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ベルクソンの哲学体系と生の歴程-『道徳と宗教の二源泉』における「哲学の方途」と「交差の方途」-

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(1)いのち. ベルクソンの哲学体系と 生 の歴程 -『道徳と宗教の二源泉』における「哲学の方途」と「交差の方途」- 宮崎. 隆. Le système philosophique et l’histoire vitale de Bergson, « la méthode philosophique » et « la méthode de recoupement » dans Les deux sources de la morale et de la religion Takashi MIYAZAKI ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』(以下『二源泉』と略)において「方向 direction 」(ある いは場合によっては「方面 sens 」)という語を頻繁に用いる。何故か。ベルクソンの提唱する「哲 、、 学の方途 la méthode philosophique」(DS,272)(1)-ベルクソンの哲学体系における「方途」― 、、 、、、 をもってしては進むべき途を事実に即して実地に踏破することができないからである。哲学には経 、、 験される事実という限界がある。しかるにそうであるなら逆に、いかにして当の限界を超え出て「目 標」 (引用G)地点たる本来の目的―地球上の生物の目的-へと向かいうるのか。なるほど「神秘 いのち. 家」の教えがある。 「神秘説 mysticisme 」(2)によれば、目標地点は「愛」であろう。 「 生 の躍動 élan de vie 」は、帰するところ「愛の躍動 élan d’amour 」に包摂されるはずである(3)。 「愛」とは純粋 いのち. いのち. な 生 ― 生 の一元説―のことであろう。しかし「愛の躍動」の教えそれ自身は哲学的には未知で ある。単に教えを踏襲するだけなら事実の放棄であり、哲学の放棄となる。哲学者ベルクソンの最 後の主著の狙い目は、その狭間に存するのではなかろうか。事実という限界を突破する可能性の探 、、、 究である。すなわち、目的地を実地に踏破できずとも、進むべき「方向」は「哲学の方途」をもっ て提示されている。 「神秘説」と成らずとも、哲学体系の射程には―事実を超え出て―目的たる真 理への「方向」までが含まれる、と。逆に言うなら、アリストテレス以来の伝統となっている目的 説、既知の目的からなる目的説は放棄されねばならない (4) 。与えられるのは「真理への方向 la direction de la vérité のみである」 。『二源泉』によれば、 「われわれはかつて『様々な事実の諸線 lignes de faits 』という言葉を用いたが、その〔諸線 の〕どれもが十分に遠くにまで進まない elle [= chacune de ces lignes ] ne va pas assez loin 、、、、、、 がゆえに、その各々が提供するのは真理への方向のみである。それでもやはり、そうした諸線 、、、 、、 のうちの二線を、それが互いに交わる地点にまで繰り延 ばす prolonger deux entre elles jusqu’au point où elles se coupent なら、真理そのものに到り着くことになろう」(DS,263) -引用A。 「様々な事実の諸線」の語は、 「かつて……用いた」(5)と記されているように、『精神エネルギー』 いのち. 所収の論文「意識と 生 」からのベルクソンの自己引用であり、『二源泉』との間で文脈が異なる。 それぞれの文脈に応じてこの「二線」の「交わ」りたる交差に、その交点に二種が在り、二義的で ある。その相違に関しては小論の以下で少し触れる。が、いずれにせよ、引用Aに記されているよ うに、 『二源泉』における交点は人間に経験しうる「事実」ではない。実地には踏破できない。未知 である。では、当の未知なる目的たる「真理」に関して、いかにして「方向」を割り出し、そこに 向けて「線」を「繰り延ばす」ことができるのか。ベルクソン目的説はいかにして成立するのか。 55.

(2) 逆にまたその際、哲学の射程の限界はどこに存するのか。これが小論の問いである。「哲学の方途」 の進展の仕方が問題になる。 二つの対処法が思い浮かぶ。一つには、 「神秘家」に到る途上に道標を見つければよい。実例とい う具体的な見本である。ベルクソンはソクラテスを引いている(DS,59-62)(6)。いま一つには、 「類比 による推論 raisonnement par analogie 」 (ES,6)という途が、あるいは「類比」に準じる途が在 る。 「事実」という限界を超え出て進むべき「方向」を割り出す「哲学の方途」において、なかでも 『二源泉』の「交差の方途 méthode de recoupement 」(7)(DS,263)において、われわれはこの 〈疑似類比〉を見出すことになろう。哲学と「神秘説」との射程の相違が問題になる以上、 「神秘説」 、、、、、、、、、、 も「哲学の方途」との位置関係において検討されなければならない。 「方向」を問題にする小論にお いては、 哲学的な内実よりもむしろ、 「神秘家の経験 expérience mystique 」 (DS,101,261-4,266,270) 、、 いのち 、、 ―「愛の方向は 生 の躍動の方向そのものである」 (DS,249)―をも含め、諸々の事態の位置関係 に重点が置かれる。しかもそれは、 『二源泉』の扱う全圏域に及ぶ。圏域の全体は、ベルクソン一流 いのち. の 生 の歴史として『二源泉』において描出されている。われわれはその歴史を、事実なるものを扱 いのち. ういわゆる「歴史」と区別して、「歴程」と呼んでみたい。 生 の歴程は「神秘家の経験」をも含ん で、 「哲学の方途」よりも広い射程を有しており、哲学よりもいっそう広大な圏域に跨る。「事実」 を超え出て実地には踏破できぬ未知のものに向かう「哲学の方途」もその一部にすぎない。小論で いのち. は、ベルクソンの示唆するところに従って 生 の歴程全体に関する単純な図式を用いつつ、ベルクソ ンの提唱する「哲学の方途」の進展の仕方をいささかなりとも明らかにしてみたい。 その際小論においては、ベルクソンの哲学体系を前半部と後半部との二つに分けて考察を進める。 いのち. 生 の歴程における「事実」たる生物進化から、事実の圏内に存する高等脊椎動物(人類)の織り成 す 「 集 団 groupe 」 (DS,12,27,55-6,66,69,97,99,302, etc.) - 自 ら の 外 部 を 「 排 除 exclure (exclusion) 」 (DS,25,35, cf. 218)する「閉じている絆関係〔たる社会〕 la société close 」(8)- までを前半部とする。 「推論」を含みつつも人間の哲学的な「経験」たる「直観」の及ぶ範囲である。 前半部の知の基礎には、「直観」という「感性的経験」が、感性的直観たる情感が在る。「閉じてい いのち. る絆関係」については、 「意識と 生 」に言う「類比による推論」―あくまでも直観に基づく推論― 、、、 が成立する。事実の圏内である。後半部は神秘説に関わる『二源泉』固有の主張で、ベルクソン哲 学体系の最後の仕上げと解される。哲学的には「方向」だけが提示される。 「開かれている絆関係 la société ouverte 」を目差す途である。こちらについては哲学的な「直観」は成立せず、ソクラテス のごとき実例を除けば、哲学は直接にはもはや「推論」という手立てしか持ち合わせていない。 〈疑 似類比〉による推論であろう。 「人間なるものを超え出る la [=l’humanité] dépasser 」べく「人間 なるものよりもいっそう遠く」 (DS,28-9, cf. 35)を目差し、そこから立ち戻る途である。ベルクソ ン自身が、この前半部と後半部とにおける哲学の認識の仕方について一対の表現を用いている。た とえば「直観 l’intuition 」と「推論 la raisonnement 」 (DS,272)、 「感覚的・感性的経験 l’expérience sensible 」と「推論」 (DS,263)、あるいは単に「経験」と「推論」(DS,266,278)などである。 いのち. 一、 生 の歴程全体の概略と「哲学の方途」-「交差の方途」 、、 、、、、、、 「哲学の方途」の行き着くべき場は哲学には未知であり、人間には知りえぬ場である。別の論考 においてすでに記したことだが (9) 、「開かれている」ものとは、将に来らんとしている予見可能 56.

(3) prévisible 」な〈将来〉ではなく、そうではなくて、未だ来らざる「予見不可能. imprévisibilité 」. な〈未来〉のことである(DS,180, cf. 62,119,285)。ベルクソン自身は〈将来〉と〈未来〉との間の 用語上の区別を行ってはいないが(10)、 「人間なるものの〔〈未来〉たる〕将来はあくまでも未規定・ 未確定である l’avenir de l’humanité reste indéterminé 」 (DS,319)。引用Aにおける「真理その ものに到り着くことになろう on arrivera … à la vérité même 」という未来形が示すごとく、「真 理そのもの」は〈未来〉に存する。現存する真理の発見されるのが未来だというのではなく、人類 いのち. が真理に― 生 の歴程上―未だ到り着いておらず、したがって未だ現存していないという意味で 〈未来〉であり、 「事実」として未知である。 「真理」は-ヘーゲル思想の主張するところとは別の 意味で-生成する。それどころか、当の〈未来〉に存する「開かれている絆関係」は、人類の生物 =文化の世界―「想像的な再現表象 représentations imaginatives 」(DS,188)の世界―たる「閉 じている絆関係」を超え出た向こう側に在って、「おそらくは永久に現存することにならない n’existra peut-être jamais 」 (DS,97) 。永遠に未だ来らざる〈未来〉、極北に輝く「理念たる極限 une limite idéale 」(DS,85)である。「閉じている絆関係」は文化圏ごとに「閉じて」しまってお り、この「方向」は人類にとってはもはや行止りである(11)。本能にも似た習慣・慣習に根を張った 「絆関係」 、予見可能な〈将来〉の集団的な世界である(cf. DS,21)(12)。そうした〈将来〉は事実の 圏内であり、現在の持続の厚みに属する。「時間は実効力を欠く le temps étant … sans efficace 」 (DS,119)。その行止りを突破し、当の「理念」に到るには、生物進化を果たした人類ならぬ「新た な種の創造 la création d’une espèce nouvelle 」(DS,97, cf. 285)-再創造-が必要となる。そ いのち. いのち. れは物質性を欠いた純粋な 生 から成る種であろう。文字通り、 「 生 」と「物質性」とから成る二元 いのち. 的な「生-物」ではもはやない(13)。 「理念」たる目標地点は純粋な 生 の次元たることだろう。して みると『二源泉』は、生物としての人間なるもの(人類)に到る事実たる生物進化の次元を土台に しつつ、人間なるものにとって事実の圏内に留まる生物=文化の次元を描写し、さらにこの次元を超 いのち. いのち. え出た純粋な 生 の次元をもってその射程外を、事実の圏外を指し示している。 生 の歴程である。 いのち. ベルクソンの最後の主著に提示される 生 の歴程全体においては、こうした―生物進化の次元、生 いのち. 物=文化の次元(閉じている絆関係)、純粋な 生 の次元(開かれている絆関係)という―三つの次 元が層を成している(14)。しかるに哲学においては、そうした事実の圏外の知に関して問題が生じる わけである。事実の圏外に位置している「規格外の人々 les privilégiés 」 (DS,291, cf. 226)―規 格 lex を欠いている特例 privus ―たる「例外的な様々な人間 des hommes exceptionnels 」 (DS,29)とは「神秘家」-例外者-のことである。「人間なるものをして新たな種たらしめん」 (DS, 332)とするのが当の例外者である。してみると自ら「神秘家」という「新たな種」とならぬ かぎり、つまり単なる人類の一員たるかぎり、哲学者といえども、 「開かれている絆関係」それ自体 は予見不可能で知りえない。知られえぬかぎり〈未来〉は人類には目標地点にさえなりえない。哲 学と神秘説との間に在る知の射程の相違は大きい。 いのち. なるほど『二源泉』においては、「絆関係を宗とする 生 の方向 la direction de la vie sociale 」 が哲学と神秘説の両者を貫く。 「いかなる哲学に与するにせよ、人間というもの l’homme が生ける存在 un être vivant た いのち. ることを、 生 の進化発展 l’évolution de la vie が、その主たる二つの線上で sur ses deux いのち. principales lignes 、絆関係を宗とする 生 の方向において成就されてきたことをまさに承認せ 57.

(4) ざるをえない」 (DS,96)-引用B 「主たる二つの線」とは脊椎動物と蟻や蜂などの節足動物(膜翅目)への進化の流れであり(cf. いのち. DS,283,295)、そのかぎりで「 生 の進化発展」とは、いわゆる生物進化を意味している。これに対 いのち. いのち. して『二源泉』の主題は文字通り「 生 」の、しかも人間の「 生 」の進化発展であって、生物のそれ いのち. ではない。生物進化は「 生 の進化発展」の一環に組み込まれる。すなわち第一に、『二源泉』にお いては、節足動物についてはもはや積極的に論じられておらず、あくまでも人間の事実上の現在の 状態を、殊に習慣・慣習を、集団性を説明するために利用されているにすぎない( cf. 19-24,33いのち. 4,53,123,223, etc.)。問題になっているのは、人間における「絆関係を宗とする 生 の方向」である。 いのち. それどころか第二に、そうした生物進化の「方向」も、「 生 の進化発展」全体の「方向」のなかで 一貫して理解されなければならない。節足動物が「格落ち se dégrader 」 (DS,264)と評価される いのち. のも、いわゆる生物進化ではなく、そうではなくて「 生 の進化発展」が基準となっているからであ いのち. る(cf. DS,271-3) 。人間に到る脊椎動物の生物進化に始まり、 生 は最終的には「新たな種」を産み いのち. いのち. 出さんとする。言ってみれば「 生 」が主体である。人間は 生 に促され、神秘家に補助されて、 「新 たな種」を目差す。しかしながら、当の「新たな種」も、人間の側、哲学の側においては内実不明 いのち. の目的たる「理念」に留まる。哲学にはせいぜい「絆関係を宗とする 生 」のその「方向」が、その 「方途」が「指し示」されるのみで、当の「理念」は逃げ水のごとくに後退する。以下の引用Cは いのち. 「哲学の方途」と「 生 」との間のそうした射程の相違を表現している。 「讃嘆するに足る〔ストア派の〕賢者たちによって人々に単に示されたにすぎない一方の理念 メサージュ. と、愛を担い、愛を招来する音 信 となって放たれた世界を貫く他方の〔キリスト教の〕理念と は別ものである。もっとも実を言えば、後者〔の理念〕において問題なのはもはや、格率のか 、、 たちで全体として定式化可能な特定の知恵ではなかった。むしろ一つの方向 une direction が 、、 指示 indiquer され、一つの方途 une méthode がもたらされた。すなわち、指し示されたの 、、、、、、、、、、、、、 はせいぜい暫定的にすぎないような目的 tout au plus désignait-on une fin qui ne serait que 、、、、、、、、、、 provisoire である。この目的はそれゆえ、絶えず更新される努力を要請する」(15)(DS,78)- 引用C メサージュ. 神秘家自身には「絶えず更新される努力」は不要であろう。 「愛」の「音 信 」は「理念」ではなく、 じか. いのち. 神秘家には直に聴取されることだろう(16)。神秘家自身においては、 「 生 」の射程は「愛」にまで届 く(cf. DS,224-5) 。 「物質という障害 obstacles matériels 」は、そもそも「非現存 inexistant 」 なのである(DS,51) 。 「努力」が必要なのは、閉じている「絆関係の下にある魂 l’âme sociale 」に 対して、例外者ならぬ人間に対して、神秘家が「感応を与えて何かそうした〔愛といった〕魂の状 態を導き入れる induire … quelque chose de cet état d’âme 」(DS,78)際のことである。しかる に、あくまでも例外者ならぬ人間の側においては、 「哲学の方途」のうちに踏み留まるなら、当の「目 的」はどこまでも「暫定的にすぎない」。「指し示され」るのみである。与えらるのは「真理への方 向」 (引用A)のみである。 いのち. このように「哲学の方途」が「暫定的」たることについては、それを神秘説をも含んだ 生 の歴程 いのち. 全体のうちに置くことによって見通しが与えられるだろう。生 の歴程を順次辿るならそれは、地球 58.

(5) いのち. 上で 生 が物質性と出会って原-生物を形成し、人間なるものへと向かう脊椎動物の生物進化の次元 いのち. いのち. において物質性― 生 たる精神性の否定―の認識を本分とする知性が 生 の認識を本分とする直観 (本能)から「乖離 écart 」 (以下の引用G)した後、そうした人間なるものが生物=文化の次元に いのち. おける「閉じている絆関係」を超え出て、終局において純粋な 生 の次元における「開かれている絆 いのち. 関係」へと向かい、 生 の「単一性へと帰還 retour à la simplicité 」 (DS,319,320, cf. 338)せんと いのち. イ ス ト ワ ー ル. いのち. いのち. する 生 の歴史物語である。「単一性」とは物質性なき純粋な 生 のことであり、純粋な 生 から成る いのち. 「新たな種」が再創造される(17)。 「愛の躍動」を礎とする「絆関係」が現出する。こうした 生 の歴 程の全貌を一望の下に収めるべく、いささか単純にすぎる一つの図式(以下〈歴程図〉と呼ぶ)を -次元の異なるものを一つの図式に収めることに無理があるのを承知の上で、こうした図式化に 頼る危険を覚悟しつつ-提示してみたい。倒立させた二等辺三角形の上にそれと合同の正立させ た二等辺三角形を置いてできる菱形-後に微修正を加えることになるが、ベルクソンの提示する 三次元の「螺旋形の運動 mouvement en spirale 」(DS,311)の一周期(格子一つ)を簡易化して 二次元の平面上に投影した菱形-を思い描いてみよう。 いのち. 小論では、〈歴程図〉を用いてまず 生 の歴程全体を概観し、しかる後に当の歴程において「哲学 いのち. いのち. の方途」を少し検討してみたい。互いに単独で純粋な 生 ― 生 の歴程開始以前の「理論的には本源・ 起源に実在しなければならないもの」たる「神的な人間性 humanité divine 」 (DS,253)―と物 いのち. 質性とを仮に歴程の第一階梯とするなら、第二階梯において、生 が物質性と出会い、地球上に生物 いのち. が出現する。「本源・起源に在った推進力 l’impulsion qui fut à l’origine 」(引用G)たる 生 は、 いのち. 地球上の現実存在となるには、物質性と渾融せねばならなかった。 生 の歴程の開始である。〈歴程 図〉の起点たる菱形の下側の一点である。そして当の「推進力の力 force d’impulsion 」 (DS,316) いのち. で 生 の歴程は下から上に垂直方向に「上昇 monter 」 (DS,226)あるいは「浮上 ascension 」 (DS,187)し「高まる s’élever 」(DS,224,227,267)。「人間は大地の上方に身を持ち挙げる」 いのち. (DS,329) 。その際にまず、生 と物質性という上昇する二線-「推進力」の具体的な現れの一つた いのち. る生物進化においては、 生 の認識を宗とする直観と物質の認識を宗とする知性という二線-は互 いに「乖離」する。左側の斜辺(直観)は右側の斜辺(知性)から水平方向においていっそう離れ ゆく。生物進化の次元である。現在に到る生物進化の次元に関しては、 『二源泉』におけるベルクソ ンの描写はそれ以前の二つの自著―『物質と記憶』と『創造的進化』―の復習と言っても過言で は な か ろ う 。『 二 源 泉 』 に は こ の 二 著 へ の 参 照 が 散 見 さ れ る (DS,21,99,115-20,132,219,2213,241,264,271-2,274-5,291,335, etc.)。ベルクソンが自著を参照するのは、自身の実人生における いのち. 研究の展開を描くためではなく-その集大成をある程度は期待できるが-『二源泉』において 生 の歴程を提示するためなのである(18)。実際、この二著は哲学体系のうちでも事実たる生物進化の次. 元の描写となっている。 『創造的進化』の描写する生物進化を〈歴程図〉上に位置づけるなら、それ は菱形の中央の高さ(倒立二等辺三角形の底辺)へと向かう上昇の運動を表している。われわれ高 いのち. 等脊椎動物へと到る生物進化であり、 生 の歴程のうち過去から現在までである。『二源泉』におけ いのち. る 生 の歴程はこうして、 『創造的進化』のベルクソン進化説を取り込むことになる。哲学に対して 「生物学」が補助となる。 『創造的進化』の描く生物進化説のすべては、いつの日か「生物学」によ って「確証強化 confirmer 」されるであろう(引用E)と。これに対して『物質と記憶』は、当の いのち. いのち. 中央の高さ―生物進化の終局たる 生 の歴程上の現在―における 生 および直観と物質性および知 性とに関する水平方向の描写である。生物進化の次元について、少し具体的に確認しておこう。第 59.

(6) 二階梯に位置する原-生物において、原-直観・原-本能と原-知性とは渾融していた(小論では、植 いのち. 物は除外する)。その後、第三階梯において、直観については、節足動物にあっては本能たる 生 が 原-本能(原-直観)から退化した。節足動物はもはや上昇の可能性を、自らの「絆関係」の開かれ る可能性を失って「格落ち」した。いわば眠りに落ちた。 「本質的」に「不易 immutable 」である (DS,121, cf. 222)。そのように開かれる可能性の欠如という点において、節足動物が「閉じている」 ことそのことを表現している(DS,283)。これに対して脊椎動物においては、一方で原-直観は「格 落ち」することなくむしろ直観へと進化発展する。それに伴って内面が形成され、時間、持続が明 瞭になる。もっとも思弁的な内面知であり、それだけに伏在的に留まる(cf. DS,265)。他方で物質 の認識を本分とする原-知性は知性へと進化発展し(第三階梯)、さらにそうした進化発展の極みに 位 置 す る 高 等 脊 椎 動 物 ( 第 四 階 梯 ) た る 人 類 に 到 る 。 こ ち ら は 実 践 的 な 行 為 知 で あ り ( cf. DS,94,145,249) 、顕在化する。外部世界の認識である。直観と知性とは、それぞれ進展の方向が異 いのち. なる。 生 と物質性との方向の相違である。両者の間には、方向の相違たる「偏向 déviation 」 (引 いのち. し. 用Gならびに DS,328)が在る。一方で内面の 生 の働き―「記憶力 mémoire 」―たる「張り緊 いのち. め tension 」が強まり、そうやって 生 の働きとその認識たる直観は内面性を獲得する。〈歴程図〉 において倒立二等辺三角形の頂点から左側の斜め上に上昇する線が引かれる。他方で物質の認識を 宗とする知性は外部の空間へと向かう。「弛緩 relâchement 」あるいは「張り緩み détente 」(19) ―物質性―である。原-知性の名残と解される。物質を認識する知性の進化発展は倒立三角形の右 側を上昇する線で表すことができる。 〈歴程図〉を垂直方向に上昇する応じて水平方向の「乖離」が 大きくなる。ここまでの『二源泉』の記述は『創造的進化』のものとほぼ重なる。そして、そのよ うに生物進化した結果たる現在―理論上の現在―の人間の描写は、今度は『物質と記憶』のもの いのち. と重なる。「乖離」の極みであり、現在の人間における認識の理論上の仕組みが提示される。 生 お よび本能・直観と物質性および知性とは、二元に近い関係のなかで「乖離」し、見たところ対立し つつも、「相補的 complémentaire 」(DS,122, cf. 98,272)な関係にある。以上が、現在に到る生 物進化の次元であり、それは高等脊椎動物の各個体が体現している。 そして菱形の中央の高さを超えると今度は、 〈歴程図〉における上昇する二線は新たに交わる「方 向」を取る(20)。生物=文化の次元である。生物進化が「停止した」後、 「知性は自らの道具を製作し いのち. て」発展させ、身体の助けとする(DS,333) 。 「帰還」の途の入口であり、ここからが、 「意識と 生 」 を助けとしつつも、 『二源泉』独自の主張である。当の交差の地点を示す「交差の方途」がその主張 いのち. を読み解くための導きの糸となる。ただし、引用Aの「様々な事実の諸線」の―「意識と 生 」と 『二源泉』とに対応する―二義に応じて「帰還」の途は二段階に分かれる。まず直観と知性との「交 、、 差」から成る生物=文化の世界―「閉じている絆関係」、閉じている「道徳と宗教」―が指摘でき いのち. る(cf. DS,97) 。菱形における上部の正立二等辺三角形の頂点たる第一の交差である。 生 と物質性 とが交差して混成し、文字通り「生-物」として集団的な文化世界を形成している。そうした生物 =文化の次元において認識されているのは、同じ文化圏に住まう人々の間で共有される集団的な再 現表象の世界、集団的な行為世界である。われわれ高等脊椎動物においては、そのようにして、記 いのち. 憶から成る内面の 生 が外部の空間にもたらされ、集団的な〈物質性の文化〉が形成される。「準知 、、、 性的な仕組み un mécanisme quasi intelligent 」 (DS,53, cf. 95-6,108,142-4)であり、集団的な想 像力(構想力)の働きたる「仮構機能 la fonction fabulatrice 」 (『二源泉』の第二章全体ならびに 第三章冒頭を参照。eg. DS,216-7 et cf. 172,284)によってもたらされる(21)。ここまでが歴程の前半 60.

(7) 部であり、実地に踏破できる事実の圏内である。そして「帰還」の途は続く。 「集団」という「閉じ いのち. ている絆関係」から、 「開かれている絆関係」へ、と(cf. DS,247)。 生 の歴程の後半部である。今 いのち. 度はその終局において再び一点で交差して 生 の「単一性へと帰還」せんとする(cf. DS,263-4)。第 二の交差である。その際われわれは、外部において成立している〈物質性の文化〉を成す生物=文化 いのち. の世界からさらに「上昇」して、われわれ自身の内面へと、純粋な 生 へと「帰還」せねばならない。 もっとも、集団という他者関係を経由してさらに「上昇」せんとしている以上、ここで問題になっ ている「帰還」先はもはや単なる個人の内面ではない。 「帰還」先たる「開かれている絆関係」とは、 、、 内面における他者関係たることだろう。内面の直観に与えられるはずの他者である。ただし「帰還」 には「神秘家の経験」-「神秘的直観」-という補助が必要となる(引用E) 。第二の「交差の方 途」である。そうやって『二源泉』は「開かれた」内面における人間なるものと神秘説との間の交 差へと向かう。そこに在るのは「理念」たる「開かれている絆関係」であろう。向かう先は人類の いのち. 本来の「目的」 、 「目標」地点である。哲学は神秘家を補助にして純粋な 生 の内懐に「帰還」せんと いのち. する。生物=文化の次元から純粋な 生 の次元へと進むに応じて今度は、人間は第二の交差地点たる いのち. 生 の歴程の終局へと向かうことになる。 いのち. 『二源泉』においては以上のごとき 生 の歴程が提示されている。「帰還 retour 」とは、文字通 いのち. いのち. いのち. り、生 の歴程の終局において 生 へと「帰還」することを意味している。 「帰還」先は、生 の歴程の いのち. 起点(第二階梯)たる原-生物ではない。 生 と物質性との渾融からなる生物ではなく、そうではな いのち. いのち. くて 生 の「単一性」である。「 生 一般たる端緒となる原理そのもの le principe même de la vie en いのち. いのち. général 」 (DS,265, cf. 225)への「帰還」 、第一階梯の純粋な 生 への「帰還」である。 生 の歴程の いのち. いのち. 起点たる第二階梯に在って渾融していた 生 と物質性との方向の相違は、 生 の歴程全体において見 、、、、、、、、 るなら、物質性の側の「偏向」にすぎない。「初めの軽微な偏向 une déviation légère au début 」 (引用G) 、単なる「方向」の〈ずれ〉である。してみると、〈歴程図〉の菱形に微修正が、図の付 加が必要となる。倒立二等辺三角形の上部に置かれるべきは、正立二等辺三角形の頂点を超えて― 一方で当の正立二等辺三角形の左側の底角から上昇する垂線を引き、他方でその右側の斜辺をさら 、、、、 に延長して―できる直角三角形である。〈歴程図〉は変形菱形となり、その頂点において第二の交 いのち. 差が成立する。倒立二等辺三角形の左側の辺( 生 )は、その底角の位置からさらに上昇する際、純 いのち. 粋な 生 の歴程として、もはや右側(物質性)へと向かわない。質料なしの形相である(DS,241)。 いのち. ただしそれは〈未来〉へと向かう 生 の歴程である。かくして『創造的進化』における生物進化も、 いのち. いのち. 『物質と記憶』における物質性に関わる知性と 生 に関わる直観との「乖離」も、そして「意識と 生 」 いのち. における〈物質性の文化〉たる「閉じている絆関係」も、 「 生 の進化発展」の一環に組み込まれる。 いのち. いのち. いのち. 『二源泉』における 生 の歴程全体は 生 の一元説となるであろう。したがってもし、 生 の歴程を終 、、、、 局まで実地に踏破することができるなら、ベルクソンの哲学体系も、第二の交差をもって完結する いのち. ことになろう。純粋な 生 の次元に到ることだろう。しかしながら小論冒頭に記したように、例外者 たる「神秘家」を文字通り例外として、われわれ人間なるものには、哲学には事実上、踏破するこ とができない。それゆえわれわれにあってできることは、 「方向」 (ないし「方面」)を割り出すこと のみである。そこまでが哲学体系に、 「哲学の方途」に含まれる。それを割り出すために、ベルクソ ンは『二源泉』において「交差の方途」を提示するわけである。帰するところ「交差」する終局の 一点への「方向」を指し示す「方途」である。. 61.

(8) いのち. いのち. 二、 生 と物質性との乖離ならびに 生 への帰還の途-水平方向の切り口において いのち. 以上に記した 生 の歴程全体の概観を下敷きにしつつ、その前半部を中心に、主に水平方向の切り 口を幾つか取り上げてみたい。 〈歴程図〉における倒立二等辺三角形の底辺までは、ベルクソンの説明は大きな困難なく理解で ...... ........ きる。たとえば「二分化の法則 loi de dichotomie 」と「表裏過激化の法則 loi de double frénésie 」 (DS,316)がその説明になっている。なるほど両者はともに、 「自由の領野 domaine de la liberté 」 における「法則」である(ibid.)。したがって、その直接の適用範囲は〈歴程図〉の上部の直角三角 いのち. 形 の ほ う で あ る 。「 魂 論 的 で 社 会 的 な 〔 絆 関 係 上 の 〕 生 の 進 化 発 展 l’évolution de la vie psychologique et sociale 」 (DS,314)である。生物=文化の次元もそこに含まれる。これに対して 生物進化の次元は非自由の領野と解される。しかしながら今の場合、両次元に関して問題となって いる相違といえば、生物=文化の次元においては、「解離によって形創られた諸傾向 les tendances qui se sont constituées par dissociation の進化発展する」のが高等脊椎動物の、しかも一つの同 いのち. じ文化圏においてのことであるのに対して、生物進化の次元においては、「 生 の進化発展一般 、、、、、 l’évolution générale de la vie のなかで、二分化の途をとおしてそのように創出された諸々の傾向 は展開発展して les tendances … créées par voie de dichotomie se développent 、大抵は別個の種 、、、、 となる」 (DS,314)という点に、すなわち、前者の次元においては一種の揺り戻しの反復が起こり、 帰するところ「乖離 écart 」 ( 「解離 dissociation 」)し「二分化」した二項の混成を脱することが 、、、、 ないのに対して、後者の次元においては逆に、原理的には揺り戻しの反復はないという点に存して いるにすぎない(cf. DS,2)。今の場合、 「交差」と「乖離」との相違、あるいは内包的に区別され る二項と外延的に区別される二項との相違である。したがって「二分化の法則」と「表裏過激化の 法則」という二つの法則そのものは生物進化の次元にも適用可能である。それどころか、 「人間の絆 関係〔たる社会〕は、或る面で自然 la nature の欲するものたるかぎり、当の〔 「自然の欲する」 、、、 という〕特殊な点で生物学に帰属する。有機界の進化発展が、若干の法則に従って-私の言わんと しているのは、或る一定の強要のせいでということだが-成就されるとすれば、個人面ないし社会 いのち. 面における人間の魂論上の進化発展が、 生 のそうした諸々の常態 ces habitudes を全面的に打ち 捨てることはありえない」 (DS,313)。 「進化発展」の「若干の法則」については生物=文化の次元に も、その基底として「有機界」たる生物進化の次元のものが残存している。この二つの法則もその 内に数えられる。両次元の「自然」は或る点では連続している(22)。実際、この二つの「法則」それ 自体は、上昇する二線の間の「乖離」をも示している。 「二つの傾向は、もし一緒になって道を取ったなら、相互に抑制しあっていたことだろうし、 また原初の分割されざる一つの傾向 une tendance primitive indivisée において両者が相互 に浸透 interpénétration していることが、中庸を定義するはずの当のものである。だから、 〔一方の傾向が〕場を独り占めするというただその一事だけで、二つの傾向の各々に伝播され る躍動は、諸々の障害が崩れ落ちるに応じて、熱狂 emportement にまで達することがありう る。……われわれは以下のごとき法則を『二分化の法則』と呼ぶことする。その法則によると、 様々な傾向について、当初は単一の傾向を映し取った様々な眺め des vues différentes prises 、、 sur une tendance simple にすぎなかったが、それらはただ〔互いに〕解離するだけで、そう 62.

(9) した傾向の現実化 réalisation が引き起こされるようにみえる。そしてその際また、二つの傾 向のそれぞれが、その分離 séparation によってひとたび現実のものとなった réalisé なら内 在させる要求を、傾向の極限まで-あたかも極限があるかのように-辿るべしという要求を 『表裏過激化の法則』と呼ぶことを提案しよう」(DS,315-6)-引用D 生物進化に関してはこうなる。 「二分化の法則」においては、何よりもまず水平方向の「乖離」が問 題になっている。第二階梯における原-生物には「単一の傾向」が在るのみであった。〈歴程図〉の 起点における「原初の分割されざる一つの傾向」である。原-生物においては、原-直観・原-本能と 原-知性とは、未だ「二つ」の傾向でさえなかった(cf. DS,119,122) 。両者は「解離(乖離)」して おらず、 「相互に浸透」しあっていた。渾融である。そうした「一つの傾向は、区別のない数多性を 具えた推力. la poussée d’une multiplicité indistincte で あ る 」( DS,313 )。「 回 顧 的 に. rétrospectivement 」 (DS,313)あるいは「遡及的に rétroactivement 」(DS,229,314)振り返っ 、、、 て「再構成 reconstituer 」 (DS,72-3)したときにのみ、複数の傾向が在ったと理解することがで きる。その場合、 「分割されざる過去の一つの推力を、事後的に après coup 映し取った多様な眺め の下、当の推力の展開発展による創出のもとで現実のものとなった諸要素 des éléments qui ont été en réalité créés をもって〔翻って〕当の推力を合成」(DS,313)しているのである。 その点で「二分化の法則」はまた、それだけですでに垂直方向の上昇を含意してもいる。 「二分化」 いのち. が発生するのは、生 の歴程がその起点から上昇するに伴ってのことであり、それが発生して後に初 めて「遡及的に」、 「二分化」が理解されうるのだから。そして単に「様々な眺め」にすぎなかった 当の「様々な傾向」のうちの一つが「場を独り占めする」なら、それはいわば「現実のもの」とな る。生物進化の次元について言うなら、当の上昇に応じて、直観と知性という上昇する二線は互い にいっそう「乖離」する。今度は「表裏過激化の法則」である。そしてその一方の線の方向は「熱 狂」的に、いわばその「極限」に到るまで進化発展する。具体的には、この地球上の脊椎動物の生 物進化においては、知性の傾向のみが「場を独り占め」している。直観のほうの進化発展は伏在的 にすぎない。かくしてわれわれは、 〈歴程図〉における倒立二等辺三角形の底辺までの説明を得る。 いのち. それだけではない。「二分化の法則」と「表裏過激化の法則」というこの二法則は 生 の歴程全体 、、、、 にも適用可能である。この二法則によれば、一種の揺り戻しが起こるのであった。水平方向の「振 子運動 oscillation pendulaire 」 (DS,311, cf. 2,312,315,319)たる「往復運動 les allées et venues 」 (DS,312,316)である。さらに垂直方向を加味するなら、 「螺旋形の運動」となる。われわれの地球 いのち. 上においては、 生 の躍動が「往復運動」に留まるのに対して、愛の躍動は「螺旋形の運動」をもた らす。逆に言うなら、生の躍動は愛の躍動たる「螺旋形の運動」のうちに組み込まれる。 「帰還」の 、、、、 途である。なるほどベルクソン自身の説明によれば、揺り戻しの反復は生物=文化の次元の内部のこ 、、、、 とにすぎない。が、しかし、地球上の一回のみ揺り戻しが在りうる。この二法則を生物進化に適用 、、、、 いのち したわれわれは、今度はこの一回のみの揺り戻しを 生 の歴程全体に適用してみよう。「螺旋形の運 動」の一周期(格子一つ)であり、われわれの〈歴程図〉の変形菱形はその簡易版である。 〈歴程図〉の倒立二等辺三角形の底辺以降の圏域―『創造的進化』ならびに『物質と記憶』を超 え出たところ―に移ろう。 「様々な事実の諸線」 (引用A)は交差する一点に向かって収斂せんとす 、、 る。 「哲学の方途」たる「交差の方途」である。ただし既述のように、交差は二段階に分かれ、揺り 63.

(10) 、、 いのち 戻したる 生 への「帰還」の途はいささか錯綜してくる。 ベルクソンは『二源泉』の実質的な終局部分(DS,262-82)において、すなわち、哲学上の自説を 展開する最後の章たる第三章 (23) -最終章たる第四章における「本書の結論 la conclusion du présent ouvrage 」(DS,311)に先立って「われわれの結論 notre conclusion 」(DS,276)が提示 される章-のその末尾において、「哲学の方途」を巡ってこう記す。 「かくしてわれわれは、なるほど確かに『創造的進化』の諸々の結論を超え出る dépasser 。 、、、、、 われわれは〔 『創造的進化』においては〕できるだけ諸々の事実 les faits の間近に留まろうと 、、、、 意図していたのだった。生物学 la biologie によっていつの日か確証強化されえぬことは何一 つ、われわれは言わなかった。当の確証強化までの間、われわれの有している様々な成果に関 、、、、、 、 しては、われわれの理解しているような哲学の方途が真とみなす権利をわれわれに与えること になるのであった。ここ〔『二源泉』 〕ではもはやわれわれは、確からしいものの領野 le domaine du vraisemblable にいるにすぎない。しかし以下については、繰り返しが過ぎることにはなる まい。すなわち、哲学的確実性 la certitude philosophique は様々な程度 des degrés を許容 すること。それは直観に、と同時に推論に訴えること faire appel à l’intuition en même temps qu’au raisonnement 。そして、学知〔たる科学〕を背にした adossé à la science 直観に繰り 延ばされる余地があるなら susceptible d’être prolongé 、それは神秘的直観 l’intuition mystique によってのみ可能であること」(DS,272)-引用E いささか錯綜しているこの引用Eに簡単な解釈を加えておこう。明示されているのは、何よりもま ず、二つの「領野」の区別である。倒立二等辺三角形の底辺までとそれ以降とに該当する。 『創造的 進化』において扱われたのが「真」なる「諸々の事実」であったのに対して、 『二源泉』で新たに扱 われるのは「確からしいもの」である。しかるにまた、「哲学の方途」は一貫しているのに対して、 いのち. その補助として「背に」している知のほうも二種に区別されている。この二種の知はそれぞれ、 生 の歴程の前半部と後半部とに対応している。前半部は「生物学」および「学知〔たる科学〕」であり、 後半部は「神秘的直観」あるいは「神秘家の経験」である。この二種の知はいずれも哲学とは別の. 分野の知であり、かつ哲学的な知の補助の役割を果たしている。 「神秘家の経験」たる「神秘的直観」 に関しては、ベルクソンは別の箇所において哲学的「直観」を「感覚的・感性的経験」の一種とみ なしつつ、こう記している。 「哲学の方途」は、 「感覚的・感性的経験 l’expérience sensible とそれ に基づく推論 la raisonnement といった〔神秘家の経験とは〕別の或る途 une autre voie」(引用 F)から成る、と。そうした補助となる知と「哲学の方途」との位置関係―水平方向の関係―に ついて取り急ぎ、三つの次元を対比しておこう。認識に関して二種の二項対立が提示されている。 認識の対象については「真」なる「事実」と「確からしいもの」との「領野」の対立で、認識の仕 いのち. 方については「直観」と「推論」との対立である。生物進化の次元と純粋な 生 の次元との対比関係 は明確である。生物進化の次元においては、認識の対象は「真」なる「事実」であり、認識の仕方 については「推論」たる「生物学」が哲学的「直観」の補助となる。 「生物学」という知性的な学は いのち. 哲学的直観の「哲学的確実性」を「確証強化」する。これに対して、純粋な 生 の次元においては、 認識の対象は「確からしいもの」であり、認識の仕方については「神秘的直観」が哲学的「推論」 の補助となる。この二つの次元の間では、二種の補助となる知に対応して、 「哲学の方途」の位置が 64.

(11) 「直観」から「推論」へと入れ替わっている。しかるに、 「閉じている絆関係」を構成している生物 いのち. =文化の次元においては、捻じれが生じている。すなわち、認識の対象は純粋な 生 の次元と同じく 「確からしいものの領野」に在りながら、認識の仕方は生物進化の次元と同じく「推論」たる「学 知〔たる科学〕 」が哲学的「直観」の補助となる。なお「確からしい」というのは、「感覚的・感性 いのち. 的経験」を超え出る領野―純粋な 生 の次元と生物=文化の次元―の分析においては、 「直観」を伴 いつつも、「推論」が必要となるからだと解される。 こうした位置関係について、三つの次元を巡って順次、確認しておこう。第一に生物進化の次元 は、引用Eに明示されているとおり「真」なる「諸々の事実」の領野である。この次元においては 「生物学」が、知性の側に在って、哲学的「直観」を補助する。 〈歴程図〉を用いるなら、脊椎動物 いのち. における「 生 の進化発展」に応じて、知性は倒立二等辺三角形の右側の斜辺を辿って生物進化し、 直観からいよいよ「乖離」する。知性は物質的なものを対象とする知である。 「生物学」とは、生物 進化上の高等脊椎動物として知性の側の斜辺の先端に在って、生物について物質面から知性的に推 論し説明する学である。原-知性の進化発展ついては、 「生物学」たる知性的な生物進化説が、その 説明を担っている。 「生物学」は、したがって上昇する二線の内の一方しか知らない。それに対して 「哲学の方途」とは哲学的「直観」にほかならない。「感覚的」ならぬ「感性的経験」と解される。 「哲学的確実性」は、何よりもまず内面の哲学的「直観」によって得られる。感性的直観たる情感 いのち. いのち. である。内面の 生 が内面的に直観される。 「生物学」の教えが補助となるのは、それが「 生 の進化 発展」と相補的な関係にあるその物質面の分析だからである。 第二に〈歴程図〉における倒立二等辺三角形の底辺を超え出て生物=文化の次元に移行すると、事 態はいささか錯綜してくる。この次元は、認識対象の「領野」としては、 「真」なる「事実」という よりむしろ「確からしいものの領野」に属する。それでいてしかも、「学知〔たる科学〕」において は「推論」の対象でも、哲学的には「推論」ではなくて「直観」が成立している。哲学的には、未 だ「事実」の圏内に在る。こうした捻じれについて、一つの解釈を提示しておこう。この次元にお いて認識されている対象は「確からしいもの」たる世界、すなわち、外部に位置する「閉じている 絆関係〔たる社会〕」という世界である。 「閉じている社会〔たる絆関係〕」については、たとえば社 会科学に属するような「学知〔たる科学〕」が哲学的直観の補助の役割を担うことになるが、そうし た「学知〔たる科学〕」は「確からしい」ものにすぎず、それが扱うのはもはや「事実」そのもので いのち. はない。なるほど「直観」される 生 こそが「絆関係」なるものを基礎づけている「事実」であって、 いのち. 組織立てる 生 なしには「絆関係」は成立しない。しかし当の直観の働きそれ自体は外部化されえな い。あくまでも内面に留まり、伏在的なままである。世界においては、直観の働きそのものではな くて、直観の内容が、直観される事態が外部化されている。そうやって知性的な認識対象との交差 地点に到る。「様々な事実の諸線」を「繰り延ば」(引用A)した第一の交点である。直観と知性と いのち. の、あるいは 生 と物質性との「交差」であり、補助の側から言うなら「生物学」と「神秘的直観」 との間に介在する次元である。生物進化の次元までは、当の進化における直観と知性という認識機 いのち. 能のほうが問題の中心を占めており、それぞれの認識対象たる事実― 生 と物質性、あるいは場合 によっては時間と空間―はそれぞれの認識機能に平行していた。「推論」という認識の仕方は、も っぱら知性という認識機能が担っていた。これに対して生物=文化の次元においては、世界という認 いのち. 識対象が混成されることになる。そしてこの交点の混成の仕方は、「意識と 生 」における「類比に よる推論」をもって読み取ることができる。純粋に知性的な「推論」ではなく、感性的な「直観」 65.

(12) と知性的な「推論」との混成である。生物進化の次元における直観と知性との間の外延的な区別は、 生物=文化の次元において内包的な区別に引き継がれて「交差」する。その際に「類比」関係が成立 、、 いのち し、人々の間で「閉じている絆関係」が成立する。「意識と 生 」において提示されている「類比に いのち. よる推論」とは、―「意識と 生 」の主題が別に存するがゆえに―いささか図式化され過ぎてはい るが、以下のごとくである。 「推論」において与えられているのは、私の内面の意識と外部の行為と の関係ならびに他のもの(他者)の外部の物体的・身体的動き(行為)である。両者の身体・物体 による外部の―世界内の―行為・動きが媒介項である。私の外部の行為(動き)と他のもの(他 者)の外部の動き(行為)との間に「外部の相似性 une ressemblance extérieure 」が成立するが ゆえに、それとの「類比によって par analogie 」、私の内面の意識と「内的に類似 une similitude interne 」する意識を他のもの(他者)にも認めることになる(ES,6)。直観と知性との関係が、 私と他のもの(他者)と間で「類比」的な関係にある。そうやって、当の他のものは内面を有する 、、 人間たる他者となり、その動きは知性的な行為という意味を獲得する。こうした「類比による推論」 は私における内面の意識たる「直観」を前提としている以上、未だ「事実」の圏内である。ただし 他者と言っても、こうした「類比」を前提としている以上、第二の自己にすぎない。 かくして生物=文化の次元において直観あるいは本能の補助となる知である「学知〔たる科学〕」 いのち. し. を「哲学の方途」において位置づけるなら、以下のようになる。各人の 生 の「張り緊め」が「張り 緩み」( 「弛緩」 )を通して外部にもたらされ、本能的な直観内容と知性とが混成する。「知性的本能 instincts intellectuels という言葉をわれわれが使う」 (DS,169)際のその混成である。内面の直観 内 容 が 外 部 化 さ れ 、 知 性 的 に 理 解 さ れ る わ け で あ る 。「 知 性 的 な 再 現 表 象 représentation intellectuelle 」 (DS,211)がもたらされる。理論上の現在における一種の反省である。そしてさら に、人々が集団となって文化を形成する。直観と知性との混成体たる生物=文化の次元である。その 次元は「学知〔たる科学〕」を補助とするなら、物質性の側から知性的に理解されることになる(cf. DS,116)。こうした位置関係成立の過程について、理論上の現在に一旦戻って辿り直してみよう。 個人において直観が内面の生ける時間の領域に留まるのに対して、知性は外部の死せる空間の領域 し. の認識を本分とする。倒立二等辺三角形の底辺において、 「記憶力」という内面の「張り緊め」たる いのち. 生 の時間化作用によって時間が生成し、それに対する物質性の空間化作用たる「張り緩み」 (「弛緩」) によって〈将来〉たる内面の時間は外部化される。前者から後者への不可逆な一方通行である。空 間は内面の時間のうちでも〈将来〉のみを表現している。内面の再現表象である。理論上の現在は、 こうした〈将来〉を含む持続の厚みから成る。時間的な内面の直観内容が知性によって認識される には、そうやって空間内の事物に成らねばならない。たとえば「詩に関しては言葉への、藝術的構 想に関しては彫像や絵画への物質的な現実化 la réalisation metérielle 」 (ES,22)である。内面で 直観されている情感的内容はまず、われわれの「利害関心」に応じて身体の行為対象たる〈それ〉 なる「事物 chose 」 (cf. DS,57,335-6)と成る。 「利害関心」に応じて行為対象に陰影が施され、 〈そ れ〉が世界内に浮き出る。たとえば時間的・持続的な手の生ける運動―単一なる運動―において、 鉛筆のその筆を運ぶ際のリズムは情感的に内面で感取され、そのように感取されている情感が外部 化されて、鉛筆なる「事物」が〈そこ〉なる空間内に固定される(cf. DS,118,275-6)。われわれが 生きて生活してゆくには「そうせざるをえない il le faut bien 」 (DS,58)。いずれの鉛筆も、手の 同じ型に応じているがゆえに、同じ〈鉛筆〉なる事物と成る。目の前の空間内に在る〈それ〉―〈鉛 筆〉なる物体的な事物―とは、内面の情感が事物的に再現された表象であり(cf. DS.213)、知性的 66.

(13) に理解される意味的存在である(24)。意味的存在たる諸々の事物は、各人の知性的な行為対象である。 、、 しかるに、同じ文化圏に住まう人々にとって、同じ用い方をするがゆえに、目の前の細長い棒はま さしく同じ〈それ〉-〈鉛筆〉-として再現表象される。当の意味的存在を理解しているのは、 文化的な身体であり、集団として類似の行為を為す行為身体である。そうした生物=文化の次元にお いて認識されているのは、同じ文化圏に住まう人々の間の類似する行為に応じた集団的な再現表象 の世界―事実上の現在―である。われわれ高等脊椎動物においては、そのようにして記憶から成 、、 いのち る内面の 生 が外部の空間にもたらされ、集団的な〈物質性の文化〉が形成される。人々があくまで も同じ意味的諸存在を扱う「閉じている絆関係」、個人的な身体の行為習慣に基づいた集団的な慣習 の世界、文化的な行為世界である。その際、「直観」が「背に」している「確からしいものの領野」 の「学知〔たる科学〕」―他者を前提とする実践的な科学―においては、社会科学にせよ、あるい はまた、近代の心理学や生理学、工学にせよ、 「産業文明 civilisation industrielle 」 (引用G)が検 、 討対象の中心となる。かくして、内包的に区別される情感と事物との混成体からなる生物=文化の世 、 、、 界は知性の側に、外部の側に属す(cf. DS,43) 。同じ行為対象から成る世界は人々の間で-私と他 者との間で-共有される。〈将来〉をも含めて、それぞれの集団の過去と現在との集大成である。 「帰還」の途上に在る第一の交差地点―上部の正立二等辺三角形の頂点―となる。 〈歴程図〉にお いて生物進化の次元から生物=文化の次元へと到るなら、混成体たる生物=文化の世界において内面 の伏在的な直観内容は外部化され、事物化されて、顕在化し知性=行為対象と成る。 、、、 そして第三に、神秘説を「哲学上の探究の有力な補助 un auxiliaire puissant とする」 (DS,266) いのち. ことで、純粋な 生 の次元への、愛の次元への移行も見いだされる。すなわち、「真の神秘説」は、 、 「発出して物質を貫いた〔地球上の〕精神の潮流 le courant spirituel がたぶん欲しながらも、行 、、、 、、、 、、 き着くことのできなかった地点に〔……〕位置している」 (DS,226)。われわれ人間は事実の圏内に いのち. 留まり、その「精神の潮流」は純粋な 生 の次元には「行き着くこと」ができない。「単一性へと帰 還」する途を終局まで踏破することはできない。 「方向」が「指し示され」るのみである。かくして、 過去から現在―理論上の現在―に到る『創造的進化』ならびに『物質と記憶』における生物進化の 次元、集団的な〈将来〉たる人々の行為世界-「閉じている絆関係」-を組み立てている「意識 いのち. と 生 」ならびに『二源泉』における生物=文化の次元―事実上の現在―に対して、神秘説(『二源 いのち. 泉』)と合流すべく人間なるものは、現在から〈未来〉の純粋な 生 へと向かう。ベルクソンの哲学 体系全体は、 「哲学の方途」は少なくとも生物進化と生物=文化の次元の先-歴程の後半部-に「方 いのち. 向」を有する。人間なるものには踏破できぬ 生 の歴程である。 いのち. 三、 生 の推進力の一貫性と帰還の途-垂直方向における「事実の線」の上昇 いのち. 生 の歴程についての以上の解釈は、直観と知性との乖離と混成とを主に水平方向の切り口におい て検討したにすぎない。それゆえ小論の問いは、いささか絞り込まれたとはいえ、手つかずのまま 、 残っている。いかにして「哲学の方途」は、第一の交差地点から第二の交差地点の「方向」へと上 、 いのち 昇しうるのか。いかにして、どこまで、純粋な 生 の次元に接近できるのか。「様々な事実の諸線」 をはじめとして、 「二分化の法則」も「表裏過激化の法則」も、水平方向においてよりもむしろ、垂 直方向の「進化発展一般」のなかで読み取られなくてはならない。 67.

(14) いのち. 実際、引用Eに戻るなら、そうした 生 の歴程に関して「直観」の系列を一貫して垂直方向に辿る いのち. こともできる。なるほど「直観」には「哲学的」と「神秘的」との相違がある。しかし 生 の歴程の 前半部において保持され続けていた内面の哲学的「直観」に「繰り延ばされる余地があるなら」 (引 用Aも参照されたし。また cf. DS,266,281)、その後半部において、哲学的ならぬ「神秘的直観」に いのち. よって引き継がれる。このように 生 の系列たる「直観」の系列における垂直方向の一貫性を基準と するなら、前半部において「生物学」や「学知〔たる科学〕」という知性的な学が哲学的「直観」の 補助であったのに対して、後半部においては、哲学的「推論」のほうが神秘的「直観」の補助のご とき様相を呈する。人間の側、哲学の側の上昇においては、 「直観」が「推論」に地歩を譲る。事実 の圏外である。 〈物質性の文化〉は行止りなのであった。 「閉じている絆関係」とは文化圏ごとに「閉 じて」しまっており、予見可能な〈将来〉の集団的な世界を形成しているのであった。それに対し て今度は、 「神秘的直観」との関係において、哲学的「推論」の位置が問題になる。 「神秘家の経験」 と対比される「別の或る途」 (引用F)である。しかるに第二の交差地点には、その「途」を通って 向かうはずである。してみると同じ「推論」といっても、この哲学的「推論」はもはや知性的ない わゆる「推論」ではない。外部の空間の領域の認識を本分とする知性認識の方向にはない( cf. いのち. DS,224) 。 「直観」の補助たる「推論」といっても、生 の歴程の前半部において内面の直観であった 哲学的な知が、後半部において突然、まさに哲学的でありながら、知性的な外部知に成ると解する わけにはゆかない。そうではなくて、 「神秘家の経験」と交差すべく逆に、直観と知性との混成体た いのち. る生物=文化の世界からさらに内面へと、 生 の「単一性へと帰還」せんとする「推論」である。上 昇とはまた、第一階梯への「帰還」の途でもある。生物=文化の次元における「閉じている絆関係」 いのち. から「開かれている絆関係」へと、純粋な 生 の次元へと「螺旋形の運動」を通して「帰還」する。 「二分化の法則」ならびに「表裏過激化の法則」に謂う一種の揺り戻しである。もっとも直観と知 性とから成る生物たる人間なるものには、独力では到り着くことのできない次元である。その途は、 、、 いのち 「意識と 生 」におけるがごとき「類比による推論」ではなくて、〈疑似類比〉による推論となるで いのち. あろう。その際、哲学が 生 の「単一性へと帰還」するために、神秘説が「有力な補助」となる。 「哲 いのち. 学の方途」は、 生 の歴程の前半部において第一の交差に到ったように、その後半部において「神秘 家の経験」との交差という第二の交差へと「方向」を採る。 、、、、、、 、、、、、、 、 「神秘家の経験は、それだけに任されるなら、決裁的な確実性 certitude définitve を哲学者に もたらすことはできない。神秘家の経験が全面的に説得的 tout à fait convaincant になるの 、、、 、、、、、 、、 、、、 は、哲学者が、感覚的・感性的経験とそれに基づく推論といった〔神秘家の経験とは〕別の或 、、 、、 、、、、、 、、、、、、 る途を通って〔当の〕規格外の経験の現存 を確からしい ものとして視野に入れる に到り着く arriver par une autre voie, telle que l’expérience sensible et le raisonnement fondé sur elle, à envisager comme vraisemblable l’existence d’une expérience privilégiée 場合のみである。 、、、、、、、、、、、 この規格外の経験を通してなら人間は、端緒となる超越的な原理との交わりに入ることになろ う l’homme entrerait en communication avec un principe transcendant 」(DS,263, cf. 266,278)-引用F いのち. 今度は「様々な事実の諸線」など、どこにもない。 生 の歴程の後半部に在るのは、「事実」を「繰 り延ば」した哲学的「推論」たる「哲学の方途」と「神秘家の経験」との二つの途である。なるほ 68.

(15) ど哲学的「推論」は、 「神秘家の経験」の「現存」を「視野に入れるに到り着く arriver … à envisager 」 いのち. のであって、「交わり communication 」と言ったところで事実の圏外である。純粋な 生 の次元に 到るには、哲学には「推論」によって「深層に掘り下げること l’approfondissement 」 (DS,263) しか残されていない。 「超越的な原理」を「視野に入れる」ところまでが限界である。哲学には実地 に踏破することはできない。この「原理との交わりに入る」ことができるのは、 「人間」には、哲学 には原理上不可能な「規格外の経験を通して」のことである。それが可能となるには「神秘家」と 成らねばならない。哲学の射程においては「神秘家の経験」という「神秘的直観」の「現存」は、 「確からしい」にせよ、 「蓋然的 probable 」 (DS,264)に留まる。しかしながら、そもそも「二分 いのち. 化の法則」は、物質ならぬ「 生 」のその「進化発展一般」に関する「法則」なのであった。こう言 いのち. いのち. い換えてもよい。第一階梯の純粋な 生 へと、 生 の「単一性へと帰還」する途において問題になっ いのち. いのち. ているのは、垂直方向の「 生 の進化発展」である。生物進化の次元も、生物=文化の次元も 生 の歴 いのち. 程全体の一部を担っているのであった。生 の歴程の前半部における直観と知性との水平方向の乖離 と混成も、そうした垂直方向の「進化発展一般」の一部にすぎない。 〈歴程図〉の菱形における上昇 は、あくまでも変形菱形における上昇の一部なのである(cf. DS,48,55-8)。一個の「推進力」が、 いのち. 垂直方向に働く「推進力の力」が 生 の歴程を一貫している。 「〔人口問題以外の〕他の問題点はなかんずく、産業の大いなる展開発展以来われわれの生き方 の採った〔上昇の〕方向 direction に起因している。われわれは安楽、安逸、贅沢を要請する。 ……もしわれわれの生活がいっそう峻厳になったりなどするなら、どうなってしまうだろう。 、、、、、、、、 道徳の大いなる形態変化の本源・起源に à l’origine des grandes transformations morales 神 秘説が在ることは反論の余地がない。なるほど確かに人間なるもの l’humanité は、かつてな いほど神秘説から遠く離れているようにみえる。しかし誰が知ろう。……思うにわれわれは西 欧の神秘説とその産業文明 civilisation industrielle との関係を垣間見た。……直近の将来 l’avenir immédiat は大部分、産業の組織立てに依存することになる……長い間、産業主義と 機械主義なら人類 le genre humain の幸福をもたらすことになると了解されていた。今日で は人は進んで、われわれの苦しんでいる諸々の悪をそれの責任にする。人は言う。かつて人間 なるものがこれ以上に快楽を、贅沢をそして豊かさを渇望したことはなかった、と。見たとこ ろ、或る抗しがたい力が人間なるものを、その最も粗野な欲望の充足へといよいよ激しく推し 進めている pousser 。そうかもしれない。が、しかし、本源・起源に在った推進力に溯上して みよう remonter à l’impulsion qui fut à l’origine 。この推進力が力強いものであったなら、 、、 〔確かに〕初めの軽微な偏向 une déviation légère au début だけで、目差された目標と到達 、、 して掌中にしている対象との間にいよいよ著しい乖離を産み出す produire un écart de plus en plus considérable entre le but visé et l’objet atteint には十分でありえた。〔しかし〕この 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 場合は、推進力を措いて乖離のほうに係らってはなるまい。なるほど、諸々の事態が独りでに 出来することはけっしてない。人間なるものが変様することになるのは、自ら変様しようと意 志する場合のみである。しかしおそらく人間なるものは、変様する様々な手立てをすでに用意 、、 している。おそらく、自分自身で想定している以上に目標 の間近にいる plus près du but qu’elle [=l’humanité] ne le suppose elle-même 」 (DS,310-1)―引用G. 69.

参照

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