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『異制庭訓往来』引用の連歌式目について――それは鎌倉時代後~末期の「花下新式」ではあるまいか――

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Academic year: 2021

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(1)

r八裏御抄」に十五条の故実禁制が記されて後、 既に 鎌倉時代多 くの式目 の類の作られていたことは現存資料 からも明らかであろが、 伝えられていろのは名称ばかり で、 その 式目の内容まで見ろこ とが できろのは、 康永四 年に二条良基が著した「僻 抄」に収められ ていろ式目 が現在最も時代を遡ろものであろ。 しかし、 それ以前の 連歌がどの ような規則に依って詠まれていた かを推測す る手 がかりが全 くないかと言うと、 決してそうではない。 そのような手がかり の一っとして「異 制庭訓往来」の九 五日付書状中に要約して引用されて いる連歌式目につ いて検討してみよう。 当時の往来物中にはしばしば連歌 に関する記述が 見え、 特に続群書類従本「遊学往来」に 引用された式 目は諸先学の著 によく召及されているも (一) のであろが、 それ に比してこの「異制庭訓往来」の式目 は、 私の知ろ限りでは正当な検討が加えられないままに されて いろように思われる。 お、 続群書類従本「遊学往来」の式目につ.いて 論ずる こと は本稿の目的で ない ので、 今はそれに 対する私見の結論の み言うこと にな るが、 この式目 の記述 全てをr連理秘抄」あるいは「僻連抄」より 古いもの と考えろことは私には不可能である。 その 記述は前後二つの部分に分けられ、 前半(「梅者春 冬二句」まで)は『異制庭訓往 来」とほぼ同文であ り、 これは、 以下で論ずるビとくあろいは古いも であるかも知れないが、 後半(「一座一句之物者」 以下)はたと え「応安新式」より は古 いものであっ たとして も「連理秘抄」より古いものではない。

ーそれは鎌倉時代後し末期の「花下新式」

ではあるまいかー_|

『異制庭訓往来』引用の連歌式目について

(2)

さてr異制庭訓往来」 用されている連歌式目とは いかなる内容か、 短いものなのでその全文をあげよう。 テキストは群苔類従によるが、 句点は私見により改めた 所がある。

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歌者如痰隊幻。 近代殊翫之。 都鄭貴賤之芸也

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『. -l tり 花下新式 f 定綸回。傍題。鉤字 「所 謂春。秋。 恋。 Il べ”r 雑者各五句。 景物多故?夏。冬。 神祇。 釈教。 述懐゜ r. '’、 4 図旧。 水辺。 行路。 無常。 祝言等各三句?花。 桜。

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雪者改体三句?梅者春冬二句 雁春秋二句?禾与木。 > い > 草与海草。 同類。井詞字。 同文字去五句_

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但雨露雪霜゜ 姻證雲霧。人倫。 異名。 草木。 音声。 魚烏虫獣可去 0>

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句?雖然月。 松。 夢。 活。 同季者可去七句 此外 v >

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題名物悉刃為一座一句云々。

――

· の内容 がr僻連苅)」の式目よりも古いものであると 注一 思われる所以を 以下に箇条書きしてみよう。 ⑥①の部分に「定輪回。 傍題。駒子」とあるが、 「僻連抄」の式目に規定があるのは輪回と駒字のみで、 傍題については何ら言及する 所がない。 後の「連理 (二) の点については、 機会があれば詳細に論じたく思っ ている。 秘抄」(貞和五年)の式目にも「応安新式」(応安 五年)にも傍題 についての規定がない 所を見ると、 このCとく傍題についての規定があるのは、『僻迎 抄』以前の古い形であると思われる。 ⑥③において「春。 秋。恋。 雑者各五句」とあるが、 「僻連抄」 の式目で連続五句以内と規定されていろ のは春・秋.恋の三種のみであり、 これ は「連理秘 抄」の式目や「応安新式」でも同様である。つまり ここに雑も連続五句以内と規定しているのは「僻連 抄」以前の古い形であろう。 ⑥「僻連抄」 の式目の「可分別物」の条々中に 一、 無常 懐旧 引合て可用三句 という規定があろ。 これは「迎理秘抄」の式目ゃR2 俄旧無常 安新式」にも「述俄 とい う注記となって 在此内 継承されるが、 何故ここにおいてこの ような規定が れたか、 その褒を考えれば、 それ以前には無常 、、、、、、、 .述懐・図旧は引合せられずに 各三句ま で続けるこ とができるように取り扱われていたからであろう。 そこで 「異制庭訓往来」はどうかと言うと、 ③にお いて「 ...... 述懐。 菌IB0・・・・・・無常。 ……等各三句」 と、 三種それぞれ独立に連続三句以内と述ぺられて いる。即ち、これも「僻連抄」以前の古い形であろう。

(3)

@「僻連抄」の式目の 「打越可嫌物」中 に「音に声」 とあり、 これ は「連理秘抄」の式 目も同じ で ある。 ・・ 「応安新式」のそれに 相当す る部分では「音・声ーー響」 となっており少し表現が違う が、 規定の意味する所 は同じであろう。しかるにr異制庭訓往来」では⑧ において「音声」は「可去三句」とされている。

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これもやはり「僻連抄」以前の形 であろう。 G「人倫」についても⑥において「 音声」について述 ぺたのとほぼ同じこと が言

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①「僻連抄」の式 目において「可隔七句物」の条にあ げられているのは、同季・月•松•竹・夢.涙·袖 •OOの八種であり、他に「何度可用之物」の条中に 「 霧 去七 句 」 「霞 去 七 句 」とあり計十種である 。そ れが「連理秘抄」の式 目では「袖」が削られ、「応 安新式」では更に「 霧 」と「震」が削られ(この二 つが削られたのは、霧と言えば秋、霞と言えば春で あるから、 七 句を 去るぺきものとして「同季」 とあ れば十分であると考えたか らであろう)その代わり に「田」と「衣 」 が加 えられて九種にな る。し か る に「異制庭訓往来」 では⑨ のCとく、 七句を去るペ きものと して月•松・夢・活・同 季の五種しかあげ ら れ て い ない。これもやはり古い形 を示すものでは あるまいか。ただし、実際は九乃至十種が規定され ていたのに、引用する際に省略されてここに五種の みあげられる結果となった可能性もある。 ⑥「僻連抄」の式目において 「一座二句物」と規定さ れている句材は二十五種(ただし、 「如此 ...... 」と いう表現の一例としてあげられて いるものは数えな い。下同)、 「 一座三句物」は 四種、「一座四句物」 は二種である。それがr連理秘抄」の式目で は 二句 物が十六種 、三句物が十種、四句物が四種となり 、 「応安新式」では二句物が二十五種 、三句物が十七 龍、四句物が五種、 それに「一座五句物」の条が新 たに加わりそれが三種というように変化してゆく。 個々の句材については譲論の余地の ある ものもある が、巨視的に見て時代が下るにつれて同一句材の回 数制限については規定の緩められてゆく傾向のある L のがは っきり看取されよう そうであるならば「異 制庭訓往来」に おいてgの部分で「此外題名物悉可 > 為一座一句 」と 、.同一句材の 回数制限に ついて原 ニ ー 則的に厳しく 規定 されているのは、やはり古い形で あると考え られよう。そ して、 同一句材を一座に一 句しか許容しない という原則は、後世一座何句物と 言っても、例えば 「榔⑫←い詞茫紅芍」のC

(4)

そのほとんどが実質的に一座一句物の集積で ある点において、 本質的には後まで貫徹されている と言えよう。 (三) 「異制庭訓往来」の 連歌式目が 「僻連抄 J より古い形 のも のであること は以上より確か であるとしてよかろう。 それ では、 果た してそ れはどの程度まで時代を遡るもの であ ろう か。 それにはま ずr異制庭訓往来」の成立時期 を考えてみなく てはなら ないが、 これ は既に先学によっ り詳しい考察が なされていろ。 今、 石川謙博士の r古往来について の研究」における論を要約すると、 のととくである。 の五山制度の変遷 から見て .の十一月十三日付習状において「京都鎌倉五山」の 中に天竜寺 があげられているが、 天竜寺の開創は 暦応二年、 それが 五山に 列位された は暦応四年 八月の ことであり、 これが上限である。 ⑲ま た、 異本たる「新撰之消息」のその部分の記述 は浄妙寺と万寿 寺を五 の中に加えて いないと読 みうるものの ごとくであるが、 万寿寺を五山に加 える最初の令の発せられたの が延文三年九月、 終的に決定し たの が応安五年九月 でありへ これが 下限である。 (勢田注)異本を考麻に入れず続群苔類従本のみ から考えれば、 そこにおいて五 山と してあげられ ている 建長、 円党、 寿福、 浄智、 浄妙 南禅 天竜、 建仁、 東福、 万寿の各寺で、 は文和―― 年以後至應=一 年以前の 形である。 ⑩引用されている連歌式目の内容から見て。 r具さ に吟味し てみる と・・・・・・「応安新 式」 よりは 遥かに多<r僻連秘抄」 に契 合している。 ,..... れにして もr僻連秘抄 J が既に成って、いまだ「応 安新式」の拡まら ない過渡期において「異制庭訓 往来」の、 この文章は、 苔綴られたのであろうJ (陪士の著書の文章をそのまま抜粋。 なお「 抄」の存在はまだ知られて かったようであろ) 右の うち、①に関しては(下限 についての 論にやや強 引な点が感じられるも の)私自身特に異を たて るべき 知識は持ち合 わせ ていない。 しかし、 ⑩に腿してはどう して も従うことができない。 成程r異制庭訓往 来」の連 歌式目は確かに「応安新式」 よりも 「僻 連秘抄」及びr 連抄」 に多く契合するものである。 しかし、 それは 「僻 連秘抄」及びr僻連抄」と「応 安新式」 との中間に位置

(5)

する ものでは決してなく、 先に詳述したとと<r僻迎秘 抄」及び「僻連抄」よりも以前に盟かれるべきものなの であろ。 従ってr僻連秘抄」及び「僻迎抄」の成立時は、 r異制庭訓往来」の成立時期の上限ではなく 、 下 限とせ ねばならない。 それ で はどういう 結論 が得られる か。① の①の上限、 暦応四年八月は動かない。下限は「僻迎抄」 「僻連秘抄 J r連理秘抄」のうちもっとも早いと推定さ れるr僻迎抄」 の成立し た康永四年三月。 「異制庭訓往 来」に引用された迎歌式目もまたその間のものというこ とになる。 そうストレートに考えてよいか? どうも。ヒタッと こないというのが私 の印象である。 何 とな れば、 上限の暦応四 年として も「僻連抄」の成立 し た腹永四年のわずか四年前であ る。 しかしわずか四年の 間に生じたものにしては、r異制庭訓往 来 」 の式目とr僻 連抄」の式目と の間の内容の差異はどうに も 大きすぎる ように思われ るからである。 ではどう考えねばならない か。 可能な考えは次の三つであろう。 凶引用された連歌式目は実は筆者の想像力の産物であ って事実に基くもの で はなかった。 ⑪迎歌式目を引用している部分 と五山の寺名を列挙し た部分と は実は同一時期のもの ではなく、 前者は後 者よりもかなり 以前の資料に基く。 ©暦応ー康永期、 実際の連歌は既にr僻連抄」の式目 に近い ものとなっていたが、 式目として は古いまま のも のが行 われており、 それがここに引用された。 囚で なかったという確固たろ論拠を 私は一っも持って いない。 そうであるか も知れない。 ならば論はここで尽 、 、 きる。 しかし一応本榜で は⑪また は ©、 ある いはその両 、、、、 方であったと仮定して、 この式目が歴応四年よりも以前 いつとろ まで時代を遡れるか考えてみ よう。 何か手がか りはないであろうか 。 辿歌式目が引用される直前に和歌の勅撰集が列挙され ている。 それは、 まず「古今」以下「新古今」までをあ げ「是号八代集也」とした後、 次のととくであ る。 二 ― 新勅撰。 続後撰。 続古今。 続拾逍。 新後撰者。 定家。 為家。 行家。 光俊。 為氏。 為世等撲也。 加是号十三 V

――

代集也。是等 勅 撰 同進候。 そして 、 この後初めに引用した「連歌者」以下に続く。 十三代集と言え ば、 今日、 ふつう 「新勅撰」から「新 続古今」までの十 三の勅撰集という意味で使われる。 し かし 、 こ こではr古今」から「新後撰」までの十三の勅 注 洒 ゜ 揆集を指している。 こういう用法が他にあるのだろうカ 根拠 が あって言うこと ではないが、 この場合の十三代集 とは、 三代集や八代集のよう にそれ 以後のものと価値的

(6)

にも区別する言葉ではなく、現在の二十一代集にあたる 言葉で、要 するに当時において存在していた勅撰集が十 三であったので、それを十三代集と呼んだというように 考えられないだろうか。もしそうであるならば「異制庭 訓往来」九月五日付書状は「新後 撰」の成った嘉元元年 から「玉葉集」の成 った正和二年Cろまでの約十年の間 の資料に基く ということ になり、そこに引用さ れている 連歌式目も当然その頃までは最低遡れ るということにな る。それはまたこの式目 の内容の古さ加減にふさわしい 時期であるようにも私には感じられる。ただし、 「王葉 集」以下の勅撰集は省略したのだという論を否定する積 極的な根拠もないわけであるが、敢えて右のこ とを述ペ ておこ うと思う。 て、周知のことく「僻連抄」の式目には「式」ある いは「式の 心」 う類の注記がつけられており、 これ は、それに先行した式目ー多分「弘安新式」、 ただし 私見では以後の追加も含んでいろ と思われる。以下「先 行式目」と呼ぶーの 内容を示している と考えられてい る。それと今まで論じてきた「異制庭訓往来」の式目の 内容と を比較検討してみよう。前者については「式」等 (四) の注記がどの程度厳密に付されたもの か確かでないし、 また後者については 要約した上での引用であるという制 約があるのであるが、それでも軌を一に する点が かなり 見うけられ ようであれば、両者の内 容はーーその相違 点までも含めて(何 故なら、 当時は「連歌の嫌物は家々 の式まちまちに待れ とも」〈僻連抄〉という状況だった から)ーー「僻連抄」以前の式目として信頼し うるもの ある 可能性をかな り高めると言えよう。さて 、どうか 「異制庭訓往来」には「定瑞回。傍題。駒字ー」と ある。このうら傍題は 「僻連抄」の式目に対応する 記述がない で確めよう がないが 、輪廻・遠輪廻. 頷字の各条には「式」あるい は「式心」の注 があ る。つまり「僻連抄」の先行式目においても、輪廻 と韻字につい の規定 が存在してい たらしい 。この 点は一致する。 ⑤r僻連抄」の式目の「一、無常 述俄 菌旧 引合 て可用三句」 いう規定には「式」等の注記がない というこ 式目においては、無常・述懐・壊 旧は「異制庭訓往来」と同じく各別個のものとし 取扱われていたのであろう。こ の点も一致する。 ⑥「人倫」と「音に声 J は「異制庭訓往来」では三句 去りと述ぺられている。それ に対しr僻連抄」の式

(7)

目では「打越可嫌物」の中に入れられているのであ るが、 こ の両項には「式」等の注記がない。 つま り 先行式目において「人倫」と「音に声」 は 打越 を 嫌 う物ではなか ったこ とになろ。 この点も一致すると は断定できないが矛盾はない。 ⑥r異制庭訓往来」で 三句 去りと述ぺられているのは、 ⑥であげた 二項を除いて、 雨露ぎ霜(降物)、 姻霞 雲霧(聟物)、 異名、 草木(非同類植物)、.魚烏虫 獣(非同類動 物).の五種であ ろ。 それに対し「僻連 抄」の式目では「可隔三句物」全体に「式」の注記 がなされており 、 そしてそこにあげられてい ろのは、 ・光物、 葺物、 非同類動物、非同類名所の四種であり、 異名、 降物、 非同類栢物の句去 りについては他のど こにも記述がない。 しかし、 異名はともかくとして、 常に対になった取り扱いをうけろ聟物と降物、 動物 と植物の各そ の一方のみしか 「僻連抄」の式目で規 定していないのは 明らかにお かしく、 ここはやはり 降物と非 同類植物が脱落して いると考え るのが自然 であろう。 そうであるな らば、 妥 物 、 降 物、 非同類 動物、 非同類植物は、 「異制庭訓往来」でもr僻連 抄」 の先行式目で も共に三句去りで あったと推察され ろ。 (ただし、 光物と非同類名所がr異制庭訓往来」で は省略されたのか、 規定がな かったのかの問題は残 ろが)

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僻連抄」の式目の「可隔五句物」もまた全体に 「式」の注記がなされていろ が、 そこにあげられて いるのは、 同字、 同類植物、 同 類動物、 (恋・腔・ 水辺 ・居所 ・夜心地・タ ・述懐・神祇.釈教 ・祝な どの)同類の句、 同類の名所、 月と月次月、 日と日 次日である。 こ の記述と「異制庭訓往来」の 「木与' 木。 草与草。 同類。 井祠字。 同文字 去 五句」とい > ニ ー う記述とは、 その指し示す範囲がほぼ一致するもの であろと言えよう。 要すろに五句以上を隔てねばな らな いのは「同 字」と「同類」の二つなのである。 ①「異制庭訓往来」において 一座二句 物と述ぺられて いろのは梅、 雁の二種。 三句物は花、 桜、 雪で、 他 は「悉可為一座一.句 」であろ。それに対し「僻迎 > ニ ― 抄」の式目で一座に二句以上 のものとしてあげられ ていろ句 材中「式」の注記 が付さ れ ているのは、 ニ 句物として梅(一座一句物中にあげられているが、 実質的に 二句物 である旨の記述があ ろ ) 、 柳 、 桜゜ 三句物は花、 在明。 四句物は雪で、 この注記を信ず ろならば先 行式目において残りの句材 は原則的に一 座一句物であったと考えられる。 個々の句材につい

(8)

ては相違もかなりあろが、 全般的に「僻迎抄」の式 目以 後のもの に比ぺて同一句材の回数制限が非常に 厳しいという点では軌を一に していろ。 ⑥七句去りのものとして「異制庭訓往来」があげる所 は月、 松、 拶、 消、 同季の五種であ る。 それに対し r僻連抄」の式目では「隔七句物」の条であげら ている八種には一切「式」等の注記はなく、 「何度 可用之物」の条で七 句去り とされている月、 霧、 殴、 涙、 夢、 松、 竹のうら、 「式」の注記がな されて ろのは夢、 松、 竹の三種で り、 r異制庭訓往 来」 とは二稲が共通すろものの相違の方が大 きい。

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異制庭訓往来」では連続五句以内の ものとして春、 秋、 恋、 雑の四種。 三句以内のものとして夏以下十 棚があげられている。 r僻述抄 」の式目でそれに対 応するのは「句数」の条であろが、 そこ には一切 「式」等の注記は見えな い。 れを 素直に受けとる なら、先行式目では同類の句の連続について、 規定 が違っていたかというこ とになるが、 ここは注記が 説落している可能性もあろこ とが先学によ って述ペ 注五 られていろ。 以上、 「異制庭訓往 来」 に引用された式目 僻連抄」 の先行式目とは 相異する点も多いが、 かなりな 点に このうち⑥3は『遊学往来』 引用 の式目 に関して既に伊 巌後にまとめをして こう 「異制庭訓往来」が現存する形になったのは、 十一月 十三日付宙状で天竜寺が五山に数えられているCと によ れば陪応四年八月以降のことで ければな らな い。 それ にもか わらず九月五日付也状に引用されてい る「花下 新式 J の内容は康永四年三月成立のr僻迎抄」の式目よ りはかな り古い形であり、 また、 r僻連抄」の式目にお ける「式」等の注記から推察できるその 先行式目の内容 と軌を一にする点も少なか ずあろ。 従って、 もしこ 目の内 容が全く根拠のないものでな いなら、 それ は謄 応四年八 月より かなり以前1それ を引用して いる甚状 にあげられた勅撰集の名からかなり大胆な推測を試みれ ば最低正和二年と ろま で遡 らせることができると思わ る。 なお 続群掛類従本r遊学往来」の式目 は、 前半は r異制庭訓往来」とほぼ同文であ るが、 後半は「連理秘 抄」以後の資料に拠ろ もの る。 以上、 諸先学の御叱正を願う次第である。 (五) いて軌を一にして いろと宮え

-32-II

(9)

注五 注四 注 注 知地鉄男氏によって同旨の指摘がなされている。 (「連歌新式出典系統孜」^r国文学研究 」第 四 栖、 昭和十年五月〉。 「迎歌新式歴史考」〈r国 語と国文学」第十二巻第九号、 昭和十年九月〉) ただし、 長谷寺蔵「連睛新式平」によってもr連 改初学抄」によっても、 「応安新式」の本来の部 分に人倫について、 人倫か否かの規定があるのに その句去り に関してはどこにも規定が見えない の は不審である(新式今案になって再び「可姉打越 物」と記される)。 早い時期に脱蕗したまま流布 してしまったのであろうか。 例えば「節」は「僻連抄」の式目 では二句物であ ったのが、 r迎理秘抄」の式目では三句物、 「応 安新式 J では四句物となる。 『遊学往来」に例があるが、 石JI謙博士の御論ど おり「遊学往来」と「異制庭訓往来」とは兄弟の ことき関係に あ るものだから、 別の例とはできな い。 (「古往来についての研究」ニニ01ニ――10 ページ) 島津忠夫氏r連歌の研究」一八五ページ。 (陣山工業高等専門学校湖師)

研究室受贈図書雑誌目録II

跡見学園短期大学紀要 第十五巣•第十六集 宇部国文研究 第十一号(宇部短期大学) 愛媛国文と教育 第十一号(愛媛大学) 大阪椋蔭女子大学論集 第十七号 大谷女子大国文 第十号 王朝文学史稿 第七号(王朝文学史研究会) 大妻国文 第十一号(大妻女子大学) 大妻女子大学文学部紀疾 第十二号 香川大学園文研究 第四号 学芸紀要 人文科学 第二十九巻(應島大学) 学芸国語国文学 第十五号(東京学芸大学) 学術研究 第二十七号(早稲田大学) 学大国文 第二十三号(大阪教育大学) 香椎洞 第二十五号(福岡女子大学) 活水日文 第三号(活水女子短期大学) 金沢大学語学文学研究 第十号 金沢大学法文学部論集 文学篇 第二十七号 紀要 第五巻第一号(信州大学医根技術短期大学部) 岐阜大学国語国文学 番十 四号 教従部論集 人文科学篇17(金沢大学) 金城学院大学論集 第八十四号 金城国文 第五十六号(金城学院大学)

参照

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