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<論 説 〉
鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(中)
一 別子 銅 山 にお け る労 務 管 理 と 「 地 方 後 栄」 一
山 本 通
目 次
Dは じ め に
2)背 策 と し て の 別r銅lh史
2‑‑1)鷲 尾 人 社 ま で の 別 ∫・銅 山
2‑H)明 治 期 別r銅111に お け る 労 働 と管 理 2… 皿)鷲 尾 在 職 中 の 住 友 と 別 」銅 山
3)鷲 尾 勘 解 治 の 生 航 ち と 住 友 へ の 人 社 3‑一一一)は じ め に
3‑II)禅 芋 の 修 行 生 活 か ら 得 た も の A)禁 欲 的 で 規 律 あ る 生 活 B)仏 教,特 に 禅 宗 の 思 想 C)慈 愛 と 奉 仕 の 精 神 1!)住 友 へ の 入 社
4)鷲 尾 勘 解 治 の 労 務 管 理 の 思 想 と 実 践 4‑1)労 務 管 理 者 と し て の 鷲 尾 勘 解 治 4‑‑m「 自 彊 舎 」
4一 皿)大IE期 の 別 」九労 働 運 動 と 「改 善 会 」 4‑IV)自 彊 舎 の 再 建
5)「 末 期 の 経 営 」 と 「地 方 後 栄 」 5‑1)「 末 期 の 経 営 」 論
5‑II)「 地 方 後 栄 」 論:新 居 浜 の 開 発 6)鷲 尾 追 放 の 背 景
6‑1)鷲 尾 追 放 の 経 済 的(財 務 的)背 景 6‑U)鷲 尾 追 放 の 思 想 的 背 景:
7)お わ り に
付])主 三要 参 考 文 献
(以f,前 号) (以 ド}本 号)
(以 ド,次 号)
鷲 尾 勘 解 治 と小 倉 正恒
42商 経 論 叢 第37巻 第3},'
承 前
4)鷲 尾勘解治 の労務 管理思想
4‑1)労 務 管 理 者 と して の 鷲 尾 勘 解 治
鷲 尾 勘 解 治 は 明 治40年(1907{pに 住 友 に 就 職 し,昭 和8年(1933年)に 依 願 解 雇 さ れ た の で あ る が,そ の26年 間 の 住 友 生 活 は 大 き く{つ の 時 期 に 区 分 で き る。 第 一期 は 入 社 して か ら,大1E6年(1917年)5月 に 病 気 療 養 の た め に 休 職 す る まで の10年 間 、,この 間,鷲 尾 は お も に 採 鉱 課 で 勤 務 し,親 し く労 働 者 と接 し,労 働 過 稚 の 不 合 理 を 改 善 し,白 彊 舎 を 設 、γして 若 い 労 働 者 の 教 育 に 努 め た 。 つ ま り,採 鉱 課 の 現 場 で 労 務 管 理 を担 当 し た,と い っ て よか ろ う。 大 正8年(1919年)5月 の 復 職 後 が 第 二 期 で あ る。 大 正10年 に は 四 坂 島 の 人 員 整 理 の 難 題 を,み ず か ら進 ん で 担 当 して 円 満 解 決 し た 。 大 正11年1月 に は 労 働
課 が 新 設 され た が,鷲 尾 は そ の 初 代 課 長 に 就 任 し た 。 そ してt大IE13年12月
か ら は採 鉱 課 長 を 兼 務 して,大ll三 末 期 の 労 働 運 動 に 対 処 した の で あ っ た 。 この よ う に 第 一期 は,鷲 尾 が 優 れ た 労 務 管 理 者 と して 多 くの 難 問 を 解 決 した 時 期 で あ る。 第{期 は,別f鉱 業 所 支 配 人 を 命 ぜ ら れ た 大 正15年(1926年)4月 以 後 。 別f鉱 業 所 は 昭 和2年7月1日 に住 友 別r鉱 山 株 式 会 社 に組 織 変 更 さ れ た が,鷲 尾 は 同 年10月 に 同 社 常 務 取 締 役 住 管 者)に 就 任 した 。 彼 は 住 友 別 子 鉱 lhの 最 高 責 任 者 と して,「 末 期 の 経 営 」 論 と 「地 方 後 栄 」 論 を 唱 え,そ の 構 想 を 精 力 的 に 推 進 し よ う と した 。
鷲 尾 勘 解 治 は 大 正 期 に は 労 務 管 理 者 と して 活 躍 した の だ が,当 該 時 期 は 日本 の 大 鉱 業 企 業 で ・般 的 に,(飯 場 制 に よる)鉱 夫 の 間 接 雇 用 に 代 わ っ て 会 社 に よ る 直 接 雇 用 が 確 立 して い く時 期 で あ っ た 。 これ は ひ とつ に は,鉱 業 技 術 の さ ま ざ ま な 革 新 の 進 展 に よ っ て,従 来 の 手 一1二的 な 熟 練 が 不 要 とな り,機 械 操 作 の た め の 半 熟 練 が 必 要 と な っ た こ と に よ る が,二 つ め に は,大IE5年 の 臼 二場 法 」 の 制 定 とそ れ に 伴 う 「鉱ll労 役 扶 助 規 則 」 の 改IEに よ っ て 企 業が 労 働 者 を 直接 に管 理 せ ざ る を 得 な くな っ た た め で も あ っ た 。 さ ら に 大 正6・7年 を ピ ー ク と して 鉱 山 業 の 争 議 が 多 発 し た 。 こ れ ら に 対 処 す る た め に 多 くの 大 鉱 業 企 業 は 大
鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(llり43
正10年 頃 ま で に,労 務 担 当 の 課 や 係 を設 置 しω,共 済 組 合 ,教 育 ・保 健 ・娯 楽 施 設,住 宅 施 設,日 用 品 供 給 施 設,金 融 施 設 な ど の 福 利 厚 生 の 充 実 を 図 り(2),労 使 意 思 疎 通 機 関 の 設 置,社 内 報 の 発 行,従 業 員 教 育 な ど を通 して,良 好 な労 使 関 係 を築 く こ とに 意 を 用 い た の で あ る(31。
した が っ て,鷲 尾 が 別f鉱 山 の 労 務 管 理 者 と して 実 践 した こ とは ,全 体 と し て は 他 の 金 属 鉱 山 で 行 わ れ た こ と と 大 差 が 無 い とい え る か も しれ な い 。 労 使 間 の 意 思 疎 通 機 関 と して σ)「住 友 予州 親 友 会 」 は ,一{芹 系 の 「共 愛 会 」,三 菱 系 の 「親 和 会 」 「協 励 会 」,古 河 系 の 「鉱 職 夫 総 連 合 会 」 に 相 当 す る も の で あ り
f 社 内 報 と して の 「改 善 』 は 古 河 足 尾 鉱 山 の 『鉱 夫 の 友 』 や 三菱 生 野 鉱 山 の 『生 野 協 和 』 に相 当す る も の で あ っ た 。 鷲 尾 が 創 設 し た 「自彊 舎 」 で さ え も,他 の 鉱 山 で 会社 がM崔 した 法 話 会 や 修 養 団 と共 通 した 性 格 を 持 っ て い る で あ ろ う。
しか し,他 の 鉱 山 に お け る労 務 管 理 の 実 践 と鷲 尾 の そ れ と を 区 別 す る も の が あ る 。 そ れ は,鷲 尾 の 実 践 を 突 き動 か した 禅 宗 的 理 念 で あ るC;以 下 で は ,こ の 点 を 中 心 に し な が ら,労 務 管 理 者 と して の 鷲 尾 の 行 動 と理 念 を 追 跡 して い こ う。
[注]
(1)北 海道 炭鉱汽 船 では大IE2年(1913年)4月 に職 制の 大改 革が 行 われ,鉱 夫係 に独 、kの地位が 与え られ,「 この鉱 夫係 の も とにお いて 世話 役 制が 利用 され,直 轄制 が徹 底 してい った。…労 務担 当の 課,係 の設 置はそ の後 各企 業で 行 われ,た とえば 大{E9年 には,{菱 鉱 業本 店 に労 務課が,占 川合 名に は労働 課が それ ぞれ 新設 され てい る。 こ う した本 社の動 きだけで はな くS各 鉱 業所 で も更に労 務担"i の課,係 が 充実 され て いっ た」(問 宏 『日本労 務管 理 史研 究』 御 茶の 水書 房T昭 不目53{奮{(1978{1三),634〜35ガf,、)
(2)1司 詳},665〜754z{7777̀C、
(3)1司 ㌃等,677〜83隻1{。
4一 皿)「 自彊 舎 」
鷲 尾 は 明 治40年10月 に 住 友 本 店 か ら 「試 験 雇 い 」 を 命 じ ら れ,41年2月 に は 同 じ く住 友 本 店 か ら 「等 内 七 等 雇 」 と別f鉱 業所 勤 務 を 命 じ られ た がq〕,
「Lド の 円 融 」(労 使 の 協調)を 実 現 さ せ る こ とが で き る よ う な 疏場 に は 債 か れ な か っ た 。 そ こ で 明 治41年 の 夏 に 「二 ヶ 月 の 『休 暇 原則 を 出 して お い て 別 」し
44商 経 論 叢 第37巻 第3号
の 山 を 後 に,滋 賀 県 の 千 手 寺 に 西 山和 尚 を 訪 れ て 生 野 銀 山 に 行 く こ と を相 談 し だ5弓 。 か つ て 熊 本 の 見 性 寺 で 鷲 尾 を 指 導 し た 西 山 宗 徹 和 尚 は,今 は 滋 賀 に あ っ て,鷲 尾 に ア ドバ イ ス を 与 え る こ とが 出 来 た の で あ る。 鷲 尾 は 生 野 に 着 く
と,逃 亡 し た 修 行 僧 を 装 っ て 首尾 よ く飯 場 の 坑 夫 と して 採 用 さ れ ・50日 間 坑 内 労 働 を 体 験 した 後,飯 場 頭 を 騙 して 飯 場 か ら脱 出 した(Glc西 山 和 尚,鈴 木 総 理 事 に 挨 拶 した 後,鷲 尾 は 別 ∫に 戻 り,志 願 して 三年 に わ た り負 夫,坑 夫 と し て 働 き,次 に は 労 務 管 理 の 末 端 職 員 た る 係 員 と して 勤 め た 。 こ の 間 に 鷲 尾 は
「使 わ れ る も の の 立場 」 を 知 り,鉱 夫 の 「欲 せ ざ る と こ ろ 」 を熟 知 した す る と と も に,鉱 山 ・土木 技 術 に つ い て も本 格 的 に研 究 す る よ う に な っ た 。 鷲 尾 の こ の よ う な努 力 は,ヒ 司 の 目 を 引 く も の で あ っ た 。 明 治45年1月5H付 け で 鷲 尾 は 家 長,住 友 吉 左 衛 門 か らそ の 功 績 に よ り表 彰 さ れ た 。 辞 令 に は 次 の よ う に 記 さ れ て い た 。
去 明 治 四 十 一年 四 月特 二 某 鉱 山 二 赴 キ 身 ヲ変 シ ー鉱 夫 トナ リ テ 其 飯 場 二 入 リ ー般 鉱 夫 ノ徒 二 伍 シ テ 日夕 寝 食 ヲ 共 ニ シ 親 シ ク坑 内 ノ労 働 二 服 ス ル コ ト五 旬 余 又 帰1[1ノ 後 同 年{‑II採 鉱 課 勤 務 ヲ 命 セ ラ ル ル ヤ 重 ネ テ 坑 夫 支柱 夫 等 ノ坑 内 各 種 労 働 二 従 事 ス ル コ ト=年 有 半以 テ 備 サ ニ 箇 中 ノ 亨}酸ヲ実 験 シ 審 カ ニ 其 人 情 ト労 逸 ノ 真 相 ヲ観 察 シ タ リ 其 精 神 行 為 は 大 二 賞 賛 二 値 ス ル ノ ミナ ラ ズ之 二 依 リテ 将 来 我 別 子銅 山 ニ オ ケ ル 鉱 夫 ラ ノ感 化 訓 育 及 其 使 役 監 督 二 資 ス ル 所 極 メ テ 多 大 ナ ル ヲ覚 ユ 依 テ 銀 杯 壱 組 及 金 五 百 円 ヲ給 與 シ特 二 之 ヲ賞 ス{77
明 治45年 に 鷲 尾 は,若 い 鉱 夫 を 教 化 す る た め の 独 身 寮 を 兼 ね た 塾 の 創 設 を,鈴 木 馬 左 也 に 提 案 し た 。 鈴 木 は こ の 提 案 に 賛 成 して,塾 の 名 称 を 「自彊 舎 」 と し た 。 「そ の 由 来 は,明 治41年 に 発 布 さ れ た 戊 申 詔 書 に 『自 彊 息 ま ざ る べ し』 とあ り,ま た 易 経 に 『天 行 は 健 に通 ず る な り,君f以 て 自 ら彊 め て 息 ま 不(自 彊不 息)』 と あ る と こ ろ か ら と さ れ る 〔呂)」。 自彊 舎 の 建 物 は,旧 別 子 山 中 の 風 呂 屋 谷 の 中 山 飯 場 跡 を改 造 した もの で あ っ た 軌,塾 の 行 事 規 則 「自彊 舎 清
鷲尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(申)45
規 」 は,西 山 和 尚 の 指 導 の 下に 作 られ た 。 鷲 尾 は 次 の よ う に 記 して い る 。 「清 規 は 僧 堂 修 行 僧 の 規 矩 に 倣 う て 自彊舎 の 青 年 鉱 夫 に ふ さ わ し く作 っ た もの で あ る 。 要 は 「恒 の 心 』 を 育 て て 護 持 す る様 式 で あ っ た 。 舎 生 を募 っ た と こ ろ ,集
ま る もの20余 名 で あ っ た 。 そ こ で(西 川 宗 徹 和 尚 に 来 て 頂 い て 開 塾 式 を 行 い,一 週 間 の 接 心 を 行 っ たq。Uと 。 鷲 尾 は 私 財 を な げ う っ て こ れ を 経 営 し た 。 「自彊 舎 」 設 立 の 動 機 につ い て 鷲 尾 は,大ll三15年11月 の 講 演 の 中 で ,「L
ド円 融 」 を 図 る た め で あ っ た,と 述 べ て い る 。 鷲 尾 に よ れ ば,明 治40年 の 大 暴 動 の よ う な 事態 を未 然 に 防 ぐに は,使 用 者 と労 働 者 の 「上 ドの 円 融 」 が 不 可 欠 で あ る が,そ の た め に は 第 一に,「 坑 内 の 労 働 者 使 役 方 法 を 改 正す る こ と」
と,第 一二に は,「(労 働 者 を使 う 、腸 の 者が)労 働 者 と 所 に 起 層 して 自 他 と も に 修 養 して い く こ と」 が 必 要 な の で あ っ たqD。
飯 場 制 に お い て は,飯 場 頭 は労 働 者 と一 所 に 起 居 した け れ ど も,飯 場 頭 は 直 雇 の 職 員 で は な く,ド 請 け の 親 方 で あ り,彼 自身 は 身 分 的 に は労 働 者 と同 格 で あ っ た 。 鉱 山 に お い て は 一般 に,職 員 と労 働 者 の 身 分 は 明 確 に 区 別 さ れ て い た 。 職 員 用 の 社 宅 と労 働 者 用 の 社 宅 は 別 の 地 区 に 建 て られ,職 員 の 子弟 が 通 う 小 学 校 と労 働 者 の 子弟 が 通 う小 学 校 が 住 友 に よ っ て 別 々 に 建 て られ て い た 。 ま た 別r鉱 業 所 設 計 部 の 給 仕 と し て採 用 さ れ て,後 に 職 員 に}j7}Y/1;し た 亀 井 清太 郎 に よ れ ば 「便 所 も職 員便 所 と労 働 者 便 所 に 分 か れ て い て,そ の 使 用 も厳 重 に 区 別 して い ま した 。 … 煙 苧:を事 務 所 で 喫 煙 で き る 方 は 等 職 員 以Lで したq判 と い う よ う な 差 別 が 存 在 し た 。 鷲 尾 は,後 に 昭 和2年 に 住 友 別 チ鉱 山(株)常 務 理Fに 就 任 した と きの 講 演 で も,こ の よ う な 差 別 を 批 判 した が 照1,彼 は 住
友 入 社 時 か ら労 働 者 の 中 に 飛 び 込 み,「 一一所 に 起 居 」 す る 生 活 を 実 践 し た の で あ る 、,
また,飯 場 に お い て 飯 場 頭 は 家 父 長 的 な 支 配 を行 っ た 。 しか も 多 くの 場 合,
「飯 場 頭 は 雇 用 の 面 で は,前 借 り金 制 度 を 利 用 して 労 働 者 を 人 身 拘 束 し,生 活 の 面 で は,法 外 な 値 段 で の 日 用 品 の 支 給 や 賭 博 を 通 し て 労 働 者 を 借 金 奴 隷 化q円 して い た の で あ る。 こ れ と は 違 っ て,鷲 尾 が 若 い 労 働 者 と 一所 に 起 居 した の は 「自他 と もに 修 養 」 す る た め で あ っ た 。 修 養 の た め に は 先 ず,そ れ に
46商 経 論 叢 第37巻 第3号
ふ さ わ しい 環 境 が 必 要 で あ っ た 。 鷲 尾 自 身 の 言 葉 に よ れ ば,「 人 間 の 道 徳 的 な 態 度 と い う もの は,放 縦 な 生 活 か ら 生 まれ て は 来 な い 。 また,学 問 的 に 倫 理 学 で 良 心 の 支 配 とい う こ と を学 び 理 解 し た だ け で も生 ま れ て こ な い 。 知 っ た 上 に,こ れ を実 践 す る こ と に よ っ て 生 まれ て くる も の で あ る。 そ の 実 践 に は 良 い 環 境 が 必 要 で あ る 。 本 然 固 有 の 自 己,本 当 の 我 とい う もの はt肉 身 か ら来 る 人 欲 の た め に とか く曇 りが ち で あ る か ら,み だ ら な 環 境 の 中 で は 実 践 しが た い こ
と は,極 め て 当 然 の こ とq5U。 な の で あ る 。
自彊 舎 で は,生 徒 に よ る 「躾 」 の 自 習 自得 を 目的 と して,生 活 を様 式 化 して い た。 第 一一・に,師 と仰 ぐべ き 「占 賢 の 方 々」 を 学 堂(教 室 と講 堂 とを兼ね る 大 部 屋)に 祭 っ た 。 す な わ ち,中 央 に は 今 ヒ陛 ドと 皇 祖 皇宗,そ の 左 手 に は 孔fお
よ び 四 賢,右 手 に は 仏 教 諸 祖 が 祭 ら れ たq{%そ し て 生 徒 た ち は 毎 朝 の 祭 仕 で,御 勅 語 と経 書 の 一一一節,そ して お 経(お もに般 若心 経)を 全 員 で 朗 読 す る の で あ っ た 。 第 二 に,自 彊 舎 の 日課 は1.の 修 行 生 活 を模 範 とす る 禁 欲 的 な もの で あ っ た 。 塾 生 は 朝5時 に 起 床 し,敏 活 に 洗 面,掃 除,裸 体 操 を して,5時10 分 に 学 堂 に集 ま っ て 静 座 す る 。 つ ぎに こ こ で,前 述 の 祭 仕 が 行 わ れ る 。 学 堂 の 行 事 が 終 る と,朝 食 を と っ て6時 半 に 全 員 が 出勤 す る 。 … 夕 食 は午 後6時 か ら 7時 ま で で,午 後7時 か ら は全 員 がT静 座 の の ち 午 後9時 ま で 学 堂 で そ れ ぞ れ の 課 題 を 自 習 す る 。 午 後9時 に な る と,静 座,座 右 銘 の 朗 読 と敬 礼 か ら な る
「開 枕 行 事 」 が 行 わ れ,夜9時 半 に は 全 員 が 就 寝 す る の で あ っ たq7)。 こ れ は ま さ に,鷲 尾 勘 解 治 自 身 が,熊 本 の κ高 と京 都 帝 大 の 学 生 と して 禅 寺 で 修 行 を し た 時 と,同 じ生 活 パ ター ン な の で あ る 。
鷲 尾 は20人 ほ どの 青 年 た ち と共 同 生 活 を し なが ら,「 坑 内 の 労 働 者 使 役 方 法 を 改 正 す る こ と」 に も鋭 意 努 力 したL,大IB年12月21日 付 け で 鷲 尾 は 再 び 家 長,住 友 吉 左 衛 門 か ら そ の 功 績 に よ り表 彰 さ れ た 。 辞 令 に は 次 の よ う に記 され て い た 。
明治 四十 四年f一 月坑 務係 トシテ 三番 坑 道 ヲ担 当 シテ ヨ リ以 来熱 心 事 二 従 ヒ勤 勉 衆 二超 工 事業 ノ改 良進歩 二資 スル所 少 ナ カラ ズ大 正二 年 八 月採 鉱
鷲 尾勘 解 治 の経 営 理 念(中)47
課 別 子出張所 ノ 主傭 トナ ルヤ所 管 各坑 道 二 亘 リテ 諸種 ノ改 善 ヲ加 へ 殊 二負 夫 ノ労 働 効程 ヲ増 進 シ坑 内運 搬 ノ費 用 ヲ節 約 シ タル等 桔 据経 営 須 輿モ怠 ラ ス 其効 績 大 二称 スベ シ依 テ時 計壱 個 及金壱 封 ヲ給 與 シ コ レヲ賞 スq8)
別 子 銅 山 で は,第 四 通 洞 と 大 立 坑 の 完 成 の 機 会 に f大 正5年1月 に 採 鉱 本 部 を 別 子 山 中 の 束 延 か ら東 平 に 移 転 し た 。 こ れ に 伴 い f旧 別f在 住 の 鉱 夫 を 東 平,端 出 場 に 移 住 させ,ほ と ん ど全 施 設 を撤 去 した 。 自彊 舎 の 移 転 は 遅 れ た 。 自彊 舎 の 移 転 先 が 決 ま らず,2ヵ 月 半 も鷲 尾 と塾 生 が 別 白II中 に取 り残 さ れ た 原 因 は1別 ヂの 新 しい 経 営 首脳 が(技 術 革噺 を 重視 し)労 務 管 理 問 題 を軽 視 した 結 果 で あ る,と 鷲 尾 は 示 唆 し て い るil9)。 よ う や く 東 平 の 呉 木 へ の 移 転 が 決
ま っ た 頃 に,鷲 尾 が 過 労 で 倒 れ て,自 彊 舎 は 閉 鎖 さ れ て し ま っ だ2勉 ,
しか し,大 正 時 代 末 期 の 別 」労 働 争 議 を経 験 した の ち に は ,別 チの 経 営 首 脳 は も ち ろ ん 本 社 の 首脳 も労 務 管 理 と労 働 者 教 育 の 重要 性 を 充 分 に 認 識 す る よ う に な っ て い た 。X11.15年11月 に新 居 浜 の 山 根 に 新 田 自彊 舎 が1耳建 ・開 塾 され た と き に は,「 今 度 は 私(鷲 尾勘解 治)の 私 営 で は な く して ,鉱 業 所 の 経 営 と し て 正 式 に 出 来 ヒが る に 至 っ た{'?1)」の で あ っ た 。
[注 」
(4)新 居 浜 市 『鷲 尾 勘 解 治 翁 』,34〜35頁;自 彊 舎 記 念 会 「黙 翁 鷲 尾 勘 解 治 』12 頁 。
(5)新 居 浜 市 『鷲 尾 勘 解 治 翁 』,27頁 。 西 山 宗 徹 和 尚 は,明 治45年 の 自 彊 舎 創 設 の 時 に 「自 彊 舎 清 規 」 作 成 の 指 導 に あ た っ た ば か りで な く,大IEl5年 の 新 田 自 彊 舎 の 開 塾 を 記 念 す る 鷲 尾 の 講 演 に 臨 席 し,鷲 尾 の 老 師 と して 紹 介 さ れ た 。(鷲 尾r自 彊 舎 の 趣 旨 」r改 測 第2巻,第1号,8頁 ∂ 彼 は 昭 和3{1{2♪Jに は 京 都 妙 心 芋の 西 山 伏 虎 老 大 師 と して 自 彊 舎 に 招 か れ て 接 心 を1庶催 し,以 後 昭 和5年9 月 の 接 心 ま で,合 計5回 の 接 心 を 自 彊 舎 で1こ 催 し たC,(「 改 簿 』 第3巻 ,第3 弓㍉39ガ{;『 改 簿 』 第3巻,第5場,37ガf:『 改 善…』 第3巻,第9号,27ガ1〔;
『改 善 』 第4巻,第6号,18頁;「 改k]』 第5巻,第9号,49頁) (6)新 居 浜 市 『鷲 尾 勘 解 治 翁 』,27〜29頁 、、
(7)C司 『詳亨,37よ 頁u
(8)鷲 尾 勘 解 治 「鈴 木 馬 左 也 さ ん の 御 恩 」 『鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』195頁;『 住 友 別r
48商 経 論 叢 第37巻 第3号
鉱 山 史 』 ドー巻,116〜17真 。
(9)鷲 尾 勘 解 治 「鈴 木 馬 ノll也 さ ん の 御 恩 」 『鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』195頁;『 住 友 刃ll1 鉱ll使 』 倦,11碩.な お,紫 梶 勘 解 治rl'嘔 舎 の 趣 旨{1〕」 「改 善 』 第2巻 ・ 第1}∫ ・,3頁 で は 「別flllの ヒで 山 方 村 の 病 院 跡 に!'1彊 舎 を 設 け た 」 と さ れ て い る 。 し か し,こ れ は 講 演 の 速 記 録 な の で,鷲 尾 の 記 憶 違 い で あ る 可 能 性 が ヨ リ 高
い,〕
(10) (11) (12) (13)
鷲 尾 勘 解 治 「鈴 木 馬 左 也 さ ん の 御 恩 」 『鷲 尾 勘 解 治 自伝 』195〜96貞 鷲 尾 勘 解 治rr1彊 舎 の 趣 旨{1・」r改 渕 第2巻,第1レ}・3〜5∫ 旦・・ 亀ll=清 太 郎 『住 友 生 活Ii卜{1モ 回 顧 』1971年,7頁 、、
「新 居 浜 に 傭 員 の 子 弟 を 収 容 す る 小 学 校 が あ り ま す 。 … 端 出 場 在 住 の 傭 員 が 其 のf弟 を 汽 車 に 乗 せ て,途 中 の 危 険 に も か か わ らず 新 居・浜 ま で 通 学 さ せ て い る ご
と き は,極 端 な るIEI慣 墨 守 とiiわ れ て も,1f弁 解 の 辞 は 無 か ろ う と思 う 。 の み な らず,汽}1{が 山 根 ま で 来 る と 労 働 者 のf弟 は 降 りて 角 野 の 学 校 へ 行 くの に,傭 員 のr弟 だ け 分 か れ て 残 っ て お り,両 方 圧い に 面 白 か ら ざ る 感 情 を 抱 い て い る と い う ご と き 状 態 で あ り ま す が,こ れ が 果 た し てf弟 の 教 育}=い か な る 影 響 を 及 ぼ す べ き か 。 誠 に 寒 心 す べ き もの が あ ろ う,と 思 い ま す 」。(鷲 尾 勘 解 治 「臼 井 常 務
御 送 別 に 際 す る 所 感(2)」 「改ili:17』第3巻,第2レ ナ,4〜5頁.
(14)新 居 浜ll∫ 『新 居 浜 産 業 経 済 史 』154ガf(星 島 ・夫 稿)
(15)鷲 尾 勘 解 治 「市 民 の 道 場 」 「鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』225ガ{。 鷲 尾 のrr葉 の 中 に あ る
「本 然 固 有 の 自 己,本 当 の 我 」 は,前 述 の よ う に,仏 教 的 な 概 念 で あ る 。
(16)鷲 尾 勘 解 治 「自 彊 舎 の 趣 旨 〔3L『 改1剣 第2巻,第3翫2〜5頁 ・ な お ・ 祭 壇 に つ い て は 次 の よ う な 面 白 い エ ピ ソ ー ドが あ るL̀「 昭 和7年 の 夏 頃 で あ ろ う か,30歳 位 の 英 国 人 を 自 彊 舎 に 案 内 し た こ と が あ る 。 二 階 の 学 堂 に 祭 っ て あ る 神 儒 仏 の 聖 壇 に も案 内 し た と こ ろ,ス プ レ ン デ イ ッ ド と 答 え た ・ … し ば ら く た っ て,キ リ ス トは 何 故 祭 っ て な い か と 聞 か れ て,ち ょ っ と 面 食 ら っ た … 。 こ の 事 を 外 遊 か ら帰 られ た(鷲 尾 勘 解 治)翁 に 御 影 の お 宅 で お 話 し た ら,翁 は ニ コ ニ コ さ れ て,『 そ の 間 はIEし いn欧 米 を 廻 っ て み る と,キ リ ス ト教 が 彼 の 国 々 の 社 会 秩 序 を 保 つ 根 幹 で あ る こ と を,し み じ み と 感 じ た 。 キ リ ス ト教 も 立 派 だ 、 自 彊 舎 の 祭 壇 に キ リ ス トを 祭 っ て も 少 し も 差 し 支 え な い と 思 う 』 と 仰 っ た 」。 こ れ は 住 友 金 属1二 業 株 式 会 社 取 締 役,田 中 季 雄 の 回 顧 談 で あ る 。(『鷲 尾 勘 解 治 翁 』159〜60 頁;「 黙 翁 』89〜92頁)
(17)鷲 尾 勘 解 治 「自 彊 舎 の 趣 旨(3}」r改 善 』 第2巻,第3号,5〜6∬̀・ ・ こ れ は 大IE l5年 に 開 塾 さ れ た 新 田rl彊 舎 に つ い て 鷲 尾 が 述 べ た 事 柄 で あ る が,別 白h中 の
日課 も こ れ と 基 本 的 に 同 じで あ っ た と推 測 さ れ る 。 な お,新 田 自 彊 舎 σ)塾生 で, の ち に 新 居 浜 市 長 に な っ た'荒井 源 太 郎 が 語 っ て い るEi課 で は,朝4時 起 床 で あ
鷲尾勘 解 治 の 経 営 理 念(中)49
り.午 前 中 の 目 課 が い ず れ も30分 前 倒 し に な っ て い る 一、(『 鷲 尾 勘 解 治 翁 』163 頁;『 黙 翁 』96頁)
(18)「 鷲 尾 勘 解 治 翁 』39頁 。
q9)鷲 尾 勘 解 治 「鈴 木 馬 左 也 さ ん の 御 恩 」 『鷲 尾 勘 解 治 自 伝 』206〜208ガf ,、
(20)「 イ祓 別f鋤1痩 』 ド巻,117頁;鷲 尾 勘 解 治rl'1̀離 の 趣 」'(11」r改 潮 第2 巻,第 】 り㍉3虻 〔、、
(2D鷲 尾 勘 解 治 「自 彊 舎 の 趣j[la」 『改i .』 第2巻,第11},3頁),
4‑一皿)大 正 期 の 別 子 労 働 運 動 と 「改 善 会 」
鷲 尾 は 別 府 と福 岡 で 転 地 療 養 し,2年 後 に 別fに 復 帰 した 。 病 み ヒが りの 鷲 尾 は 最 初 設 計 部 勤 務 を 命 ぜ ら れ た が,大IEユ0年 か ら ノCr〔 お お だ い ら〕 所 長 の ドで 推 進 さ れ た 四 坂 島 製 錬 所 の 大 改 造 ・合 理 化 に 伴 う 人 員 整 理 の 難 題 を,み ず か ら進 ん で 担 当 して 円 満 解 決 した(肋 。 大iE10年 秋 に 鷲 尾 は 大'F所 長 か ら, 労 働 課 を組 織 す る よ う 内 命 を受 け,人 事,保 安,調 査 の{係 を 設 置 し}ll年1 月 に,鷲 尾 は そ の 初 代 課 長 に 就 任 し た 〔2:;},これ に 先 、ヒっ て,大 正9年q920 年)5月 に は 住 友 ア州 親 友 会 が 設 疏 さ れ た が,そ の 原 案 も 鷲 尾 勘 解 治 が 作 成 し た の で あ っ た 脚,,「 同 会 は,常 雇 の 労 働 者,請 負 人,傭 員 の 一部 な ど を 会 員 と し.会 員 相 圧 の 意 思 疎 通 を 図 り,親 睦 と 福 利 の 増 進 を 図 る こ と をli的 と し た{25目。 労 働 課 発 足 後,こ の 親 友 会組 織 が 整 備 され て,1二 場 委 員 会 的 な 性 格 が 付 与 され,.
ま た こ の 時 期 に,鷲 尾 は 親 友 会 の 付 属 事 業 と し て 鉱 夫 交 際 部 を 設1乞 し た 。
「大1臼0年,生 野 鉱 山 は … 各 鉱Illで 徐 々 に救 済 制 度 が 整 備 さ れ た こ と か ら,友 f同 盟 は そ の 存 在 意 義 を 失 っ た と してe交 際 廃ILの 回 状 を全 国 の 鉱 山 に 送 付 し た 。 これ が 別f鉱 山 の 鉱 夫 に 動 揺 を与 え た。 別f鉱III当 局 と して は これ を 放 置 す る わ け に も行 か ず,結 局 全 国 交際 を 廃ILし,別J山 中 の 交 際 の み に と どめ る こ と に して,親 友 会 の 中 に 付lr.̀と して 鉱 夫 交 際 部 を 設 け たt?li),以 一ヒを 要 す る に,鷲 尾 は,「 親 友 会 を 設 け る こ と に よ っ て,… 明 治 の 大 暴 動 を 通 し て 学 ん だ 意 思 疎 通 の 不f分 さ を こ こ で 挙 に解 決 し,共 済 組 合 や 友 ∫=同盟 を も吸 収 してsこ れ に援 助 を'∫え,温 情 一正義 に よ る 労 使 協 調 体 制 を確 、kし,労 働 運 動 の 職 場 へ の 侵 人 を 防 こ う と した 伽 」 の で あ る 、、
50商 経 論 叢i第37巻 第3号
こ こ で,大1正 初 期 の 労 働 運 動 を 一瞥 し よ う。 大IE1年(1912年)8月 に は, わ が 国 最 初 の 労 働 運 動 団 体 と し て の 「友 愛 会」 が 発 足 した 。 こ れ は 当 初 は 改 良
1三義 的 な 運 動 方 針 を採 用 して い た が,大 戦 ブ ー ム に よ っ て 労 働 者 の 生 活 が 圧 迫 され,労 働 運 動 は 激 し さ を増 して い っ た,,こ う し た 状 況 の 中 で 大IB年(191g 年)8月 に 「友 愛 会 」 は そ の 名 称 を 「大 日本 労 働 総 同 盟 友 愛 会 」 に 変 更 し,支 部 組 織 を 地 方 別 か ら職 業 別 に改 め,政 治 的 一{一張 を も掲 げ て 本 格 的 な 労 働 組 合 に 変 容 し た 。 さ ら に 戦 後 不 況 が 進 行 し始 め た 大 正10年q921年)10月 に は ・ 同 会 は 「日本 労 働 総 同 盟 」 に 名 称 変 更 して,社 会 民 主 主 義 的 な 方 向 へ の 復 帰 を宣 言 し た(28)。 鉱 山 業 に お い て は,大IE9年 に 結 成 さ れ た 「全II本 鉱 夫 総 連 合 会 」 が 「大 日本 労 働 総 同 盟 友 愛 会 」 に所 属 した 。 そ の 後 大1}n4年10月 に は, 連 合 会 は 「日本 鉱 夫 組 合 」 と改 称 した(vE)!0
い わ ゆ る 「別 子 労 働 運 動 」 は 大ii=.13年(1924年)の4・5月 の 交,谷 口 直 市(公 傷 休 業中賭1・糾;件 で解 雇)と 仁 尾 忠 一11二郎(公 傷 休 職 中)の 二名 が ・ 総 同 盟 大 阪 連 合 会 と 連 絡 を と っ て,労 働 組 合 の 結 成 を 画 策 した こ と に 始 ま るL̀30}。大 正 13年10月1日 に は 「日本 労 働 総 同 盟 別 子 労 働 組 合 」 の 発 会 式 が 行 わ れ た 。 こ の 当時,別 チ鉱 業所 の 全 労 働 者 約4,800名 の う ち,4分 の1の 約1200名 が 労 働 組 合 に 加 入 して い た 。 こ の 事態 に対 して 別r鉱 業 所 は,副 支 配 人 兼 労 働 課 長 の 鷲 尾 勘 解 治 に,12月20目 の 辞 令 に よ っ て 採 鉱 課 長 を 兼 務 させ て,当 面 の 労 働 問 題 を 鷲 尾 に 一一元 的 に 処 理 させ る こ と に した 。 冬 に な っ て 労 働 組 合 運 動 は 沈 静 化 し た が,そ の 間 に鷲 尾 は い わ ゆ る 「反 省 運 動 」 を 展 開 した 。 す な わ ち,鷲 尾 は 大 正14年(1925年)2月 中 ご ろ か ら3月 末 ま で に,各 所 の 穏 健 分 子 を 集 め
て 約40回 に わ た っ て 講 演 会 を 開 催 し た の で あ る 。 そ れ らの 講 演 う ち の 』つ が 雑 誌 『改 善 』 に 収 録 され て お りsこ れ は 鷲 尾 の 思 想 を知 るLで 貴 重 な の で,や
や 詳 し く紹 介 す る こ と に し よ う。
こ の 講 演 は.三つ の 部 分 か ら な っ て い る 。 第 一一の 部 分 は 「わ が 帝 国 の 現 状 と 之 に 対 す る 国 民 の 覚 悟 」 と 題 され る。 す な わ ち,現 今 の 「慢 性 不 況 」 ドの 経 済 的 困 難 と 「国 民 精 神 の 退 廃 」 を 指 摘 し,明 治 維 新 以 後 の 数 々 の 困 難 を 国 民 が 乗 り 越 え て きた と き と同 じ よ う に,今 回 も 天 皇 の 「国 民 精 神 作 興 の 詔 壽 」 を 感 激 奉
鷲 尾勘 解 治 の 経 営 理 念 叫 り51
体 して1「 質 実 剛 健 な 国 民 精 神 」 を 酒 養 せ よ,と 鷲 尾 は 訴 え て い るX31)。 第 一二の 部 分 は1わ が 住 友家 事 業 経 営 の 大 綱 と,こ れ に 基 づ け る 私 自 身 の 採 鉱 課 経 営 方 針 」 と題 され る。 住 友 家 の 経 営 方 針 の 根 本 は 「国 家 社 会 の た め 」 の 事業 経 営 で あ っ て,「 共 存 共 栄 」 「推 譲 報 徳 」 の 道 だ,と い う。 また 鷲 尾 は 自 分 の 信 念 が 住 友 家 事 業経 営 の 大 綱 と完 全 に 致 して い る,と{=7う 。 鷲 尾 に よ れ ば i一 方 で, 労 働 者 は 誠 実 熱 心 に労 働 す る こ と を 通 して,コ1̲派 な 人 格 を 完 成 す る べ き で あ
る 。 他 方 で,資 本 家 は 誠 心 誠 意 を も っ て 労 働 条 件 の 改 善 に あ た り,労 働 者 を し て 誤 解 も 不 安 もな く,そ の 能 力 を 発 揮 で き る よ う に 努 め な け れ ば な ら な い,の で あ るf3'?7。
こ の 講 演 の 第{の 部 分 は 「労 働 運 動 に 対 す る 私 の 考 え,な らび に 昨 年 来 の 労 働 組 合 運 動 に対 して 私 達 の 採 り来 た っ た 方 針 」 と題 され る 。 まず ,労 働 運 動 一 般 に つ い て,鷲 尾 は,「 多 数 労 働 者 が … 残 酷 な る 資 本 家 に 対 し,白 己 の 福 祉 の 躁 欄 せ ら る る を 防 ぎ,進 ん で そ の 境 遇 改 善 を 計 る た め に ,誠 意 穏 健 に0団 と な っ て 行 動 す る場 合 に お い て は 」 労 働 組 合 は容 認 され る,と い う。 しか し鷲 尾 は,労 働 組 合 の 承 認 に は 限 界 が あ り,そ の 限 界 と はr国 家 社 会 の 秩 序 を 維 持 し,発 展 を 阻 害 せ ざ る 範 囲 内 」 だ,と い う(33)。 しか し,別f労 働 組 合 の 運 動 は 社 会 の 秩 序 を 乱 す も の で あ っ た 。 鷲 尾 に よれ ば組 合 員 は 「組 合 に 加 入 せ ざ る もの を 目 して 犬 と呼 び,猫 と 蔑 み,罪 な き児 童 を虐 げ,た とえ 坑 内 に お い て 負 傷す る も,組 合 に 加 入 せ ざ れ ば救 護 せ ず,と 称 して 非 組 合 員 を 脅 迫 せ り。 しか して 組 合 員 は 組 合 の 力 を頼 み て … 横 暴 を 極 め,入 坑 して は 係 員 の 命 を 聞 か ず , 部 落 に あ りて は 仮 病 遊 惰 に して 揮 る と こ ろ な しC)こ れ 果 た して,人 の 人 た る道 で あ ろ うか(:即」 と い う状 態 で あ っ た 。
と こ ろ で 鷲 尾 に よ れ ば,争 議 は 「別 子銅 山 の労 働 者 の 使 役 方法 が 残 酷 で あ っ た,と い う よ う な 事 実 が 無 い の に 勃 発 した(3割 の で あ っ た,つ ま り,こ の 争 議 は,基 本 的 に は 外 部 団 体(総 同 盟 大 阪 連 合 会)の 介 人 に よ っ て 起 こ っ た も の だ}と い うの で あ っ た 。 した が っ て 鷲 尾 は,労 働 者 た ち を説 得 に よ っ て 善 導 で き る,と 楽 観 視 して い た 。 事実 こ の 「反 省 運 動 」 は 成 功 を お さ め ,大 正14年 3月 末 に は,組 合 員 数 は210名 に まで 減 少 した 。
521吝i糸 釜 占{命叢 第37巻 第3号
次 い で,こ の 会 社 側 の 「反 省 運 動 」 に 共 鳴 す る労 働 者 た ち の 中 か ら,企 業 帰 属 意 識 の 強 い 人 々 を 中 心 にM各 地 区 ご と に反 組 合 勢 力 を結 集 し,団 結 し よ う と す る 自 発 的 な 動 きが 生 ま れ て き た 。 大 一Ll4年5月 末 ま で に こ の 種 の 団 体 が10 団 体 結 成 さ れ たt3fi1。そ の 後,労 働 紅 合 側 の 反撃 の 動 きが あ っ た の で,別f鉱
業 所 は こ れ らの10団 体 をr東'ド 改 善 会 」 と 「端 出 場 改 善 会 」 の 二つ に統 合 し て,反 組 合 勢 力 を組 織 化 し よ う と した,、こ う して,大ll{14年9月15日 に 「改
善 会 」 の 発 会 式 が 行 わ れ た,,会 則 第2条 に は 「詔 勅 の 趣 旨 を 奉体 して 国 民 道 徳 を 実 践 躬 行 し,和 衷 協 力 して 部 落 の 改 善 を 企 図 す る をU的 とす 」 と明 記 され て い る 〔:3i)。ま た そ の 事 業 と して は7つ の1掛 丙が 挙 げ ら れ る。 第 ・に,「 質 実 剛 健 な る精 神 の 振 作,醇 厚 中 正 な 思 想 の 更 張,勤 倹 力 行 の 気 風 の 作 興 丁 風 紀 の 改 良,善 行 の 奨 励 」 な ど精 神 面 強 化 に よ り,地 区 の 改 善 に 当 た る こ とO第=に, 貯 蓄 の 奨 励 。 第 三に,模 範 会 員 お よ び 家 族 の 表 彰 。 第 四 に,低 利 資 金 の 融 通 。
第 五 に,会 報 『改 善 』 の 発 行 、、第 六 に,講 演 会 そ の 他,有 益 な 会 合 の 開 催 。 第 七に,消 防,衛 生,秩 序 に 関 す る 事 項,そ の 他,部 落 の た め 有 益 だ と 認 め ら れ る 事 業,で あ る 軸 。
鷲 尾 は 「改 善 会 は 純 然 た る 一個 の 修 養 団 体 」 だ と 主張 す る が{:戦 当 初 は, 外 部 団 体 の 働 きか け に よ っ て 成 立 した 労 働 組 合 に 対 抗 す る た め の 「御 用 組 合 」
と して 成 、kし,別fの 労 働 組 合 が 消 滅 した 後 に 「修 養 団 体 」 に な っ た,と 評 価 す る べ き で あ ろ う。 組 合 側 は 大 」E14年11月lklに 糸窓同 盟 会 長 鈴 木 文治 らの 参 加 を 得 て 大 会 を 開 き,別r労 働 組 合 を 日 本 鉱 夫組 合 別f鉱 山 支 部 と改 率ホす る こ と を 決 議 した,ま た12月1日 に は 鉱 夫紅 合 一}縛手の 加 藤 勘 一ト(σ)ち 芦 田内 閣労働 大臣)や 総 同 盟 大 阪 連 合 会 幹 部 の 大 矢 省 三が 出 席 して 別f鉱 業 所 に 対 す る12 の 要 求 項 目 を決 定 したICU)C,「そ の 事三な もの は,d)臨 時 雇 制 度 の 廃IL‑2'組 合 脱 会 運 動 の 中IL,③ 公 傷 者 に 対 す る 賃 金 の 八 割 支給,〔4)死 者 に 対 す る 弔 慰 金 τ・111 の 支 給,(5)解 雇 者 に 対 し,健 康 者=百 日 分,負 傷 者 一三百II分 の 支 給,⑤ 特 価 品
の 復 活,¥+!労 働 組 合 加 入 の 自 由,β ♪出 勤 日数 に無 関 係 に 安 米 月 一蛸 支 給,な ど で あ っ た 、、そ して,こ の 要 求 を嘆 願f‑[7の形 に 整 え,労 働 者 が 連 署 して提 出 す る こ とに し,組 合 員 以 外 の ・般 労 働 者 に も捺 印 を 求 め た 。 … こ う し た組 合 の 働 き
鷲 尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(llり53
か け に よ っ て,組 合 員 は 増 加 し,(12月)6[1に は紐 合 員 数600人 と 称 す る ほ ど に な っ た 明}r5
組 合 は12月10目 に 大 会 を 開 き,翌 日 か ら ス トラ イ キ に 人 る こ と を 宣 言 し たC,別 子 鉱 業 所 は,組 合 の 要 求 に 対 して,(1〕 組 合 員 の8割 が 公 傷 休 業 者 で あ る が,そ の ほ とん ど は 仮 病 者 で あ っ て,活 発 に 組 合 活 動 を 行 っ て い るCa② 組 合 は か つ て 特 価 品 と安 米 の 廃 止 を 要 求 し,会 社 側 は こ σ)要望 を容 れ て,こ れ ら を廃
止 し,そ の 分 を給 与 に 加 算 した 経 緯 が あ 惹 、 ③ 臨i時雇 は 一.ヒ 存 在 しな い,な どの 点 を指 摘 して,嘆 願,孝}=の受 理 を 厳 し く拒 み つ づ け た{職,別 」鉱 業 所 は12 月 末 と 大 【Kl5年1月 中 旬 に 多 数 の 組 合 活 動 分rを 解 雇 し(合 詩172名),他 方 で 説 得 に よ る組 合 脱 会勧 誘 活 動 を 続 け た,こ れ に 対 して組 合 側 は,徹 底 抗 戦 で 臨 ん だ が,形 勢 不 利 の プ レ ッ シ ャー に よ っ て 小 規 模 な 暴 力 事件 を 繰 り返 し引 き 起 こす 結 果 と な り1疲 弊 の 色 を 濃 く して い っ た 、,大 正15年2月 に は 総 同 盟 右 派 幹 部 の 西 尾 末 広(の ち芦田 内閣副総 理,民 社党 初代 委員 長)が 来lllし,香 坂 昌 康 愛 媛 県 知 事 と 会 談 して,争 議 の 調 停 を依 頼 した 。 別f鉱 業所 と労 働 組 合 は 大1 15年2月16日 に 知 事の 調 停 案 を 受 諾 し,争 議 は 終 結 し た,,争 議 指 導 者 た ち は 2月24日 ま で に 令 員 退 去 した 、、解 雇 者 た ち も3月 末 ま で に 全 員 退 山 し たf1:1〕。 加 藤 勘1'は 雑 誌 『大 衆 』 大IE15年4月 号 に 「争 議 感 想 記 」 を投 稿 し,「 別 子 鉱 lhの ス トラ イ ク は 明 ら か に 敗 戦 で あ っ た 」 と述 べ た(軌,「 争 議 後 別 ∫鉱 業 所 に お け る 労 働 運 動 は と だ え た 。 こ れ が 復 活 した の は,太'iろ 洋 戦 争 終 結 後 わ が 国 の 民1三化 が 始 ま っ た 昭 和21年(1946年)1月 で あ っ たq5・」。
[注]
(22>『 鷲 尾 勘 解 治 翁 』 で は 円 満 解 決 に つ い て,次 の よ う に 述 べ て い る,「 翁 は 整 理 の 原 案 作 成 に あ た っ て 第 ・に 相 当額 の 退 職.fを 支 払 う こ と に 決 め た 、、 未 だ そ の 頃 は 官 庁,会 社 そ0)他 の 事 業 体 に お い て 退 職 金 を 支 払 っ たL餅 列が な か っ た の で,よ ほ どIEi.Q.い切 っ た 考 え ノ∫で あ っ た 。 … ま た 整 理 の や む な き に 至 っ た 賢情 を 誠 意 を 以 っ て 話 し 合 っ た た め,退 職 昔 は 何 の 不'r不 満 も な く,ま た 何 ら の 波 乱 も 争 い も な く,実 に 円 満 の う ち に 整 理 が 行 わ れ た 」(57〜58頁Lな お,四 阪 島 製 錬 所 の 大 改 造 の 技 術 的 内 容 に つ い て は,「 住 友 別f鉱 山 史 』 ド巻,80〜87頁 を 参 照,、 製 錬 所 の 人 員 は,大IE7年 末 の1480人 か ら,大Il{14年 末 の500人 へ と3分 の1に 激
54商 経 論 叢 第37巻 第3号
減 し たC、
(23) (24) (25) (26)
『鷲 尾 勘 解 治 翁 』59頁 、,
「鷲 尾 勘 解 治 翁 』60頁
『住 友 別f鉱 山 史 』 ド 巻,124r'1,i,,;
『住 友 別 」覧鉱 山 史 』 ド 巻,125頁,、 鷲 尾 勘 解 治 は 「鉱 夫 同 盟 交 際 の 本 旨(1)(̀L1」
(『改 善 』2巻8[1̲f),2巻9号)の 中 で,友 ∫㌧同 盟 の 由 来,鉱 夫 交 際 部 の 設コ/̲,「 信 義 の 発 揚 」 に つ い て,詳 し く 述 べ て い る 。 鉱 夫 交 際 部 の 設1̲は,鷲 尾 が 明 確 に 述 べ て い る よ う に,労 働 組 合 が 友 」 同 盟 を 利 川 す る こ と を 防ILす る た め に 行 わ れ たU(『 改 善 』2巻8場,7頁).,
(27>
(28) (29) (30)
『新 居 浜 産 業 経 済 史 」27grf,
『住 友 別 」鉱[ll史 』 ド巻,119〜121頁 。
『住 友 別 」二鉱 山 史 』 ド巻,122頁 、、
大 【K末 期 の い わ ゆ る 「別J一 労 働 運 動 」 に つ い て は,住 友 別f鉱 山 株 式 会 社 労 働 課 『住 友 別r鉱lll労 働 運 動 の 顛 ・k』 昭 和4年(1929年)が,事 件 の 経 緯 を 詳 細 に 記 録 し て い る ・ 『住 友 別f一 鉱 山 史 』 ド 巻,126〜tlL1頁 は,こ れ を 巧 み に 要 約 し た も の で あ る 、、 な お,そ れ 以 外 の 断 片 的 な 記 事 を も 収 録 し た も の と し て,愛 媛 県 商1̲労 働 部 労 政 課 『資 料 愛 媛 労 働 運 動 史 』(全9巻)昭 和33年 〜lll拝il40年 (1958〜1965年)の 第4巻 と 第5巻 を も 参 照 せ よ 、
(31?
(32) (33) (34) (35) (:36) (37) (38>
『改 簿 』 第1巻,第3り̀LI
『改 善 』 第1巻,第4Clf,』1・
「己交 善 』 第1巻,第5}}』 。2‑)3ガ 乏。
『改 一rti'LI三』 第1巻,第5}ナ し、5ガ 芝、}
『住 友 別 」吃鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』150∫ し、
『住 友 別r鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』180〜187i'1
「住 友 別1一 鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』209頁 。
『住 友 別f鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』209〜210頁;さ ら に 詳 し く は,鷲 尾 勘 解 治
「改ltY.C1会の 事 業 に つ い て 」 『改 誇 』 第1巻,第3号 を 参 照 。
(39) X40) (41) (42)
鷲 尾 勘 解 治 「改 善 会 の 起 源 」 『改 善』 第1巻,第7F7/」,8頁U
「住 友 別r鉱lll労 働 運 動 の 顛 末 』251〜252頁,
『住 友 別r鉱 山 史 』r巻,132頁 。
「改 善 会 に お け る 鷲 尾 相 談 役 講 演 要 旨 」 『イi三友 別f鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』289〜
3061‑1(,
(43)「 住 友 別1鉱lll史 』 ド 巻,135‑136i'i
(44)『 住 友 別 子 鉱 山 労 働 運 動 の 顛 末 』640頁 、 (45)『 住 友 別f鉱 山 史 』1ぐ 巻,136E1,、
鷲 尾 勘解 治 の経 営 理 念(中)55
4‑一一一N)自 彊 舎 の 再 建
住 友 別 ∫・鉱 業 所 は,昭 和2年7月1[1に,住 友 合 資 か ら 形 式L(法 的 に)独 SI̲して,住e. 友 別 了鉱 山 株 式 会 社 と し て 新 発 足 し たE4filc、鷲 尾 は 別r労 働 争 議 当
時,別 」鉱 業所 の 副 支 配 人(労 働 課長 と採 鉱 課 長 を兼務)で あ っ た が,労 働 争 議 解 決 の 功 績 を 認 め られ て,常 務 取 締 役 に 就 任 したU同 年10月 に は 臼 井 定 民 常 務 取 締 役 が 新 居 浜 を 去 っ てT鷲 尾 勘 解 治 が 住 友 別 子 鉱Iliの1モ 管 者(最 高 責任 者)に 就 任 して}「 末 期 の 経 営 」 論 を 披 露 す る わ け で あ る 晩,こ れ に つ い て は の ち に 詳 論 す る が,こ こで は 別 」監労 働 争 議 後,「 末期 の 経 営 」 論 発 表 ま で の あ い だ の 鷲 尾 の 活 動 に 注 口 し よ う。 彼 は こ の 間,労 働 者 の 社 内 教 育,し か も道 徳 教 育 を 含 む 「ト ド円 融 の た め の 社 内 教 育 」 に全 力 を 注 い で い た の で あ る,,
す な わ ち,大IEl5年11月 に 新 居 浜 の 山根 新 田 に 自 彊 舎 が 再 建 さ れ,鷲 尾 勘 解 治 は 再 び 「若 い 労 働 者 た ち と ・所 に 起 居 して 自他 と も に 修 養」 す る 生 活 を始 め たG再 建 さ れ た 自 彊 舎 の 趣 旨 は,別 ヂ山 中 の そ れ と1司じで あ っ た が,前 述 の よ う に 今 回 は 別 」な鉱 業所 が そ の 経 営 費 用 を負 担 し た。 そ の 他f次 の こ点 に お い て 小 さ な 相 違 が 見 られ た 。 第 ・はY新 田 自 彊 舎 で は 生 徒 の 自 治 が 強 化 さ れ た 点 。 献1.1j̲・会 計 な ど を掌 る 司 厨 委 員,祭 壇 の 供 物 ・学 堂 の掃 除 な ど を 掌 る学 堂
委 員,衛 生 ・娯 楽 ・風 紀 な ど を掌 る 紀 綱 委 員 が 置 か れ たq8〕。
第=は,講 習 会 や 接 心 が 盛 ん に 行 わ れ た こ と。 講 習 会 は7日 間 な い し10日 間 行 わ れ,こ の 期 間 は 塾 生 以 外 の 社 員 を 入 れ て80=名 か ら100名 の 規 模 で の 生 活 と な る。 自彊 舎 の 清 規 に 従 っ た 生 活 を100人 親 模 の 社 員 が 行 う わ け で,昼 間 は 普段 ど お り韻 社 して 仕 事 を し,ふ だ ん 塾 生 が 自習 を 行 う夕 食 後 の2時 間 に, 鷲 尾 勘 解 治 が 連 夜 の 精 神 訓 話 を行 うの で あ る 、,第1回 の 講 習 会 は 昭 和2年2月 13日 か ら23日 ま で の10泊11Etで 行 わ れ,そ の 後 昭 和4年3月 ま で に10回 の 講 習 会 が 行 わ れ た 〔細 。 他 方,京 都 妙 心 芋の 西 山 伏 虎 老 大 師(か つ て熊 本 の 見 性 芋で鷲 尾 を教 導 した 西山宗 徹和 尚)を 招 聰 して 行 わ れ る の が,「 接 心 」 で あ る 。
これ も約10fl間 連 続 で 行 わ れ る が,講 習 会 と 同 じ く 自 彊 舎 の 清 規 の 中 で 行 わ れ,ふ だ ん 塾 生 が 自習 を 行 う 夕 食 後 の 時 間 に,西 山老 師 が 連 夜,禅 宗 経 典 を 約 1時 間 解 説 ・訓 話 した 後 に,全 員 が 坐 禅 す る の で あ る。 第lllllの 接・心 は 昭 和2
56商 経 論 叢 第37巻 第3111」
年2月18日 か ら291;ま で の10泊1111で 行 わ れ,そ の 後 昭 和5年9月 まで に 5回 の 接 心 が 行 わ れ だ5ω 。
第3は,作 務 が 盛 ん に 行 わ れ た こ と。 新 田 自 彊 舎 講 習 会 で 鷲 尾 は 「作 務 に つ い て 」 と 題 す る 訓 話 を 行 っ て お り,そ の 要 旨 が 『改 善 』 誌 に 掲 載 さ れ て い る 鰯 ㌧,禅 宗 で は 修 行 僧 た ち が ド1給自足 の 生 活 をす る た め に作 務 を 行 い,こ れ は また 修 行 僧 に と っ て,精 神 修 養・の 意 味 も持 っ て い た 。 鷲 尾 に よ れ ば,自 彊 舎 で も生 徒 た ち が,生 産 的 労 働 を 身 を も っ て 体 験 し,「 精 神 修 養 の た め に」 勤 勉 に 無 償 の 労 働 奉 仕 を行 う の で あ っ た(?自 彊 舎 で は 公 休 日の 行 事 と して 作 務 を 行 っ た が,講 習 会 を 開 催 す る に つ れ て,各 部 落 か らの 参 加 者 が 増 加 し,後 に 述 べ る よ うに,つ い に は 作 務 に よ っ て 新 居 浜 の 大 規 模 な}木 事 業 が 推 進 さ れ る よ
う に さ え な る の で あ る,,
鷲 尾 が 住 友 別 子 鉱lhの 最 高 責 任 者 に な っ た 後 の 昭 和4年(1929年)7月 に は,従 来か ら存 在 した 実 習 学 校 が 自彊 舎 に 吸 収 さ れ,自 彊 舎 実 業 自習 学 校 が 開 校 され た 。 別f鉱 業所 で は 明 治30年5月 に,別f山 と新 居 浜 に 講 習 所 が 開 設 され,こ こで 未成 年 労 働 者 の 教 育 が 実 施 さ れ て い た ー/これ は 「不 幸 に して 中 学 校 に 行 け ず 住 友 に就 職 した 者 の た め に 中 等 の 実 業 教 育 を 授 け る夜 学 校 」 で あ っ て,「,)f%.tt通科 は2ヶ 年,専 科 は2ヶ 年,補 習 科 は1ケ 年,計5ヶ 年 」 で あ っ たli?1,講 師 は,別 チ鉱 業 所 の 傭 員 と(私 の 住 友惣 開 尋 常 高 等 小 学 校 の 教 員 が 担 当 し た。 これ は労 働 者 に と っ て は 昇 進 の た め の 重要 な 階 梯 で あ っ て,講 習 所 の5年 間 の 教 育 を受 け た 者 の 多 くが,住 友 内 部 の 学 力 検 定 試験 に 合 格 して,職 員 に 昇 進 して い っ だ531。 こ の 自習 学 校 は,知 識 や 技 術 を 教 え る た め の 補 習 学 校 で あ り,躾 を 教 え る 精 神 修 養 の た め の 機 関 で は な か っ た 。 こ れ を 鷲 尾 は,修 養 機 関 で あ る 自彊 舎 に 編 人 ・統 合 した の で あ る,,
昭 和4年7月 に,新 た に 「自彊 舎 規 定 」 と 「自彊 舎 実 業 自習 学 校 規 定 」 が 制 定 さ れ た が1;11,後 者 の 中 で は,「 家 庭 ノ 都 合 其 ノ他 二 因 リ人 塾 ス ル コ ト能 ハ ザ ル 者 ニ シ テ 自 彊 舎 ノ精 神 ヲ守 リ習 学 ノ志 篤 キ 者 二 限 リ特 二 詮 衡 ノ ヒ外 生 トシ テ 入 学 ヲ 許 可 ス ル コ トア ルベ シ」 と規 定 さ れ,自 彊 舎 の 精 神 を持 っ て 進 む 意 志 の あ る も の だ け が,入 学 を 許 ロ∫さ れ た の で あ る 。 鷲 尾 は 「自彊 舎 は ど こ まで も修
鷲尾 勘 解 治 の 経 営 理 念(中)57
養 的 生 活 を な す と こ ろ で あ り}学 校 は そ の 一・部 と して これ に付 属 して い る もの に 過 ぎ な い 。}'1彊 舎 が 本 体 で あ っ て ,学 校 は そ の 一部 で あ る1:151」こ と を 強 調 した が,自 彊 舎 実 業 自 習 学 校 も 昇 進 の た め の 重 要 な 階 梯 と して 機 能 しつ づ け た 。 溝 習 所 とは ち が っ て,こ こ で は 学 習 は 自習'i護 が 基 本 で あ っ た が,講 師 た ち は 生 徒 た ち の 自 習 を 前 提 と し て 教 授 を お こ な っ た 。 ま た,演 習 科 目 も あ っ た 。 自 彊 舎 実 業 自 習 学 校 の 課 程 と し て は ,f科,本 科,専 科 が あJ,た 。 「弄科 は 「読 み 書 き算 盤 』 を 大 体 中 学 一{年程 度 まで や る 。 本 科 に 進 む と… 生 徒 を 分 け て 事務 に 行 く人 とi二務 に 行 く人 と し,事 務 部 な ら び に 一il務部 に お い て 実 業 に必 須 な る 知 識 を,こ れ も 大 体 中 学 校 の1‑{年 程 度 まで 授 け る 。 … 専科 は こ れ を 事務 部 と1二務 部 と に 分 か ち ます が,… 事務 部 を 分 っ て 庶 務 課 お よ び 経 理 課 と した の で あ り ま す 。 工 務 部 の ほ う は 採 鉱 ,製 錬,電 気,上 木 建 築 等 の 分 科 を 設 け る(56Uこ と と した 。 こ う して,自 彊 舎 実 業 自 習 学 校 は 自彊/#41T精 神 を 体 得 し た 優 秀 な 若 い 職 員 や 職1二 を育 て る教 育 機 関 と して,整 備 さ れ た の で あ る ,,
〔注]
(46)従 来 住 友 総 本 店 一一住 友 合 資 が 直 轄 事 業 と し て 営 ん で き た 各 種 の 事 業 は ,大1E 時 代 に 相 次 い で 株 式 会 社 と し て 独r̲1/,さ せ ら れ た 、,(明 治45年 住 友 銀 行,大 正4年 住 友 鋳 鋼 所,大IE9年 住 友 電 線 製 造 所,大lll12年fi三 友 倉Ill〔,大iE14年 住 友 肥 料 製 造 所 汰1臼5イ 印 成fl剛 鋼 管 肩 祓 別f鋭llllの 資 本 金 は1500川 ・1,取 締 役 会 長 は 湯 川 寛E:tt(住 友 合 資 総 理 犀鋤1同 社 の 株 式 は ,住 友 家 ・族 と 住 友 合 資 に
よ っ て 保 有 さ れ た ,(『 住 友 別 」九鉱 山 史 』 ド巻,150頁) (47)rfL友yfil∫ 一鉱lli史 』 ド巻,170∫f, ,
(48)鷲 尾 勘 解 治 「自 彊 舎 の 趣 旨(そ の3)」 「改 跨 』 第2巻 ,第3}}・,7頁 、,
(49)「 改 善 』 第2巻 ・ 第 腸,30〜3頂;第2巻 ,第51ナ,29〜31ガ ご;第3巻 第 7り 薗,38〜 ・4】ダf;第4巻,第4!弓',28〜29r、
(50)r己 嬉 』 第3巻,第3り ・,39頁;第3巻 ,第5}},37頁;第3巻,第9号,27
頁;第4巻,第8号,18〜19頁;第5巻,第9り,49頁 。
(51)『 己文 酋…』 第2巻,第7}}、,
(52)亀 川一{frj必く良1̀『fk友 ノL言舌50#:「 置II雇r{』II召利146勾 こq971{1三) .3ガf (53)1司 ヒ,13〜14里 「f、,
(54)『 改 善 』 第4巻,第6写 一。14〜18頁,,
(55)鷲 尾 勘 解 治 「自 彊 舎 実 業 自 習'γ:校 に 就 て 」 『改 簿 』 第4巻 ,第61},=、6頁1、
58商 経 論 叢 第37巻 第3号
(56)鷲 尾 勘 解 治 「1'i彊 舎 実 業 自 習 学 校 に 就 で:i」 『改 善 』 第4巻,第8号 。7〜8 頁.
5)「 末 期 の経 営 」 と 「地 方 後 栄 」
5‑1)「 末 期 の 経 営 」 論
昭 和2年(1927年)10月15Hに,住 友 別f鉱 山 株 式 会 社 の 主管 者 で あ る 臼 井 定 民 常 務 が 定 年 退 職 し,鷲 尾 勘 解 治 常 務 理 事 が そ のi三管 者 と な っ た 。 こ の 時 の 挨 拶 で 鷲 尾 は,住 友 別 子 鉱 山 の 最 高 責 任 者 と して の 自 らの 経 営 方 針 を披 潅 し
た 。 こ の 挨 拶 の 中 で 第 一一に 注 目 す べ き は,「 事 業 を 経 営 し て い く こ と の 目 的 は,た だ 単 に 営 利 事業 と して の そ の 事 業 を 発 達 せ しむ る と い うに 存 す る の で は な い(571」 と明[‑3し て い る こ とで あ るn鷲 尾 に よれ ば,「 我 々 と して は ・ 我 々 の 職 業 そ の もの を,宗 教 家 の い わ ゆ る崇 高 な る 人 生 と為 し,我 々の 職 業 そ れ 自 身 の 中 に 崇 高 な る 人 生 観 を打 ち 、kてて い か ね ば な ら な い … 。 か か る精 神 を持 っ て す る 経 営 で あ り,し か も そ の 経 営 の 結 果 が 世 道 人 心 を 益 し,事 業 の 利 益 を 増 し,従 業 者 の 幸福 を 招 来す る こ と と な る よ う な 経 営 で な け れ ば,真 の 経 営 に あ らず 、,以 っ て 我 々 の 真 の 人 生 と 為 す に 足 ら な い 榊 」 の で あ っ た 。
第 二に 注 目す べ き は,旧 弊 一 新 と 陰 徳 を 勧 め て い る 点{59〕。 鷲 尾 は と り わ けf職 員 が 過 剰 に 採 用 さ れ て,良 い 仕 事 を して い な い に もか か わ らず 厚 遇 さ れ て い る こ と を 問 題 視 し,「 で き る だ け 従 業 員 の 数 を 少 な く し,精 鋭 を 集 め,事
業 の 能 率 を 高 め る こ と に 専 念 し な け れ ば な ら な い 」 と の べ る 翻 。 鷲 尾 は こ の 問 題 を そ の 後 も幾 度 とな く繰 り返 して 指 摘 し,実 際 に 経 営 改 善の た め に,職 員
と労 働 者 の 大 量減 員 を 断 行 し,組 織 の 簡 素 化 を 実 行 した の で あ っ だ6D。
鷲 尾 の 就 任 挨 拶 に お い て 注 目す べ き第 この 点 は,「 末 期 の 経 営 」 論 で あ る 。 鷲 尾 は 言 うC)「 当 鉱 山 は,す で に 元 禄 年 間 か ら 二百 年 来の 経 営 を 続 け て きた の で あ り ま す が,鉱 脈 の 最 も 宜 し い の は 四 番ff番(坑 道)辺 で,八 番(坑 道)辺 に 至 る と 大 分 変 化 して お り,卜 番(坑 道 〉 で は ま た 変 化 し7卜 番(坑 道) 以 ドは{度 変 化 して お りま すr7し か して そ の 変 化 は,ド へ 行 くほ ど悪 く変 化 し て お り ま す 、、今 後kと して 出 鉱 の あ る の はi=番(坑 道)以 ドで あ り ま す か
鷲 尾勘 解 治 の経 営 理 念 〔中)59
ら,坑 内 の 状 態 は,鉱 質 よ り言 い ま して も,鉱F=3.よ りt7い ま して も,非 常 に悪 くな っ て い る わ け で}鉱 山 の 経 営 は 末 期 とC'7わ ざ る を 得 ませ ん(62)⊥,こ れ は , 労 務 管 理 そ の 他 の た め の 方便 な の で は な く(63),鷲 尾 が 厳 格 に 鉱 量 調 査 を 行 わ せ た結 論 で あ っ た1)鷲 尾 に よ れ ば 「今 まで の 鉱 体 の 形 勢 か ら して 残 存 鉱 量 を 計 算 す る 時,当 時 の 出 鉱 量 を糸餅 芋す る もの と して,以 後 トし,八 年 しか 無 い iと い う結 論 に達 した 」 の で あ る 脚,,
この 鷲 尾 の 発,,室は,住 友 合 資 会 社 に も,地 元 新 居 浜 の 人 々 に も,大 きな 衝 撃 を 与 え た 。 鷲 尾 に よ れ ば,住 友 合 資 会 社 の 経 営 陣 は 「鉱 巌 を 調 査 して 示 す に も か か わ らず,… こ れ を 無 視 して,な お 鉱 脈 は 無 尽 蔵 で あ る と唱 え て ,地 方 後 栄 の 策 な ど こ の 不 況 時 に 住 友 の 耐 え る と こ ろ に あ らず と して ,非 難 攻 撃 」 を 加 え た 嚇 ㌔ 地 方 後 栄 に つ い て はf鷲 尾 は 次 の よ う に47う,,「 鉱 山 の 寿 命 が わ か っ た 以L,地 方 の 人 々 も労 働 者 も不 安 に 思 う の は 当 然 で あ り ま して ,住 友 は なが い 間 この 地 で 鉱 山 を経 営 して お 世 話 に な っ た の で あ る か ら,仮 に 鉱 山 が な くな っ て も地 方 の 荒 れ る こ との 無 い よ う に,鉱 山 の 余 命 の あ る あ い だ に ,地 方後 栄 の 計 を 、kてて,住 友 と して は 地 方 に 対 しR尽 くせ る だ け の こ と を 尽 くす べ き だ ,
とい う の が 私 の 考 え で あ り ま し た 。 これ に 対 し,住 友 本 社(IEし くは 住 友 合 資 会 社((ifs1)か ら 公 式 に 否 定 の 言 葉 は 無 か っ た が,伝 え 聞 く と こ ろ に よ る と7大 阪 の 人 々 の 中 に は,地 方の 後 栄 の 策 な どは と ん で もな い こ とで,鉱 脈 が 尽 き れ ば 引 き ヒげ る 他 は な い,と い う の が 多 数 の 意 見 で あ っ た と 言 わ れ て お り ま す(tai)。
他 方,地 元 の 人 々 も大 きな 衝 撃 を受 け た 、 当時 の 新 居 浜 町 長 白 石 誉 一二郎 が 鷲 尾 の 爆 弾 発tiに 接 した 時 の 様 」は,「 ナ メ ク ジ が 塩 を か け ら れ た よ う な 滅 入 り
方」 で あ っ た 噛 。 しか しな が ら,そ の と き鷲 尾 に は 「相 当 占 くか ら頭 の な か に 描 い て い た((iy」 雄 大 な 地 方 後 栄 策 が あ っ た 、 白 石 は 「す こ ぶ る 感 激 し て 直 ち に こ れ に 答 え た 。 か つ て 銅 山 が 漸 く 老 廃 に 近 づ き つ つ あ る を 聞 き い た る も, 今 的 確 に 命 数 の 近 き将 来 に迫 れ る を 知 る に 至 っ て,実 に 冷 水:'を 浴 び た る の 感 に打 た れ た 。 然 る に 後 段 さ ら に 後 継 事 業 を 考 慮 せ ら る る と の 温 情 に接 して 衷 心 感 謝 」 し}「 公 共 的 に 協 力 援 助 を惜 し ま ぬ も の で あ る と,lr埼腔 の 誠 意 を 以 っ
60i百,1,f:し 論 叢 第37巻 第3≒ ナ
て 固 く 誓 っ た の で あ っ た σ0}」。
[注]
(57)鷲 尾 勘 解 治 「f̀'併常 務 御 送y;ilに 際 す る 所 感 」 『改 善 』 第3,!第1,}・7貞'・
(58)1司 ヒ,8rt',
(59)鷲 尾 勘 解 治 「臼 井 常 務 御 送 別 に 際 す る 所 感 〔2U『 改 善 』 第3巻,第2疑2〜7 頁
(60)ItrJヒ,7〜9L'f。
(61)鷲 尾 勘 解 治 「会 社 の 現 状 と,之 に 対 す る 私 の 経 営 方 針{2}」 『改titi:[7』第3巻 ・ 第 7}ナ.6〜8頁;鷲 尾 勘 解 治 「改 善 会 な ら び に 会 社 の 近 況(2)」 「改1Y』 第4巻 ・ 第 2}ナ.5〜1〔 頂;111本 雄rfll友 合 資 会 社(・11):大IE15{卜 昭 和5剰1イ1或 史
半こ1・食官肇1乏』 舞醇31巻,、1勺 轟〜12{卜(2000{卜),266豊 ∫1
(62)鷲 尾 勘 解 治 「臼1卜 常 務 御 送;,i1に 際 す る 所 感 〔2)」「改 善 』 第3巻,第2}}、10 r{1,,
(63)小 林 漢:「 新 居 浜 地 方 に お け る 金 融 恐 慌 の 諸 相 」 『新 居 浜 産 業 経 済 史 』 所 収,297頁 は,「 勤 労 意 欲 を 失 っ て し ま っ た 従 業 労 働11を 積 極 的 に 協 力 さ せ る た め 」 と 「払 拭 し が た い ま で に 植 え 付 け ら れ た 地 元 住 民 の 住 友 不 信 鼎 反 住 友 感'1占を 新 す る た め 」 の 虚 構 で あ っ た,と し て い る し か し,銅 山 末 期 説 は,厳 密 な 科 学 的 調 査 に 基 づ く 説 で あ り.r,そ の 後 も 別f鉱111の 出 鉱 銅 品 位 は 低 ド し つ づ け た 。 し か も,鷲 尾 の 銅il1末 期 説 は,何 よ り も,住 友 合 資 会 社 の 幹 部 に 衝 撃 を'チ え た の で あ る か ら,小 林 漢=の 説 に は 根 拠 が 無 い1、 「新 居 浜 産 業 経 済 史 』 の 中 に は,「 鷲 尾 勘 解 治=フ ァ シ ス ト」 と い う 根 拠 無 き 先 入 観 を 前 提 に し て 、書}か れ た 部 分 が 多 い が,こ の 部 分 も,鷲 尾 に 対 す る 根 拠 無 き 悪 意 か らtR.raかれ て お り,社 会 科 学 の 論 文 と し て は,問 題 に な ら な い
(64)鷲 尾 勘 解 治 『私 の 考 え た 新 居 浜 の 将 来 』 昭 和52年(1977年),7頁 ・・(こ れ は 昭 和30年 ご ろ の 愛 媛 科 学 教 育 研 究 会 で の 鷲 尾 の 講 演 の 原 稿 を,後 に 活 字 化 し た も の で あ り,そ の ド 要 部 分 は 『鷲 尾 勘 解 治[̀1伝 』 の257〜278頁 に 収 録 さ れ て い る),
(65)「 鷲 尾 勘 解 治 白 伝 』,265頁
(66>「 住 友 合 資 会 社 」 が 「株 式 会 社 住t社 」 に 改 組 さ れ た の は,昭 和12年(1937 年)3月 の こ と で あ る
(67)「 鷲1{三勘 角牟〜f二rピlf.云』,265〜266ダ{臼
(68)『 白 石 誉=郎 翁 伝 』,昭 和50年(1975イiモ),1241
(69)矢 崎 総 治 「[鷲 尾 君 の]別f一 銅 山 末 期 経 営 と そ の 善 後 策.ひ い て は 新 居 浜 市 の 将 来 の 繁 栄 持 続 に つ い て の 構 想 は,相 当 占 く か ら 頭 の 中 に 描 い て い た も の で … 」