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落語に内在する「ものの見方や感じ方」の国語科教材としての価値

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Academic year: 2021

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落語に内在する「ものの見方や感じ方」の国語科教材としての価値

佛教大学 青砥弘幸 キィワード:伝統的な言語文化,落語,ものの見方や感じ方 1.問題の所在と研究の目的 「平成20 年度版学習指導要領」より、「伝統的な 言語文化」に関する事項が国語科の「内容」として 位置づけられ、日本の伝統的な言語文化の1 つであ る「落語」が教材として国語科授業の中で取り上げ られるようになった。この流れは「平成29 年度版学 習指導要領」にも基本的に引き継がれ、例えば令和 2 年度より採用された検定教科書にも古典落語を取 り上げるものが確認される(光村図書5 年(寿限無), 教育出版4 年(ぞろぞろ)など)。しかし、その採 択数は、改訂を重ねるたびに減少する傾向にある。 では、落語が教科書教材として取り上げられる機 会が徐々に減少しつつある原因はどこにあるのであ ろうか。小林(2014)は、落語を教材として扱う難 しさについて「落語へのなじみも乏しく、本来「聞 く」ものとして発達してきた落語を、文字化された 教科書で、どのように扱い、何を教えればよいのか、 とまどう現場の声も耳にされる(p.235)」と指摘す る。このような声に代表されるように、国語科教材 としての落語の価値やその指導のあり方についての 議論はいまだに乏しく、結果として、具体的な授業 プランがイメージされにくいという状況が教材とし ての落語が敬遠される背景にあるように推察され る。 落語には国語科教材としてどのような価値・可能 性があるのであろうか。多様な言語文化の中からあ えて落語を取り上げる必然性はどこにあるのであろ うか。いま、改めてこれらの問題についての検討が 求められている。そこで本研究では、落語の文化的 特徴に焦点を当てて考察を進め、これらの議論のた めの基礎的な知見を提示することを目的とする。 2.議論の焦点化 落語の教材的価値について検討するアプローチの 方向性を定めるために、その議論の焦点化を行う。 ここでは、授業実践の前提とされることの多い学習 指導要領の指導事項を確認することから始めたい。 「平成29 年度版学習指導要領解説」の中で、「落語 などを教材として用いる」という趣旨の表現が見ら れる第5, 6 学年についてみると、「伝統的な言語文 化」に係る指導事項としては以下の2 つが挙げられ ている。 冨安(2018)の区別を用いると、両者は、伝統的 な言語文化を経験し親しむことを目指す「同化」と、 伝統的な言語文化について分析し考察をする「対象 化」と捉えることができる。 「伝統的な言語文化に関する事項」の新設当初、 落語が教材として注目を集めた背景には、このうち の特に「同化」というアプローチに適した性質を有 していたという点が挙げられよう。定番の古文や漢 文作品と比較しても、圧倒的に大意がつかみやすく、 また内容も「ユーモア」的であるため、それは子ど もたちにとって「楽しみやすい」「親しみやすい」 言語文化体験へとつながると考えられたのではない だろうか。「落語を読んで(聞いて)楽しむ」や「落 語を暗唱する、音読して演じる」といった言語活動 がこれまでその中心であったことにもそれはみてと れる。 しかし、伝統的な言語文化に「同化」することの みを目指す学習ならば、その教材は必ずしも落語で ある必然性はない。寄席で聴いて、見る芸能(参加 する芸能)として成立してきた落語を「文字で読む」 といういびつな取り上げ方をし、子供たちの口語に 近い表現で書かれた文章を読み内容を楽しむだけの 授業では「伝統的な言語文化」の学習としての価値 が感じられにくいと考える授業者もいるであろう。 むしろ、子どもたちにとってよりなじみの薄い(異 ア 親しみやすい古文や漢文、近代以降の文語調 の文章を音読するなどして、言葉の響きやリズム に親しむこと。 イ 古典について解説した文章を読んだり作品 の内容の大体を知ったりすることを通して、昔の 人のものの見方や感じ方を知ること。

紙面発表 ― S1

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質性の高い)古文や漢文などを取り上げて、その大 意をつかみ、音読や暗唱を行ったりしながら「同化」 を目指す授業の方が、より教育的意義は大きいよう に感じられる場合もあるだろう(発表者はそのよう には考えていないが)。 つまり、落語は、伝統的な言語文化に「同化する」 (楽しむ・親しむ)ことを目指す上で有効な教材で はあるが、それのみに主眼を置く限りにおいては「必 ずしも落語でなくともよいのではないか」という声 に反論することはできないのである。 一方で、言語文化へ近接するためのもう一つのア プローチである「対象化」という観点から見るとど うであろうか。そこに内在する「昔の人のものの見 方や考え方」とはどのようなものであろうか。落語 は何世紀にもわたり伝承され、庶民の芸能として我 々日本人に親しまれてきた言語文化である。同じ噺 が様々な噺家によって演じられ、いつの時代も、そ して現代においても人々はそれを心から楽しむこと ができる。とするならならば、そこには、我々日本 人が時代を超えて受継ぐ「何か」との共振がある、 そして、それこそ「昔の人」と「現代を生きる私た ち」が共有する「ものの見方や感じ方」であると考 えることができるのではないだろうか。 この落語に内在するより「ものの見方や感じ方」 とは何かという議論は「同化」だけでなく、「対象 化」まで視野に入れた学習の開拓へとつながるであ ろうし、落語の国語科教材としての価値や可能性、 独自性や必然性を検討していくためには不可欠なの である。 落語に内在する「ものの見方や感じ方」に注目し た先行研究としては、小林ら(2014)や中山(2020) などが挙げられる。これらは「当時の人々の生活様 式や文化に触れる」ことや「オチを分析的に解釈す る」ことなどの有益な視座をもたらしているが、落 語が内在する「ものの見方や感じ方」のという観点 から言えば、より本質的な考察を展開する余地があ ると考える。 3.落語に内在する「ものの見方や感じ方」とは 落語という言語文化に内在する、より本質的で独 自的な「ものの見方や感じ方」とはどのようなもの であろうか。その1つは「落語」が内在する「人間 観」、いわば「落語的人間観」であると考える。 落語の噺には、滑稽噺、人情噺、怪談噺などいく つかの類型がある。またそれぞれの噺に登場する人 間の人物像は多様であり、それらの中に一貫性のあ る人間像を見出すことはなかなかに難しい。しかし、 中村(2018)が「人間がもっている多面性、あるいは、 さまざまな人間の多様性が落語では描かれるのだ (p. 20)」と指摘するように、「人間は多様である、人 間は多面的である」という「人間観」こそ、まずは 落語という言語文化全体に通底する「落語的人間観」 であるいえる。愚かさ、間抜けさ、強欲さ、狡さ、 誠実さ、気高さなど、人間という存在のもつ多様性 ・多面性をありのままに捉えようとする眼差しがそ れぞれの噺には内在しているのである。 この「落語的人間観」についてさらに検討してい く上で、本研究では、その大部分を占める落語滑に 焦点を絞り検討していく。 落語論として有名な言説として、立川(1985)の 次の言葉がある。 (前略―引用者)私にとって落語とは、〝人間 の業”を肯定しているというところにあります。〝 人間の業”の肯定とは、非常に抽象的な言い方です が、具体的にいいますと、人間、本当に眠くなる と、〝寝ちまうもんなんだ”といっているのです。 分別のあるおとなが若い娘に惚れ、メロメロにな ることもよくあるし、飲んではいけないと解って いながら酒を飲み、〝これだけはしてはいけない ”ということをやってしまうのものが、人間なので あります(p.17)。 また、中村(2018)は、立川の言うこの「人間の業」 が示すものについて、次のように解釈している。 これは、人間の弱さであり、仏教的な言い方だ と「他力」的なあり方だといえるだろう。意思や 理性ではどうにもならず、感情や欲望にふりまわ され、それを満たす快楽におぼれてしまうわれわ れの「情けなさ」みたいなものだろう(pp.17-18)。 つまり落語、特に滑稽噺で描かれるのは、人間が 本質的、普遍的にもつ「人間の業」であり「情けな さ」なのである。それは、例えば「寿限無」であれ ば、子どもを想う気持ちが強すぎるがゆえに合理的 な判断ができない親の「愚かさ」であり、「饅頭怖 い」であれば、饅頭を手に入れるために嘘をつく男 ― 174 ―

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の「ずる賢さ」、そしていたずらをして男をからか おうとする友人の「どうしようもなさ」なのである。 落語が描き出すこのような人間の本質的、普遍的に もつ「情けなさ」「どうしようもなさ」のことを、 本研究では立川にならって「人間の業」と表現する。 もう一つの極めて重要な点は、落語はこのような 「人間の業」を否定や非難をしないということであ る。住岡(2013)は、いくつかの具体的な噺を分析し、 その語りの特徴を次のように述べる。 このように「明礬丁稚」の定吉に向ける眼差し と「子誉め」の喜六に向ける眼差しに共通するも のは、それぞれがともに許容的・受容的な人間観 を根底においているということである。幼い子ど もと大人という対象の違いはあれ、両者において 表現される人間観(子ども像と阿呆像)はともに、 相手の人格を丸ごと許容し受け入れる、温かい姿 勢で貫かれている。そして、落語に登場する人物 像、すなわち落語家が解釈し演じるこうした温か い人間像解釈は、「明礬丁稚」の定吉や「子誉め」 の喜六に止まらない。全ての演目において、また 大阪落語と東京落語の如何を問わず、落語に通底 する基本的な人間観ということができる(p.30)。 つまり、落語の世界は「人間の業」を描きながら も、それを否定したり非難したりするわけではなく、 許容的・受容的に受け入れる語りのもとで成立して いるのである。「人間の業」に振り回されたり、あ きれたりしながらも、それを笑い飛ばし「仕方のな いねぇ」と受け入れるのである。それは、噺の内部 世界の人々も、また現実世界にいる我々も、そして 「昔の人」も同様なのである。 それを可能にしているのが、まず1 点目に、描か れる「人間の業」が、人間の本質的・普遍的なもの であるという点である。我々は日々「人間とはかく あるべし」という縛りの中で、自身を律しながら生 きている。「人間の業」を抑圧し、克服できるよう に「がんばりながら」生きている。しかし、その業 に負けながらもいきいきと生きる落語界の人々の姿 に触れることは、私たちにある種のカタルシスをも たらすと考えられるのである。2 点目にその描かれ 方が「笑い」を伴うものであるという点がある。多 くの滑稽噺では「人間の業」に動機づけられた彼ら なりの計画や見通しが失敗してしまう姿が喜劇的に 描かれる。我々は、彼らの「人間の業」やそれによ って引き起こされる出来事に「笑わせられる」こと で、それらを重大なもの、深刻なものとして捉える ことができなくなってしまうのである。 このような落語の「人間の業」に向ける許容的・ 受容的な眼差しが今を生きる我々どのような視座を もたらすのかについては、幸津(2008)が次のように 述べる。 古典落語の登場人物たちは「いま」生きている われわれに人間の愚かさについて教えてくれる。 彼らはその話の当の「むかし」のことばかりでな く、「いま」にも通じることとして人間というも のがどのように愚かであり、またどこまで愚かに なりうるのかについて示している。われわれは、 古典落語を聴くことで「これから」へと向かう一 つの手がかりを得ることができる。つまり変わる ことのない人間の愚かさについて、そしてこの人 間の愚かさを互いに受け入れることによって人間 相互の関係を適切な仕方でつくることについて知 ることができるのである(p.10)。 この幸津の指摘する、自他の愚かさを認め合い、然 る後にその先に向かっていくという思想は言うまで もなく極めて仏教的である。落語が、江戸時代浄土 宗の説教師であった安楽庵策伝が説教話のための話 材を集録した『醒酔笑』に起源をもつとされるよう に、落語の噺には仏教の影響を強く受けたものが多 い。特に浄土宗でいう「還愚」の思想、(自身の中 にある人間の本質的な愚かさを認め、愚者の自覚を もつ(自己の相対化)ことが、まことの生き方につ ながるのだ)などは「落語的人間観」と密接に関連 するものであると考えることができる。 ここまでを整理すると落語に内在する「落語的人 間観」とは次のようになる。 人間とは多様で多面的な存在である。そして、私 たちは皆、ある面において、情けなさや愚かさな どの「人間の業」を抱えている。しかし、それら は人間としての自然な姿であり、賞賛されるべき ものでも、否定されるべきものでもない。そのよ うな自他の「人間の業」を認め、受け入れ合う先 に「では私(私たち)はどのように生きるのか」 を考えることができるようになる。 ― 175 ―

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このような「落語的人間観」が、落語という言語文 化に内在する、より本質的で独自的な「ものの見方 や感じ方」の重要な一側面であるといえるだろう。 4. 「落語的人間観」の可能性 このような「落語的人生観」との出会いは、子ど もたちに何をもたらしうるのであろうか。それは、 日本文化の中に脈々と流れ続け、今の自分たちへと つながる「人間観」への気づきであり、それによっ ておこる「人間のありよう」への問い直しと認識の 深化・拡充、そして自己形成であるといえる。 先に見た通り「落語的人間観」は仏教的思想を色 濃く反映するものであり、伝統的な日本文化の根底 にあり続けてきた「人間観」の 1 つである。しかし、 現代の子どもたちが日々の生活の中でどれだけこの ような価値観と向き合うことができているだろう か。「人間という存在には理想的なありようがあり、 我々は理性の力でそれを目指さなければならない」 といういわば「近代人間観」が強大な力をもつ学校 教育、社会教育の中で、それに抑圧され続ける現代 の子どもたちの「人間観」は非常に不寛容で硬直的 なものとなってはいないであろうか。彼らにとって 「落語的人間観」との出会いは、自己の中に確かに あり、しかし意識化されてこなかった(しないよう にしていた)「自己内他者(自己)」の声をエンパ ワーメントするとともに「自動化した物語」を突き 崩す(難波(2008))契機となることが期待できるの である。もちろん「近代的人間観」が不要である、 「落語的人間観」の方が優れているということでは ない。これら 2 つをはじめ、多様な「人間観」が個 人の内に共存し互いにせめぎあい続ける中で、子ど もたち自身が自分なりに「人間観」が問い直し続け ていくところに、その認識の深化・拡充は向かうべ きではないだろうか。 「落語的人間観」との対話をプロデュースし、そ の認識の深化・拡充を目指すような授業を展開する ためには、これまでのように単発的に一つの作品を 取りあげて「同化」を体験させるようなデザインで はかなわない。発達段階に応じた形で、物語を「対 象化」しながら、そこに内在する「ものの見方や感 じ方」に気づき、自分なりにそれについて考え、価 値づける(典型化)ような学習が必要である。その ためには、複数の噺を同時に扱いながら描かれる人 物を比較をするような活動や、落語の語りの特徴を 探求的に検討する活動など、新しい授業の展開が期 待される。 5.成果と課題 本研究では、落語という言語文化に内在する、よ り本質的で独自的な「ものの見方や感じ方」として 「落語的人間観」の存在を明らかにした。この「落 語的人間観」との出会いは、「人間観」の問い直し、 その深化・拡充へとつながる契機となるものであり、 落語の国語科教材としての新たな可能性を拓くもの である。 しかし、本研究では具体的な作品での教材分析や、 その指導の具体的な検討、教育的効果についての実 証的な検証には至らなかった。また落語を教材とし た言語活動には、落語を「鑑賞する」だけではなく 「演じる」ようなものも展開されている。言語活動 の形態にの違いで生じる教材的価値などについても 検討が必要である。これらの点については今後の課 題とする。 【主要参考引用文献】 ・幸津國生(2008)『古典落語の人間像』花伝社 ・小林正行他(2014)「〔伝統的な言語文化〕の学習 指 導 改 善 」 『 群 馬 大 学 教 育 実 践 研 究 』 Vol.31 pp.235-248 ・釈徹宗(2017)『落語に花咲く仏教』朝日新聞出版 ・住岡英毅(2013)「落語文化教育の可能性」『大阪 青山大学紀要』Vol.6 pp.29-47 ・関山和夫(2001)『庶民芸能と仏教』厚徳社 ・立川談志(1985)『現代落語論集其二 あなたも落 語家になれる』三一書房 ・冨安慎吾(2018)「伝統的な言語文化に関する学習 指導」井上雅彦他編著『初等国語科教育』ミネル ヴァ書房所収 pp.176-186 ・中村昇(2018)『落語―哲学』亜紀書房 ・中山卓(2020)「伝統的な言語文化としての落語教 材の可能性」『国語科学習デザイン』Vol.3 No.2 pp.32-41 ・難波博孝(2008)『母語教育という思想』世界思想 社 ・平岡聡(2016)『ブッダと法然』新潮社 ― 176 ―

参照

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