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リットの現代教育論

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Academic year: 2021

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(1)Title. リットの現代教育論. Author(s). 西, 勇. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 15(1): 13-24. Issue Date. 1964-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3885. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 「 1 ; i. . ・ ー モ. 第15巻 第1号 C. 北海道学芸大学紀要{第一部). 昭和39年8月. r .. → : ・. リ. ッ. ト. の. 現. 西. 代. 教. 育. 』 :-. 論. - -. 勇. 」 . ・. 北海道学芸大学旭川分校教育哲学研究室 ’ l t samu N1sHI: Th. Li t ion s Vi ew of Present ‐day Educat. (一) 「今日の人間は, 安らかな信頼の感情から突然放り出されてしまっ たので 再び 自分の実存が , ,. das 駅r l 何処から何処へ ( ohert nddas 駅ァohi n) ゆ く の か と い う こ と を 明 ら か に し, こ の よ う な 運 命. を現出し得た前提を究明し, そしてこうなっ た現存在 に開示されている見込みをば判定 しなければ. ) こ れ は 戦 後 リ ッ トの 主 著 と も な ら な い と い う, の っ ぴ き な ら な い 必要 を 痛 感 して い る の で あ る」1 。. いうべき 『人間と世界』(Men t ) な る 書 物 の 中 に 語・ら れた 言 葉 で あ る こ の 数 行 s chund 頓′el ,1948 。 の文字から読みとられる現代人の緊迫した歴史的な問題意識は また戦後リッ トの著作すべてに充 ,. 溢 する 探 究 精 神 の 根底 を 貫 い て 流 れ て い る と こ ろ の も の な の で あ る 『歴 史 と 生』 (Gesch i cht eund 。 Leben,1917 ) を は じめ て 公刊 して 以 来, 常 に 歴 史 の 問 題 を め ぐ っ て そ の 思 索 を 深 化 発 展 さ せ て き た り ッ トに と っ て, 第 二 次 大 戦 後 に お け る ドイ ツ の 現 実 が ドイ ツ 国 民 の み な ら ず 全 人 類に と っ て の 痛. 恨な歴史的反省と歴史的覚 醒を呼びさまさずにおかぬものとして映じた のも当然であろう 第二次 。 大戦の破局的な終鴬を迎えて, 混乱と虚無の中を紡錘するばかりのこの悲劇的な ドイ ツの現実に 深 く沈潜することによっ て, 彼はそ の底に危殆にひんす る歴史的実存の回生の可能性を追求 していっ た。 従っ て彼の場合, その真拳な論 理的模索の闘いはひたむきな祖国再興への情熱とともに 常に , 現実への関心と絡みあっ て続けられたのである。 この小論では, 戦後も数多く刊 行されたりツ トの著書のうちのいくつかを通して 彼の教育学 , 的思索が敗戦国 ドイ ツをめぐる歴史的 現実に根 ざしたなまなましい問題意識や危機感によっ ていか に触発され, 漉過され, そして凝結していっ たかを眺めてみることにしたい まず 敗戦の傷痕もま 。 , だいたいたしい祖国 ドイ ツのソヴェ ト占領地区で 開催された職業学校教師会議の席上で彼が行なっ た講演に手を加えたといわれている『職業陶冶と 「般陶冶』(Be f l dungund AI Igeme i i l dung, ru sb i nb 1 94 7 ) な る書物をばとりあげてみよう。 これを読んでみてわれわれは かっ て1807年仏軍の 牒網下 , にあるベルリンにおいて,国民の道徳的堕落を救済するには国民教育を根底より改良し 倫理的新 時 , 代を創らねばならないと絶叫 したかのフィヒテの講演 『ドイ ツ国民に告ぐ』(Redenan di e deutsche Na i t ) を 想 起 す る で あ ろ う。 そ れ 程 熱 っ ぽ く 彼 は 敗 戦 後 ドイ ツ の教 育 再 建 に つ い て 格 調 高 on,1807 い言 葉 で 語 っ て い る の で あ る。. リッ トは教育再建への新らしい道を説くご こ際して, 何よりも強く否定したのは 《現実を疎外す d W k l i h k f i i d るような観察》 {i srem e Be e r c et t ) で あ っ た。 彼 に よ れ ば 教 育 学 的 思 惟 の 発 rachtung ,. 想は歴史的な教育現実そのものに根 ざし,.その現実へ の直視と明察とから一切の教育学的課題が提 起されな ければならないのである。 そこで彼自身 敗戦という歴史的転換の時機に遭 遇した ドイ ツの. 教育現実に仮借なき解剖のメスを入れ, 深部にひそむ禍根を完膚なきまでにあばいてみせる 。 リッ トは言う。 敗戦国 ドイ ツの低迷した教育現実のいわば 《実存の零点》(de l rNul punktder 【 13 -.

(3) . 勇. 西. -. Ex i ) にまでお りてゆく ならば, これま での ドイ ツ教育界を支配していた教育学的定式と 今 日 t s enz の冷厳な現実とを容赦なく断絶せしめている測りしれない深淵につきあたることであろう。 この深 をい 淵にのぞんでは, かっ ての教育 危機をきりぬけてきた これまでの諸々の教育学的な立案や方策 ま さ ら の 如 く に 再 び ふ り ま わ して み て も, 所 詮 そ れ は ア ナク ロ ニ. ) 従っ て 今 ズ ム に 陥 る し かな い2 , 。. ながらも, やはりその厳しい 日の 教育者は事 態の転倒と壊滅による一切の重圧とその責 め苦に耐え ば 実存の零点》 なるき 教育現実をまさ しく自らのものとしてふまえてかかるよりほかない。 いわ 《 ある 。 わみにおりて教育の新 らしい可能性をまさ ぐっ てゆかねばならないので l dung i ) な るも の な 《教 養》 ( e ne Bi そ の た め に も, こ れ ま で の ドイ ツ 的, あ ま り に も ドイ ツ 的. 《教養》--それは魂の に徹底的な省察を加え, その概念内容 を検討しなおしてみる必要 があろう。 d i rm) と もよばれる べきものが, 流動する現存在の中に確固たる立場を据 einnere Fo 《内的形相》( 害に抗して自己の信条を えた り, 価値と非価値とに対する明確な洞察を与え たり, また, 内外の侵 3 ) 教養 》 というものをばこの 《 貫いたりする時にみられる心的態度だといっ て よいだろう 。 しかし, な可能性 逃 なイ デー と して 受 け と っ て み た と こ ろ で そ れ が 真 の 《教養》 となり得るよう よ うに高. ,. れ去っ て しまっ た を支えるいろいろ な前提は, 残念ながら, 今日の ドイ ツではその破局とともに崩 《実存の零点》 に廻り投 の で あ る。 従 っ て, 今 日 の 時 代 の 新 ら しい 《教養》 はこの ドイ ツ的現実の と頒廃に押 げられた ところ から新らしく探索されなくてはなるま い。 ところが国民は終戦後の混乱 パ ンの 糧 きる ただ今日を生 な人間陶冶の理念追究には耳を かさず口を黙して し流されて, そのよう, なる言葉は何の をのみ求 めて必死と なっ ている。 かかる現実のみ じめさと貧しさの前では 《教養》 理 由 は こ れ だ け で は な い。 魅 力 も な く, 色 あ せ た う つ ろ な 響 き し か も た な い の で あ る。 し か し,. 変節背信を鋭 ここでリッ トは言葉を続けて戦争の指導者層, 並びにこ れに与した 知識人たちの である。 はたして彼等が くつき, 彼等が 誇りとして きた 《教養》 に激しい不信の念を投げつけるの 敢然として権謀術策への 誘 自己賞讃を惜 しま なかっ た 《教養》 は, 危険や圧 制がふりか かっ た時, こた効き目を表わ したで あろうか。 権力や暴力 惑に不死身のような抵抗 をふるいたた せる護符に も{ その 《教養》 はなすがまま による不当な抑圧 や歪曲が ドイ ツの精神的現実の上にのしかかっ た時, 儒を歎いたのではなかっ の時流に溺惑し, あるいは畔さすことによっ て力の 前に拝脆し, 自らの怯 せた期待は見事に裏切 たか。 おもいあがっ た偽善とこけお どしの虚飾。 いずれにせよ,《教養》に寄 ら れた の で あ るノ. ] ち な み に 戦 争 中 の 指 導 者 と そ れ を.と りま い た 知 註- ー一 と り ツ トは 手 厳 し い[ 。. 追随し, ソロ 識人たちの姿 を回顧してみるがいいだろう。 確固たる批判力 もなくただ権力 の趨勢に ら国家の支配者や民 バ ンをは じいては叩頭 におもねり, あるいは, 神がかりへの拝 趨に随喜 して自 ・ヘのB r諸に投 じた人のい かに多かっ たことか。 しかも, その札弾さ れなければなら ぬ反 a 族の破滅者 その完成者と して 賊破減の徒が ドイ ツの本質形成の保護者 ないし監督者 として, はなはだ しきは, あ う こ の よ う な こと を 想う に 高 き 座 に 君 臨 して い た の で あ る。 な ん と い う 醜 悪 き わ ま る こと で ろ 。. ドイ ツ生命の偉大な力 つけ, ドイ ツ知識人の所有して いた 《教養》 が危機の時代に対 決して立派に という言葉が唾棄す 》 教養 になっ たなどとは おせじに もいえぬことである。 だから今日 ドイ ツで 《 た緊迫と貧窮 べきものとして国民からそっ ぽ向け られたのは, 単に敗戦直 後の ドイ ツの生 活を襲っ ドイ ツ的《教養》 のみが原因であっ たのではなく, 上述したように, これまで上 から喧伝さ れてきた 4 ) ;に対する国 民の不信や憤癒が根強く横たわっ ていた からでもある 。 の暴露されたその恥 ずべき本性 4 て 〔註一〕 こ こ で わ れ わ れ は リ ッ トが 1937 年 か ら 終 戦 の 5 年 に わ た っ , 発的に教壇を去った彼の良心を信じていいであろう。. ヒ ッ トラ ー の 《第三帝国》 の時代に自. ねばならぬ教育者 リ ッ トは続けて 語る。 それでは混 迷の漂泊を続ける教育現実に対決してゆか - 14 -.

(4) . 1. r ー r .. リッ トの現代教育論. のとるべき態度と はどのようなものでなければならな いだろうか。 国家, 民族のこの崩壊と錯乱の 事態に-向頓着しないでただ臆説空論に口角泡をとばしている如きソフィス ト的な教師たちには , 正直のところ,もう何も期待出来ない。 彼等のような 徒輩にくらべれば,まだ現代の青年 の方が徹底 的に自己を見つめようとしており, それだけに自己形成への素地を培っ ているといえよう だから 。 と い っ て こ の こ と は 何 も 教 育 者 が 怠 慢 で あ っ て よ い と い う こと に は な ら な い む しろ そ の 反 対 で 青 。. 年は先人のあくなき略着を眺めただけに一層懐疑的な不信の念を燃や し, 憎悪の怒りすら投げつけ ているのである。 だから, すっ かりお膳立てでもして 「出発用意/」 のかけ声でもかければまた青. 年は喜んで自分たちに迫麟してくれるだろうなどと教育者が甘い期待を 抱くならば, それこそおめ でたい限りで認識不足も甚だ しいといわねばなるまい。 今日の青年は疑 惑と不信,虚無 と不安,悦楽. と頒廃の実感の中で現実を意識していよう。 そしてこれまで国家によっ て独占され,宜撫され,美し く飾られてきた世界観があ つれ に も 朽 ち はて て そ の 醜 い 残 骸 を脚 下 に さ ら して い る の を みて と ま ど っ て いる の で あ る。 し か し, 青 年 は ドイ ツ の こ の 現 実 が 背 負 わ せ た 虚 脱 と 放 心 に も か か わ ら ず, た. とえ, おぼろげな予感にせよ, いまや ドイ ツ的現実がせまる最後的な生 の問いかけに触れようとす る。 即ち, それだけ危機の病源でもあるがまた回生の可能性をも学んでいるなまのままの歴史的実. 存にくい込んでいるのである。 そこで体得 した厳しい生活の叡知は, いかに老練な国家操縦 術や巧 妙な経済的手腕を以 、っ てしても, もはやそんなものでこの人間不在の精神的 現実が復元する筈のな いことを青年に教えるであろう。 そういった意味で, 今日の歴史的転換期のさなかにあっ て依然危. 機的な生根源の戦係について何も語るうとせず, 事実また何も語り得ない伝統的 《文化財》 の有識 者たちにくらべれば, 現代のこのような青年の方が遥かに真の《陶冶》( l dung i i ), 真の《教養》 e neB を可 能 に す る地 平 に お りた っ て い る と い え る の で あ る 教 育 者 は 何 よ り も そ して 誰 よ り も こ の こ 。 , と を 誠 ら な く て は な ら な い。 こ の こ と を 謙 虚 に 認 め て か か る こ と に よ-っ て の み は じ め て 教 育者 は ,. 青年の胸裡に共鳴をよぶことが出来るのである。 教育者と青年との間にこのような共鳴がありさ え. すれば, 今日の窮迫した悲惨な時代も決して悲観するものとはならない。 ただ教育者がこのことを 忘れていつまでも頭 ごな しに古い型そ のままの指導者意識をふりまわしたり, そんな態度をほのめ. かすならば, 遂に青年は彼の前で口をかたくつ ぐんでしまうであろう。 教育すべき教師がまず自ら 教育されなくてはならぬと いう教育者自身の謙虚な, しかも真華な反省こそが, 今日の危機に脅え る時代と対決し廃嘘と化した現実をふまえて歩もうとしている青年の信頼をかちとるために何より ) 大 切 な も の で あ る こと は い,う ま で も な い5 。. 以上みてきたように, リッ トは古い教育学 的定式 がもはや今日の教育現実になんの発言権もも. つ べ き で な い と 言 っ た が, 同 じ 基 調 で ドイ ツ の 陶 冶 理 念 に つ い て も 以 下 の よ う に 語・る か っ て フ ン 。. ボルトがすぐれた価値体系にまで高めてくれた ドイ ツの人文的な陶冶理念, それは 《第三帝国》 の 圧制下における ドイ ツの現実を吹きまくっ た歴史的危機の嵐に対 してはあまりにも繊弱で わずか , に逃避と愉安の場所を提供 したに過ぎなかっ た。 即ち, それは歴史的な 現実に背を向けて 社会か , ら個人を遊離させ, 政治から生活を断絶させてひたすら人間的な(個人的な)徳の修養と完成を狙っ てきた。 このように現実疎外の真空地 帯の中で抽象的人格の完成を唱導する ドイ ツ陶冶理念が今日. の歴史的現実の前でも依然と して既得の 先住権を留保 し , 発言権を主張 し得るものだろうか。 事実 かかる人文的な ドイ ツ陶冶理念を要請しその存続を許してきた往時の国家社会の体制条件は今日で は ドイ ツ の 経 済 的 基盤 と と も に 既 に 崩 壊 し て しま っ て いる の で あ る そ の 結 果 流 れゆ く 歴 史 へ の 。 ,. 抵抗力を失っ てただ内なる世界 を甘や ,かし弱めてきた人文理念の高遠な芸 術性がこの冷厳な現実の 硬い壁に突きあたるや, それを突き破ることも出来ずに徒らに低廻し空 しく紡程せ ざるを得なかっ - 15 -. . ・ 1 1 . ・ 1 . , . ● . 1 , . → , 1 1 1 ′ . 1 ● . ・. 1. .. 、 ‘.

(5) . 勇. 西. たとしても当然であろう。 それだけに, もはやこの権威を失墜した古 めかしい人文理念の形骸にい. igke i i t order n Gedankenlos ま な お し が み つ い て, そ の 「無 思 想 性 や 我 執 の 中 で 逆 立 ち して い る」 (. i Ei t rauben) 有 識 者 に 新 ら しい 人 間 像 形 成 のイ デ ー を 求 める こ と は 愚 か し い と い う よ nns chs ・ gens. りも, むしろ大いに警戒しなくてはなるまい。 現代の新らしい陶冶理念は, 歴史的な危機の洗礼を 受け, その変革の試練を通 して現代の つれ わ れ の 前 に そ の あ る がま ま に あ る と こ ろ の 現 実 そ の も の ube )あたかも r の課題領 域の中にこそ懐 胎されているのである。 だから現存在の世界を <超えて>( なに ように考えることは許されない 現代の陶冶理念は しているかの 相が実在 内的生命の秩序や形 。. よりも現実を超絶 した彼岸からこの窮迫と闘争に渦巻く現存在の 此岸へと降りて こ な く て は な ら ぬ。 国家存亡の実存危機をばたくま しく受け とめ, それを照覧 し, 克服してゆくところにのみ真の ) 陶冶 が花開くのである7 。 リ ッ トは ドイ ツの全現実を襲っ た破局の歴史的実存そのものに深く沈潜 するとともに, またそ. こに今日の一般教育と職業教育とが必然的に結 びつく機縁を求めたのである。 このことは職業教育 をその狭い専門領域の枠 内から解放 して, ひろく全生活へのつながりをもたせ, 新らしい歴史的世. 界に対する世界観的要求に息づかせ ることを意味している。 歴史や文化の遺産を継承し発展 させよ うとするものはこのような職業 教育を通 して生活創造への力 強い生産力を発揮 することが出来るの l i i t cheSys em) の 系 e nesach である。 そのためにも, 職業教育は技術と経済との 《即 物 的 な 体 系》( 統的な学習を通して実際的な技能を育成 しな け ればならないこと勿論であるが, いま一歩すすんで この体系そのものの歴史的な発生と形態の把握にまで眼を向けなくてはならない。 即ち, この体系. が要求する即物性の規 定を否定することなく, それを全生 活の中へくみ入れて, そこで生活形成の 創造的エネル ギ←と結びつけることが大切である。 従っ て, 職業教育は小手先だけの技巧や技能の 伝授に終始する教育に留まることは許されない。 それは青年の職業生 活を包括している文化現実の 全体や, 若人の労働丁世界を脅迫 している生活現実の実 体について多くの問題を明らかに し, それら ) もともと人類全体 をや責任をも与 .えるものでなくてはならない8 の究明と変革を志向 してゆく智慧 。 がその願望を裏切 ら生み出された筈の科学 って人類滅亡や文化 の文明の 恩恵を願っ て人間の頭脳か. 破壊の武器 と化 し, また, 人間全体の生 活の繁栄を約 して営まれた筈の経済がその意志を裏切っ て 多くの貧困や搾取をもたら していることを顧みるならば, 職業教育のこういっ た使命は何よりも特 註ニ ] にこれからの教育指導者 たちに充分自覚されていなければならない[ 。 〔註二〕 リッ トはこのように科学技術, 経済生産が今日人類世界の共同の福祉と利益に対し敵対関係に陥ってい る こ と を 指 摘 した が, っ く る も の と っ く ら れ た も の と の 間 に み ら れ る こ の よ う な 文 明 の 二 律背反と も い う. l d i b i ), 即ち,全人間的な生活と努力との ・ enz e An va べき歴史の矛盾的事態の現出をば, かの 《双頭性》( 《双頭性》 に よ る も の だ と 説明 して い る。 (S.46)。 彼 は ま た 別 書 に お い て も, 同 じ よ う に, こ の 《双頭 l i i t t t ) l S chke tund Si t t sgewa aa ,1947 性》 という概念を以って国家権力の二重構造を説明して い る。 ( heo d i i t ) の哲学的解明に結 t t e ur r es ruk 成程, このような説明を歴史的実存に対する彼の 《構造理論》{ びっく文明批判論として傾聴する限り, きわめて示唆多きものがあろう。 しかし, 歴史における経済体制 の規定的な役割と, 人民大衆の決定的な役割とを無視して, 歴史社会的現象にみられる矛盾, 葛藤, 対立, 緊張の一切をその歴史的実存本性の深層に帰着解消させて説明しようとするリッ トの形而上学的甘さはや は り 充 分 警 戒 しな け れ ば な ら な い と 思 う。. 職業教育 が単なる職業知識や職業技術だけの伝達に終始 しないで, ひろく生活そのものにまで. ・ 関 心 を もつ べ き だ と 説 い た り ツ トは, こ こ か ら 更 に 政 治 的 な 関 心 に ま で お しす す む べ き こ と を 譜. る。 何故ならば, 一般に国民生 活のあれこれの窮迫は明らかに国民を相互に争わせるような 《政治 d i 的な分割》( ePolitische Auseinandersetzungen) と 決 して 無 関 係 で は な い か らで あ る。 そ して リ ツ ー 16 -.

(6) . リッ トの現代教育論. 9 ) と提言するのである 彼の所 論 を 追 トはここで 「教育は政治的に陶冶 してゆかなければならぬ」 。. っ て み よ う。. 政治教育というものがさま ざまな政治的対決を内包している立憲の形式的な枠につい てただ法 制的な説明や解釈を加えたり, もしくは, 単に政治的現象の状況報告だけで充分だと考えるような ものだっ たら, それらは言葉の正 しい意味において政治的課題に対決する教育だといえないであろ. う。 一般に政治とは, 敵対 した権力が社会に自らの意図を実施 しようと して行動を起し, 互いに張 0 ) この領域に一度足を踏み入れれば とかく人は政 治権力の りあっ ている領域の総称なのである1 。 , 座が可能にするさま ざまな権能に魅せられて自分を見失っ て しまいかねない。 人は政治的斗技場の. 華やかな舞台に脚光を浴びようと醜い権勢争奪に明け暮れし, 見解や志操を異にする相手を常に自 分の権力下におこうとして術策を弄するようになりがちである。 日常の生活を支配する政治がおよ. そこのような呪術や魔術をもっ て人を幻惑させるものである限り, 政治に対決する正しい政治教育. は次のようなものでなくてはならぬだろう。 即ち, 老槍な才腕好智にたけた政治家 (日本では政治屋. と呼んだりする;筆者) の 野 心 を か き たて る よ う な 誘 惑 や 買 収 な ど に の ら な い だ け の 節 操 を 与 え,ま た,. 政治にたずさわるものが掌握 している絶大な権能に対 して常にそれを抑制するだけの心術を教え,. あるいは, 他の政治的勢力が主張する意向に対してはこれを理解 してかかるだけの寛容を抱かせる といっ た, このような政治に対する的確な自己統御と厳正な自己批判の精神を覚醒させることが政 註三〕 治 教 育 の 狙 う と こ ろ でな く て は な ら な い の で あ る[ 。. 〔註三〕 わが国の社会科教育が政治的現実のこまぎれされた知識の断片の蒐集に懸命になり, その皮相な現象の 平板な説示に終始する限り, 社会科教育を通して国民の政治批判意識を高めるという教育目標は到底達成 されることはない。 ここで語っているリッ トの言葉を, いよいよ沈滞乾燥化してゆくわが国の社会科 (政 治) 教 育 に 対 す る 警 鐘 と して 受 け と っ て も いい ので は な か ろ う か。. 以上のように, 政治に対する高度な識見を求めた りッ トは, それが遂には世 界観的な態度にま ) 各政治集団が準拠 している諸世界観の存立は集団 間の反 でつながることについて言及 しているn 。. 目斗争を一層歳烈化させ, 一見, そこにはどのような妥協の余地も残されていないかのようである。 しかし, 今日の運命的な破局に直面 した ドイ ツの回復と新生の路線はこの ドイ ツの全現実を貫いて 流れてい る歴史発展の基本的動向の上に敷設されるほかないのである。 そうだとすると, 多種多様. な世 界観はそれぞれの視角から ドイ ツの実存危機の全体を照射 しつつも, 危機克服への力強い方途 をば歴史発展の基本的動向に基づいて尋ねてゆかねばなるまい。 その限り, いかなる世界観といえ. ども, それぞれ自己の独断に陥るのをつとめて避けるとともに, 各自共存 してゆく余地をば準備す る態度を常に保持 しておくことが大切となっ てこよう。 《平和を求める 寛 容 の 態 度》 ( d i e Haltung. f dwi l l igerDul dsamke i i r e t ) と も 呼 ば れ る べ き も の が そ れ で あ る。 従 っ て, 今 日 の 教 育 に 与 え ら れた. 国家教育学的使命は政治教育を通してこういっ た世界観に対する基本的な態度の育成がどう しても 必 要 とな っ て く る の で あ る。. この講演の最後に, リッ トは ドイ ツ的現実と対決する今日の教育に大きく浮かびあがっ てくる 伝統と創造の問題をとりあげて次のように語 ・る。 くり返すように, 今日の歴史的危機の時代に生き. る ドイ ツ国民はほんとうの歴史意識に目覚めなくてはならぬ。 この歴史意識の覚醒は必ずや現在の 超克に向けられてゆくことであろう。 何故ならば, 単なる現在であるような如何なる歴史的な現在 も存在しないからである。 一般に, 《何処から何処へ》 といっ たような問いに対する 責任ある 解 答. はただ歴史的現在の歴史創造活動に向う主体的行為の立場からのみ与えられるのであっ て, かかる 主体的行為の立場を外 してどんな歴史創造の営みもあり得な いのである。 だから, 今日の危機的現 - 17 -.

(7) . 勇. 西. 実へ底 深く沈潜して歴史的生 命の根源に触れ, そこに現存在の今日性の意義を汲みとり, それを体 現 しようと努力するもののみが 未来を創ることが出来るといえよう。 その道程はたとえ遥かに して. 険 しく, かつ苦痛に充ちたものであっ ても, その途上で, かっ ての如く, 歴史と対決する自分を偽 っ たり暖味にすることは許されない。 昔は 《第三帝国》 のおもむくままの指導 路線に沿っ て歴史の. 上に投じる光と影までも懇意的 に, あるいは計画的に織断 されたけれども, 粉飾や誹諾によっ て歪 曲弾造された過去にいまもう一度曇りなき眼を注いでみる必要があろう。 その時こそ, 自分たちの 歴史の過去に対 する追憶は悔恨となり, 悔恨は反省となり, 反省は決意となっ てわれわれの歴史意 識の地平によみがえっ てくるのである。 歴史を正 しく評価し得るもののみが歴史を正 しくおし進め ることが出来る。 こう考えてくると, 歴史を教授する際に教育者に最も要請される観点とは一体ど ん な 事 柄 で あ ろ う か。 リ ッ トは か く 問 う て 次 の よ う に 答 え る。 即 ち, 「ギ リ シ ャ の 探 究 心, ロ ー マ. の国家的・法律的思惟, 中世の教会, 更には宗教改革, 啓蒙運動, 浪漫主義など, こういっ たもの の遺産が文化的・政治的・世界観的な運動の中でどのような立場をとり, どのような形で, そ して ど の よ う に 姿 を 変 え て 現 代 の 世 界 に 働 き か け て い る の か, ま た, こ う い っ た 諸 々 の 精 神 的 な 力 と の. 意識的・意欲的なつながりが全く語られていない時でも, それらの力が魂を形づくっ ているのであ る が, そ の 際 ど の 力 が 働 い た の か, 以 上 の よ う な 問 題 に つ い て 何 か を 感 じ と ら せ る と い う こ と, 即. ち, とにかく自分を歴史の中に位置づけようと努力 している者に以上の ような問題について何かを 1 2 )と 感 じ と ら せ る こ と で あ る」 。. 以上が,『職業陶冶と一般陶冶』の中でリッ トが敗戦祖国に対する限りない痛恨と愛惜の情をこ めながら, ドイ ツの歴史的現実, ひいては教育現実の危機的事態に対処 しようと して述べたところ の も の で あ る。 そ こ に つれわれはリッ トが ドイ ツ的現実の実情に大きな悲 しみと激 しい怒りをぶち まけているのを眺めることが出来たであろう。 リッ トは別の書物の中で 「歴史的認識の理論は同時 1 3 )と言っ ているが 確 かに彼の歴史認識論の立場 に歴史的現実の理論であり, まれその逆でもある」 , 1 4 )と 述 べ た からも, この講演の中で 「教育者の思考は歴史的時代が発する命令に従うものである」 発言の含蓄するところの意義は重い。 確 かにそれは, ドイ ツと同じように, 今日の根深い歴史的実 存の危機の時代に生きてそれを超克してゆかねばならぬわれわれの胸にもまた力強い共感をよび醒. i ま さ ず に は お く ま い。 け だ しそ れ は, リ ッ トそ の 人 が 真 に 《歴史とともにたつ》( nder Geschichte. t t t eni nnes ehen) 人 で あ っ た と い う こ と か らく る 迫 真 性 の 故 で も あ ろ う か。 m・. (二) 二十世紀の後半を迎えて人類は自らの歴史的実存の崩壊と顛覆, 激動と混迷に直面し, なお生 存の可能性を奪い去ろうとする現実に脅えている。 《世界》 の崩壊は 人間を深い絶望の淵に突 き 落. し, 《世界観》の喪失は生活を暗い懐疑の闇へ 投げ込んで しまっ た。 虚無と額癖, 沈惨と倦怠とが人 間の空虚 な魂を覆い, 停滞した生活は明日への生産活動を忘れて惰性のままに押 し流されてゆく。 リ ッ トはこのような現実を超克 してゆく際,《人間と世界》なる根本問題に対する哲学的対決をくぐ. り抜けることがどう しても必要だと直観 した。 それは新ら しい人間学の樹立を意味する。 しかも, 今日の歴史的基礎体験の深みから生まれ, また, この体験を豊かに発展させるの に 役 立 つ よ う な l i d i chen Menschen) 《歴史的人間の存在論的自己解釈》( eontologische selbstauslesungdesgeschicht t と しての人間学なのである。 戦後リッ トの最大の著作である 『入間 と 世 界』 (Menschen und 駅′el ,. 1948 ) はこのような新しい人間学の確立を目指して書かれたものに他ならない〔同書序文参照〕 。. 世界とをめぐっ てこれまで見落されていた 存在論的基底の深層に迫っ ていっ たものにか 人間と‐ - 18 -.

(8) . 〜 ‘ - ト - r . + .. リッ トの現代教育論. の実存哲学がある。 成程, 実存哲学はそこに 《世界内存在者》 と しての人間の 存在可能性を追究す るとともに, その主体性意識の確立を促した。 この哲学はまた失われた自由を奪回し, 自由を圧殺 する一切の権力や権威に敢然と抵抗する情熱をかきたてたのであるd しかし, 実存哲学は自我の 主. 体性を強調し, 瞬間性の激情に陶酔 するあまり, 世界の存在を否認してその歴史的地平の文脈を構 成している歴史の意味連関を軽視, もしくは無視するような傾向 を伴いがちであっ た。 その結果, 《窓なき実存》の中で単独者は救いのない孤立に陥り, 偶然や不条理を気分的に受けとろう とする甘. い沈美的感傷にふける弱さも露呈 しがちであっ た。 実存主義の説くところの意義と効果を認め, 実 存主義から実に多くのものを学びながらも, 自ら実存哲学者であろうと しなかっ たりッ トは歴史の 地平を否定 したり, 第二次的な背景にお しやっ て しまうような実存主義の陥る誤謬に対 しては遠慮 の な い 指 弾 を あ び せ る の で あ る‘註四1 。. 工 ch 〔註四〕 最近の実存主義は《窓なき実存》の中で目閉している単独者の個人的実存主義を脱皮して,《我と汝》( l tmens ) の 交 わ り の 中で は じめ て Mi c 1として自分を回復すると説く社会的実存主義とよばれるも und Du のに か な り 傾斜 して きて いる。 こ う い っ た 実 存 主 義 そ の も の の 潮 流 か らみ れ ば, リ ッ トの 批判が 目 す る 実. 存主義とはここで示す前者の個人的実存主義の方ではないかと思われる。 むしろ, ポルノ一やブーバなど の主張する新実存主義では, リッ トの 《歴史的人間の存在論的自己解釈》 に通じる多くの視点を共有して い る と さ え い え よ う。 しか し, こ う い っ た 問 題 に つ い て は 別に 稿 を 改 めて 論 じ て み たい。. ともあれ, 実存哲学が探究Lようと したこの人間と世界とのつながりの再確認こそ, 歴史的実 存の危機を生き抜いてゆ かねばならない人類にとっ ておろそかにすることの出来ない哲学的課題だ といえよう。 それだけにリッ トはこの問題に関して あくなき考究の手をゆるめず, それを認識の存 在論的基礎づけという形而上学的領域にまで追いつ めていっ た。 かの 『人間と世界』 と並んで刊行. DenkenundSein,1948)な る 書 は 彼 の そ う い っ た 追 究 の 結 晶 な ので あ る。 リ された 『思惟と存在』( ッ トはこのように新 しい人間学の確立という哲学の課題を認識存在 論の形而上学的考察におしすす めるとともに, 他方ではまた, 現実に生起する歴史社会的な諸現象に関心を寄せ, 現代文明の二律 背反に対して鋭い批判的考索を加えていっ たのである。 本稿では彼の認識 -存在論の論理的 追考に は触れないで, さきの陶冶理論の紹介と同じように, 以下歴史的意味や自然科学に関する所説をた. どる こ と に よ っ て, 戦 後 リ ッ トの 思 索 に 脈 打 つ と こ ろ の 現 代 意識, そ れ に 伴 う 危 機 感 と い っ っ た よ ] 註五 [ う な も の の 片 鱗 を う か が っ て み る こ と に し た い。 こ こ で はま ず 『歴 史 の 意 味 に つ い て の 問 題』 ) を と り あ げて み よ う。 cht e nnder Geschi (Di e Frage nach dem Si ,1948 I i neim Aufbau der sAI geme 〔註五〕 この書物は既に刊行された『精神科学的認識の構成における一般者』(Da dl V cht ‐ rrwegegeschi k i 4 1 e eu n h E 1 9 h f l i 『 歴史的思惟の正路と邪路 』 i t Ge i n ) g e n n t t e r n s e n s c a c sesws , l i )の 二 書 に よ っ て到 達 さ れ た理 論 的成 果を 受 け っ ぎ発 展さ せ た も の で ある。 chen Denkens ,1948 l i bundenhe i d i t )なる言葉が本書で初めて用いられていることは注 che Ge estandort 《場所的被限定性》( 目 さ れ て い い。. リッ トは言う。 生脅迫的な破局の刻印を受けて満身傷だらけの ドイ ツ国民はこの悲惨な現実そ 瑞いでいる。 従って, 今日の歴史の意味を求めると のものの中に新 しい可能性開示の地平を求めて1 いうこと, このことは確かに現代の ドイ ツ人にとっ ては生きるに価する生の可能性を問うことでも ある。 生命の枯れた古い扇辞から脱却 して新らしい意味創成の地平を開拓し, そこに歴史的意味 を 充実する可能性を確かめることによっ てのみ, ドイ ツの危機的現実の克 服に向っ てゆく勇気や確 信 が生まれてくるのではあるまいか。 危機的現実は国家の外的な体裁を整備したり, 経済の外的な条 件を取揃え さえすれば克服できるのだと考えるような者にとっ ては, この ドイ ツの全現実を覆っ て - 19 -. ’ : . - - -. . : . :. . - . … - . ・. 1 1. 1 ! ′ 1 1 : ..

(9) . 西. 勇. いる危機的事態はどんな方策や施策も受けつけない程n 音塘たるものに思えて, 結局, 手をこまねい て慨歎するよりほかなくなっ て しまうのである。 それでは今日の歴史的存亡を問われている事態に 対 して目棄や諦観の姿勢でとりくもうとすることに しかなるまい 成程 彼等が絶 望しかねない程 。 , , 国家社会の徹底的な体制崩壊により解決困難なさま ざまな事情が累積 しているにせよ ただ絶望と , 慨歎をくりかえすのみで為すすべも知らず明日の ドイ ツに想いをいたすこと もなく未来を拠棄 して しまうとすれば, 彼等のそんないくじなさは, 実のところ, 今日の歴史的意味に対する確固と した 識 見 も 信 条 も な い と い う と こ ろ か ら 来 て い る の で あ る 換 言 す る な ら 彼 等 に は 今 日 の ドイ ツ の 。 ,. 歴史的運命について 《何処から何処へ》 という歴 史意識がもと もと欠如しているということなので あ る。. こ う い っ た 事 情 は 何 も ドイ ツ の 場 合 に 限 っ た こ と で は な い 一 般 に 歴 史 の歩 み に 関 す る 探 究 は 。. ひろく人類の包括的な全体へまで及ぼされて しかるべきものなのである ただこの際 如何に皮相 。 , な観 察者といえども, 今日の人類は自ら の存亡の危機に直面 して最後的な決断を迫まられ 新しい , 時代への陣痛の苦 しみに噛 ぎながらも-綾の光明を求めて苦斗 しているということを認めないわ け にはゆくまい。 事実, 人類がこれまで歩んできた どの時代よりも, 今日の危機的事態ほど切実に歴 史の意味に対する決定的な裁可を人類に迫っ ている時代はないのである。 それだけに人類はあくま. で自分の主体的な意志 の決裁によっ て歴史の意味充実を可能にする価値地平をば照明 し 創始 して , ゆく仕事にとりくんでゆかなくてはなるまい。 もし, 新らしい人類の歴史に希望をもたら し 勇気 , をふるいおこさせるような世界解釈を生み出すことが出来るとしたら, それは以上のような歴史創. 造の行為的主体性に根 ざした歴史的な自覚や責任でなくてはなるまい。 それ故に, 責任ある歴史的 良識や良心を麻癖させたり, 曇らせるような世界解釈は断乎と して拒絶してかかることが大切であ. る。 特にこれまではあまりにも支配者にすがり, また差配されること に馴れてきただけに, 国民は この際何よりも歴 史創造の鍵はこの小さな自分の掌中に握られているのだという責任の主体的な自 覚が必要である。 国民はひと しく大丈夫たるの気構えをこそもたねばならないのである このよう 。 にリッ トは ドイ ツの, また人類の危機的現実にのぞん で混乱 している今日 の歴史的意味に対する問. 題意識を喚起 してくるのである。. リ ッ トは続けて語る。 人は真に歴史的に生きる限り, 歴史の現実に何 の影響も受けず, また与 えも しないといっ たような傍観者であることは許されない。 人は歴史的に生きてゆく 限り, 現実と 常に主体的にかかわり, 自らをば過去への解釈と未来への予料とが交 錯する複雑な意味連関の綱目 の 中 へ 措 定 す る の で あ る。 そ して 人 は そ こ に い わ ば 《立 場 の 価 値》( derst l l e t )と も い わ れ る べ enwer. きものを把握す る。 それは現存在 のさま ざまな濃淡を 帯びて照ら し出された歴史的意味を包含する. ものであること はいうまでもない。 それはその把持者が‐ 一定の歴史的現実を主体的に, 行為的にふ まえようとすることからも明らかな如く, 常に歴史の時間的地平の相対性に拘束されているものな. のである。 事実, 人間はあくまでも自らの歴史的世界の中に定在 して歴史を創造してゆこうとする d 限 り, こ う い っ た 《一 定 の 場 所》( i t ) に 基 底 づ け ら れ, か く 基 底 づ け ら れ る こ と によ っ て eser or. 規定されるパース ペク ティ ヴから生じた意味解釈を受けとっ てゆかなくてはならない あれでもあ 。 り, これでもあり, しかも誰のものでもないという内容の空 疎な便宜主義は常に 《今と此処》( nunc. i undh c )という限定をもっ て世界と如何にかかわりあうかと いう主体的な人間の行為 の前では何の リアリティ も持たない。 歴史的に生きる人間はまさしくそのことによっ て しか歴史の相対的意味解 釈が実際に可能となっ てくる存在論的 必然性を獲得することが出来ない のである 歴史とと もに生 。 き, 歴 史 に よ っ て つ く ら れ つ つ, ま た 歴 史 を つ く っ て ゆ く 如 き 歴 史 的 人 間 に と っ て は 「人 類歴 史 の ,. 【 20 -.

(10) . リッ トの現代教育論. 全体は常にただ一定の立場からのみ--即ち, 時間的な, 地域的な, また観察者個人が自らの規定 7 )離村 性 の 中 に も つ 如 き 一 定 の 立 場 か ら の み 尋 ね ら れ, 確 か め ら れ る の で あ る」1 。. 〔註六〕 リットがここで明らかにした相対的な歴史解釈の《立場》 , 更にまた創造的歴史解釈の《主体》 , これらの ものを歴史社会的な階級的力差関係に基づく現勢の国家権力体制の構造と機態との中に求めるならば, は た して か か る リ ッ トの 《立場》 , 《主体》 なるものは具体的に何を指し, 誰を示すのであろうか。 リットが た問題を不問のままに放置する限り こういっ , 彼の問題意識には依然として階級的立場や視点が稀薄だと いう批判は免れぬだろう。 そして, この点にこそリッ ト自身がマルキシズムへの通路を絶つ根本的な懸隔 が 横 た わ っ て い る と い え な い だろ う か。. S )をみても, 弁証法唯物論の示す社会の発展法則, 事実, 同書でリッ トがマルキシズムに抱く見解( .15 並びにそれの客観的性格に関するリットの理解は必ずしも正鵠を得たものとは私には思えない。 何故なら 歴史的必然性や社会発展の客観的法則性を承認することは直ちにリットの考える如き歴史に対する主体の キ エ ティ ス ム ス や 受 動 的 態 度に 導 く こ とに は な らな い か らで あ る。. 戦後のリッ トのマルキシズムに対する認知のし方や拒絶の烈しさに対して, それを ドイツの精神的現実 の支柱を形成している ドイツ観念論の精神主義的残津とみる人もいるであろうが, やはり人民共和国東独 に対する西独的な現実や制約がかなり大きな比重で介在しているという事実を考慮する必要があると思う。. 要するに, 今日の教育学的思惟の発想の基盤はいうまでもなくわれわれの歴史的現実そのもの. ・着 しな け れば な ら な い の で あ る。 そ う い っ た でな け れ ば な ら な い。 教 育 は そ こ か ら 発 し, そ こ へ 帰. 意味で, 歴史的現実の諸状況に対する分析や洞察や意味づけの働きをな し得ない教育学的思惟, ひ いてはかかる思惟の所有者である教育者にわれわれは明日の子 どもを託す何の期待も寄せることは d i i )とはまさしく自らの歴史的使命に対する s epadagogische Be nnung 出来ない。 《教育学的自覚》(. 自覚でなくてはなるまい。 かかる自覚なき教育は教育とはいっ てみてももはや教育ではないのであ る。 現在の 教育的状況の悲劇は 《教育不在の教育》 があまりにも多いということにありは しないだ. ろ う か。 こ う い っ た こ と を 想 う に つ け, わ れ わ れ は 別 の と こ ろ で 語 っ て い る 次 の り ツ トの 言 葉 を 充. 分かみしめてみる必要がある。 「教育はすべて, 現存するものが人間を充実させるものと して与え ているものをばまさにその現存するもの自体から得てこなくてはならないのである。 状況の中に含. まれている諸条件を無視 するようなあらゆる試みは, 結局は, にせものの 陶冶の偽りの世界に入る だけである。 こう した偽りの世界から人間の中で人間を救おうなどと期待する必要はさらさらない 8 1 ) /」 の で あ る. 。. (三) 註燭 のうち危機的な現代の問題 以上 『歴史の意味についての問題』 に展開されたりツ トの所論〔 意識に関係のあるところ を紹介 してきたが, 最後に, 現代文明の隅々まで支配している自然科学の. 説ョ常な発達がもたら した人間性歪曲とその回復について彼が説くところを簡単に追ってみよう。. i i d )な どに i 〔der Si nnergrundung chke e Magl 〔註七〕 本論稿では割愛したりッ トの《意味基礎づけの可能性》( 1 9 5 6 歴史意味論 『 『 第一巻 ) 関する論理的解明については拙稿 『リットの歴史意味論』( 教育学研究紀要』 , , 95 9 『教育科学』16 )を参照されたい。 の問題史的考察』( ,1. この数世紀を通 して興隆 してきた自然科学の技術的発展を無視して今日の文明論を論じること は出来ない。 技術による生産力の高度な上昇は人間の生活にさま ざまな恩恵をもたら したが, それ が生活の幸福を招来したかといえば必ず しもそうでなかっ た。 技術万能の考え方は逆に人間の頭脳 を支 配 し, 科学 の 技 術 管 理 の コ ン トロ ー ル を 失 う こ と に よ っ て 人 間 は 逆 に 冷 い 機 械 の メ カ ニ ズ ム に. まきこまれて しまい, 科学の客観的認識の法則が要求する数学的合理主義の非情性の前に脆ま づか ざるを得なくなっ て しまっ たのである。 今日,原水爆をはじめとする大量の核兵器,殺人兵器の出現 1- -2.

(11) . 勇. 西. は一歩誤まれば人類は一人残らず消滅して しまう可能性を現実のものと した。 リッ トの関心がこ の ような人類の歴史的実存の危機を普遍化し慢性化する如き現代のメカニックな状況や趨勢を眼前に f して黙っ ておれなかっ たのもけだ し当然であろう。 彼は『自然科学と人間陶冶』(Naturwi t s senscha. l dung,1952 ) を 著 わ して, 現 代 の 自 然 科 学 的 思惟の可能性の限界を明示するととも und Menschenbi. ] 註八 に, あわせて 現代の文明への批判的省察を試みたのである[ 。. 〔註八〕 リッ トの自然観と, それに基づく自然と人間との相互関係に対する論理的な考察は既にかの 『人間 と 世 13-5 i 界』 の中で 展開 さ れ て い る(Menschund Welt t ) a . Kap ,1948 。 ,7 ,11 既 ち, そ こで は 自 然 を ば. 1 ) 体験された現実としての自然 (印象としての自然) ー 2 ( ) 認識された現実としての自然 (対象としての自然) 3 ( ) 形成された現実としての自然 (意味としての自然) の三っの様態で示され, それらに対応する人間の自覚を同じように 1 2 3 ( ( ) 自然の認識 ) 自然の体験 ( ) 自然の表現 と い う 三 つ の 作 用 態 と して 把 握 して い る。. 従って, 『自然科学と人間陶冶』における論述が前提しているところの自然科学的認識の基礎づけ, 並び に, 自然をめぐる操作対象と操作主体との連関づけなどは 『人間と世界』 の中で明らかにされた上のよう な人間と自然との基礎的な対応関係に還元されてはじめてその正しい存在論的根拠や認識論的体系が得ら れ る の で あ る。. リ ドトは『自然科学と人間陶冶』より更におくれて『技術的思考と人間教育』(Te i chn sche sDenkenund. l Mensch i l du i 7 che B )を書いて技術の内面的構造をほり下げている。 1 1 g ,195. 『自然科学と人間陶冶』の中でリッ トは言う。 今世紀における自然科学の素晴らしい発展は, 自 然科学のもつ方法論的思惟を支える思考形式に強大な発言力を与えることとなっ た。 この思考形式 l i の目指すところを端的に表現すれば, 即ち 《世 界 の 物 化》(di eVer t )と い う こ と sachl chungder We. につきるであろう。 科学方法論の優位性はニュー トンの古典物理学を転倒させたともいわれる量子 物理学の出現によっ ても崩れることなく, ますます自信を得て一般 化されている。 たとえば有機的 生命, 自由意志, 宇宙創成, 更には歴史, 社会, 宗教などの領域にまでも進出して自己の支配圏を プ ロ そ して自然科学の思考形式が支配す る と こ ろ で は 人 間の 註 確立しようと しているのである[ 。 , inesache 本性 と い え ど も す っかり変質させられて しまっ て単なる 《も の》( )と 化 しさ る。 そ の た e め, 物 化 された人間, その疎外形態にある人間は手段の対象と して規制され, 科学技術に奉仕する. 奴蝉になりさがる。 かっ てカントがそれ自身目的で, 他の何もののためにも手段となることがない 人格と調っ た命法もそこでは空 語に しかすぎない。 かくて自然科学的世界のメカニズムに磯弄され る人間性失格, 人間性喪失の文明悲劇がくりひろげられることとなっ たのである。 勿論, このよう な自然 科学の横暴に対する反抗は試みられはした。 しかし, この反抗はとかく科学の否定に通ずる. 神秘的な ベールに逃避するか, あるいは, 科学の歪曲に到る呪術的な1冥想に 退避するかである場合 が多く, そのために自然科学の発展がもたら した実際的な生活上の思 恵までも拒み, 反っ て人間生 活の進歩を停滞させたり, 狙 害することもあっ た。 かかる反抗はやはり科学に対 する敗北であるこ とに変りはないだろう。 何故ならば, そこでは結果的に否応なく科学の真価を認め ざるを 得なくな. っ て く る か ら で あ る。. 〔註九〕 このような自然科学の方法論を適用 して人間の 《歴史》 を取り扱おうとする諸見解に対して, リ ッ トは l l i f 別 に 『歴史科学と歴史哲学』(Ge tund Gsecic t t )hi ) なる書物で批判を s osophi e ens ca s ch ch swi s s ・ 1 ,1950. 加 え, た と え ば ブ ル ッ ク ハル トや シ ュ ペ ン グラ ー の 歴 史形 態 学 な どに 異 議 を 唱 え て い る。 リ ッ トに よ れ ば,. 「自然にっいての思考はもはや自然ではないが, 歴史にっいての思考は再びそれ自身歴 史 な の で あ る」 2- -2.

(12) .. . ● . ・ r . . ・ 1 ・ .. リッ トの現代教育論 l ) e tu cht sphi osophi (Geschi ssenschaf schi cht swi .13 . Ge 。 この 点 に リ ッ トは 歴 史 科 学 を どこま で も 人 間 ,S. の歴史科学として建設しようとする彼の歴史哲学的考察の基点を据えている。. そこで何よりも必要なことは, 自然科学のもつ正当な権利とその妥当性を認めるとともに, 他 方, 自然科学の限界をも明ら かにするような批判的省察の論理的基礎づけを明確にしなければなら i i )の as e neTr ぬということである。 即ち, 自然科学的思惟をば対象と方法と主体との《三位一体》( 1 9 ) 連関の中に正しく基礎 づけ, その思惟の可能性と限界を明白にしてみせることである 。 いまもし そのような基礎 づけから自然科学的思惟に正当な発言を許容し得るような トリアスの連関を見失っ て, 徒らに科学技術の効果の万能主義に 魅せられるだけであっ たら, 必ずや人類はもともと人類社 会の福利増進に奉仕すべき科学の効用をも遂には誤っ て利することに なるであろう。 人類の文明を促進させるとともに, また破壊させもする相反 した可能性をもつこの自然科学 を. どのようにコントロールしてゆくか, こういっ た根本的な問題への省察は, かかる科学技術の操作 主体と しての人間に関する教育にも当然関連して貴重な考察を提供してくれよう。 即ち, それは人. 間が自然にかわるそのかかわ り方からくる二つの違いについて教えてくれよう。 人間が自然に かか わるそのかかわ り方における二つの態度もしくは方途というのは, 一般に, 自然世界に対する計数 的な支配というかかわり方と直観的な帰依というかかわり方とである。 いまかりにニ ュー トンの対. 自然観が前者を代表する一つの典型だとするなら, 後者のそれはかのゲーテの対自然観に表わされ 0 ) こ の 二 つ の か かわ り方 が も つ 背 反 性 は自 然 科 学 の自 己 分 析 的 な て い ると い っ て も よ い で あ ろ う2 。. 客観化的思考と精神科学(特に哲学)の自己包越的な主体的自覚との相異にも対応 している。 人間は 常にこの二律背反的なかかわり方において 一つの対象的世界に対 しているのである。 従っ て, 人間 教育も常にこう した背反性を内包 しているのであっ て, 要は, それをどのように正しく人間陶冶の 構 造 ・ 過 程 の 中 にく み 入 れ る か と い う 点 に か か っ て い る の で あ る。. 現代の自然科学がもつ方法論的 思考形式, 技術化された効果が示す実用的価値観, 更にはそれ らのものを含んだ自然科学的世界観, こういっ たものの有効で力強い生活意義を正当に認めてきた. 今日の教育学思惟は, そういっ たものだけではなく, 同じ自然に対する異なっ たもう一方のかかわ り方の側面にみられるさま ざまな生活意義にも触れ, それらをも充分に汲みとっ てくるだけの配慮 ・られる二つのかかわり方のもつ矛盾的側面をば をもたねばならぬ。 先述 した如き背反性によっ て譜. ともに人間形成の全体構造や人間陶冶の全過程の中にとり入れるように案配され な け れ ば な ら な い。 科学, 機械, 技術などの物質文明の極度 な発展がもたらした人間像の局部的 な歪曲化や肥大化 現象にと りくむ現代の教育学の処方は以上に述べたような配慮や案配によっ て計画されなければな ら な い の で あ る。 こ の こと を も っ と 抽 象的 に 語 る な ら 次 の よ う に な る で あ ろ う。 即 ち, 人 が 世 界 に. 対する生き方やあり方の関係を規 定しようとすれば, そういっ た実存的な関係を徹底的に排除する ところの科学の準拠にむしろ従わねばならぬということ, しかしそれにもかかわらず, む しろそう. したことこそ人間にとり真に最高度 な実存的な関係にほかならないのだということ, こういっ た相 互否定的なものがお互いに規定 しあう関係の事柄そのものに宿っ ている人間学的な基礎命題をば何 よりも今日の教育は充分に自覚して かかる必要があるということなのである。 今日の教育がこう し た深い自覚を自らのものに してはじめて, 人類に反する科学に奉仕するような人間をでなく, 科学 を人類に奉仕させるような人間を形成すべき現下の緊急な教育課題にこたえることが出来るという も の で あ る。. およそ以上が, 自然科学の出現以来その驚くべき発展を契機として二律背反に陥っ てゆき づま っ ている現代文明の内的危機の打開に関するリッ トの所論なのである。 彼のこの所論からでもわ か - 23 -.

(13) . 西. 勇. るように, リッ トの現代文明論や科学技術論(自然認識論も含めて戸 こは, 資本主義的生産関係と生 , 産力との敵対的な矛盾が科学技術 の性格を生産的なものから破壊的なものへ転化させてゆくのだと 註十 ] 問題の焦点をより人間的なもの より教育 いっ たような社会科学的認識が欠けているにせよ[ , , 的なものにすえて, む しろそこにこそ, 現代のさま ざまな危機的状況の実存的根源がみられ, それ 故にまたその克服の可能性も追究出来るのだと思念す る彼の意図を了解するならば, われわれは彼. の思索の中からわれわれの教育現実の課題解決にとっ て幾つかの貴重な示唆を得ることが出来るの で は あ る ま い か。 〔註十〕 リットは技術の進展が生産の諸形式を刺戟しながら, それらに新らしい可能性を創出させることを明ら かにしながら,それに伴う労働過程の組識化過程の中で共同社会から《工業社会》{ l l l l d i ‐ eindustri e en Gese i f i l t i i E h )へ の変容を 眺め て い る (Di i ? e Er ehung i t t s cha z n Ze a t er der organi sa on n : r z e u n g wozu , , 195 6 ) d i esach‐ .12 ,S 。 このようにリットは社会形態の構造変化を《ものに規定された人間鋤の労組織化》( bes immt i i i t t e organi sa on der menschl t chen Arbe ) と い う 社 会 過 程か ら説 明 しよ う と す る。 しか し, こ. れではたとえば現代社会における人間労働の疎外といったようなものがすべて 組 織(または組織化) のせ いにされてしまうことになる。 リッ トの思考体系には体制構造への社会科学的分析視角が欠如してるとい う論理的弱点をここに指摘することが出来るであろう。 文. 献. l 1 l t t tl948 i Th ensch und VVe . Li . ,N ,S.11. l be i l dung und AI I 2 i l dung l947 i ) Derse sb nb geme , Beruf .7 . ,S 3 ) di t t o . ,S.12 4 S 1 5 ) di t -16 t o . . , 5 ) di t to . ,S.18-22. 6 ) di t t o . ,S.23. 7 ) di t t o . ,S.26 8 ) di t t o . ,S.45. 9 ) di t t o . ,S.47 10 ) di t t o . ,S.47 11 ) di t to . ,S.49-50 12 ) di t to . ,S.52. lbe 13 f l ll950 i ) Derse t und Geschi cht swi ssenscha cht sphi osoph , Geschi .40 ,S 14 l dung und AI I inb i l dung S.57 ) Derselbe, Berufsbi geme . 1 5 l inn der Gesc i l ) Derselbe e Frage nach dem S t ・ c ・ e l948 , Di .53 . ,S 16 i )d t t o ,S.5‐3 ,S.48”. 17 ) di t t o .27 . ,S. l be 18 i i l i i ) Derse i t t e Er z ehung im Ze a t er der organ sa on in: Er ehung wozu? 1956 z , Di .17 . ,S 19 f l dung l952 ) Derselbe turwi S 5 6 ssenscha tund Menschenbi , Na . . , 20 ) di t t o ,S.42畳..

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