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明治三十九年 王治本の 尾張・伊勢・越前・三河における足跡と文藝交流(上)

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明治三十九年

 

王治本の

 

尾張

伊勢

越前

三河における

足跡と文藝交流(上)

   全体の目次 はじめに 一、名古屋滞在中の事ども 二、津における詩文交流   ㈠聴潮館での招待宴、馬場城南訪問、聴潮館での聯句等   ㈡結城神社、阿漕浦行   ㈢千載社での唱酬、田端鑑海との交流   ㈣王治本への送別 三、松阪移動後の事ども   ㈠佩蘭吟社四月例会への参加   ㈡山田での招待会   ㈢その他 四、伊勢におけるその他の事柄           (以上、本号) 五、尾張弥富滞在中の事ども   ㈠すでに判明している事柄   ㈡藍亭(服部担風邸)訪問、その他   ㈢佩蘭吟社六月例会    ①聯句    ②散会後、聚芳館での分韻の作 六、越前滞在中の事ども 七、再び名古屋へ 八、豊橋での詩文交流 おわりに         (以上、次号)    はじめに 一 九 六 〇 年 代 後 半 に さ ね と う け い し ゅ う 氏 に よ っ て 行 わ れ た 調 査 研 究 に よ り、 清 国 文 人、 王 治 本 ( 号 漆( ) 園。 一 八 三 五 ~ 一 九 〇 八 ) が 明 治 三 十 九 年 ( 以 下、 誤 解 を 招 く 恐 れ の な い 限 り、 「 明 治 」 の 年 号 は 省 略 す る こ と に す る ) の 三 月 ご ろ 津 に、 五 月 ご ろ か ら 愛 知 県 弥 富、 三 重 県 桑 名、 福 井 に そ れ ぞ れ 滞 在 し て い た こ と が 明 ら か に な っ て い る 1 。 本 稿 で は こ の さ ね と う 氏 の 研 究 成 果 を 踏 ま え た う え で、 当 時 の『 伊 勢新聞』 (津発行。以下、 略して 『伊勢』 と称す) 「文苑」 欄や 『扶桑新聞』 ( 名 古 屋 発 行。 以 下、 略 し て『 扶 桑 』 と 称 す ) 所 載 の 漢 詩 作 品、 伊 勢・ 尾 張 等 の 地 域 の 日 本 文 人 の 漢 詩 集、 そ の 他 の 資 料 に 基 づ き、 三 十 九 年 前 半 に お け る 王 治 本 の 足 跡 と 文 藝 交 流 の 様 相 を、 可 能 な 限 り 詳 細 に 描き出してみたい。    一、名古屋滞在中の事ども 細 か く 見 る と、 王 治 本 の こ の 時 の 一 連 の 旅 は、 実 は 名 古 屋 か ら 始 ま っ て い る。 そ の こ と は、 さ ね と う 氏 が 稲 葉 昭 二 氏 ( 当 時 龍 谷 大 学 助

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教 授。 名 古 屋 出 身 ) か ら 提 供 さ れ た、 王 の 服 部 担 風 ( 一 八 六 七 ~ 一 九 六 四 ) あ て の 書 簡 の 内 容 か ら 知 ら れ る。 ま た、 こ の 書 簡 に は 王 の こ の 旅 の 主目的が示されているので、最初に引用しておくことにする。 担 風 仁 兄 大 人 閣 下 弟 東 遊 已 三 十 余 年、 東 都 如 永 坂 石 埭・ 永 井 禾 原 ・ 矢土錦山 ・ 森槐南皆係旧雨、 於吟盟酒社、 間時有道及   尊名、 故 心 企 久 之、 春 初 重 遊 浪 越、 滞 留 二 旬、 因 山 口 大 邱 相 招、 過 赴 大 高、 適   箑 川 翁 来 会、 聯 床 夜 話、 極 得 歓 娯、 箑 翁 許 為 説 項、 致 書   閣 下、 ( 中 略 ) 乞 為 周 旋、 幷 求 恵 書 示 期、 即 当 趨 訪、 余 容 面 叙 、 不 尽 仰 奉 、 ( 中 略 ) 弟 王 治 本 頓 首   三 月 十 日 津 市 若 六 旅 屋 発 まず、 名古屋における事柄については、 次のようなことが分かる。 す な わ ち、 王 は 春 初 に 重 ね て 名 古 屋 を 訪 れ 2 、二 十 日 間 滞 留 し た。 山 口 大 邱 の 招 待 に よ り 大 高 ( 現 名 古 屋 市 緑 区 ) に 赴 い た と こ ろ、 た ま た ま箑川翁が来合わせていて、 夜の更けるまで話をして昵懇となった。 そ の 箑 川 翁 が 紹 介 状 を 書 い て く れ た の で、 服 部 担 風 に こ の 手 紙 を 書 くきっかけが与えられたというわけである。 山口大邱 (一八五一~一九三六) は漢学に長け、 「用拙塾」を開き郷 党 の 教 育 に 尽 く し、 町 長・ 県 会 議 員 と し て 活 躍 し た 人。 箑 川 と は、 鳴海 (現名古屋市緑区鳴海町) の高島 (嶋) 箑川 (一八三六~一九〇七) で、 森 春 濤 ( 一 八 一 九 ~ 八 九 ) に つ い て 詩 を 学 び、 「 医 者 を 業 と す る か た わ ら、 鳴 海 近 在 の 人 々 に 経 書 を 教 え た 」 3 。 ま た、 「 服 部 擔 風 は 箑 川 さ ん の 弟 子 で、 擔 風 の 話 で は、 毎 週 一 回 弥 富 か ら 箑 川 さ ん の 家 ま で 歩いて通つて、詩を学んだ」と言われている 4 。 次 に 、 こ の 書 簡 の 主 眼 で あ る が 、 そ れ は 言 う ま で も な く 、 服 部 担 風 へ の 王 治 本 の 訪 問 申 し 入 れ の 方 に こ そ あ っ た 。 東 京 で の 、 尾 張 出 身の永坂石埭 (一八四五~一九二四) ・ 永井禾原 (一八五二~一九一三) ・ 森槐南 (春濤の子。一八六三~一九一一) 、伊勢出身の矢土錦山 (一八五一 ~ 一 九 二 〇 ) 等 の 名 だ た る 漢 詩 人 た ち と の 付 き 合 い の 中 で 話 題 に 出 る こ と の 多 か っ た 貴 兄 に ぜ ひ 面 会 し た い と い う 申 し 入 れ で あ る。 こ の 書 簡 は 王 治 本 が 津 の 旅 館 か ら 発 送 し た も の で あ る が、 そ の 日 付 で あ る 三 月 十 日 は 彼 が 津 に 到 着 し た 当 日 で あ っ た。 そ れ は、 翌 十 一 日 の『 伊 勢 』 に「 清 国 儒 王 治 本 氏 は 過 般 来 名 古 屋 ● 5 滞 在 中 な り し か 昨 日 来 津 停 車 塲 前 若 六 旅 館 に 滞 泊、 詩 文 添 削 並 に 揮 毫 の 需 に 応 ず る 由 」 と 報 じ ら れ て い る こ と か ら 分 か る の で あ る。 王 治 本 は 名 古 屋 か ら 津 ま で 足 を 延 ば し た も の の、 早 速 抜 か り な く 今 後 の 訪 問 相 手 と の 面 会 の 約 束 を 取 り 付 け よ う と し た の で あ る。 そ し て、 そ の 訪 問 相 手 の 居 住 地 が、 津 か ら わ ざ わ ざ 北 に 逆 戻 り し て、 尾 張 の 国 に 入 っ た と こ ろ に 位 置 す る 弥 富 で あ る 点 に、 彼 の 担 風 と の 面 会 意 欲 の 旺 盛 さ が 窺われるのである。 と こ ろ で、 大 正 期 の 伊 勢 の 詩 書 界 の 傾 向 を 概 観 し て、 松 本 青 外 が そ の『 大 正 三 重 雅 人 史 』 に お い て 次 の よ う に 述 べ て い る。 す な わ ち、 「 詩 書 を 合 し て は 知 名 の 人 士 六 七 十 若 く ば 七 八 十 に も 達 す べ き か。 然 し 乍 ら 之 を 県 下 各 郡 に 就 て 見 ん か、 殆 ん ど 郡 市 行 渡 ら さ る な く、 即 ち 其 の 分 布 は 周 到 な り と 云 ふ を 得 べ 」 き で あ る が、 「 而 も 其 隆 昌 な る は 桑 名 郡 と す べ き 」 で、 津 以 北 に お い て 林 立 し て い る 多 く の 吟 社 を「 統 轄 す と も 称 す 可 き も の に 桑 名 に 佩 蘭 会 あ り、 弥 富 の 服 部 担 風 を 中 心 と し て 詩 星 群 叢 し 来 」 り、 「 東 京 の 随 鷗 吟 社 を 除 い て は 其 の 隆 昌 比 類 を 見 ず と 称 さ る 」 6 。 こ こ に 述 べ ら れ て い る 状 況 は、 その書の出版年から見れば、 大正改元後まもない時期のことであり、

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本 稿 で 取 り 上 げ る 三 十 九 年 の 状 況 も、 こ れ と 大 差 な か っ た と 推 察 さ れ る の で、 そ の 意 味 で 念 頭 に 置 い て お き た い。 な お、 松 本 は「 桑 名 に 佩 蘭 会 あ り 」 と い う 言 い 方 を し て い る が、 誤 解 の な い よ う 補 足 す れば、 桑名 (伊勢最東端) は佩蘭吟社の例会の開催地だったのであり、 同社を主宰する服部担風は弥富 (尾張最西端) 在住であった。このこ と に 典 型 的 に 表 れ て い る よ う に、 当 時、 伊 勢 と 尾 張 の 詩 人 た ち ( 津 在 住 の 者 や 名 古 屋 在 住 の 者 も 含 め て ) は、 佩 蘭 会 と い う 紐 帯 の 下、 盛 ん に 行 き 来 し、 木 曾 川 と い う 境 界 は あ ま り 意 識 さ れ て い な か っ た よ う である。 以 上 の よ う な 当 時 の 状 況 を 踏 ま え た 上 で、 ま ず は 王 治 本 の 津 滞 在 中の詩文交流の様相を追跡してみることにしたい。    二、津における詩文交流 ㈠聴潮館での招待宴、馬場城南訪問、聴潮館での聯句等 津 到 着 翌 日 の 十 一 日 に は 早 速、 当 時 の 極 楽 町 に あ っ た 高 級 料 亭、 聴 ていちょうかん 潮 館 で 王 治 本 を 歓 迎 す る 宴 会 が 開 か れ た。 そ の 様 子 が 翌 十 二 日 の 『 伊 勢 』 に「 王 治 本 氏 招 待 莚 」 と の 見 出 し の 下、 次 の よ う に 報 じ ら れている。 今 回 筆 を 載 せ て 当 地 に 来 遊 せ る 清 国 老 儒 王 治 本 氏 の 為 め そ の 旧 知 な る 長 谷 部 白 雲 氏 会 主 と な り 昨 日 午 后 三 時 頃 よ り 聴 潮 舘 に 於 て 清 莚 を 張 り 同 席 に は 茅 原 白 堂、 馬 塲 城 南、 幡 上 天 真、 永 谷 五 瀬、 市 川 塔 南 の 諸 氏 も 参 集 し 席 上 翁 の 揮 毫 あ り 詩 酒 清 談 晷 の 移 るを覚えざりしと こ の 記 事 に よ り、 王 治 本 を 津 に 呼 ん だ の は 長 谷 部 白 雲 で あ っ た こ と が 知 ら れ る が、 た だ、 両 人 の 既 往 の 交 流 の 実 態 は 不 明 で あ る。 以 下、記事に名前の出ている人物につき、簡単に紹介しておきたい。 長 谷 部 白 雲 ( 名 は 円 祁。 一 八 五 一 ~ 一 九 一 三 ) は、 真 宗 高 田 派 本 山 専 修 寺 ( 津 市 に あ り ) 第 二 十 世 円 禧 上 人 の 子 で、 当 時、 同 寺 の「 東 別 院 ニ 住 シ テ 宗 務 ノ 枢 機 ニ 参 シ 兼 ネ テ 教 学 ノ 事 ヲ 管 」 し て い た 7 と 考 え ら れ る。 茅 ちはら 原 白 堂 ( 名 は 夷 清。 一 八 五 〇 ~ 一 九 二 八 ) は、 も と 津 藩 士 で、 二 十 四 年 六 月 以 来、 自 邸 で「 四 十 有 餘 年 専 ラ 学 徒 ノ 教 養 ニ 任 シ ( 中 略 ) 遠 近 ノ 子 弟 風 ヲ 慕 ヒ テ 其 ノ 門 ニ 麕 至 シ 日 夕 絃 誦 ノ 声 ヲ 絶 タ ス 多 ク 知 名 ノ 士 ヲ 出 」 し た 8 と い う。 馬 場 城 南( 名 は 驥。 一 八 五 一 ~?) は、 「 旧 津 藩 産 科 婦 嬰 科 名 医 道 朔 士 の 長 子 」 で、 二 十 一 年 か ら の 東 京 遊 学 後、 二 十 三 年 か ら は 自 宅 で 開 業 し て い た 9 。 幡 上 天 真 ( 諱 は 日 静。 一 八 六 二 ~ 一 九 二 八 ) は「 十 六 年 師 跡 ヲ 襲 キ テ 興 善 院 住 職 ト ナ リ 妙 光 山 第 三 十 一 世 ノ 法 燈 ヲ 承 」 け た 人 で、 常 に「 当 時 ノ 文 人 墨 客 ト 相 往 来 シ テ 応 酬 唱 和 日 ニ 絶 エ ス 九 州 日 向 ノ 士 秋 月 種 たねたつ 樹 モ 亦 来 リ 遊 ヒ 淹 留 旬 餘 ニ 及 」 ん だ と い う 10。 永 谷 五 瀬 の「 五 」 は「 八 」 の 誤 り ではないかと疑われる。永谷八瀬 (名は質。一八五〇?~一九三二) は、 『 続 三 重 先 賢 伝 』 で は「 明 治 三 十 年 ノ 頃 職 ヲ 三 重 県 庁 ニ 奉 セ シ カ 後 農工銀行ニ入レリ」と紹介され、 一方、 『大正三重雅人史』では「詩 書 家   永 谷 八 瀬   津 市 三 番 町 住 ( 中 略 ) 近 年 洞 津 詩 壇 の 凋 落 を 慨 し、 無 名 吟 社 を 組 織 し て 其 復 活 を 図 り つ ゝ あ り 」 と 紹 介 さ れ て い る 11 市川塔南 (名は進。一八五六~一九五三) は 「書詩家   南画家   篆刻家」 で、 「 第 四 回 博 覧 会 に 篆 書 楷 書 を 出 品 し て 一 等 賞 を 得 た る を 初 め と し、 東 京 勧 業 博 覧 会、 大 正 博 覧 会 そ の 他 展 覧 会 に 於 て 優 賞 を 受 く る こ と 数 次。 故 に 其 書 多 く 東 京 及 大 阪 に 向 つ て 知 ら れ 揮 毫 を 乞 ふ 者 頻

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り」であったという 12 さて、 この日の招待宴で唱酬された諸作品が、 三月十八日の 『伊勢』 文苑に掲載されている。それらのうち、 長谷部白雲の作の題 ― 「三 月 十 一 日 祁 与 諸 子 延 漆 園 王 先 生 於 聴 潮 舘 張 小 宴 楣 上 有 掲 秋 月 侯 之 詩 共 和 之 以 遣 興 」 が、 招 待 宴 の 開 催 日 の み な ら ず、 唱 和 の き っ か け と さ れ た 事 柄 の い ず れ を も 明 示 し て く れ て い る。 す な わ ち、 諸 子 と 王 治 本 を 聴 潮 館 に 招 い て 小 宴 を 張 っ た と こ ろ、 座 敷 の 楣 間 に 秋 月 侯 の 詩 が 掲 げ ら れ て い た の で、 み ん な で そ の 詩 に 和 韻 し た と い う わ け で あ る。 秋 月 侯 と は、 日 向 国 高 鍋 藩 主 秋 月 種 任 の 三 男 の 秋 月 劉 侯、 す な わ ち 秋 月 種 樹 ( 一 八 三 三 ~ 一 九 〇 四 ) で、 維 新 後、 新 政 府 の 要 職 を 歴 任 す る と と も に、 漢 詩・ 書 画 を 善 く す る こ と で も 知 ら れ て い た。 十 五 年、 五 十 歳 の 時 に は「 高 鍋 に 帰 り 中 学 校 生 徒 に 漢 文 及 び 作 文 を 教 授 し、 以 後 時 に 各 地 漫 遊 し て 風 流 を 楽 し 」 ん だ と い う 13 聴 潮 館 の 座 敷 の 楣 間 に 掲 げ ら れ て い た 彼 の 詩 句 は、 幸 い 矢 土 錦 山 の「 聴 潮 館 水 榭、 掲 古 香 秋 月 君 詩、 曰、 『 伊 勢 海 名 自 古 留、 風 光 収 入 此 家 楼。 曾 迎 春 相 一 宵 酔、 潮 水 加 音 枕 上 流 』、 依 韻 留 題 」 と 題 す る 三 十 七 年 の 作 が 残 っ て い る 14 と に よ り、 知 る こ と が で き る。 詩 句 の 部 分 を 訓読しておこう。 伊 勢 海 の 名   古 よ り 留 め ら れ、 風 光   収 め 入 れ ら れ た り   此 の 家 の 楼。 曾 て 春 相 を 迎 え て   一 宵   酔 い、 潮 水   音 を 加 え て   枕上に流る。 「 春 相 」 と は、 春 畝 と 号 し た 宰 相、 伊 藤 博 文 ( 一 八 四 一 ~ 一 九 〇 九 ) の こ と と 見 ら れ る。 伊 藤 が 三 十 一 年 十 月 に 聴 潮 館 で 詠 ん だ「 津 市 聴 潮 閣、 追 懐 黄 鶴 楼 遊 蹤 作、 此 夜 雪 晴 月 明 」 と 題 す る 七 律 が 残 っ て い る 15 と か ら し て、 秋 月 種 樹 も そ の 場 に 同 席 し て、 上 記 の 作 を 遺 し たものと考えられる。 さ て、 三 十 九 年 三 月 十 一 日 の 宴 で 詠 ま れ た 詩 の う ち 数 首 を、 掲 載 順 に 掲 げ る こ と に し よ う。 ま ず 王 治 本 の 作 は「 聴 潮 楼 雅 集、 次 秋 月 劉 侯 壁 間 旧 題 韻、 与 白 雲 上 人・ 白 堂 学 士・ 城 南 医 伯・ 塔 南 書 聖・ 八 瀬 居 士、 同 賦 」 と い う 題 の 下、 四 首 掲 載 さ れ て い る が、 そ の 第 一 首 のみ引用することにする。 貪賞煙波借酒留    煙波を貪賞して   酒を借りて留まり 尋盟同上聴潮楼    盟 を 尋 ぎ 〔 旧 交 を 温 め る 〕 て   同 に 上 る   聴 潮 楼   晩来一雨添新漲    晩来   一雨   添 くわ わりて新たに漲り 如吼濤声入夜流    吼ゆるが如き濤声   夜に入りて流る 次 に 上 述 の 白 雲 の 作 二 首 で あ る が、 詩 句 の 引 用 は 省 略 す る。 さ ら にその次が馬場城南の作で、これは引用しておこう。 丙 午 三 月 十 一 日、 与 諸 同 人 張 讌、 請 漆 園 王 先 生 于 聴 潮 舘。 楣 間 掲 古 香 劉 公 旧 題。 席 上、 先 生 有 次 韻 之 作、 余 亦 傚 顰、 賦以乞郢政    城南馬塲驥拝稿 邀君樽酒暫相留    君を邀えて   樽酒   暫く相留む 細雨新晴柳外楼    細雨   新たに晴れたり   柳外の楼 入夜江天雲解駁    夜 に 入 り て   天     駁 〔 離 散 し 入 り 交 じ る 〕 し 春潮帯月砕金流    春潮   月を帯び   金を砕きて流る

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な お、 四 月 三 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に 掲 載 さ れ て い る「 聴 潮 舘 与 同 人 請 王 漆 園 先 生 張 宴、 次 秋 月 公 題 韻 」 と い う 題 の 作 品 群 も、 以 上 と 同 じ 三 月 十 一 日 の 詠 か も し れ な い。 作 者 は 茅 原 白 堂、 永 谷 八 瀬、 市 川 塔 南、 馬 場 城 南 の 四 人 で、 そ れ ぞ れ 二 首 ず つ 掲 載 さ れ て い る。 詩 句 は引かない。 韻字はもちろん、 すべて三月十一日の作と同一である。    こ こ で 再 び 三 月 十 八 日 の『 伊 勢 』 に 戻 る が、 こ の 日 の 文 苑 に は 王 治 本 の「 過 訪 城 南 類 伯、 即 坐 偶 成。 録 請 粲 政 」 と 題 す る、 次 の よ う な作品も掲載されており、 引用しておこう。 「類伯」 は 「医 (醫) 伯」 の 誤 り か。 王 が 城 南 を 訪 問 し た こ と を 示 す 題 で あ る が、 そ の 日 に ち は三月十二日以降、十七日以前ということになろうか。 有約来相訪    約有り   来り相訪う 多労倒屐迎    多く労す   屐を倒にして迎うるを 楼高堪拾月    楼   高く   月を拾うに堪えたり 風煖好聴鶯    風   煖かく   鶯を聴くに好し 書似青山畳 16   書は青山の 畳 かさ なるに似たり   盃将白堕傾    盃は白堕   〔美酒の別称〕 を将て傾けん 薬爐丹乍就    薬爐   丹   乍 はじめ て就るや 妙句喜吟成    妙句   吟じ成るを喜ぶ 尾 聯 は 城 南 が 医 師 か つ 漢 詩 人 で あ る こ と に ち な ん だ 表 現 で あ る こ と、言うまでもない。 聴 潮 館 で は 聯 句 の 催 し も 行 わ れ た。 そ れ は 三 月 十 八 日 の こ と で、 その時の作品が二十二日の『伊勢』文苑に掲載されている。    丙午三月十八日聴潮舘雅集聯旬 17、傚柏梁体 翰墨訂交亦夙縁〔永谷八瀬〕   翰 墨   交 わ り を 訂 ぶ も   亦   夙 縁 満座諸公尽画仙〔馬塲城南〕   満座の諸公   尽く画仙 此日歓情千載伝〔茅原白堂〕   此の日の歓情   千載に伝えん 吟情画意是天然〔斎藤誠斎〕   吟情   画意   是れ天然 酔来誰又不流涎〔曾野礫斎〕   酔 い 来 り て   誰 か 又   涎 を 流 さ ざ ら ん 何 妨 酔 裏 参 真 禅 〔 長 谷 部 白 雲 〕  何 ぞ 妨 げ ん   酔 裏   真 禅 に 参 ず る を 新吟続賦白鷗天 〔王漆園〕    新 た に 吟 じ   続 ぎ て 賦 す   白 鷗 の 天 倩他紅袖展彩箋〔市川塔南〕   他 か の紅袖〔美女〕に倩いて彩箋 〔 絵 模 様 の あ る 詩 箋 〕 を 展 げ し め ん こ こ で 新 た に 出 て き た 人 名 ― 斎 藤 誠 斎 と 曾 野 礫 斎 に つ い て 触 れ て お こ う 。 斎 藤 誠 斎 ( 一 八 六 四 ~ 一 九 一 八 ) は 「 津 藩 儒 誠 軒 ノ 長 子 実 ニ 拙 堂 ノ 孫 」 で 、 三 十 一 年 か ら 私 立 勵 精 館 の 専 任 教 授 を 務 め て い た 18 曾 野 礫 斎 ( 一 八 三 五 ~ 一 九 一 二 ) は「 藩 廃 セ ラ レ テ 後 力 ヲ 奨 学 ニ 竭 シ 学 事 ニ 鞅 掌 ス ル コ ト 数 年 兼 ネ テ 県 政 ニ 参 与 」 し、 「 尋 イ テ 師 範 学 校 中 学 校 ノ 聘 ニ 応 ジ 書 法 ヲ 授 ク ル コ ト 十 数 年 」 で あ っ た が、 「 明 治 三 十 五 年 六 月 感 ス ル 所 ア リ 袂 ヲ 払 ヒ テ 故 園 ニ 棲 遅 シ 琴 書 自 ラ 娯 シ 」 んでいた 19 な お、 作 品 の 後 に「 社 末 弟   馬 塲 驥 僭 評 」 と し て 城 南 の 評 が 付 さ れ て お り、 こ の 聯 句 が 何 ら か の 吟 社 の 催 し で あ っ た こ と を 窺 わ せ る ものの、筆者にはその吟社を特定することができない 20 ㈡結城神社、阿漕浦行 三 月 二 十 七 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に 掲 載 さ れ て い る 城 南 の「 丙 午 春 三

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月 念 日、 与 市 川 塔 南、 従 漆 園 王 先 生、 詣 結 城 神 社、 帰 途 游 阿 漕 浦、 飲 于 対 潮 亭、 酒 間 即 吟 」 と 題 す る 作 品 に よ り、 三 月 二 十 日 の 王 治 本 の 行 動 が 知 ら れ る。 す な わ ち、 馬 場 城 南・ 市 川 塔 南 の 案 内 で 結 城 神 社 に 参 詣 し、 帰 途、 阿 漕 浦 に 遊 び、 そ の あ と 対 潮 亭 で 宴 を 催 し た の で あ る。 対 潮 亭 は、 次 に 示 す 王 治 本 の 詩 題 に 注 記 さ れ て い る 通 り、 「魚庄」とも呼ばれ、 千鳥館と並び称され、 「四時閑客の来遊を待つ」 阿漕浦の「旗亭」であった 21。詩句の方も引いておこう。 満眼青山対落暉    満眼の青山   落暉に対し 春帆桂 22処影依微   春帆   桂 か かる処   影   依微たり 此遊他日君須記    此の遊   他日   君   須く 記 き すべし 漕浦風光酔忘帰    漕 浦 〔 阿 漕 浦 〕 の 風 光   酔 い て   帰 る を 忘 れ し を 同 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に は、 も ち ろ ん 王 治 本 と 市 川 塔 南 の 作 も 掲 載 されているが、詩題と詩形だけ示すことにする。   丙 午 春 仲、 同 馬 塲 城 南・ 市 川 塔 南 二 君、 游 観 津 海、 酌 於 対 潮 亭( 魚 庄 )、 酒 間 即 景 偶 成 五 言 一 律、 書 此 ● 23壁、 以 誌 鴻 爪    漆園   王治本    五律   丙 午 春 日、 陪 漆 園 先 生、 同 馬 塲 城 南、 游 阿 漕 浦、 上 対 潮 亭、 醉後口占    市川塔南    七絶   同次城南韻    市川塔南    七絶 次 に、 こ の 三 月 二 十 日 の 参 拝・ 遊 覧 を 踏 ま え て 作 ら れ た と 考 え ら れる王治本の作品 ― 「謁結城神社有感」と「阿漕行 幷 序」が、 それ ぞ れ『 伊 勢 』 の 三 月 二 十 九 日 と 六 月 四 日 の「 文 苑 」 に 掲 載 さ れ て い るので、判読しがたい部分を省略しつつ引用してみたい。 結 城 神 社 は、 後 醍 醐 天 皇 を 奉 じ て「 建 武 新 政 」 の 樹 立 に 貢 献 し た と 言 わ れ る 結 城 宗 広 ( 一 二 六 六 ~ 一 三 三 九 ) を 祀 る 神 社 で あ る。 足 利 尊 氏 が 再 び 都 を 犯 す に 至 っ た た め、 陸 奥 国 白 河 の 城 主 で あ っ た 宗 広 は 陸 奥 の 義 良 親 王 を 奉 じ て 北 畠 顕 家 と 共 に 錦 旗 を 翻 し、 陸 奥 の 大 軍 を 率 い て 西 上 し た も の の、 遠 州 灘 の 暴 風 雨 に 阻 ま れ て、 そ の 志 を 得 ず、 七十三歳にしてこの地に薨じ、 祀られることになったという。 「謁 結城神社有感」は二首連作であるが、其の二を引くことにする。 南朝天子再蒙塵    南朝の天子   再び蒙塵し 戴冑勤王出帝 闉    戴 冑   王 に 勤 め て   帝 闉 〔 都 の 城 門 〕 を 出 づ (二句省略) 青宮 24夙奉三軍令   青宮 〔東宮〕 夙に奉ぜり   三軍の令 白首猶誇百戦身    白首 〔白髪頭〕 猶お誇る   百戦の身 忠骨長埋津海角    忠骨   長く埋まる   津海の角 年々冬社荐江蘋    年々   冬社   江蘋 〔川の浮草〕 を 荐 すす む な お、 同 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に は「 謁 結 城 神 社 」 と 題 す る 馬 場 城 南 の作も掲載されている。 次に「阿漕行 幷 序」である。 「阿漕」は言うまでもなく、 謡曲「阿 漕 」 の 舞 台 と な り、 ま た、 「 あ こ ぎ だ 」 と い う 日 本 語 の 単 語 を 生 み 出 す も と と も な っ た、 現 在 の 津 市 の 海 岸 部 の 地 名 で あ る。 ま ず 序 を 引用しよう。

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阿 漕 者 漁 人 也、 名 平 次。 往 古 以 浦 産 赤 鬃 魚 充 貢 品   禁 民 私 捕。 私 捕 者 殺 無 赦。 猶 是 斉 王 之 囿。 殺 其 鹿 者 如 殺 人 之 罪 也。 阿 漕 潜 入 投 網、 久 之 事 覚 獲 罪、 遂 将 其 身、 生 沈 海 底。 嗚 呼 惨 矣。 及 聞 其 事 之 年 代、 郷 人 多 不 能 道、 園 田 一 斎 作 阿 漕 行、 秖 罪 其 盗 漁、 而 不 憫 其 殺 身、 未 免 過 刻、 且 与 郷 人 建 墓 設 祭 意、 亦 相 背。 余 特 反其説、作是篇。 〔 阿 漕 は 漁 人 に し て、 平 次 を 名 と す。 往 古   浦 に 産 す る 赤 鬃 魚 を 以 て 貢 品 に 充 て   民 の 私 か に 捕 る を 禁 ず。 私 か に 捕 る 者 は 殺 し て 赦 す 無 し。 猶 お 是 れ 斉 王 の 囿 に て 其 の 鹿 を 殺 す 者 は 殺 人 の 罪 の 如 く せ し 25 ご と き な り。 阿 漕   潜 か に 入 り て 網 を 投 じ、 之 を 久 し く し て 事 覚 あらわ れ 罪 を 獲 て、 遂 に 其 の 身 を 将 もっ て、 生 き な が ら 海 底 に 沈 め た り。 あ あ 惨 な る か な。 其 の 事 の 年 代 を 聞 く に 及 ん で は、 郷 人   多 く 道 う 能 わ ざ る も、 園 田 一 斎   阿 漕 行 を 作 り、 秖 其 の 盗 漁 せ し を 罪 す る の み に し て、 其 の 身 を 殺 せ し を 憫 ま ざ り し は、 未 だ 過 刻 な る を 免 れ ず、 且 つ 郷 人   墓 を 建 て 祭 を 設 く る 意 と も、亦相背く。余   特に其の説に反して、是の篇を作る。 〕 こ の 序 に よ り、 江 戸 時 代 末 期 の 津 藩 儒、 園 田 一 斎 ( 一 七 八 四?~ 一 八 五 一 ) 26に「 阿 漕 行 」 の 作 の あ っ た こ と が 知 ら れ る 27が、 王 治 本 の 作 品 は、 一 斎 が そ の 作 品 の 中 で 平 次 の 無 念 な 死 を 憐 れ ま ず、 そ の 盗 漁 ば か り を 一 方 的 に と が め て い る こ と に 対 す る 反 発 を モ チ ー フ と していることが表明されている。次に、 判読しがたい部分は省略し、 韻の変わり目ごとに間隔を開けつつ、詩句を引いてみよう。 阿漕捕魚居海濱    阿漕   魚を捕りて海濱に居り (一句省略) 漁人知利不知害    漁人は利を知るも   害を知らず 只羨禁浦多遊鱗    只羨む   禁浦に遊鱗多きを 毎夜放船入浦口    毎夜   船を放ちて浦口に入り 網得鮮鱗多且有    網して鮮鱗を得れば   多く且つ有り 久之久之事敗露    之を 久 し く し   之 を 久 し く し て   事   敗 露 し 遂 以盗漁罹其咎    遂に盗漁を以て其の咎に罹る 天生魚物供鼎烹    天   魚物を生じて   鼎烹に供せしむ 即論干禁罪維軽    即 たと い 禁 を 干 す を 論 ず と も   罪   維 こ れ 軽 か ら ん 可恨当時刑法酷    恨む可し   当時   刑法   酷しく 輙因細故殺其生    輙ち細故に因り其の生を殺したり 裹以竹簀投深海    裹むに竹簀を以てして深海に投じ (二句省略) 為祟為怪蛟龍駭    祟と為り   怪と為りて   蛟龍   駭く (二句省略) 一竿風月可玩世    一竿の風月   世を 玩 たの しむ可かりしに 独惜阿漕沈滄津    独 り 惜 し む ら く は   阿 漕   滄 津 に 沈 み し こ と 後人相憐動哀惻    後人   相憐れみて   動もすれば哀惻し 招魂兮埋其楫     魂を招きて   其の楫を埋む 荒冢一抔草青々    荒冢   一抔   草   青々たり 小碑三尺表遺蹟    小碑   三尺   遺蹟を表す

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至今江上浪滔々    今に至るも   江上   浪   滔々たり 此浦従茲属阿漕    此の浦   茲より   阿漕に属す 奇名転因奇禍得    奇名   転 かえ って奇禍に因りて得たり 一曲謡歌擬楚騒 28   一曲の謡歌   楚騒に擬す 卞和抱璞巖垂名    卞和   璞を抱きて   巖   名を垂れ 29 伍胥銭塘濤有声    伍胥   銭塘   濤に声有り 30 千載相伝定不妄    千載   相 伝 わ る は 定 め し 妄 な ら ざ れ ば な ら ん 方知生辱而死栄    方 て 知 る   生 き て 辱 め ら る る も 死 し て 栄 は え あ る を 吁嗟乎阿漕阿漕寃可釈   ああ阿漕よ   阿漕よ   寃   釈く可し 年々社祭中元節      年 々   社 祭 〔 土 地 神 と し て 祀 る 〕 す   中 元 節 作品の後には城南の次のような識語が付されている。 此 篇、 先 生 一 夕 見 過 草 廬、 読 園 田 一 斎 所 作、 翌 朝 所 賦。 蓋 咄 嗟 而 成、 其 歴 敍 阿 漕 平 次 始 末、 詳 悉 無 遺、 可 以 充 阿 漕 冢 縁 起、 請 先生寄之伊勢新聞、以掲文苑、 幷 似同好云。 〔 此 の 篇 は、 先 生 一 夕   草 廬 に 過 り、 園 田 一 斎 の 作 り し 所 を 読 み、 翌 朝   賦 せ し 所 な り。 蓋 し 咄 嗟 に し て 成 る も、 其 の 阿 漕 平 次 の 始 末 を 歴 敍 す る こ と、 詳 悉 に し て 遺 す 無 く、 以 て 阿 漕 冢 の 縁 起 に 充 つ 可 し。 先 生 に 請 い て之を伊勢新聞に寄せ、以て文苑に掲げ、 幷 びに同好に似えしむ。 〕 ㈢千載社での唱酬、田端鑑海との交流 四 月 八 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に「 千 載 社 酒 間 率 吟 」 と 題 す る 王 治 本 の 作 (一首) と、 これに次韻した長谷部白雲、 茅原白堂、 永谷八瀬 (以 上 三 名 は 各 二 首 ) 、 馬 場 城 南、 市 川 塔 南、 田 端 観 海、 斎 藤 誠 斎 ( 以 上 四 名は各一首) の作品が掲載されている。 千載社とは、 これらのメンバー を 含 む 吟 社 の 名 で は な か ろ う か と 思 わ れ る。 こ の 会 の 開 催 日 は、 後 述 す る 谷 城 東 の 詩 題 の「 春 仲 」 と い う 語 を 額 面 通 り 受 け 取 れ ば、 こ の 年 の 旧 暦 の 二 月 中、 す な わ ち 陽 暦 の 三 月 二 十 四 日 以 前 と い う こ と に な る。 幸 い、 鮮 明 に 判 読 で き る も の が 少 な く な い の で、 い く つ か 引用してみよう。    千載社酒間率吟    王漆園 詩能絵景画伝神    詩は能く景を絵き   画は神を伝う 落筆煙雲粉本新    筆を 落 くだ せば   煙雲   粉本 〔画稿〕   新たなり 一日佳譚千載会    一日   佳譚   千載の会 天涯翰墨結良因 31   天涯   翰墨   良因を結ばん    同    次韻 (其の二)    長   白雲 雖無絲竹亦怡神    絲竹無しと雖も   亦   神を怡ばしむ 着句樽前発興新    句を樽前に着けんとして   興を発すること              新たなり 満座和風春蕩々    満座の和風   春   蕩々たり 間花野草自相因    間花野草 〔野生の草花〕   自ら相因る    同 (其の一)    茅原   白堂 落筆成章恰如神    筆を落せば章を成すこと   恰も神の如く 篇々珠玉意方新    篇々   珠玉   意   方に新たなり

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右軍修禊蘭亭後    右軍   禊を蘭亭に修めし 32 今日風流重結因    今日   風流   重ねて因を結ばん    同 (其の一)    永谷八瀬 旧題和尽各通神    旧 題 33 し 尽 く し て お の 神 に 通 ず 〔 並 々 な ら ぬ 腕 前 で あ る 〕 更有高賓逸唱新    更 に 高 賓 〔 王 治 本 の こ と 〕 の 逸 唱   新 た な る 有 り 剪燭深宵重酔酒    燭を剪りて   深宵   重ねて酒に酔う 幽情暢敍豈無因    幽情   暢敍する   豈   因   無けん    同    市川塔南   相会羣英筆似神    相会せる羣英   筆   神に似たり 雄篇続出各清新    雄篇   続出し   各おの清新なり 座中更有王君在    座中   更に王君の在る有り 永訂天涯文字因    永く訂ばん   天涯   文字の因 こ こ で 新 た に 名 前 が 出 た 田 端 観( 鑑 ) 海 ( 名 は 和。 一 八 七 一 ~ 一 九 二 九 ) は 河 藝 郡 天 名 村 ( 現 鈴 鹿 市 徳 田 町・ 御 薗 町 一 帯 ) の 人 で、 「 居 ヲ玉山堂トイヒ」 、十九歳で 「大阪ニ遊ヒ贄ヲ藤沢南岳ノ門ニ執」 り、 二 十 三 歳 の 時「 学 成 リ テ 郷 ニ 帰 リ 超 然 世 俗 ト 断 チ テ 専 ラ 心 ヲ 作 詩 ニ 注 」 い だ 人 で、 「 鵞 渓 吟 社 滄 浪 吟 社 ノ 盟 首 」 で あ っ た 34 ま た、 『 大 正 三 重 雅 人 史 』 で は「 漢 学 を 藤 沢 南 岳 に 学 び、 詩 作 を 楓 井 古 斎、 服 部 藍 亭 等 に 従 」 い、 「 殊 に 詩 作 は 県 下 の 一 頭 目 た る 観 あ り 」 と 評 さ れ 35 服 部 担 風 の 弟 子 で あ っ た 川 島 清 堂 に よ れ ば、 「 担 風 四 天 王 の 一人」と称された時期があったという 36 三 月 二 十 九 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に 鑑 海 の「 津 城 聴 潮 舘、 贈 呈 王 漆 園 先 生 大 人、 即 乞 正 句 」 と い う 題 で、 「 深、 襟、 心、 沈、 尋 」 を 韻 字 と す る 七 律 が 掲 載 さ れ て い る 37が、 こ の 千 載 社 の 会 合 で 詠 ま れ た も の で は な い か と 思 わ れ る。 だ と す れ ば、 会 合 の 場 所 は 聴 潮 館 だ っ た ことになる。 新 聞 へ の 掲 載 が や や 後 に な る 点 に、 時 間 的 位 置 づ け 上 の 不 安 が 残 るものの、 六月四日 『伊勢』 文苑所載の鑑海の七律、 「奉呈王漆園先生、 即 用 坂 口 雨 村 兄 韻 」 も、 こ こ で 言 及 し て お き た い。 こ の 作 品 に は 馬 場 城 南 の「 鑑 海 詞 兄、 不 相 見 十 餘 年、 向 者 適 相 会 于 聴 潮 舘、 乃 出 此 詩 相 示、 使 余 評 之、 受 而 誦 之、 語 々 切 于 漆 翁。 ( 下 略 )〔 鑑 海 詞 兄 は、 相 見 ざ る こ と 十 餘 年、 さ き ご ろ 適 た ま 聴 潮 舘 に 相 会 う に、 乃 ち 此 の 詩 を 出 だ し て 相 示 し、 余 を し て 之 を 評 せ し む。 受 け て 之 を 誦 む に、 語 々   漆 翁 に 切 な り。 〕 」 と い う 識 語 が 付 さ れ て い る。 こ の 時 期、 鑑 海 と 城 南 が 同 席 し た と 考 え ら れ る 最 も 早 い 機 会 は、 筆 者 が 収 集 し た 資 料 の 範 囲 で 言 え ば、 千 載 社 の 会 合 で あ る。 鑑 海 は 初 め て 王 治 本 に 会 う の に、 あ ら か じ め 詩 を 書 い た 短 冊 を 持 参 し て、 王 に 見 せ る 前 に 城 南 に 見 せ た の で あろうか。 さ て、 こ の 出 会 い を き っ か け と し て、 鑑 海 は 王 治 本 を 天 名 村 の 自 宅 に 招 い た よ う で あ る。 そ の こ と が『 扶 桑 』 四 月 三 日 所 載 の、 王 治 本 が 四 六 駢 儷 体 で 鑑 海 の 山 房 の 様 子 と 訪 問 の い き さ つ を 述 べ た「 霧 縠 山 房 記 」 に よ っ て 知 ら れ る。 こ の 文 章 の 後 半 で、 王 治 本 は「 偶 た ま 鴛 渡 に 来 り て 奇 を 探 れ る に、 適 た ま 鷗 楼   社 を 啓 く に 値 」 い、 そ こ へ 貴 兄 ( 鑑 海 ) が 遠 路 は る ば る 参 会 し、 「 先 ず 佳 句 を 携 え て 以 て 盟 を 通 じ 」 た う え で、 私 の 訪 問 を 慫 慂 し て く れ、 そ こ で 吉 日 を 選 ん で 訪れ、三日間滞在した旨記している 38 四 月 二 十 七 日 の『 扶 桑 』 に は 鑑 海 の 詩 が 四 首 掲 載 さ れ て い る が、

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そ の 二 つ 目 の「 王 漆 園 先 生 見 訪 余 於 玉 山 堂、 賦 此 索 高 和 」 と 題 す る 五 律 ( 韻 字 は「 庭、 青、 霊、 冥 」) は、 王 の 霧 縠 山 房 滞 在 時 の 作 と 考 え ら れ る。 た だ、 こ れ に「 高 和 」 し た 王 の 原 作 は ど の よ う な も の か 不 明 で あ る。 三 つ 目 の、 「 堪、 憨、 籃、 諳、 探 」 を 韻 字 と し「 次 王 漆 園先生韵」と題する七律と、 四つ目の「詩、 奇、 時」を韻字とし「又 次 王 漆 園 先 生 韵 」 と 題 す る 七 絶 も、 こ の 三 日 間 の 作 で あ る 可 能 性 が あるが、これまた次韻の対象となった王の原作は不明である。 ところで、 三つ目の作に対しては、 さらにこれに 「畳韻」 した王の、 「仍畳覃韵、 別鑑海詞兄」と題する、 次のような作が五月二日の『扶 桑』に掲載されている。 満腔別恨我何堪    満腔の別恨   我   何ぞ堪えん (一句省略) 高閣留題容掃石    高閣に留題す   容に石を掃うべく (一句省略) 人生離合原非偶    人生の離合は 原 もと 偶たまに非ず 客路塵埃久已諳    客路の塵埃   久しく已に 諳 しりつく せり 分手復将申一約    手を分かつに復た将に一約を申べんとす 藍亭他日冀同探    藍亭   他日   冀くは同に 探 たず ねん 後 述 す る 通 り、 鑑 海 は こ の 後、 松 阪 で も 王 治 本 と 行 動 を 共 に し た ようであるが、 この詩に詠まれているのは、 第三句の「掃石」が「謂 清 掃 山 中 場 地。 多 指 修 身 養 生 者 的 居 処 」 と 説 明 さ れ る 語 で あ る 39 か ら 見 て、 霧 縠 山 房 滞 在 後 の 別 れ で あ ろ う。 な お、 末 句 に 詠 ま れ て い る 二 人 連 れ 立 っ て の 藍 亭 訪 問 は、 次 章 で 取 り 上 げ る 四 月 十 五 日 の 佩 蘭 吟 社 例 会 へ の 参 加 を 言 う も の と 考 え ら れ る 40。 な お、 こ の 覃 韻 は、この後何度か次韻の対象となっていく。 四 月 二 十 七 日 の『 扶 桑 』 掲 載 の 鑑 海 の 一 つ 目 の 詩 は、 「 訪 王 漆 園 先 生 於 聴 潮 舘 卒 賦、 兼 寄 懐 服 担 風 詞 宗 畳 韵 」 と い う 題 で、 詩 形・ 韻 字・ 詠 ま れ た 場 所 の い ず れ も、 上 記 の 三 月 二 十 九 日 の『 伊 勢 』 文 苑 所 載 の「 津 城 聴 潮 舘、 贈 呈 王 漆 園 先 生 大 人、 即 乞 正 句 」 と 同 じ な の で、 同 日 の 作 で あ る 可 能 性 が 高 い が、 後 日 再 び 聴 潮 館 で の 出 会 い が あった可能性も排除できないため、保留にしておきたい。 ㈣王治本への送別 王 治 本 は 四 月 の 初 め ご ろ 津 か ら 松 阪 へ と 移 動 し た も の と 見 ら れ る が、 四 月 五 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に「 送 漆 園 王 先 生 大 ● 南 游 」 と 題 す る 茅 原 白 堂 の 七 言 二 十 句 の 作 品 が 掲 載 さ れ て い る。 判 読 し が た い 文 字 が多いため引用しないが、 王治本の滞在中、 十分な世話ができなかっ た こ と を わ び る と と も に、 津 に お け る 彼 の 吟 詠 活 動 の 旺 盛 さ を 賛 美 する内容である。 ま た、 四 月 九 日 の 同 紙 文 苑 に は、 次 の よ う な 馬 場 城 南 の「 呈 王 漆 園先生書」が掲載されている。 驥 頓 首 謹 白 漆 園 王 先 生 座 前。 驥 不 敏 自 幼 有 志 於 文 章。 然 賦 性 愚 柔、 既不克窺其精蘊、 又因家伝医業、 未免分心旁務以致碌々至今、 不能稍有樹立。思欲出而就正、 更苦地僻乏賢師益友、 窃自憾焉。 不 図 今 者 値 先 生 来 遊、 始 獲 拝 芝 眉。 又 幸 先 生 和 藹 可 親。 乃 得 ● 夕過訪、 聞所未聞、 識所未識。時或追陪杖 屨 、 (中略) 旬日之間、 獲 受 啓 発 之 益 者 、 洵 不 浅 矣 。 驥 之 喜 可 知 也 。 抑 先 生 之 臨 弊 邑 、

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僅 々 二 十 餘 日、 其 所 得 既 如 此。 仮 令 先 生 留 吾 土 半 年、 或 一 二 年、 則 其 所 得 之 益 当 復 何 如 哉。 因 思 吾 人 欲 専 攻 漢 学、 非 親 就 華 人 受 業 不 可。 ( 中 略 ) 師 与 弟 言 語 不 通、 其 於 講 習 間、 猶 慮 不 得 其 解。 乃 得 博 学 能 文、 志 気 恢 宏、 善 通 倭 語、 如 先 生 ( 中 略 ) 、 然 後 始 可 無 此 歎 矣。 况 ● 生 寓 吾 邦 三 十 餘 年、 足 跡 殆 遍 于 海 内、 洞 悉 吾 邦 之 情 勢、 歴 々 如 指 掌、 非 復 尋 常 華 人 匹 也。 則 驥 之 所 願 従 遊 者、 捨先生無● 41求也。 独憾先生帰期太促、 未及深叩底蘊。 嗚呼、 先 生 弗 能 留、 驥 弗 能 従、 是 誠 未 如 之 何 也。 乃 瀝 叙 愚 悃、 以 訴 于 先生。 〔 驥   頓 首 し 謹 み て 漆 園 王 先 生 の 座 前 に 白 す。 驥   不 敏 な る も 幼 き と き よ り 文 章 に 志 有 り。 然 れ ど も 賦 性 愚 柔 に し て、 既 に 其 の 精 蘊 を 窺 う 克 あた わ ず、 又   家 伝 の 医 業 に 因 り、 未 だ 心 を 旁 務 に 分 か つ を 免 れ ず、 以 て 碌 々 と し て 今 に 至 る を 致 し、 稍 いささか も 樹 立 す る 有 る 能 わ ず。 出 で て 正 に 就 か ん こ と を 思 い 欲 す る も、 更 に 地 僻 に し て 賢 師 益 友 乏 し き に 苦 し み、 窃 か に 自 ら 憾 み た り き。 図 ら ざ り き 今 い 者 ま 先 生 来 遊 す る に 値 い、 始 め て 芝 眉 を 拝 す る を 獲 ん と は。 又 幸 い に 先 生 は 和 藹 に し て 親 し む 可 し。 乃 ち ● 夕 過 訪 し、 未 だ 聞 か ざ る 所 を 聞 き、 未 だ 識 ら ざ る 所 を 識 る を 得 た り。 時 に 或 は 杖 屨 に 追 陪 し、 ( 中 略 ) 旬 日 の 間、 啓 発 の 益 を 受 く る を 獲 た る こ と、 洵 に 浅 か ら ず。 驥 の 喜 び 知 る 可 け ん。 抑 そ も 先 生 の 弊 邑 に 臨 む、 僅 々 二 十 餘 日 に し て、 其 の 得 た る 所   既 に 此 く の 如 し。 仮 に 先 生 を し て 吾 が 土 に 留 ま る こ と 半 年、 或 は 一 二 年 な ら し め ば、 則 ち 其 の 得 ん 所 の 益 は 当 に 復 た 何 如 な る べ け ん や。 因 り て 思 う   吾 人   漢 学 を 専 攻 せ ん と 欲 せ ば、 親 し く 華 人 に 就 き て 業 を 受 く る に 非 ず ん ば 不 可 な り。 ( 中 略 ) 師 と 弟 と 言 語   通 ぜ ず ん ば、 其 の 講 習 の 間 に 於 け る、 猶 お 其 の 解 を 得 ざ ら ん こ と を 慮 る。 乃 ち 博 学 能 文、 志 気 恢 宏 に し て、 善 く 倭 語 に 通 ず る こ と、 先 生 の 如 き を 得 て( 中 略 )、 然 る 後 に 始 め て 此 の 歎 き 無 か る 可 し。 况 や ● 生 は 吾 が 邦 に 寓 す る こ と 三 十 餘 年、 足 跡 殆 ど 海 内 に 遍 く、 吾 が 邦 の 情 勢 を 洞 悉 す る こ と、 歴 々 と し て 掌 を 指 す が 如 く、 復 た 尋 常 な る 華 人 の 匹 に 非 ざ る な り。 則 ち 驥 の 従 遊 せ ん こ と を 願 う 所 の 者 は、 先 生 を 捨 き て ● に 求 む る 無 き な り。 独 り 憾 む   先 生   帰 期   太 だ 促 り、 未 だ 深 く 底 蘊 を 叩 く に 及 ば ざ る を。 あ あ、 先 生   留 ま る 能 わ ず、 驥   従 う 能 わ ず、 是 れ 誠 に 未 だ之を如何ともせざるなり。乃ち愚悃を瀝叙し、以て先生に訴う。 〕    三、松阪移動後の事ども ㈠佩蘭吟社四月例会への参加 四 月 の 初 め か ら 松 阪 に 滞 在 し て い た 王 治 本 は、 四 月 十 五 日 に は、 桑 名 ま で 足 を 延 ば し、 佩 蘭 吟 社 の 例 会 に 参 加 し た。 佩 蘭 吟 社 は、 言 う ま で も な く 担 風 が 三 十 八 年 以 来 主 宰 し て い た 吟 社 で、 そ の 例 会 が 毎 月 一 回、 第 三 日 曜 に 桑 名 の 愛 宕 楼 で 催 さ れ た 42。 愛 宕 楼 は「 桑 名 市 街 を 一 望 で き る 景 勝 地 」 で あ る 愛 宕 山 に あ っ た 料 理 屋 で、 呑 景 楼 と も 称 さ れ た 43 こ の 時 の 例 会 の こ と が 四 月 十 九 日 の『 扶 桑 』 の 記 事に見える。文中の「阿誰児」は「あたご」である。 佩 蘭 雅 集     去 十 五 日 三 重 県 桑 名 町 阿 誰 児 楼 に 開 筵 し た る 佩 蘭 丙 午 第 四 集 は 花 期 の 方 に 爛 漫 た る と 天 気 の 殊 に 晴 朗 な り し が 為 め 出 席 者 十 五 名 の 多 き に 及 び 例 に 依 て 詩 酒 徴 逐 の 盛 を 極 め た り 此 日 清 国 の 老 儒 王 治 本 は 特 に 南 勢 松 阪 よ り 来 会 し 次 韵 聯 句 等 の数に加はりしを以て一層吟興を酣王 44ならしめき

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この時できあがった聯句は次のようなものであった。 旧雨今雨遇亦奇   旧雨   今雨   遇うは亦奇なり 服部担風 対此煙景可無詩   此 の 煙 景 に 対 し   詩 無 か る 可 け ん や 田端鑑海 詞壇月旦主推誰   詞壇の月旦   主   誰をか推さん 尾形雪江   (詩句省略) 西塚臥山 東風満眼看花宜   東風   眼に満ち   花を看るに宜し   伊藤半橋 山楼促坐阿誰児   山 楼   促 坐 〔 詰 め 合 わ せ て 座 る 〕 す る は   阿   れ 誰 児 ぞ 木下高歩 一人人傾一酒巵   一人人   傾く   一酒巵 加藤月村 千言立就孰白眉   千言   立ちどころに就る   孰か白眉ぞ 近藤井田 香雲匝 匼 夕陽遅   香雲   匝 匼 〔めぐり重なる〕 して   夕陽   遅し 沢田鉄春 養花天気不多時   養花の天気は多時ならず 高島鷹洲   (詩句省略) 逵   雅堂   (詩句省略) 立松晴濤 禅榻何必擬牧之 45禅榻   何ぞ必ずしも牧之を擬せん   釈   種月     (詩句省略) 江間蘇洞 狂遊自笑老成痴   狂 遊   自 ら 笑 う   老 い て 痴 と 成 る を   王   漆園 こ こ で 出 て き た 人 物 に つ い て、 筆 者 が 探 索 し て 分 か っ た 事 柄 を 簡 単 に 紹 介 し て お こ う。 尾 形 雪 江 ( 一 八 六 七 ~ 一 九 三 五 以 後?) は、 名 は 善 忠、 肥 前 南 多 久 ( 佐 賀 県 ) の 生 ま れ。 三 十 八 年 秋 に 官 吏 と し て 三 重 県 に 来 任、 四 十 年 夏、 大 分 県 下 毛 郡 長 に 転 任 し た。 そ の 後、 郷 里 に 戻 っ た よ う で あ る が、 桑 名 の 秋 山 豪 山 ( 一 八 四 九 ~ 一 九 二 九 ) に 師 事 し、 以 後 も 少 な く と も 一 九 三 五 年 こ ろ ま で は 西 塚 臥 山 主 宰 の 名 古 屋 の 含 笑 吟 社 の 同 人 で あ っ た 46 西 塚 臥 山 (?~ 一 九 三 九?) は、 桑 名 の 人。 中 年 名 古 屋 に 移 居 し 清 新 吟 社 を 創 設。 担 風 四 天 王 の 一 人 47 な お、 そ の 没 年 は、 『 担 風 詩 集 』 巻 六 所 収 の 昭 和 十 四 年 四 月 二 日 ~ 十 六 日 の 間 に 詠 ま れ た と 見 ら れ る 作 に「 輓 西 塚 臥 山 」 と 題 す る も の が あ り、 「 桑 北 旧 盟 今 有 誰、 柳 城 詞 坫 久 扶 持。 最 思 四 十 年 前 跡、 揮 剣 豪 吟 酔 舞 時 」 と 詠 ま れ て い る こ と か ら 推 測 し た。 伊 藤 半 橋 ( 勝 ) は『 大 正 三 重 雅 人 史 』 の 叙 述 に よ り、 桑 名 郡 の 詩 書 家 と い う ことのみ知られる 48。木下高歩 (文吾) は、 西塚臥山著作兼発行『含 笑 吟 社 同 人 集   甲 子 』 ( 一 九 二 四 年 ) 所 収「 含 笑 吟 社 列 名 」 ( 大 正 十 三 年 五 月 現 在 ) に「 名 古 屋 市 東 区 石 神 堂 町 六 五 」 在 住 と し て 載 っ て い る 人 物 で あ る 可 能 性 が あ る 49。 加 藤 月 村 (?~ 一 九 二 九?) は、 名 は 龍、 永 和 村 大 井 ( 現 愛 西 市 ) の 人。 郡 書 記 を 業 と し た。 担 風 四 天 王 の 一 人 50 な お、 そ の 没 年 は、 『 担 風 詩 集 』 巻 三 所 収 の 昭 和 四 年 の 作 に「 哭 月 村 老 人 〔 一 月 十 七 日 〕 」 と 題 す る も の が あ る こ と か ら 推 測 し た 51 近 藤 井 田 は、 そ の 名 は 精 一。 『 扶 桑 』 一 月 六 日 な ど に そ の 作品が掲載されている。沢田鉄春 (易) は、 『頴才新誌』 や 『教育報知』 に漢文訓読体の和文や漢詩の作品が散見する。そのうち 『頴才新誌』 第千四十四号 (三十年十月十六日) に載る漢文訓読体の和文 「遭難」 は、 三 十 年 九 月 三 十 日、 木 曾 川 の 堤 防 が 決 壊 し た 時 の 体 験 を 述 べ た も の で あ る が、 そ の 行 文 に よ り、 当 時、 中 島 郡 野 崎 村 ( 現 稲 沢 市 の 南 部 ) に 住 ん で い た こ と、 生 家 が 海 西 郡 開 治 村 ( 現 愛 西 市 の 北 部 ) で あ っ た こと、 当時、 妻と幼児があったことなどが知られる。 「含笑吟社列名」 ( 大 正 十 三 年 五 月 現 在 ) で は、 尾 張 国 中 島 郡 千 代 田 村 在 住。 高 島 鷹 洲

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( 一 八 六 八?~ 一 九 三 六 ) は、 桑 名 郡 桑 名 町 生 ま れ で、 一 九 二 〇 年 か ら 一 九 二 九 年 ま で 旧 制 富 田 中 学 校 ( 現 四 日 市 高 校 ) の 漢 文 教 師 52 辻 雅 堂 (?~ 一 九 四 五 ) 、 名 は 致 民、 通 称 は 市 次 郎、 桑 名 の 出 身、 三 重 師 範 学 校 を 卒 業、 教 職 に 従 事。 「 明 治 卅 三 年 初 め て 担 風 先 生( 于 時 卅 四才)の門に入り、 詞才卓異、 当時同学の秀才田端鑑海、 加藤月村、 立松晴濤諸士と並んで門下の四天王と称せられた」 53。立松晴濤は、 名 は 英 一、 永 和 村 大 野 ( 現 愛 西 市 ) の 人。 妻 は 担 風 の 妹 で、 姉 は 担 風 の 夫 人。 担 風 四 天 王 と 称 さ れ る う ち の 一 人 だ っ た 54 な お、 『 担 風 詩 集 』 巻 七 所 収 の 昭 和 十 八 年 の 作 に そ の 名 が 出 て 来 る こ と か ら、 少 な く と も 一 九 四 三 年 ま で は 生 存 し て い た こ と が 分 か る。 種 月 山 田 典 明 は、 八 月 十 五 日 の『 伊 勢 』 に「 夢 庵   釈 典 明 」 の 名 で そ の 作 品 が掲載されている人物であろう。担風の門人 55。江間蘇洞 (一八五一 ~ 一 九 一 六 ) は、 も と 伊 勢 桑 名 藩 士。 名 は 政 発。 些 亭、 ま た 蘇 洞 と も 号 し た。 明 治 維 新 後 は「 身 を 軍 籍 に 投 じ 」 た が、 二 十 七 年 以 後、 徳 川 慶 喜 伝 の「 編 纂 所 に 入 り て 記 料 蒐 集 を 担 任 」 す る 等 の こ と を し ていたという 56 『 扶 桑 』 五 月 九 日 所 載 の 田 端 鑑 海 の「 佩 蘭 雅 集 席 間 次 漆 園 先 生 韵 」 詩 は、 そ の 掲 載 日 か ら 見 て、 こ の 時 の 例 会 で 詠 ま れ た も の で あ り、 「 除、 如、 餘、 廬、 車 」 を 韻 字 と し て い る。 他 に、 尾 形 雪 江 の「 北 勢 佩 蘭 会 席 上、 次 清 儒 王 漆 園 見 似 詩 韻 」 詩 57と、 西 塚 臥 山 の「 佩 蘭 雅 集 席 上 次 王 園 韻 」 詩 58も、 韻 字 を 同 じ く す る か ら、 こ の 時 の 作 と 考 え ら れ る。 王 治 本 の 原 作 が ど の よ う な も の で あ っ た か は 不 明 で あるが、 その後、 六月二十四日の『伊勢』文苑所載の加藤月村の「鑑 海 兄 見 恵 甌 北 詩 鈔、 賦 長 律 一 篇 言 謝、 用 漆 園 翁 佩 蘭 会 席 上 詩 韻 」 と 題 す る 作 や、 六 月 二 十 三 日 の『 新 愛 知 』 ( 名 古 屋 発 行 の 新 聞 ) 詞 林 所 載 の 服 部 担 風 の「 偶 憶 柳 城 旧 事 59、 有 感 賦 此、 七 畳 王 漆 園 翁 詩 韵 」 と題する作でも、次韻の対象となっている。 ま た、 五 月 十 九 日 の『 伊 勢 』 に 載 る 臥 山 の「 九 華 阿 誰 児 楼 佩 蘭 会 雅 集 席 上 即 賦 」 と 題 す る 作 ( 韻 字 は「 何、 河、 波、 歌、 多 」) も、 王 治 本 と 担 風 の 評 も 付 さ れ て い る こ と も あ り、 こ の 例 会 で 詠 ま れ た も の であることが知られる。 ㈡山田での招待会 松 阪 滞 在 中、 王 治 本 は、 山 田 の 名 士 た ち に も 招 か れ、 二 十 一 日、 山田の与可楼 60で「雅筵」 が開かれた。 その時の様子が二十五日の 『伊 勢』に「王治本翁招待会」との見出しの下、 山 田 置 塩 藤 四 郎、 増 井 久 之 助 諸 氏 主 催 と な り 松 坂 山 川 ホ テ ル 滞 在 中 な り し 清 国 碩 儒 王 治 本 翁 を 招 待 し 二 十 一 日 午 後 与 可 楼 に 於 て雅筵を開く会集の主なる者、 桑原芳樹、 江口襄、 満岡勇之助、 安 井 正 道、 杉 浦 楠 彌、 近 藤 静 堂、 中 森 儀 兵 衛、 古 森 松 太 郎、 木 造 直 樹、 御 巫 清 白、 角 谷 六 一、 小 川 三 右 衛 門、 阪 井 諸 氏 外、 数 十 家 に し て 席 上 吟 詠 揮 毫 合 作 あ り 北 廓 の 各 妓 酒 間 を 周 旋 し て 歓 興湧くが如く夜十二時散会したり と報じられ、 「席上の諸作中」いくつかが録されている。 ま ず 出 席 者 の 銘 々 が ど の よ う な 人 物 で あ っ た の か、 判 明 し て い る 限 り、 紹 介 す る こ と に し よ う。 置 塩 藤 四 郎 ( 一 八 五 五 ~ 一 九 二 八 ) は 駿 河 の 国 島 田 の 出 身 で、 棠 園 と 号 し、 幼 少 よ り 漢 学・ 国 学 を 学 び、 漢 詩・ 書 道 を 嗜 ん だ。 三 十 三 年 に 内 務 省 神 官 禰 宜 と し て 伊 勢 神 宮 に

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奉職し、 神宮皇學館講師を兼任した 61。『大正三重雅人史』 によれば、 「 山 田 に 至 り て は、 何 を い ふ て も 国 学 和 歌 の 地、 然 れ ど も 詩 書 家 决 し て 少 し と せ さ る 」 中 で、 彼 が「 最 も 詩 に 巧 み に し て 其 の 中 心 を 為 し 」 て い た と い う 62 そ し て 実 は、 こ れ よ り 二 十 四 年 前 の 十 五 年 六 月二日、 静岡県学務課、 兼衛生課勤務の身分であった二十七歳の時、 沓 くつのや 谷 村 の 蓮 永 寺 ( 現 静 岡 市 葵 区 ) で 開 か れ た、 当 時 東 海 道 を 西 へ 向 け て 旅 行 中 の 王 治 本 を 招 い て の「 雅 会 」 に、 静 岡 裁 判 所 勤 務 の 吉 岡 星 秋 ( 一 八 四 二 ~ 九 二 ) ら 二 十 数 名 の 人 士 と 共 に 出 席 し て い る 63 増 井 久 之 助 ( 一 八 五 八 ~ 一 九 一 九 頃 ) は「 幼 ニ シ テ 経 学 ヲ 修 メ 又 書 ヲ 松 田 雪 柯 ニ 学 ヒ 画 ヲ 古 法 ニ 就 キ テ 研 究 シ 書 画 共 ニ 造 詣 深 」 か っ た 64 桑 原芳樹 (一八六一~一九四三) は三十六年八月から四十三年三月の間、 第 五 代 神 宮 皇 學 館 長・ 神 宮 皇 學 館 大 學 長 を 務 め た 人 物 65。 江 口 襄 ( 一 八 五 四 ~?) は 三 十 七 年 に 日 本 赤 十 字 社 三 重 支 部 山 田 病 院 ( 山 田 赤 十 字 病 院、 度 会 郡 四 郷 村 ) の 初 代 院 長 に 就 任 し た 人 物。 満 岡 勇 之 助 ( 一 八 四 一 ~?) は 佐 賀 の 出 身 で あ る が、 十 二 年、 三 重 県 四 等 属 に 任 ぜ ら れ て 以 来 ず っ と 三 重 県 に 在 住 し、 三 十 二 年、 非 職 を 命 ぜ ら れ 同 日 従 六 位 に 叙 せ ら れ て 以 来、 「 大 広 の 下 を 永 住 の 地 と 定 め て 吟 花 嘯 月 の 間 に 閑 日 月 を 送 る の 傍 ら 力 を 神 苑 会 に 致 し 」、 「 学 識 豊 富 に し て 好 く 文 を 属 」 し、 「 郡 下 を 跋 渉 せ ば 到 る 所 氏 が 撰 文 の 碑 石 隆 々 と し て 屹 峙 す る を 見 」 た と い う 66。 中 森 儀 兵 衛 ( 一 八 七 一 ~?) は 一 志 町 の 運 送 業 者 で、 「 普 通 学 を 修 了 し て よ り 専 ら 家 業 に 勉 め 内 国 運 送 及 び 日 本 運 輸 株 式 会 社 の 事 を 執 り 又 参 宮 鉄 道 貨 物 運 輸 の 業 に 当 り て 最 も 隆 盛 を 極 」 め、 「 三 十 四 年 五 月 挙 ら れ て 町 会 議 員 と な 」 っ た 人 67 御 みかんなぎきよあきら 巫 清 白 ( 一 八 六 九 ~ 一 九 四 九 ) は 二 十 二 年、 神 宮 司 庁 に 出 仕 と し て 奉 職 し た こ と が 分 か っ て い る 68 角 谷 六 一 は、 『 書 道 』 ( 大 日 本 選 書 奨 励 会 ) 第 三 十 号 ( 三 十 七 年 ) 目 次 に「 神 代 文 字 考 」 の 著 者 と し て そ の 名 が 見 え る 69 と も に、 『 大 正 三 重 雅 人 史 』 で は 詩 界 の 人 物 と し て も そ の 名 が 記 さ れ て い る 70 小 川 三 右 衛 門 は、 『 神 都 名 家 集 』 に 立 項 さ れ て い る 小 川 三 左 衛 門 の 誤 り で あ る 可 能 性 が あ る。 も し そ う で あ れ ば、 一 八 八 〇 年 生 ま れ の 河 崎 町 の 酒 類 問 屋 で、 神 苑 会 創 設 の 発 起 者 の 一 人、 及 び 参 宮 鉄 道 の 発 起 者 の 一 人 と し て 尽 力 し た 父 宗 一 の 跡 を 継 い で「 家 運 倍 々 隆 盛 の 域 に 進 」 ま し め た 人 71。 阪 井 は 国 画 家 の 桜 岳 阪 井 泰 次 郎 ( 一 八 七 三 ~ 一 九 二 七 頃 ) で あ る 可 能 性 が 高 い。 阪 井 桜 岳 に つ い て『 大 正 三 重 雅 人 史 』 は、 三 重 郡 楠 村 ( 現 桑 名 市 長 島 町 北 部 ) に 生 ま れ、 「 幼 よ り 画 筆 を 好 み、 長 す る に 及 び て 自 習 休 ま ず。 遂 に 山 田 に 出 て、 磯 部 百 鱗 の 門 に 入 り 」、 「 県 下 在 住 国 画 派 一 方 の 祺 頭 に し て 水 谷 百 碩 と 共 に 北 勢 画 壇 の 振 興 者 を 以 て 任 じ 居 れ り 」 と 紹 介している 72。その他の人物は不明である。 さて、 『伊勢』の当該記事にいわゆる「席上の諸作」の筆頭は、 「王 先 生 を 迎 へ ま つ り て 」 と し て 詠 ま れ た 桑 原 芳 樹 の 和 歌「 今 日 こ ゝ に 大和男子も君がため心の花を咲かせけるかな」 で、 次が王治本の 「丙 午 暮 春、 辱 承 山 田 諸 君、 招 飲 於 与 可 楼、 酒 間 戯 賦 二 絶、 以 博 諸 君 一 粲」と題する次の二首である。 一座賓朋旧与新    一座の賓朋   旧と新と   可觴可詠最怡神    觴す可く   詠む可く   最も神を怡ばしむ 楼前煙景無窮美    楼前の煙景   無窮に美しく 山翠旭紅皆可人    山は翠に   旭は紅にして   皆   人に 可 かな う 可与吟秋可賞春    与に秋を吟ず可く   春を賞す可し

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神山当戸咲相迎    神山   戸に当たり   咲 わら いて相迎う 借将与可当年画    与可   当年の画を借れば 好把斯楼作写真    斯の楼を把て   写真と作すに好し そ れ ぞ れ 末 尾 に「 楼 一 名 旭 紅 山 翠 舘 」、 「 文 与 可 為 宋 代 画 宗 」 と の 自 注 が 添 え ら れ て い る。 第 一 首 に 言 う「 賓 朋 」 の 旧 な る 者 の 一 人 は 置 塩 藤 四 郎 で あ る こ と、 言 う ま で も な い。 こ の 二 首 の 後 に 雨 村 阪 口 欽の「山田諸賢招邀王漆園先生于同地与可楼。先生有詩、 席上次韵」 と題する二首が続くが、其の二のみを引用することにする。 招筵忽又餞残春    招筵   忽ち又   残春に餞す 頼有群公倒屐迎    頼に群公の屐を倒にして迎うる有り 只喜詞葩開爛漫    只喜ぶ   詞葩   開きて   爛漫たり 一宵清話見天真    一宵の清話   天真を見るを 阪 (坂) 口雨村 (一八八〇~一九二七) は、 『大正三重雅人史』 によれば、 松 阪 生 ま れ の「 詩 書 家   南 画 家 」 で、 「 詩 書 画 三 通 を 以 て 其 名 清 韓 に鳴」り、 「毎に支那朝鮮に遠遊し、 彼我文儒と交るを道楽と為」し、 「最も故人 玉 ママ 治本と交り厚かりしが、 玉 ママ 治本生前雨邨の詩を評し「清 新雋逸」の四大文字を書し贈」ったという 73 な お、 「 席 上 の 諸 作 」 に は も う 一 首、 王 治 本 の 五 律「 題 与 可 楼 」 がある。 ㈢その他 と こ ろ で、 五 月 十 一 日 の『 扶 桑 』 に 田 端 鑑 海 の 作 が 二 首 載 っ て い るが、その二首目をここで取り上げてみたい。    松阪公園観桜、同漆園先生賦 偶訪蒲城勝    偶たま訪う   蒲城 〔松阪城のこと〕 の勝 已看芳事闌    已に看たり   芳事 〔春の楽しさ〕 闌 つ きたるを 酒能添興易    酒   能く興を添うるは易く 詩得愜心難    詩   心に愜うを得るは難し 飛蝶恋餘馥    飛蝶   餘馥を恋い 落花生嫩寒    落花   嫩寒   生ず 鐘声如送我    鐘声   我を送るが如し 林外夕陽残    林外   夕陽   残す 鑑 海 も こ の こ ろ 松 阪 を 訪 れ た こ と が 分 か る が、 そ の 時 期 が、 詩 に 歌 わ れ て い る よ う に、 桜 の 散 っ た 後 と い う こ と に な る と、 山 田 の 与 可 楼 で「 王 治 本 翁 招 待 会 」 が 開 か れ た 四 月 二 十 一 日 ご ろ と 見 る の が 自 然 な よ う に 思 わ れ る。 こ の 会 の 前 か ら 王 治 本 は 松 阪 に 滞 在 し て い た か ら、 と な る と 桑 名 で 佩 蘭 吟 社 の 例 会 が 開 か れ た 十 五 日 か ら の 隔 た り は、 ほ ん の 数 日 間 と い う こ と に な ろ う。 鑑 海 は 王 と 共 に 佩 蘭 吟 社 の 例 会 に 参 加 し た 後、 別 れ る こ と な く、 連 れ 立 っ て 松 阪 に や っ て き た と 見 る の が、 無 理 が な い よ う に 思 わ れ、 山 田 ま で 同 行 し た 可 能 性も排除できない。 このように考えてみるなら、 五月十一日の 『扶桑』 所 載 の 田 端 鑑 海 の 作 の 一 首 目 の「 答 雨 村 詞 兄、 即 次 漆 園 先 生 韵 」 と 題 す る 七 律 も、 松 阪 ま た は 山 田 で の 作 と 見 て い い か も し れ な い。 な お、 そ の 詩 は「 何、 波、 歌、 多、 哦 」 を 韻 字 と す る が、 王 の 原 作 は 不明である。

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と こ ろ で、 六 月 五 日 の『 伊 勢 』 文 苑 所 載 の 谷 城 東 の「 丙 午 春 仲、 次 彭 翁 先 生 聴 潮 楼 雅 集 詩 韻、 和 白 雲 上 人 」 と 題 す る 作 (「 彭 」 は「 」 の 誤 り と 思 わ れ る ) は、 「 神 」「 新 」「 因 」 を 韻 字 と し て い る こ と か ら、 前 掲 の 千 載 社 で の 王 治 本 の 作 に 次 韻 し た も の と 考 え ら れ る。 と こ ろ が、 末 尾 に 附 さ れ た 王 治 本 の 評 語 が「 弟 王 治 本 読 於 松 坂 旅 舎 」 と い う 言 葉 で 締 め く く ら れ て い る 点 で、 一 考 を 要 す る。 こ の 点 に つ き 若 干の考察を試みたい。 谷 城 東 ( 一 八 五 二 ~ 一 九 二 六 ) は、 『 三 重 先 賢 伝 』 に よ れ ば、 松 阪 の 生 ま れ で、 長 年 の 教 職 を 辞 し た 後、 「 爾 来 優 遊 文 墨 ニ 親 ミ シ カ 三 十 五 年 十 二 月 ニ 至 リ 再 ヒ 越 前 福 井 中 学 校 ニ 職 ヲ 奉 シ 尋 イ テ 同 地 商 業 学 校 ニ 転 」 じ た と い う 74。 こ の 年 の 九 月 十 七 日( 丙 午( 三 十 九 年 ) 春 仲 か ら は 若 干 の 隔 た り が あ る が ) の『 伊 勢 』 文 苑 に も 彼 の 作 品 が 掲 載 さ れ て お り、 そ れ に 対 す る 玉 山 堂 主 人 ( 田 端 観 海 ) の 評 語 に「 聞 君 在 南 越、 受 知 於 蘋 園 75 …」 と あ る こ と か ら、 こ の 間、 彼 は ず っ と 福井在住だったと見てよさそうである。 そうすると想像されるのは、 も と も と 千 載 社 の 同 人 か、 ま た は 同 社 と か か わ り の あ っ た 彼 の も と に 長 谷 部 白 雲 ( ま た は 他 の 同 人 ) か ら、 同 社 で の 王 治 本 と の 唱 和 の 作 が 郵 送 さ れ、 こ れ に 感 ず る と こ ろ の あ っ た 彼 が 次 韻 の 作 を 詠 み、 自 身 の 故 郷 に 滞 在 中 の 王 あ て 郵 送 し た と い う こ と で あ る。 城 東 の こ の 作 は 二 首 あ る が、 以 上 の よ う な 想 像 を 裏 付 け し て く れ る 内 容 の 其 の 二を引くことにしよう。 満堂倡和各伝神    満堂の倡和   各おの神を伝え 展写雪箋名氏新    雪箋を展写して   名氏   新たなり 翰墨風流随地在    翰墨   風流   地に随いて在り 越州孤客奈無因    越州の孤客   因無きを 奈 いかん せん な お、 王 治 本 の 南 勢 滞 在 に 関 係 す る 作 品 と し て、 『 扶 桑 』 五 月 十 五 日 に 加 藤 月 村 の「 呈 藍 亭 主 人、 兼 寄 漆 園 翁 在 南 勢、 次 其 見 似 主 人 韵 」 と 題 す る 七 律 も あ る。 韻 字 は「 除、 如、 餘、 廬、 車 」 で、 上 述 の 鑑 海 や 臥 山 ら の 作 と 同 一 で あ る。 そ の 作 が「 見 似 主 人 」 と 表 現 さ れ て い る こ と か ら、 王 の 原 作 は 担 風 へ の 贈 詩 で あ っ た こ と が 分 か る。    四、伊勢におけるその他の事柄 伊 勢 に お け る 王 治 本 と の 交 流 に 関 係 す る『 伊 勢 』 所 載 の 作 品 の 中 で、 筆 者 が 収 集 し た 資 料 だ け で は、 そ の 詠 詩 の 時 期 を 想 定 し に く い ものがいくつかあるので、それらを最後に取り上げておきたい。 一、 六 月 十 九 日 の『 伊 勢 』 文 苑 に 載 る 釈 吟 雨 の 二 作。 釈 吟 雨 は 明 野儀海 (一八六四~一九三三) のことで、 『大正三重雅人史』には「詩 書 家 ( 中 略 ) 河 藝 郡 天 名 村 大 字 御 薗 ( 中 略 ) 御 薗 天 台 宗 真 盛 派 誓 厳 寺 の 住 職 に し て 本 籍 又 茲 に 在 り。 ( 中 略 ) 佩 蘭 吟 社 に 加 盟 し、 別 に 田 端 鑑 海 と 謀 り 鵞 渓 吟 社 を 創 し 」 た と 説 明 さ れ て い る 76 で あ る。 鑑 海 と、 居住地も同じであり、 かなり密接にかかわったことが知られる。 一つ目は次のような作品である。    次漆園先生見贈瑤韻    釈吟雨   休笑蒲団坐未堪    笑 う 休 か れ   蒲 団   坐 す る も 未 だ 堪 え ざ る を 古来布袋本顚憨    古来   布袋は   本   顚憨 〔愚鈍〕 なり

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空龕参仏聞蓮漏    空 龕   仏 に 参 じ て 蓮 漏 〔 蓮 の 花 の 形 を し た 水 時 計 〕 を 聞 き 幽径逢仙借薬籃    幽径   仙に逢いて   薬籃を 借 か す 77   種竹風懐仍墨写    竹を種うる風懐は   仍お墨もて写き 拈華妙諦為詩諳    華 はな を 拈 ひね る 〔禅宗で以心伝心のたとえ〕 妙諦は           詩と為して諳ず 宿縁頼有同心友    宿縁   頼に同心の友有り 邱壑煙霞自在探    邱壑   煙霞   自在に探らん 題 に あ る 通 り、 王 治 本 か ら 贈 ら れ た 作 に 次 韻 し た も の。 韻 は 上 述 の 一 連 の 作 で 用 い ら れ て い る 覃 韻 で あ る。 初 め の 三 聯 で 自 身 の 僧 侶 と し て の 生 活 の 様 を 詠 み、 最 後 に 王 治 本 を「 同 心 友 」 と し て、 山 水 の美を自在に愛でようと呼びかけている。 もう一つは、次のような作品である。    書懐奉呈王漆園先生、次其白鷗楼題詩韻 江上春光客夢留    江上の春光   客夢を留め 酒醒孤坐夕陽楼    酒醒め   孤坐せん   夕陽楼 煙波難絵相思恨    煙波   絵き難し   相思の恨み 乱点落花凝不流    乱れ点ずる落花   凝りて流れず こ れ は 作 者 が 己 の 思 い を 詠 み 込 ん で 王 治 本 に 呈 上 し た も の で あ る が、 転 句 に 明 言 さ れ て い る 通 り、 王 に 面 会 し た い も の の 面 会 で き ぬ ま ま、 そ の 切 な い 気 持 ち を 詠 ん だ も の で あ る。 す な わ ち、 二 首 と も 「神交」 の作ということになる。なお、 二首目で次韻されているのは、 三 月 十 一 日、 長 谷 部 白 雲 が 会 主 と な っ て 催 さ れ た 聴 潮 館 で の 詩 宴 で 王 が 皮 切 り に 詠 ん だ 作 の 韻 で あ る。 こ の こ と か ら、 「 白 鷗 楼 」 と は、 聴潮館を指すことが推察される。 二、 七月八日 『伊勢』 文苑に載る種月山田典明の二作。一つは 「玉 山 堂 主 人 雅 集、 次 王 漆 園 先 生 覃 韻 呈 政 」 と 題 し、 田 端 鑑 海 宅 で 催 さ れた会で詠まれたものでる。上掲の釈吟雨の第一首と同韻である。 も う 一 つ は「 奉 呈 王 漆 園 先 生、 次 其 春 水 白 鷗 楼 ● 集、 与 鑑 海 詞 宗 唱 和 詩 韻 」 と 題 す る も の で あ る。 次 韻 の 対 象 と な っ て い る 王・ 鑑 海 唱 和 詩 の 片 方 は、 千 載 社 の 会 合 で 詠 ま れ た と 思 し き、 三 月 二 十 九 日 の『 伊 勢 』 文 苑 所 載 の 鑑 海 の「 津 城 聴 潮 舘、 贈 呈 王 漆 園 先 生 大 人、 即 乞 正 句 」 詩 で あ る。 だ と す れ ば、 「( 春 水 ) 白 鷗 楼 」 と は、 や は り 聴潮館を指すものだったことになる。 なお、 『新愛知』 五月三十一日の 「詞林」 に春塘岩脇高なる人の 「津 城聴潮舘呈王漆園兼政」と題する五律が掲載されているが、 これも、 詠詩の時期は不明である。 (以下、次号) (しばた・きよつぐ   本学教授)     注 1 さねとうけいしゅう 「王治本の日本漫遊」 (同氏 『近代日中交渉史話』 所収、 春秋社、一九七三年)二一三~二二三頁、二三二頁。 2 王は少なくとも明治十五年にも一度、名古屋を訪れている。その時のこと については拙稿「明治十五年   王治本の旅と詩文交流―旅立ちから東海道 を経て越前滞在まで―」 (本誌第八十号、二〇一六年)二十八、 二十九頁に 述べた。 3 『明治の名古屋人』 (名古屋市教育委員会、 一九六九年)二五八~二五九頁。

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