退官記念講演要旨
自らの授業実践に基づく研究 小林篤(兵庫教育大学生活・健康系) 自らの授業実践から生まれた研究 40数年前,私は大学を卒業するとすぐに大学教養部 の助手として就職したが,最初に受け持ったクラスの 中に,気の毒になるほど運動がへタなのにひたむきに がんばる学生がいた。 私は感動し,この学生に億をつ けた。ところが成績発表があった日,この学生が目に 夜をためて私を訪ねてきた。 そして,言うのである。 「小学校以来,どんなにがんばっても体育で良い点を もらったことがありませんでした。 大学に入って,初 めて億をもらうことができました。 ありがとうござい ました。」 私は虚を突かれた気持ちになった。 大学での評価は 絶対評価だから,私はこの学生に倭をつけることがで きたのであり,もしこれが相対評価であったら,私も とつおいっ悩みながら,結局この学生にはせいぜい2 くらいしかつけることができなかったであろう。 しか し大学に入ったばかりの学生は,そんな裏の事情は知 らないから,生まれて初めて体育で良い点をもらい, 感極まって私を訪ねてきたのである。 これは,私にとって忘れられない軽験になった。 週 にたった1回1学期間の授業で,運動が-たな学生を 見違えるほどうまくしてやる自信は私にはない。 しか しこういう学生にも,連動の楽しさを味わわせ,大学 を卒業した後も,なっかしく振り返ってくれる授業を することはできるかもしれないと思った。 以来私は, 連動の不得手な学生が「ニコッ」と笑うような授業を したいと思い,授業の中で,こういう学生の表情を注 意して見るようになった。 そして彼らの顔が明るく輝 いているとき,私の授業は多少なりとも私の目指す方 向に向いていると思って安心し,逆に彼らの表情が暗 く沈んでいるときは,私の授業のどこに問題があるの か検討して授業計画を手直ししたものであった。 だが,何年もこういう行為を続けるうちに,私は学 生の衷情を通じて授業を自己評価するだけでは満足で きなくなり,私の授業に対する思いを直接学生に開い てみたいと思うようになった0 そういう問題意識で始 まったのが、「態度測定による体育の授業診断」の研 究であったO「体育の授業が私は待ち遠しい」「体育 は科目として存在する必要はない」というような体育 の授業に関する意見を多数書き並べ,これらに対する 賛否を問い,その結果を数量化する方法である。 これによって,私の授業に対する学生の態度とその ような態厚を生んだ原因の分析をすることもできるよ うになり,これは私自身の授業の改善に大いに役立っ た。当時アメリカからブルームの形成的評価の理論が 入ってきてブームになったが,私は経験的に自己の授 業の形成的評価をしていたのであった., そうなるとさらに欲が出て,これを槽準化する研究 が続けられることになった。 つまり;多数のサンプル に対する調査結果を統計的に処理して,得点が何点以 上であれば相対的に見て成功した授業であり,また逆 に何点以下であれば失敗した授業であるという診断基 準をつくる作業である。 精を出して数多くの学校へ調 査の依頼に回り,回収した膨大な垂の調査表を,当時 実用化されたばかりの卓上計算機のボタンを夏休み中, 朝から晩まで押し続けて集計し分析した。 当時私は20歳代の後半で,まだ若くて馬力があった からこそできた研究であるが,後になってこれは,学 生による授業評価の先解け的な研究として評価される ことになった(詳細は,拙著「体育の授業研究」1978 年,大修館書店参照)0 自己の授業から生まれた数々の研究テーマ 上記は,自己の授業経験の中から生まれた実践的な 研究であったが,その後の私の研究の大部分は、これ と同じように自己の授業の中から生まれた。 卓球の授 業での実例を1つ紹介してみることにしよう。 卓球の初心者は,ラケットを押し出してポールに当 てるので,威力のあるボールを打とうとしてラケット を勢いよく振ると,ボールはホームランにな-I,てしま うOそこで,かくてはならじとラケットを加減して振 ると,今度はイージーボールとなり,相手に打ち込ま れてたちまち一巻の終わりとなるO そうではなく,ラケットをかぶせて斜めに振り上げ, ボールをこすり上げれば,ポールはカーブして相手コ ートに落下するoいわゆるドライブ打法であるが,こ れなら,勢いよくラケットを振れば振るはど威力のあ るボールを打つことができる。 しかし,こういう原理 を説明した上で. 「ラケットを斜めに振り上げて,ボ ールをこすり上げなさい」と指示しても,すぐにこの スイングができるようになる者はわずかで,大方の学-1-生は相変わらずラケットを押し出し,なかにはポール に回転を与えようとして手首をひねる憩いくせを身に 付けてしまう者も現れる。 rどうしたものか」と考えあぐねた末に私が思いっ いたのは,「振り切った後のラケットは,左の額のと ころ」という感覚的な指示の言葉であったOラケット を斜めに振り上げれば,フィニッシュは(右利きの場 合)左の額のところに来るから,これによってスイン グが正しかったかどうか自分ですぐに確認することが できる。この指示の言葉は,かなり効果があった。 こういう実践体験をしてからは,すぐれた実践家は しばしばこういう感覚的な指導の言葉を発しているこ とが私に見えるようになったO例えば,王選手が郷ひ ろみにバッティングを指導するというテレビ番組があ り,その中で王選手は「バットを振った後,腰が前を 向いていればよい」と指導していた。 先ほどの私が思 いついた指示の言葉は,これと全く同類のものだなあ と思ったことであった。 こういうすぐれて感覚的な指示の言葉が次々に私の 視野に入ってきた結果. 私はこれらを集成分類し,日 本体育学会の大会で「体育指導における感覚的な揖示 の言糞」と題する研究発表をし,また後にこれを論文 にして本学の紀要に掲載することができた(第14巻第 3分冊,1994年)0 また以前勤務した絵合大学の体育実技の授業は,1つ の時間帯に250人からの学生が出てきて,これが6つの コースに分かれる方式であったが,雨が降ると仕方が ないので全員を体育館に集め,当番の教師が据導して 合同体操を行わせていた。 しかし,何しろ多人数授業 なので,やり方をまちがえると館内は混乱晦乱の状態 になってしまう。 ところが,あるとき当番になった陸連1級トレーナ ーの資格を持つ0先生は,初めに正座の姿勢から全く 足音をさせずにヒョイと立ち上がってみせて,「さあ, どうぞ」と学生を促した。 学生は各自試みるが,なか なか立てない。 やっと立ち上がれても足音がしてダメ。 これで学生は参ってしまい,後は0先生の指導のまま に体を動かすことになり,館内は250人もの学生がいる とは思えないほど静かになってしまった。 この場合「足音をさせてはダメJという条件が,と もすれば壊乱の巷と化してしまいがちな多人数教育の 場に,信じられないほどの静寂をもたらしたのである。 しかしこの掲示は,単に教室を静かにするための方便 として発せられたものではなかった0 この場合,足音 をさせずに立ち上がれることが,理にかなった運動が できた証であり,足音が連動の成否の判定基準になっ ているのである。したがって,これは多人数教育の場 合だけでなく,相手が1人の場合にも発せられる拾示 である。そして,期せずしてこの指示が,多人数教育 の場に静寂をもたらす指示として働いたのである。 教 材の本質に則った指導は強いと言うべきであろう。 このO先生の指導に接してからは,足音についても 私は注目するようになり,その結果,「本質に則った 指示の言葉」が数々視野に入ってきた。 そしてそれら を分析して「足音に着目した体育指導」という論文を 書くことができた(「実技教育研究」12号,199&年)0 具体例をあげると切りがないが,私の場合,自己の 体育の授業の経験の中から問題意識が生まれ,研究論 文として結実した事例は他にも数多い. 大学の授業も生々しい実鏡の葛 連合大学院ができる際,「これからは,学部から大 学院修士課程,博士課程と進み,一度も教育現場に出 ないままに大学の教師となり,学生に授業論を講じる 人が現れる可能性がある。 だからこういう人には,在 学中に現場経験を持たせるようにすべきだ」という意 見が教授会で開陳されたりした。 正論であるが,しか しそう言われると,私など一度もいわゆる現場経験を 持たないで大学教師になっている身であるから,真っ 先に批判される存在である。 そのような批判は甘んじて受けるが,しかし敢えて 言えば,運動が好きな者だけでなく嫌いな者も強制的 に出席させる大学の体育実技の授業も生々しい「現場」 であり,上述のとおり,私はそこでの「現場経験」を 通じて数多くの実践的研究を行ってきたのであった。 そしてその研究結果は,ひとり大学の体育の授業だけ でなく,小中高校の体育授業に普遍的に通用するもの が多いのではないかと私は自負している。 体育実技だけでなく,特に一般教養の多人数授業は, みな生々しい現場であるというのが私の実感である。 実際,こういう授業で学生の私語に悩まされた経験の ある方々は,きっと私の主弓長に共感されるであろう。 本学では私は出会ったことはないが,他大学の教師の 報告では,授業中に飲食をしたり携帯電話をかけたり, けんかを始める者さえいるという。 「大学もまた現場 だ」と認識し,自己の授業の改善に懸命に取り組むこ とが,大学の教師にまず要請される課尊であり,そこ から二責に実践的な研究が生まれるということを私は破 く主張したい,,