惟
規
説
話
の
伝
承
1﹃俊頼髄脳﹄と﹃今昔物語集﹄の関係ー
鈴
木
徳
男
注− 注2 ﹃ 俊 頼 髄 脳﹄と﹃今昔物語集﹄の関係について、両書に共通する説話の存在から、前者が後者の出典と見られ、主 として﹃今昔物語集﹄の成立時期の上限に関わり論じられてきた。研究史の上で、二書の﹁直接関係を立証した﹂︵池 一 上 洵一編﹃日本文学研究大成今昔物語集﹄﹁解説﹂︶と評価されるのは、今野達氏﹁今昔物語集の成立に関する諸問題1 15 俊 頼 髄 脳 との関連を糸口にー﹂︵﹃解釈と鑑賞﹄昭和三八年一月︶である。今野達氏の論考は、両書に共通する説話の十分 一 な酷似性、先行共通母胎の仮設を許す条件が認められないことから直接的引用関係ありとし、さらに﹃今昔物語集﹄ 巻二十四第五十七話︵次に取り上げる藤原惟規の説話、なお後掲︶を通して﹃俊頼髄脳﹄の先行性を確認している。今野 達 氏 の 論 考はじめ先学の願尾に付して、両書の関係を﹃俊頼髄脳﹄の側から再検討し、直接関係の有無に関わらず、 この両書がかなり遠い位置にあるだろうことを試みに述べようと思う。 二 注3 ﹃俊 頼 髄 脳﹄中に、以下に引用するような説話が載る。いわゆる定家本による。歌番号を付す。A
二八四あさくらやきのまうどのに我をればなのりをしつ﹀ゆくはたがこぞ此 寄 はむかし天智天皇太子にておはしましける時ちくぜんのくに﹀あさくらといへる所にしのびてすみ給けり。 そのやをことさらによろずの物をまうにつくりておはしけるによりきのまうどのとはいひそめたりける也。世に つ ﹀み給へる事ありて宮こにはえおはせで、さるはるかなる所におはしける也。さてつ﹀み給へるがゆへにいり くる人にかならずとはぬさきに名のりをしていでいれときしやうをおほせられたりければかならずいでいる人の 名のりをしたるとそ申つたへたる。このうたを本たいにしてきのまうどのに名のりをしてよむなり。 B大さい院と申けるさい院の御時に蔵人のぶのり女ぼうに物申さんとてしのびて、よるまいりたりけるに、さぶら い どもみつけてあやしがりて、いかなる人ぞととひたずねければ、かくれそめてえたれともいはざりければ、み か どをさしてとぶめたりけるに、かたらひける女ぼう、院にかxる事なん侍と申ければ、あれは寄よむものとこ
そきけ、とくゆるしやれとおほせられければ、ゆるされてまかりいつとてよめるうた 一 二会かみがきはきのまうどのにあらねどもなのりをせぬは人とがめけり 16
とよめる・ 一
Cさい院きこしめしてあはれがらせ給て、このきのまうどのといへる事は我こそき﹀し事なれとておほせられける 事 を女房うけ給て、こののぶのりにかたりければ、この事よみながらくはしくもしらざりつる事なりとて、この ことのわびしかりつればこの事をよくうけ給らんとてありける事也けりとてよろこびけるとそ、もりふさかたり し。そののぶのりがせんぞにてよくきxつたへたるとそ。A
BCを付し便宜的に三段落に分けて引用した。Aの段では﹁あさくらや⋮﹂の古歌が詠まれた事情について述べて いる。﹁このうたを本体にしてきのまうどのに名のりをしてよむなり﹂といってそれが故事になっていることを示して いる。Bの段では﹁あさくらや⋮﹂の歌を本体に詠歌した例のような形で、惟規が﹁かみがきは⋮﹂の歌を詠んだ話 を語る。Cの段では惟規詠に感動した大斎院がAの段に載る故事を伝える。注4 この説話について、すでに私も拙稿﹁﹃俊頼髄脳﹄の周辺﹂︵﹃国語国文﹄第六四巻第一号、平成七年︶で考察している ︵以 下 旧稿という︶。和歌の出典など︵﹁あさくらや⋮﹂は新古今集、﹁かみがきは⋮﹂は金葉集にそれぞれ採られている︶の注 釈 的 事 項 は旧稿にも触れたことでもあり省略に従い、さっそく旧稿で﹁本文上にも何らかの錯誤が存するかも知れな い﹂として考察を保留しておいた本文の問題を検討してみよう。︵旧稿のいたらなかった所を今回私なりに補いつつ検討し ようと思うので、旧稿をあわせて参照いただければ幸いである。︶ 注5 問題の箇所はCの段で、顕昭本では次のようにある。 大 斎 院聞食てあはれがらせ給て、此木の丸殿といふことはしかくきxし事なりとて仰られて、とくゆるしやれ とさぶらひをめして仰られければいでにけり。女房にあひたりけるに此ことはさぞと仰られつるとかたりけるを
き﹀て、此事よみながらとし比おぼつかなかりつることをき、あきらめつるとよろこびけるとそ。此斎院はむら 一 か み の御むすめなればさだめてしろしめしたらんとそ、のぶのりも申ける。其のぶのりは候しもりふさが先祖な 17
れ ばきxつたへてまうしx。 一 後 述 するように顕昭本の本文が善いように思われるが、それでも判然としない部分が残る。第一に﹁其のぶのりは候 しもりふさが先祖な﹂りというところである。﹁もりふさ﹂は盛房で、その経歴は比較的はっきりしていて、摂関家の 家司であり、俊頼とも近い︵今野氏前掲論文は盛房の存在を﹃俊頼髄脳﹄の先行を証する一根拠にしている、なお旧稿参照︶。 したがって、﹁候し﹂は摂関家に仕えていたことを、また末尾の﹁申しし﹂は俊頼の直接経験を表している。けれども、 盛 房 が 惟 規の子孫である証しがない。従来から不審とされてきた。なお、この部分、定家本の﹁そののぶのりがせん ぞ にて﹂云々では文脈上からも具合が悪いと思われる。 そこで、大胆な推測によって本文の再編を試みようと思う。とっかかりは顕昭本の一文﹁此斎院はむらかみの御む すめなればさだめてしろしめしたらん﹂である。この一文は、﹁⋮よろこびけるとそ﹂で終わるそれ以前の惟規に関す
る説話の信葱性を確認する発言と考えられ、また内容から言っても発言者を惟規とする本文に誤りがあると考えるの で ある。とすれば、下文から盛房の先祖である人物が適当である。 盛 房 の ﹁ おや﹂定成あたりを想定する案はいかがであろう。定成は永承五年︵一〇五〇︶九月従五位上右少弁、同七 年四月七日の小除目で斎院長官となり、二十二日の賀茂祭の斎王渡御に従っている︵﹃春記﹄︶。当時、斎院は謀子。 ところで、新潮日本古典集成﹃今昔物語集=付録﹁説話的世界のひろがり﹂はコつの想定﹂と断って、すでに 次のように説いている。 ﹁ 木の丸どの﹂の歌をめぐる大斎院と惟規の話は、大斎院の文学サロンにかたられたものではなかったか。定成 が 長 官となった頃、大斎院はすでに亡い、しかし定成が長官となった六条斎院謀子の御所には、それがまた当時、
有力な詞花の淵叢であったがゆえに、前代の歌の物語も語り伝えられてあったのではないか。定成から盛房へ、 一 盛 房 か ら経信へ、経信なり盛房なりから俊頼へ、それは伝わったのではなかろうか。 18 斎 院 の 文 学 サ ロ ン に 伝 えられた説話を俊頼が書き留めたという想定は聴くに値する優れた解釈だろう。ただし、先に 一 述べたように﹃俊頼髄脳﹄を顕昭本の本文で読むと、このような伝承の想定が説話全体に及ぶとみるのは無理があろ う。なお、﹁⋮とそもりふさかたりし⋮﹂とある前掲の定家本に従えば、盛房が説話全体の伝承者と解せるが、ここで は前後の記述や内容を勘案して顕昭本の本文を優先させるべきかと思われる。 つまり、私の推定によれば、末尾の盛房がおやの定成から﹁き﹀つたへてまうし﹀﹂内容は﹁此斎院はむらかみの 御むすめなればさだめてしろしめしたらん﹂の発言に限定される。このように実名を出して歌語解釈の裏付け的な発 言を記す場合は本書の他の部分にも見られる。例えば、万葉歌︵三〇〇︶と﹃後拾遺集﹄に入集している経信詠︵三〇 注6
0
b︶についての実綱のコメント︵実綱についても旧稿参照︶など。また、永承四年内裏歌合での詠﹁いはしろのをのへ の か ぜ にとしふれどまつのみどりはかはらざりけり﹂︵二三四︶をめぐって、作者資仲が述べた内容を子の顕実が聞いて申したと記している箇所︵で−のちにひとのかたぶきければようもしらぬ事いふなりとそ作者申されけるとその人のこのあ きざねのさいしゃう申されし﹂︿定家本﹀︶などは、親の発言を伝える子の言葉として書きとめた例である。 三 では、木の丸殿の故事や﹁あさくらや⋮﹂の歌を本体にして歌を詠み、難を逃れ、さらにその故事を聞いて喜んだ 惟 規の説話の伝承は、どのような事情によって俊頼のもとにもたらされたのか。本書にみえるもうひとつの惟規の説 話︵なお、惟規の歌はさらに、﹃今昔物語集﹄にも共通話のある呉松孝の説話をふまえる一首がある︶によって、あらためて 考 えてみたい。惟規の辞世の歌﹁都には恋しき人の⋮﹂︵﹃後拾遺集﹄に﹁京に侍りける斎院の中将がもとにつかはしける﹂ の 詞 書 で 入 集、この斎院の中将が先の説話の﹁語らひける女房﹂という︶をめぐる説話である。先の惟規説話をーとし、こ 一 の話を惟規説話11とする。今度は顕昭本で本文をあげる。 19
為善と申儒者の子に惟規と申ものありき。おやの越中守に成てくだりける時に蔵人にて得くだらでかうぶり給て 一 のちにぞまかりける。みちより病をうけていきつきければ、かぎりなるさまになりにけり。おやまちつけてよう つ にあつかひけれどやまざりければ、いまは後のよの事を思へとてまくらがみに僧ゐて、後の世の事は地獄はひ たぶるに成ぬ、中有といひてまださだまらぬほどははるかなる荒野にとりけだものなどだになきに、たゴひとり あるこxろぼそさ、このよの人のこひしさなどのたえがたさを﹀しはからせたまへなどいひければ、めをほそめ に見あけていきのしたに、その中有のたびのそらにはあらしにしたがふもみち、かぜにしたがふをばな、このも とにまつむしすゴむしのこゑなどはきこえぬにやとためらひつ﹀いきのしたにいひければ、僧にくさのあまりに あららかに、なにのれうにたつぬるぞと﹀ひければ、さらばそれみてこそはなぐさめxとうちやすみていひけれ ば、僧この事ものぐるおしとてにげてまかりにけり。さる人の心ばえもありけりとしろしめさんれうにやくなけ
れ ど申なり。おやありてめのはたらかんかぎりはとて、そゐxてまぼりければ、二のてをさ﹀げてありければ心 もえで見ゐたりけるに、ものか﹀んとおぼしめすにやと人のこ﹀うえて申ければ、うなづきければ、ふでをぬら してかみをぐしてとらせたりければ、かきたる寄 四三五みやこにもこひしき人のあまたあればなをこのたびはいかんとそ思ふ はてのふもじをば得か﹀でいきたへにければ、おやこそさなめりと申てふもじをばかきそへてかたみにせんとて をきて、つねにみてなきければ、なみだにぬれてはてはやれうせにけるとかや。 ﹁為 善 と申儒者の子に﹂は、誤りで﹁為善﹂は為時とあるべきところ。定家本も﹁ためよし﹂とあり、﹁為時欺非儒﹂ と傍書する。﹁おやの越中守に成てくだりける時に﹂も誤り。為時には越中守になった閲歴はない。定家本が﹁越後欺﹂ と傍書するよ、つに、.﹂.、は越後守とあるべきと.、ろ。法フ此臼物語集暮三±﹁藤原惟規趨中国死語第二+八﹂は、 一 この説話に取材しているが、その冒頭は次のようにあり、﹃俊頼髄脳﹄の誤りを踏襲している。 20
今 昔、越中ノ守藤原ノ為善ト云ケル博士ノ子二、惟規ト云フ者有。為善ガ越中ノ守二成テ下ケル時二、惟規ハ当 一 職ノ蔵人ニテ有ケレバ、否具シテモ不下ズシテ、叙爵シテ後ニゾ下ケルニ、惟規道ヨリ重キ病付タリケレドモ、 然 トテ道二可留キニ非ネバ、構テ下リ着ニケリ。国二行キ着ケレバ、限ナル様二成ニケリ。 さて、惟規は、寛弘八年︵一〇二︶の秋、越後で没したとされている。すなわち、父為時は、寛弘八年二月一日に 越 後 守 に任ぜられ、時に正五位下︵﹃弁官補任﹄︶、同年六月二十五日の一条天皇御大葬以前に惟規も越後に赴くかと説か れる。その時の惟規と都の人々との通信が残っている。﹃伊勢大輔集﹄に﹁惟規が越後へ下りしに﹂の詞書で﹁今日や さは思ひ立つらむ旅衣身に馴れねどもあはれとそ聞く﹂とある。惟規の方からも途上から便りを送る。﹃後拾遺集﹄に ﹁ 父 のともに越後にまかりけるに逢坂のほどより源為善朝臣のもとにつかはしける﹂の詞書で﹁逢坂の関うちこゆる ほ どもなくけさは都の人ぞ恋しき﹂とある。為善からの返事は生前の惟規に届かなかったらしい。﹃難後拾遺﹄には﹁⋮
これは為善が語りしは惟規がこの歌をよみておこせて侍りしかへりごとを越後につかはしたりしに惟規は失せて父為 時 が 返 事 をいとあはれにかきつけてして侍りし、いまにうしなはで侍りしとこそ申しめりしか﹂とある。﹃難後拾遺﹄ の 著 者 経 信 は、親しい為善から、惟規の父為時の手紙の存在とともに、その経緯を聞いている。想像するに、経信は 為 善 か ら惟規の臨終の一部始終を伝えられたのではなかったか。そして、その伝承は、経信から俊頼へと伝えられた。 なお、﹃袋草紙﹄によれば俊頼筆の﹃難後拾遺﹄があったという。また、説話の冒頭の惟規の父を為善と記した誤りも 注9 こうした伝承過程と何か関わるのかも知れない。やはり事情は不明ながら伝承者が当事者として誤って記載される例 が 他にもある。﹁実綱が伊予守にてくだりけるに﹂で始まる能因の祈雨説話において、実綱の父資業が当事者で、当事 者 か のように記される実綱は、説話の伝承者であった︵なお旧稿参照︶。要するに、経信から俊頼へ受け継がれたと理解 でき論の場△口同様木の丸殿をめぐる話も含めて、惟規説話は、経信を経て俊頼にもたらされたと推定できるので 一 はないか。 21 一 四 さて、論を惟規説話1に戻そう。共通する﹃今昔物語集﹄巻二十四﹁藤原惟規読和歌被免語第五十七﹂は次の通り。 今昔、大斉院ト申スハ、邑上天皇ノ御子二御座ス。和歌ヲナム微妙ク読セ給ケル。 其 ノ斉院二御座ケル時、藤原惟規ト云人、当職ノ蔵人ニテ有ケル時二、彼ノ斉院二候ケル女房二忍テ物云ハムト テ、夜々其ノ局二行タリケルニ、斉院ノ侍共、惟規局二入ヌト見テ怪ガリテ、﹁何ナル人ゾ﹂ト問ヒ尋ケルニ、隠 レ初ニケレバ、否誰トモ不云デ有ケルヲ、御門共ヲ閉テケレバ、否不出デ有ケルニ、其ノ語ピケル女房思ヒ佗テ、 院二、﹁此ル事ナム候フ﹂ト申ケレバ、御門ヲ開テ出シケルニ、惟規出トテ、此ナム云ケル、 カミガキハキノマロドノニアラネドモナノリヲセヌハ人トガメケリ
ト。後二、斉院此レヲ自然ラ聞食シテ哀ガラセ給ヒテ、﹁木ノ丸殿ト云事ハ我レコソ聞シ事ナレ﹂トゾ被仰ケル。 彼ノ惟規ガ孫二盛房ト云者ノ伝へ聞テ語リシ也。 彼 ノ惟規ハ極ク和歌ノ上手ニテナム有ケル、トナム語リ伝ヘタルトヤ。 前掲の﹃俊頼髄脳﹄引用のBとCの部分に当たる。木の丸殿の故事を語るA段落が落ちていると、﹁木ノ丸殿ト云事ハ 我レコソ聞シ事ナレ﹂の内容が不明で、C段落の意味がわかりにくい。木の丸殿の故事を聞いて喜ぶ惟規が省略され て いるのは当然である。定家本の本文の不審箇所﹁そののぶのりがせんぞにてよくき﹀つたへたるとそ﹂が﹁彼ノ惟 り 規ガ孫二盛房ト云者ノ伝へ聞テ語リシ也﹂と整理され説話の事実らしさを意図する表現になっている。このように両 書を比較すると、冒頭の﹁大斉院ト申スハ、邑上天皇ノ御子二御座ス﹂が、顕昭本の﹁のぶのり﹂の発言となること が 気 になるが、C段落は省略整理されているうえに、定家本の本文によっていることが知られる。 一
﹁ 和 歌 ヲナム微妙ク読セ給ケル﹂大斎院と﹁和歌ノ上手﹂惟規との交流の説話に改められている以上に、定家本の 22 本 文 に 近 い 形 で 省 略 整 理 されていることは・大きな意味を持っている・前述の推論に従えば、﹃今昔物語集﹄は、すで 一 に 混 乱 した﹃俊頼髄脳﹄の本文を受容していることになるのである。 注 1 ﹃今昔物語集﹄と﹃俊頼髄脳﹄に共通する話といっても、そもそも説話集と歌学書という枠組み自体が異なるのであ るが、﹃大和物語﹄などと同様、非常に酷似した表現や内容を持つ話もあれば、異伝と言えるようなもの、人物やテー マは同じでも全く別な伝承に基づくものなど、多岐にわたる。次の一覧表中、ゴチック体で示した十四話が先学によ って直接関係があると認定されているもので、稿者も認めるところである。他は人物やテーマが一部でも重なるか、 あるいは同じ和歌が採られている場合である。一覧にしていないが、芹摘む説話のように、﹃俊頼髄脳﹄では無名の庭 掃きの賎の男の高貴な女性への及ばぬ恋の話として現われたものが﹃今昔物語集﹄では行基の前生謹として素材的に
類 似 の 話 ︵い わゆる真福田丸話であるが、ただし﹃今昔物語集﹄には芹摘む行為はなく、両者の間に﹃奥義抄﹄など に 採 られた話を置いて参考にしないと類似性は薄い︶が語られる例もある。 ﹃今 昔 物 語 集﹄と﹃俊頼髄脳﹄の共通話一覧 今 昔 物 語集 俊頼髄脳︵頁数︶ 備考︵キーワード、歌初句・番号︶ 巻 ー 話 日本古典文学全集 日本歌学大系 十 ー 一 一五七 一七一 秦=世 一毛工三七四 十 ー 四 一五九 一七一 張驚 一毛六 十 ー 五 二三七 一一〇七 王昭君 些茜・四完 十
ー七 二四〇
二 〇 八 楊 貴 妃 四 昌六 十 ー 八 二四四 一=O 呉招孝 囚一一七 十 ー 九 一一四七 一=一 孔子 些天+ー二+九 =ハ一 一三 †和昌宅 ↑
十ー三十 一五八 一七一 蘇武昌完
一十一 − 一 四四 一一九 聖徳太子二・三
十一 ー 三 一五二 一六九 役の行者美四 十一 ー 七 六七 =二〇 婆羅門僧正 五八.五九 二 十 四ー 二十三 七九 =二六 蝉丸 会 二 十 四1 三十八 二〇五 一九二 見る人も・三四九 二 十 四ー 四十七 九八 一四四 人しれず・一四五 二 十 四ー 五十一 七〇 一三二 我が宿の.六七 二 十四ー 五十五 八二 一三七 老い果てて・九= 二 十 四ー 五十七 一七〇 一七六 惟規・木の丸殿 =全二 十 七 ー 一一十八 二六四 一=八 京極殿の霊 ︵ 二 十 九︶ 三 十 − 八 六〇 一二七 浅香山・三七 三十 ー 九 一七七 一七九 夷母棄山 二空 三 十 ー 十三 一六八 一七五 雌燕不嫁他人 二△ 三 十 ー 十四 一一一八 一五八 人妻化成弓 三六 三十一ー 二十七 一二五 一五六 鬼のしこ草 二三三三 三十一ー 一一十八 一一五四 一=四 惟規・越中の死 讐三 三十一ー 三十四 七〇 =二二 箸墓・三輪山伝説六四 2 注1の表中、ゴチック体で示した十四話の内でも、現状では、﹃今昔物語集﹄が﹃俊頼髄脳﹄以外の伝承資料をも用い
ていると考えられる場合もある。小峰和明氏﹃今昔物語集の形成と構造﹄︵昭和六〇年︶﹁1資料と周辺﹂﹁第二章 震 一 る
賜繍怪殼ほ.離鐸麟人竃㍊聾鷲纏踊鰯鞍竃鮭舞鯉↓
料からこの種の話柄をまとめて翻訳・配列した可能性もあるように思う﹂と述べている。また、楊貴妃の話︵七話︶ について、例えば、橘健二氏﹁﹃今昔物語集﹄と﹃俊頼髄脳﹄との関係﹂︵奈良女子大学文学部付属高校﹃研究紀要﹄ 第5集、昭和三七年一二月︶は、﹁源道済の歌の解釈の表現としてのみ導き出され認められるべき﹂箇所が道済歌を持 たない﹃今昔物語集﹄において不自然な末尾の部分に見えるのは﹃今昔物語集﹄が﹃俊頼髄脳﹄の本文に明らかに依 拠 している証拠と論じたが、同話中、楊貴妃が殺害されるくだりに注目すれば、現存の﹃俊頼髄脳﹄に見えない殺害 者 陳 玄 礼 の 登 場 など、直接関係が否定される面もある。池上洵一氏訳注東洋文庫﹃今昔物語集﹄も、最後の評語の部 分 で ﹁安 禄 山が殺したのも世を正すためであったから⋮﹂とあるところを注して﹁本話は全体的には﹃俊頼髄脳﹄に よりながら、楊貴妃殺害の場面には別の伝承を利用している。安禄山が殺したというこの結語は、あたかも殺害場面 の改変を忘れ、﹃俊頼髄脳﹄の記事によってのみ導き出された観がある﹂と説く。他の震旦部の共通話については、宮 田尚氏﹃今昔物語集震旦部考﹄︵平成四年六月︶﹁五章資料への再評価﹂﹁3俊頼髄脳の活用﹂、池田富蔵氏﹃源俊頼の研 究﹄第四編第一章﹁俊頼と今昔物語集﹂などがあるが、宮田尚氏著のコ章序説﹂﹁1震旦部研究略史﹂中に﹃今昔 物 語集﹄震旦部と﹃俊頼髄脳﹄の関係にふれる従来の研究がまとめられている。 3 定家本は、俊頼髄脳研究会編﹃国会図書館蔵俊頼髄脳﹄︵平成一一年一〇月、和泉書院影印叢刊92︶によるが、適宜に 句読点、濁点を付し傍書などを略すなど一部表記を改めた。引用は以下同様。なお、この部分について、B段一行目 ﹁蔵 人 の ぶ のり﹂は﹁蔵人のぶなり﹂とあり、同最終行﹁とよめる﹂は﹁とめめる﹂とあるのを改めた。 4 なお、福島尚氏﹁朝倉の伝承と詠歌ー﹃十訓抄﹄一ノニから三への話題展開の文学的背景ー﹂﹃高知大国文﹄第二九号 ︵ 一 九 九 九年三月︶は、﹁あさくらや⋮﹂をふまえた詠作例を﹃十訓抄﹄の時代に至るまで丹念にたどって、その様相 を明らかにしている。 5 顕昭本は、俊頼髄脳研究会編﹃顕昭本俊頼髄脳﹄︵平成八年三月、私家版、底本は京都大学付属図書館蔵本︶による。 なお、この部分について、一行目﹁事なりとて仰られて﹂は﹁事なりとく仰られて﹂とあるのを改めた。 6 ﹁神風や伊勢のはまをぎをりふせてたびねやすらんあらきはまべに﹂︵三〇〇︶と﹁君が世はつきじとそみる神風やみ
もすそ河のすまんかぎりは﹂︵三〇〇b︶の二首をめぐ・て・先人の言により﹁神風三神の御めぐみの意味である旨 ↑
を説いている箇所であるが、実綱は﹁はまをぎとよめるは、をぎにはあらず。あしをかの國にははまをぎといひなら ↓ はしたるなり。みもすそがはとはかの大神宮の御前にながれたる河也。いかでこの河はいまxでよみのこしてをきた りけむ﹂と述べている。﹁みもすそがは﹂を詠み込む詠作例が﹁君が世は⋮﹂以前にも見いだせるが︵用例については 安井重雄氏のご教示による︶、ここは、﹁神風やみもすそ河の﹂というフレーズにおいての発言と思われる。 7 ﹃今昔物語集﹄の引用は、日本古典文学全集︵小学館︶所収本による。傍訓は略した。巻二十四は実践女子大学蔵二 十六冊本、巻三十一は東京大学国語研究室蔵十五冊本が底本。 8 なお、﹃俊頼髄脳﹄にない﹃今昔物語集﹄の末尾は、次の通り。 父京二返リ上テ語ケレバ、其ノ比此ヲ聞ク人極ク哀ガリケリ。 此 ヲ思フニ、何カニ罪深カリケム。三宝ノ事ヲ心二懸テ死ヌル人尚シ悪道ヲ遁ル・事ハ難カナルニ、此レハ偏二其 ノ方ヲバ離レケレバ悲キ事也。此ナム語リ伝ヘタルトヤ。 小 峰 氏 前掲書︵一四六頁以下︶がすでに論じているように、全編に親の愛が強調されているが、この結末部にも父が 京 に戻ってこの話を語り聞く人の涙をさそったとある。さらに、﹃俊頼髄脳﹄の主題は﹃今昔物語集﹄に見えない﹁さ
る人の心ばえもありけりとしろしめさんれうにやくなけれど申なり﹂の一文が示すように、惟規の︵臨終の際にも和 歌 的美を希求する︶﹁心ばへ﹂への理解を教えるところにあろうが、これとは対極的に、右の評語は、惟規の心を罪深 いとする。小峰氏は﹁今昔物語集の本質が露呈した好例﹂と説かれるが、確かに両者の違いは大きい。 9 惟規説話IHをめぐる関係事項を略年表にすると、次のようになる。 天延三年︵九七五︶ 選子内親王、この年から斎院、長元四年︵一〇三一︶まで奉仕。 寛弘四年︵一〇〇七︶正月 惟規、任蔵人。 ﹁大斎院と申しける斎院の御時に蔵人惟規女房に物申さむとて﹂︿俊頼髄脳﹀ 寛弘八年︵一〇=︶二月一日 為時、任越後守。時に正五位下。︿弁官補任﹀ 六月二十五日 一条天皇御大葬。これ以前に惟規、越後に赴くか。
秋惟規、越後で没か。
長 和三年︵一〇一四︶六月十七日 為時、越後守を辞す。︿小右記﹀長 和 五 年︵一〇一六︶四月二十九日 前越後守為時、出家。︿小右記、五月一日条V 一
長 久 三
年二〇四三+月百 為萱没︿国筆従兄弟に道済姉妹に経毎がおり、能因などとの交友 ↓
があった﹀ 永 承 七 年 ︵ 一 〇 五 二︶四月 定成︵盛房父︶、斎院︵謀子︶長官を兼任。 承保二年︵一〇七五︶ 盛房、斎院次官か。︿異本﹁三十六人歌仙伝﹂奥書﹀ 応 徳三年︵一〇八六︶十月中旬 ﹁後拾遺集﹂、奏覧。 この前後に奏覧本定稿によって経信、﹁難後拾遺﹂を著す。 ︿﹁袋草紙﹂によれば俊頼筆の﹁難後拾遺﹂があったという﹀ 永 長二年︵一〇九七︶閏正月六日 経信、没。︵長和五年く一〇一六V生︶ 康 和五年︵一一〇三︶ ﹁殿暦﹂の七月二日条が盛房の現われる記事の最後。 永 久 二 年︵二一四︶ ﹁俊頼髄脳﹂成立の下限︵上限は天永二年︿二=﹀初めか︶ 天治元年︵=二四︶ ﹁金葉集﹂︵初度本︶成立。 大 治四年︵=二九︶ 俊頼、没。︵天喜三年く一〇五五∨生︶﹁今昔物語集﹂の成立︵﹁概ね西暦一=二〇∼四〇年代の成立か﹂池上洵一氏﹁鈴 鹿 本を見つめる﹂註4の所説く﹃鈴鹿本今昔物語集1影印と考証ー﹄所収、平成 九 年五月∨︶ 10 錦 仁 氏﹃中世和歌の研究﹄︵平成三年一〇月︶﹁第二章源俊頼の表現﹂﹁﹃俊頼髄脳﹄の歌論﹂にも﹁頼通や公任から父・ 経信へ、そして父・経信から子息の自分へと歌学知識や詠歌の精神が伝えられてきた︵中略︶という自負と自信に満 ちた自己認識﹂がしばしば繰り返されていると、具体例を指摘しつつ論じている。私見ではこの惟規説話の場合もそ の一例に数えられると思うのである。 11 ﹃ 俊 頼 髄 脳﹄の伝本中にも﹁守房は延則子孫にて聞つたへたる也﹂︵静嘉堂文庫蔵﹁俊頼口伝集﹂︶のように、﹃今昔物 語 集﹄と同一方向の改変と思われる本文がみられる。 一 27 一