16 Field+ 2011 01 no.5
フィールドの風景 「ヴー、ガウガーウ!」
小型バスを乗り継ぎ、途中下車して歩く こと1時間。大きなバックパックを背に、
汗と砂埃にまみれた私を真っ先に迎えるの は、これまた砂埃にまみれたルワである。
私は無類の犬好きだが、ルワはどうも苦手 だ。毎年やってくるのに、いつも噛みつか んばかりに吠えまくる。犬は匂いで人を記 憶するのではなかったか。いい加減に覚え ろよと、棒きれで鼻面を叩くが、一歩も引 く気配はない。さすが勇猛で知られるワ族 に「ルワ(野蛮なワ族への蔑称)」と呼ば れるほどの犬である。
私の専門は言語学。中国雲南省西南部、
メコン川以西に分布する「ワ」と総称され る人々の言語を調査している。私のホスト ファミリーは急激に流入した漢族を嫌い、
街外れに居を移した。ルワは漢族除けであ るという。なるほど、日本人(ワ語で「水 辺の漢族」と表現)にも遠慮がないわけだ。
フィールド言語学
言語学とは、言語の様々な側面を解明し ようとする学問である。言語資料さえあれ ば、どこでも様々に構想をめぐらすことが できる。しかし、肝心要の資料に乏しい言 語を対象とする場合、フィールドワークに よる資料収集が不可欠となる。このような
フィールドワークを主たる手法とする言語 学を「フィールド言語学」と呼ぶ。
私はフィールド言語学には、二つの活躍 の場があると考えている。一つは、言語そ のものの構造解明である。もう一つは、言 語を通してその話者集団の文化のありよう を解明することである。両者は別次元の問 題のようにみえるが、複雑に絡み合う部分 も少なくない。話し手の生活・文化空間に 入り込むフィールド言語学は、言語と言語 外現実の切り離しがたい関係を認識するこ とのできる、またとない現場でもある。
言語研究とテキスト
未知の言語の調査は、通常、基礎語彙を 集めることから始まる。単語の比較をとお して、音の種類や配列などを解明していく のである。音の仕組みがだいたい分かる と、さらに大きな単位である句や文へと関 心を向ける。多くの場合、事前準備した項 目に対し、媒介言語から対象言語へと翻訳 するかたちで調査をすすめていく。しか し、この調査方法はやがて行き詰ること になる。調査者の主観で選択された項目 ばかりでは、「木を見て森を見ない」議論 に陥りかねないからだ。このようなインタ ビュー調査の限界を克服するために、テキ ストの収集が不可欠となる。
ところで、フィールド言語学で求める
「テキスト」とは、単に文以上の言語的ま とまりを指すわけではない。会話資料はも ちろん、神話や民話、詩歌やなぞなぞなど の口承文芸、さらには調理法や思い出話ま で、当該民族の言語によって記録されたも の全般をテキストと呼ぶ。これらはもちろ ん言語構造の解明だけに資するわけではな い。当該民族集団の精神世界や価値観を知 り得る貴重な資料でもある。
自然発話テキストを「採る」
テキスト収集は重要な作業項目である が、その取り掛かりはなかなか難しい。初
採る 2
テキストを採り、
生かす
山田敦士
やまだ あつし/日本学術振興会特別研究員(北海道大学)、AA研共同研究員
未知の言語と向き合い、虚心坦懐に書きとめる。
それは同時に、話者の母語に寄せる愛着を知り、
その言語文化の置かれた社会的状況を知ることでもある。
何を「採り」、どう「生かす」か。
それが問われている。
村の風景。2005年頃を境に、茅葺の 屋根はすっかり姿を消した。
20世紀初頭に伝来したキリ スト教。聖書・讃美歌はもち ろん、礼拝時の祈りの言葉な ども重要なテキストとなる。
パイプタバコをくわえ、たき火を囲む女性たち。
正月の一風景。
雲南省 メコン川 調査地
中華人民共和国
17 Field+ 2011 01 no.5 万物創造の主を祀る聖林。無数の水牛頭が供えられている。
伝統的信仰の一端を垣間見ることができる。
市の立つ日にだけ現れる歯医者。調査協力者でも ある友人を治療中。この後、症状がさらに悪化し、
調査続行が困難になった。
めての調査地では、調査許可も兼ねて、ま ずはコミュニティにおける名士や文化人と 呼ばれる人びとを訪問することにしてい る。しかし、話題は往々にしてどこかで読 んだような歴史講釈ばかり。「昔話を」と 願い出ても、酒で話を濁されるのが関の 山。どうやらこの地区で「文化的」とは漢 文化に馴染むことを指すらしい。ワ語で語 れる人はめっきり少なくなっている。
人伝を頼り、ようやく語りのできるとい う古老にたどりつく。しかし会話もそこそ こ、物語など始める気配は全くない。こと ばは言霊。やはり門外不出なのか。勝手に そう納得しかけたところ、家人が夜にまた 来いという。やむなく村内をぶらつき、鶏 や豚を追い、トウモロコシの皮むきを手伝 いながら、日が暮れるのを待つ。日が暮れ れば、真っ暗な山道を帰ることは難しい。
暗澹たる気持ちになりかけた頃、炉端に村 人が一人二人と集まってくる。一言二言。
そして沈黙の時間。やがてパイプをくゆら せながら、古老がぽつりぽつりと語り始め る。「今日は遠くから兄弟が訪ねてきてく れた。俺はうれしい。まだ俺も小さかった 頃のことだ。年寄りがよく話してくれたん だが……。」夕闇に囲炉裏火。そしてタバ コ。私の調査地ではこうした「雰囲気」が 物語の重要な一部分のようである。近年、
山の村にも衛星TVが入り、大音量で音楽 を流す若者が増えた。語り部のみならず、
語りの雰囲気も得難くなりつつある。
書きことばのテキストを「採る」
テキスト収集は、話しことばに限るわけ ではない。条件さえ許せば、書きことばも 貴重な収集対象となる。中国では、建国後、
文字をもたない少数民族に対し、表記法を 制定するという言語政策がとられた。ワ族 も例外でなく、ローマ字による正書法(ワ 文字)が考案されている。しかし残念なこ とに、漢字が圧倒的価値をもつ現状におい て、ワ文字を使うメリットは大きくない。
それゆえにか、学ぶ機会さえほとんどない 状況にある。何とかこの文字を生かす方法 はないだろうか。
私にとって幸運だったのは、ホストファ ミリーの遠縁に、英語を学ぶ青年がいたこ とである。英語を学ぶのであれば、ローマ 字に対する精神的障壁は薄いはず。早速、
過去に記録されたテキストを教科書に、私 はワ語の、彼はワ文字の相互学習を始め た。選定したテキストは、誤字脱字はおろ か、「脱語脱文」までも多く含む、通読に 堪えないものであった。読解作業は苦痛で
あったが、ずいぶん鍛えられたように思 う。彼も自らのことばで、日記や思い出話 を書き残せるほどになった。今では、自然 発話テキストの文字起こしにおいても掛け 替えのないパートナーである。
研究成果を還元する
蓄積されたテキストは、何らかのかたち で公開することが望ましい。多分野の研究 者が使えるように情報資源化することも大 切な作業である。しかしながら、成果を研 究のためだけにとどめれば、「研究者のエ ゴ」のそしりを免れまい。少なくとも、他 人の生活空間に入り、人びとから言語的知 識を得ることで成立するフィールド言語学 においては、現地社会への「還元」という 社会的責務を負うはずである。2007年、
私は現地機関からの要請を受け、ワ文字に 中国語訳を添えた民話集を公刊し、現地の
初等教育機関に寄贈することにした。寄贈 自体は大変喜ばれたが、漢文化を学ぶこと に重点が置かれ、ワ文字を学ぶ課程もない 中で、どのように利用されるのだろうか。
徒労に終わるのではないかという不安は尽 きない。それでも、自己紹介を兼ねてテキ ストを朗読すると、教室に笑いと歓声が沸 き起こった。朗読の拙さがウケたのかもし れないが、私はこれに少し光明を見たよう な気がした。
かたちだけ還元して、それで事足れりも また「研究者のエゴ」であろう。採ったテ キストをどのように生かすかは、きわめて 難しい問題である。世界の諸言語で様々な 試みがおこなわれているが、これが正解と いえる方法はあるまい。まずはコミュニティ とよく意思の疎通をはかること、そして、
必要に応じた協力ができるよう、常日頃か ら体制を整えておくことが重要である。
現地初等教育機関に寄贈した民話集。
ローマ字式正書法に中国語訳を付した。