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鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(下) 一 別 子 銅 山 に お け る労 務 管 理 と 『地 方 後 栄 』一

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123

<論 説 〉

鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(下)

一 別 子 銅 山 に お け る労 務 管 理 と 『 地 方 後 栄 』一

山 本 通

1)は じめ に

2)背 景 と し て の 別r銅 山 史

2‑‑1)鷲 尾 入 社 ま で の 別r銅

2‑n)明 治 期 別 子 銅 山 に お け る 労 働 と 管 理 2‑m)鷲 尾 在 職 中 の 住 友 と 別r銅 3)鷲 尾 勘 解 治 の 生 立 ち と住 友 へ の 入 社

3‑‑1)は じめ に

3‑m禅 寺 の 修 行 生 活 か ら 得 た も の A)禁 欲 的 で 規 律 あ る 生 活 B)仏 教,特 に 禅 宗 の 思 想 C)慈 愛 と奉 仕 の 精 神

II)住 友 へ の 入 社(以 上,37巻2号) 4)鷲 尾 勘 解 治 の 労 務 管 理 の 思 想 と 実 践

4‑‑1)労 務 管 理 者 と して の 鷲 尾 勘 解 治 411)「 自 彊 舎 」

4一畷)大 正 期 の 別 子 労 働 運 動 と 「改 善 会 」 4‑‑N)自 彊 舎 の 再 建

5)「 末 期 の 経 営 」 と 「地 方 後 栄 」 5‑1)「 末 期 の 経 営 」 論

5‑‑II)「 地 方 後 栄 」 論:新 居 浜 の 開 発(以 ヒ,37巻3号) 6)鷲 尾 勘 解 治 の 住 友 か ら の 追 放(以 下,本["t)

6‑‑1)鷲 尾 追 放 の 経 済 的(財 務 的)背

6‑H)鷲 尾 追 放 の 思 想 的 背 景1鷲 尾 勘 解 治 と 小 倉 正 恒 7)お わ りに:住 友 の 経 営 者 群 像 の 中 で の 鷲 尾 勘 解 治 の 位 置

付1)主 要 参 考 文 献

付2)『 改 善 』 の 中 の 鷲 尾 勘 解 治 の 文 章 一覧 付3)『 鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』 の 中 の 鷲 尾 の 文 章

(2)

124商 経 論 叢 第37巻 第4号

承前

6)鷲 尾 勘 解 治 の住 友 か らの 追 放

鷲 尾 追 放 の 背 景 と して は,般 的 に は 次 の よ う に 言 わ れ て い る 。 昭 和 初 期 の 不 況 期 に は 住 友 で もF縮 小 が 行 わ れ た が,鷲 尾 の 新 居 浜 開 発 は 本 社 の 事 業縮 小 の 意 向 に 逆 行 す る もの で あ っ た 。 特 に,住 友 の カ ネ で 新 居 浜 開 発 を 行 う こ と を,本 社 の 人 々 は快 く思 わ なか っ た(1}。 ま た 最 近,山 本 雄 は,末 期 的 状 況 の 別 了・銅 山 の 経 営 に 代 わ る もの と して 鷲 尾 が 新 居 浜 の 開 発 を 考 え た の に 対 して,総 理 事 小 倉 正 恒 は こ れ と は 違 っ た ヴ ィ ジ ョ ン を持 っ て い た こ と を,明

ら か に し た(2/。 こ れ らの 議 論 は,鷲 尾 の 新 居 浜 開 発 の ヴ ィ ジ ョ ンが 当 時 の 本 社 の 意 向 に 反 す る もの だ っ た こ と を 説 明 して は い る が,鷲 尾 が 住 友 か ら追 放 さ れ な け れ ば な ら な か っ た 理 由 を 説 明 す る もの で は な い。 ま た,新 居 浜 開 発 の 事 業 が,縮 小 さ れ 修 正 を加 え られ な が ら も,昭 和8年 以 後 実 施 され た こ と に も,そ れ な りの 説 明 が 必 要 で あ ろ う。 この よ う な わ け で,わ た しは,財 務Lの 理 由 や 経 営 将 来 構 想 以 外 に も 鷲 尾 追 放 の 理 由 が 存 在 す る,と 推 察 す る 。 更 に ま た,一 一 歩 踏 み 込 ん で 検 討 す べ き で あ る の は,な ぜ 鷲 尾 が,本 社 の 意 向 を知 りな が ら, 新 居 浜 の 開 発 に 執 着 し た の か,と い う点 で あ る。 この 問 題 を 考 察 し な け れ ば, 我 々 は 鷲 尾 勘 解 治 の 世 界 を 知 る こ と は で き な い だ ろ う。 以 下,鷲 尾 勘 解 治 の 住

友 か ら の 追 放 の,経 済 的 背 景 と思 想 的 背 景 を や や 詳 し く検 討 しよ う 。

6‑1)鷲 尾 追 放 の 経 済 的(財 務 的)背 景

す で に 「2皿)鷲 尾 在 職 中 の 住 友 と 別 デ銅 山 」 に お い て 触 れ た よ う に,鷲 尾 の 入 社 か ら退 社 ま で の 時 期(明 治40年,1907年 か ら昭 和8年,1933年)は 住 友 が 大 発 展 して 巨 大 な コ ン ツエ ル ン を 形 成 す る 時 期 で あ っ た 。 す な わ ち 「住 友 は 大 正10年(lg21)住 友 合 資 会 社 を 設 立 し,そ の 中 枢 管 理 機 構1を 整 備 ・近 代 化 し た 。 そ して,中 田 錦 吉総 理 事 就 任(大llこll年)以 降,こ の 合 資 会 社 の も と に 漸 次 傘F直 営 事 業 の 株 式 会 社 化 を 推 進 し,湯 川 寛 吉総 理 事 時 代(大 皇臼4年 〜 昭 和5年)に 一一応 の 完Jを 見 た 。 … 以hの よ う な 過 程 を 経 て,住 友 合 資 は 昭 和3

(3)

鷲 尾勘 解 治 の経 営 理 念(下)125

年 末 に は …,直 系13社,傍 系5社,支 配 的 子 会 社6社 ,準 支 配 的 子 会 社3 社,計27社 を擁 す る持 株 会 社 に 変 身 し,三 井 ,一一三菱 に次 ぐ ・大 総 合 コ ン ツ エ

ル ン と して の 様 態 を 整 え る に 至 っ た の で あ る(3)」。

住 友 の 事 業 の 中 で も最 も 占 く,そ こか ら様 々の 事 業 を派 生 的 に 生 み 出 して き た 別 子 銅 山 は,昭 和 初 期 に は 別 予 ・新 屠 浜 地 区 に 「相 互補 完 関 係 を 有 す る 有 機 的 事 業 体 と して の ま と ま り」 を 形 成 して い た{4)。 しか し,か つ て 住 友 家 の 「万 世 不 朽 の 財 本 」 と され た 別 子 銅 山 の,住 友 の 事 業 全 体 の 中 で の 地 位 は 低 下 して い た 。 この こ と はf「 実 際 報 告 馨 」 な どの 住 友 内 部 資 料 を 分 析 した 麻 島 昭 ・や 山 本 一雄 の 研 究 に よ っ て,明 ら か で あ る ㈲ 。 〔表1〕 は 麻 島 昭 ・が 住 友 総 本 店 の 「大 正9年 度 総 実 際 報 告 劃 を も とに 作 成 した 同 年 の 住 友 事 業 所 別 純 損 益 表 で あ る。 同 年 に お い て は,銀 行,伸 銅 所,倉 庫 ,若 松 炭 業 所 な どの 高 利 益 が 住 友 の 事 業 全 体 の 高 利 益 を 支 え て

お り,別 」鉱 業所 が赤 字 を示 し て いた こ とが 明 らか とな る。麻 島 は 大正期 の 事業所 別 損 益 につ い て5つ の 特 徴 を 挙 げ て い る が,特 に 印 象 的 な の は,「 住 友 系 事 業の 生 み 出 した利 益 の 大 部 分 は,住 友 銀 行 に よ る も の」

だ った とい う点 で あ る。

〔表2〕 は 同 じ く麻 島 昭 一・が 住 友総 本 店 の昭 和 初 期 各 年度 の

「総 実 際 報 告書 」 を も とに 作 成 した住 友 事 業所 別純 損 益 表 で あ る。 この 表か ら読 み 取 れ る事 業 部 別損 益 の特 徴 につ い て は さ し あ た り次 の{点 が 指摘 で きるだ ろ う。 第 ・に,諸 事 業の 中で は

表 】〕 住 友 の 事 業 所 別 純 損 益(大 正9年) (単位=T・}」D

他14.029

2,222

△3,276

1書f17,269

〔出 典 〕 麻 酷 昭 ・ 『戦 問 期 住 友 財 閥 経 営 史 』461頁,,

部 門 伸 銅 所

4,465)肥 料 製 造 所

住 友 製 鋼 所 住友電線製造所 部 門 製 鋼 販 売 店

△310)i刈P勺 ・タト販 売 帰『

の 他 住 友 銀 行1

6,251)fヤ 鳩{

社 △

̲̲一̲1

1

(4)

126商 経 論 叢 第37巻 第4号

〔表2〕 住 友財 閥の事 業部 門別純 損益(昭 和期)

(単 位1千 円)

事 業 所 名 昭2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

本 社 1,ll2 1,180 3.0$9 X441 f・ 0287 2,034 16,567 2,129 経理部商工課関係 14,5fi1 15,511 13,374 9,310 6,336 18,678 23,230 31,264 35,471

伸 銅 1,386 1,819 1,774 XO3 981 6,437 2,456

不1

9,768 11,650

製 鋼 1,527 1,266 L199 433 071'1 923 2,fi10

電 線 2,463 3,fill Z,226 1,275 △638 1,173 3,134 3,615 5,177

肥 料 513 364 365 174 X69 2fiO 2,467 3,466 4,218

機 械 製 作 一一 1,01t 1,504

ア ル ミ 製 錬 皿㎜ } } 054

満 洲 鋼 管 } } 1玉5

製 造 部 門 計 5,889 z,ila 5,654 2,385 0205 S,793 la,ss7 17,gsa 22,410

製 銅 販 売 店 93 }  一

販 売 店 84 53 56 41 036 1 325 1.2$2 1,170

倉 庫 191 2a2 120 0228 117 288 475 455 430 銀 行 6,946 s,al9 5,fi$G 5,68fi 5,214 7,415 9,184 8,916 $,173 保 険 163 Boa 304 81 Zs9 536 X67 412 421

信 託 X94 1,112 895 716 sae 750 961 1,19fi 1β08

北 港 62 187 232 X80 11fi zoo 246 24 247 L佐 吉 野 川 106 300 282 2i9 148 197 281 568 665 ビ ル デ ィ ン グ 313 322 230 182 357 449 466 547 563

病 院 osa △4 5 4$ 28 44 58 4 84

経理部鉱 山課関係 239 7s7 2,170 △879 02,0a7 01,0$fi 1,169 2,650 2,874 3,710 住 友 九 州 炭 礪 } 308 160

X867 △623 0?93 0431 1,03fi 1,103 827

住 友 坂 炭 磯 60 47 X177

住 友 別 子 鉱 山 179 412 2,187 △12 △1,384 0293 L600 1,614 1,771 Z,883 (参 考)

日 本 電 気 3,887 *2 ,95G ?,476 1,44'1 908 682 1,578 1,903 2,279 2,897

日 米 板 硝 子 X162 166 263 275 257 261 fi57 643 1,443 602

〔出 典 〕 麻 島 昭 一 『戦 間 期 住 友 財 閥 経 営 史 』463頁 。

住 友 銀 行 が 抜 群 の 高 利 益 を 生 み 出 し て い た こ と 。 第 二 に,昭 和8年(1933年) 頃 か ら伸 銅,製 鋼,電 線,肥 料 な どの 製 造 部 門 の 利 益 が 急 増 して い る こ と。 第 三 に,住 友 別 子 鉱 山 は 昭 和4年(1929年)に は 高 収 益 を あ げ な が ら も,翌 年 か ら は 赤 字 を計 上 し,昭 和8年 以 後 に な っ て 同復 す る こ と㈲ 。 こ う し て 別 子 銅 山

(5)

鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(ド)127

の事 業 は,住 友 の 事 業全 体 の中 で の地 位 を低 め,む しろそ の低 収益 に あ え ぎ苦 しむ よ うに な って い た ので あ る。

住 友 別 子鉱 業所 は昭 和2年q927)7月 に住 友 合 資 会 社 か ら分 離独 立 し,住 友 別 子鉱 山株 式 会社 が 成立 して連系 会社 に指 定 され た(7)。住 友の 内 部 資料 に よ

る と・ 同社 設ifの 理 由 と して,次 の 二点 が 指摘 され て い た。 第 一・に,別 子 の 諸 起 業 が 完成 の域 に達 し,こ れ 以上 の 大投 資 を必 要 と しな くな った こ と。 第 二 に 労 働 問 題 の紛 争 が生 じた こ と,で あ る(8)。

住 友 別 子 鉱 山株 式 会 社 発 足 時 の主 管 者(最 高責任者)は 臼 井定 民 常 務 取 締 役 で あ った が,臼 井 は昭 和2年10月1日 に 定 年 退 職 しy鷲 尾 勘 解 治常 務取 締 役 が 主 管者 とな った。 前 述 の よ うに,主 管者 へ の就 任挨拶 の 中 で ,鷲 尾 は 「末期 の 経営 」 を説 い た ので あ るが,鷲 尾 に よっ て打 ち出 された 不 況対 策 は

,山 本 一 雄 に よる と次 の 二つ で あ っ た ㈲。 第 一 に,合 理化 と生 産拡 大。 す な わ ち,鷲 尾 は 労働 者 数 と職 員 数 を削 減 して組 織 を簡 素 化 し㈲ ,さ らに,別 子の 外 か ら も た ら され る銅 鉱石 の利 用 を増 や して電機 銅 生 産 を増 加 させ よ う と した。 昭 和4 年 には住 友 別 子鉱 山 は生 産額 の ピー ク を記録 し,銅 価 上 昇が 重 な って218万 円 の純 益 を計 上 した。 しか し以 後 は,同 年 末 か らの大 不 況 に伴 う銅需 要 の減 退 や 銅 価 の 下 落 で,生 産過 剰 が 表 面化 す る よ うに な った の で あ る。

鷲 尾 の 不 況 対 策 の 第 二 は,「 地 方 後 栄」 す なわ ち新 居 浜 開 発構 想 で あ っ た。

当時3住 友 合 資 の連 系 会社 が新 規 事 業 を始 め よ う とす る場 合 に は,ま ず 計 画 全 体 につ いて 合 資 会 社 の 承 認 を取 り付 け て お く必 要 が あ っ た(111。そ して ,昭 和 4年2月 に は・ 「当時 の(住 友合資)総 理 事 湯 川 寛 吉 は,鷲 尾 の 新 居 浜 築 港 計 画 原 案 に賛成 して これ を決 済 したq2)」。 た だ し}湯 川 が この構 想 の 将 来性 を どの よ うに評 価 して い たの か,と い う点 につ い て は,知 り得 る史 料が 存 在 しな い。

昭和5年9月 に この新 居 浜 築 港 に つ いて 愛媛 県 の 事 業認 可がFり た。 その1カ 月前 に は湯 川 は 総 理 事の 職 を去 り,新 た に小 倉 正恒 が 総 理 事 に就 任 して い た が,小 倉 は鷲 尾 とは 異 な った 将 来 展 望 を持 っ て い た。 山本 一雄 に よれ ば,「 小 倉 正恒 は 元来,天 然 資 源 の 開発 こそ が 国益 に叶 う とい う信 念 を抱 い てお り,…

別 壬の閉 山に伴 う対 策 をあ くまで 別子 に代 わ る鉱 山の 開 発 とい う視 点 で考 え て

(6)

128商 経 論 叢 第37巻 第4号

い た の で,限 ら れ た 資 金 の 投 入 に つ い て,次 第 に 鷲 尾 と の 溝 を 深 め て い っ た(13)」。 しか も,昭 和4年(1929年)の ウ ォ ー ル 街 証 券 取 引 所 の 株 価 大 暴 落 に 続 く世 界 恐 慌 の 波 は 日本 に も押 し寄 せ,折 か ら の 大 不 況 の 中 で,新 居 浜 開 発 計 画 は,少 な く と も短 期 的 に は,財 務 的 に 実 現 不 可 能 な も の と な っ た 。 「〔昭 和5 年 〕 年 末 の 合 資 会 社 理 事 会 で は 別 子 を 皮 切 りに 昭 和6年 度 の 会 計 見 積 書 の 審 議 が 開始 さ れ た がa未 曾 有 の 不 況 の 折 柄,別 子 の 新 居 浜 築 港 計 画 を 始 め す べ て の 新 規 起 業 支 出 が 延 期 され る こ と と な っ たq4り 。

鷲 尾 勘 解 治 が 住 友 か ら追 放 さ れ る こ とに な る 経 緯 に つ い て は,山 本 …雄 が 香 川 修 一q5)の 「談 話 」 に 依 拠 しつ つ,巧 み に 説 明 して い る。 香 川 に よれ ば,

「こ れ で 一・番 憤 慨 した の が 別 子 の 鷲 尾 さ ん な ん で す 。 本 社 は け しか ら ん と 抗 議 を 申 し込 ん で こ られ て,ど う に も行 か な い の で,小 倉 さ ん の 名 案 で,鷲 尾 さ ん を 本 社 の 常 務 理 事へ 昇 進 さ して,新 居 浜 を 離 れ て 大 阪 へ 出 て こ い とい

うわ け で す 」。

しか し 山 本 一一雄 に よ れ ば,新 居 浜 の 地 元 で は 新 居 浜 開 発 へ の 期 待 が 大 き く,新 任 の 田 島 専 務 を排 斥 して 鷲 尾 を 呼 び 戻 そ う と い う運 動 が 起 っ た 。 そ こ で,本 社 で は 鷲 尾 を 長 期 間 外 遊 させ,田 島 も外 遊 さ せ て,竜 野 昌 之 専 務 ・三 村 起 一常 務 の 体 制 で 別rを 経 営 す る こ と に な っ た 。 住 友 別 子 鉱 山 の 内 部 の 鷲 尾 派(鷲 尾 を 新居 浜 に呼 び戻 そ う とした鷲 尾の弟Jた ちで,そ の 多 くは中間管理 職 に就 い て いた)の 問 題 に つ い て は,三 村 が そ れ ぞ れ を新 居 浜 の 外 に 栄 転 させ る こ と に よ っ て,落 ち 着 い た。 そ して,地 元 の 強 い 要 望 に応 え る た め に,新 居 浜 の 築 港 は 規 模 を 縮 小 して 実 施 す る こ と に な り,こ れ は 昭 和8年5月 に 着Ilさ れ た 個 。

鷲 尾 は 昭 和8年10月 に 長 い 外 遊 か ら帰 国 し,即 座 に 辞 職 勧 告 を 小 倉 正 恒 か ら受 け て い る(17)。私 の 印 象 で は,本 社 と して 不 本 意 な新 居 浜 開 発 を せ ざ る を 得 な くな っ た 責 任,ま た,鷲 尾 派 の 運 動 に よ っ て 社 内 に 迷 惑 を か け た 責 任 を鷲 尾 に 取 ら せ る た め に,小 倉 は 鷲 尾 に 詰 腹 を 切 ら せ た の で あ る 。

(7)

鷲 尾 勘 解 治 の経 営 理 念(ト)129

[注]

(1)例 え ば,結 三郎 『「住 友 城 ド町 」 混 沌:別 子銅 山300年 の 宴 の あ と』 ダ イ ヤ モ ン ド社,平 成3年(1991年)。116〜17頁

(2)山 一雄 「住 友 合 資 会 社(中)」 『住 友 資 料 館 報 』 第31AIfy ,'ド 成12年(2000 {弄つ267 ,278頁

(3)畠 山 秀 樹 『住 友 財 閥 成 立 史 の 研 究(普 及 版)』280〜281頁

(4)「 別f銅111は 住 友 肥 料 に 硫 化 鉱 ・硫 酸 を 供 給 し,住 友 肥 料 は脱 硫 鉱 を 製 錬 原 料 と し て 返 却 す る 。 新 居 浜 製 作 所 は,新 居 浜 地 区 の 住 友 諸1:tに 機 械 ・部 品 を 供 給 し,…L佐 占 野 川 水 力 電 気 は,電 力 を 多 消 費 す る 別 ∫銅 山 や 住 友 肥 料 に 電 力 を 供 給 し た 。 … 別r銅 山 と住 友 の 在 阪11場 の 関 係 を 見 る と,電 錬 の 開 始 に よ り電 線 製 造 所 に も 原 料 銅 の 供 給 が ロ∫能 と な り,逆 に 送 電 設 備 や 運 搬 手段 の 供 給 を 別fが け て い る 。 こ れ ら の 相 圧依 存 関 係 は,別 チ銅 山 の 技 師 が し ば しば 住 友 在 阪1:;の 指TI]ー と し て 配 置 転 換 さ れ て い る の で,よ り強 化 さ れ て い っ た と 思 わ れ る 」 畠 山 秀 樹,同L,292頁

(5)麻 島 昭 ・ 『戦 間 期 住 友 財 閥 経 営 史 』 第 二部 第 八 章;山 ・雄 「住 友 合 資 会 社 (中):大 正15〜 昭 和5年 」 『住 友 史 料 館 報 』 第3P},172〜199頁

(6)麻 島,前 掲 書,462〜68頁 を 参 照 せ よ 。

(7)こ の 改 組 に 際 し,別rの 電 気 事 業 設 備 の ・切 がL佐}:[ ‑1野 川 水 力 電 気 株 式 会 社 に 譲 渡 さ れ た,

(8)山 雄,前 掲 論 文,262〜 ・63頁。

(9)lll本 雄,前 掲 論 文,266〜67頁

(10)鷲 尾 勘 解 治 「ri井 常 務 御 送 別 に 際 す る 所 感(2)」 『改 善 』 第3巻2号 ,4〜10 頁 。 同,「 会 社 の 現 状 と 之 に 対 す る 私 の 経 営 方 針(2)」 『改 善 』 第3巻7≒},4〜

14頁(/同,「 改 善 会 並 に 会 社 の 近 況(2)」 『改 善 』 第4巻2号,4〜1⑪ 頁 。 な お ,

「昭 和3年1月 … か ら400人 をh回 る 人 員(労 働 者)が(希 鰻)退 職 し た 。 次 い で8月 に は 職 員 を 対 象 に 約70人 の 人 員 整 理 が 行 わ れ た 」(『住 友 別 ゴ鉱lll史 』 ド 巻,153頁)C,

(ll)山 雄,前 掲 論 文,122頁 (12)『 鷲 尾 勘 解 治 翁 』99〜100頁

q3)山 雄,前 掲 論 文,267頁 。 事 実,小 倉 の 一ドで 昭 和 初 期 に 買 山 が 積 極 的 に 行 わ れ た が,見 る べ き 成 果 は 無 か っ た(lll本 雄,前 掲 論 文,278,281〜282頁 ,

「住 友 別t一鉱 山 史 』,ド 巻,182〜83頁)。

(14)山 雄,前 掲 論 文,278頁

(15)香 川 修 は,昭 和6年4月 か ら総 務 課 長 ・経 理 部 次 長 と し て 別rに 赴 任 し た 。 (16)山 雄,前 掲 論 文,278〜79頁 。 な お,田 島 排 斥 運 動 の 存 在 に つ い て は,亀

(8)

130一 商 経 論 叢 第37巻 第4号

井 清 太 郎 『住 友 塗 活 充 卜年 回 顧 』21頁 で も 明 記 さ れ て い る 。 ま た,鷲 尾 追 放 後,新 居 浜 築 港 が 規 模 縮 小 の 一Lで実 施 さ れ た こ と に つ い て は,『 白 石 誉 次 郎 伝 』 の 中 で,次 の よ う に 述 べ ら れ て い る 、、 「住 友 も 事 業 の 緊 縮 策 を 取 ら ざ る を 得 な く

な り,昭 和6年2月,防 波 堤 を 原 案 よ り 少 し 西 に 移 し て 港 内 を 狭 く す る こ と に し,町 の 同 意 を 求 め に き た,(白jD誉=郎(町 長)は こ の 縮 小 は 地 方 の 浮 沈 に 関 す る 屯 大 事 項 で あ る と 考 え,… ぜ ひ 原 案 ど お り に 実 施 し て 欲 し い と 会 社 側 に 再 考 を 求 め た 。(ま た)地 方 の 有 志 … が 昭 和7年2月 東 新 振 興 同 志 会 を 組 織 し,同

年4月 ヒ阪 し て 住 友 幹 部 に 面 接,懇 請 した 。 … そ し て 事 実 ヒの 完 成 者 と さ れ る{

村 起 一・氏 の 努 力 に よ り,つ い に 昭 和8年5月,最 初 の 計 画 ど お り 着llの 運 び と な っ た 」(140〜41頁)

(17)『 鷲 尾 勘 解 治 翁 』 の 著 者 は,同118頁 で,鷲 尾 に 辞 職 勧 告 を した の が 「翁 の 信 じ て や ま な い 大 先 輩 の 某 氏 」 と 表 現 し て 実 名 を 挙 げ る こ と を控 え て い る が 一 ア場 ヒ 鷲 尾 に 辞 職 勧 告 で き る 人 は 小 倉11{恒 以 外 に は い な か っ た で あ ろ うO

6… 皿)新 居 浜 開 発 構 想 の 思 想 的 背 景:鷲 尾 勘 解 治 と小 倉 正 恒

次 に 問 題 に な る の は,鷲 尾 が 何 故 新 居 浜 の 開 発 に こ だ わ っ た の か,と い う点 で あ る 。 鷲 尾 が 住 友 を退 職 し,{村 起 一が 住 友 別 壬鉱illの1着 者 に な っ た あ と,新 居 浜 の 築 港 は 進 め られ,軍 需 の 後 押 し も あ っ て 新 居 浜 は1:業 都 市 と して 発 展 を遂 げ るilk)。 しか し 「地 方 後 栄 」 論 を 唱 え た 時 点 で 鷲 尾 勘 解 治 が,新 居 浜 開 発 につ い て 長 期 的 合 理 的 な 利 益 の 展 望 や,マ ー ケ ッ トに つ い て の 具体 的 な 将 来構 想 を持 っ て い た か 否 か,は 不 明 で あ る 。 こ の 点 に つ い て 明 らか に で きる 材 料 は,鷲 尾 が 語 っ た 言 葉 や,書 き 記 した 文 章 の 中 に は,何 ・つ 発 見 で き な い 。 した が っ て,彼 の 将 来構 想 は か な り漠 然 と し た もの で あ っ た,と 推 察 せ ざ る を 得 な い 。 機 械1二業 の 育 成 が 国 益 に 叶 う,と い う信 念 を鷲 尾 が 抱 い て い た こ と は 確 か で あ る が(ly?,他 方 で 鷲 尾 は,機 械 製 作 所 を 「銅 山 終 末 の 際 こ れ に 代 わ る べ きL場 と して 仕 上 げ る と 言 う こ と は 非 常 に 困 難 」 と し,「 営 業 に お い て は … 全 く 行 き 詰 ま る の で あ り …,現 在 の 半 分 く ら い コ ス ト を 引 き ドげ ね ば 製 作 所 の 進 行 は 困 難 」 と 告 白 して い る ⑳ 。

彼 が 無 理 を 承 知 で 「地 方 後 栄 」 策 を展 開 した り の 理 由 と して は 国 益 志 向 が あ る だ ろ う が,む し ろ 決 定 的 な の は,地 元 新 居 浜 に 対 す る 鷲 尾 勘 解 治 の 「報

(9)

鷲 尾 勘解 治 の経 営 理 念(})ユ31

恩 」 の 義 務 感 で あ っ た,と 思 わ れ る 。 例 え ば 飯 田 弥 五郎 は 次 の よ う に 証 言 して い る 。 「鷲 尾 さ ん は い つ も こ ん な こ と を 申 して お られ ま した

。 『大 体,住 友 家 は 別 子銅 山 と い う もの が あ っ た お 陰 で 今 日の よ う に 大 を な した もの で

,こ の 銅 山 か ら 大 き な恩 恵 を 受 け て い る 。 だ か ら何 とか の 形 で こ の 地 方 に恩 を返 さ な け れ ば な ら な い の だ 。 人 は 報 恩 と い う こ と を 忘 れ て は な ら な い

Ca』とfそ れ を 幾 度 で も繰 り返 され るの で あ り ま した(2n」。

鷲 尾 は しか も,自 分 の こ の 考 え が 住 友 歴 代 の 家 長 や 歴 代 の 総 理 事 の 精 神 と 一 致 す る,と 考 え て い た 。 鷲 尾 は 戦 後 に お い て 次 の よ う に 回 想 し て い る

。 「別 子 銅 山 経 営 の た め に 二 百数t年 の 久 し き に 亘 っ て こ の 地 方 に 多 くの 人 々 が 集 ま り,子 々孫 々住 友 の 事 業 に 働 き,こ の 地 を 故 郷 と して 今 も な お,住 友 事 業 の 不 変 を信 じて 働 い て い る 人 た ち が}一 朝 住 友 が 別 子銅 山 の 鉱 脈 尽 き し故 を 以 っ て,後 栄 の 事 業 も起 こ さ ず に 新 居 浜 を 引揚 げ る と した ら ど ん な こ と に な る か

。 小 企 業 家 で あ れ ば い ざ 知 らず 。 住 友 の よ う な 大 事 業 家 が 社 会 に対 し,地 方 に 対 し,人 間 の 道 が 通 る もの で あ ろ うか 。 我 々が 常 に 考 え て い る住 友 精 神 と言 う も の は そ ん な もの で は な い 。 住 友 は 住 友 と して で き る 限 りの 手 段 を 尽 く して

,地 方 後 栄 の 途 を 講 ず べ き で あ る,と 私 は 考 え た の で あ り ます 。 ま た,住 友 歴 代 の 家 長 も,歴 代 の 総 理 事 も,必 ず この 精 神 で あ る こ とを 信 じて 疑 わ な か っ た の で あ ります 。 そ こ で 本 社 に 稟 請 して 地 方 後 栄 策 の 方 途 を推 進 す る こ と を決 心 した の で あ り ま した 〔脚 」。

鷲 尾 の 地 方 後 栄 策 は,し た が っ て,合 理 的 な 利 益 追 求 で は な く,む しろ 地 方 の 人 々 に 対 す る 倫 理 的 ・宗 教 的 義 務 感 か ら生 ま れ た もの

,と 見 る べ き で あ ろ う。 そ して そ の 基 礎 に は}鷲 尾 の 禅 宗 的 な 「布 施 の 心 」 が あ っ た

,と 思 わ れ る 。 鷲 尾 は,す で に指 摘 した よ う に,き わ め て ワ ンマ ンで,し か も実 行 力 の あ る 経 営 者 で あ っ た(23)。 さ ら に ,鷲 尾 の 思 想 と行 動 に 心 酔 し た 群 の 人 々 が

「鷲 尾 カ ル ト」 と も呼 ぶ べ き集 団 を 形 成 して い た 。 「作 務 の 美 風 は … 改 善 会 に 充 満 せ る の み な らず,漸 次 地 方 に ま で 及 ⑳ 」 ん で ,新 居 浜 開 発 が 「鷲 尾 カ ル

ト」 の 作 務 に よ っ て 進 め られ つ つ あ っ た の で あ る。

鷲 尾 勘 解 治 の こ の 新 居 浜 開 発 路 線 に ス ト ップ をか け た の が ,総 理 事 小 倉 正 恒

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132商 経 論 叢 第37巻 第4号

で あ った が,新 居 浜 開発 に関す る両 者の考 え方 の相 違 の背 後 には,両 者 の 人間 類型 の相 違 が あ る よ うに思 われ る。 こ こで まず,小 倉 正恒 とい う人物 象 を鷲尾 の そ れ との比 較 の上 で,明 らか に して お こ う。 〔表3〕 は小 倉 正 恒 の 略 歴 を記

し た も の で あ る(25?。

明 治8年(1875年)

明 治13年(5才) 明 治25年(17才)

ゆ」〜台27イ 丼(19才 凸) 明 治30年(22才)

明 治31年(23才 つ 明 治32年(24才)

ゆ1才台33イi三(25オ つ 明 治36年(28才) 明 治37年(29才 つ }現治38年(30才) 明 治38年(31才)

'ム  

41舟 こ(34才 2{ト(39才 5r「 ・(42̲才 7{f三(44才 10'毎 こ(47才 召 禾肩5{書 三(56!才 H召不08匂1三(59才 日召不1」12年(63才 H召禾U151#(66オ 日召 不IIl6壬1{(67才 邑)

召 オ…[117イ ド(68才 11ζ{利119{書三(70才 H召ill21年(72.才 凸) 日̀{禾1127蘇 三(78才‑)

召 不【130{ト(81才̀) H召禾II36{r(87才

〔表3〕 小 倉正恒 の略歴

3月,旧 加賀 藩L小 倉 正路 の 長男 と して金 沢 市大衆免 中通 互1ゴf 番地 に生 まれ る

金沢 養成小学 校 に入学

第 四 高等 中学校 本科 生 となる 東京帝 国 大学 法科 大学 英法 科 に入学 内務 省 に人る、,文官 高 等試験 に合格

lllロ県参 事官

住 友 に入社 。 倉庫 本店,銀 行 本店

商務研究 の ため,ロ ン ドンに派 遣(明 治35年 末 まで) 本店副 支配 人心 得

無 刀流 剣道 と参禅 を開始。 神戸 支店 支配 人心 得 河村 善益 の長 女信 と結婚

神 戸 支店支配 人 本店 副 支配 人 総 本 店 支配 人

財 団法 人懐 徳堂 記念会理 事 理 事とな り,総 本店 支配 人を兼務

合資会社常 務理 事、7経理 部長 を兼務 総 理 事。 合資 会社代 表社 員 となる

貴族 院議 員に任ぜ らる

株式 会社住 友本社 代 表取締 役 。総理 事 となる 大政 翼 賛会 大阪府 支部顧 問

住 友本 社退社,、第 二次近衛 内閣 国務大 臣 第 三次 近衛 内閣 大蔵 大臣。 辞任

修 養団関 西総 局 長。

南京国民政 府全 国経済 委 員会最高顧 問 中 国 か ら帰 国,,公 職 追 放

社 団法 人石 門心 学 会会長。 財団法 人修養 団後援 会会 長 沫 若文庫 建 設委 員長

一}[i祥 与の 自宅(好 占庵)に て死 去

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鷲尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(ド)133

小 倉 正恒 は 肪 実の 家 系 の 出 身 で あ る が,こ れ は鈴 木 馬 左 也 f湯 川 寛 吉,一 三村 起 一ら と 共 通 す る 点 で あ る(26)。 ち な み に,既 述 の と お り,鷲 尾 は,農 民 兼 神 官 の 家 系 の 出 身 で あ っ た 。 小 倉 の 経 歴 に お い て 明 らか な の は,そ の 輝 か しい 学 歴 と輝 か しい 職 歴 で あ る 。 小 倉 は 金 沢 養 成 小 学 校 か ら東 京 帝 国 大学 まで,常 に

トッ プ ク ラ ス の 成 績 で 卒 業 した 。 そ れ は 一つ に は 素 質 の 問 題 で もあ ろ うが }ま た,弛 み な い 努 力 と 克 己 の 成 果 で も あ っ た 。 小 倉 は 学 歴 社 会 に お け る 典 型 的 な エ リ ー トだ っ た(27)。 小 倉 は 明 治30年 の7月 に 東 京 帝 国 大 学 法 科 を 卒 業 して 内 務 省 に 入 り,翌 年12月 に は 山lI県 参 事 官 に任 ぜ られ た が ,明 治32年 の5月 に は これ を退 い て 住 友 に 入 社 した 。 こ れ は 鈴 木 馬 左 也の 勧 誘 に応 じた もの で あ っ た が128),小 倉 は 帝 国 大 学 在 学 中 に 入 会 した 「卜四 会 」 を通 して 鈴 木 馬 左 也 の 知 己 を 得 て い た の で あ る(?9)。住 友 に 入 っ た の ち a小 倉 は,略 歴 に 明 ら か な よ う に,別 子銅 山 勤 務 を経 験 す る こ と な く,本 社 勤 務 中 心 に とん と ん拍rに 出 世 し て い っ た 。 と りわ け 小 倉 が 鴻 之 舞 金 山(北 海道)の 買 収 と 開 発 に 成 功 した こ とが,小 倉 に 対 す る 高 い 評 価 を 不 動 の もの と した(:3Q)。こ れ に 対 し て,鷲 尾 は 小 倉 ほ どの 超 エ リ ー トで は な く(31),す で に 見 た よ う に ,住 友 内 で の 鷲 尾 の 経 歴 は 「別f銅 山 ・新 居 浜 ・筋 」 で あ っ た 。

小 倉 正恒 は 幅 広 い 教 養 を持 ち,と りわ け 漢 詩 と漢 籍 に 親 しん だ 。 こ れ は 中 国 や 日 本 の 文 化 人 た ち と の 交 流,懐 徳 堂 記 念 会 で の 活 動 ,沫 若 文 庫(の ち,ア ジ ア 文化 図 瀬 印 建 設 事 業 に 発 展 した 。 ま た,臼'四 会 」 の 人脈 を 通 して,報 徳 会 運 動,石 門 心 学,さ ら に は 修 養 団 運 動 に 深 く関 係 し た(3'Z)。小 倉 は 太'F洋 戦 争 直 前 の 近 衛 内 閣 に 一二度 人 閣 し,昭 和19年 に は 南 京 国 民 政 府 全 国 経 済 委 員 会 最 高顧 問 に な っ て い る の だ か ら,そ の 交 際 範 囲 は 政 界 に ま で 及 び ,海 外 に まで 及 ん だ 。 こ れ に 対 して,鷲 尾 の 交 際 範 囲 は 別 子 ・新 居 浜 と住 友 を 除 い て は

,「 学 生 時 代 ま で に 形 成 され た 人 間 関 係 を 大 き く逸 脱 す る こ とが な か っ た 儒)」。

小 倉 は 幼 少 の 頃 か ら 胃腸 が 弱 く,食 事 を節 制 した 。 い わ ゆ る 「冷 え性 」 体 質 で,外 出 に は 騙 蟷 傘 を 欠 か さ な か っ た 。 この よ う な 虚 弱 体 質 を,小 倉 は 剣 道 や 参 禅 に よ っ て 克服 し よ う と し た。 剣 道 と参 禅 は 住 友 入 社 後,特 に 明 治37年 ご ろ か ら本 格 的 に な っ た 。 彼 は 意 志 の 強 い 修 行 者 で あ り,前 述 の よ う に,禅 宗 の

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134商 経 論 叢 第37巻 第4号

み な らず 中 央 報 徳 会,東 亜 報 徳 会,石 門 心 学,修 養 団 運 動 な どの 道 徳 ・精 神 運 動 に 深 く関 わ っ て い っ た 。 そ して,そ れ らの 中 で も小 倉 が 最 も重 視 して い た の.

は 修 養 団 運 動 で あ っ た(34)。修 養 団 は 明 治39年(1906年)に 東 京 府 師 範 学 校 の 学 生,蓮 沼 門 三 に よ っ て 設 立 され た 宗 教 団 体 で あ る 。 最 初 は 学 生 の 同好 会 的 な 運 動 と して ス ター トし た が,財 界 ・官 界 ・政 界 か ら 支持 され て 発 展 し,最 盛 期 の 昭 和16年 頃 に は 団 員 数 は60万 人 を 超 え,講 習 会 の 延 べ 参 加 者 は600万 人 を 数 え た(35)。 大 正12年(1923年 〉 に は 平 沼 駅 一 郎(の ち昭 和11年 枢 密 院 議i長・昭 和14年 内 閣総 理 大 臣)が 第 一二代 の 団 長 に 就 任 し た が,小 倉 正 恒 は 昭 和5年 に は 修 養 団 顧 問 に 就 任 し て 「名 実 と も に 住 友 と修 養 団 の 中 核 的 存 在(36)」 と な っ

た 。

この よ う に,小 倉 の 宗 教 と の か か わ りは,当 初 は 自 己 の 精 神 修 養 の た め に 始 め られ た の で あ り,の ち に 彼 は 「官 製 国 民 運 動 」 の 片 棒 を担 ぐ こ と に な る。 こ れ に 対 して,記 述 の 通 り,鷲 尾 も当 初 は 自 己 の 精 神 修 養 の た め に 禅 寺 で の 小 僧 修 行 を 始 め た の だ が,修 行 を通 して 布 施=奉 仕 の 精 神 を 身 に 付 け,大 衆 の 救 済

を 強 く意 識 す る よ うに な っ て い た の で あ る 。

以 ヒ述 べ て き た 鷲 尾 と小 倉 の 人 間 類 型 の 相 違 を 分 りや す く纏 め る とi〔 表 4〕 の よ う に な る で あ ろ う。 単 純 化 に 伴 う誤 解 を 恐 れ ず に あ え て 言 う な ら,鷲

尾 は 地 元新 居 浜 に対 す る 報 恩 の た め に新 居 浜 の 開 発 を 企 画 した の で あ っ た が, 国 事 意 識 を もっ て 住 友 の 経 営 をす す め て い た 小 倉 に と っ て は,そ れ は お よ そ ナ

ンセ ン ス な こ とだ っ た の で あ る 。

出身階層

経 歴

交際範囲 地域意識 宗教意識

表4〕

小 倉 旧 士 族 出 身

本 店 の ト ッ プ マ ネ ジ ャ ー 全 国 的

国 事 意 識(ナ シ ョナ リ ズ ム) 自 己 の 精 神 の 鍛 錬

小 倉 と鷲 尾 との人間類 型の違 い 鷲 尾 農 民 出 身

別f一 新 居 浜 一 地 域 的

ロ ー カ リ ズ ム 大 衆 の 救 済

とこ ろで 更 に注 目す べ き点 は,小 倉 正 恒 と鷲 尾 勘 解 治 の 思 想 と行 動 の 相 違

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鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(ド)135

が ・'崎時 の 軍 国 主義 と全 体 主義 に対 す る態 度 に 反 映 さ れ て い る,と い う点 で あ る 。 年 表 を 見 れ ば 明 らか な とお り,小 倉 正 恒 が 軍 国 主義 と全 体 セ義 に 迎 合 して い っ た こ と は 明 らか で あ る 。 昭 和15年10月 に近 衛 文 麿 を 中 心 と して 大 政 翼 賛 会 が 結 成 さ れ る と,小 倉 は12月 に は 大 阪 府 支 部 顧 問 に就 任 した 。 大 政 翼 賛 会 は 「国 防 国 家 体 制 」 の 中 心 組 織 で あ り}内 務 官 僚 と警 察 のi{導 の ドで 「L意 ド 達 」 の 行 政 補 助 機 関 と な っ た 。 大 政 翼 賛 会 は 昭 和17年 に は 大 日 本 産 業 報 国 会

な ど の 官 製 国 民 運 動 団 体 を傘 下 に統 合 し,さ らに 部 落 会,町 内 会,隣 組 を ド部 組 織 に 編 入 して,Fri.制 フ ァ シ ズ ム 体 制 を確 立 し た(37)。

小 倉 は ま た,近 衛 文 麿 に 乞 わ れ て 昭 和16年4月2日 に 住 友 本 社 を 退 社 し, 第 二次 近 衛 内 閣 の 国 務 大 臣 に な っ た(38)。 第 二次 近 衛 内 閣 は 同 年7月18日 に 総 辞 職 し た が,即 日第{次 近 衛 内 閣 が 成 立 し,小 倉 は 今 度 は 大 蔵 大 臣 に 就 任 し た 。 しか し,第 三次 近 衛 内 閣 は 陸 軍 の 要 求 に よ っ て 退 陣 さ せ られ

,同 年10月 18日 に 東 条 英 機 内 閣 が 成 立 した 。 そ の 前 日 に 東 条 英 機 は 小 倉 に 電 話 を か け , ね ん ご ろ に 留 任 を 求 め た が,小 倉 は 明 快 に 謝 絶 した{1期,だ が,小 倉 の 一ドで 住 友 合 資 の 常 務 理 事 を 務 め た 川 田 順 に よ れ ば 「そ れ は 立 派 で あ っ た が ,い つ の 間 に や ら 東 条 内 閣 の 親 任s待 遇 と な り 『戦 時 金 融 公 庫 総 裁 』 『大 東 亜 省 顧 問 』 『東 亜 経 済 懇 談 会 長 』 な ど に 祭 り上 げ られ,南 京 国 民 政 府(注 兆 銘 が 樹 の の 最 高 顧 問 に も な り,戦 時 財 政 の 最 高 指 導 者 に さ れ て し ま っ た 。 こ う な っ た 原 因 は 一㍉ 一三あ る と 考 え る

。 『否 』 と 言 い 得 ぬ 天 性,抑 え きれ ぬ 憂 国 の 情,そ れ か ら 日 華協 和 の 理 想 主義,ま ず そ ん な と こ ろ で あ っ た ろ う 剛 」。 川 田 は 差 し障 りの な いr一い 方 を して い る が,結 局 の と こ ろ,小 倉 の 心 情 は フ ァ シ ス トに 極 め て 近 い もの だ っ た の で あ る 。

こ れ に 対 して 鷲 尾 勘 解 治 は,昭 和 初 期 の 時 代 に次 第 に 反 軍 国 主義 と リベ ラ リ ズ ム の 立 場 を 明 らか に して い っ た 。 軍 国 主 義 批 判 の 例 は,「 端1王陽 育 年 訓 練 所 新 田 支 所 開 所 式 に お け る 訓 示 」 の 中 に 見 ら れ る。 「育年 訓 練 所 」 は 軍 部 の 強 い 要 請 に よ り,大 正15年7月 以 後 全 国 に 設 置 され た も の で あ っ た が ,鷲 尾 は 翌 年 の 昭 和2年3月 に 別 子端 出 場 の 青 年 訓 練 所 を 新 田 自彊 奢 に 編 入 し て し ま っ た 。 そ の 理 由 は,青 年 訓 練 所 が そ の 本 来 の 趣 旨 か ら外 れ た 訓 練 を して い る,と

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136商 経 論 叢 第37巻 第4号

い う こ と に あ っ た 。 鷲 尾 に よ れ ば,青 年 訓 練 所 の 理 想 は 「青 年 ノ心 身 ヲ鍛 練 シ テ 国 民 タ ル ノ 資 質 ヲ向 上 セ シ ム ル コ ト」 に あ る の だ が,実 際 に は 「教 練 に の み 重 き を お く傾 向 が あ っ て,恰 も軍 隊 に 人 る 前 の 軍 隊 な る か の 感 が あ る・ …(し か し)青 年 訓 練 所 は 軍 隊 へ の 予 備 で は な い 」。 そ こ で 鷲 尾 は,こ れ を 精 神 修 養

と学 問 の 習 得 に 力 点 を お く 自彊 舎 に 編 入 して し ま っ た の で あ る(州 。 鷲 尾 勘 解 治 の 全 体 主 義 批 判=リ ベ ラ リ ズ ム のi三張 の 例 は,昭 和4年3月10 日 に帝 国 在 郷 軍 人 会 住 友 新 居 浜,肥 料 工 場 分 会 総 会 で の 講 演 「所 謂 思 想 善 導 に 就 て 」 の 中 に 現 れ て い る 。 鷲 尾 は 別 子労 働 運 動 の 高 揚 期 の 大 正14年 に は,労 務 管 理 者 と し て 「思 想 善導 」 を推 奨 して い た。 例 え ば 鷲 尾 は 「そ もそ も資 本 家 が 社 会 よ り多 数 の 労 働 者 を 預 か り,こ れ を使 役 して 事 業 を経 営 す る以1ヒ,そ の 使 役 す る労 働 者 を 訓 育 善 導 し,蹉 派 な る 人格 を作 りrげ,以 っ て 善 良 な る 国 民 と な す べ き こ と は,資 本 家 の 神 聖 な る義 務 で あ る 〔42)」と言 い,「 予 自身 の 斯 く の ご と き(労 働 運 動 に対 す る 態 度 と して は,… 善 導 主義 の 一語 に 尽 き る(4;i)

と述 べ て い る 。 と こ ろ が 鷲 尾 は,「 近 年 大 流 行 」 の 「い わ ゆ る思 想 善 導 」 を, 帝 国 軍 人 会 と い う官 製 国 民 運 動 団 体 に 対 す る 講 演 の 中 で,大 胆 に も真 っ 向 か ら 批 判 して 見せ た の で あ る 。

まず 鷲 尾 は,今 日 「思 想 善 導 」 を 口 に す る 人 々 の 態 度 が 不 遜 で あ る,と い う。 彼 等 は 鷲 尾 に よれ ば,・ 部 の 頑 固 な 政 治 家 が,勝 手 に あ る も の を 国 家 意 思 な り と して,こ れ に合 致 し な い もの を撲 滅 し よ う と して い る 。 こ れ は ・ 鷲 尾 に よ れ ば,現 在 ロ シ ア で 共 産 主義 者 が や っ て い る こ と と1司 じで あ る 。 鷲 尾 は 言 う。 「個 人 に は 思 想 す な わ ち 信 念 が 存 し,こ れ は い か な る権 威 を持 っ て す る も 滅 却 しが た い も の で あ り ます 。 た と え悪 思 想 を 有 す る との 故 を も っ て,そ の 人 を 国 家 権 威 に よ っ て 抑 圧 す る と も,そ の 思 想 は抑 圧 も滅 却 も 出 来 る も の で は あ り ませ ん 卿 」。 鷲 尾 に よれ ば,「 高 等 尊 門 学 校 に 監 督 を 置 く とか,漢 文 の 講 義 を 通 じ て 儒 教 の 精 神 を 鼓 吹 す る と か,… 講 習 を 催 す と か,軍 隊 的 訓 練 を 施 す と かq5)」 し て 思 想 善 導 を説 き ま わ る よ り も,人 々 の 「心 の 頽 廃 」 を 立 て 直 す こ

との 方 が 重 要 で あ る 。

実 際,昭 和3年(1928年)8月 に 文 部 省 は 第1回 思 想 問 題 講 習 会 を 実 施 し,

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鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(ド) 137

高 等 諸学 校 の 教 職 員 に 出 席 を 義 務 づ け た 。 同9月11日 に は,思 想 善 導 施 設 費 約15万6千 円 余 を 文 部 省 の 責 任 支 出 とす る こ とが 閣 議 決 定 され た 。 ま た 同10 月30日 に は,勅 令 に よ り 文 部 省 は 思 想 問 題 に 対 す る た め に 学 生 課 を新 設 し, 官 立学 校,高 等 専 門 学 校 に 学 生(生 徒)主 事 を お い た1軌7こ の よ う な 背 景 を 考 え る な らば,鷲 尾 の 批 判 が 政 府 と文 部 官 僚 に 向 け られ て い る こ と は ,明 らか で あ る 。 鷲 尾 は,政 府 ・官 僚 が 国 民 の 思 想 統 制 を 企 て て い る そ の 姿 勢 を批 判 した の で あ り,鷲 尾 の 姿 勢 は そ の 意 味 で ,全 体.}三義 批 判 で あ っ た とい え る(姻 。

以Lの よ う に,新 居 浜 開 発 を 推 し進 め よ う と した 鷲 尾 勘 解 治 と,そ れ を 阻 止 し よ う と し た小 創E恒 と の あ い だ に は,人 間 類 型 の 相 違 の み な らず ,政 治 的 姿 勢 の 相 違 も存 在 して い た の で あ る。

[注]

(18>1937年(昭 和12{1三)に は,新 居 浜 町,金f村 お よ び 高 津 村 が 合 併 し て ,人ll3 /Jfi干 人 の 新 居 浜 市 が 誕 生 し た 。 初 代 市 長 に は 新 居 浜 町 長 白 石 誉 凛llが 選 ば れ た,.(『 白 石 昏 郎 翁 伝 」181頁 以 ド。)

(19)鷲 尾 勘 解 治 「1二場 の 整 理 に つ い て 」 『改JJ第5巻4壕 ,13〜14頁 、, (20)鷲 尾 勘 解 治 「改ii.c‑a及 会 社 の 近 況 に 就 て 」 『改 善 』 第5巻9tFTj ,21〜24頁

な お,杉 野 富 次 朗 に よ れ ば 鷲 尾 は,新 層 浜 製 作 所 の 拡 張 計 画 に 関 し て ,鋳 物L場 の 建 設 費 を.精 銅 を 担 保 に 銀 行 か ら 借 り 人 れ て ま か な っ た(『 黙 翁 』121〜122 則1、

(21)飯 田 弥 ゐ1郎 「住 友 機 械 と 鷲 尾 さ ん 」 『鷲 尾 勘 解 治 翁 』154頁 、 住 友 の 経 営 者 と し て 地 元 に 恩 返 し を し な け れ ば な ら な いTと い う 鷲 尾 の 意 識 は ,地 元 学 卒 者採 用 に つ い て の 次 の よ う な エ ピ ソ ー ドに も現 れ て い るO… 「不 況 の ど ん 底 で あ っ た 関 係 で 丁 学 卒 者 の 採 用 は 全 く無 く,当 地 方 で は 中 卒,専 門 学 校xt'1',大学 卒 な ど 相 当 の 浪 人 が お り ま し た 。 … 鷲 尾 常 務 は こ の 点 非 常 に 持 慮 せ ら れ,昭 和3年 度(1928) 以 降 に お い て,相 当 数 の 学3を 別r鉱 業 会 社 に て 労 働 者 と して 採 用 さ れ た の で あ り ます 。 こ れ は … 鷲 尾 常 務 の 大 英 断 で あ っ て,合 資 会 社 に 相 談 無 く(む し ろ 反 対 意 見 が 強 か っ た 由 〉 採 用 を 実 施 し た 由 で あ り ます 。 如 何 に 地 方 の こ と に 意 を 用 い て お ら れ た か は,こ ・事 を 以 っ て し て も 判 断 が つ き ま す 」(亀 井 清 太 郎 『住 友 生 活 ノll卜年 回 顧 』1971年,20頁 。)

(22>鷲 尾 勘 解 治 「私 の 考 え た 新 居 浜 の 将 来 」 『鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』266〜67頁 (23)拙 稿 「鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(中)」 『商 経 論 叢 』 第37巻3号,61頁

(16)

138商 経 論 叢i第37巻 第4写

(24>鷲 尾 勘 解 治 「改 善 会 及 会 社 の 近 状 に 就 て 」 『改 善 』5巻9号,11頁 (25)小 倉 止 恒 伝 記 編 纂 会 編 纂 ・発 行 『小 倉 正 恒 』 昭 和40年(1965年),972〜92

頁 。

(26)鈴 木 馬 左 也 翁 伝 記 編 纂 会 『鈴 木 馬 左 也 』 昭 和36年,3〜9頁;瀬 岡 誠 「近 代 住 友 の 経 営 理 念 』143頁;{村 ・ 「私 の 履 歴,彗」 『私 の 履 歴 書:経 済 人6』 日 本 経 済 新 聞 社,昭 和55年(1980年)251〜55頁

(27)『 小 倉 正 恒 』34〜79頁 、, (28)1司 ヒ,81〜91∫f、,

(29)1司1=,65〜70玉 耳、,

(30)同 ヒ,196〜206,219〜23頁 。 『住 友 別 ヂ鉱lh史 』r巻,140〜45頁

(31)後 藤 文 夫 は 第 五高 等 学 校 時 代 の 鷲 尾 を 「独 り特 異 の 風 格 を 以 っ て 仲 間 の 注 目 を 引 い た 」 と しつ つ,「 教 場 で の 出 来 は 秀 才 と い う ほ ど で も な い が,さ り と て 決 し て 不 出 来 で も な い 」 と 記 し て い る(『 鷲 尾 勘 解 治 翁 』11頁)U

(32)こ の 点 に つ い て は,瀬 岡 誠 『近 代 住 友 の 経 営 理 念:企 業 者 史 的 ア プ ロ ー チ 』 1998年,が 詳 し い 、,

(33)瀬 岡 誠 「鷲 尾 勘 解 治 と 自 彊 舎 精 神 」 『京 都 学 園 大 学 創コ1̲.10周 年 記 念 論 集 』1979 年,148頁

(34)瀬 岡 誠 『近 代 住 友 の 経 営 理 念 』161頁

(35)井h順 孝 他 編 『新 宗 教 辞 典 』 弘 文 堂,1990年,809頁 (36)瀬 岡 誠 『近 代 住 友 の 経 営 理 念 』165貞

(37)京 大 日 本 史 辞 典 編 纂 会 編 『新fl本 史 辞 典 』608頁(木 坂 順 一・郎 稿)。 昭 和15 年 の 元 日 の 住 友 ビ ル で の 祝 賀 式 の 中 で,小 倉 正 恒 は 次 の よ う に 述 べ た 。 「私 ど も は た ま た ま こ の 聖 代 に 際 会 し て 東 亜 新 秩 序 建 設 の 大 業 完 遂 に 適 進 し,も っ て 八 紘

宇 の 肇 国 の 精 神 を 恢 弘 す べ き 天 業 を 翼 賛 し奉 る を 得 る こ と の 光 栄 を 思 い ま し て,1わ が 皇 国 に 生 を 受 け た る こ と の 喜 び を 新 た に す る 次 第 で あ り ます 。 … 今 や 内 外 の 情 勢 い よ い よ 重 大 で あ り ま し て 国 民 全 般 層 奮 起 努 力 を 要 す る の 時 で あ り ます る が,私 ど も 住 友 の 従 業 員 一・同 は,時 局 ド,産 業 人 の 重 大 な る 使 命 を 自 覚 し,協 力 毅 力 も っ て 住 友 の 伝 統 精 神 た る 産 業 報 国 の 誠 を 尽 し,上,皇 恩 の 万 ・に 応 え 奉 り,降 っ て は 住 友 家 事 業 の ま す ま す 隆 盛 な ら ん こ と を 帰 し た い と 存 じ ま す 」(『小 倉 正 恒 』354〜55頁)。

(38)そ の 事 情 に つ い て は,『 小 倉 正 恒 』381〜94頁 (39)1司 ヒ,402〜05頁

(40)川Ill順 「寛 容 の 人 ・小 倉iE恒 」 『小 倉 正 恒 』915頁

(41)鷲 尾 勘 解 治 「端 出 場 青 年 訓 練 所 新 田 支 所 開 所 式 に お け る 訓 示 」 『改 善 』2巻6 号,2〜10頁

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鷲 尾 勘 解 治 の 経営 理 念(ド)139

(42)鷲 尾 勘 解 治 「我 が 住 友 家 事 業 経 営 の 大 綱 と こ れ に 基 け る 私 自 身 の 採 鉱 科 経 営 方 針 」 『改 善』 第1巻4号,6頁

(43)鷲 尾 勘 解 治 「労 働 組 合 に 対 す る 私 の 考 え ,並 び に,昨 年 来 の 労 働 組 合 運 動 に 対 し て 私 達 の 採 り 来 た っ た 方 針 」 「改Y』 第1巻5号 ,6頁

(44)鷲 尾 勘 解 治 「い わ ゆ る 思 想 善 導 に つ い て(2)」 『改 善 』 第4巻5号 ,6頁O (45)鷲 尾 勘 解 治 「い わ ゆ る 思 想 善 導 に つ い て(1)」 『改 善 』 第4巻4号

,9頁 (46)『 近 代 日 本 総 合 年 表 ・第=版 』 岩 波 書 店 rl984年,277頁

(47)な お 鷲 尾 の,「 心 の 頽 廃 」 をl」,て 直 し て 人 が 真1の 見 解 を 見 出 す た め の 処 方 箋 は}き わ め て 宗 教 的 で あ るU「 先 ず 切 を 放 ドせ よ ,す な わ ち 【1三邪 善 悪 一切 の 我 見 を 捨 て,切 の 階 級 的 考 え を 去 り,切 の イいFを 放 ドし ,平 静 な る状 態 に お い て 自 己 を 吟 味 せ よ。 し か ら ば そ こ に 何 等 か 定 ま れ る 思 慮 が 生 ず る で あ ろ う。 此 処 に 真 正 の 見 解 を 見 出 し,此 処 に 真 正 の 自 己 を 発 見 せ ね ば な ら ぬ 」(鷲 尾 勘 解 治

「い わ ゆ る 思 想 善 導 に つ い て(2)」 『改 善 』 第4巻5号 ,9頁)

7)お わ りに:住 友 の経 営者群像 の中 での鷲尾勘 解治 の位 置

以 上の よ うな 考察 を踏 まえて,住 友 の経 営 者 群 像 の 中で の 鷲尾 勘 解 治 の位 置 を考 え てみ よ う。 そ の際,わ た しが 注 目す る の は次 の 三点 で あ る。 第 一に,住 友 トップ経 営 者た ち と鷲 尾 の禅 宗 へ の 関 わ り方 の相 違 。 第 二 に,労 務 管 理 方法 の 考 え方の 相違 。 第三 に,官 製 国民 運動 との 関 わ り方の 相違 。

第 一一の 点 につ いて は,住 友 の トップ経 営 者 た ちの経 営 理 念 につ い ての 瀬 岡誠 の 詳細 な研 究 が 多 くの こ とを教 え て くれ る。 〔表5〕 は住 友 の 経 営 最 高 責 任 者 を年 代 順 に 並べ た もの であ るが,こ れ らの うちで,伊 庭 貞剛 ,鈴 木 馬左 也 お よ び小 倉 正恒 は熱心 に参 禅 した こ とが 知 られ てい る。 また広 瀬 宰'ドは a自 身 は参

〔表5〕 歴 代 総 理 事(小 倉 ま で) 広 瀬 宰 平:慶 応2年(1866)別f銅 山 支 配 人,

明 治10年(1877)〜 明 治27年(1894>住 友 家 総 代 理 人 伊 庭 貞 剛;明 治27年(1894)〜 明 治37年(1904年)

鈴 木 馬 左 也:明 治37年(1904年)〜 大IE11年(1922年)

中 田 錦f=17:大1Ell年(1922年)〜 大 正14年(1925年 〉 湯 川 寛 占=大IE14年(1925年)〜 昭 和5年(1930年)

小 倉IE恒:昭 和5年(1930年)〜 昭 和16年(1941年)

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140商 経 論 叢 第37巻 第4号

禅 し な か っ た が,労 使 関 係 の 正 常 化 の た め に 禅 宗 僧 侶 の 助 力 を仰 い だ 。 す な わ ち まず 慶 応5年 の5月 に,幕 府 か らの 貸 下 米 の 削 減 とそ の 価 格 引 きLげ の 結 果 発 生 した 鉱 夫 大 暴 動 を 鎮 定 す る た め に,広 瀬 は 別 」二山 麓 角 野 村 の 禅 芋(曹 洞 宗)瑞 応 寺の 高 橋 墨 仙 禅 師 に 調 停 を 依 頼 し た 。 次 に 年 代 は 不 明 で あ る が,角

野,立 川 両 村 の 間 の 共 有 権 と 人 会 権 を め ぐ る争 議 に お い て は,同 じ く瑞 応 寺 の

〔竹 山 黒 禅 〕 禅 師 の ア ドバ イ ス を 求 め て い る。 さ ら に 広 瀬 は 自 ら の 経 営 革 新 に つ い て 山 民 か ら理 解 を 得 る た め に,阿 部 とい う 禅 僧 を 招 い て 山 民 を 教 化 させ た(48)。

次 の 総 理 事,伊 庭 貞 剛 は,瀬 岡 誠 に よ れ ば 「鈴 木(馬 左 也)や 小 倉 と は 異 な り,住 友 内 部 で の 労 務 管 理 を活 性 化 す る た め にL着 的 な 精 神 運 動 を状 況 適 合 的 に1決 を 加 え て 利 用 し よ う とす る こ と に}消 極 的 で あ っ た 。 た だ し 自 己 鍛 錬 の 重 要性 を 意 識 し,… 特 に(禅 宗)臨 済 宗 の 卓 越 した 師 家 と深 く交 わ る こ と に よ り,積 極 的 に 求 道 の 生 活 を 送 っ た 、,その 師 家 と は7… 天 竜 寺の 滴 水(宜 牧)と (橋本)義 山 で あ っ た 。 ま た … 参 禅 は … 人 的 ネ ッ トワ ー ク を拡 大 す る う え で も 大 い に役Lコ1.った(49)」。 そ の 次 の 総 理 事,鈴 木 馬 左 也 は 東 大 在 学 中 に鎌 倉 円 覚 寺 の 今 北 洪 川 に 師 事 して 禅 の 修 行 を 始 め た({})。 瀬 岡 誠 に よ れ ば,「 こ の 参 禅 に よ っ て 鈴 木 の 一一生 涯 を 貫 く精 神 的 原 基 の 如 き も の が ほ ぼ 完 成 され 」,人 的 ネ ッ トワ ー ク が 飛 躍 的 に 拡 大 し た(51)。 ま た,小 倉 正恒 も東 京 大 学 在 学 中 に 禅 に 触 れ,住 友 人 社 後,鈴 木 馬 左 也 や 岳 父 と な る河 村 善 益 らの 影 響 で,本 格 的 な 禅 修 行 を 始 め た(52)。

こ の よ う に,戦 前 期 住 友 財 閥 の ト ップ ・マ ネ ー ジ ャー た ち の 多 くが 禅 宗 に 深 く関 わ っ た の で あ り,そ う い う 意 味 で は,鷲 尾 勘 解 治 の 理 念 や 行 動 は,ご く オ ー ソ ドッ ク ス に 見 え る か も しれ な い 。 しか し,第3章H節 や 第6h節 で 見 た とお り,鷲 尾 は 禅 宗 思 想 の 禁 欲 ・慈 愛 ・奉 仕 の 理 念 を,直 接 に 労 務 管 理 や 企 業 経 営 の 中 で 実 践 し た の で あ り,こ れ は,坐 禅 修 行 を 自 己 鍛 錬 の 手段 と し た 鈴 木 や 小 倉,あ る い は,宗 教 を労 務 管 理 に利 川 し よ う と した 広 瀬 の 姿 勢 と は異 な る 。 鷲 尾 に と っ て 禅 宗 思 想 は 自 ら の 生 活 の 原 理 で あ り,彼 は そ れ を別 予 銅 山 と 新 居 浜 の 共 同体 の 中 に 内 在 化 させ よ う と した の で あ るが,広 瀬 や 鈴 木 や 小 倉 に

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鷲 尾 勘解 治 の経 営 理 念(ド)141

と っ て は,禅 宗 は 別 チ銅 山 の 労 働 者 た ち を 管 理 す る た め の 手 段 の 一つ に 過 ぎな か っ た。 実 際 鈴 木 馬 左 也 は 鷲 尾 の 自彊 舎 運 動 を 支 援 す る と と もにi東 亜 報 徳 会 に 対 して も 「物 心 両 面 の 協 力」 を 惜 し ま ず,「 事 業 所 の 各 職 場 に 報 徳 会 を 設 け て,自 ら率 先 して 知 恩 報 徳 と教 育 勅 語 の 実 践 躬 行 に あ た っ た(53)」。 ま たr小 倉IE恒 は,禅 宗 よ り は 石 門 心 学 や 修 養 団 運 動 に 傾 倒 し嗣},鷲 尾 追 放 後 の 別 子 に 修 養 団 運 動 を導 人 して,改 善 会 運 動 を駆 逐 した の で あ る(55)。

第 二の 労 務 管 理 の 問 題 に つ い て は,第2章H節 で 述 べ た よ う に 広 瀬 や 伊 庭 は ・ 雇 員(事 務職 則 に つ い て は 「家 」 制 度 の 家 父 長 的 管 理 の ドに,労 働 者 に つ い て は 「飯 場 」 制 度 の 間 接 管 理 のFに 置 い て い た 。 飯 場 頭 と坑 夫 頭 に よ る 不 正が 大 き な 問 題 と な り,技 術 革新 の 結 果,労 働 者 を 直接 雇 用 す る 必 要 も生 じた た め,明 治39年 に は 飯 場 制 度 の 改 革 が 行 わ れ て}労 働 者 は 基 本 的 に 会 社 に よ っ て 直接 雇 用 され る よ う に な っ た 。 そ の 翌 年 に 別'大 暴 動 を 経 験 し,労 働 者 を善 導 す る必 要 を 感 じて い た 鈴 木 馬 左 也 に と っ て は,禅 寺 で5年 間 の 修 行 を積 ん だ 帝 国 大 学 卒 業 生 の 鷲 尾 勘 解 治 は,将 来 の 労 務 管 理 者 責 任 者 と して 有 望 な 人 材 に 見 え た こ とで あ ろ う。 実 際 鷲 尾 は,第4章 で 詳 し く検 討 した よ うに ,禅 宗 思 想 を 基 礎 とす る 自彊 舎 と改 善 会 運 動 に よ っ て,労 働 者 の リ ー ダ ー と な る 者 た ち を 訓 錬 ・修 養 を通 して 育 てLげ,鈴 木 馬 左 也 や 住 友 家 長 の 期 待 に 見 事 に応 え た の で あ っ た 。

しか し鈴 木 馬 左 也 は 他 方 で,欧 米 の 労 務 管 理 の 手 法 を採 り入 れ る こ とに も熱 心 で あ っ た 。 鈴 木 は 大 正8年(1919年)3月 か ら約1年 間 の 第 二次 欧 米 視 察 に 出 か け た が,米 国 フ ォー ド社 の 労 務 管 理 に 大 い に興 味 を抱 き,住 友伸 銅 所 勤 務 の 一三村 起 … を 日本 か ら滞 在 先 の ロ ン ドン に 呼 び寄 せ た 。 一{村起 ・は 鷲 尾 勘 解 治 よ り6才 年 ドの 明 治20年 生 ま れ 。 東 京 銀 座 生 ま れ 1宮 崎 育 ち 。 早稲 田 中 学, 一 高,東 大(ド ィ ッ法 学科)で 学 ん だ 俊 才 で あ っ た(fT)。 三村 に 対 して 鈴 木 は 次 の よ う に 言 っ た 。 「一三村 君 は フ ォ ー ドに 行 き,半 年 の 間,職Lの 生 活 を 調 べ て も らい た い 。 あ と の 一年 は 欧 米 ど こ で も思 う と こ ろ を調 べ て よ い 。 君 の 主 要 目 的 は労 使 関 係 の 調 査 だ 。 難 しい か も しれ な い が,で きれ ば露 国 を 通 っ て 帰 国 し た ま え(5列 と。 三 村 は す ぐ に ア メ リ カ に 渡 り,デ トロ イ トの フ ォ ー ド社 で 職

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142商 経 論 叢 第37巻 第4号

工 と して 現 場 で 労 働 し,欧 米 に お け る 経 営 管 理 と労 務 管 理 の 実 際 を研 究 し た の で あ っ た 。

三 村 起 一 は 昭 和16年 に は 株 式 会 社 住 友 本 社 の 理 事 に 就 任 し,ま た,住 友 鉱 業 の 初 代 社 長 を 兼 務 す る の だ が,彼 が 職 業 人 と して 最 も熱 心 に 取 り組 ん だ の は,労 務 管 理 と安 全 運 動 で あ っ た 。 安 全 運 動 は,1905年 ご ろ か ら ア メ リ カ 合 衆 国 西 部 で 始 ま っ た 運 動 で あ る 。.ヒ野 継 義 が 最 近 の 諸 論 考 で 明 らか に して い る よ う に,英 語 を 理 解 で き な い 外 国 人 労 働 者 の 多 い 合 衆 国 の 工 場 で,事 故 を減 ら す た め に 始 め ら れ た安 全 運 動 は,次 第 に現 場 労 働 者 た ち の 自治 意 識 と 会 社 へ の 協 力 を 引 き 出 して い っ た 。 そ の 結 果,安 全 委 員 会 は 人事 労 務 管 理 の 極 め て 有 効 な 手 段 に な っ て い っ た の で あ る(5H)。住 友 伸 銅 所 で の 事 故 の 悲 惨 さ と 多 さ に 心 を痛 め て い た 三 村 は,「 昭 和5年q930年)に た ま た ま 入 手 した 米 国 の 安 全 パ ン フ レ ッ トを も と に して,工 場 安 全 運 動 を や や 組=titて て 現 場 に 実 践 し,こ の 道 に挺 身 して い た 東 京 電 気 の 蒲 生 俊 文 君 と東 西 呼 応 して 安 全 運 動 を起 こ した … 私 の い た 伸 銅 所 で は 容 易 に 共 鳴 が 得 られ な か っ た が,二,三 の 熱 心 な 人 々 の 協 力 で 運 動 の 効 果 は み るみ る1,が っ た(59)」 の で あ る。

ま た.三村 は,一 年 半 の 海 外 研 修 を 終 え て 大 正10年 に 帰 国 す る と,住 友 伸 銅 所 工 場 課 長 と して ス トラ イ キ に 対 処 し,伸 銅 所 組 合 長 賀 川 豊 彦 と協 議 して,工 場 委 員 会 制 度 に よ る 団 体 交 渉 権 を 確 認 し,総 理 事 鈴 木 馬 左 也 も こ れ をr承 し

た(601。 三 村 に よ れ ばr工 場 委 員 会 制 度 は,第 … 次 大 戦 後 英 国 の ホ イ ッ ト リー 委 員 会 の ワ ー ク ス ・コ ミ ッ テ ィ ー と 米 国 の オ ー プ ン シ ョ ッ プ を 原 則 に し た シ ョ ップ ・コ ミッ テ ィ ー の 方 式 が あ っ た が,私 は米 国 式 に よ り有 名 な イ ン ター ナ シ ョナ ル ・ハ ー ベ ス ター 社 の や り 方 を 進 め て,そ の 年 の8月16日 に1二場 協 議 会 と して 成 案 を 発 表 し た 」。 も ち ろ んIl場 委 員 会 制 度 の 導 入 は 当 時 の 日本 に お い て は 先 進 的 で あ っ て,大 い に マ ス コ ミを騒 が せ た の で あ っ た(〔il?。

こ の よ う に 鈴 木 馬 左 也 は,労 務 管 理 に つ い て は,… 方 で 鷲 尾 勘 解 治 を 通 し て,労 働 者 を 東 洋 の伝 統 的 倫 理 道 徳 思 想 で も っ て 教 化 ・修 養 させ る と い う手 法

を と りつ つ,他 方 で は 三 村 起 一一を通 し て,欧 米 の 近 代 的 ・合 理 的 な労 務 管 理 の 手 法 を 導 入 した の で あ る。 こ の よ う な 二方 面 か らの 労 務 管 理 へ の ア プ ロ ー チ

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