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類概念の名称は類比的に用いられ得るのか トマス・アクィナスにおける「物体」という名称に関する考察

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類概念の名称は類比的に用いられ得るのか

トマス・アクィナスにおける﹁物体﹂という名称に関する考察

莉子

︵慶應義塾大学︶

本稿では、類概念である﹁物体﹂という名称が、可滅的物体と不可 滅的物体とに類比的に用いられ得るというトマス・アクィナスの主張 が、 ど の よ う に し て 可 能 で あ る の か を 検 討 す る。 類 種 概 念 の 名 称 は、 原 則 と し て は 一 義 的 に 複 数 の 事 物 に 述 語 付 け ら れ な け れ ば な ら な い。 というのも、もしそうでないなら、ソクラテスとプラトンとに述語付 ける﹁人間﹂という名称の意味が異なっていることになってしまうか らである。しかしトマスは﹁物体﹂という類概念の名称は、自然学者 であるならば類比的に用いることが出来ると主張する。では、どのよ うにしてか。そのことの考察のために、先ずはトマスにおける名称と 名称の付与に関する考えを整理しよう。 ト マ ス は、 我 々 が 何 ら か の 事 物 に 対 し 或 る 名 称 を 付 与 す る、 即 ち ﹁ ソ ク ラ テ ス は 人 間 で あ る ﹂ と い っ た 言 明 を す る 際 に 生 じ る、 名 称 と 事物との関係性について以下のように述べる。 哲学者によると、声は知性認識内容の徴であり、知性認識内容は 諸事物の類似である。このように、声は知性懐念を媒介としなが ら、表示されるべき事物へと関係づけられていることが明らかで ある。それゆえ、或るものは我々から知性によって認識され得る という限りで、我々によって名付けられ得 る 1 。 こ こ で 言 う 声 と は 名 称 の こ と で あ り、 知 性 認 識 内 容 intellectus は 知 性 懐 念 conceptio と 同 じ 意 味 で 用 い ら れ、 我 々 が 何 ら か の 事 物 を 知 性 認 識した際に作り上げられる認識内容のことである。つまり、或る名称 は知性懐念の徴としてそれを表示し、その懐念の内容は当の事物の類

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似性であるため、事物を何らかの仕方で表示する、という関係性が成 り立っているとしている。 このことをさらに詳しく理解するためには、トマスにおける質料形 相 論 に 基 づ く 我 々 の 知 性 認 識 の 仕 組 み も 確 認 す る 必 要 が あ る だ ろ う。 トマス曰く、我々には魂に備わっている能力としての知性があり、そ れによってこの世界におけるあらゆる物体を知的に捉えることが出来 る。実際、我々は知性によって、質料と形相から成る身の回りのあら ゆ る 物 体 を 認 識 す る の で あ る が、 そ れ は 諸 物 体 か ら 形 相 な い し 形 象 ︵ = 類 似 性 ︶ を 抽 象 す る と い う 仕 方 で 行 わ れ て い る。 我 々 の 知 性 は 魂 に備わっている非質料的な能力であるので、知性認識する際には非質 料的な仕方、すなわち物体から質料を除外し何らかの形象を取り出し 受け取る、という仕方でなければならない。そしてその除外するとこ ろのものには、個を成立させる位置情報などの質料的諸条件も含まれ ているので、我々が知性認識する際には個物は対象とならず、専ら普 遍的な認識を形成するのみなのであ る 2 。 ただし、物体的なものから質料を除外し何らかの形象を受け取ると 言 わ れ る と き、 そ れ は 当 の 形 象 に 何 ら の 質 料 的 情 報 も 含 ま れ て い な い、 と い う こ と を 意 味 す る わ け で は な い。 例 え ば、 ト マ ス は﹁ 人 間 ﹂ という名称が何を表示するのかということに関して、以下のように述 べる。 この﹁人間﹂という名称は人間の本質を表示するのだが、それは 全体としてであり、即ち、類が種差を含むと言われるように、質 料の指定を切り捨てるのではなくむしろ暗黙的かつ不明瞭な仕方 で含む限りでのことである。それゆえ、この﹁人間﹂という名称 は個体に述語付けられるのであ る 3 。 この記述から明らかなことは、人間の本質は質料と形相から複合され た も の で あ り、 ﹁ 人 間 ﹂ と い う 名 称 は そ う し た 本 質 全 体 を 表 示 す る の で、質料に関わる骨や肉といった内容も情報として含まれている、と いうことである。さらに言えば﹁人間﹂という名称は、この骨・この 肉といった個別的な指定をも内容から切り捨てることはなく、むしろ そ う し た 指 定 を 受 け 取 り 得 る こ と を 暗 に 含 ん で い る と ま で 言 い 得 る。 つまり知性認識する際の﹁物体から質料を除外する﹂とは、例えば目 が石を視認する際に、目の中に石がそのまま入り込むわけではないと 言われるような場合と同じことを意味しており、知性の中には物体的 な質料そのものは入り込めないが、その質料の情報はきちんと取り込 むことが出来る、ということである。それゆえ、我々の知性懐念の内 容には質料的な情報も含まれていることになる。 これまでの内容をまとめると、以下のようになる。我々は諸事物か ら非質料的な仕方で形象を受け取り知性認識し、その物体の本質を表 示するような知性懐念を得る。そして我々が用いる名称は、その知性 懐念の徴であり、それを表示しているのである。 さ て、 ト マ ス に お け る 何 ら か の 事 物 の 知 性 認 識 と 名 称 と の 関 係 を

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以 上 の よ う に 整 理 し た が、 そ の 上 で、 或 る 名 称 が 複 数 の 事 物 に 共 通 的 に 付 与 さ れ る 場 合 に つ い て 考 察 し て み た い。 ト マ ス に お い て そ れ は 三 通 り に 場 合 分 け さ れ る。 一 つ 目 は 例 え ば、 ﹁ 人 間 ﹂ と い う 名 称 が ソ ク ラ テ ス と プ ラ ト ン に 付 与 さ れ る よ う な 場 合 で あ り、 そ の 際﹁ 人 間﹂という名称は種の名称として全く同じ意味合いで両者に付与され て い る。 こ れ を 一 義 的 univoce と 言 う。 二 つ 目 は、 ﹁ 犬 ﹂ と い う 名 称 が動物と星に付与されるような場合である。その際﹁犬﹂という名称 は、一方が動物の或る特定の種を意味しつつ、他方が或る星の固有名 を 意 味 す る、 と い っ た よ う に、 ま る で 異 な る 意 味 合 い で 両 者 に 付 与 さ れ て い る。 確 か に、 そ の 星 の 属 す る 星 座 が 犬 の 形 に 似 て い た こ と が、星に﹁犬﹂という名称を付与する理由になっているので、両者に 何らかの関連はあるが、しかしその関連は恣意的で比喩的なものであ り、 名 称 は 単 に 転 用 さ れ て い る に 過 ぎ な い。 こ れ を 異 義 的 equivoce と 言 う。 そ し て 三 つ 目 は、 ﹁ 健 康 ﹂ と い う 名 称 が 人 間 と 薬 と に 付 与 さ れるような場合である。ここで﹁健康﹂という名称は、人間に関して はその本質が健康性を保有していることを意味し、薬に関しては人間 の健康の原因となることを意味している。これは意味内容としては当 然一義的ではないが、しかし異義的とも言い切れない。何故なら、薬 に﹁健康﹂を付与することが出来るのは、人間の健康に対する因果関 係 を 薬 が 有 し て い る ︵ と 我 々 が 知 性 認 識 す る ︶ か ら で あ り、 恣 意 的 な いし比喩的に名称を転用しているわけではないからである。こうした 一 義 的 で は な い が、 異 義 的 で も な い 場 合 の こ と を、 ト マ ス は 類 比 的 analogice と言う。 その類比的な名称の用い方に関して、トマスはさらに細分化して説 明することが多々ある。そのうち、本稿では﹃命題集注解﹄第一巻第 一九区分第五問第二項第一異論解答に着目したい。この箇所は類比的 に異義 性 4 が見出されることを三通りに分類しているのであるが、先行 研 究 で は 主 に ト マ ス の 他 の テ キ ス ト と の 整 合 性 が 問 題 と さ れ て い る 5 。 し か し こ こ に は、 整 合 性 以 外 の 点 で も 解 釈 上 の 問 題 点 が あ る。 そ れ は、冒頭でも述べたが、トマスが﹁物体﹂という類概念の名称を、類 比 的 に 用 い ら れ 得 る も の の 例 と し て 挙 げ て い る こ と で あ る。 ﹁ 物 体 ﹂ は 可 滅 的 物 体 と 不 可 滅 的 物 体 に 対 し て は、 ﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ 異 な る 仕 方で用いられるとされている。しかしこの﹁存在に即して﹂という文 言が、実際のところどのようなことを意味しているのか、該当箇所か らだけでは判然としない。それゆえ本稿は﹁存在に即して﹂という文 言を、トマスの他のテキストを引用しながら、より正確に解釈する方 法を提示することを目的とする。その上で、類種概念の名称が類比的 に用いられる可能性について考察する。

  ﹁存在に即して﹂と質料

では、 ﹃命題集注解﹄の該当箇所での記述を見ていきたい。 それゆえ以下のように言われなければならない。或るものが類比 に従って言われることには三通りある。   一 つ 目 は、 ︹ 異 義 性 が ︺ 概 念 intenti o 6 の み に 即 し 存 在 esse に は

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即さない場合である。これは一つの概念が複数のものに対し︿よ り先・より後﹀に関係するが、当の概念が存在を有するのは一つ の も の に お い て の み と い う 場 合 で あ る。 例 え ば 健 康 性 の 概 念 は、 動 物・ 尿・ 食 事 に 対 し て そ れ ぞ れ 異 な っ た 仕 方 で、 即 ち︿ よ り 先・より後﹀に従って関係する。しかし健康性の存在は動物にお いてのみあるので、異なる存在に従っては関係しないようにであ る。   二 つ 目 は、 存 在 esse に 即 す が 概 念 intentio に は 即 さ な い 場 合 で ある。これはちょうどあらゆる物体が物体性という概念において 等しくされるように、複数のものがある共通なものの概念におい ては同等なものにされるが、その共通なものは、全てのものにお い て 一 つ の 意 味 概 念 rati o 7 に 属 す る 存 在 を 有 す る わ け で は な い 場 合に生じる。ここから、ただ概念のみを考察する論理学者は、こ の﹁物体﹂という名称は全ての物体について一義的に述語付けさ れると述べる。しかし可滅的物体と不可滅的物体において、この ︹ 物 体 の ︺ 本 性 の 存 在 が 同 じ 意 味 概 念 に 属 す る こ と は な い。 そ れ ゆえ形而上学者と自然学者に関する限りでは、彼らは事物をその 存在自体に従って考察するので、この﹁物体﹂という名称もそう だがその他のものも、可滅的物体と不可滅的物体について一義的 には言われない。これは﹃形而上学﹄第一〇巻における哲学者と 注解者から明らかな通りである。 ︹ S1 ︺   三 つ 目 は、 概 念 intentio に も 存 在 esse に も 即 す 場 合 で あ る。 こ れはちょうど﹁有﹂が実体と附帯性について言われるように、共 通の概念においても、存在においても等しくされるのではない場 合である。そしてこのようなものども︹実体と附帯性︺に関して は、 ︹﹁ 有 ﹂ と ︺ そ れ ら に つ い て 言 わ れ る も の ど も の 各 々 に お い て、 何 ら か の 存 在 を 共 通 の 本 性 が 有 し て い る の だ が、 ︹ そ の 本 性 は ︺ 完 全 性 の 大 小 の 性 格 rati o 8 に 即 し て 異 な っ て い な け れ ば な ら ない。 ︹ S2 ︺  ︵︹ ︺は筆者による補足。 ︶ 類 比 的 な 名 称 の 用 い 方 の 一 つ 目 は、 先 ほ ど も 例 に 挙 げ た﹁ 健 康 ﹂ に よって説明されており、健康性の存在を有しているのは動物のみであ るので、存在に即しては動物と薬などには関係が生じていない。しか し概念においては、薬は原因という前後関係を動物に対して有してい る の で、 そ の 関 係 性 に 基 づ き 名 称 が 付 与 さ れ て い る。 そ れ ゆ え、 ﹁ 健 康﹂という名称の類比的な異義性は概念の関係性にのみ根拠をもって いることになる。 そ れ に 対 し 二 つ 目 の 例︹ S1 ︺ で あ る﹁ 物 体 ﹂ は、 一 つ 目 と は 逆 で、 石 ︵ 可 滅 的 物 体 ︶ と 天 体 ︵ 不 可 滅 的 物 体 ︶ そ れ ぞ れ に﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 を 用 い る こ と が 出 来、 そ の 概 念 と し て は 一 義 的 に 用 い ら れ て い る。 しかしながら両者の物体の本性の存在は同じ意味概念には属していな いので、その﹁存在に即した﹂違いが類比的な異義性の根拠となって い る。 そ し て 三 つ 目 の 例︹ S2 ︺ の﹁ 有 ﹂ は、 概 念 と 存 在 両 者 に 即 し て異義性が見出される、とされている。 で は こ の︹ S1 ︺ と︹ S2 ︺ に お け る﹁ 存 在 に 即 す ﹂ と い う 文 言 は、

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何 を 意 味 し て い る の か。 ﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 の 異 義 性 に 関 し て、 ト マ スは﹃形而上学注解﹄にて示唆的な記述をしている。類は自然学的に 述べるならば質料からとられるのだが、或る一つの質料が可滅的であ りかつ不可滅的であることは出来ない。それゆえ可滅的物体と不可滅 的物体の質料は異なっていなければならない。しかし、質料が異なる と 属 す る 類 ︵ グ ル ー プ ︶ も 異 な る の で、 自 然 学 的 に は 両 者 は 異 な る 類 に 存 す る こ と に な る の で あ る 9 。 こ こ か ら、 ﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 の 類 比 的 な 異 義 性 が 生 じ る と 考 え ら れ る が、 McInerny は 類 概 念 に つ い て さ らに詳細に検討を加えつつ、最終的には﹁物体﹂の例について以下の ように述べる。不可滅的物体である天体の質料は、場所的運動に関す る可能態は有しているが、非存在への可能態は有していないと考えら れるので、可滅的物体の質料と同じではない。それゆえ﹁物体﹂は両 者 に つ い て 類 比 的 に 語 ら れ る の で あ る 10 。 こ れ は、 ﹃ 形 而 上 学 注 解 ﹄ に おけるトマスの説明に基づいた、適切な解釈であるように思われる。 し か し な が ら、 こ の McInerny の 論 は 類 比 的 な 異 義 性 が﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ あ る こ と を 完 全 に 説 明 し て い る と は 言 い 難 い。 確 か に、 ﹁ 石 は 物体である﹂と﹁天体は物体である﹂と述べるとき、石は可滅的であ る一方天体は不可滅的であるため、両者の質料は異なっているとしな ければならないだろう。しかし、もしそれによって該当箇所の異義性 の説明が尽くされるならば、 ﹁存在に即して﹂異なるとは、 ﹁質料に即 して﹂異なると同じ意味であると理解することも可能になってしまう だろう。だが存在と質料が同じ意味で言いかえ可能であるとは直ちに は考え難い。先に確認した通り、名称は知性懐念を表示し、その知性 懐念は事物の類似性であるため、事物の本質を全体として表示するも のであった。そして事物の本質とは質料と形相から複合されたもので ある。ゆえに、名称の表示内容には質料的な情報も含まれるのである が、本質を全体として表示している限り、質料的な情報はその部分で ある。したがって、質料が異なることと﹁存在に即して﹂異なること がどのように繋がるのか、より詳細なテキスト的根拠が必要であるだ ろう。

  ︹

S1

︺における﹁存在に即して﹂

2・1   質料と形相 先に確認した通り、トマスは可滅的物体と不可滅的物体は、可滅的 かつ不可滅的であるような一つの質料はあり得ないので、それぞれを 構 成 す る と こ ろ の 質 料 が 異 な っ て い な け れ ば な ら な い、 と 述 べ て い た。 McInerny に よ る と そ れ が 両 者 に 用 い ら れ る﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 の類比的な異義性の根拠となるのであるが、そもそもそうした質料の 相違はどのようにして生じているのか。トマスは以下のように語って いる。 それゆえ、アリストテレスが述べる通り、天体の形相は自らの質 料 を、 そ の 質 料 の う ち に 存 在 へ の 可 能 態 を ど ん な 仕 方 で も 残 さ ず、ただ場所へのみ可能態を残すような仕方で、完成する。この ようにして、天体と諸元素︹の物体︺に同じ質料が属すことはな

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く ︵⋮⋮ ︶ 11   ︵︹ ︺は筆者による補足。 ︶ 可滅的物体が可滅的であるのは、自らのうちに質料を含んでいるから である。質料はそれ単独では現実的に存在することは出来ず、常に何 らかの形相の到来により複合実体を成す。つまり質料は常に可能態と してあるものである。それゆえ質料は、存在するということ自体に対 しても同様に可能態にあるということで、結果として常に非存在への 可能性を有している、可滅性の原理とも言えるものである。そしてあ らゆる物体は質料を含んでいるので、原則として可滅的である。 その唯一の例外が天体であり、天体は永劫円運動を続ける不可滅的 なものであるが、我々の感覚によって把捉可能であり、三次元におい て 何 ら か の 位 置 を 占 め て い る 限 り で 物 体 で は あ る。 で は な ぜ 天 体 は 物体であるにもかかわらず不可滅的であるのか。それは、天体の形相 が自らの質料から非存在への可能性を取り除くような仕方で質料を現 実化しているからなのである。つまり可滅的物体と不可滅的物体の質 料 の 相 違 は、 不 可 滅 的 物 体 で あ る 天 体 の 形 相 に 基 づ い て い る こ と に なる。それゆえ、我々が天体を知性認識する際に天体から受け取る形 象の中には、 ﹁質料から可滅性への可能性を取り除く形相である﹂と、 ﹁ 非 存 在 へ の 可 能 性 を 取 り 除 か れ た 質 料 で あ る ﹂ と い う 情 報 が 含 ま れ ており、それに基づいて我々は天体に関する知性懐念を作り上げてい る、と考えることが出来るだろう。それゆえ、可滅的物体と不可滅的 物 体 の 相 違 は、 McInerny が 解 釈 す る よ う に 質 料 の 違 い か ら 由 来 す る、 という訳ではないことが明らかであろう。質料の違いを生み出してい るのは形相であり、第一義的には形相が異なっているとしなければな らないのである。その上で、質料と形相という全体としての相違が生 じているのであって、それはまさに本質の相違であると理解すること が出来るだろう。 2・2   本質と本性と存在 名称は我々の知性懐念を表示し、その知性懐念は事物の本質を全体 として表示するのであった。天体に用いられている﹁物体﹂という名 称 は そ の 本 質 と し て、 ﹁ 可 滅 性 へ の 可 能 性 を 質 料 か ら 取 り 除 く 形 相 で ある﹂ことと﹁非存在への可能性を取り除かれた質料である﹂ことの 両者を表示しており、その表示された本質の相違が、可滅的物体と不 可滅的物体の相違となっていることが確認された。しかし問題となっ て い る 箇 所 で は、 ﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 の 異 義 性 は﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ 生 じているのであった。では、上で確認された本質の相違は、この﹁存 在に即して﹂という文言と関連するものであるのだろうか。 そのことを考察するために、先ずは存在というものがどのように理 解されるのかを確認したい。トマスは﹃神学大全﹄第一部第四四問第 一項主文において以下のように述べる。 さて、先に神の単純性について論じられた際に、神は自存する存 在そのものであることが明らかにされた。またさらに、自存する 存 在 は 一 つ で し か あ り 得 な い こ と も 示 さ れ た。 ︵ ⋮⋮︶ そ れ ゆ え、

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神以外の全てのものは自らの存在ではなく、存在を分有している と い う こ と が 残 さ れ る。 し た が っ て、 存 在 の 分 有 が よ り 完 全 で あったり不完全であったりするような、そうした多様な存在の分 有に即して多様なものとされている全てのものが、もっとも完全 に存在する一つの第一有に起因するのでなければならない。 これは創造論の文脈であるが、ここから明らかなことは、神以外の全 ての被造物は、それぞれ存在を第一有である神から分有している、と いうことだ。神から創造されたということは、神にその存在の原因を 有しているということで、つまり我々は存在の原因を自分自身以外の も の に 有 し て い る。 そ の こ と を し て、 存 在 を 分 有 し て い る ︵ 他 の も の か ら 分 け 与 え て も ら っ て い る ︶ と 言 う の で あ る が、 さ ら に そ れ は 一 様 な 仕方ではないとも述べられている。或るものはより完全な仕方で神か ら存在を分有し、別のものは不完全な仕方で存在を分有する。すなわ ちそれぞれのものに見合った仕方で、存在が分有され、各々は自らに 見合った存在を有することになる。その結果として我々はそれぞれ異 なった存在を有していることになるのであるが、この分有の仕方の違 いは、何に由来するのであろうか。 こうした被造物における存在の相違について、トマスは以下のよう に説明する。 さて、神以外の自存するのではない存在は全て、その存在におい て存している本性や実 体 12 によって個体化されている。またそれら において、この存在がかの存在と異なるのは、別の本性に属して いることによってであることは、真であ る 13 。 各被造物の存在はそれぞれに適したものとして個別的に与えられてい るのだが、そのように存在が個体化され、区別されているのは、それ ぞれの本性によってである。つまり、ソクラテスの存在とプラトンの 存在が異なっていると言えるのは、ソクラテスの本性とプラトンの本

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性が異なっているからであって、存在の相違を生んでいるのは各々の 本性である、ということになる。我々はそれぞれに見合った存在を神 から分有しているのであるが、その分有の仕方の違いは、本性に由来 しているのである。 ではこの本性と、目下検討している本質とはどのような関係にある のか。本質という名称は、それをどのように定義するかによって複数 の 仕 方 で 言 い 換 え ら れ る の で あ る が、 本 性 も そ の う ち の 一 つ で あ る。 このことについてトマスは次のように説明する。 また、これ︹本質という名称︺は本性という別の名称で言われる のであるが、それはボエティウスが﹃二つの本性について﹄の書 の中で指定している四つの方法の中の第一の仕方に即して本性を 理解することによる。すなわち、それは知性によって何らかの仕 方で捉えられ得る全てのものが本性と呼ばれる限りでのことであ る。 ︵ ⋮⋮︶ と こ ろ で、 こ う し た 仕 方 で 捉 え ら れ た 本 性 と い う 名 称は、事物の固有な働きへの秩序を有する限りでの事物の本質を 表示するように思われる。というのも、固有な働きを捨て去って いる事物などないからであ る 14 。 つまり、一つには、本質を知性によって捉えているという観点から語 る際に、もう一つには、事物の固有な働きと関連させて本質を理解し 語る際に、本性という名称が用いられる、ということになる。ところ で、先に確認した通り、可滅的物体の本質は非存在への可能性を有し ている一方で、不可滅的物体の本質は非存在への可能性を有しておら ず、その限りで両者の本質は異なっているのであった。そしてその本 質は、それぞれの固有な働きと関連する本質と言うことができる。何 故 な ら、 可 滅 的 物 体 が 滅 び る こ と と、 不 可 滅 的 物 体 が 永 続 す る こ と は、各々の固有な変化という作用であると考えられるからである。し た が っ て、 固 有 な 働 き と 関 連 す る 本 質 の こ と を 本 性 と 呼 ぶ の だ か ら、 当の本質は両者の本性であると言うことが出来、可滅的物体と不可滅 的物体はそれぞれの本性が相違しているということになるのである。 さ ら に、 諸 々 の 被 造 物 の 存 在 は、 各 々 の 本 性 に よ っ て 個 体 化 さ れ、 区 別 さ れ て い る の で あ っ た。 そ れ ゆ え 可 滅 的 物 体 と 不 可 滅 的 物 体 も、 それぞれ別の本性を有しているので、別の存在を分有していることに な る。 そ し て 以 上 の こ と か ら、 ﹁ 物 体 ﹂ と い う 名 称 の 異 義 性 の 根 拠 と なっている﹁存在に即して﹂という文言の意味するところを明らかに することができるだろう。すなわち、 ﹁物体﹂という名称においては、 ﹁それが述語付けられるところの事物の固有な働きと関連する本質 ︵= 本 性 ︶ が 相 違 す る 限 り で 異 な る 存 在 に 基 づ い て ﹂ 異 義 性 を 見 出 す こ と が出来るのである。より端的に述べるならば、本性が相違すれば存在 は 必 ず 相 違 す る の で、 ﹁ 事 物 の 固 有 な 働 き と 関 連 す る 本 質 が 相 違 す る ことに即して﹂異義性を見出し得る、と言うことが出来るだろう。

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S2

︺における﹁存在に即して﹂

以 上 ま で の 考 察 に よ り、 ト マ ス に お い て、 ﹁ 物 体 ﹂ は 類 概 念 の 名 称 なので論理的概念に即しては一義的に用いられるにもかかわらず、そ れが述語付けられる事物の固有な働きと関連する本質が相違すること に即して異義性が見出されるならば、類比的に用いることが可能であ ることが確認された。つまり本来一義的であるはずの類種概念の名称 で あ っ て も、 そ う し た﹁ 存 在 に 即 し た ﹂ 異 義 性 が 確 認 さ れ る な ら ば、 類比的に用いることが出来るということである。 しかし、類比的な名称における﹁存在に即した﹂異義性は、別の仕 方 で も 見 出 す こ と が 出 来 る。 そ れ が、 先 に 挙 げ た﹃ 命 題 集 注 解 ﹄ の 該 当 箇 所 に お け る︹ S2 ︺ の 場 合 で あ る。 そ こ で は、 ﹁ 有 ﹂ と い う 名 称 が 類 比 的 に 用 い ら れ る 際 の 異 義 性 の あ り 方 に つ い て 説 明 さ れ て い た。 ︹ S2 ︺ における ﹁存在に即して﹂ という文言の意味を確認するために、 ここで再度引用する。 三 つ 目 は、 概 念 に も 存 在 に も 即 す 場 合 で あ る。 こ れ は ち ょ う ど ﹁ 有 ﹂ が 実 体 と 附 帯 性 に つ い て 言 わ れ る よ う に、 共 通 の 概 念 に お いても、存在においても等しくされるのではない場合である。そ し て こ の よ う な も の ど も︹ 実 体 と 附 帯 性 ︺ に 関 し て は、 ︹﹁ 有 ﹂ と︺それらについて言われるものどもの各々において、何らかの 存 在 を 共 通 の 本 性 が 有 し て い る の だ が、 ︹ そ の 本 性 は ︺ 完 全 性 の 大小の性格に即して異なっていなければならない。 ︹ S1 ︺ と の 違 い と し て 着 目 す べ き は、 共 通 の 有 の 本 性 が 何 ら か の 存 在 を有しているのだが、それに加えて、その本性が﹁完全性の大小の性 格に即して﹂異なっているとされている点である。つまり、実体につ いて言われる﹁有﹂と附帯性について言われる﹁有﹂においては、そ れ ぞ れ の 有 の 本 性 の 完 全 性 が 異 な る た め、 異 義 性 が 生 じ て い る こ と に な る。 ︹ S1 ︺ で は 単 に、 事 物 の 固 有 な 働 き と 関 連 す る 本 質 ︵ = 本 性 ︶ の 相 違 が 異 義 性 の 根 拠 と さ れ て い た が、 ︹ S2 ︺ で は そ の 相 違 が 完 全 性 の大小の性格に即したものと限定されているのである。 ところで、トマスにおいては本質の相違は完全性における相違の根 拠 に も な る。 例 え ば、 ﹃ 対 異 教 徒 大 全 ﹄ 第 一 巻 第 五 四 章 で は﹁ と こ ろ で、全ての形相は、すなわち固有な形相と同様に共通的な形相も、そ れが何らかのものを措定している限りで何らかの完全性であり、真な る存在を欠いている限りでのみ不完全性を含むのである﹂と述べられ ている。何らかの働きを有する形相がその事物の完全性であり、そし て本質とは形相から構成されるものであるので、事物の完全性は本質 によって相違すると理解して差し支えないことが分かるだろう。それ ゆ え、 ︹ S2 ︺ の 本 性 が﹁ 完 全 性 の 大 小 の 性 格 に 即 し て ﹂ 相 違 す る と い う 文 言 は、 ︹ S1 ︺ に お け る﹁ 存 在 に 即 し た ﹂ 相 違、 す な わ ち 本 質 の 相 違を補完的に表現したものと解釈することが可能であろう。 実 際、 ト マ ス は 不 可 滅 的 物 体 で あ る 天 体 と そ の 他 の 被 造 物 に 関 し

(10)

て、完全性の相違、すなわち完全性という観点での上下関係を措定し ていると思われる記述がある。 能動因の力能と同等ではない結果は全て、同じ性格に即してでは なく、欠陥のある仕方で能動者の類似を受け取る。このようにし て、結果においては分割され多様な仕方で在るものが、原因にお いては単純で同じ様態で在る。例えば、太陽が一つの力能に即し て、その下位のものどものうちに、多くの形式の様々な形相を産 出するよう に 15 。 ここでは太陽が例として挙げられているが、太陽は他の被造物を産出 する能動因とされており、下位という言葉が用いられていることから も 分 か る よ う に、 原 因 を よ り 上 位 の も の と す る 上 下 関 係 を お い て い る。また、可滅的物体は不可滅的物体よりも、消滅する可能性を有し ているという点でより可能態性が高いと言える。可能態性が高いもの よ り も、 可 能 態 性 が 低 い も の の 方 が よ り 完 成 さ れ て い る と 言 え る の で、その点でも可滅的物体と不可滅的物体に﹁完全性の大小の性格に 即した﹂相違があると考えることが出来るだろう。 し た が っ て、 ﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ 異 な る と い う 文 言 の 意 味 す る と こ ろ は、 単 に 本 質 が 相 違 す る と い う の で は な く、 ﹁ 事 物 の 固 有 な 働 き と 関 連 す る 本 質 ︵ = 本 性 ︶ が 完 全 性 と い う 観 点 で 相 違 す る こ と に 即 し て ﹂ 異なる、ということになるだろう。このようにして異義性を見出す場 合には、類種概念の名称であっても、類比的に用いることが可能なの である。

  

本 稿 は、 類 比 的 に 異 義 性 が 見 出 さ れ る 際 の 分 類 に お け る、 ﹁ 存 在 に 即して﹂異なるという文言を、より正確に解釈する方法を提示するこ と を 目 的 と し て い た。 先 ず、 具 体 例 で あ る 可 滅 的 物 体 と 不 可 滅 的 物 体が存在論的にどのように異なるのかを確認し、その上で本性が各々 の 事 物 の 存 在 の 相 違 を 生 ん で い る こ と も 確 認 し た。 そ う す る こ と で、 ﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ 異 な る と は﹁ 事 物 の 固 有 な 働 き と 関 連 す る 本 質 ︵ = 本 性 ︶ が 完 全 性 と い う 観 点 で 相 違 す る こ と に 即 し て ﹂ 異 義 性 を 見 出 す ことだと解釈し得ることを提示することが出来た。これにより、本稿 の目的は一通り達成されたことになるだろう。 し か し、 ﹁ 物 体 ﹂ と い う 類 概 念 の 名 称 が 類 比 的 に 用 い ら れ る と い う ことに関して、その仕組みとしては一定の理解は得られたと思われる が、実際に類比的に用いることがあり得るのか、ということに関して は 留 保 が 必 要 で あ る。 こ の こ と に つ い て Klubertanz は、 現 代 で は 天 体の不可滅性が否定されている以上、可滅的・不可滅的という分類自 体が意味を為さないので、この分類は不要のものであると一蹴してい る 16 。 確 か に、 ﹁ 人 間 ﹂ と い う 種 の 名 称 に つ い て 考 え て み た 場 合、 も し 肉体的に不老不死である者がいたとするならば、その者は理性的動物 でありながら、可滅性という可能態を含まない、より完全性の高い本

(11)

質を有していることになるので、その者に対しては﹁人間﹂という名 称を類比的に用いることになるだろうが、これはあくまで想像上のこ とであり現実的な例とは言い難い。 しかしながらより現実的に、同じ類に属しながら固有な働きと関連 する本質が異なる事物を想定することは可能である。例えば、サルと 人間は同じ﹁動物﹂という類に属しているが、その固有な働きは異な ると思われる。特に認識という面に限定して述べるならば、サルも固 有に感覚的な知覚をすることから、目の前のリンゴを食物として認識 し、その認識を一定期間にわたって保持することが出来るだろう。し かし人間のように、特定の物体をリンゴという種として理解するよう な、普遍的な認識を有することはないと思われる。つまり人間は、固 有な働きとして普遍的認識を形成し得るという観点から、サルよりも 上位であると考えることが出来る。その際、我々は﹁動物﹂という名 称を、サルと人間とに類比的に用いることになるのであろうか。本稿 の考察の限りでは、類比的に用いることは可能であると思われる。こ れは、類種という論理学的には一義的に用いる概念が、自然学的には さらに細分化して考察され得ることを意味し、同時にそうした考察の 領 域 が あ り 得 る こ と を 示 し て い る。 こ の こ と に 即 せ ば、 ﹁ 物 体 ﹂ と い う類概念を類比的に用いるその仕組みを提示することには一定の意義 が あ り、 Klubertanz の よ う に、 現 代 的 な 見 地 か ら は 無 意 味 で あ る と 端 的に断じる必要はないと言うことが出来るだろう。 注 ︵ 1︶ Thomas, Summa Theologiae , I, q.13, a.1, co. ︵ 2︶ Cf. Thomas, Summa Theologiae

, I, q.84, a.1, co.; a.2, co.

︵ 3︶ Thomas, De ente et essentia , cap.2 ︵ 4︶﹁ 異 義 性 ﹂ に あ た る 直 接 的 な ラ テ ン 語 は ト マ ス の 中 に は な い が、 ﹁ 異 義 的 であること﹂を表す語として以下で用いる。 ︵ 5︶ Cf. Steven A. Long,

Analogia Entis : On the

Analogy of Being, Metaphysics,

and the

Act of Faith

, Indiana, Universi

ty of Notre Dame Pre

ss, 201 1, pp.39 -51.; Lawrence Dewan, “St. Thomas and Analogy:

The Logician and the

Me tap hy si cia n”

, Form and Being: Studies in Thomistic Metaphysics (Studies in

Philosophy and the History of Philosophy

, V

olume 45)

, The Catholic University of

America Press, 2006. Dewan は、 類 比 は あ く ま で 論 理 学 的 な 体 系 で あ る と す る McInerny の 主 張 を 批 判 的 に 解 釈 し て い る が、 ﹁ 存 在 に 即 し て ﹂ の 意 味 に 関 し ては詳しくは触れていない。 ︵ 6︶ こ の﹁ 概 念 ﹂ と 訳 し た intentio は、 狭 義 で は 類 種 概 念 な ど の 論 理 的 概 念 を 示 す 言 葉 で あ る が、 こ こ で は﹁ 知 性 が 処 理 を 施 し た 概 念 ﹂ と 広 い 意 味 で 捉 え る べ き で あ る。 何 故 な ら、 ﹁ 健 康 ﹂ の 例 自 体 が 類 種 概 念 に 限 定 さ れ た 話 で は ないからである。 ︵ 7︶ こ の 部 分 で の raio は 語 の 意 味 を 表 す 用 語 と し て 用 い ら れ て い る と 考 え ら れ る。 実 際、 同 じ よ う な 文 脈 で 明 ら か に ratio を 語 の 意 味 概 念 と し て 用 い て いる箇所がある。 Cf. Thomas, Summa Theologiae , I, q.13, a.5, co. ﹁というのも、 類 比 的 に 語 ら れ る も の ど も に お い て は、 一 義 的 な 語 に お い て そ う で あ る よ う に、一つの意味概念 ratio がある訳でもなく、 ︵ ... ︶﹂ ︵ 8︶ こ の 箇 所 の ratio は、 本 性 に 関 し て 用 い ら れ て い る の で、 先 に 出 て き て い た語の意味概念ではなく、事物の在り方に関わるものとして訳語をあてた。 ︵ 9︶ Thomas, In X Metaphys ., lect.12, n.2142. ︵ 10︶ Ra lph Mc Ine rny , The Logic of Analogy An Interpr etation of St.Thomas ,

The Hague, Springer

, 1971, pp.1

15

-116.

“And, if we want to speak of matter in

celestial bodies, (...) we will negate of it the potency to non

(12)

on pri m e m at ter , since it i s m at ter ’s pot ent ial ity t o form s ot her t ha n pre se nt ly

actuating it which explains the corruptibility of terrestial bodies.

The matter of

celestial bodies was said, consequently

, to be the root of the potentiality involved

in l oc al m ot ion. Thus, si nc e “ m atte r” doe s not m ean t he sa m e t hi ng (...), “body ”

is not said univocally of terrestial and celestial bodies, but analogically

, signifying

dif

ferent bodies

per prius et posterius

.” ︵ 11︶ Thomas, Summa Theologiae , I, q.66, a.2, co. ︵ 12︶ ここでの﹁実体﹂は、本性と同じ意味のものであると理解している。 ︵ 13︶ Thomas, De Pot ., q.7, a.2, ad5. ︵ 14︶ Thomas, De ente et essentia , cap.1. ︵ 15︶ Thomas, Summa Theologiae , I, q.13, a.5, co. ︵ 16︶ Klubertanz,G.P ., St. Thomas Aquinas on Analogy . A Textual Analysis and Systematic Synthesis

, Chicago, Loyola University Press, 1960, pp.102

-103. “What is the significance of this type of analogy? (...) If one does not accept a distinction

between terrestrial and celestial matter

, then there is not an existence of a dif

ferent sort for these bodies, and consequently such an analogy is no longer necessary ,

though it might be mentioned for the sake of logical completeness.

(13)

Can the Name of a Genus Be Used Analogically?

Aquinas on Usage of the Name “Body”

Mariko UCHIYAMA

In this article, I aim to clarify Thomas Aquinas’s view that the name “body” can be used analogically. As “body” is the name of a genus, it should be univocal for multiple objects. However, Aquinas in Scriptum

super Sententiis stated that when classifying the methods of using names analogically, the name “body” is

always univocal when logicians use it, but it is analogical when used by naturalists. The key term used in the classification is secundum esse. McInerny (1971) explains this term from the viewpoint that the genus is taken from matter; however, this is not a sufficient exposition. Therefore, it is necessary to clarify what the term secundum esse means.

My argument proceeds as follows. First, I confirm how corruptible and incorruptible bodies differ in Aquinas’s ontology. More specifically, I examine whether this difference is due to the difference in matter alone. Consequently, it becomes clear that though they do indeed differ in matter, it is form that causes this difference. It is, therefore, more appropriate to state that they are different in essence, as they differ in both matter and form. Second, I consider how essence, nature, and existence are related to each other. Subsequently, it is observed that essence and nature can be paraphrased, so as to show that nature effects a difference in existence. In other words, the difference in nature between corruptible and incorruptible bodies causes a difference that is based on secundum esse. As a consequence, the meaning of generating analogical homonymy in a genus in terms of secundum esse becomes clear. Analogical homonymy is observed in a genus when nature differs from the perspective of ontological perfection.

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