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バトラーにおける「自然」と良心の問題 : スタージャン論文に関連して

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(1)

バ トラー にお ける「 自然」 と良心の問題

―― スター ジャン論文 に関連 して一―

横 山 兼 作 (平成 5年 6月28日受理) 河ヽ論 は

,バ

トラー倫理学 における「自然J(1)な い し「 自然 に従 うこと」(following nature)と 良心 の関係 について考 えて見 ようとするものである。 しか し

,周

知 のように

,こ

れ はまことに厄介な問題 である。土台

,バ

トラー倫理学 は一般 に

,バ

トラー自身の自戒(りにも拘わ らず

,甚

だ しい矛盾

,混

乱 を含 み

,了

解 しがたい ものがあるとは,こ れ まで もしば しば指摘 されて来た ところである力部

0,当

面の「自然Jと良心の関係 については殊 の外複 雑で,古 くシジウィクによってバ トラーは昔か らの循環論 に陥っていると決めつけられて以来 “上む しろこれに同調す る人 は少な くないのである。 ところが近年

,ス

タージャン(Nたholas Sturgeon)が

,そ

の論文「バ トラーの倫理学 における自 然 と良心」においてい)かな り挑発的な問題提起 をな し

,注

目され るところとなった。スタージャンに よれば

,バ

トラーにおいて徳 (virtue)の基礎 は「 自然

Jに

あ り

,そ

れはバ トラーの良心説 と

,つ

ま り

,普

通バ トラー倫理学のかなめ とも見 られているあの良心の権威 の説 と矛盾するところか ら

,バ

トラーはむ しろこの良心説 を捨 てるべ しと提言 したのである。スタージャンはこのバ トラーの基本 の立場 を「ゆるい自然主義J(Full Naturalistic Thesis)と 名付 けているが

,こ

れが活発 な論議 を 呼ぶ ことになったわけである。 この見方 は

,従

来の自然主義的解釈 とも

,ま

た単純 な循環論 とも同 じではない。先のシジウィク が

,バ

トラーにおいて良心 と自愛(self love)は同格であるとしいち また近年

,マ

クパースンが

,バ

トラー初期 の立場 で は良心 は自愛 その もので あ る と断 じた171のは周知 の ところであ るが

,ス

ター ジャンはむ しろ

,バ

トラーの良心の権威 を一方では認 めているのである。 それを認 めなが ら

,あ

え て

,そ

れがバ トラーの基本の自然主義 と矛盾す るために

,そ

の間 をもし一貫 させ ようとす るな ら, これ を捨 て るべ しとした ので あ る。スタージャンに よれ ば

,全

く独 自の如 き良心 の道徳 的是 認 (moral― approval)も よ くその例文 に即 して見れば,結局 この「 自然」ない し「 自然 さJ(naturalness) に基づいているのである。スタージャンは

,バ

トラーにおけるこの基本的立場 としての「自然主義J

(2)

か ら

,い

くつかの重大 な「結果」 (consequences)が 導 き出され るとし

,良

心 は不要であるとするわ けである。

スタージャンの この挑発的な論文が直 ちに多 くの反論 を招 くことになったわけであるが

,中

で も ペネラム

(Terence Penelhum)や

ダーウォール (Stephen Darwall)な どはい),ス タージャンの論 ぼ くを主 とした考察 をなし

,ス

タージャンはバ トラーの良心の自律性 (autOnomy)を 見落 としてい る

,バ

トラーは自然主義か ら程遠い として

,そ

の権威 の回復 につ とめているのである。 われわれ も以前(9ウヾトラーの倫理学 について多少の考察 をな した ことがあるが

,最

近 の このス タージャン論文 には触発 され るところ少 な くな く

,以

,ス

タージャンの問題提起 とも関連 させな が ら

,改

めて この複雑 な問題 に挑戦 して見 ようとしたわ けである。問題 の完全 な解決 には至 らな く とも

,そ

の解決の方向だ けで も見出せた らと思 う。 われわれの見 るところで は

,バ

トラーの良心 は

,ス

タージャンと違 って

,少

な くとも一応 は「 自 然」か らた しか に独立 し

,一

種 の道徳の自律性 を認 め得 るが

,し

か し

,同

時 に

,道

徳論の根底 の二 重性 もあってそれ は絶対 の自律 とはな らず,「自然」の制約の上での一種の自律

,あ

るいは独 自性 と いうことになるのではあるまいか とい うものである。 (― ) まず

,ス

タージャンのバ トラー解釈か ら見てい く。 スタージャンの吟味 は勿論バ トラーの全般 にわたるが

,そ

の問題提起 の基本 となった直接的な典 拠 は主に二個所 である。一個所 はバ トラー『説教集』の良心 に関す る部分

,特

にその例文であ り, 他の一個所 は後年の『宗教比論』「徳 の本質論」の良心 ないし道徳的知覚力の部分である。 ところで

,バ

トラー において徳 は「 自然に従 う」 ところに存す るとされ

,そ

れは何 よ りも良心の 権威

,そ

の優位性

,崇

高性 (superiority,supremacy)に従 うこととされ るわ けであるが

,ス

ター ジャンも指摘す るように

,そ

の権威

,そ

の優位性 について明確 な規定が与 えられているわけではな く

,わ

ずかに

,徳

は「 自然 に従 う」とは言 って もそれ は決 して人間本性 の諸原理間の「力」(strength) に従 うの意ではな くて

,あ

くまで もそれ らの「質 と種類 における」 (in nature andin kind)違 いに 即す こととされ る説明で代 えられているにす ぎない。バ トラー はこれ を

,自

愛のいわゆる「個々の 情緒」(particular passions,appetities and affections)に 対 す る優位性で

,つ

まりある日前の衝 動の満足のために身 を亡 ばすに至 る例で説明 し

,こ

れは明 らかに人間の本性 に照 らして不均衡(dis―

proportion)で あるとしている。バ トラーによれば,こ のような

,行

為者の本性 と行為 との不均衡が 言葉の「最 も厳密で適切 な意味での」(in the strictest and most proper sense)「不 自然」(unnatural) であるか ら

,こ

の例 のような

,下

位の原理が上位 の原理 を くつが えす ことが言葉の最 も厳密な意味

(3)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題 での「不 自然」となることにな り

,こ

れによって良心の特別 な考察 をなす ことな しに,「力」とは違 っ た 自然的優位性 を明確 にし得た としているのである。(S.1.11,12)(1° スタージャンが何 よりもまず抑 えるのはここである。つまり

,ス

タージャンによれば

,バ

トラー において「不 自然」 とは階層的秩序関係 にある人間本性の下位の原理が上位 の原理 に打ち勝 つ こと であ り,「自然」はその反対 である。スタージャンはこの確信 において

,バ

トラーの「質 と種類」の 違いのいわば還元法的説明文 の分析 に向か うわ けである。多少長 くなるが

,バ

トラーか らその部分 を引用 してお く。 「問題全体 を別 の観点か らとらえ

,良

心の この自然的優位性 といった ものが何 ら存 しない と仮定 してみよ。つ ま り

,あ

る内的原理 と他の原理 との間にあるのはただ力 の相違 のみであ ると。……・例 えば

,あ

り得 る限 りの最 も残酷 な形での父親殺 し (parricide)の 罪 を犯 した人 の場合 を考 えて見 よ。 この行為 は今

,最

も強力 な原理の結果 として行 われたのだ。 もし諸原 理の間に力の違い以外の何 の違 い もない となれば

,そ

の力が与 えられ るや

,あ

なたはその問 題 に関する限 り

,そ

の罪人 の全本性 (the whole nature of the man)を 把握 した ことにな る。 その行為 は明 らかにその原理 と

,つ

ま り

,こ

れまで同 じ力 を有 して来たその原理 と対応 (correspond)し ていることになる。その行為 とその全本′性を,ヒ較 して何 の不均衡 も生 じず,

それ らの間に何の不適合(unsuitableness)も見 られない。か くて

,父

親殺 しとその人 の本性 とは互 いに対応 しているわ けで

,そ

れは子のつ とめ(filial duty)と それを果たす人 の本性が 全 く対応 しているの と同 じである。内的諸原理間に力以外の何の相違 もない ものな らば

,わ

れわれ は

,そ

のような人 の行為 だ と考 えられた (considered as actions of such a creature) 限 り

,こ

れ ら二 つの行為 の間 に何 の区別 をもな し得ず

,た

,全

く冷静 な ときに (in our coolest hours)そ れ らを同 じように是認 または否認するに違いない。 こんな ことになる程馬 鹿 げた ことがあろうか。」(S.2.17) このバ トラーの説明か ら

,ス

タージャンは次 のように断定す るに至 るのである。 「冷静 になって行為 を区別 し

,そ

れ らを是認 または否認するのは良心 の機能である(D.1)。 従 って

,一

般的に言 えば

,バ

トラーの究極 の結論 は

,こ

のようなもの となる。すなわち

,も

しも人間行為の如何 なる原理 も他 に対 して自然的優位性 をもたないな ら

,良

心 は如何 なる二 つの行為 をも同 じように是認 または否認す るに違 いない。そ こで

,何

故 そのように思考 され て来たかに思いを致 して見 ると

,一

つの問題が生ずると思 う。 もし如何 なる原理 も他 に対 し て優位 しない となれば

,良

心 は情緒や欲求 と同等 となるわ けであろうが

,で

,そ

の優位性

(4)

を失った ことが どうしてバ トラーが言 うような

,行

為 を区別 し

,―

を是認

,他

を否認す ると いった ことを妨 げることになるのであろうか

c思

うに

,そ

の唯―の答 は

,

この ような仮定的 状況 においてそれ を出来 な くさせ るのは

,そ

の言 うところの良心の崇高性が な くなったせい で はない ということである。 その問題 はむ しろ

,私

が 〈自然主義〉 と呼んで来た ところの原 理

,つ

まり

,良

心 はその行為 の是認 また は否認 を

,何

らかの重要な仕方で常 にその行為の自 然 さまたは不 自然 さに基づ けてい る

,

という原理 によって説明がつ くのだ。J これが

,バ

トラーの基本の立場 を自然主義 とする第一の指摘であるが

,第

二 の F宗教比論』の個 所 については

,ス

タージャン自身

,次

のように総括的に語 っている。 「バ トラーが明白に 〈自然主義〉 に依存 している文章が もう一個所 ある。 とい うのは

,彼

は「徳 の本質」 において くわれわれの悪徳 と罰 ( ce and ill deserts)の知覚一彼 は これを

それ らの否認 と分離す ることを拒 んでいるのだ― はその行為者の本性や能力 とその行為 との 比較か ら生 じ

,ま

たその結果であると主張 して

,そ

の行為 を不一致 (incOngrOus),不適切, 不均衡

,不

適合 (unfit)と 断定 している。J 直接的には主 にこの二個所 によって,バ トラーの立場 を自然主義 と断定す るに至 るわ けであるが, ただ

,ス

タージャンによれば

,悪

徳の場合 は下位の原理が上位の原理 に打ち勝 つ とい う厳密な意味 での「不 自然」 は明白であるけれ ども

,有

徳の場合 は不幸 にしてそう明 白になってお らず

,そ

の場 合 は動機 の有徳 さということも問われて来 るところか ら

,徳

は必ずすべてが「 自然 さ」 に基づ くと い うよりも「 自然 さ」を少な くとも含む という意 になるとし

,そ

こか ら「 ゆるいJ(full)と したわ けであるが

,

とにか く

,良

心 は「 自然」 に基づ くという基本 には変 りないわけである。 スタージャンは

,こ

のバ トラーにおける基本の自然主義―スタージャンによれば

,バ

トラー 自身 はそれを明 白に意識 し

,体

系化 しているわ けでないが一か ら

,最

初 にぶれた ようにい くつかの重要 な結果 を引 き出 したわけである。スタージャンによれば

,良

心は「 自然 さ」 に基 く是認 をなす以上 必ずや当の良心 とは別の

,わ

れわれの自然的構成 におけるある上位の原理の賛成 (favOr)が な くて はな らないはず となるが

,自

愛 と仁愛―仁愛 は自愛程原理 としての位置 は明確ではないけれ ども, 決 して単 なる情緒や欲求の類 ではない―が それに当たるところか ら

,自

愛や仁愛 の賛否 に反 して, 勿論そ こに事実の誤認のない限 りであるが,良心が全 く独 自に是認や否認 をなす ことはあ り得 ない。 よしんば自愛が誤 まった方向をた どろうとも

,良

心 はそれ に従 う外 ない とも言われている。スター ジャンによれば

,自

愛 は明 白に仁愛の上 に位する原理であるところか ら

,バ

トラーの立場 は結局, 一貫 した倫理学的エゴイズム とい うことになる。

(5)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題 以上がスタージャン論文 の主要な部分であるが

,こ

れに対 してわれわれ としてはどう対処 すべ き であるか。 後 に改めて見 るように

,わ

れわれ としてはスター ジャンの問題提起 を重大 に受 けとめ

,バ

トラエ 倫理学 における「 自然」の位置 を高 く認 めようとす るものであるが

,た

,同

時に

,ス

ター ジャン の

,特

に良心の説明文の解釈 は余 りにも極端ではないか とも思 う。スタージャンは

,バ

トラーの例 文 に余 りにもとらわれすぎたのではあるまいか。 以前確認 した ところで もあるが

,例

えばバ トラーの次の ような表現 に

,良

心の

,他

のすべてに対 す る優位性

,権

威 は歴然 としていると言 える。 「 しか し

,あ

らゆる人 に反省 (reflection)ない し良心 という上位 の原理があるのだ。 それ は

,自

分の外的行為のみな らず

,心

の中の諸原理の間 に区別 をな し

,自

分 自身やその諸原理 に対 して判断 を下す。 ある行為がそれ 自身正 し く

,善

であ り(just,right,good),他の もの はそれ 自身悪 しく

,不

正である (evil,wrOng,uniuSt)と 宣告す る。 それは他 に図 ることな く

,助

言 を受 けることな く

,断

乎 と発動 され

,そ

こか ら

,そ

れ らの行為者 自身 を是認 し

,非

難す るのである。……人が道徳的存在であ り

,自

分 自身 に対 して法である (he is a law tO himself)と言われるのは

,人

間 に自然 に備わ るこの能力 によってである。」

(S.2.8)

良心 は

,

この限 り

,そ

れ 自身 によってわれわれの行為や性格 を是認 し

,あ

るいは非難 して

,わ

れ われ を道徳的行為へ と促す力 をもっているもの と言 える。 まさに人 は自分 に対 して法である と言わ れるゆえんである。その良心 を「直覚的能力」 と見 ることにはにわかに同意 しがたいけれ ども

,表

現上 は明 白にそのように認 め られていることもあるのである。「われわれ は通常,いかなる時で も一 見 しただけで

(at first view)何

がわれわれの義務であ り

,何

が正直 な ことであるかを直覚的 に

(intuitively)見て とるのだ。

J(S.7.14)

ペネラムやダーウォールのスタージャンヘの反論の基礎 もここにある。勿論

,そ

の反論の仕方 は 必ず しも同 じではないが

,両

者 に共通 して

,バ

トラーでは良心 に従 うのはた しかに「 自然」ではあっ て も

,し

か し

,良

心がその「 自然」 を基 に是認や否認 をなすのではない。良心の判断 はあ くまで独 自であ り

,そ

こに道徳 の自律性があると見 るのである。「 自然 に従 うJと は良心 に従 うこと

,良

心の 権威 に月艮す ことであ り

,バ

トラーはそこにおいて道徳的実践 の理由 (reason)を示 しているのだ と 解釈す るわ けである。ダーウォール は特 にその独 自な「理 由づ け」 を強調 し

,自

らの論文 を「 自己 権威化す る良心J(Conscience as Self Authorizing)と題 している。 ミラー (Alan Millar)の見 方は独特だが

,こ

の限 りでは彼 らとそれ程大 きな違 いはないであろう(11ち

(6)

スタージャンヘの反論 としては

,概

ね彼 らの見解 を支持 しようと思 う。つ ま り

,繰

り返す ことにな るが

,良

心 は「 自然」か ら少 な くとも一応 はた しか に独立 し

,そ

こに一種 の道徳の自律性があると 思いたい。 もっ とも

,ス

タージャン自身 もそれを全 く見 なか ったわ けで はない。 それははじめふれた ところ である。少な くとも表現 としてはそれの見 られ ることは十分承知 していたのである。 しか し

,そ

れ にもかかわ らずバ トラーの立場 を「 自然主義」 と規定 したのは

,バ

トラー自身

,そ

の自律 の面 を何 ら発展 させず

,反

対 に

,特

に先の例文 において

,明

白にその自然主義 の立場 を貫いていると思われ たか らであった。 しか し

,思

うに

,バ

トラーにおいて良心の

,特

にその優位性の明確 な規定 はた しかに乏 しい とは 言って も

,ス

タージャンは

,先

にふれたように

,余

りにもバ トラーの言葉 に とらわれす ぎて

,そ

の 「 自然」「不 自然」の序列的把握 を余 りにも性急 に先 の例文 に適用 し

,そ

こでバ トラーの良心の

,上

に見た基本 を見落す ことになったのではあるまいか。 ペネラムの反論 は

,ダ

ーウォール も多少皮肉るように(1り

,か

な りうが った ものである。ペネラム によれば

,バ

トラーが先の文で

,人

間本性の諸原理が単 なる「力

Jの

関係 になると

,父

親殺 しも親 孝行 も区別がつかな くな り,「全 く冷静な とき」同 じように是認 または否認 をす ることになると言 う のは

,何

も是認や否認が不可能 になるという意味で はな く

,ま

,静

かな とき

,反

省するのは何 も 良心に限 らぬ と断 った上で

,父

親殺 しも親孝行 もそ こでは共 にた しかに「 自然的」となるとして も, しか し,そ こでの判断 は,「その ような人の行為だ と考 え られた」限 りでの,「実践的哲学」(practical philosophy)の 判断の一つにすぎず

,そ

れによって良心の判 断のすべてが「 自然 さ」の判断である と 証明されたわ けではない。われわれは依然 として父親殺 しを否認 し続 けているのだが

,た

,良

心 にそれにあ くまで も抗 してい く「理 由

J(reason)が

な くなったために

,そ

の行為が「不 自然」とは ならぬ という意であると解す るのである。ペネラムはここで

,一

つの代替的解釈 を示 し

,バ

トラー では良心が巾広い意味でつかわれているのだが

,言

葉が不注意 に用い られ

,混

乱 させ られているの だ としている。ペ ネラムによれば

,バ

トラーの良心の機能 は二つあって

,そ

の第一 はわれわれの行 為の正邪 (right and wrong)の 判断であ り

,第

二 はわれわれ 自身の全本性 の反省であ り

,第

二が他 人の行為や性格 を評価す るその判断であるが

,こ

こで問題 なのはその第一の機能の ことであるとし ているのである(10。 ダーウォールのスタージャンヘの反論 は

,も

っ と直我的である。結局 はペネラム と同 じく

,良

心 は「 自然

Jに

依 つてではな く

,全

く自律的に是認 または否認 をなす。 それが,「自然」であ り

,道

徳 的実践の「理由

Jで

あるとす る見方 をそのまま反論の根拠 とし

,諸

原理間 に「力」以外の何 の差 も ない となれば

,父

親 を殺 してな らぬ とする「理由

Jも

ない ことになって

,わ

れわれは「 そのような 人の行為 として考 えられた

J限

りのその人の父親殺 しを必ず否認す ることも不可能 になるとい う意

(7)

バ トラーにおける「 自然」 と良心の問題 になると解すのである(1つ ペネラム とダーウォールの反論が全 く同 じわけでな く

,わ

れわれ もまた彼 らと完全 に一致 してい るわ けでない とは先 にぶれた ところであるが

,当

面のスタージャンヘの反論 としては

,わ

れわれ も 基本的 には彼 らを支持 しようと思 う。 従 って

,そ

れに多 くを加 えることもないわ けであるが

,た

,あ

えて

,明

確 にしてお きたい こと は

,バ

トラーの先の例文 についてのスタージャンの誤解 は

,何

よ りも

,父

親殺 しと親孝行 をす る「そ の ような人の行為 と考 えられた」限 りの人 と

,そ

の人 の全本性 を把握 して これ を「全 く冷静 な とき に

J評

価 をする「あなた

Jと

は別人であることを見誤 った ことによるのではあるまいか, とい うこ とである。 これは先の例文の全体 か ら自ず と明 らかな ところで もあ り

,ま

,

もしそうでない とな ると

,甚

だ奇妙な仮定 になるか らである。 もし

,こ

の推定の如 くだ とすれば

,必

ず しもペネラムの ように苦 しい反論 を用意 しな くとも済むのではあるまいか。バ トラーはあの例文 の直前 まで何 より も「 自然 に従 う」実践者 としての良心の実在 とその質的優位性

,権

威 について

,つ

まり

,ペ

ネラム によってさえ「実践的哲学」の判断 とも言われている

,自

己の道徳的実践の能力 について語 って来 てい るのである。従 って

,例

文では

,む

しろそれ を前提の上で仮定的な話 に入 った と見 るのが 自然 ではあるまいか。つま り

,バ

トラーによれば

,い

かなる親殺 しの罪人 といえども良心 を持 ち,「質」 においてす ぐれたその能力 を持 っているはずであるのに

,し

か しそれが「力」の差のみになった と いう仮定 において行為 に区別 をつけ得な くなって

,実

践的意義が失われ

,こ

れ を更 に客観的に評価 す るはずの人 もその対象が「 その ような人 の行為 と考 えられ る限 り」それが出来 な くなった という ことではあるまいか。 これは

,

この限 りでは

,い

うまで もな く

,ダ

ーウォールの見方 に近 い もの と なる。 もっとも

,バ

トラーは既 に『説教集』の第一 において

,先

の例文 と酷似す る例 をあげ

,あ

る 人が他人 に親切 にす ると同時 に別 の人 に発作的 に危害 を加 える場合

,後

になって (afterwards)冷 静 に反省 し

,た

だ前者のみを是認す るに至 るとしてい るので

(S.1.8),そ

こか ら

,当

面の例文 も それ を受 け,「全 く冷静な とき」評価 を行 う人 と

,父

親殺 し

,親

孝行 をなす「力」の差 のみを有す る 人 を同一人物 と見 る見方 は先例 か らだけすればあ り得 ないわけでないであろう。ただ,その場合 は, ペネラムのように

,説

明が甚だ苦 しい もの とな らざるを得 まい。 もっとも

,そ

れで も

,そ

の「 自然 主義」的な評価 と別 に一種独 自の道徳的判断機能の存す ることまで否定 された ことにはな らないで あろうが。 『宗教比論』の個所 について見れば

,更

に明白 となる。た しかにバ トラー は「その行為者の本性 や能力 とその行為 との比較 において「不一致」「不適切」「不適合」な どと良心 ない し道徳的能力 に よる評価 を語 っているが

,し

か しこれ も

,ペ

ネラム も指摘す るように,(この個所でペネラムは第二 者の評価 の立場 を認 める

)バ

トラーの この個所の前後の文脈 に留意する とき

,そ

のような評価―ペ ネラムによってさえ,「限 りな く (perilously)自然主義 に近 い」 とされ る評価― に先立 って

,そ

(8)

行為者 自身 に既 に正邪

,善

悪識別の能力の存す ることが前提 されているのを見 る。

「われわれの悪徳 と罰の知覚 は行為者の本性や能力 と行為 との比較か ら生 じ

,ま

たその結 果である。 というのは

,わ

れわれの為すべ きところの もの (what we Ought to do)を 全 く 放棄す ることは

,万

人 によって

,最

大の悪徳であると決定 され るであろうか ら。……白痴や 狂人

,あ

るいは子供か らの危害 の感 と

,成

熟 し

,共

通の理解力(common understanding)を 有 す る人か らの危害 の感 とは違 うとい うとい うことは

,誰

もが認 める ところで ある。」(D. 5)(15) もっ とも

,ペ

ネラムのように,「悪徳」の判断 と「不均衡」「不適合

Jな

どの評価 はここでは全 く 別 になっていることもあ り, この個所 はバ トラーの本意ではない とす る見解 には問題がないではな いが

,

とにか く

,良

心の判断がすべて「 自然」 に基づ くわけでない とす る点で は

,ペ

ネラムの この 個所 の見方に同意 したい と思 う。 先 にぶれた ごとく

,わ

れわれ として もスタージの この見方 を全面的に否定す るもので は決 してな いが

,た

,ス

タージャンの「 自然」「不 自然」の確信か ら例文の分析 に至 る過程 には余 りに も極端 な ものがあったのではなか ろうか。スタージャンは

,バ

トラーは自愛の序列の優位性 の説明 におい て

,折

角確立 しかけた良心の自律 を撤 回 した と見ているが

,そ

もそもそこにスター ジャンの性急が なかったか。良心の実在 とその権威 は否定するわ けにいかない人間本性 の事実だか らである。 それ は「全 くの

,経

験の事実 (mere matter of fact,a thing of experience),直 接的な

,事

実なのであ る。」

(A.1.

,16)(16) スター ジャンの「自然主義的」解釈 の基本的な部分 その ものが必ず しも正 し くない とすれば

,こ

れに基づ く「結果」については多言 を要 しない ことになるが

,な

お多々問題 を残す ところか ら

,多

少の言及 をしてお く。 何 よりもそれは

,自

愛や仁愛 と良心 との関係 についてでなければならないであろう。既 にぶれた ように

,ス

タージャンによれば

,良

心の是認

,否

認 は自愛や仁愛の賛否 を越 えるものでな く

,そ

れ らに全面的に依存するものであったが

,し

か し

,バ

トラーの多 くの説明か らして も

,

これ もや は り 甚だ極端 な見方 となるのではあるまいか。例 えば

,バ

トラーでは

,仁

愛 はた しかに徳 として大 きく 掲げ られ

,し

ばしばそれが

,徳

のすべてであると言われているが

,同

時 にまた

,そ

れ は決 して徳の すべてで はな く

,そ

う思われ ること程恐 ろしい ことはない。(D。 10)子に対す る親 の鴻愛 は為 にな ら ず

(S.11.9),特

別な人への仁愛 は弱 さであ り

,非

難 に価 いす る。

(S.Preface)仁

愛的行為 は誠 実さと正義 (veracity and iustice)の 範囲内の ことであるとはっきり語 られてい る。

(D.10)そ

こ には,「厳 しい理性の導 きが不可欠である。」 (S.12.27)も っ とも

,バ

トラーの仁愛 と良心の間 にも

(9)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題 問題 は多 く

,後

に改めて多少の考察 をす ることになるが

,今

はとにか く

,原

則的にはむ しろ仁愛 の 上 に良心が位置す ることを確かめてお きたい。 この ことは

,ス

タージャンによって極 めて高い位置づ けがなされた 自愛の原理 について もその ま ま当てはまるはずである。た しかにバ トラーにおいて自愛の地位が高 く

,そ

こか ら良心 との関係 を め ぐって これ まで も多大の議論がなされて来たわ けであるが

,し

か し

,良

心が自愛の上 に君臨す る ことはあって も

,そ

の逆 は

,原

理的にはあ り得ない。 ましてや

,自

愛が誤 った方向をた どって

,良

心が これ に服 す ことは

,基

本的にはないはずである。良心の自愛 に対する優位性 について も

,た

し かにバ トラー 自身の言及 は少 ないが

,し

か し

,そ

の関係が はっきりしていることは以前論 じた とこ ろで もあった(1つ。バ トラーがた しかに自愛 を徳 とはして も

,そ

れは少 な くとも「 しか るべ き程度 に

おけるJ(in iぜs due degree)自 愛の ことがあ り

,良

心 と一致す るごとき自愛 は全 く冷静で理性的 (cool reasOnable self love)「真の自愛J(true self love)と 言われ るもののみであった。 しか も,

ペネラム も注意す るように(10,徳 と完全 に一致するのは厳密に言えば来世 においてであって

,こ

の 世 にあっては

,大

体 そうである (for the mOst part)」 にす ぎないのである。

(S.3.9)否

,バ

ト ラーにおける福徳の一致 は

,既

に有徳 の念 をそこに含 んでいるとも言 えるであろう。 「悪徳 はそれ 自体 自然 にある種の不快感 を伴 い

,し

ばしば大変 な混乱 と不安 を引 き連 れて くる。些々た ることや 日常の会話 において自分 に腹立 ち

,重

要な ことや深刻 な会話 にあって は後悔す るとい うわれわれの内面の気持が

,自

らの行為 を振 りか えってみて

,悪

い とか

,合

理的でない とか

,愚

かだな ど

,つ

まり何 らかの程度で悪徳だ と思 うときに自ず と生ず る不快 感 なのだ。」(A.I。 14) 『宗教比論』の主題である神の道徳的支配 も

,い

わば義 における福 によって貫かれている とも言 えるであろう。世界 は神 の「正 しき支配 (righteOus government)の 下 にあるとは

,ま

さし く

,究

極的には,そ して全体的には

,各

人が個人的価値 に応 じて受 けとることを意味する。」

(A.H.2)「

正 しき者のみが

,報

われ る

J(A.H.2)と

も言われている。勿論

,バ

トラーの立場 はエ ゴイズムで は ない。 (二) スタージャンの解釈 はあま りにも極端であること

,良

心 は

,少

な くとも一応 は「自然

Jか

らた し かに独立 し

,一

種 の道徳 の自律性 を有す ることを上 に確認 したわ けであるが

,で

,バ

トラーにお いて「 自然」 は徳 の内容 に何 のかかわ りもない と見 るべ きであろうか。ペネラムやダー ウォールの

(10)

見方にも問題が ないであろうか。 勿論

,上

にも度度ぶれた ように

,ペ

ネラム とダーウォールの見方が全 く同 じわけではない。ペネ ラムはバ トラーの良心 にダーウォール よりもはるかに「 自然主義」に近 い面のあることを見

,ま

た, 有徳 はすべて良心の意識 ない し義務感 においてのみ行われ るべ きもの と見ているわけで もないが, しか し両者共通 して

,良

心 に従 うことは「 自然」であって も,「自然」が良心の基礎 となることはな く

,良

心 はいわば理性的な原理 としてそれ 自体実践の「理 由」 をもつ と見 る点では一致 していたわ けで

,こ

れについては既 にふれた ところであ り

,わ

れわれ もまた

,ス

タージャンの解釈への反論 と してはある程度 それ を支持 したわ けである。 しか し

,バ

トラーの「自然」は

,決

してそれに とどまらない ものをもっているのではあるまいか。 徳は「 自然 に従 う」 として

,人

間本性の全構成 を「完全 に」経験主義的 に探究 し

,そ

の全体的連関 の関係 を

,時

計がその部分 と全体 の関係 において時 を刻むのになぞ らえて,「徳 に適 うようになって

いるJ(is adapted to rtue)とするとき

,バ

トラーにおいて人間本′陛の全体が徳 と深いかかわ り をもっていることは疑 うべ くもない事実 と言わな くてはな らない。 上 に一言ふれた ミラーが何 よりも留意す るの もそ こである。 ミラー も勿論

,上

にぶれた ように, 決 してスタージャンと見解 を同 じくするわけではな く,「自然」は決 してわれわれの有徳 な生活の標 準 となるわ けではないが

,し

か し

,人

間本性 は

,全

体的 にその良心の規定す る徳 を実現す るように 神によって作 られている と見 るのである。 ミラー はペネラムのような考 え方 を次のように批判 して いる。 「…… またペネラムは,〈人 は良心 に反す る十分 な理由をもつ ことが出来 るという考 え方 そ の ものが馬鹿 げている〉 とバ トラーは考 えていると言 っているが

,私

はこの種の解釈 は関連 する文章 もバ トラーの計画 をも共 に誤解 していると思 う。 もしバ トラーが

,人

は良心 に反す る十分 な理 由をもつ という考 え方が馬鹿 げていると思 っていたな らば

,わ

れわれの本性が徳 に適 うような体系ないし構成 になっている とい う理論 を必要 としなかったはずである。」(19) われわれの見解 はなお ミラー と全 く同 じわけではないけれ ども

,ダ

ーウォールやペネラム よ りは この ミラーのバ トラー観 に近 い ものを覚 える。 しか し

,

ミラー との関係 については改めてふれ る と して

,し

ば らく

,バ

トラーに,「自然」が道徳の基礎づ けに深 くかかわっている如 き面 を探 って見 よ うと思 う。 何 よりもまず

,バ

トラーが徳 を必ず しも良心 を経 由せず にあたか も人間本性の経験的事実 によっ て基礎づ けているかのような表現が しばしば見 られ ることをあげな くてはな らない。例 えば,「憐 れ みJ(compassion)に 関 して

,人

々の不幸や悲惨 に同情 し

,こ

れ を救い

,あ

るいはこれ を柔 らげよう

(11)

バ トラーにおける「 自然Jと良心の問題

31

と努力するこの情 は,「自然 の構成がわれわれの従 うべ きコース (the course we should follow), われわれの目ざすべ き目的 (the end we shOuld aim at)と して設計

(mark out)し

て くれた も

の」

(S.6.10)と

,こ

のような情が「如何 なる人生の歩みをなすようにわれわれが作 られている

(we are made for)か

,何

がわれわれの義務 であるか を示 し

,特

有 の仕方でその実践 をわれわれ

に迫 る」

(S.6.1)な

どとあるように

,人

間の本性の構成 自体 に徳 の根拠がおかれ

,そ

れが直接わ れわれに義務 を教 えて くれているかのように語 られているのを見 る。『説教集

Jの

改版 に当たって, しばしば「義務」(duty)が,「意図されている」(intended)と 改訂 され

,あ

るいは新 し く挿入 され ているのを目にす るが

,勿

論, ここには

,バ

トラーのネ申学的自然観が背景 にあるとして も, とにか く

,義

務的な情がその ように自然 に「つ くられている」「植 えつけられている」 (implanted)「意図 されている」 (intended,designed)な どと実にしばしば語 られているのが

,注

目され る。バ トラー によれば

,動

植物の種 (seeds)や 体 でさえ

,そ

れ らが如何 に小 さ くとも

,そ

れ らの意図 された 目的 を示 しているが

(A.1.v.85),そ

のように

,わ

れわれに自他の幸福 を図 る原理 の存す ることが「わ れわれがお互 いのためにつ くられているという証拠 (pr00f)であ り」(S.1.6),「われわれが 自分 自身 に対すると同 じく

,互

いに対 して善であるための道具たるべ しと意図されている証拠であるJ

(S.1.7)と

,更

には,「われわれの道徳的義務 は自然的可能性以上 には出ない」

(S.12.17)

とも語 られているのを見 る。ここには,あの ヒュームの自然的義務感 の発生 を思わせ るものがある。 周知 のように

,ヒ

ュームは

,人

間本性 に先立つ義務感 は存せず

,そ

れはわれわれの自然の情の通常 の流れに沿 うとしたわ けである。り。勿論

,バ

トラーはヒューム と違 って

,経

験主義 を徹底 したわけ でな く

,自

然の事実 をその まま徳 としたわ けではないが

,た

,こ

のように

,経

験的 自然 の事実が, 徳の基礎づけと深いかかわ りをもっていることが注 目されるわけである。バ トラーは既 に『説教集』 のはじめにおいて

,ホ

ップズな どをマークして

,執

ように仁愛の念が人間本性 に実在す ることを確 かめ

,そ

れは仁愛の程度の ことで はな くて

,種

の如 くではあって も

,

とにか くそれの実在す ること がた しかであれば十分なのだ としているが

(S,1.6.y.n.),「

徳 は自然 に従 うこと」 に応 じての こ のような人間本性の心理学的探究 は

,決

して単 に良心 に従 う「理由づけ」の布石ではないであろう。 その意味では

,自

愛 について も同 じである。 「合理的な自愛 と良心 は

,人

間の本性 における主要な

,そ

して優位す る原理である。 なぜ な ら

,他

のあ らゆる原理が破棄 されて も彼の本性に適合するような行為 はあ り得 ようが

,も

しこの二つの原理の何れかが破棄 されるなら,その本質 に不適合 となるか らである。」(S.3. 9) 「われわれの幸

,不

幸 の観念 は

,あ

らゆるわれわれの観念の中でわれわれ に最 も身近かで,

(12)

また最 も重要なものである。 それ らは

,も

し相争 った場合

,秩

序や美や

,調

和や均衡やの観 念 にまさる(prevail over)であろう。否

,こ

う言いたければ

,ど

うぞ

,ま

さるべ きなのだ と 言 って もよい。」

(S.■

.20) 良心の存在 はた しかに否定 されない として も,バ トラーの自愛 に対 す る絶大な信頼 は明 白である。 スタージャンが

,良

心の権威 と別 に自愛 自体 の優位性が語 られた先の表現 にその「自然」の確信 を 抱いたのには

,一

つの意味が あつたのである。否

,自

愛だけではない。バ トラー はいわゆる「個々 の情緒」 について も

,基

本的 には決 して否定的に対処せず

,ま

,現

実的には人間社会 の甚だ しい 堕落

,腐

,悪

徳 をよく見なが らも

,し

か し

,人

間 に本来的には悪 は存 しない と楽天 してい るので ある。(S.1.12・ 9・ 26)われわれの本性 の心理学的事実か ら徳 を導いているわ けで は必ず しもない とは上 に述べた ところであ り

,徳

はむ しろ

,そ

の ような自然の能力の特有 な発揮の仕方 にこそ存す るであろうが

,た

だ,「自然的能力や力の しかるべ きまた適切 な (the due and proper)使 用 は

,わ

れわれにそれのためにその力が与 えられている目的 と意図によって判断 され るべ きだ」

(S.4.7)

とも言われて

,依

然 として「 自然

Jと

の深い関連 をのぞかせている。 ところで

,こ

れ まで吟味 して来たのは

,必

ず しも良心 を経 由しない「 自然」 とのかかわ りであつ たが

,同

じことは他な らぬ良心の是認や否認の内にも見 られないわ けでない ことを付言 してお く。 それは

,既

に見た ように

,ペ

ネラムで さえ「限 りな く自然主義 に近い」面 として認 める ところであっ た。 もっ とも

,ペ

ネラムは

,バ

トラーの良心のその面 を彼のいわゆる第一の機能 とは決 して見ず, バ トラー は基本的には自然主義か ら程遠 い としたわ けであ り

,わ

れわれ も

,ス

タージャンヘの反論 に当たつては

,そ

れを良心の自律性 の根拠 として基本的 には支持 したわ けであるが

,た

だバ トラー が良心 について

,特

にその権威 について語 るとき

,そ

こでの良心 は圧倒的 にむ しろペネラムの言 う 第二の機能

,つ

まり

,第

一の機能 として先 にあげられた正邪のいわば直覚的 ともいわれ る知覚では な くて

,自

己の行為や諸原理の反省 の機能 なのである。バ トラーにおいて自愛が良心 を明 らか に凌 駕す るごとき表現 にあって

,な

おそ こに

,良

心の優位性 を認 めようとす るいわ ゆる「標準的解釈」 派の人々 は

,例

えば

,上

に引いた例 で言 えば,「そう言いた ければ

,ど

うぞ」(if you please)といつ た譲歩的表現 をそのわずかな手がか りに しているわ けであるが

,た

,そ

こでの良心の機能 に当た るものは「秩序や美や

,調

和や

,均

衡やの観念」 にす ぎず

,実

はこれ こそがバ トラーの定義で言 え ば「 自然」 ということになる。バ トラーは言 う。言葉 の最 も厳密な意味で「不 自然」 ということは 「不均衡 をあ らわす。従 って

,彼

の本性への不均衡 とい う代 りに「不 自然」 とい う言葉 をつか って もいいであろう。 これが よ りわれわれに親 しみやすいので……」

(S.2.10)と

。 『宗教比論

Jの

先の個所 において

,ペ

ネラムが

,そ

こでは悪徳の判断 と「不均衡」「不適合」な ど の評価が全 く別 になっていることもあって

,こ

の個所 はバ トラーの本意ではない と述べた ことにわ

(13)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題 れわれ は疑念 を表明 しておいたが

,バ

トラーは現 に問題 になった個所 に続いていわば自愛 に当たる 「慎慮」(prudence)に言及 し,「これ は徳であ り

,そ

の反対 の行為が愚行で

,非

難 に価 いす る。な ぜな ら

,全

く冷静 に考 えて

,わ

れわれ は前者 を是認 し

,後

者 を非難す るか ら」(D.6)と して

,自

愛, 慎慮が良心 ない し道徳的知覚力 によって是認 され る徳であると明確 に規定 し

,更

に次 の ように力日え ているのを見 る。 「慎慮 は一種 の徳であ り

,愚

行 は悪徳である。私が ことで愚行 と言 うのは

,単

なる無能力 とは全 く別 の ものである。つ ま り,それ はわれわれの幸福 への配慮一われわれ はその力 をもっ ているのだ (which we had capacity for)一への無思慮な欠乏のことなのだ。 これが この 言葉 の普通の意味である。・……なぜな ら

,わ

れわれはその表現 をめったに動物 には適用 しな いのだか ら。」(D.6) ここには明 らか に

,正

邪識別の念 とは別個 な

,わ

れわれの本性の能力

,原

理 との比較 における良 心 による道徳的是認が見 られ るわ けである。マクパースンによってさえ

,む

しろ理性主義 の立場 に 近 い とも言われた この『宗教比論』の立場で

,

しか し

,バ

トラーの「 自然主義的」側面 は否定 しが た く

,垣

間見 られ るのである。 バ トラーの「 自然主義的

Jと

も見 えるこの吟味の最後 として

,ス

タージャンも指摘 してい る「隣

人愛」(Upon the Love of our Neighbour)の個所 についてぶれてお く。スタージャンのサ旨摘 を待

つ まで もな く,『説教集』第十一

,十

二の「隣人愛」の個所では

,良

心 についての言及 は全 くない と 言 って よい。 しか し

,勿

,バ

トラーはこの段階 に至 って良心 を放棄 したのでない ことは

,後

で記 され ることになった序文 (Preface)に おいて良心 とその権威が殊の外強調されていることか らも明 らかであるが

,た

,こ

こには

,良

心の入 り込む余地が余 りない ことも事実ではなか ろうか。バ ト ラー はここで は専 ら隣人愛 をわれわれの現実の限 られた能力 との関係 において規定 しようとしてい るか らである。良心の代 りに

,わ

れわれの仁愛的な情 を規制す るもの として理性が表面 に出ている ことはた しかである。ペネラムはこの理性 を良心 と解 し

,わ

れわれ も先に

,仁

愛 を規制す る良心の 優位性 としてその例 を用いたわ けであるが

,た

,細

か く見 る と

,こ

の良心 ない しきび しい理性 (strict reason)も

,必

ず しも絶対的な能力ではな く

,結

局 はよ り大 いなる目的

,仁

愛の 目的への 手段 的な機能 を営むにすぎない ものの如 くである。 「理性が

,最

大幸福実現 に役立つ もの として

,専

ら仁愛の補助 と考 えられ る限 り

,

これ ら (他人への

)関

係や状況 を特 に願慮すべ きことをわれわれ に教 える。なぜな ら

,明

らか に, その顧慮が世の中の幸福 のためだか ら。……・か くて仁愛 はその中にあらゆる徳 を含 む という

(14)

ことは最 も厳密な意味で真実であ り

,無

条件的にそうであると見 ることが出来 るけれ ども,

ただ

,理

性がそのガイ ドとして

,あ

るいは指導者 として加わ らなければな らない。 それ 自身 の目的

,つ

ま り仁愛

,み

なの最大幸福(the greatest public good)と い う目的実現のために。」

(S. 12. 27) バ トラー倫理学の功利主義が しばしば言われ るゆえんである。仁愛が決 して徳のすべてではな く, それは誠実 さや正義の範囲内で と言われていた ことは先 にわれわれ も確認 した ところであったが, 例 えば

,別

の個所で言われている次のようなバ トラーの言葉 にはそれ をも危 うくしかねない ものを 見出す。「人類 は一つの共同社会であ り

,わ

れわれは互 いに連関の中にあること

,個

々人が促進すべ く義務づ けられている社会 の公共的 目的や利害があるとい うことが

,道

徳のすべてなのだ。」(S.9. 8)「残酷や不正 を見て起 こされた激怒,それ を罰 したい という第二者の感 じは,決して悪意ではない。 否

,そ

れ は

,悪

徳 に対す る怒 りなのだ。 それは社会 を保 つための共通の絆の一つであ り

,個

々人が 自分 自身や全人類 のために所有 している仲間意識 (fellow feeling)な のだ。

J(S.8.6)

バ トラーによれば,義憤 といえども,「その罪人 に対す る自然的仁愛 を超 えてはならない。」(S.9. 19)否

,愛

はあたか も「道徳」をも超 えるもののようである。「彼 に対 して生ずるわれわれの善意 の 義務があるのは

,彼

が社会的存在だか らで も

,ま

してや道徳的存在 (mOral agent)だ か らとい うこ とだけか らで も決 してない。 それ らに先立 って

,彼

が感覚的存在 (a sensible creature)で あるこ と

,つ

ま り

,幸

福や悲惨 を感ず る能力があることか ら生ず る一つの義務があるのだ。 この義務 は彼 の道徳的性格 に優先 されてはな らぬ ものなのだ。」(S,9.15) バ トラーにおいて仁愛 に徳 のすべてが収敏 される如 くで もあるゆえんである。が

,

とにか く

,当

面の「隣人愛」の章 における良心の参画 は依然 として明確で はない。 それはあえて探れば

,他

の原 理や人 との調和

,均

衡 を図る力 と言 えな くもない。 「われわれの隣人愛 は自愛 と何 らかの均衡関係 にな くてはな らない。徳 はた しか にしか る べ き均衡 に存す るか らである。 この しか るべ き均衡が どうあるべ きかは

,そ

れがわれわれの 心の性質 としてであろうと

,行

為 として実行 された ものであろうととにか く

,わ

れわれの性 質や この世 における状況 に照 らしてのみ判断 され得 るのだ。 この情や この行為 の諸原理 その ものが実際 に発揮 され るべ き程度 については

,わ

れわれ は何の尺度 ももたない。」(S.12.13) しか し

,こ

のような「 しか るべ き均衡」 こそ

,バ

トラーの先の定義で言 えば

,ま

さしく「 自然」 と呼ばれ るのではなかったか。

(15)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題

35

(三) われわれは

,先

,ス

タージャン論文 との関連 において

,バ

トラーの良心 は「 自然」か ら少な く とも一応 はた しかに独立 していること

,そ

こには一種 の道徳 の自律Jl■が認 め られ ることをたしかめ たはずであったが

,今 ,上

,そ

れをも危 うくしかねない程の「 自然」 との深いかかわ りの面 を見 たわけである。一体 この間 に完全 な統一 はあ り得 るのであろうか。 明 らかな ことが二つあるように思 う。 その一つは

,は

じめに述べた ように

,そ

もそもバ トラーの 倫理学その ものの根底が まさに二重 になっているとい うことであ り

,他

の一つは

,そ

の こともあっ て

,良

心の自律 も必ず しも絶対ではな く,「自然」の何 らかの制約下での自律

,な

い し独 自性 なので はあるまいか とい うことである。 倫理学の根底が二重 になっているのは

,何

もバ トラーに限った ことではない。 シャフツベ リーで も

,否 ,彼

に先立つ理性主義の立場 にさえも見 られない ことではなか った。特 にハチスンでは

,経

験主義がかな り徹底 されて

,そ

の経験的道徳感覚の立場 と理性主義 に通 じる如 き神学的背景 とは, 二元論 と言って よい程の性格 を呈 しているとは

,以

前指摘 した ところである91ち バ トラーの二重性 はハチスンのそれ とその性格 において必ず しも同 じではないけれ ども,「主 としてJ(chiefly)経験 主義的探究 を図 りなが らも

,バ

トラーの目は同時 に神学的で もあった。 'ヾ トラーの混乱の最大の原 因はその二つの視点の不統一 にあったのではあるまいか。

『宗教比論』 を貫 く「神 の道徳的支配」(mOral government of God)の 立場 はもとよ り,『説教 集Jのはじめか ら

,前

述 の ように

,人

間本性 を時計 の部分 と全体 の関係 の如 き

,自

他連関の調和的, 秩序的構造 において とらえ

,ま

,現

実の甚だ しい堕落や無関心

,悪

徳 をよ く見

,真

実か ら程遠 い としばしば嘆 きなが らも

,人

間本性 に全幅の信頼 を寄せ るとき

,バ

トラーの目は神学者 のそれで も あった。「われわれは神 の創造 に成 ること

,徳

はわれわれがその下 に生 まれ来た自然法であ り

,人

間 の全構成が明白にそれに適合 (adapt)す べ く作 られていること

,

この ことは敬 けん(piety)と徳へ の第一の義務である。」

(S,1.2)こ

れは

,そ

こでは「完全 に」

(wholly)経

験主義的探究のはずで あつた『説教集』第一 の言葉である。「われわれの自然 は内なる神 の声」(Voice Of God within us)

(S.6.7)と

も語 られているが

,良

心のあの権威 も

,そ

の意味では

,神

の権威だ とも言 える。

「われわれに とって生来的 に規則であるこの道徳的能力の命令 は

,神

の法で もあ り

,制

裁 を伴 った ものであ る。……それが創造主 によって与 え られた と考 える ことが 出来 る もの に とっては

,行

動の規則 ないし導 きを意識することは直ちに義務感 を生 むのみな らず

,そ

れ に 従 えば安全であ り

,違

背すれば危険であるとい う感覚 を生む ことで もある。」

(A.1.

,16)

(16)

われわれは

,先

に見た ように

,良

心の優位性

,一

種 の道徳の自律性 を決 して否定す るものではな いけれ ども

,人

間本性 の全体 を「ネ申の作品 として

,神

聖な もの」(S,8.17)と 考 え

,そ

こに道徳 の, ある意味では究極の根拠 を見 るバ トラー神学の立場 に立つ とき

,先

に確認 した はずの良心の自律性 も結局 は神的秩序の一環 と解 さざるを得 な くなる。 もしそうだ とするな ら

,甚

だ注意 を要す ること に

,良

心の命令 に従 うことのみが「 自然 に従 う」の意ではない とい うことになるであろう。勿論, 人間本性 の階層的構成の最上位 にあって

,他

の原理 を統御すべ くあるところの この原理 に背 くこと は基本的には許 されないが

,し

か し

,序

列 はた とい下位であって も

,仁

愛 も

,ま

た 自愛 も

,そ

の程 度 はとにか く

,基

本的にはそれ 自体,「自然」であ り

,有

徳であることになる。仁愛や 自愛がわれわ れの導 き手 とはしばしば言われていた ところである。反対 に

,良

心 といえども絶対 とは限 らず

,バ

トラーによれば

,も

しそれが誤 まっている場合

,こ

れに従 うのはむ しろ「 それ 自体悪 しく

,悪

徳 と なる。」

(S.10.11)ペ

ネラムな どは納得 しないであろうが

,良

心をも裁 く基準がな くてはな らない であろう。興味あることに

,バ

トラーは『説教集』でわれわれの内なる道徳 の法則 に従 うべ き義務 (duty)のあることを別 に語 っている。

(S,3.5)ペ

ネラムな どは, これ こそが

,ま

さしく

,良

心 の判別 に従 うべ き「理由」 となることを意味す るとし

,人

は何故道徳的でな くてはな らぬか

,何

故 に人 は自分 の良心 に従わな くてはな らぬか とい う近年注 目を浴ぴた話題 に対 す る答 をそこに見 てい る力M2め

,た

しかにその面 はある として も

,し

か しバ トラーがあえて良心 に従 うべ き義務 を言い出す のは

,バ

トラー自身「われわれの本性 の中のぞJ造主 によって割 り当て られた導 き手」 とそ こであえ て断っているように

,自

らにとって法で もある良心の

,し

か しその最奥 に

,神

的意図 を見ているか らで もなか ろうか。「自然」はバ トラー神学の立場か らすれば

,ダ

ーウォールやペ ネラム とも違 って, 決 して単 に良心 に従 う「理 由Jと してのみあるのではな く

,そ

れ 自体

,徳

の標準で もあるのである。 もっ とも

,バ

トラー倫理学が注 目されたのは

,そ

の経験主義的探究 の面であって

,必

ず しも神学 としての道徳論でなかった ことは言 うまで もない。道徳 は彼の神学か ら一応 は独立 してお り

,良

心 において直接神の意志 としてその命令の遵守 を迫 っているわけではない。ペ ネラムがバ トラーの神 学的信念 と

,そ

れによる「自然」的行為 を認 めなが らも

,そ

れ はバ トラー倫理学 に とって全 く背後 の

,付

力日的な こととして

,斥

けたの もその故であったが

,し

か し

,そ

れは果 してバ トラーの正 しい とらえ方であったか。バ トラーの神学的信念 を斥 けるとその倫理学の受 け入 れは困難 になるとも言 われ る程

90,バ

トラーにおいて道徳 と宗教

,徳

と敬 けんはほ とんど不可分 の関係 にあるのである。 その点 は

,先

にふれた ミラーの解釈 には注 目に価 いす るものがあると言 えよう。 ミラー も先 にぶ れた如 く

,良

心の判別 は決 して「自然」によってではない としなが らも,「自然

Jは

単 に良心の半J別 に従 うべ き「理由」 としてあるので はな く

,わ

れわれの人間本性の全体が徳 に適 うように神 によっ て作 られていると見 るのである。 それが良心 に従 うことを「 自然」だ とす る意味 だ とい うのであ る●0。 われわれ もこの見方 にはよ り近 い ものを覚 えるとは先 に一言 した ところであった。ただ

,

(17)

バ トラーにおける「自然」 と良心の問題 ラーの見方は

,ペ

ネラムな どと違 って

,余

りに も神学的視点の側 に一元的に立 ち

,す

べて を神意 に おいて とらえようとす るわけで

,こ

れ も

,逆

の意味で

,行

きす ぎるのではあるまいか。バ トラー は 必ず しも常 に神学的にのみ見ていたわ けではな く

,そ

れを離れて現実的に

,ほ

とん ど心理学的

,更

には自然科学的な目で リアルに人間本性 を見つめている面 もあるのである。 もっ とも

,そ

れ も

,あ

る意味では現実への一時的譲歩

,聴

集 の声への妥協 な どとも言われるわけであろうが

,た

,バ

ト ラーにおいてその間が必ず しも統一 されているわけでない ことも事実なのである。バ トラーが「 自 然」 に道徳の根拠 を見 るとき

,深

く神学的 自然観 に支 えられていた ことは上 にも見た ところである が

,し

か し

,常

にそれに徹 していたわ けで もなかったのである。 バ トラーにおける道徳の「 自然」への

,結

局 は神学的信念 に支 えられた「 自然」への依存 とそれ か らの独立 は

,自

愛 に関 して もそうであるが

,特

に仁愛の徳 によ くあ らわれて来 るようである。先 にふれた ように

,バ

トラーはしばしば仁愛 と全 く別個 な もの として

,例

えば正義や誠実 さ

,あ

るい は悪徳 の例 として裏切 り行為 な どをあげなが らも

,し

か し

,同

時 に

,そ

れ らを制限(restrictions) ない し一種の条件の如 く見なし

,徳

のすべては結局 は仁愛 に帰着す るとしているわ けである。(S. 12.31) バ トラーは勿論道徳の懐疑主義者ではない。経験的概念 としての良心にも一種の自律性のあるこ とは決 して否定 されないが

,た

,こ

れ まで見て来た ところか ら

,そ

れは必ず しも「 自然」 の制約 を全 く免れた もので は決 してな く,その制約の上での一種 の自律性 と見 るべ きではあるまいか。ダー ウォールやペネラムのように

,そ

れをほ とん ど理性主義の立場 に近 い

,全

く独 自の「直覚的」能力 と見 ることは

,や

は り正 しくないので はあるまいか。上 に もふれたように

,バ

トラーは実 にしばし ば徳 は「 しかるべ き均衡」 に存す ると語 るが

,そ

の言葉の通 りだ とす ると

,

ミラー とも違 って

,良

心の最 も基本 の機能 においてさえ

,何

らかの形で「 自然」がかかわつていることになるであろう。 既 に『説教集』第一で良心 にはじめて言及 し,「この能力 は……われわれに

,わ

れわれが どの ように 意図 されてあるものか (what we are intended for)を 何程か (in some degree)指 し示す もの……」

(S・ 1・ 3)と説明 しているのを見 る。 そ もそ も

,バ

トラーは

,そ

の良心 を実践の原理 としてはた しかに強調 はして も

,

ミラー も指摘す るように

'0,道

徳的認識の原理 としてはほ とん ど発展 させなかったのであ り

,ま

たその興味 も余 り なかったのではあるまいか。『宗教比論』のあの「奇妙な」ともよ く言われ る良心の規定 にそれはよ くあらわれているようである。 「良心

,道

徳的理性

,モ

ラル・ セ ンス

,聖

なる理性 (divine reason)と 呼 ばれ ようと

,ま

,理

性の感情 (sentiment of the understanding)あ るいは心情 の知覚 (a perception of the heart)ま たは

,多

分 これが正 しいであろうが

,そ

の両方 を含んだ もの と

,考

え られ よう

(18)

ととにか く

,こ

のような道徳的能力 は……。」(D。 1)

バ トラーの立場 を理性主義 ともモラル・センス学派 とも規定 しがたい と言われるゆえんで もある。 ペネラムは

,バ

トラーの自愛 には感情的側面 は多分 に見 られ るとしなが らも

,良

心 に関 しては

,そ

れは一切見 られない としている。0。 果 してそうであろうか。バ トラー自身,「モラル・セ ンス」 とし

ばしば明言 し

,上

の『宗教比論』の「徳の本質論」初頭か らこの能力 について「正 と邪

,忌

むべ き と愛 らしい (odious and amiable),い や しい と価値 ある (base and wOrthy)などという評価語 を 用いている。 これは,『説教集』では勿論 しば しば見 られた ものであるが

,ヒ

ュームによって も用い られている道徳感情 の用語で もあるのである。美的調和や均衡の原理がモラル・ セ ンスの立場 に通 じることは無論である。 バ トラーにおいて更に注意 を要することは

,そ

の言 うところの良心が全 く生来的な ものを指すの か

,そ

れ とも後天的 に啓発 された ものを指すのか

,明

確でない とい うことである。勿論

,バ

トラー においてその良心その ものは生来的な道徳的能力であるが

,た

,バ

トラーが良心 をわれわれの人 生の導 き手 とし

,時

々 きび しい理性 とも話 るとき

,そ

れは必ず しも生来的な能力 としての自然的良 心ではな くて

,む

しろ後天的にきび しい修練

,啓

発 を経た ものを意味 していることが多い ものの よ うである。シジウィクが個人 の良心が必ず しも絶対 ではない ということに関連 して,「バ トラー は普

通の人 (plain man)の 良心で十分 としてい る」と言 って これ を非難 している力

Y2o,そ

の非難 は必ず しも妥当で はないのではあるまいか。バ トラーはた しかにその考察の対象 を「極端 な人ではな く,

普通の世間 における大多数の人々 (the bulk Of mankind)」 とし

,理

性的考察が時 に事 をゆが めて しまうことか ら

,む

しろその普通の人の常識 (common sense)に 訴 える方が よい としている力ゞ(S. 1・ 3・ 5,15),しか し

,バ

トラーはその普通 の人 の常識 あるいは良心 を必ず しも絶対視 していたわ け でない ということは,『説教集』『宗教比論』全篇 を通 じて明 らかである。既 に見た ところの良心 を 忘れたかの如 き徳 の理性的考察

,そ

れで もしばしば「正確 に決めることは困難」(S.2.27),「正確 な尺度 を持 っているわけで はない」

(S.12.13)「

正確 には決 めがたい」(S,10。 1。

)と

,ま

た し ばしばふれた現実の堕落

,悪

徳へのバ トラーの嘆 き。『説教集』第十の「自己歎 まん」(Upon Self

Deceit)で

は大多数の人々 (The Generalty of Mankind)は ほ とん ど反省せず

,徳

か ら如何 に遠 いか をるる述べた ものである。崇高なる良心 といえども

,生

来の ままではな らぬ ことを語 っている ことにな らないか。注 目され ることは

,先

にも一言 した ことであるが

,一

見無過誤

,絶

対的能力で あるかの ような良心が

,如

何 に強い「 自己偏頗性」(self partiality)を 呈 し

,腐

敗す る (corrupt) かがバ トラー 自身 によって明 白に語 られていることである。(S。 10。 16)『宗教比論』で きび しい徳 の修練

,啓

発の必要が説かれ るゆえんである。

(19)

バ トラー にお ける「 自然」 と良心の問題 以上

,ス

ター ジャン論文 に触発 されて

,古

くか らの「 自然」 と良心の問題 について考 えて見たわ けである。バ トラーにおいて良心の一種 の自律性 は決 して否定 されないが

,た

,そ

の道徳論 その ものが必ず しも経験的概念 としての良心 によってのみ基礎づけられていたわけでな く

,バ

トラー自 身の神学的信念

,そ

の 自然観 に大 き く支 えられて もいた こと

,そ

して

,そ

の こともあって

,良

心の 自律 もまた「自然

Jの

何 らかの制約 を免れず

,い

わばその制約の上 での一種 の自律性 ないし独 自性 なのではあるまいか と

,見

て来たわけである。モラル・ センス学派 にほ とん ど共通す るとも言 える この特徴 は,ヒ ュームによって「 自然的なるをもって有徳 となす学説程非哲学的な ものはないJ00と 批判 される一方

,今

日の倫理の自律性 の問題 に深 く連関す るものを含んでいるように思われ る。 (注) (1)徳の原理の意味で用 いる場合,「

Jを

使用。

(2)J Bulleri Fifteen Sermons Preface 6 7

(3)cf George Watson; Butler (The Engish h/1ind 1964. Cambridge, p 107ff)TA Roberts; Editor's lntroductiOn tO Fifteen Sermons(SPC.K.)

(4)H Sidgwick,Methods of Ethics 7th ed p 378

(5)SturgeOn;"Nature and Conscience in Buder's Ethics“ (The PhilosOphical Review LXXX,v s July,1976) (6) Sidgwick,Op cit p. 366

(7)T H IvlcphersOn;"The Development of Bishop Buder's Ethics(1)“ (Philosophy,v01 xx ,No 87,1948) (8)Penelhum;Bu■ er 1985(Routiedge&Kegan Paul)Darwall"ConSCience as Self― Authorizing“ (in the

JOSeph Butler'sふ′Foral and Religious Thought ed by C Cunliffe, 1992 0xford)

)拙

稿 「バ トラー徳論 の一考察―良心 と自愛の問題 の根底 にあるもの一J(一関工業高等専門学校研究紀要第1号)

(昭和42年3月)

「 シジウィクの 自愛 と

Jバ

トラー」(行安茂編 『

Hシ

ジウィク研究』(以文社)(平成4年1月))

10以

下,Fifteen Sermonsを Sと略。ナ ンバーはRoberts版による。

10 Milla弓 "Following Nature“ (The PhilosOphical Quartery Vo1 38,No 151 1988) 121 DarwaH;op cit p 233.

131 Penelhumi op cit p.67ff 10 Darwaniop Cit p 219f

10 以下,A Dissertation of the Nature of Virtueを

Dと

略。ナ ンバーはRoberts版による。

10以

下,Analogy of Religionを

Aと

略。ナ ンバーは Gladstone,仮 による。

10 拙稿「 シジウィクの自愛 とJ.バ トラーJ

l181 Penelhunl,Op cit p 75 (10 h/1iHari Op cit p 180,

(20)

120 拙稿 「理性対道徳感覚 論争 とハ チス ンの立場」(日本倫理学会論集26『 イギ リス道徳哲学の諸問題 と展開』(慶應 通信。平成8年10月) 切 POnelhum;oO.cit,p.71. 1231 T.A.ROberttt op,Cit・ ●.xxl. 90 WIinar,op.cit.p. 177. 1251 Milと、ibid.p.1761 1261 Pendhum;Op.cit,p.36f` 側 Sidgwiclti op.dt,Preface.p.xix. 1281 Humq op.cit.Bk.III,Part I.s∝t.五.

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