法 学 と 自 然 科 学 と の 交 渉 に つ い て
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(2) 早法五八巻二号︵一九八三︶ ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 一七〇. る必要はないとおもいますが︑とくにこれらの学者をとりあげ. ヤ. て法解釈についての論議が︑自ら︑法解釈学の論議へと展開せ. た理由はつぎのとおりであります︒. そのまま法学の発達する方向を示すものと考え︑自然科学をも. つぎにエールリッヒは︑逆に︑自然科学の発達のプワセスが. する峻厳な裁断者としてあらわれたわけです︒. が︑この場合︑自然科学は︑法学にとって︑その科学性を否定. 法学の科学としての無価値性をみとめざるをえなかったのです. まずキルヒマンは︑法学を自然科学と比較することにより︑. ざるをえないとすれば︑法学と自然科学との関係を検討するこ との重要性は︑今後さらに増大していくものと考えられるので. しかし私は︑今目︑このような法解釈学の科学性そのものを. す︒. 問題にしようとするわけではありません︒表題にもありますよ. って︑法学もまた到達しうる模範として︑また到達すべぎ目標. うに︑この問題と深いかかわりをもつ問題として︑法学と自然 して考え︑そこにうかびあがってくる問題に︑一応のとりまと. 科学との交渉ということを︑とくに三人の法学者の所説をとお. としてとらえていました︒. 科学の意味について︑ひとまず対照的な理解を示しながらも︑. こうしてキルヒマソとエールリッヒとは︑法学に対する自然. めをしたいとおもっているのであります︒つまり︑こういうテ. 自然科学からなにを学んだか︑法学と自然科学との関係を考え. え方をもっていたということができるのであり︑ここにこの二. 法学のあるべき姿として自然科学をとらえていた点で共通の考. ーマのもとで︑とくに︑法学者が︑学問の方法などについて︑. ることによって︑法学にどのような反省や進展をもたらそうと. も︑物理学にその対象身限定し︑その理論の法学への適用を考. 自然科学を法学理論の範型としてとらえ︑自然科学のなかで. い法学老のうちにあって︑とくにぎわめて明確に︑自覚的に︑. 博士は︑法学と自然科学との関係を考察したわが国の数少な. ます︒. 一方︑中村宗雄博士の見解は︑つぎのような特徴をもってい. 人の学者をとりあげる意味がみとめられるのであります︒. したかを問題にし︑できればそれらが︑私自身の問題関心とど のようにかかわりをもつかということを申しあげてみたいとお もうのです︒. ここでは︑とくに三人の法学老をとりあげてこの問題を考え てみたいとおもいます︒それは︑ユリウス・ヘルマン・フォン ・キルヒマソ︑オイゲン・エールリヅヒおよび中村宗雄博士で. これら三人の学者については︑ここでくだくだしくご紹介す. あります︒.
(3) えるというかたちで両学問の交渉を論究した唯一人の学者とい. ります︒そうしてまた︑早稲田大学が生んだこの碩学の六〇年. どうしても博士のこの業績にぶつからなければならないのであ. にわたる研究が到達した高峰にふれることは︑早稲田大学百周. えるのであります︒しかも︑博士の場合は︑このように︑自然. 科学の理論を導入することにきわめて積極的でありながら︑同. 年記念講演の趣旨にも適うものと信ずるのであります︒. 法学の科学性についての論議が展開されてきたなかでも︑こ. えることの意味をたしかめておきたいとおもいます︒. さて︑本論に入りますまえに︑法学と自然科学との交渉を考. 時に︑自然科学と法学との間に厳然たる一線を画しているとい う点で︑キルヒマンやエールリッヒとは異なっております︒. ういうことを論ずることじたいに対して批判的な考え方もあり. ここでは︑このように︑法学と自然科学との交渉について︑. りあげることによって︑この問題をうかびあがらせたいと考え. 然科学との同一性を気にする必要はないという考え方も︑理解. もしれません︒法学は︑独自の道を進めぽよいのであって︑自. てきて対照させてみることに対して抵抗のあったことも当然か. から︑法学じたいについて疑問をもち︑そこに自然科学をもっ. 法解釈についてさえ︑こういう批判的な態度があるわけです. 承認されるはずだとおもいます︒. それだけでも︑法学そのものに深刻な疑いを抱くことの意味が. をあきらかにし︑法学の進展に寄与したかを考えてみますと︑. ました︒しかし︑戦後の法解釈論争が︑どれだけ法解釈の本質. 共通点と同時に︑それぞれ異なった態度を示す三人の学者をと たのであります︒. 法学と自然科学との交渉を一般的に考察しようとする場合に は︑なお多くの学者をとりあげなければならないでしょう︒し. かしここでは︑とくに︑いまのべてきたような私自身の問題関 心から︑それぞれの考え方の代表という意味で︑この三人の学 者を選んだのであります︒. が︑いまも申しましたとおり︑ここで博士の理論をとりあげま. 私は︑中村博士から直接のご指導をいただいたのであります したのは︑けっしてそのためばかりではありません︒博士の理. でぎないわけではありません︒. との関係において考え︑その性質や方法を究明し︑探求するこ. しかし︑それにもかかわらず︑私は︑なお︑法学を自然科学. 論は︑さきにのべたような特徴をもつものとして︑法学と自然 ない業績といえましょう︒この問題は大変むずかしく︑私には. 科学との交渉を考えようとする場合︑是非当面しなければなら. とが大切であると信じています︒その理由はつぎのとおりであ. 一七一. なかなか消化できなかったのですが︑現在の私の研究からも︑ 法学と自然科学との交渉について.
(4) 早法五八巻二号︵一九八三︶. 一七二. のとりあつかい方︑法律要件と法効果の関係の構成などにおい. ます︒また︑純粋な法解釈学においても︑法制度の定義や性質. 第一に︑法学の学問的性質を究明することの必要性はいうま. て︑われわれが自覚すると否とにかかわらず︑自然科学の態度. ります︒. でもありませんが︑そのためには︑法学の科学性の究明を欠く. いのです︒. の影響をうけ︑それが導入されていることをみとめざるをえな. 第三に︑法学の科学性とか︑学問性とか︑客観性とかを論ず. ことができません︒そうすると︑この科学性を考えるために︑. る場合︑なにか一定の基準がありませんと︑議論がかみあわ. 少なくとも︑科学としてもっとも発達し︑精緻な理論体系を構 を︑科学の典型的なモデルとして措定し︑これと法学を比較す. 築し︑その応用においても驚くべき成果をあげてきた自然科学. 問や科学の定義は︑論者によってけっして同一ではないからで. ず︑充分な成果がえられないということにもなるでしょう︒学. す︒そこで︑間題を整理する基準として︑自然科学を用いるこ. ることは︑むしろ当然のこととおもわれます︒精神科学の後進. とがもっとも適切であります︒各自の構想する法学が︑それぞ. 性は︑自然科学の方法を拡大︑一般化して応用することによっ. てのみ克服されることを指摘したJ・S・ミルの主張は︑この. にどれだけ接近しているか︑あるいは反擾を示しているかをあ. れ自然科学を基準とした場合にどのような位置にあるか︑それ. 意味で現在もなお正当性をもつのであります︒. 第二に︑自然科学と社会科学とは︑対象を異にし︑その方法. 学との関係を考え︑そこから法学の特質︑科学性を検討した法. さきにもちょっとふれましたように︑自覚的に自然科学と法. ーキルヒ マンー. 法学の裁断者としての自然科学. ょうo. きらかにすることによって︑議論の整理がつきやすくなるでし. において差異を生ずることは考えられますが︑それにもかかわ. らず︑対象を認識し︑法則をもとめ︑適切なその利用をはかる というような思考の活動において︑共通性をもつことは疑いが ありません︒したがって︑相互に︑このような思考のパタアン や成果を摂取しあうことは︑たがいの発達にとってのぞましい. もあるのです︒ダーウィンの進化論が︑マルサスの人口論にヒ. 然科学に影響を与えることもあっていいし︑現にそのような例. 学者として︑ここではまず︑キルヒマンをとりあげることにし. こととおもわれます︒ですから︑社会科学がモデルとなって自. ントをえて形成されたことは︑よく知られているところであり. 一.
(5) ≦R壁. この問題についてのキルヒマンの所説は︑一八四七年になさ. 規が変更されれば︑もはや対象ががらりと変わってしまい︑旧. る︒それはまことにはかないものであり︑この人間の作った法. 法学は︑人間が作った︑偶然的な規定をその研究対象としてい. 的に存在している法則を発見すべく努力をつづげるのに対し︑. れた有名な講演﹁科学としての法学の無価値性﹂U一・. 法規に関する蔵書も︑これとともにすべて反故同然になってし. ます︒. れております︒この講演の内容は︑よく知られていますが︑ま. 一〇ω蒔ぎ犀αR甘勢蜜鼠①震巴ω≦奮o拐魯鉱けのうちに展開さ. まうというのです︒. キルヒマンはまた︑自然科学が︑人類の文化の進展において. ず︑簡単にその要約をしておきたいとおもいます︒. 輝かしい実際的な成果をもたらしたのに対して︑法学にはその. キルヒマンは︑法学を自然科学と対照させ︑法学の対象たる. 法というものの特殊性からして︑法学は︑結局︑充分に自然科. ような成果をあげる力のないことを嘆じております︒. しい︑また羨望すべき自然科学の方法を法学にとりいれ︑法学. のあるべぎ姿を示す範型であると考えます︒しかし︑この輝か. 第一に︑キルヒマンはまず︑自然科学をもって︑およそ学問. は︑つぎのようなものになるとおもわれます︒. 要するに︑キルヒマンにおける法学と自然科学の交渉の理解. 学のような科学になりえないことを指摘します︒彼は︑法を考 えるに際して︑実定法と︑社会のうちに活ぎて存在する法とを. 区別し︑対照させます︒しかし︑法学が科学となることを妨げ. す︒そしてとくに︑通常法学と考えられているこの実定法の解. 実定法の存在は︑その障害のひとつとして考えられておりま. は︑絶望の態度を示しています︒それは︑はじめから絶望視さ. を自然科学的な方向に発展させることに︑少なくとも表面上. る障害は︑法という目的一般についてみとめられるのであり︑. 釈のうちに︑とうてい自然科学的な性質とあいいれないような. 一七三. 交渉を考えることも︑非常に大事なことだとおもいます︒そう. しかし私は︑このようなマイナスの形で法学と自然科学との. される︑避けることのできない結論とされたのであります︒. 局︑自然科学の場合と異なり︑法学の対象の特殊性からもたら. れた︑実現不能のこととされたのです︒そしてこの絶望は︑結. 特徴をみいだし︑法学の科学性に対する疑問を提起するので この講演のうち︑とくに有名なのは︑﹁立法者に三つの言葉. す︒. わち︑自然科学が︑不変の法則︑われわれの意識とは無関係. があれば︑すべての蔵書は反故になる﹂という一節です︒すな に︑われわれがそれを知ると否とにかかわらず厳然として客観 法学と自然科学との交渉について.
(6) がないものかどうか︑はたしてわれわれも︑キルヒマンと同じ. 一七四. 絶望に陥らなけれぽならないものかどうかを考えてみなければ. 早法五八巻二 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. ってみることが必要だとおもいます︒. 学とを︑まったく対象の性質を異にし︑本質的に方法を異にし. キルヒマンの所説を検討してみますと︑彼は︑法学と自然科. ならないでしょう︒. して︑この深刻な絶望を︑キルヒマンとともにまず充分に味わ さきにのべたように︑来栖教授の学会報告は︑目本の学界に. た学問だと考えているわけではありません︒むしろ︑法学も︑. 大ぎなショックを与えました︒しかし︑私にいわせれば︑それ は︑このキルヒマンの所説によるショックを充分にうけとめて. その真の姿においては︑社会に実在する法を対象とし︑それを. です︒ただ︑さきにふれたように︑法学においては︑それが自. 認識し︑その法則を探求する学問であるべきだと考えているの. のです︒もし︑キルヒマン・ショックをまっとうにうけとめ︑. いなかった︑目本の法学者の怠慢によるものだったともおもう. そのショックからの立直りが︑もっと真剣に考えられていた. のです︒そしてこのような要素として︑法という対象が︑自然. 然科学的なものとなることを妨げる要素がいくつかあるという. ら︑来栖報告によるショックは︑はるかに小さいものだったで. ょうo. めて存在しうるものとなること︑法的判断に感情的な要素が強. 現象とちがい変化するものであること︑人の知識によってはじ. しょうし︑その後の法解釈論争も︑その様相を変えていたでし. このキルヒマンの与えたショックは︑たしかにショック療法. く働くこと︑法は実定法としてあらわれることなどを挙げてお. の性質と意図をもっていました︒この講演は︑その意味では︑. 暗い絶望の外観の下に︑あらたに︑法学がなにをなすべきかと. ります︒. 第一のことから︑法学者が研究しているうちに︑対象じたい. いうはげしく鋭い間いかけをもっていたはずです︒キルヒマソ. が変化してしまい︑結局法学老は︑いつまでたっても現在の法. の主張が︑概念法学の克服という歴史的な課題を担っていたと の指摘も︑充分に納得できます︒しかしわれわれは︑単にその. を認識することができなくなるという点が指摘されます︒. いるのに︑法学によるアプ・ーチはこの要素を破壊するという. 法の場合は︑人の知識と対象の存在じたいが密接に結びついて. 第二の点では︑人間の認識から独立した自然現象とちがい︑. ような歴史的な対応観に満足することなく︑この問題を現在の. りくみ方をするとすれば︑もう一度︑キルヒマンのいうような. ものとしてうけとめる必要があります︒そして︑このようなと. 法学と自然科学との関係︑両者の対照のさせ方にはたして問題.
(7) な︑真に対象となるべぎ法がなにを指すのかは︑必ずしも充分. にあきらかにされておりません︒それはおそらく︑かりに実定. 特徴が指摘されることになります︒. 第三の要素が︑ここではとくに重要です︒たとえば︑ある実. 自ら機能している社会規範という程度のものでしょう︒. 法がなかったり︑裁判所が判断を控えたとしても︑なおそこに. また︑かりにこのような法が客観的に存在するとして︑それ. に適合していれば︑そもそも法解釈という作業は不要ですが︑. 両者がくいちがっているとき︑法学者は︑実定法を尊重しなが. この法についての法則をどう把握しているのか︑どのように認. を認識するための方法にはまったくふれていませんし︑さらに. 定法がつくられる︒しかしそれが︑キルヒマンのいう実在の法. ら︑これを実在の法に合致させるような理論構成をする︒そう 学が成立してくるというわけです︒つまり実定法が︑法学者に. するとここに︑実在の法の認識からうきあがった煩わしい解釈. 第二に︑これがとくに重要ですが︑法学としては︑このよう. 識しているのかも︑やはり不明であります︒. か解釈適用とかの技術としての法学の必要はまったく無視され. な客観的な認識をおこなえぽ充分だと考えられており︑立法と. よる率直な認識を中間で妨げ︑実定法という人為的︑偶然的な. るに︑法の非科学性︑非生産性がここに誕生することを指摘す. ものの操作のための学間を成立させるのだというのです︒要す. けではなく︑つぎにのべるエールリヅヒと同様に︑いわば﹁活. キルヒマンも︑実は法科学の成立にまったく絶望しているわ. らないし︑社会関係の規制を考えることは不要だということに. は︑それを認識すれば充分である︒専門家としての裁判官はい. ことのできぬ自然法則にも似た法が存在していて︑法学として. ています︒キルヒマンの所説からすれば︑社会のうちに︑疑う. ける法﹂を認識するところに︑自然科学に対応する法科学の成. なりそうです︒しかし︑社会の中の法は︑そのように単純に︑. るのであります︒. 立をみとめるのですが︑ただそれがきわめて困難なことを指摘. 画一的なものとしてみいだされるものではないでしょうし︑社. このようなキルヒマンの考え方のうちには︑いくつかの問題. ヤ. こに技術の効用をみとめるべきでしょう︒. 一七五. る法に近づけるという技術は︑むしろ有意義なものであり︑そ. ヤ. 会規制において︑人為的な︑実定法的な規制がまったく不要に ヤ なるともおもわれません︒また現実に︑実定法を解釈して︑在. しているというわけであります︒ 点がみとめられます︒. 第一︑キルヒマンは︑社会に実在する法を認識するところ に︑真の科学的法学をみとめようとするのですが︑このよう 法学と自然科学との交渉について.
(8) 早法五八巻二九 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 一方キルヒマンは︑法学の無用さに対比して︑自然科学の輝. 一七六. のような︑基礎的な︑理論的な︑法則認識それじたいを目的と. するような科学が構想されていたものといえましょう︒. しかし︑実はこのような対比そのものに問題があったとおも. かしい成果を指摘していますが︑この成果も︑実は︑法則認識. そのものから直接に生まれたものではありません︒その間に. 学の分野のうちでは︑法社会学のようなものをもってこなけれ. われます︒もしこのような自然科学と対照させるとしたら︑法. ばいけなかったはずです︒たしかにキルヒマンは︑そのような. は︑基礎的科学をある実践に結びつける技術が必要であり︑こ. 学問の成立の可能性をひとまずみとめながらも︑その困難さを. の技術に関しては︑建築学︑臨床医学︑機械工学等というよう となっていることを み と め ざ る を え な い の で あ り ま す ︒. な︑独自な技術学が成立し︑これが実践的成果の直接的な原因. いたのは︑とくに実定法を対象とする法解釈学であったこと︑. 指摘したのですが︑自然科学との対照において無価値とされて. さきにのべたとおりです︒むしろ実定法の解釈をはなれた法の. ところがキルヒマンの所説では︑立法や解釈が︑すべて法学 とめにされて︑同一評価基準でとりあつかわれているのです︒. のとしてーもっともこの点充分明確にされていなかったことも. 認識そのものをもってくれば︑同じく法則探究の要素をもつも. という基礎科学と一体をなすものとしてとりあげられ︑ひとま それゆえここには︑きわめて重要な問題が存在しているとおも. は︑理論物理学のようなものではなく︑たとえば臨床医学とか. 逆に︑法解釈学と対照させようとすれぽ︑自然科学として. は︑それほど簡単にはでなかったにちがいありません︒. 前述のとおりですがi︑法学の科学としての無価値性の結論. われます︒. いままでのべてきましたように︑キルヒマンは︑法学と自然 科学とを対照させ︑それぞれの学問の対象を︑人為による偶然 ここには重大な問題がひそんでおります︒それは︑彼が︑法学. 建築学とかいうような︑応用的︑技術的な自然科学をもってこ. 的な規制と︑不変の法則というように対照させました︒しかし. という場合に︑なにを頭においていたか︑また自然科学という. なければいけなかったのです︒法解釈学と理論物理学を対照さ. いいかえれぽ︑キルヒマンのもっとも根本的な誤りは︑法解. 負させるようなものでしょう︒. せるのは︑プ・ゴルファーに竹刀をもたせて︑剣道の選手と勝. 場合に︑どんな自然科学を構想していたか︑ということです︒. キルヒマンの講演を検討しますと︑結局︑この場合︑法学と. しては︑とくに法解釈学が槍玉にあがっていると考えられま す︒ところがこれに対する自然科学としては︑おそらく物理学.
(9) 平面においたところにあるのです︒しかしまた︑このような法. 象を前にして︑その法則を発見しようと努力する作業と同一の. 釈学者が法規を前にしておこなう作業を︑物理学者が宇宙の現. も可能だとおもわれます︒そして法解釈学は︑まさしくこのよ. うな基礎科学を土台にした応用学の方法をここに導入すること. か︒もしあるとすれば︑法則認識そのものの学でなく︑このよ. 法学のうちにも︑これに対応するようなものがありはしない. 第二に︑自然科学のうちに技術学的なものがあるとすれぽ︑. うな法学の領域に属するのではないかと考えられるわけです︒. 解釈学の把握の仕方は︑当時の法学者の考え方を示すものであ. これはちょうど︑理論経済学に対する経済政策学などと同じよ. り︑それゆえにこそ︑このような対比が︑ショック療法として の役割を果たしえたのでしょう︒だとすれば︑そこには︑まさ. す︒そこでは︑自然科学的な方法じたいの導入が考えられてよ. 社会学はまさにこのような学問であるといってよいとおもいま. しうるものを対象にしていますが︑臨床医学なども︑やはり治. 身がみとめたとおりであり︑また︑法解釈学は︑たしかに変化. 嘆きました︒しかしそのような法分野が存在しうること︑彼自. キルヒマンは︑法学が不変の法則を対象にしていないことを. に答えてみましょう︒. さて︑このような判断をもとにして︑キルヒマンの問いかけ. あればその方法を導入することを考えることがでぎます︒. いをも考えながら︑なお自然科学の場合をモデルとし︑必要が. の各分野の構造と対応させること︑そしてもちろん両者のちが. こうして︑法解釈学と理論法学との関係を︑自然科学じたい. うな関係になるものとおもわれます︒. しくこの講演の歴史性があらわれているわけであります︒. 私はこのような考察から︑キルヒマンの所説を︑つぎのよう に修正︑展開させるべぎであろうと考えます︒. 第一に︑法学において︑偶然的な︑任意的な人工の産物でな い事実ーそれは自然法則と同一視することはできないでしょう マンのいうような障害によって︑本当に成立不能かどうかを再. がーを認識し︑さらにその法則を追究する学問領域が︑キルヒ 考すべきです︒そうすると︑これは︑法現象を︑事実として︑. いのです︒これに対してキルヒマンのあげたいくつかの障害は︑. れば︑古い治療法の蔵書はやはり反故になることがあるでしょ. 療法という可変なものを対象にしているのです︒治療法が変わ. 価値判断から独立して研究する領域として成立可能であり︑法. 必ずしも真の障害となりえないものとおもわれます︒そして︑. 一七七. う︒反対に︑実定法の解釈という技術は可変であっても︑その. さきにのべた第四の障害として指摘されたところでは︑技術学 としての法解釈を問題とすべきものとおもわれるのです︒ 法学と自然科学との交渉について.
(10) 土台になっている社会の状態︑法規制に対する反応などは︑事. かつて医者が大学で学ぶとき︑各種の病気の症候とそれに対す. います︒エールリヅヒは︑そこで︑医学の発達をふりかえり︑. 一七八. 実として客観的に認識される対象であり︑そこに法則をみいだ. し︑現在では︑医者は人間の病体をその研究対象として選んだ. る薬剤とを暗記するというような方法がとられていたのに対. 早法五八巻二号 ︵ 一 九 八 三 ︶. すことも可能でしょう︒そうすれば︑価値判断の問題も︑この. エールリッヒによって︑かなりの程度まで自覚的にとりあげら. いま︑キルヒマンの所説について私が考えてきたところは︑. 法学発達のモデルとしての自然科学 ーエールリツヒー. 職業に必要な熟練を︑純手工業的に学ぶのでなく︑その科学的. なったことを指摘しています︒つまり︑医者や技師は︑自分の. 機械技師は︑自分の使用する材料の法則を研究する物理学者に. ほど前には︑機械技師は︑機械を作るこつを親方から教えても. 機械技師の場合にも同様であるとしています︒すなわち︑百年. 自然科学者になったことを指摘します︒そして︑このことは︑. 意味での科学性の障害にならないものと考えられるのでありま す︒. れたといってよいとおもいます︒エールリッヒにおいては︑自. プ・セスが︑医者や機械技師以外についてもあてはまる旨をの. 基礎を学ぶのだといっているのです︒しかもこのような発展の. らった機械づくりとほとんど異ならなかったのに対し︑現在の. もそれにならって︑同じコースをたどって発達していくべきこ. ことによって︑技術的科学として形成されていくプ・セスが︑. 希望をえがいたところに︑キルヒマンの所説との差異を示して. おしだし︑これによって法学の自然科学的な発達へのあかるい. このように︑エールリッヒの所説は︑技術的な要素を前面に. べているのであります︒. かなり不明確ではありますが︑法学の場合との対比で暗示さ. 形成する規範として存在する活ける法を重視しますが︑法学が. おります︒エールリッヒも︑キルヒマンと同じく︑国家によっ. 自然科学と同質の発展をとげることを期待しうることをみとめ. て制定されたり︑強制されたりする法のほかに︑社会の秩序を. エールリッヒの主著である﹁法社会学原理﹂9目色茜9αQ. れ︑したがって法学もまた︑このようにして科学的になる可能. 自Rωo且o一〇職o審ω因09叶ωの冒頭の言葉は︑このことを示して. 性がみとめられていることです︒. 論のなかで︑技術というものが︑基礎科学にむすびつけられる. とが承認されています︒しかもとくに興味があるのは︑その所. 然科学の発達は︑手ばなしで法学のモデル︑手本とされ︑法学. 二.
(11) 二ールリッヒの所説がキルヒマンと異なるのは︑いまみたとこ. た点では︑むしろキルヒマンと対照的だったといえましょう︒. の学間領域を成形しています︒. まざまな基礎科学の組織的応用の観点から体系づけられた独自. にありますが︑これと同じものではなく︑さらに技術学は︑さ. エールリッヒの法社会学は︑それほど体系化されているとは. ろからも理解されるように︑技術との関係です︒エールリッヒ. いえません︒そのなかでは︑私がいまのべたことが明白に展開. 的な推進のプランにおいて︑かなり不明確です︒しかし私は︑. されているわけではなく︑彼の論旨は︑自然科学的方向の具体. いう要素が︑キルヒマンよりも強く意識されています︒. の場合は︑法学においても︑自然科学においても︑この技術と. さきにのべたとおり︑エールリッヒは︑医者が︑単なる熟練. エ!ルリッヒの所論の全体からして︑この点についての彼の考. ではなく︑医学という自然科学によって治療をおこない︑機械 ったり︑改良をおこなったりするようになったことを︑法学の. 技師が︑金属の性質等を究明する科学を基礎にして︑機械を作. でいえば︑立法や解釈の作業に対応するものとおもわれます︒. 第一に︑さきにのべた治療や建築や機械の製作などは︑法学. え方をつぎのように理解しているのであります︒. の科学を基礎にして立法や解釈をおこなう法学が︑医師や機械. 場合のモデルにしようとしています︒もしそうだとすれぽ︑法 技師の仕事に対応するものとして考えられなければならないは. える力学や生理学などにあたるものが︑少なくともその一部に. そうすると︑勘や経験でおこなってきた作業に科学的基礎を与. ヤ. ヤ. う︒だとすれば︑エールリッヒにおいては︑法解釈学は︑正当. あたるものが︑彼の主唱する法社会学ということになるでしょ. ずであります︒しかしここでもエールリッヒは︑科学的な技術 におもわれます︒ ヤ. とか︑技術的な法学とかいう観念を明確に自覚していないよう ヤ. にも技術的︑応用的科学と対応させられることになりますし︑. ヤ. エールリッヒは︑医者が病体を対象に選んだ自然科学老にな ヤ. このような方法でおこなわれているかぎり︑臨床医学や建築学. ヤ. や機械工学と対比しても︑ひけめを感ずることなく︑将来︑本. ヤ. リ︑機械技師も物理学者になったといいます︒しかし︑人体や. 格的に科学の名に値するものになるぞと︑胸を張っていえるこ. ヤ. 学んだだけでは機械は作れないでしょう︒そこには︑治療や機. 病気の認識だけでは治療はできません︒物理学や金属の性質を 械の製作についての技術学があって︑彼等はそれをも学んでい. 一七九. しかしこれは︑あくまで︑私がエールリッヒの所説を自分な. とになるでしょう︒. るはずです︒もちろんこのような技術学は基礎科学の土台の上 法学と自然科学との交渉について.
(12) 早法五八巻二号︵一九八三︶. りに整理︑補充してみたところにほかなりません︒エールリッ ヒはその著作のなかで︑こういうことを明白に指摘しているわ. けでもありませんし︑このような方向を推進していこうとする 場合に︑われわれが当面しなければならないさまざまな困難な. 一八O. 法学理論体系の範型としての物理学 −中村宗雄博士ー. 最後に︑中村宗雄博士によって構想された法学と自然科学と. 中村博士は︑民事訴訟法学の泰斗であったのみでなく︑その. の関係をとりあげることにします︒. 構想のもとに体系を構築されました︒そして博士は︑このよう. な体系の構築において︑自然科学︑とくに理論物理学の方法に. 研究は広く実体法学にもおよび︑両法の研究を総合する雄大な. か︑すべてあきらかでありません︒さらに︑自然科学的な技術. な支柱として用いたことにおいても︑まことにユニークな学風. 強い関心と深い理解をもち︑これを消化して︑体系構築の重要. ものに対応させるのか︑彼のいう活ける法の研究が本当に物理. 学が︑基礎科学を基礎にしてその体系を構築する関係を︑どの. のです︒. いうまでもなく︑わが国においても︑自然科学を意識しなが. 士にかぎられるわけではありません︒しかしこれらの学者のう. ら法学の本質を考え︑方法をもとめようとした学老は︑中村博. ちにあって︑中村博士の業績は︑つぎのような点で特徴を示. たような技術的︑応用的科学としての法解釈学の性格づけをこ. るからあまり意義がないというような批判をうけたことがあり. のことは︑のちにものべますが︑自然科学の各分野を具体的︑. に︑物理学︑それも理論物理学に限定されていることです︒こ. ヒマンやエールリッヒなど︑他の学者の場合とちがい︑明白. 第一に︑博士においては︑モデルとされる自然科学が︑キル. し︑重要な意義をもつものということができます︒. 批判はいまだに納得できないでいるのであります︒. ます︒しかし私は︑いまのべてきたようなことからして︑この. ころみたところ︑そんなことはすでにエールリッヒがやってい. かつて私が︑エールリッヒの提言を考慮しながら︑右にのべ. を示されたのであります︒. ようにして法学の場合に導入するのか︑一切明言されていない. 学や生理学などの基礎的自然科学に該当するものといえるの. たとえば︑法解釈学を︑応用的自然科学のうちのどのような. 問題を自覚しているわけでもありません︒. 三.
(13) らしても︑きわめて重要な意味をもつものと考えられるので. 個別的に考慮しながら法学との関係を考えていくという方向か. 学的方法の直接的導入に対しては︑むしろ否定的な考えがとら. iルリッヒの場合と異なり︑法学を自然科学と同視し︑自然科. そこでつぎに︑このような諸特徴が︑中村博士の学説のうち. れていることも︑注目すべき特徴といわねばなりません︒. に︑なぜ生まれることになったのか︑このような特徴を示す博. 第二に︑この物理学の理論が︑その内容にたちいって具体的. す︒. に学びとられていることです︒つまり︑漠然と﹁物理学は⁝⁝﹂. か︑そこにはどのような問題が内在しているか︑自然科学と法. 士の所説は︑法学の発達にとってどんな意味をもっていたの. 学との交渉の将来に対してどのような位置づけを与えられるべ. というように考えられているのではなく︑のちにのべるよう いう具体的な内容においてとりあげられ︑法学理論との対比が. きか等の問題について︑前述したところをふりかえりながら考. に︑たとえぽ︑相対性理論とか︑ニュートン物理学の体系とか. おこなわれているところに︑大きな特徴がみとめられるのであ. ちに展開されていますが︑直接︑自然科学との関係をあつかっ. なお︑このような基本構想は︑博士の多くの著書︑論文のう. よってのべていくことにします︒. いう自信はありませんが︑少くとも私なりに理解したところに. えてみたいとおもいます︒博士の理論を充分に理解していると. 第三に︑右のこととも関連しますが︑物理学の理論が︑静止. ります︒. したものとしてモデルとされているのではなく︑その発展︑変. たものとしては︑﹁法学と自然科学との方法論的連関1自然科. 化においてとらえられ︑まさしくこの発展︑変化そのものが︑. 法学に示唆を与えるものとして学ばれている点も︑まことにユ. 院紀要九巻三号︿昭和二六年﹀︶と︑﹁自然科学による法学の学問体. 学に示唆をうけた法学体系の整序についての構想ー﹂︵日本学士. ニークであるといわねばなりません︒. 第四に︑自然科学と対比される法学の側においても︑漠然と. 系への示唆−法学における階層構造措定の試みー﹂︵早稲田法学. 法学一般がとりあげられているのではなく︑私法理論︑訴訟理 論︑裁判論という具体的な体系の構築において問題とされてい. 工七巻一・二冊︿昭和二七年﹀︶とがあります︒なおこれらの論文. 一八一. 再構成﹂︵洋々社︿昭和三〇年﹀︶におさめられています︒. は︑博士の論文集︑﹁自然科学に範型を求めた民事訴訟理論の. ることであります︒. 第五に︑このようにきわめて明確︑自覚的に自然科学がモデ ルとされ︑学びとられているにもかかわらず︑キルヒマンやエ 法学と自然科学との交渉について.
(14) 早法五八巻二号︵一九八三︶. まず最初に︑博士が物理学の理論をモデルとされるにいたっ. 一八二. また博士は︑このような私法理論は︑そのうちに破綻の要因. を宿していたことを強調されます︒たとえば︑現在の訴訟制度. では︑裁判所が創造的に法律関係を形成する場合があります. た基盤がどこにあったかを考えてみます︒. 博士の構想される理論体系は︑私法理論︵実体法理論︶︑訴. 合は︑地主の主張をうけて︑裁判所が創設的に永小作関係を消. いとされるのです︒たとえば永小作権の消滅請求権の行使の場. 滅させるのが実体だが︑従来の民法理論では︑この消滅請求権. が︑民法理論ではこの関係を正当に理論構成することができな. て第二のところに民事訴訟法があてはまります︒最後の裁判論. を︑地主の一方的行使によって永小作権の消滅をもたらす形成. 訟理論︑裁判理論という三つを総合するところに成立するもの. は︑具体的な民事紛争が個々の裁判によって解決される︑その. 権と解しており︑これは右の実態を無視することになるとされ. です︒第一の私法理論は︑民法学によって代表されます︒そし. 関係を把握するための理論で︑その意味で抽象的︑一般的な私 しかしこれらは︑無関係に対立したり︑一方が他方を吸収し. 法理論や訴訟法理論と異なるものとされています︒. 博士はまた︑このような破綻は︑あの二重譲渡の理論におい. るのです︒. てもあらわれることを指摘されます︒甲の所有している不動産. たりするものであってはならないというのが︑博士の構想の出. が︑乙︑丙に二重に譲渡されたとき︑第二譲受人の丙がさきに. 登記をそなえると︑民法一七七条によって不動産の所有権が丙. 学の方法について︑つぎのようにのべられています︒. まず︑私法学︑たとえばその代表的なものとしての民法学. ころですが︑民法一七六条との関係でこの結論を説明しようと. に帰属する結果になるという結論は︑異論なくみとめられると. 発点になります︒すなわち︑博士は︑従来の実体法学や訴訟法. は︑ただこのような理論を承認することがおこなわれるだけ. すると︑困難な理論的問題に当面することになり︑多くの学説. は︑訴訟という局面を無視した自足的な理論を構築し︑訴訟で. で︑訴訟法は民法理論に対して積極的に働きかける独自の意味. そして中村博士は︑ここでも︑抽象的な理論からはいずれも所. が主張されてきたこと︑よく知られているとおりであります︒. 有権を取得するはずの乙・丙の主張の優劣を︑民法一七七条に. をもたないものと考えてきたことが指摘されています︒そして. が︑むしろ消極的︑仲裁的性質のものであったところからみち. よって裁判所が判断し︑結局登記のある丙を勝たせるというプ. これはアクチオ理論によるもので︑古代や中世において︑裁判 びかれたものとされます︒.
(15) みとめられるはずの乙と丙の主張の優劣が︑訴訟の段階で検討. され︑そこではじめて登記した丙を勝たせるという判断が下さ. おきましたように︑民法理論からすれば︑いずれもその根拠を. れ︑結着がつけられるのだと考え︑このように私法理論と訴訟. ・セスが︑民法理論では無視されてしまい︑民法の内部だけで︑. この結論によって裁判をする︑という構成がとられているため. 理論が相補の関係において統合されれば︑二重譲渡の説明も明. 一元的︑絶対的に乙・丙の優劣を決し︑裁判所はただ消極的に に︑右のような困難な問題につぎ当らなけれぽならないのだ︑. 考えられます︒. 快におこなわれることになるというのが︑博士の主張であると. といわれるのであります︒. 中村博士は︑このように︑私法理論が︑自足的なもの︑自己. 完結的なものとして︑裁判の創設的関与を無視し︑絶対的な結. しかしこのような関係の認識︑構成は︑単なる民事訴訟手続. についての理論構成とはちがった領域を形成するものとして︑. 果をひとつだけうちたてようとする態度を批判されるのです が︑ここで︑私法理論と相補の関係に立つべき訴訟理論に着目. 博士はこれを︑訴訟実体論とよんでいます︒. れ︑また時間的な要素を無視してきたのに対し︑むしろ私法理. ここでは︑私法理論が︑一元的︑絶対的なものとして形成さ. されるのであります︒. 個︑独立の体系として展開されてきました︒はじめ︑いわゆる. んだ訴訟が︑私法理論の平面からはなれ︑高次の立場から結着. 論の多元的︑相対的であることを前提とし︑時間の要素をふく. 訴訟理論じたいも︑民事訴訟法学において︑実体法学とは別. まうような理論もありましたが︑やがてそれを克服して︑独自. をつけるのだ︑というように考えられているものといえましょ. 私法的一元観というような︑私法の中に訴訟法を吸収させてし の理論体系をつくった︒これが訴訟法的一元観です︒しかし博. うo. れた私法理論と訴訟理論の関係だったのですが︑これとは別. いままでみてぎたのは︑あくまでも抽象的︑一般的に考えら. 士は︑やはりこれをも批判され︑訴訟法だけで自足的な体系を い︒どうしても︑実体法︑たとえば民法との相補関係を考慮し. に︑具体的に︑乙と丙とが私法上の権利を主張するのに対し︑. つくることも︑その実体を明白︑率直に認識するゆえんではな. ながらその体系をつくらなければいけないということを強調さ. 一八三. す︒この場合は︑右の理論の適用のようにおもわれますが︑こ. 裁判所が両者の優劣をきめる個々の裁判が問題になってきま. 二重譲渡の場合を例にとりますと︑さきにもちょつとふれて. れるのです︒. 法学と自然科学との交渉について.
(16) の実際の裁判では︑まったく合理的に結着がつけられるのでは. る︒さきほどの二重譲渡の例でいいますと︑民法理論では︑乙. のものが︑客観的に把握された事実に対して絶対的に適用され. 一八四. なく︑裁判官の心情をとおして非合理的な要素がかなりの程度. は︑どちらかが絶対的に勝つということでなけれぽならない︒. も丙も勝つ可能性があるというのでは困る︒民法理論の世界で. 早法五八巻二号︵一九八三︶. 入ってくることがあります︒したがって民法理論と訴訟理論を. それによれば︑つねに︑絶対的︑画一的に︑みちびかれるはず. そしてこの結果は︑ある法律要件からみちびかれるけれども︑. 統合したところから︑ただちにこの結論を予測することはでき ないという事情がみとめられることになる︒そこで︑このよう. である︒たしかにこのように考えるところに︑少なくとも従来. な現実の裁判の把握については︑独自の︑非合理的要素を承認 した理論が要請されてきます︒これが博士のいわれる裁判理論. の私法理論の特徴がみとめられるのです︒. のような理論が修正されることになります︒そして博士は︑こ. これに対して訴訟実体法の理論においては︑民法におけるこ. する二次元の空間のみが考えられることが指摘されます︒. さらに民法理論では︑たとえば︑右の例の乙と丙を座標軸と. であります︒. 中村博士は︑右のように︑実法体と訴訟法を二元的に対立す め︑さらに具体的な裁判についての理論を別にくみたて︑この. こに︑ニュートン力学に対する相対性理論の修正に対応すべき. るものとし︵対立二元観︶たうえで︑両者に相補の関係をみと 三者を一体とした︑つまり三位一体の法理論体系を構想されま. 理論的特徴をみいだすのであります︒. さきの例でいいますと︑訴訟関係では︑乙と丙との︑原告被. した︒そして︑これに対応するモデルを自然科学のうちにもと ることによって︑右の法理論体系をいっそう精緻に形成してい. めたものが︑物理学の理論であり︑博士はこれに範型をもとめ. すが︑訴訟が時間的プ律セスによっておこなわれていくもので. 告の座標軸に直角に︑裁判が加わって三次元空間が形成されま. すから︑ここには時間の要素︑四次元的な世界が考えられなけ. くことになるのであります︒そこでつぎに︑このような関係を. まず博士は︑私法理論︐の思考のパタアンが︑物理学でいう. てみますと︑これこれの理由で相手に勝てるという主張には︑. ればならないとされます︒そしてさらに︑乙と丙の主張を考え. 簡単に紹介してみましょう︒. と︑古典的なニュートン力学に対応することをみいだされたの. それぞれ理由がみとめられる場合がある︒二重譲渡のような統. です︒そこでは︑絶対空間︑絶対時間を前提とする統一的な ﹁場﹂が考えられている︒そこでの法則としては︑ただひとつ.
(17) 乙・丙を︑座標軸を異にした当事老に対応する地位をもつもの. 一的理論構成の困難が顕著な場合には︑とくにこのような事情. 論としての量子力学が発達し︑このような巨視的理論に対する. が︑いずれも巨視的な理論であり︑これに対しては︑微視的理. ニュートン物理学は︑相対性理論によって修正されました. 修正を要求することになりました︒そして中村博士はこのよう. がみとめられる︒そこで博士は︑ここにそれぞれの場を考え︑. と考え︑これに対して︑裁判所が︑国家座標系の法則︵裁判規. な量子力学と裁判論とを対応させたのです︒. 電子のような微視的世界においては︑従来のような自然認識. 範︶によって裁判すると考えるのです︒したがって︑その間の. アイソシュタインの相対性理論︑とくに︑一般相対性理論. 古典力学においては︑粒子は︑ある時刻におけるその位置と運. ゼンベルクのいわゆる不確定性原理であります︒ニュートン的. の方法が修正されるべきであるということを説いたのが︑ハイ. は︑一様に運動しないあらゆる座標系の間に妥当する物理法則. 程式を解いて微分定数がきまり︑その後の粒子の運動の経路は. 動量がはっきりした意味をもち︑これが与えられると︑運動方. な訴訟実体法の理論が必要になるとされるのであります︒. 統一的な法則を発見するには︑一般相対性理論に対応するよう. をみいだそうとするものです︒右の訴訟理論では︑それぞれ独. 一義的にきまって︑ここに巨視的現象における因果律が成立し. 自の理論的正当性を主張する乙・丙の異なった主張が︑訴訟と いう︑時間的なプ・セスをふくんだ作業によって統一的に判断. 一律にきまりません︒位置を精密に観測しようとすると︑正確. ます︒ところが︑電子の場合は︑その運動の経路がこのように. な運動量の把握が困難になり︑逆に運動量を正確にきめようと. される︑つまり時空融合の手段で法的判断が下されることにな モデルをみいだすことができるというのが博士の主張でありま. りますが︑これはまさしく︑いまのような相対性理論のうちに. おける因果律は成立せず︑それはただ確率論的にしかみとめら. すると︑位置がぽやける︒それゆえ︑そこには古典的な意義に. れないとされたのであります︒そして中村博士は︑前にのべた. す︒つまり博士は︑実体法・訴訟法を二元的に対立させ︑実体 訟において統一的に判断するものとして両者に相補の関係をみ. 法のうちにあらわれる︑原告と被告の多元的な権利主張等を訴. まさしくこの量子力学に対応するものと考えるのです︒個々の. 裁判論が︑その非合理性において︑っまり不確定性において︑. 一八五. 裁判は微視的世界を形成するものであり︑その観察には︑量子. とめ︑それぞれの理論的破綻を救い︑その限界を修正︑克服す る関係に対応させようとしたのであります︒. るという構想を︑ニュートン力学を相対性理論によって修正す. 法学と自然科学との交渉について.
(18) 早法五八巻二 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. 力学に比せられるべぎ特徴があらわれることが指摘されるので. 一八六. 中村博士の法理論においては︑いままでみてぎましたよう. に対応させ︑これにモデルをもとめながら完成しようという構. 判論をふくめた雄大な体系を︑物理学の理論︑しかもその展開. 中村博士は︑このようにして︑実体法・訴訟法をあわせ︑裁. 開させようとする意図が示されていないということでありま. を厳然と区別し︑法学を自然科学的なものにし︑その方向に展. のもうひとつの特徴は︑前にのべたように︑法学と自然科学と. ルをもとめ︑これを導入する態度が示されていますが︑そこで. に︑きわめて積極的に︑自然科学のうち︑物理学の理論にモデ. 想を示されたのです︒博士は︑自然科学のうちに︑自分が法学. す︒エールリッヒの場合と︑この点で対照的だといえましょ. あります︒. について形成しようとする理論のモデルがあるはずだという考. 博士において︑自然科学の理論がモデルとして用いられてい. う︒. るのは︑あくまでも民法と訴訟法の理論の総合的な体系化1そ. 理学とのであいによって︑このことが確認され︑これをモデル. えを︑若い頃からすでに抱いておられたそうでありますが︑物 とすることによって博士はその理論体系を︑いっそうの確信を. れはやはり一種の解釈論といえますーの参考とされているにす. 法社会学は︑解釈理論が現実社会に適合しているかどうかを検. ぎません︒博士は法社会学についてもふれていますが︑そこで. もって緻密に展開されることになったわけです︒. 題が内在しています︒その詳細な検討は︑また別の機会におこ. 証する役割をもつものとしてとらえられており︑これと自然科. いままでみてきました博士の所論のうちにも︑さまざまな問 ないたいと考えていますが︑ここでは︑最後に︑問題をしぽっ. 学との関係はとくに問題とされていないのです︒. な学問領域ではないが︑その理論の構築︑体系化のためには︑. 解釈法学は︑それじたい自然科学と同一の場におかれるよう. て︑いまキルヒマンやエールリッヒを手がかりにしてみてきた. どのような教示をうけ︑またこの理論が私の考え方をすすめる. 自然科学の理論をモデルとすることができ︑またこれによって. ところを︑さらにこの中村理論について考え︑そこから私自身 についてどんな意味をもったかを︑全体のしめくくりとしての. 学の理論は︑このような趣旨で選ばれていましたし︑またそれ. 的な考え方であるといってよいでしょう︒博士において︑物理. 解釈理論を精錬していくことが有効だ︑というのが博士の基本. 総括と私見. べてみたいとおもいます︒. 四.
(19) でなければならなかったのです︒つまり︑博士は︑解釈学を︑. ですが︑その選択は︑つねに全体を考慮した︑目的達成にいた. 技術の論理は︑ある目的にとってなにがいいかの選択の論理. 体系が要求されるものと考えます︒. る過程を厳密に吟味しながらおこなわれるものであり︑このよ. とくに理論体系の構築を使命とするものとしてとらえており︑ いたのであります︒. ろに︑科学性を保障されるものでなければなりません︒ここの. うな選択とその結果とが︑因果の法則によって予測されるとこ. 右のような自然科学理論の導入も︑この観点からおこなわれて. これに対して︑私がいままでのべてきた考え方は︑別の方向. ります︒しかし︑法社会学がいかに自然科学的に︑精密な法則. ところで︑認識の作業とかかわり︑基礎科学とかかわるのであ. を示しております︒私は︑解釈学を技術学としてとらえ︑自然 す︒そうしますと︑解釈学においておこなわれるこの解釈とい. 科学的な技術学と同様の平面のものというように理解していま. いることはできないでしょう︒ここが法解釈学の科学性の当面. するきわめて重要なまた困難な問題なのですが︑よく考えてみ. 的認識に到達したとしても︑法解釈の作業のすべてにそれを用. ると︑自然科学的技術学でも︑すべての技術がこのような基礎. うものは︑技術的目的に奉仕する作業として把握されることに られ︑評価すべきものと考えられます︒そしてこの観点にたつ. 科学とのむすびつきを示しているとはいえないのです︒. なります︒解釈理論やその体系は︑この観点において位置づけ. とき︑博士のいわれたニュートソ力学にも比せられる従来の私. さて︑この技術の論理によってみていぎますと︑ニュートン. 法理論は︑技術学的にも︑適切な作用をもたないものとしてと らえられることになります︒たとえば︑二重譲渡の場合にも︑. やり方は︑法規制の画一性の保障という︑法制度︑とくに近代. 法の根本的な要請に応ずる技術にほかなりません︒そのかぎり. 力学的な︑絶対法則の認識に対応するような規範の定立という. に疑問がでてくるのです︒しかしそれは︑事実に反し︑事実の. で︑この方法は︑なお意味をもつものといえましょう︒と同時. なんとかして︑他の場合と矛盾しない理論構成をもって︑登記. 認識において限界をもったために批判されるのではなく︑技術. に︑このような規制の画一性のための絶対的︑統一的な論理体. した第二譲受人の所有権取得を正当化しようとする努力じたい. 学としての目的からみて︑その必要性に疑問を生ずるからであ. 無視されてよいものと考えられます︒. 系の貫徹は︑右の技術的要請と衝突しないかぎりにおいては︑. 私は︑技術学には︑技術の論理によって貫かれた独自の理論. 一八七. ります︒. 法学と自然科学との交渉について.
(20) 早法五八巻二号︵一九八三︶. 一八八. られた理論は︑ある規定の意味をあきらかにすることなどによ. をもとめるべきだと考えるのであります︒中村博士がとりあげ. って︑現実の問題をいかに規制するか︑という場合の解釈理論. 二重譲渡の場合でいいますと︑たしかに︑第二譲受人が登記. ではなく︑ある規制をいかに体系的に説明するかについての理. をしたからといって︑第一譲受人に勝つことを︑一七六条との. 関係などで︑統一的に矛盾なく説明することには困難がありま. 論であり︑そのために︑これに対応するものとして︑宇宙の現. ヤ. す︒しかし︑取引安全を確保するためには︑どうしても︑登記. のために︑そこでは技術学の理論が問題にされなかったものと. 象を認識し︑説明する理論がモデルとされたのであります︒こ. ヤ. をした方を勝たせる必要があります︒. 一方︑この場合に第二譲受人が勝ったとしたら︑民法による. がきめられる場合の限界︑つまり一七七条の適用範囲をあきら. の理論というのは︑たとえば︑目的設定︑技術的手段とその対. 構造というのは︑基礎科学との関係についての問題であり︑そ. さて︑技術学の構造︑理論をモデルにするというとき︑この. 考えられます︒. 規制の統一性が失われるかというと︑ちゃんと一七七条が設け られている別個の処理ですから︑別にそういう不都合を生じま. かにしておくことが必要となります︒したがって︑この点さえ. ちろんそれは︑さまざまな価値判断の体系とも密接にむすびつ. 応︑目的実現のための効率などについての統一理論であり︑も. せん︒ただそのためには︑このような特別な基準によって優劣. 一性を気にしなくともよいということになるのです︒. しかし︑この点については︑自然科学の領域においても︑充. くものであります︒. きちんと処理しておけば︑技術的に︑原則的な処理との間の統 なおこのほか︑実益論とか︑利益考量とかいう問題も︑この. われます︒それゆえ︑もしかすると︑逆に法解釈学の方から︑. 分自覚的な理論体系が構築されているわけではないようにおも. 観点から位置づけられることになるでしょう︒そして概念法学 己目的化した場合だということができましょう︒また︑現代の. このような技術の理論体系のモデルを提供できるかもしれませ. というのは︑画一的規制の要求が︑技術の論理を意識せずに自 解釈学の展開は︑この技術的性格の自覚︑推進を示していると. ん︒. 認識の体系を真似た︑いわば擬似的な認識の理論体系が︑次第. 少なくとも︑法解釈学の発達のあとをたどると︑そこには︑. 考えられるのです︒. こうして私は︑法解釈学については︑むしろ法則認識のため の自然科学理論よりも︑技術的自然科学の構造や理論にモデル.
(21) に技術学的な要素によって変質させられてきたプ・セスをみる. なものを選んでいくことが︑今後の︑法学と自然科学との交流. 従来︑自然科学との対照をおこない︑法学の科学性を考える. をすすめていくために大事な点であるとおもいます︒. ていたことは問題だとおもわれます︒自然科学にもいろいろな. とき︑固定的に︑自然科学という統一的なイメージがえがかれ. つのあらわれといえますし︑来栖提言も︑技術的判断を規範の. ことができます︒さきにもふれたように︑実益重視はそのひと. 認識という外装に隠したことを暴露したものにほかなりませ. ません︒現に︑自然科学者の方からも︑数量化だけが科学的方. 分野があって︑必ずしも同様の方法を用いているわけではあり. ん︒価値判断を前面にだすというのは︑まさしく技術学の理論. 私も︑自分の体系のなかで︑このような方向を自覚的に推進. の特徴なのです︒. 右のようにみてきますと︑私の構想は︑中村博士の場合から. 法ではないというようなことがいわれてきております︒. は︑かなりへだたったものになっていますが︑それにもかかわ. 前面におしだしたのも︑そのひとつのあらわれでした︒認識理. すべく努力してきたつもりであります︒規範定立という観念を. 論的な性格を色濃く残した﹁定義﹂や﹁概念﹂︑あるいは﹁性. らず︑博士の提言から多くの教示をえているのであります︒. 学的思考と対比させるという作業は︑両学問の交渉をどのよう. まず︑自然科学の個々の領域における理論をとりあげて︑法. 質﹂や﹁特質﹂というものを︑徹底的に規範定立の面から構成 の中から︑極力︑事実認識的な性格の作業を析出し︑これを処. し直そうとしたのも︑この意図にでたものです︒私は︑解釈学. にすすめていくかにかかわらず︑ぎわめて重要です︒. 訟現象と解釈理論のかかわりは︑技術理論を推進していく場合. さらに︑中村博士の理論のうちで重要な地位を占めている訴. なりません︒. まことに卓抜な着眼であり︑重要な教示であるといわなければ. うな変化︑発展じたいのうちにモデルをもとめるということは︑. つぎに︑自然科学理論の変化︑発展のあとをたどり︑このよ. 理しようと考えました︒中村博士の表現をかりれば︑﹁自然科 学的技術学に範型をもとめた法解釈学の再構成﹂ということに なるでしょうか︒. もうひとつ︑私の考えは︑モデルとすべき自然科学を︑その 全範囲にわたって広く吟味し︑右のような意図に適合したもの. にも︑忘れることのできないものであります︒法解釈学を技術. を選ぶ︑ということです︒自然科学を統一的にあつかう必要も もちろんありますが︑それと同時に︑各領域の個別性にもとづ. 一八九. き︑多様なモデルを対象として検討し︑そこからもっとも適切 法学と自然科学との交渉について.
(22) 一九〇. くの先覚の業績に学びながら︑この方向にむかっての努力をつ. 早法五八巻二号︵一九八三︶. 学の体系として構築していく場合には︑訴訟による私権の実現. づけていきたいとおもっております︒. をすすめることが必要だからです︒このことは︑すでに民法学. を考慮し︑訴訟の場における問題をもふくめて︑技術的な検討. が︑これを統一的な技術理論の体系のうちに総合していくこと. 者と民事訴訟法学者の協力によって推進されてぎてはいます は︑なお残された課題といわなければなりません︒. おわりに 以上︑とくに法解釈学とよばれる法学の領域を中心として︑. これが︑自然科学をモデルとして考えた場合︑どのような位置 学をモデルとする方向を推進する場合には︑自然科学のうちの. を与えられ︑どのように科学としての評価をうけるか︑自然科. などの問題をとりあげ︑キルヒマン︑エールリッヒ︑中村宗雄. どんな領域の︑どんな理論が︑どのように導入されるべきか︑. 博士という三人の法学者の考え方を手がかりに︑私なりの構想 しかし︑いうまでもなく︑これは問題のはじまりにすぎませ. をのべてきました︒. ん︒法解釈学を︑技術学的科学の性質をもつものとして︑自然 科学的な技術学身参考にし︑モデルにしながら︑自覚的にその 理論を再構成していくことには︑まだいろいろな問題があり︑. 多くの疑問や批判もあることとおもいます︒これから私も︑多.
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