r八裏御抄」に十五条の故実禁制が記されて後、 既に 鎌倉時代多 くの式目 の類の作られていたことは現存資料 からも明らかであろが、 伝えられていろのは名称ばかり で、 その 式目の内容まで見ろこ とが できろのは、 康永四 年に二条良基が著した「僻 連 抄」に収められ ていろ式目 が現在最も時代を遡ろものであろ。 しかし、 それ以前の 連歌がどの ような規則に依って詠まれていた かを推測す る手 がかりが全 くないかと言うと、 決してそうではない。 そのような手がかり の一っとして「異 制庭訓往来」の九 • 月 五日付書状中に要約して引用されて いる連歌式目につ いて検討してみよう。 当時の往来物中にはしばしば連歌 に関する記述が 見え、 特に続群書類従本「遊学往来」に 引用された式 目は諸先学の著 述 によく召及されているも (一) のであろが、 それ に比してこの「異制庭訓往来」の式目 は、 私の知ろ限りでは正当な検討が加えられないままに されて いろように思われる。 . ※ な お、 続群書類従本「遊学往来」の式目につ.いて 論ずる こと は本稿の目的で は ない ので、 今はそれに 対する私見の結論の み言うこと にな るが、 この式目 の記述 全てをr連理秘抄」あるいは「僻連抄」より 古いもの と考えろことは私には不可能である。 その 記述は前後二つの部分に分けられ、 前半(「梅者春 冬二句」まで)は『異制庭訓往 来」とほぼ同文であ り、 これは、 以下で論ずるビとくあろいは古いも の であるかも知れないが、 後半(「一座一句之物者」 以下)はたと え「応安新式」より は古 いものであっ たとして も「連理秘抄」より古いものではない。 こ
ーそれは鎌倉時代後し末期の「花下新式」
勢
田
勝
ではあるまいかー_|
『異制庭訓往来』引用の連歌式目について
郭
さてr異制庭訓往来」 に 引 用されている連歌式目とは いかなる内容か、 短いものなのでその全文をあげよう。 テキストは群苔類従によるが、 句点は私見により改めた 所がある。
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. 連 歌者如痰隊幻。 近代殊翫之。 都鄭貴賤之芸也J
『. -l tり 花下新式 f 定綸回。傍題。鉤字 「所 謂春。秋。 恋。 Il べ”r 雑者各五句。 景物多故?夏。冬。 神祇。 釈教。 述懐゜ r. '’、 4 図旧。 水辺。 行路。 無常。 祝言等各三句?花。 桜。Sl
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雪者改体三句?梅者春冬二句 雁春秋二句?禾与木。 > い > 草与海草。 同類。井詞字。 同文字去五句_t
但雨露雪霜゜ 姻證雲霧。人倫。 異名。 草木。 音声。 魚烏虫獣可去 0>.――
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i 言gl
. 三 句?雖然月。 松。 夢。 活。 同季者可去七句 此外 v >――
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題名物悉刃為一座一句云々。――
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· 右 の内容 がr僻連苅)」の式目よりも古いものであると 注一 思われる所以を 以下に箇条書きしてみよう。 ⑥①の部分に「定輪回。 傍題。駒子」とあるが、 「僻 二 連抄」の式目に規定があるのは輪回と駒字のみで、 傍題については何ら言及する 所がない。 後の「連理 (二) の点については、 機会があれば詳細に論じたく思っ ている。 秘抄」(貞和五年)の式目にも「応安新式」(応安 五年)にも傍題 についての規定がない 所を見ると、 このCとく傍題についての規定があるのは、『僻迎 抄』以前の古い形であると思われる。 ⑥③において「春。 秋。恋。 雑者各五句」とあるが、 「僻連抄」 の式目で連続五句以内と規定されていろ のは春・秋.恋の三種のみであり、 これ は「連理秘 抄」の式目や「応安新式」でも同様である。つまり 、 ここに雑も連続五句以内と規定しているのは「僻連 抄」以前の古い形であろう。 ⑥「僻連抄」 の式目の「可分別物」の条々中に 一、 無常 述 懐 懐旧 引合て可用三句 という規定があろ。 これは「迎理秘抄」の式目ゃR2 俄旧無常 安新式」にも「述俄 とい う注記となって 在此内 」 継承されるが、 何故ここにおいてこの ような規定が な さ れたか、 その褒を考えれば、 それ以前には無常 、、、、、、、 .述懐・図旧は引合せられずに 各三句ま で続けるこ とができるように取り扱われていたからであろう。 そこで 「異制庭訓往来」はどうかと言うと、 ③にお いて「 ...... 述懐。 菌IB0・・・・・・無常。 ……等各三句」 と、 三種それぞれ独立に連続三句以内と述ぺられて いる。即ち、これも「僻連抄」以前の古い形であろう。@「僻連抄」の式目の 「打越可嫌物」中 に「音に声」 とあり、 これ は「連理秘抄」の式 目も同じ で ある。 ・・ 「応安新式」のそれに 相当す る部分では「音・声ーー響」 となっており少し表現が違う が、 規定の意味する所 は同じであろう。しかるにr異制庭訓往来」では⑧ において「音声」は「可去三句」とされている。
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これもやはり「僻連抄」以前の形 であろう。 G「人倫」についても⑥において「 音声」について述 ぺたのとほぼ同じこと が言J竺゜
①「僻連抄」の式 目において「可隔七句物」の条にあ げられているのは、同季・月•松•竹・夢.涙·袖 •OOの八種であり、他に「何度可用之物」の条中に 「 霧 去七 句 」 「霞 去 七 句 」とあり計十種である 。そ れが「連理秘抄」の式 目では「袖」が削られ、「応 安新式」では更に「 霧 」と「震」が削られ(この二 つが削られたのは、霧と言えば秋、霞と言えば春で あるから、 七 句を 去るぺきものとして「同季」 とあ れば十分であると考えたか らであろう)その代わり に「田」と「衣 」 が加 えられて九種にな る。し か る に「異制庭訓往来」 では⑨ のCとく、 七句を去るペ きものと して月•松・夢・活・同 季の五種しかあげ ら れ て い ない。これもやはり古い形 を示すものでは あるまいか。ただし、実際は九乃至十種が規定され ていたのに、引用する際に省略されてここに五種の みあげられる結果となった可能性もある。 ⑥「僻連抄」の式目において 「一座二句物」と規定さ れている句材は二十五種(ただし、 「如此 ...... 」と いう表現の一例としてあげられて いるものは数えな い。下同)、 「 一座三句物」は 四種、「一座四句物」 は二種である。それがr連理秘抄」の式目で は 二句 物が十六種 、三句物が十種、四句物が四種となり 、 「応安新式」では二句物が二十五種 、三句物が十七 龍、四句物が五種、 それに「一座五句物」の条が新 たに加わりそれが三種というように変化してゆく。 個々の句材については譲論の余地の ある ものもある が、巨視的に見て時代が下るにつれて同一句材の回 数制限については規定の緩められてゆく傾向のある 注 = L のがは っきり看取されよう そうであるならば「異 制庭訓往来」に おいてgの部分で「此外題名物悉可 > 為一座一句 」と 、.同一句材の 回数制限に ついて原 ニ ー 則的に厳しく 規定 されているのは、やはり古い形で あると考え られよう。そ して、 同一句材を一座に一 句しか許容しない という原則は、後世一座何句物と 言っても、例えば 「榔⑫←い詞茫紅芍」のCと く 、 そのほとんどが実質的に一座一句物の集積で ある点において、 本質的には後まで貫徹されている と言えよう。 (三) 「異制庭訓往来」の 連歌式目が 「僻連抄 J より古い形 のも のであること は以上より確か であるとしてよかろう。 それ では、 果た してそ れはどの程度まで時代を遡るもの であ ろう か。 それにはま ずr異制庭訓往来」の成立時期 を考えてみなく てはなら ないが、 これ は既に先学によっ て か な り詳しい考察が なされていろ。 今、 石川謙博士の r古往来について の研究」における論を要約すると、 次 のととくである。 の五山制度の変遷 から見て 。 .の十一月十三日付習状において「京都鎌倉五山」の 中に天竜寺 があげられているが、 天竜寺の開創は 暦応二年、 それが 五山に 列位された の は暦応四年 八月の ことであり、 これが上限である。 ⑲ま た、 異本たる「新撰之消息」のその部分の記述 は浄妙寺と万寿 寺を五 山 の中に加えて いないと読 みうるものの ごとくであるが、 万寿寺を五山に加 える最初の令の発せられたの が延文三年九月、 最 終的に決定し たの が応安五年九月 でありへ これが 下限である。 (勢田注)異本を考麻に入れず続群苔類従本のみ から考えれば、 そこにおいて五 山と してあげられ ている の は 建長、 円党、 寿福、 浄智、 浄妙 、 南禅 、 天竜、 建仁、 東福、 万寿の各寺で、 こ れ は文和―― 年以後至應=一 年以前の 形である。 ⑩引用されている連歌式目の内容から見て。 r具さ に吟味し てみる と・・・・・・「応安新 式」 よりは 遥かに多<r僻連秘抄」 に契 合している。 ,..... 何 れにして もr僻連秘抄 J が既に成って、いまだ「応 安新式」の拡まら ない過渡期において「異制庭訓 往来」の、 この文章は、 苔綴られたのであろうJ (陪士の著書の文章をそのまま抜粋。 なお「 僻 連 抄」の存在はまだ知られて い な かったようであろ) 右の うち、①に関しては(下限 についての 論にやや強 引な点が感じられるも の の)私自身特に異を たて るべき 知識は持ち合 わせ ていない。 しかし、 ⑩に腿してはどう して も従うことができない。 成程r異制庭訓往 来」の連 歌式目は確かに「応安新式」 よりも 「僻 連秘抄」及びr 僻 連抄」 に多く契合するものである。 しかし、 それは 「僻 連秘抄」及びr僻連抄」と「応 安新式」 との中間に位置
する ものでは決してなく、 先に詳述したとと<r僻迎秘 抄」及び「僻連抄」よりも以前に盟かれるべきものなの であろ。 従ってr僻連秘抄」及び「僻迎抄」の成立時は、 r異制庭訓往来」の成立時期の上限ではなく 、 下 限とせ ねばならない。 それ で はどういう 結論 が得られる か。① の①の上限、 暦応四年八月は動かない。下限は「僻迎抄」 「僻連秘抄 J r連理秘抄」のうちもっとも早いと推定さ れるr僻迎抄」 の成立し た康永四年三月。 「異制庭訓往 来」に引用された迎歌式目もまたその間のものというこ とになる。 そうストレートに考えてよいか? どうも。ヒタッと こないというのが私 の印象である。 何 とな れば、 上限の暦応四 年として も「僻連抄」の成立 し た腹永四年のわずか四年前であ る。 しかしわずか四年の 間に生じたものにしては、r異制庭訓往 来 」 の式目とr僻 連抄」の式目と の間の内容の差異はどうに も 大きすぎる ように思われ るからである。 ではどう考えねばならない か。 可能な考えは次の三つであろう。 凶引用された連歌式目は実は筆者の想像力の産物であ って事実に基くもの で はなかった。 ⑪迎歌式目を引用している部分 と五山の寺名を列挙し た部分と は実は同一時期のもの ではなく、 前者は後 者よりもかなり 以前の資料に基く。 ©暦応ー康永期、 実際の連歌は既にr僻連抄」の式目 に近い ものとなっていたが、 式目として は古いまま のも のが行 われており、 それがここに引用された。 囚で なかったという確固たろ論拠を 私は一っも持って いない。 そうであるか も知れない。 ならば論はここで尽 、 、 きる。 しかし一応本榜で は⑪また は ©、 ある いはその両 、、、、 方であったと仮定して、 この式目が歴応四年よりも以前 いつとろ まで時代を遡れるか考えてみ よう。 何か手がか りはないであろうか 。 辿歌式目が引用される直前に和歌の勅撰集が列挙され ている。 それは、 まず「古今」以下「新古今」までをあ げ「是号八代集也」とした後、 次のととくであ る。 二 ― 新勅撰。 続後撰。 続古今。 続拾逍。 新後撰者。 定家。 為家。 行家。 光俊。 為氏。 為世等撲也。 加是号十三 V
――
代集也。是等 勅 撰 同進候。 そして 、 この後初めに引用した「連歌者」以下に続く。 十三代集と言え ば、 今日、 ふつう 「新勅撰」から「新 続古今」までの十 三の勅撰集という意味で使われる。 し かし 、 こ こではr古今」から「新後撰」までの十三の勅 注 洒 ゜ 揆集を指している。 こういう用法が他にあるのだろうカ 根拠 が あって言うこと ではないが、 この場合の十三代集 とは、 三代集や八代集のよう にそれ 以後のものと価値的にも区別する言葉ではなく、現在の二十一代集にあたる 言葉で、要 するに当時において存在していた勅撰集が十 三であったので、それを十三代集と呼んだというように 考えられないだろうか。もしそうであるならば「異制庭 訓往来」九月五日付書状は「新後 撰」の成った嘉元元年 から「玉葉集」の成 った正和二年Cろまでの約十年の間 の資料に基く ということ になり、そこに引用さ れている 連歌式目も当然その頃までは最低遡れ るということにな る。それはまたこの式目 の内容の古さ加減にふさわしい 時期であるようにも私には感じられる。ただし、 「王葉 集」以下の勅撰集は省略したのだという論を否定する積 極的な根拠もないわけであるが、敢えて右のこ とを述ペ ておこ うと思う。 . さ て、周知のことく「僻連抄」の式目には「式」ある いは「式の 心」 と い う類の注記がつけられており、 これ は、それに先行した式目ー多分「弘安新式」、 ただし 私見では以後の追加も含んでいろ と思われる。以下「先 行式目」と呼ぶーの 内容を示している と考えられてい る。それと今まで論じてきた「異制庭訓往来」の式目の 内容と を比較検討してみよう。前者については「式」等 (四) の注記がどの程度厳密に付されたもの か確かでないし、 また後者については 要約した上での引用であるという制 約があるのであるが、それでも軌を一に する点が かなり 見うけられ る ようであれば、両者の内 容はーーその相違 点までも含めて(何 故なら、 当時は「連歌の嫌物は家々 の式まちまちに待れ とも」〈僻連抄〉という状況だった から)ーー「僻連抄」以前の式目として信頼し うるもの で ある 可能性をかな り高めると言えよう。さて 、どうか 。 ⑥ 「異制庭訓往来」には「定瑞回。傍題。駒字ー」と ある。このうら傍題は 「僻連抄」の式目に対応する 記述がない の で確めよう がないが 、輪廻・遠輪廻. 頷字の各条には「式」あるい は「式心」の注 記 があ る。つまり「僻連抄」の先行式目においても、輪廻 と韻字につい て の規定 が存在してい たらしい 。この 点は一致する。 ⑤r僻連抄」の式目の「一、無常 述俄 菌旧 引合 て可用三句」 と いう規定には「式」等の注記がない 。 というこ と は 先 行 式目においては、無常・述懐・壊 旧は「異制庭訓往来」と同じく各別個のものとし て 取扱われていたのであろう。こ の点も一致する。 ⑥「人倫」と「音に声 J は「異制庭訓往来」では三句 去りと述ぺられている。それ に対しr僻連抄」の式
目では「打越可嫌物」の中に入れられているのであ るが、 こ の両項には「式」等の注記がない。 つま り 先行式目において「人倫」と「音に声」 は 打越 を 嫌 う物ではなか ったこ とになろ。 この点も一致すると は断定できないが矛盾はない。 ⑥r異制庭訓往来」で 三句 去りと述ぺられているのは、 ⑥であげた 二項を除いて、 雨露ぎ霜(降物)、 姻霞 雲霧(聟物)、 異名、 草木(非同類植物)、.魚烏虫 獣(非同類動 物).の五種であ ろ。 それに対し「僻連 抄」の式目では「可隔三句物」全体に「式」の注記 がなされており 、 そしてそこにあげられてい ろのは、 ・光物、 葺物、 非同類動物、非同類名所の四種であり、 異名、 降物、 非同類栢物の句去 りについては他のど こにも記述がない。 しかし、 異名はともかくとして、 常に対になった取り扱いをうけろ聟物と降物、 動物 と植物の各そ の一方のみしか 「僻連抄」の式目で規 定していないのは 明らかにお かしく、 ここはやはり 降物と非 同類植物が脱落して いると考え るのが自然 であろう。 そうであるな らば、 妥 物 、 降 物、 非同類 動物、 非同類植物は、 「異制庭訓往来」でもr僻連 抄」 の先行式目で も共に三句去りで あったと推察され ろ。 (ただし、 光物と非同類名所がr異制庭訓往来」で は省略されたのか、 規定がな かったのかの問題は残 ろが)
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僻連抄」の式目の「可隔五句物」もまた全体に 「式」の注記がなされていろ が、 そこにあげられて いるのは、 同字、 同類植物、 同 類動物、 (恋・腔・ 水辺 ・居所 ・夜心地・タ ・述懐・神祇.釈教 ・祝な どの)同類の句、 同類の名所、 月と月次月、 日と日 次日である。 こ の記述と「異制庭訓往来」の 「木与' 木。 草与草。 同類。 井祠字。 同文字 去 五句」とい > ニ ー う記述とは、 その指し示す範囲がほぼ一致するもの であろと言えよう。 要すろに五句以上を隔てねばな らな いのは「同 字」と「同類」の二つなのである。 ①「異制庭訓往来」において 一座二句 物と述ぺられて いろのは梅、 雁の二種。 三句物は花、 桜、 雪で、 他 は「悉可為一座一.句 」であろ。それに対し「僻迎 > ニ ― 抄」の式目で一座に二句以上 のものとしてあげられ ていろ句 材中「式」の注記 が付さ れ ているのは、 ニ 句物として梅(一座一句物中にあげられているが、 実質的に 二句物 である旨の記述があ ろ ) 、 柳 、 桜゜ 三句物は花、 在明。 四句物は雪で、 この注記を信ず ろならば先 行式目において残りの句材 は原則的に一 座一句物であったと考えられる。 個々の句材については相違もかなりあろが、 全般的に「僻迎抄」の式 目以 後のもの に比ぺて同一句材の回数制限が非常に 厳しいという点では軌を一に していろ。 ⑥七句去りのものとして「異制庭訓往来」があげる所 は月、 松、 拶、 消、 同季の五種であ る。 それに対し r僻連抄」の式目では「隔七句物」の条であげら れ ている八種には一切「式」等の注記はなく、 「何度 可用之物」の条で七 句去り とされている月、 霧、 殴、 涙、 夢、 松、 竹のうら、 「式」の注記がな されて い ろのは夢、 松、 竹の三種で あ り、 r異制庭訓往 来」 とは二稲が共通すろものの相違の方が大 きい。
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異制庭訓往来」では連続五句以内の ものとして春、 秋、 恋、 雑の四種。 三句以内のものとして夏以下十 棚があげられている。 r僻述抄 」の式目でそれに対 応するのは「句数」の条であろが、 そこ には一切 「式」等の注記は見えな い。 こ れを 素直に受けとる なら、先行式目では同類の句の連続について、 規定 が違っていたかというこ とになるが、 ここは注記が 説落している可能性もあろこ とが先学によ って述ペ 注五 られていろ。 以上、 「異制庭訓往 来」 に引用された式目 と 「 僻連抄」 の先行式目とは 、 相異する点も多いが、 かなりな 点に お 注 このうち⑥3は『遊学往来』 引用 の式目 に関して既に伊 巌後にまとめをして お こう 。 「異制庭訓往来」が現存する形になったのは、 十一月 十三日付宙状で天竜寺が五山に数えられているCと によ れば陪応四年八月以降のことで な ければな らな い。 それ にもか か わらず九月五日付也状に引用されてい る「花下 新式 J の内容は康永四年三月成立のr僻迎抄」の式目よ りはかな り古い形であり、 また、 r僻連抄」の式目にお ける「式」等の注記から推察できるその 先行式目の内容 と軌を一にする点も少なか ら ずあろ。 従って、 もしこ の 式 目の内 容が全く根拠のないものでな いなら、 それ は謄 応四年八 月より かなり以前1それ を引用して いる甚状 にあげられた勅撰集の名からかなり大胆な推測を試みれ ば最低正和二年と ろま で遡 らせることができると思わ れ る。 なお 、 続群掛類従本r遊学往来」の式目 は、 前半は r異制庭訓往来」とほぼ同文であ るが、 後半は「連理秘 抄」以後の資料に拠ろ もの で あ る。 以上、 諸先学の御叱正を願う次第である。 (五) いて軌を一にして いろと宮え よ う 。-32-II
注五 注四 注 注 知地鉄男氏によって同旨の指摘がなされている。 (「連歌新式出典系統孜」^r国文学研究 」第 四 栖、 昭和十年五月〉。 「迎歌新式歴史考」〈r国 語と国文学」第十二巻第九号、 昭和十年九月〉) ただし、 長谷寺蔵「連睛新式平」によってもr連 改初学抄」によっても、 「応安新式」の本来の部 分に人倫について、 人倫か否かの規定があるのに その句去り に関してはどこにも規定が見えない の は不審である(新式今案になって再び「可姉打越 物」と記される)。 早い時期に脱蕗したまま流布 してしまったのであろうか。 例えば「節」は「僻連抄」の式目 では二句物であ ったのが、 r迎理秘抄」の式目では三句物、 「応 安新式 J では四句物となる。 『遊学往来」に例があるが、 石JI謙博士の御論ど おり「遊学往来」と「異制庭訓往来」とは兄弟の ことき関係に あ るものだから、 別の例とはできな い。 (「古往来についての研究」ニニ01ニ――10 ページ) 島津忠夫氏r連歌の研究」一八五ページ。 (陣山工業高等専門学校湖師)