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大和売薬営業者の経営理念小史

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42 2·3 11

1925-1995

大和売薬営業者の経営理念小史

前田長三郎『大和売薬人物誌』を素材として

武 知

l はじめに

私は, さきに明治維新以降, 戦後復興期に至 る大和売薬業史の歩みを, 主たる内容とする拙 著を公刊する機会を得た(1)。 「売薬」は現在では

「配置家庭薬」と呼ばれるが, そこでは, 明治政 府の売薬行政から説き, 大正 • 昭和初期の動 向, 戦時下の企業整備, そして戦後の企業再編 成の過程を,「生産」と 「販売」の両面からあと づけようとした。 いわばマクロの分析を意図し たものであり, 必要に応じて, ミクロの分析,

たとえば, 個別企業の分析や配置薬メの 経営理念にも多少言及したが, 特に配置薬業者 の経営理念を体系的に検討することも甫要な テマとなろう。 それは, 様々な困難に直面し ながら, 一定の経営方針のもとに家業を守って きたケスが少なくないからである。

歴史的にみて, 大部分が家業の域を出ない奈 良県配置薬メの, 栄枯盛衰は多々あった ものの, 今日まで伝統を守ってきたところが少 なからず存在する。 家業の永続と繁栄の秘訣は 何か。 その秘訣を家訓・家憲ないし社訓・社是 を通して検討することを、次なる課題としてお きたい。 もとより, これらは経営の理想を標榜 したものであり, 現実の商法とはいささかギャ ップがみられる場合も少なくないが, その企業 者精神は傾聴に値するものがあろう(2)0

(1) 拙著「近代日本と大和売薬 売薬から配置 家庭薬ヘー一」(税務経理協会,1995年)。

(2) さしあたり, 吉田豊『商家の家訓』(徳間書 店, 1973年), 小倉栄郎『近江商人の金言名/

いうまでもなく, 配置薬メの経営理念 史的な検討にあたっては, 何よりも家訓・家憲 ないし社訓・社是の資料収集が望まれる。私も ささやかな努力を続けることにするが, 小稿 は, そのための予備的考察として,1933年に公 刊された前田長三郎 『大和売薬史』 所収の 「大 和売薬人物誌」を主たる素材としながら, そ の経営理念を垣間みることを課題とするもので ある。 奈良日報社社長である前田長三郎の前掲 書は, 取材を通して書かれた部分が少なからず あり, 学術書とはいい難いが, その人物誌は貴 貢なもので, ほぼ正鵠を得ており, 資料的価値 を持つものと思われる。

2 売薬業の発展と売薬営業者

行論に必要な限りで大和売薬業の歩みに言及 しておくと, 南葛城郡(現御所市), 高市郡(現 高取町) を中心に, 近世にその基礎を確立した 斯業は, 洋薬を重視する明治政府の圧迫策にも かかわらず, 衰えるどころか, 庶民の支持を得 て伸びていく。政府の売薬観も,「無効無害から

\句」(中央経済社, 1990年), 足立政男『「シニ セ」の経営』(広池学園出版部, 1993年)の 3 点をあげておく。 旧財閥系の家訓·家憲に関す

る研究もあるが, それらの紹介は割愛する。

富山の売薬商法に焦点をあてた最近の成果 と しては, 北日本新聞社編『先用後利—富山家 庭薬の再発見 J (北日本 新聞社出版部 .

1979年), 玉川しんめい『反魂丹の文化史――­

富山の薬売り 」(晶文社, 1979年), 遠藤和 子『富山の薬売り マケティングの先駆者 たち 』(サイマル出版会, 1993年)などが ある。

(2)

42 2·3号 有効無害へ」と変わり, 1914年(大正3 )には

売薬法の公布をみた1310

この間, 一部会社組織の配置薬メ が出 現し, 売薬生産は増加していく。 売薬業におけ る県下最初の会社組織は,1894年(明治27), 液 上村に平山太吉•安田房吉ら7人が発起人とな り, 「斯業の発展は資本合同と大量製産にあり」

として, 38人の出資者によって設立された大和 売薬株式会社である141。 その後, 明治40年代に かけて, 高取町に朝日売薬株式会社, 液上村に 日本売薬株式会社, 吐田郷村に東洋売薬株式会 社, 大正村に貫盛社売薬株式会社などが設立さ れた。 大正後期には, 白橿村に大日本畝傍製剤 株式会社, 鴨公村に帝国家庭売薬株式会社など が誕生するが, 1921年(大正10)に内容を更新 した株式会社貫盛社は, 「製品の真面目」と 「薄 利多売」 を信念として注目された。 それは 「製 造者と販売員の相互組織にて, 重役は即ち大売 子なり。 されば其取引卸値段の如き, 甫役と 般売子との間に差別的利率制を執らず, 総て仕 込値段の平等統を期し, 又大株主と称する資 本力により社務に従事せず報酬を得んとする輩 の項役かつてなく, 何れも社務に従事し, 労役 に対する報酬を得るのみ……」というユニーク な会社であった151。 このように, 大和売薬業界 において部会社組織が出現したものの, 大部 分は個人企業の家業であったことは銘記されね ばならない。 しかも, 「製造兼販売」が圧倒的に 多いところに特徴があった。

大和売薬業の発展は, 「生産」と 「販売」の充 実にあったから, 業界は挙げて, 良剤の製造と 優良配置員の養成に力を入れることになる。 た だ, 不当乱売やニセ行尚人・不良行商人の撲滅 が常に課題とされねばならなかったのである。

ところで, 明治以降の売薬取締規則におよび 売薬課税の強化によって大和売薬営業者の盛衰

(3) 詳しくは前掲拙著, 第 l章を参照。

(4) 前田長三郎『大和売薬史』〈「大和売薬人物 誌」〉(奈良日報社,1933年) 40頁。高取町史編 集委員会『高取町史』(1964年)395-400頁を参 (5) 照。同上(前田長三郎, 前掲書),69-71頁。

は進行したとみてよかろう。 すなわち, 創業時 期をみると, 維新前とその後の20年間(1887年 まで) の場合は, 代々の薬業家や薬種問屋• あ るいは士族· 庄屋・豪農などのいわゆる旧家・

名家が多かったが, その後の10年間(1897年ま で) にはその比率が低下し, 代わって農家出身 者が増加してくる。 煙草製造• 織布・染色など 在来的工業からの転・兼業もみられてくる。 そ れ以降では, 行商従事経験者が目立って多くな り, 木綿商• 米穀商• 油商などの商家からの参 入もみられる。 したがって, 大和売薬業の成長 は, まず斜陽的な在来産業や農家からの転業を 促進するとともに, 行商者から製剤者への上昇 転化の可能性を拡大し, そのこと自体が業界の 活性化を促したことに求められよう1610

販売組織の面では, なによりも1899年(明冶

32) 3月につくられた三光丸同盟会が注目され

る。 このとき同盟に参加した行商者数は38人に

達した。 31代米田徳七郎によって考案されたも

ので, 三光丸の販売促進を意図した組織とし て,「現金主義」と 「地域割り」を骨子とした呪 その後, 有力配置薬メ は, このような販 売組織を結成することになり, また得意先を譲 渡したりもするが, 扱う薬は自家製品に限定し ていた。

配置行商に従うためには製造業者の信用を得 られればよく, ほとんど資金を必要としなかっ たから, 農家副業として好適であったといえ る。 「先用後利」の配置商法にとっては, なによ りも 「信用」が重んじられたが, 売薬業の発展 につれて競争が激しくなり, 諸種の問題点が露 呈してきたため, 同業者の組合を結成して共存 共栄を図ろうとする気運が出てくる。 曲折は あったが,1911年(明冶44), 製剤の改善諸種 の弊害を是正するため, ひいては売薬の自主運 営 さらに全国組織化をめざして, 米田徳七郎 が印刷業者山本巳之吉や御所町の有力薬業家ら と謀って, 大和売薬同業組合を結成することに (6) 奈良県薬業史編さん審議会『奈良県薬業史」

通史編(奈良県薬業連合会,1991年)117頁。

(7) 前掲拙著,36頁以下を参照。

-444(640)-

(3)

なる。 2年後の北葛城郡の編入(組合区域の拡 大) にあたっては. 葛城税務署長の発 議がみら れた。 大和売薬同業組合は, 軍要輸出品同業組 合法を内需部門にも拡大適用するために改正さ れた重要物産同業組合法 (1900年) に基づく制 度であった。

大和売薬同業組合の構成員は. 売薬製造営業 者. 売薬請売営業者とされた。 一般に. 売薬営 業者という場合, 両者を指して使われることも あるが. 小稿では. やや前者の製造業者(販売 を兼ねる場合が多い) を想定していることを付 記しておきたい。大和売薬同業組合は. その後,

業界の自主的な統制調整組織として機能するこ とになる。 初代組長は米田徳七郎, 2代目は米 田元. 3代目は中嶋太兵衛. 4代目は松原利左衛 門であった。 彼らの横顔については. のちに言 及することになろう。

また大正後期から昭和初期にかけて. 売薬業 界からは, 松原利左衛門 (磯城郡), 奥村正信

(高市郡), 仲川房次郎(吉野郡) の3人の県会 議員 を誕生させていた。 民政党に属した彼ら は. 大和売薬業の発展策について, 県会で盛ん に論陣をはったのである(810

3 売薬営業者の経営理念

次に, 前田長三郎 「大和売薬人物誌」に収録 されている売薬営業者の経営理念を瞥見するこ とにしよう。 大部分は, 昭和初期に取材を通し て書かれたものであり, やや甘い寸評も皆無と はいえないであろう。 同書で取り上げられた人 物は, 売薬関連のものを含めて90人 を超える が, 以下では, このうち約3分の1について言 及する。 商号は, いずれも当時のものである。

まず第1に, 総資本の立場から, 業界のリ 的な活動したケスをみよう。 創製が鎌倉 (8) この点については, 同上. 第 2章を参照。

1939年には, 大和売薬同業組合幹部の岡村

(高市郡. 民政党)も,県会に席を得て. (1)薬 学校の県立移管. (2)県立売薬試験場の拡充,(3) 売薬課の 新設などを希望する発言をした(175-

176頁)。

末期の元応年間と伝えられる三光丸は, 家業の 振興にあたり, 前述の31代米田徳七郎の果たし た役割が大きい。 創意工夫に富み, 悲凡なる着 眼点をもって, 製剤の機械化, 薬包紙の改良,

そして, 家伝薬三光丸の販路拡大に尽力すると ともに, 業界の組織化にも寄与した。 大和売薬 同業組合の初代組長として, 永くその地位にあ り, 共同の福利増進に傾注しており,1925

(大正14)には,当麻寺に氏の銅像が建立された ほどである。 「責任に対する堅忍· 負托に背か ざる信義 • 動揺せざる決断, 真摯なる考慮は何 れも氏の長所」191 と評される。 組長在任期間中 における大和売薬の生産高の伸びは目を見張る ものがあった。

明治20年代終りに, 弟の米田正巳とともに売 薬業に身を投じ,1920年(大正9)に大阪同仁 薬業株式会社を成立させ, 2代目の大和売薬同 業組合組長を歴任した米田元は,「報徳」の念を 旨とした。「実効ある製剤を販売し,広く社会に 貢献」することを信条としたのである。 同家に は,家訓の類として,「健康と正直と勤勉と忍耐 と勇気とは無限の資本なり」「凡て仕事を呑ん で掛れ,仕事に呑まるヽな……」がある00。 また 同社の創業の精神は,「同仁精神」として,(1)至 誠・勤労,(2)需要家本位,(3)徐々に, 乍併不急 に急がん,(4)最良の会社 至誠勤労にして,

最大の会社たらんより, 最良の会社たらんとす るにあり, の4 点を掲げている叱

中嶋家は地方名望家であり, 家伝薬蘇命散で 知られる。 このように古い歴史を有するキクテ ング本舗の中嶋太兵衛は, 大和売薬同業組合第 3代組長としても活躍した。「温厚篤実にして 思慮周密, 謹慎自重, 人に接し懇情切実なり」a� といわれる。 売薬印紙税の廃戻税の実施, 売薬 短期講習会の開設, 県立売薬試験場の新設, 奈 良県薬学校(私立) の創立などに尽力した。

(9) 前田長三郎, 前掲書, 2頁。

(10) 同上, 51-52頁。

仰 「語り継ぎ『私の薬業史』〈同仁製薬株式会社 会長米田 克巳氏〉」(薬日 新聞, 1987年725

u::,

付)。前田長三郎,前掲書, 3頁。

(4)

第42巻 第 2·3号 1928年(昭和3)の御大典に際し, 著名実業家

としての地方賜隈の栄光に浴した。

地方名望家として知られる旧家出身の松原利 左衛門は, 明治30年代後半から製薬業に携わ り, 県会議員3期, さらに大和売薬同業組合第 4代組長として, 社会的にも広く活躍した。 達 摩堂薬房主としての商策は,「服で儲けるよ り百服で同じ利を得たい」03を信条とし, いわ ゆる薄利多売をめざした。 社会 的活動が広範囲 にわたったため, その業務は夫人の手によると ころが大きかったという。

県会議員を期つとめ, また業界の要職を占 めた正永堂薬房主の奥村正信は, 「機敏にして 思慮周密· 堅忍不抜の人なり。 また論旨常に明 確にして言舌爽快• 公共心に富む」と評されて おり, 売薬の民衆化, 産業立国主義を標榜して いた0�。 大和売薬業の大陸への進出にも熱心で あった°

祖父の代まで庄屋をつとめたという仲川房次 郎は,「人に交はるに懇切を旨とし, 義侠心に富 む。 また大胆有為にして克く信義を重んじ旦 立意し, 実行を約すれば, 如何なる難事に遭遇 するも必ず成すの概あり」という。 大正初期に 販売の第線に立ち, 抜群の成績をあげ, まも なく製剤業を起こし, のちに乃木製剤研究所な らびに仲川新薬研究所を創立した呪県会議員 3期を歴任し, 戦後は衆議院議員にもなった。

代々の煙草製造から, 明治30年代終りに製薬 業に転じた吉田家も, 大和売薬業の発展に少な からぬ役割を演じた家として注目される。 吉 田久四郎は, 1920年(大正9)に帝国家庭売薬 株式会社を創立し, 製剤の改革, 販売の革新に 尽力している。「克く部下を愛育するに勤むる 等, 君が会社の内外に於いてなす, 動実 に凡人の遠く及ばざる処にして, 世人日く 『斯 界の暁将なり』との讃詞」を得たという°り1930

(1ro 同上, 5頁。

U4l 同上, 45-46頁。

US) 協和製薬公司の興亡については. 前掲拙著.

第 3章を参照。

U6l 前田長三郎, 前掲書, 141-143頁。

闘 同上, 9-11頁。

年(昭和5 )4月に,配置員の養成を目的として 設立された奈良県薬学校の主要発起人メ ンバー でもあった。

すでに1897年(明治30)前後に, 大和売薬は 北海道へ販路を拡大していたが, 大正末期から 鯛印商標の増田兄弟商会をはじめ, 50余の業者 がこの地に新規拡張を活発に行っている。 増田 の場合は, 創業30周年記念事業して北海道への 進出を計画した呪 増田弥内は, 父を補佐し,

「天賦の商オ」を発揮し, 「業界の尖端人」とし て戦前・戦後を通じて業界の要朦を占めたが,

同家には,(1)正直な事,(1)円満な事、(1)質素倹 約する事,(1)努力する事,(1)言語動作を慎しむ 事,(1)日々些細な心使ひにも注意する事,(1)善 悪を超越する事, (1)高尚な心使ひの事,•…••な ど24カ 条にのぼる家訓がある叫

第2のケスとしては, 堅実・誠実な商いを 経営理念としている配置薬メが結構多い ことである。 前述の株式会社貫盛社もその例に もれないが,同社取締役の池上亀吉は,「実直本 位」をモ ットとしていた叫同じく,同· 米田 政次郎も, 「真面目によく働く」を信条とし,

「他に接するに懇情切意を 旨とす」というO

1920年創立の大日本畝傍製剤株式会社取締役の 安田忠も,「『真面目に堅実に進む』, つまり功を あせらざる事」 をモ ットとしていた竺

農業および織布業から製剤業に転じた南回生 堂薬房主の南オ次郎は,「業界稀に見る成功王」

といわれたが, 「貸はすれども借はせず」を生 のモ ットとした生 また, いったん知友と南 葛城郡楢原で共同経営し, 明冶末期に独立経営 (1� 村上清造編 『北海道売薬史」 (北海道配置家

庭薬協議会, 1977年)61頁。

(19) 前田長三郎, 前掲書, 47頁。「語り継ぎ「私 の薬業史』」〈増田製薬株式会社会長・県製薬協 同組合顧問増田弥内氏〉」(薬日新聞, 198611日 付)

同上新聞によると. 現在の増田製薬の 社是は,

「常に奉仕の理想のもとに真実と熱意をもっ て, 最善の努力をする こと」という。

(2()) 同上 ( 前田長三郎. 前掲書) 71-72頁。

同上,72-73頁。

四 同上,39---40頁。

四 同上, 55-56頁。

-446 (642)-

(5)

が, 品質本位, 薄利多売を説くケスも多いこ とである。 これは, 前述の株式会社貫盛社をは じめ, 会社組織の場合に共通する点である。 そ の他のケスをみると, 絹糸商から売薬商, そ して製剤業への道を歩んできたきぬや薬房(安 田誠)は,特約販売をなし,「薄利多売品質本 位」を店是としている。 また本家 「丸太」より 独立した赤心堂薬房主の中島太郎も, 薄利多売 主義を信条としており, 猛烈な新付け拡張に特 徴があったOO。 代々売薬業の浅井家 (浅井忠三 郎薬房 • 浅井忠男全寿堂薬房• 浅井忠次郎)

も, それぞれ 「営利本位の薬屋気質にあらず,

奉仕的格安値段の実質本位」「顧客本位」を信条 としていた呪

明冶後期に製剤業に携わることになった日進 堂薬房主の岡井八平も, 「品質本位で, 誠意を 以って進む」 を信条としている。 特に将来の抱 負として,「地方出張販売員が品質の可否を見 解くる識見なきため, 徒らに仕込値段の安きを のみに拘泥する傾きあり, 故に, 是を矯正する 目的のため, 盆正月の二季に適任者をして, 品 質の比較査定等を行はしめ, 卸値段の統制を し, 其疑惑を起さしめざるやうなさしめ度し」

と語っていたことは注目に値しよう

明冶30年代半ばに配置売薬の第線に立ち,

3年後に製造営業に携わることになった中村盛 大堂薬房主の中村玄太郎は,「総てに徹底を期 す」 ことをモット とした。 その商策は,「「値 段の競争をなさず, 良品の競争をなし, 徒らに 売子の我意に盲従せず』 をスロガンとなし,

優良製剤の薄利多売を以ってサビス第とな す」としていたぎ。 また農業から製剤業(膏薬 製造あり)に転じたしまや薬房(島松太郎)は,

「良品を安価で売る」を店是としている汽 第 4は, 創意工夫, 温故知新の経営戦略を実 することになった吉田貫盛社主の吉田楢吉は,

「余り膨張した遺り方でなく, 真面目に堅実に 漸進する」ことを信条としている叱

売薬商から製剤業への道を歩んだ天心堂主の 出口藤太郎は,「他に交はるに真摯切実,業に服 するに実践射行, 宗教の信仰に篤く, 実に鍛練 周到の人なり」といわれる。 祖先崇拝の念を普 及させるため, 土産物に珠数を贈呈した。 そし て, 雇傭者に対しては, 常に 「私は本立の柱 にして諸君は周囲から支へ守って呉れる, 力強 い支柱なり, 其力の平均を失ふと,私(柱) は 直に倒れて了ふ」 と指導した。 こうした薫陶を 受けた雇傭者は,「先づよく働く」ことを怠らな かったという究 その他, 薬品卸問屋草楽堂主 の森田福賢は, 大和国に和漢薬の原料栽培が多 い点に着目し, 販売面で成功した第人者であ る。「人に交るに誠実を旨とし,或は店員を克<

督励し人材の登用を行ひ, 命ずるに温情, 諭す るに親の如く其指導宜敷を得, 多数の店員は何 れも忠実業に従ひ•…"」といわれる。 森田福賢 は,「実に朦業に貴践の別なしとは言へ,吾人の 天職こそ,真に光栄の極みなり,さればお互は,

人類のためにより真面目に精進すべきである」

と人びとを説き, 自らの信条としていた究 農業から配置行商, そして大正中期に製剤業 を起こすことになった大師丸本舗主の米田弥治 郎は,「商戦必ず勝つ」の意気で奮闘努力した。

「他に頼らず自営の道を生く」を信条とし,大師 薬の信用を得ていった竺 また農業から製剤業 へ転じた恵星社社長の安本昌作は,「商策頗る 真面目, 商機を見るに敏, 人を交るに親切第 を主義とし, 頗る円満事を処するに果断勇決,

犠牲的精神に富む」といわれた。「よりよき品を より安く需要者に供給せん事を欲す」 を信条と している究

第3は, 第2の特徴と重なり合う面もある

同上, 42-43頁。

同上,17-19頁。

同上, 114-117頁。

同上,113-114頁。

同上,89-90頁。

同上, 54-55頁。

四⑳⑳8図

oo

同上,33頁。

同上,35-36頁。

同上,28-30頁。

同上,31-32頁。

同上, 22-24頁。

⑳8⑳⑰⑳

(6)

践せんと標榜したケスである。 いわば, 革新 の経営哲学の持主ともいえる場合であり, 東洋 売薬株式会社(取締役社長中村駒治郎) は, 奈 良県下で最初に南米地方への拡張を行ってい る°°。 さきに述べた帝国家庭売薬株式会社 (取 締役植三郎, 同・古川徳蔵) は, 大量生産をめ ざしている°°。総じて, 会社組織の場合は,この ような方向 を模索したことはいうまでもなかろ う。

菊楼本舗司正堂主の中田正司は, 「全く小店 員より身 を起し」た成功者として知られる汽 また18歳で売薬業界に身を投じ, 配置の第線 に立ち, 明治30年代に独立して製剤業を起こし た滋盛館薬房主の川田滋美は,「時は金なり」を 信条とし,「実行本位」を店是として活躍し た国。 さらに, 農業から製剤業へ入った延 寿堂 薬房主の宮本喜造は,「今や斯界稀に見る発展 王として知られる。 君は資性英邁, 商オに秀で 機を見るに敏 果断力に長じ度企画すれば必 ず成の気概に富む」といわれた叫

貫盛堂(森本覚次郎)は,1913年(大正2 ) に万病六神丸を創製し, 高野山総本山御用薬の 指定を受けた。 大正末年に, 先代の長女と結婚 し,直ちに2代目を襲名した覚次郎は,「意専 心良剤の製産と販売能率の増進に精励し, 「品 質方位誠実主義』 を信条」として活躍した。 「売 子」の半数は現地の人を採用し, 家族主義に徹 したことも特筆されよう叫 その他, 延膏薬の 特約販売の面で名をなしたのは, 南国民商会主 の南芳雄である。 先代は,「資性温良篤実, 思慮 周密, 商機を見るに頗る敏にして」 といわれた が, この点は配置売薬業に欠くべからざる要素 であったといえる。 また 「気宇濶大, 人に接す るに真摯切実なりき」という。 父の業を継承し た2代目の商策も優良であった""。

缶 同上, 92頁。

oo

同上, 80, 88頁。

聞 同上, 26- 27頁。

⑱ 同上, 52-53頁。

(.19) 同上, 24-25頁。

(40) 同上, 1 1-13頁。 前掲拙著, 28-29頁。

(4U 同 上 (前田長三郎, 前掲書), 20-22頁。

第 5 に, 寺院と薬の関係が 「施薬」という名 で呼ばれたこともあり, 配置薬メ のなか には,種の信仰的要素が加味されていたこと も無視し得ないであろう。 吉野山の特産として 名高い陀羅尼助(藤井利三郎)は, その代表的 なもので, 「花時或は夏期即ち大峯山上ケ獄登 山季に際し, 年来の顧客として, 阪神地方より の参者は多く是を購ひ, 他に全国の薬店に取次 販売せられ商勢頗る旺盛を極む四 と評され,

伝統を堅持している。 また大峯山の信仰と結び ついて,1887年(明治20) に創業した高市郡根 成柿の行者丸本舗(辻利吉,現大蜂堂薬品工業)

もある。 同本舗の場合, 1914年(大正3 ) には,

真言宗酸醐派布教絡みでハ ワ イ ヘの販売活動に も乗り出している丸

4 お わ り に

前項において, 奈良県下における昭和初期の 有力配置薬メ の経営理念を紹介してきた が, まずその後の動きを若干みておこう。 奈良 県の場合, 戦時下, 生産部門の企業整備は10企 業体に統合されるに至ったが, 前掲薬業家の数 人は統合会社の有力な担い手となっていること を指摘できよう。 すなわち, 奥村正信は輸出の 協和製薬公司取締役社長, 森本福賢は本舗の日 本製薬取締役社 長に就任しており, 配置の方 は, 松原利左衛門が大和中央製薬, 仲川房次郎 が大和東亜製薬, 増田弥内が大和合同製薬, 安 本昌 作が大和優光製薬, 安田誠(寅吉)が大 和共同製薬, 森本覚次郎が大和内外製薬, さら に, 岡村一雄も大和高取製薬の各取締役社長と なったのである。 なお, 大和橿原製薬のト ップ は細川 義三であった。 その他, 米田徳七郎 ・ 中 嶋太兵衛• 南オ次郎・南芳雄が大和共同製薬の 重役に名を連らねたのをはじめ, 各統合会社の 重役に就任したケスが少なくないのである。

そして, 戦後の企業再編成の過程では, 漸次元

⑫ 同上, 87頁。

(43) 前掲『 奈良県薬業史』 資料編 (1988年)390, 409---410頁。

(7)

の個人企業に分離独立してい く ケス が多かっ た。 要するに. 地縁的. 血縁的な展開に特徴が みられたといってよいが, 改めてかなりの連続 性を確認できよう。

次は. さきに奈良県配置薬メ が掲げる 経営理念史的なものを便宜上. 5 つに分けて 瞥見してきたが,言にしていえば, 業界全体 の共存共栄を大前提としながら. 堅実な商い,

つまり正直正路の経営哲学· 顧客本位の姿勢で 家業の永続と繁栄をめざしてきたところが少な くないことを指摘できよう。 そこでは単に伝統 を守るという姿勢ではな < . 一方で, 自力で生 きる気概, 革新的な経営哲学を持ち合わせるこ とが重要であったことがわかる。 この意味から すれば. っ とに足立政男氏が指摘されるとお り,老舗は 「歴史は古く, 経営は新しく」 をモ ッ トに家業, 企業の永続と 繁栄を図るべ く , 倹 約の暮らしと経営努力を続けることが本来の姿 であることを確認できよう。 京菓子の老舗•鶴 屋吉信の5代目が. 創業180年祝賀式典の挨拶 で,「老舗とは革新の連続であり, その連続の歴 史が老舗の経営史である」と宣言しているの は. まさに至言と いえよう

最後に, 現在の奈良県配置薬メ の経営 ス ロガン を若干紹介し, 小稿を終える ことに しよう。 まず田村薬品工業株式会社の初代取締 役社長田村信ーが十代で医薬品配置販売業の道 に入ったのは, 1930年(昭和5 ) のことである が, 当時 「俺も薬屋に成ろう。 成る以上はどえ ら い帳主に成ったるど」という気構えであった といわれる。 その後製剤業にも進出するが.

「私の天朦は庶民救済なり」との信念で, この精 神は, 田村薬品工業の社是ともなっている

高取藩の士族であった森田家(森田政直)は,

森田大学堂の名称と 「福福達磨」の商標で売薬 の製造を開始したが. 昭和初期. やはり家業が

(44) 足立 政男, 前掲書, 401頁。

(45) 社誌編集委員会『 田 村信ーと田 村薬 品工業株 式会社」(田 村薬 品工業株式会社, 1991年) 16 (4ro 同上. 3 頁。頁。

売薬業の森田が政直の人娘と養子縁組をし て家業を継承することになる。 森田大学堂は.

戦時中の企業整備で大和高取製薬に統合された が. 戦後統合会社から分離独立し, 1948年(昭

23) 2月,共立薬品工業と 社名を改称する。 戦

後の再出発にあたり, 新社名にしたわけである が. 森田は. 「共立というのは 『共に立つ』共 に助け合う』『人の悩みを自分のものとする」 な ど. 奉仕の精神を以て経営すること。 また, 会 社は自分一人のものでな く , 取引先. 従業員,

株主らの三者共立である と いう考えで. この社 名が採用された」と語っている

江戸前期に創業し. 戦時中の大和優光製薬を 継承する現在の高田製薬株式会社は, C 使用す る者(消費者), S 販売する者(配置員), M 製 造する者(メ) の三者鼎立を同社の薬業 の原則としている

江戸時代の石門心学の祖である石田梅岩が商 業利潤の正当性を説いたことはよ く 知られてい るが, 一方で, 石田梅岩は正しい商人道. つま り商人の守るべき経営哲学と経営戦略のあり方 を厳し く 規制し. 教えているのである。 足立政 男氏の引用に従えば, 「売人も悦び申すべし」

「得意も弁理を悦び申すべし」「第三者また悦び 申すべし」という, いわゆる 「三方よし」の経 営哲学と経営戦略こそが重要な意義を持つ。 こ の精神こそが老舗の大黒柱であり, のれんと看 板 を守 ってきた要因といえる。 要するに 「自 己• 相手方• 第三者の利益と安心 • 幸福をめざ して自分の職分に励むこと」は, きわめて示唆 に富む至言といえよう凡 「三方よし」とか 「売 手よし. 買手よし, 世間よし」というのは, 近 江商人や京都の商家の家訓に典型的にうかがう ことができる150。 この場合,特に第三者, 世間よ 罰 「語り継ぎ『私の薬業史』〈 共立薬 品工業株式

会社会長森田氏〉」(薬 日新聞, 198811

⑱ 高田薬報,日付)。 196211日 付ほか。

(49) 足立 政男, 前掲書, 382-384頁。

(5()) 小倉栄郎, 前掲書, 66

重厚な研究 書として, 足立 政男「 老舗の家訓 と家 業経営 」 (広池 学園事業部 , 1974年) をあ

げてお く 。 資料集として. 京都府 「老舗と家 /

(8)

し が同格に出てくると ころに重要性を見い出す べきであろう。

/訓J (1970年) が あ る 。 坂本藤良編 「事例研究 経 営理念」 ( 日 本総合出版械構, 1971年) も 有益で あ る 。

〈付記〉 小稿 は, 平成7年度島原科学振興会研究助 成金 に よ る 研究成果の部で あ る 。

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