 属 工 業 部 門(銅 管,黄 銅 管,電 線 さ らには鋼 管)の 拡 充 を 策 して,軍 需 ・官 需 を軸 に 多 角 化 を 進 め た(39)。 ま た,別 子 で は 前 に 触 れ た よ う に,大 量 生 産 体 制 を 確 立 し た 。 住 友 本 店 は 明 治42年 に 住 友 総 本 店 と改 称 され た が,こ れ は 畠 山 秀 樹 に よ れ ば,「 多 角 化 を 誇 示 す る も の 」 で あ っ た(90)。
大 戦 ブ ー ム 期(1914〜19年)の 住 友 に お い て は,事 業 の 多 角 化 の 更 な る 進 展 と傘 下 各 企 業 の 急 成 長 とが 見 ら れ た 。 まず 住 友 銀 行 は 積 極 的 多 店 舗 展 開 に よ っ て 急 成 長 し,「 預 金 は 大 正5年 に1億 円,7年 に2億 円,8年 に は3億 円 を 突 破
し,貸 出 金 も6年 に1億 円,8年 に2億 円 を 超 え る 異 様 な 増 加 を 示 した 」。 ま た,外 国 為 替 取 扱 い な ど,外 国 業 務 へ の 積 極 的 進 出 が 見 ら れ た(41)。 住 友 の 金 属 工業 部 門 は 大 戦 ブ ー ム 期 に は 住 友 伸 銅 所,(株 式 会社住 友/鋳 鋼 所,(株 式 会社 住 友)電 線 製 造 所 を擁 して い た 。 特 に 伸 銅 所 に は 軍 需 を 中 心 に 注 文 が 殺 到 し, 工 場 は 拡 張 に 拡 張 を 続 け,「 売L高 は 大 正2年 か ら7年 ま で の …5年 間 で7.3 倍 と な っ た 。 一一方 利 益 は こ の 伸 び を さ ら にr回 り,(5年 間 で)実 に31.6倍 に 達 した(42)」。 鋳 鋼 所 は,鉄 道 用 品,兵 器 用 品,造 船 用 品 の 受 注 を受 け て 堅 実 な 発 展 を示 し,電 線 製 造 所 は 国 内 外 の 需 要 の 急 増 に よ っ て 急 成 長 を 遂 げ た(43)。
ま た 大 正2年(1913年)に は,総 本 店 直 轄 の 東 京 販 売 店 が 設 置 さ れ,以 後 住 友
は 総 力 を挙 げ て 販 売 活 動 に乗 り出 す こ と に な る(44)。 さ ら に こ の 時 期 に,林 業 経 営 へ の 本 格 的 進 出,肥 料 製 造 所 の 開 設,炭 鉱 業 に お け る北 海 道 へ の 進 出,産
金 業(特 に鴻之 舞鉱 山)へ の 進 出 な どが 果 た さ れ た(45)。
麻 島 昭 … は 住 友 財 閥 に と っ て の1920〜45年 の 時 期 の 意 義 を,そ の 前 半(お よそ1920〜33年'大 【1:9年〜 昭和8年)と 後 半(1933〜45年)に わ け て,次 の よ う に特 徴 づ け て い る 。 「こ の 時 期 の 前 半 は 傘 下 事 業 が そ れ ぞ れ の 分 野 で 株 式 会 社 化 し,事 業 的 に も独 占的 地 位 を確 立 し,多 角 化 が 一 層 す す ん で コ ン ツ エ ル ン形 態 が 完 成 した 時 期 で あ っ た 。 そ して 世 界 恐 慌 を乗 切 っ た あ と,軍 需 を 軸 に 驚 く べ き急 膨 張 を遂 げ,三 井,三 菱 と と もに 三 大 財 閥 の 実 質 を備 え た の が,こ の 時 期 の 後 半 で あ る(4明 と。 わ れ わ れ が 概 観 し た い の は,こ の 前 半 期 だ け で あ る 。 個 人 経 営 の 住 友 総 本 店 は,大 正10年(1921)2月 に 住 友 合 資 会 社 に 改 組 さ れ,そ の 中 枢 管 理 機 構 は 整 備 ・近 代 化 され た 。 そ の 後 の 日本 経 済 は 大 正11年 の 銀 行 恐 慌,12年 の 震 災 恐 慌,昭 和2年 の 金 融 恐 慌,昭 和4・5年(1929・30 年)の 世 界恐 慌 を 経 験 し,そ の 恐 慌 ・不 況 過 程 を 通 じて,財 閥 独 占 資 本 の 肥 大 化 が 進 行 した 。 住 友 財 閥 も 「中 田 錦 吉 総 理 事 就 任(大 正11年)以 降,こ の 合 資 会 社 の も と に 漸 次 傘 下 直 営 事 業 の 株 式 会 社 化 を 推 進 しs湯 川 寛 吉 総 理 事 時 代 (大正14〜 昭和5年)に … 応 の 完 了 を 見 た(47)」 の で あ る 。
こ う して,畠 山 秀 樹 の 推 計 に よ れ ば,住 友 財 閥 の 「総 売 上 高 は 明 治23年 か ら昭 和5年 ま で の40年 間 に実 に127.8倍,同 期 間 の 年 平 均 成 長 率12.9%と い うハ イペ ー ス の 高 度 成 長 を 遂 げ た 。 そ れ は 日本 資 本 主 義 の 浮 沈 を 強 く反 映 して い る が,そ の 間 に お け る 日本 の 平 均 経 済 成 長 率 は6.8%と 推 計 さ れ る の で,こ れ を は る か に凌 駕 す る も の で あ っ た(48)」。 しか し この 急 成 長 の 主 要 因 は 多 角 化 の 進 展,と りわ け 銀 行 業 と金 属 加 工 業 の 発 展 に あ っ た 。 こ れ に 対 し,か つ て 住 友 の ドル 箱 で あ り,ま た そ の 事 業 の 中 か ら機 械 工 業,化 学 工 業,林 業 な ど を発 展 さ せ た 別 子 銅 山 の 財 閥 全 体 の 中 で の 地 位 は,こ の 時 期 を 通 し て 低 下 の … 途 を た ど っ た 。 そ して,昭 和3年 に 「住 友 家 法 」 を 改 正 し た 「住 友社 則 」 が 制 定 さ れ た と き に は,別 子 銅 山 を 「万 世 不 朽 の 財 本 」 と 規 定 した 条 項 は 削 除 さ れ た の で あ っ た 。
明 治40年 か ら昭 和8年 まで の 出 鉱 量 は[表1]の とお りで あ る。採 掘 粗 鉱 量 は 大 正4年,大 正10年, 大 正11年 に停 滞 す るが,明 治40年 か ら昭和3年 まで急 増 し,以 後 昭 和 7年 まで 停 滞 す る。 しか し,鉱 石 品 位 は悪 化 の 傾 向 に あ り,明 治40年 以 後 は4%を 割 り,大 正5年 か ら 9年 まで は2%台 に 落 ち,10年 か
ら13年 まで3%台 を 回復 す るが, 大正14年 以後 は再 び2%台 に落 ち て い る。 そ の 結 果,含 銅 量 は 明 治 40年 か ら 大 正3年 ま で 急 増 す る が,以 後 大 正10年 まで 停 滞 し,大 正10年 か ら12年 まで急 増 した後, 再 び停 滞 した。 この よ うな数量 的変 化 は,次 の こ とを示 して い る。 つ ま
り,こ の時期 の需 要の急 増 に応 え て 大 量出鉱体 制 が 推 進 され たが,鉱 脈 の 深 掘(深 鉱)の 進 行 の 結 果,鉱 石 の 品位 は低 下 し,銅 の生 産 量 は伸 び 悩 ん だ ので あ る。 大量 出鉱 ・大 量生 産体 制 の推 進 は経 営 ・労 働 組織 の変 革 を必 然 化 させ た。
明 治38年 に は 四 阪 島 製錬 所 に つ づ い て 第 三通洞 も本 格 的使 用 を開 始 した。 採 鉱 部 門 で は 「抜 堀 り法 」 に 代 わ っ て 「階 段 掘 り法 」 が 採 用 さ
鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(と)153
〔表1〕 別 子生産 実績 別子鉱山 西暦 日本暦
粗鉱量 品位 含銅量
1905明 治38年 t%t
]34,5524,526,085 1906 39 1.31,6404.395,775 1907 40 154,1983.255,013 1908 41 198,2953.025,984 1cos 42219,7203.477,634 191 43 211,7763.717,862 191144 220,8943.587,910 191245 224,7303.988,945 1913大iE2 248,2633.'739,289 1914 3311,3993.2410,075
1915 4 269,7783。208,638
1916 」 379,2642.9511,196 1917 6 382,6312.7510,518 1918 7 3f4,2822.8210,2fiO 1919 8399,0532.7811,081
1920 y 354,3682.8410,078 192 103]?,7313.3310,59?
1922 11 399,4073.2512,966 1923 12423,4fi23.2013,692 1924 13432,43931913,789 1925 14 X39,9312.9012,739 1926 15443,2742.7212,190 1927旧 召 禾[12 483,ユ602.7013,058 1928 3 534,4532.8014,985 1929 4 530,9682.7714,692 1930 5488,7442.7313,328 193 645?,3992.8913,196 1932 7404,0902.8411,492 19338 493,518z6212,951 1934 9 53̀x.6192.5413,519 193510 53i,6692,1711,518 193611 527,7432,02董0,682
1937 12 538,8121,9810,669 1935
199 1940
13 583,6011,9511,403 14
15
664,0351,8912,550 559,4861,699,447 出 典 『住 友 別 子 鉱 山 史 』 別 巻223頁 よ り
れ,削 岩 機 が 改 良 され て 導 入 さ れ た(49)。 ま た こ れ に 伴 っ て,四 阪 島 の 製 錬 所 で は 「生 鉱 吹 き」 の 開 発 が 行 わ れ た 。 畠 山 に よれ ば,「 階 段 掘 り法 とは 経 営 当 局 が 計 画 的 に 切 羽 を 設 定 し,鉱 石 を残 らず 採 取 す る 近 代 的 な採 鉱 法 で あ る 。 し か しそ の た め に は,従 来 飯 場 頭 に 雇 わ れ て い た 坑 夫 を別 子 鉱 業 所 採 鉱 課 の 直 接 管 理 下 に 移 し,坑 夫 に 対 す る作 業 管 理 権 を 掌 握 して お く必 要 が あ っ た(5Q)」。 そ こ で,前 述 の 飯 場 精 度 の 大 改 革 が 断 行 さ れ た,と い うわ け で あ る。 鉱 脈 の 深 掘 は 更 に 進 め られ,第 四 通 洞 と大 立坑 の 開 削 が そ れ ぞ れ 明 治43年 と44年 に 着 手 さ れ,と も に 大 正4年(1915年)に 開 通 し た 。 第 三 通 洞 の 貫 通(1902年)以 後 す で に,選 鉱 場,労 働 者 用 の 福 祉 施 設 な どの 各 種 施 設 が 嶺 北 の 東 平 に建 設 され た が,大 正5年(1916年)に は 別 子 銅 山 の 採 鉱 本 部 が,嶺 南 の 東 延(海 抜 約 1,150メ ー トル)か ら嶺 北 の 東 平(海 抜約750メ ー トル)に 移 さ れ 。 こ れ に 伴 い, 銅 山 峰 南 側(旧 別 子銅 山)の ほ と ん ど全 部 の 施 設 が 撤 去 さ れ,鉱 夫 た ち は 嶺 北 に 移 住 した の で あ る(51/。(〔図2〕 を参照)
〔図2〕 別子銅 山坑 内図
出典=住 友金属鉱山株式会社資料
(結城 一三郎 『「住友城F町 」混沌:別 予銅山300 年の宴のあと』巻末図より)
大 戦 ブ ー ム期 に お いて は,採 掘 法 の更 なる改 良 と改 良 削岩 機 の導 入 に よっ て 出鉱 量 は増 加 し,大 正9年 か らは手 選 鉱 に変 わ って機 械 選鉱 が 導 入 され た。 ま た,製 錬 部 門で は大 正8年 に完 成 した新 居浜 西 原 の電 錬 工場 で電気 製 錬 が 開始
され た(52)。大 戦 間期 にお い て も技 術 革新 とそ れ に よ る合 理 化 が 進 行 した が,
鷲 尾 勘解 治 の経 営 理 念(D155
特 にr大 正14年 に 新 居 浜 星 越 の 選 鉱 場 が 竣 工 して 浮遊 選 鉱 法 が 始 め られ た こ と,ま た 同 年 反 射 炉 製 錬 を全 廃 して 電 気 製 錬 に 統 一した こ とが 合 理 化 の 過 程 で 重 要 で あ っ た(53)。 昭 和2年(1927)に は,住 友 合 資 会 社 の 直 営 店 部,別 子 鉱 業 所 は,資 本 金1,500万 円(全 額払込 み)の 住 友 別 子 鉱 山株 式 会 社 に 改 組 され た。
最 後 に,明 治40年 か ら昭 和 初 め ま で の 時 期 に お け る 別 子 銅 山 の 労 働 に つ い て 触 れ て お こ う。 す で に 触 れ た よ う に,明 治 末 期 以 後S別 予銅 山 で も 「階 段 掘 り法 」 や 削 岩 機 の 利 用 な どの 最 新 技 術 の 大 幅 な 導 入が 行 わ れ,従 来 の 手 工 業 的 熟 練 の 意 義 は 減 少 し て い っ た 。 ま た 大 正5年(1916年)の[二 場 法 」 の 施 行 に と も な っ て 「鉱 夫 労 役 扶 助 規 則 」 が 改 正 さ れ た た め に,労 働 時 間 の 短 縮,深 夜 作 業 の 廃 止 な ど に よ る 鉱 夫 の 保 護 が 義 務 づ け られ て,鉱 夫 の 間 接 雇 用 が 基 本 的 に 禁 止 と な っ た 。 別 子 銅 山 で は,こ れ を 受 け て,大 正10年(1921年)に 労 働 課 が 新 設 さ れ て,労 働 者 に 関 す る 仕 事 は 全 て こ こ で 統 … 的 に 取 り扱 う こ と に な っ た 。 労 働 者 を 直 接 に 管 理 す る よ う に な っ た住 友 は,戦 後 不 況 の 中 で 合 理 化 を推 進 して い っ た が,そ れ は 数 回 に わ た る 労 働 者 の 大 量 解 雇 と労 働 の 強 化 ・労 働 災 害 の 頻 発 を 伴 う も の で あ っ た 。 こ れ らは 当 然 に,労 働 者 の 間 に 不 満 や 不 安 をi積 させ る こ と に な っ た 。 ま た 労 働 者 の 間 に は,職 員 と労 働 者 の 間 の 差 別 待 遇 に 対 す る 長 年 の 恨 み が 欝 積 して い た とい わ れ る{54)。
大 正 時 代 に は 全 国 的 な規 模 で 労 働 運 動 が 進 展 した が,別 子 鉱 山 で も,以 上 の よ う な 素 地 の 上 で,大 正13年(1924年)か ら大 正15年2月 まで 労 働 組 合 運 動 が 展 開 し,大 正14年 の12月 か ら は … 部 の 労 働 者 に よ る ス トラ イ キ が 発 生 し
た 。 鷲 尾 勘 解 治 は労 務 担 当 の 最 高 責 任 者 と して,こ の よ う な 運 動 を沈 静 化 させ る仕 事 に 正 面 か ら 立 ち 向 か っ た の で あ る 。
[注ユ
(39)畠 山秀樹,前 掲 書}210〜15頁 。住 友が 金属 」業 部 門 に進 出 したの は,明 治30 年)以 後 の こ とであ る。
(40)同,178頁 。
(41)同,242〜44頁 。 な お,住 友 銀 行 は住 友 傘 下企 業 で は 最 も 早 く,明 治45年 (1912年)に 株 式 会社 化 された。
(42)同,247頁 。
(43)同,248〜254頁 。
(44)同,258〜260頁 。 な お,周 知 の よ う に,三 井 財 閥 や 三 菱 財 閥 と 違 っ て 住 友 財 閥 は 商 社 を 有 し な か っ た 。
(45)同,240〜42,254〜55,258〜62頁 。
(46)麻 島 昭 一 『戦 間 期 住 友 財 閥 経 営 史 』,1頁 。
(47)畠 山 秀 樹,前 掲 書,280頁 。 住 友 合 資 会 社 の 成 立 に つ い て は,畠 山,同 書, 281〜88頁;麻 島 昭 一 「1920年 以 降 の 住 友 財 閥 に 関 す る 考 察=住 友 合 資 会 社 の 経 営 を 中 心 と し て 」 宮 本 又 次 ・作 道 洋 太 郎 編 著 『住 友 の 経 営 史 的 研 究 』 第8章;
麻 島 昭 一一 『戦 間 期 住 友 財 閥 経 営 史 』,第1章 第1節 を 参 照 。 ま たf傘 下 直 営 事 業 の 株 式 会 社 化 と 財 閥 コ ン ツ ェ ル ン 体 制 の 成 立 に つ い て は,畠 山 秀 樹,前 掲 書,316〜33頁;麻 島 昭 一一,同r̲̲を 参 照 せ よ 。
{48}
{49) {50) (51?
(52)
畠 山 秀 樹,前 掲 書,312〜313頁 。
畠 山,同 書,206頁;『 住 友 別J鉱 山 史 』(F巻)34〜37頁 。 畠 山,前 掲 書,206〜7頁 。
『住 友 別 子 鉱llJ史 』(下 巻)47〜49頁 。
畠 山,前 掲 二書,237〜41頁;『 住 友 別 子 鉱 山 史 』(下 巻)第5章,第6章,63
^‑92頁 。
(53)「 住 友 別r鉱 山 史 』(F巻),72〜76,90〜92頁;畠 山,前 掲 書,290〜92頁;麻 島,前 掲 書,252〜254頁 。
(54)『 新 居 浜 産 業 経 済 史 』 第13章(星 島 一一夫 稿);『 住 友 別 ア 鉱 山 史 』(下 巻),102〜125頁 。
3)鷲 尾 の 生 立 ち と住 友 へ の 入社
3‑1)は じめ に
鷲 尾 は 明 治14年(1881年)5月10日 に 兵 庫 県 武 庫 郡 須 磨 村 白 川 で,鷲 尾 弥 左 衛 門 の 長 男 と して 生 まれ た 。 家 は純 農 村 の 農 家 で あ っ た が,代 々村 の 氏 神 神 社 の 神 官 で あ り}ま た 鷲 尾 家 の 鎮 守 村 権 社 山 伏 山 神 社 の 社 掌 で も あ っ た 。11
歳 の と き に 父 が 神 戸 市 兵 庫 北 宮 内 町 の 県 社,七 の 宮 神 社 社 司 と な る と,父 に 従 っ て 街 中 の 神 社 の 社 務 所 で の 生 活 を 始 め た 。 し た が っ て,鷲 尾 は 小 さ い と き か ら厳 格 な 躾 を 受 け,宗 教 的 な 雰 囲 気 に 包 ま れ て い た と い え る。 明 治29年 q896年)か ら は 県 立 神 戸(第}中 学 校(現 在の 神戸 高 校)で 教 育 を 受 け,明 治 34年4月 に は 熊 本 の 第 五 高 等 学 校(現 在の 熊 本 大学 〉 に 入 学 し た 。 熊 本 で は …