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張説について(下) : その官人としての側面を中心に

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(1)Title. 張説について(下) : その官人としての側面を中心に. Author(s). 高木, 重俊. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 48(2): *17-30. Issue Date. 1998-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2087. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 ( 第 一部A)第 四十八巻 第 二号. 張説 に ついて ( 下) ー そ の官 人 と し て の側 面 を 中 心 に. 平 成 十 年 二月. 高. 木. 重. 俊. れる。 彼は武則天 の問 いに対 し、王孝 傑は果敢 に戦 ったが後続 の救援 がな か っ. 誘宗 平巽州賊契 丹等露布」 は この時 の戦捷報告書 であ る。また、 「 為河内 王 作祭陸翼州文」 は、万歳通天元年 ( 六九 六)十月、孫 方栄 に攻 め殺され た翼 こ 州刺史陸宝積 の祭文を武譲宗 にかわ って書 いたも ので、冒頭 には 「 維れ 万歳. 徳を清 辺道副大総管と し て武像宜 の救援 に赴 かせた。唐 軍は契 丹 の反撃 にお びえ苦 しみながらも、 六月、 よう やく反乱を鎮 圧した。張説 「 為河内 郡王武. 天はただち に右金吾衛大 将軍武謙宗を神 兵道行軍大総管とし、 五月 には要 師. 武倣宜を大総管とす る遠征軍は王孝傑 の覆没 に震えあが った。 四月、武則. 士 卒 に慧 づ 。 死 罪 死 罪 、 頓 首 頓 首 。」 と 述 べ ら. 『 本稿 は 「 張説 に ついて ( 上)’ ーー そ の官人とし ての側面を中心 に」 ( 北海 道教育大学紀要』第 一部 A、第 四十 八巻第 一号、平成 九年 八月、以下、前稿. たために敗亡 に至 ったと いう状況を語り、武則天は王孝傑 に夏官尚書 o耽 国. そむ. と称す る) の続稿 であり、張説 の将帥と し ての評価、官 界におけ る確執、学. 公を追贈した。張説が語 る王孝傑 の奮戦陣没 に武則 天が心を動かされたため. 天 威 に孤 き 、 下. 識 、 人 と な り に つ いて考 察 を 加 え るも の であ る 。 本 稿 に お い ても 、 張 説 の閲. であ る 。. :::、 上. 歴ならび に関連資料 に ついては、陳祖言 『 張説年譜』( 香港 ・中文大学出版社、 一九 八 四 年 。 『 張 説 年 譜 』 と 略 称 す る) に多 く を 負 う て いる。. 四 、 将 帥 と し て の張 説. いたこと にはじま る。 この時 には、陳子昂 ( 六 五九ー 七〇0)も建安 王 の参. 通天元年月朔日、神兵道大総管河北道按撫使右金吾衛大将軍河内郡王、少牢. 張説 ( 六六七ー 七三0) の従 軍体験 は、万歳通 天元年 ( 六九六)九月、清. 謀とし て行動をとも にし て いた。十月、李尽忠は没 したが、孫 方栄 がそ の衆. 辺道大総管 ・建安王武倣宜 の管記とし て、契丹 の李 尽忠 ・孫方栄 の討伐 に赴. を領し、神功元年 ( 六九七) 三月、清辺道総管 王孝傑 が率 いる前軍を東峡 石. じられ てはおらず、彼 が大総管 に任 じられ る のは神功 元年 四月 であり、 両唐 書 ・『 資治通鑑』等 の記述 に甑酷がな い。 万歳通天 二年は契 丹平定を祝 って. に照応させたも のであ って、 こ の時点 で武謙宗はまだ神兵道行軍大総管 に任. の鍵を 以 て、祭を故 翼州刺史 陸君 の霊 に致す」 と記 される。 そ のため、 『 張 説年譜』 はこ の文章を万歳通天元年十月 に繋 げ るが、 これは陸宝積 の没年 月. 谷 に大破 し、王孝傑は谷 に転落し て戦死した。張説は洛陽 に馳 せ返り、そ の 状 況を武則 天 に報告 した。張説 「 為清辺道大総管建安 王奏失利表」は、武倣 宜 のた め に王孝 傑 の敗 亡 を 武 則 天 に謝 罪 す るも ので、 「 臣倣 宜 言 す。今 日 某 乙 峡 石山より称す、前 軍 の王孝傑等、某 日を 以 て利を峡 石山 に失 せりと。. 7 1.

(3) . . 高 木 重 俊. の. さと. 恩を宜 べて以 て撫寧 し、愚俗を暁す に逆順を以 てし、将吏 を督す るに忠義を. れた武謎宗は、翼州 に進軍 した後 に張説 に陸宝積 の祭文を書 かせた こと にな る。また、張説が武謙宗 のため に露布と 祭文を書 いて いることからす ると、. た る外戚 であ り、張説 の従 軍自 体 が出世を 目的とす るも のであ る上 に勝利を. 書 の記載と は全く逆 の記述 であ るが、武譲宗 が武則 天 の伯 父武士逸 の孫 にあ. 万 九月 に神功元年と改 められ る。 こう した ことからす ると、張説 の祭文 の 「 歳通 天元年」 は 「二年」 の誤りと考えら れ、 この年 の四月 に大総管 に任 じら. 王孝 傑 の敗 戦を 武 則 天 に速 報 した張説 は、 武譲宗 の軍 に従 って再び 翼 州 に. 収 めた のであ るから、 こう した書き方をす る他 になか った のであ ろう。時 に. 賞 は労を 失せず、亦 た濫受 以 てし」 て 「 朝 廷 に東顧 の憂 ひ無 からし」 め、 「 なく、罰は罪を 漏 らさず、ま た菟人なし」 と、 この論功状 には記 され る。史. 取 って返 した可能性 があ る。 最初 の従 軍体験 が張説 にどんな思 いを生じさせたかは判然と しな い。清辺. 張説は太子枝書郎 の官を得 てほど な い、かけ出し の文人 であ った のだ から。 善を為す の 至忠 の状」 三条と 「 この論功状 で、張説は河内 郡王武誘宗 の 「. 忠 」 と は 、 一に 「命 を 致 さ ん と 思 ふ」、 二 逃 」 五条 を 列 挙 す る。 いわ ゆ る 「 善 」と は 、 誠 神 を 感 ぜ し む 」の 三 条 、 いわ ゆ る 「 に 「 能 く 果 断 な り 」、三 に 「 善 を 誇 る」、 四 に 「悪 を 一に 「下に 均 し く す 」、 二 に 「己 を 潔 く す 」、 三 に 「 ほこ にく 嫉 む 」、 五 に 「伐 ら ず 」 と いう こ と であ る。 命 を 投 げ 出 し 、 果 敢 に 戦 い、 部. 道大総管 の武倣宜 は無能な指揮官 で、前 軍 の王孝傑 が孫 方栄 に撃破 され ると、. よく知られ て いるが、後 に統軍 の才を 天下 に示す張説も、おそらく こ の臆病. 下と苦労をとも にし、功績を誇らな い、 これはま さ に将 た ろ者 の理想像 であ. 征討軍は恐怖 に迫 られ て漁 陽から進 めなくな った。時 に武牧宜 の参謀と し て. 外戚伝」 に 新唐書』 「 な指揮官を肯定的 に評価す ることはなか っただ ろう。 『. さと徒労感 を詩 に託 した ことは られ て軍曹 に降格 され る。陳子昂がそ の紐歩か. 従軍し ていた陳子昂 がしば しば方策を献 じたが受容 されず、かえ って疎 んじ. 。 し か し、. は 武 倣 宜 の遠 征 に つ いて 「師. す るわけ であ る。宮廷文人とし て、権貴 に対す る阿諌 の言辞 であ ること は言. る。武誘宗 は こ の八条 の要件 のど れ にも 合致しな い指揮官だ った に相違 な い が、張説 は武譲宗 にこの八要件を当 てはめ、絶大な る軍功を樹立したと称賛. 功 な く し て還 る」 と 記 さ れ て いる. 七〇七ー 七 一0) 武倣宜 は帰還後 に左 羽林大将軍 に昇任 し、中宗 の景龍年間 ( 為建安 王譲 羽林衛大将軍兼 検校司 には右 羽林大将軍 に転じるが、 そ の譲表 「. う ま でも な い。. を欠くから、味方 の守りを固めれば必ず勝 てる」と いう 部 下 の進言 に耳を貸. 敵 は補 給 軍来襲 の報を聞 く や恐怖 にかられ、 軍を棄 てて逃げ ようと した。 「. 一方、武敏宜 の救援 に赴 いた武謎宗も、外戚な るがゆえ に大 総管 とな った 外戚伝」 によると、彼 は賊 も のの、武倣宜 に劣ら ぬ儒弱な人物 で、両唐書 「. とは想像 に難 しくな い。. 征す る張説 には、自 己 の行動 の規範と し て意識す るも のとな った であ ろう こ. ち合わせ て いな いが、すくなくとも、 こ ののち総管と し てしばしば 辺境 に遠. が張説独自 の考え方 な のか当時 の共通認識 であ った のかを判定す る根拠 は持. 賓卿表」 は、張 説が書 いて いる。. さず、相州ま で退却 し て賊 の超州侵冠を許 した。 やが て賊将孫方栄 が死 んで. 初 の幽翼遠征 から約 二十年後 であ る。 こ の春、彼は荊州大 都督府 長史 の任を. 張説が示した将た ろ者 の要件 は、ま さ に理想的なも のと言 ってよ い。 これ. 乱が平定 され ると、武謎宗 は脅迫され て賊 に従 った者もす べて謀反人と見な し、生き たまま胆をくり抜くなど の虐刑 に処し、自 分は言笑 しながら平然と. 離れ、右 羽林 将軍 ・幽州都督 ・河北節度使 ・摂御史大 夫 に任じられ、 五月 に. 『 文苑英華』 七七 五) には、張 説 が採銅 ・伐材 ・牧 畜 ・米 穀 流通と いう 民 (. 張説 頒」 幽州 に駐屯した。幽州 では軍事 行動を起 こしては いな いが、孫逆 の 「. 七 一八)、 五十 二歳 のとき で、 最 張説 が次 に戎幕 に従う のは、 開元六年 (. 見 て いた と いう 。. 論神 兵軍大 総管功状」を書 いて軍功を称え そ の武謙宗 のため に、張説 は 「 すくな みかた てき さか おほ 国 ている。「 彼 は衆 く我は 寡 く、兵 は怯え虜 は織 ん」な戦況 下で、武譲宗 は 「.

(4) . 張説について (下). 生 の向 上 に尽力 し、戎 秋 の暴逆を禁じ、財貨を 豊 か にした ことを記 し、 「 是. の男女 三千人を虜饗 し、奏 し て河曲六州 の残胡 五万を許 ・汝 ・唐 ・都 ・仙 ・. 兵した。張説は兵を進め て木盤山 に至り、康 願子と そ の家族、な らび に胡人. 線など の州 に分徒 し、河南 ・朔方千里 の地を空 にした。. れ公 の深計遠慮 の致す所なり」と称え て いる。. 開元八年 ( 七二○)春、彼は右羽林将軍 ・摂御史大夫 ・検校井州大都府長. の部落 に動揺 が起 こ った。張説は軽騎 二十人を率 い、族節を掲げ てそ の部落. 謀殺し、井州 の大 同 ・横野など の軍 の近く に居住 し て いた同羅 ・抜曳固など. この秋、朔方大使 の王唆 が謀略 によ って河曲 の降魔 の阿布思など千余人を. 作 れば、逃亡した者も先を争 って応募す るだ ろうと建議 し、旬 日 の間 に精兵. る者が相次 いで いた。張説は、壮士を召募 し て宿衛 に充 て、優遇す る制度を. と免じられるが、 そ の家 には雑倦を免除され る恩典がなか ったため に逃 亡す. はそれ に従 った。また、諸府 の当番 の衛 兵は成 丁より従軍し て六十歳 にな る. び て 一帯 が平和 にな った ので二十 万人を罷め て帰農させるよう上奏 し、玄宗. これま で、縁辺 の藩鎮 には六十 万 の兵を配 し て いたが、張説 は、強冠 が滅. に赴き、帳 下に宿 し酋帥を召し て慰撫した。節度副使 の李憲が書簡を送 って、. 十 三万人を得 て京 師 の諸営 に配分した。 これが後 の蹟 騎 であ ると いう。鎮 兵. 史 ・持 節 天軍節度大使と し て、太 原に駐屯す る。. 夷魔 は信じ難 いから軽 々しく 不測 に渉 るよう な行動 はす べき でな いと諌 めた が、張説 は 「 吾が肉 は黄羊 に非ず、必ず喫は るるを畏れず、血は野馬 に非ず、. の削減帰農 は対外緊張 の緩和にもとづき、募 兵制 は兵士 の質 的充実 のた め で. 民を疲弊させるかを身をも って実感 した。そし て後 に幽州都督と し て民生 の. とき. 必ず刺 さ るるを畏れず。土 は危 ふきを見 て命を致す、是れ吾が死を効す の秋. あり、とも に張説 の現実 に即した認識から生まれ て いる のであ る。. 開元九年 ( 七二 一) 四月、胡賊 の康待賓 が反乱を起 こし、蘭池府 の六胡州. 安定 に尽力し、井州大都督府長史と し てわず か の軽騎をも って夷虜 の部落 に. いた. なり」と報書 した。抜 曳固 ・同羅 の部落 は張説 の義 に感 じ、平静を取り戻し. を攻陥 した。玄宗 は太僕卿王毛仲を朔方道防禦討撃大使 に任じ、左領軍大総. 乗り込 み、万余 の歩 騎を率 いて大漠をわた って敵を撃破し、降魔を安輯 した。. 張説は最初 の従 軍 で、武倣宜 ・武謙宗 と いう無能な将帥が いか に国家 や人. 管王唆 ・天兵軍節度大使張説と合同作戦をとらせた。時 に康待賓 は党項充と. もと より将帥と し ての彼 の優れた資質 によ るも のであ るが、彼 がか つて武謎. た。. 連絡し て銀城 ・連谷 ( 陳西省 神木県付近)を攻め て食糧 の確保を狙 って いた。. 宗 のため に書 いた論功状 の、 「 思致命」 「 能 果断」 「 誠感神」 と いう 三 つの至. て武謙宗 に捧げ られた阿諌 の辞 の、そ のあまり にも みごと に事実と黍離 した. を為す」 要件を、彼は深く心 に刻 ん で行動 し て いたか のよう に見え る。 か つ. 忠 の要 件 、「均 下也 」「 潔 己 也 」「諭 善 也 」「嫉 悪 也 」「不 伐 也 」と いう 五 つの 「 善. 張説は歩 騎万人を統 べて合河 関 ( 山西省 興県 の西北)を出撃し、大 いに敵を 破 った。彼 は党 項 の余 衆を集 め、そ の居業 に復 させた。節度副使 の阿史 那献 が党項を 課し て裏 切りを断 つべしと進言したが、彼は 「 先王 の道 は、亡を推 こと)と. 表 現 の裏 には、張説 の深 い自戒 が秘 められ て いた のであ る。. 張説 の統帥力 に玄宗が感心した話が 『 開天伝信記』 に見え る。開元十 一年 、洛陽を発 って井州 に向 か った玄宗 が上党 ( ( 七 二三)正月 T) 山西省長治 市). 『 し て存を 固くす。 尽 く これを課す るが如き は、是 れ天道 に逆らふなり」( 旧 王者 の師 は、当 に叛を伐ち て柔服せしむ べし、登 に己 に降 る 唐書』本伝)、 「 『 を殺す べけ んや」( 資治通鑑』)と言 い、奏 し て麟州 に党項 の余衆を安置した。 こ の功績 により、九月、張説 は守兵部尚書 ・同中書 門下三品とし て中朝 に復. 宗 は数十 里 の間 に鮮明な旗艇と厳整 な 羽衛を望 見し、 「 張説 は兵 三十 万を 勤. を経由し、車駕 の列が満州 の金橋を過ぎた。道はくねくねと折れ曲 がり、玄. 開元十年 ( 七 二二) 四月、張説 は朔方 軍節度大使を兼ね、閏五月、朔方巡. す れば、旋族は千 里 の間を経 て、上党を狭右 んで太 原 にま で至 ると言 った が、. 帰 し た の であ る。. 察 の途 に上 った。 このとき、康待賓 の残党 であ る康願子が可汗と自称 し て挙.

(5) . . 高 木 重 俊. ま こと に才子だ」と左 右 に語 ったと いう。張説 の統帥能力 の大き さを玄宗 は. し て、封禅 の式典を終えた玄宗 は征討 軍を派遣しようとしたが、張説は吐審. 州 の葦筆 駅 で殺 された。 これより前、兵を侍 ん で礼をわきまえな い吐審 に対. 開元十 五年 ( 七 二七)関九月、涼州都督 の王君藁 が回絵 の余党 のため に甘. 官界 におけ る歩 みは必ずしも順調 ではなか った。 ここでは彼 の対 人関係を官. 左右丞相 に登り、 三たび中書令と作 る」と記し ているが、 これはとりもな お さず、官 界 におけ る浮沈 の多 さ の証明 であ る。位人臣を極 める に至 った彼 の. 張説墓志銘 ?)L で、張 説を 「三たび 張九齢 ( 六七 八ー 七 四0)は そ の 「. 五、官界 における確執. と講和し て辺境を休寧 にし民を蘇生 させ るよう主張 し続け て いた。 しかし王. 人と し ての確執を中心 に見 て いく。. 実感 した のであ る。. 君莫 は陸続 と対吐 審 の戦 果を も た らし、 王 君莫 に対 す る玄 宗 の信任 は絶大. 寵を受 ける張易之 ・張昌宗兄弟 が薮 元忠を構 陥しようとした事件 の中 で、彼. は結果とし て張 兄弟 の意 に逆 ら い、 武則天 の不興を買 った のであ る。 この事. 張説 の最初 の挫折は長安 三年 ( 七〇 三)九月 の欽州配流 であ る。武則 天 の. だ った。張 説は王君莫 の 「 兵を好 み利を求 め」 「 勇 にし て謀 なく、常 に僕 倖 を思 ふ」 人となりを熟知し て いたから、戦う のみで退くを知 らな い衡 州 の闘 進樹 州闘羊表」 がそれ であ る。 王君葵は果 た 羊を玄 宗 に献 じ て諏諌 した。 ノ「. 件 に ついては前稿 で詳 述した。. 次 に、張説は春宗 の景雲 二年 ( 七 一一)十 月、兵部侍郎 同平章事を罷免 さ れ、尚書左丞分司東都とし て洛陽 へ遠ざけられた。皇太 子李隆基 の勢力を削. し て敗 死した。 確かさと、そし て何 よりも、吐審 が強盛な現時点 では講和し て辺境 の民を息. ごうとす る太平公主 に気兼 ねした李隆基本人 の意向 によ る。 この背景 には、. 吐審伝」 に録 され るこ の話 には、張 説 の人を見 る目 の 張説伝」 「 両唐 書 「 わせ るのが最良 の策 だとす る、彼 の現実認識が表 れ ている のであ る。 た大食 の使者 が謁見 の礼を失 し て憲 司 にと がめられたとき、 中書令 張説 は、. 検校吏部侍郎 ・同平章事 に昇 った。選を掌 って賂遺を受 け て江州司馬 に左遷. 辞をも って出世街道をかけ上 ったが、 それは多く陰険な策謀 によ るも のだ っ た。彼は中宗朝 では武 三思や上官 昭容 に阿附し て兵部 ・中書 の侍 郎となり、. 窪 混は太宗 に仕え て功績 のあ った窪仁師 の孫 で、進士 に挙げ られ てのち文. 張説と桂混 ( 六七 一ー 七 一三)と の確執も隠 され て いる。. 「 大食 は殊俗 の国 であり、義を慕 って遠来した者を罪 に問う べき ではな い」 と止めた ( 両唐書 「 西戎伝 ・大食」)。. されるが、安楽公主 ・上官 昭容 の庇護 により裏州刺史を経 て尚書左 丞とし て. 張説 の国際感覚 は現実的 で柔軟 であ る。 開元 の初め、方物を貢 し て入朝 し. 契 丹 の部固 の使者 可突 千が方物を貢 し て入朝 したとき、中書侍郎李 元紘は 可突千は人面 礼遇せず、 可突子は不快感 を抱 いて帰国した。左 丞相張説は 「. 太 平公主 の引き により同中書 門下三品となる。 こ のとき、窪 提と の入れ替 わ. り で張説 は洛陽 に出された のであ る。皇太子時代 の玄宗 は しば しば窪 提の邸. れる。容宗 の即位 により華州刺史 に出 されるが、 景雲 二年 ( 七 一一) 十 月 、. 入朝 し、牽后が中宗を試し て称制す ると再び吏部侍郎 同平章事 に取りた てら. 獣心 で利益 しか目 にな い男だが、 国政 では民 の心を つかん で いる。も し彼を 優遇し て つなぎと めなけ れば、彼 は反逆を企 てるだ ろう」 と言 った。果たし 両唐書 「 北秋伝 ・契 て可突 千は部固を殺し て自立し、幽州 に侵冠 し てきた ( 丹 」)。. こう したことからも、将帥と し ての張説は、武断 に陥 ることなく、 現実を 冷静 に察 し て柔軟 に対処 して いた こと がわか るだ ろう。. に至 って親愛 の情を示 したが、樵 混の心は太平公主 に傾 いて いた。公主 が玄 堤も 流死させられ るのは当然 のこと であ った。 宗 に詠 されると窪、 窪 混が裏州刺史 であ った景雲 元年 八月、護 王李重福 が洛 陽 で反乱を起 こし. 0 2.

(6) . 張説について (下). 幽求と張説 のとりなしによ って免れ ること が でき た。しかし穫提は太 平公主. て鎮圧 され る。護 王と親密だ った荏 混も当然謀殺 されると ころだ ったが、劉. 太 子だ った玄宗 は やむなく彼 らを刺史と し て外 に出す よう上疏し、挑崇 は申. 年 ( 七 一0) 七月 のこと で、 こ のとき張説は中書侍郎 であ った。姥崇 は侍 中. 兵部尚書 ・同中書 門下三品と し て入朝 し、ただち に中書令 に転 じた。景雲 元. 州 ・同州 の刺史を歴任す ること にな る。 先 天 二年 ( 七 一三)十 一月、玄宗は新豊県 で武を講 じた。彼 はそ の場 に跳. の宋環ととも に太平公主を排す る策を容宗 に奏 上し て公主 の怒り に触 れ、皇. 七 一一; に中書令 に取り立 てられ る ととも に張説を洛 陽に逐 い、先天元年 ( と、劉幽求を嶺南 の封州 に配流した。権貴 に諌従 し恩人を裏切り、彼 の生涯 が 一門は入仕し て、歴官 いまだ嘗 て第 一と為 らず んばあ 荏 提はか つて 署。. 崇を召 し、馬を並駆 させ天下 の大事を語り、桃崇 を兵部尚書 ・同中書 門 下三. は鉦排即操 の集積だ ったと言 ってよ い。 らず。丈夫 は当 に先づ要路 に拠り て以 て人を制す べし。豊 に能く黙 々と し て. 品 に任 じた のであ る。翌十 二月、先 天 二年 は開元元年と改 められ、台省 の呼. 称も改 められたが、 下旬、紫微令張説は相州刺史 に左 遷され、嫌崇 が紫微令 挑祭伝L には次 のような記事 があ とな った。 そ の事情 は不明ながら、新書 「. 新書 「 径 混 伝 」) と 語 った と いう 。 こ の言 葉 通 り に彼 は 制 を 人 に受 け ん や」 ( 、 の権 力 者 だ った 。 彼 に は 全 く 先 見 の明 が な か った の であ る 。 景 龍 三 年 二月. る。. 要路」 はす べて脆くも瓦解 し て いく目先 官 界を駆け抜けたが、彼 が拠 った 「 中書侍郎 ・検校吏 部尚書窪 提は、同中書 門下平章事とな った。あ る夕暮 れ、. の. ( 挑崇)始め同州と為 る。張説、素憾あ るを以 て、越彦 昭 に調し て崇を えつ. 詩 や官位 荏 提は端 門を 出 て、轡を緩 め て詩を吟 じた。張説 は それを見 て、 「. 劾 せしむ。 国 に当 たるに及び、説耀 れ、潜 か に岐王 に詣り て款を申 ぶ。祭. 召 し て こ れ を 問 ふ に、 対 へて 日 は く 、 「臣. 足 を 損 へり 」 と 。 日 は く 、. 官 日朝 せ るとき、衆趨り出づ る に、崇 は 腫 を 曳き 疾あ る の状を為す。. ひ. は 当 然 あ の レ ベ ル に は 達 す る が 、 あ の年 齢 だ け は 及 び よ う が な い」 と 嘆 いた. 帝. さびず. 『 窪提」)。時 に窪 提は三十 八歳、張説は 四十 三 太 平広記』 二六 五 「 と いう ( 歳 で、窪提 に対す る張説 のライ バル意識は強烈だ った。先天 二年七月、太平. 心 に憂 ひ 有 り 、 痛 み は 足. 「甚 だ し く 痛 む こと 無 き や」 と 。 日 は く 、 「臣 ゆゑ. 公主 一派が課せられると、荏提 は嶺表 に長流され ること になり、荊州 に至 っ. 岐 王 は 陛 下 の愛 弟 、 張 説 は に在 ら ず 」 と 。 問 ふ に故 を 以 てす 。 日 は く 、 「. 中書令)張 説は相州刺史 ・河北道按 月、紫微令 ( 開元元年 ( 七 一三) ---. 宗朝 で挑崇 が中書令、張説が中書侍郎だ った時期 があり、確執は この時期 に. えつ. 察使 に肢 せられ、 同三年 四月、食実封 三百戸を停止され てさら に岳州刺史 へ. 魅胎す る のかも知 れな い。 ただ、張説が玄宗 の弟 の岐王範 のもとを訪 れた の は、挑崇 の反撃を擢れた張説が焼崇と の仲を取りも ってほし いと いう意 図 に. おも. 初 た と こ ろ で追 使 が 来 て死 を 賜 わ った 。こ の件 に つ い て旧 書 「張 説 伝 」で は 「. 輔臣なり。而 るを密か に車 に乗り て王家 に出入す。誤 る所と為 るを恐 れ、 故 にこれを憂 ふ」と。是 に於 て説を相州 に出だす。 張説は挑崇 に平素 から の憾 みがあり、雛祭 が中朝 に復帰 したために張説 は. 六五〇ー 七 二 一) の方 針 による。挑崇は貞観中 に と遷される。紫微令嬢崇 (. 眺崇 は足を引きず っ よるも のだ った ことは間違 いあ るま い。にも かかわらず、. えつ. め提 と張説と隙あ り、説 時 に中書令 たり、議者 以為 へらく説 これを構陥す と」と記 し て いる。張説が荏淀を構陥したかどう か の真偽は不明ながら、当 時 の人 々は窪提 に対す る張 説 の憎悪と、そ の背後 にあ るライ バル意識を知悉. 倦州都督 であ った跳誘 の子 で、性 は佃儀、気節を尚び、 下筆成章科 から宮途. て歩 く演技 で玄宗 の意を ひき、岐王と張説 の親密 な関係が将来 不測 の事 態 に. 濯 れ た と いう の であ る が 、 憾 み や催 れ の内 実 は 判 然 と し な い。 あ る いは 、 春. 七〇 0)、同鳳閣驚台 平章事 に昇 に入 った。 武則 天 の信任を 得、聖暦 三年 (. つながらな いとも 限らな いと におわせ、張説を相州刺史 に出した のであ る。. し て いた わ け であ る。. 進す る。 中宗朝 には室 ・宋 ・常 ・越 ・許 の各州刺史を歴任 し、春宗 が立 つと. れ.

(7) . . 高 木 重 俊. せつかふ. 任ぜざ ら んことを」 「 先朝 は大 臣 に褒 押し、君臣 の厳を 開く。臣願 はく は陛 下 これ に接す るに礼を 以 てせられんことを」と いう 二事 があ る。彼は皇 族 ・ 大臣 の台省から の排除を当初 から念頭 に置 いて いるわけ であ る。 こ の方針は. 新書 「 挑崇伝」 では、宰相とし て宋環 ととも に開元 の太平を領導 した雛祭 の事蹟を極め て高 く評価 し て いるが、張説を構陥した この記事 のと ころには 「 然れども資 は権譲なり」と記し て いる。権謀家 の資 質を持 って いると いう. 皇帝権力 の確立 に つな が るわけ で、玄宗 が了解 しな いはず がな い。. 後世 の史家も それを 見抜 いて いた。 『 新唐書』 「 劉幽求 ・鍾紹京 ・窪 日用 ・. の であ る 。. この時期、眺崇 が構陥 した人物は少なくな い。例えば梁 国公嬢知古 ( 六四. 幽求 の謀、紹京 の果、 日用 の智、曙 の弁 は、 みな危 を済 ひ難を粁 ぶるに あた と 足り、多 故 の時 に方り ては、必ず資り て以 て功を成す者なり。雄選 の才 は、. むべ. 功臣を用 ゐざ れと勧 む るは、宜 なり。. 挑元崇 は張説ととも に宰輔となり、す こぶる疑心を 抱 いてしば しば侵し. とあ る。挑崇 による開元初 の功臣排除は帝権 の強化を 狙 いと し て玄宗 の了. ざ るかな。眺崇. そ の奇を用 ゐざ れば 則ち厭然とし て満 たず、誠 に与 に共 に平を治む べから. の. 陰 に譲毅を加 へ、乃ち 工部尚書 に除し、知 政事を罷 めしむ」( 旧書 「 醜知古伝」) とあ る。徐 国公劉幽求 ( 六五五ー 七 一五)は、開元初 に尚書左 丞相兼黄 門監. 解 のもと に行われた。張説がそ の先頭を切 って左遷され、さら に再左 遷 の憂. すく. とな った が、いくばくもなく し て太 子少保 に除せられ、知政事 を罷めた。「 雛 し、 乃ち 『 祭 素より これを嫉己心 幽求 は散 職 に欝快たり、兼ね て怨言あり』 と奏 言し、睦州刺史を股授す」 ( 旧書 「 劉幽求伝」)とあ る。歌 国公越彦 昭は 景龍中 に中書侍 郎 ・同中書 門下平章事とな った。彼は太 平公主派 の講至忠 と. き 目に遭う のも、彼 の存在 が眺崇 の目 には極め て大きく映じ て いたから にほ. 王据 ・王毛仲伝」 の論賛 には、. 親善 であ ったが、爾至忠 の謀殺後、郭 元振と張説 が弁護 したため に、刑部尚. かならな い。ただ、 両者 は人後 に落ちな い策謀家 であり、彼ら の権力闘争 は. 深 く こ れを 忌 偉 し 、. 書 に改 められ歌国公 に封じられ る。 しかし彼は、中宗朝 で禁搬 に出入し て鬼. 苛 烈なも のだ ったと 考え られ る。 『 明皇雑 録』 には、挑崇 と張説 の確執 に関 す る話が収 められ て いる。長文 であ るから概略を 記そう 。. 七ー 七 一五)。開 元 二年 に彼 は 紫 微 令 に な った が 、「眺 崇. 道を為 し て いた女 韮 の趨 五娘を姑と し て仕え、婦 人 の服を着 て妻と拝礼 に行 くなど、権倖 におもね って出世 した人物 であ る。「 是 に於 て殿中侍御史郭露、 たま. て いた宝帯重器を帳前 に陳列し ておき、 丞相が目も く れなか ったら汝 らは. 旧悪を劾暴す。会たま桃崇 政を執り、そ の人と なりを悪 み、江州別駕 に舵 す」 ( 新書 「 麹彦 昭伝L)と記され る。越国公鍾紹京 は玄宗即位後 に戸部尚書 に復 拝し、太 子膚 事 に改 められたが、 「 挑崇 の喜 ぶ所と為 らず、 幽求と並 び に怨望 せるを以 て、果州刺史 に肢せらる」 ( 新書 「 )とあ る。 鍾紹京伝」 このほか、紫微侍郎 ・麹国公王据は沢州刺史 に、青州刺史 ・郁 国公章安 石. 族滅 され るかも知 れな いから至急 に家事を処理せよ。も しチ ラリと でも 目. 合 い、張 説 は深く 心 に街 むと ころがあ った。危 篤 に陥 った 挑 崇 は諸 子を 認 め、 「 張 丞相 は私と仲 が悪か った。彼 には著修 の趣味 があり、とりわけ. が汚 州別駕 に、太 子賓客 ・遣遥公章嗣立が岳州別駕 に駁論 された のみならず 、. に来 た も の の、 す で に 石 に刻 さ れ て いた 。 そ れ を 聞 いた 張 説 は 「死 せ る 眺. 取り返しにく るから、 そ の石を使者 に見せ、 さら に帝 に報告せ よ」と 言 っ た。事態 は眺崇 の予測通り に進 み、張説は碑文が周密 でな いからと回収 し. 服玩を好む。私 の没後 に必ず弔問 に来られようが、汝 らは私 が平生服玩し. 宋 王成器 ・申王成義 ・那 王守札 ・岐王範 ・蒔 王業 ら の諸王 ・皇弟 が外職 に出. をくれたらわ が 一族 は安泰だから、 そ の品を張公 に差し上げ て神道碑を請 い、 そ の文章 を得 たらただち に石に刻め。丞相は数 日後 に後悔 し て碑文を. さ れ た のも 、 開 元 二年 の こ と であ った 。. 大 な たを 振 るう がごとき こ の人事 移動 は、実 は桃祭 の考え から出 たも の だ った。彼は宰相就任 に当 た って玄宗 に十事 の施 政方 針を言上し ているが、 ‐ 一 も〜 】 そ の中 に 「 外戚貴主、更相も事を用 ゐ、班序荒雑す。臣請 ふ、戚届は台省 に.

(8) . 張説について (下). たばか よ な 崇、猶 ほ能く生け る張説を 算 る。吾 いま才 の及ばざ ること遠きを知れりL. と 口惜 し が った 。. 張嘉貞 の怨恨は深く、後年、張嘉貞が中書省 で宰相と会宴す るのを詔許 され. たおり、坐上 で張説を罵 ってやまず、源乾曜 ・王唆 らがなだめ て和解 させた と いう 。. な か った の に、 いま や張 嘉 貞 は 中 書 令 に昇 り 、 張 説 は 彼 の前 任 の官 であ った. か つて景龍 のころ、張説 が兵部侍郎だ ったとき張嘉頁 は兵部員外 郎 に過ぎ. 督を歴任。 開元 八年正月、井州大都督府長史 か ら入朝 し て中書侍郎 ・同中書 門下平章事 となり、五月、 中書令 に昇 った。. に応じ て宮 途 に入り、武則 天朝 に監察御史とな る。 のち、中書舎人 ・秦州都. 六六六ー 七 二九)と の確執 があ った。彼は 五経 の拳 張説 にはまた張嘉貞 (. さらに三年余 の歳月が必要だ った。. 十 二月 に知 政事を罷 めるが、張説が中朝 に宰相と して復帰するにはそれから. 勅を奉 じ て撰文し、か つ玄宗 の親書 により刻 されたと いう。挑崇は開元 四年. に奉勅撰と題す ることなど から、碑文 は挑崇 の子 の要請 により張説 が玄宗 の. 梁園文貞公碑」 張 説 之 集 』 一四 「 明 皇 雑 録 』 の こ の話 に つ い て 『 の章 では 、 『. 掌 らせようとす る政策など にことごとく異議を唱え抑 圧した。中書舎 人 の張. す るため に十道勧農使を郡県 に巡行 させる政策、吏部を十詮 に分け て選事 を. 任用 され るのを憂え、彼 が献 じた政策、例えば、天下 の遊 戸や籍外 の田を 括. 中書令張説は平素から宇文融 の人となりを憎 ん で いた上 に、彼が帝 に重 く. にし て吏幹 があり、経済官僚とし て玄宗 の信任を得 て いく。. 永徽年 間 の宰相宇文節 の孫 であ る。宇文融は開元初 に富平主簿となり、 明弁. 張説 の生涯 におけ る最大 の危機をも たらした のは、宇文融と の確執 であ っ た。宇文融は京兆万年 の人 で、晴 の札部尚書平昌公宇文散 の玄孫 で、高 宗 の. か も 知 れ な い。. 執を繰り広げた のは、出世競争 におけ る近親憎悪 にも 似た感情 があ ったから. れば張 説 の出身地とも近く、 か つ、年齢も 一歳違 いであ る。両者が織烈 な確. 要 の地位 に いて田園を立 てなか ったと いう。張説と同姓 で蒲州碕 氏 の人とな. 両唐書本伝 によると、張嘉貞はおおらかな人柄 で面倒見がよく、久 しく清. 井州大都府 長史を検校 して辺境を巡り、両者 の立場は逆転し て いた。張 説は. この話 は小説風 の脚色 がな され て いるが、張 説と嫌祭 の反目 の深 さ、張説 張説撰挑崇碑 す) 唐集質疑』「 の派手好 み の性格があ ぶり出 され る。琴仲勉 『 」. す こぶる不満だ った。開元十年、洛陽主簿王鈎 が張嘉貞 のために宅を修 め て 御史 に任 じ ても らおうと求め て発覚し、張嘉貞 はひそか に王鈎を殺し て口を. 九齢 が 「 宇文融は恩を承け て事を用 ゐ、弁は給 にし て詞多 し。備 へざ る べか いづ 此 の狗鼠 の輩、寿く んぞ能く事を為 さん や」 らず」 と忠告したが、張説 は 「 と言 って取り合わなか った。時 に御史大夫は穫隠甫 で、彼 は晴 の散 騎侍 郎窪. 鮫が罪を犯 し、張嘉貞 は権倖 の王守 一に附会 し て妻鮫を杖刑 にしようと奏請 した。詔杖 六十 に処 された妻 鮫は、鈎州 に流 され る道中 に死した。同十 一月、. 夫と した。 こ の人事 で窪隠甫 は張説を強く憎悪す ること にな った。. 奏請 したとき、玄宗 は後 日知を左 羽林衛大将 軍に、河南美 の穫隠甫を御 史大. し て いた。 開元十 四年、張説が日ご ろ親しく し て いた窪 日知を御史大夫 にと. 封じ、罪を御史大夫 の章抗 らになすり つけ て左 遷した。そ の冬、秘書監 の妻. 広州都督 の斐 伯先 が獄 に下され、張嘉貞はま た これを杖 せんと請うた。時 に. 懐 の曾孫 であ る。玄宗 の信任を得 て、華州刺史 ・太 原署 ・河南昇などを 歴任. 刑 は大夫 に上さず」 と いう古 兵部尚書 ・同中書 門下三品 であ った張 説は、 「. のぽ. 、 訓を根拠 に、さき の妻鮫 の例をも蒸 し返し て斐 伯先擁護 の論陣を張り 帝 の. むらざと. ( 張説は)術士王慶則を引き て夜洞藤解 せしめ、奏 し て其 の 間 に表 せ. 容は、. かく て開元十 四年 四月、御史中丞字文融は御史大夫 窪隠甫 ・御史中丞李林 張説伝」 によ ると、そ の内 甫と手を携え、張説を劾奏 した のである。新書 「. 裁可を得 た。開元十 一年正月、玄宗 が井州 に行幸 したとき、張嘉貞 の弟 の金 吾将軍張嘉祐 の臓罪が発覚 した。張説は張嘉貞 に素服し て罪を待 つよう勧め て帝 に謁見 させず、二月、幽 州刺史 に駁 し、張説 が代わ って中書令とな った。.

(9) . . 高 木 重 俊. えつ. き けい. う. ほしいまま. しむ。僧 の道岸を引き て時事を窺詞 せしめ、右 職 に冒署す。親 しむ所 の吏 張観 ・苑尭臣、 説 の勢 に依拠 し、権 を市 り 賂を 招き、 檀 に太 原 の九姓 に羊銭千万を給す。. 六 、学 識 の人 と し て. 張説 は希代 の学識 の人 であ った。彼が 二十 四歳 で太子校書郎とな ったとき、. 張説 の兄 の太子左 庶子張光は朝堂 に至り、耳を切 って菟を訴えた。. 章抗 に詔し、尚書省 に即き て鞠せしめ、金吾衛 の兵 に張説 の邸を包囲させた。. 彼 は種 々の編纂事業 に関係 し て いる。 そ の最初 は、久視 元年 ( 七〇0) か ら長安 元年 ( 七〇 二 にかけ て行 なわれた 『 三教珠英』であ る。こ の編纂 は、 張易之 ・張昌宗 兄弟 の不行逃を 糊塗す るため に武則天が文学 の土 に命じ て実. 述 べた。. 学識 の土 であ る醜知古 や元懐景 の深 い知遇を得 て いた こと は、す でに前稿 で. 姿 で藁 の敷物 に座り、家 人は瓦器 で玄米と塩漬け の野菜を食 べ、自 らを罰 し. など 二十 六人が選ば れた。張説も参加 し ており、彼も 一流 の文学 の人と認知. と いうも のだ った。玄宗は激怒 し、尚書左 丞相源乾曜 ・穫隠甫 ・刑部尚書. て憂濯 して いた。「 張説 は国家 の功臣 であります」と いう高力士 の弁護もあ っ て、玄宗 は張説 の中書令 を罷免 し、王慶 則ら十余人を課す るにとど めた。宇. さ れ て いた わ け であ る 。. 玄宗 は高力士 に命 じ て張説邸 の様 子を見 に行か せたが、張説は蓬首垢面 の. 文融は張説が再び 用 いられ て自 分 の患 いとな る のを恐れ、 いくたびも 譜段し. 文融らと の抗争 により開元十 五年 ( 七 二七) 二月 に致仕を命じられた 二年 の. たな い寒門出身 の彼は、自 己 の才覚 で抗争を乗り 切 るしか道はなか った。宇. 興士人階級 であ ったり、北朝 から の世族 であ ったりした。よるべき基盤を持. 張説 の浮沈 はす べて人事抗争 にからむ。 そ の相手 は、権倖 であ ったり、新. に更 に古今を討論し、制改 し て行用す べきだ」と上奏 し、徐堅 ・李鋭 ・施敬. 礼 の儀注は貞観 ・顕慶 の二度 の改修を経 て、前後 不統 一であ る。学士ととも. と な って お り 、 聖 人 の世 か ら 遠 く 隔 た って いる た め に改 易 は 難 し い。 今 の 五. が集 賢学士 に詳議 させた。右 丞相 張説 は、 「 礼 記は漢朝 の編 で歴代 不刊 の典. あ る。 『 張説年譜』 では これを 開元十 一年 ( 七 二三) に繋げ る。 『 大唐 開元礼』 百五〇巻 は、 開元十 四年 に通事舎人 の王暴 が 「 札記」 の改 撰を上疏 し、旧文を削去 し て今事 によ って編集 しなおす べきだと述 べ、玄 宗. 討 せしむ。会 たま詔あ り、 促 し て速き に従 はしめ、 堅 乃ち先 づ詩 賦 二韻 たてまつ な や を集 め て 『 文府』 と為 し てこれを 上 り、余 は就らず し て罷む」と いう注 が. たま. 『 新唐書』 「 芸文志」 四には徐 堅 『 文府』 二十巻が録 され、「 開元中、張説 に詔し て 『 文選』 外 の文章を括 せしむ。乃ち堅と賀知章 ・越冬暇 に命じ て分. 九 ) も の であ る 。. 施させたも ので、李崎 ・闇朝隠 ・徐彦伯 ・富嘉護 ・醜知古 ・沈住 期 ・宋之問. た。玄宗 は宇文融 ら の朋党 の振舞 いを憎 み、宇文融を嬢州刺史 に遷 し、窪隠. 『 初学記』 三十巻は、玄宗が張説 に対し て、児子 の作文 ・作詩 のため に コ 『 ンパクトな表現事 典 の編集を求 め、張説が徐 堅 ・章述らと編 んだ ( 大唐新 語』. 甫を免官帰省 させた。 こ の争 いは 結 果 と し て両 成 敗 に終 わ った が 、 張 説 にと っては き わ め て危 機. 的な状況 であ った。張説を憎悪 し て劾奏 した宇文融 ・窪隠甫 ・李林甫 は、そ れぞれ北朝 以来 の世族 の出 であ ることからす れば、 この抗争 は世族と新 興士 族と の矛盾 によ るも のと 見 てよ いす)。張説 が御史大夫 に穫隠甫 ではなく桂 わか 日知を推薦 し、窪隠甫 の恨 みを買う こと にな った のも、窪 日知が 「 少 し て孤. のち、彼 はま た右 丞相 に復す る。玄宗 が、 そし て時代が彼を必要と し て いた. 貧、力学」し て明経科 から官 界 に入り ( 新書 「 窪 日知伝」)、張説と友善 であ っ た、 そ の人物 に張説 が肩入 れし て いると見られたから であ る。. か ら であ る。. 本ら に検撰を委ねたが完成 せず、張説 の没後、瀦嵩 ・王仲丘ら により完成 し、 『 開元 二十年九月 に行 用された。 ( 唐会要』 三七 「五札篇 目」)。. 4 2.

(10) . 張説について (下). 『 開元大 衛暦』 五部五○巻 は僧 一行 の撰 で、 一行は開元十 五年、奏上す る 前 に卒した ので、玄宗は特進 張説と暦官陳玄景 に詔し て編次させ、暦術七篇 ・. 八陣 図』 十巻、経 二巻を修めさせたが、 これは 九月、玄宗 は左丞相張説 に 『. 張説 の軍事 的知識を評価し てのこと であ る。. 『 大唐新 語』九)。 威 に委ね、開元 二十六年 に奏上 された。 (. た張説 がそれを徐 堅に委ね た。 しか し容易 には進捗せず、後年、李林甫 が苑. 『 唐六典』 三〇巻は、 開元十年 に玄宗 が撰修を命 じ、時 に麗正学士 であ っ. 識り 、旧史 に学び、文 は微腕 に成り、詞 は金 石を潤 ほす。以 て風雅を 昭振 し、 よ もたら 軌訓を光 揚す べし。 国史を兼修 す べし。 例 って史本を 蕎 し、井 州 に就 き て. 年十 二月 二日詔す、右 羽林将 軍検校井州大督府長史燕国公張説、多 く前 志を. じられた のは容宗 の景雲 二年 ( 七 一一)正月 であ った。彼 はそ の後 、 二度 に 開 元八 唐会要』 六三 「 在外修史」 には、 「 わた って史館外 で国史を修 める。 『. さら に張説は、国史 の修撰 にも かかわ って いる。彼が初 め て監修 国史 に任. このよう に、 開元中期 に、張 説は修撰事業 の取りまと め役とし て大き な役. 随 軍 修 撰 せ よ 。」 と いう 詔 を 載 せ る 。 三割志 ・旧 史 」 への造 詣 の深 さ を 玄 宗 は. 『 旧 略例 一篇 ・暦議十篇と し て奏 上 させ、十七年 に有 司 に頒 って行用させた (. 割を果たし て いる。 これはもと より張説 の礼 や暦 に対す る学識を玄宗が評価. 高く評価 し、史料を井州 に送 って戎幕 の中 で著述 させた のであ る。 さら に、. 唐 書 』 「暦 志 」 ; 。. し て のこと であ る 。. 旧 られ、高祖神尭皇帝を祭り に配 し、 三祖 同配 の礼を罷 めるよう建議した ( 書 「 礼儀志」 -)。ま た、 祭礼 に着 用す る大装 の発と姿発 の由来と意味 に つ. 兼 ね 、 文 史 の任 に当 た る こと に な る 。. 宗 は史館 で参 詳撰録させること にした。翌年 二月、張説は再び集賢 殿学 士を. し て お り 、 国 の大 典 が 数 ヶ所 に散 在 す る のは よ く な い」 と 上 奏 し た の で 、 玄. 開元十 一年十 一月、玄宗 が国 丘 に享したとき 、中書令張説は礼儀使 に任じ. 旧 書 「輿 服 志 」)。 い て意 見 を 上 申 し て いる (. 旧 唐 書 』 「音 楽 志 」 三 に は 、 「貞 観 張 説 は ま た 雅 楽 にも 造 詣 が 深 か った 。 『. 開元十 五年 六月 にも、玄宗は致仕 した張説 に詔し て在宅修史を命じた。 しか し こ の時 は中書侍郎李 元紘が 「いま張説は家 で修史 し、呉競 は集賢院 で撰 録. 開元十 二年、文武 の百僚 や皇親 は玄宗 に封禅を請う た。玄宗 は許さなか っ たが、中書令張説 は日を累ね て固く請 い、そ こで開 元十 三年十 一月十 日に故. 二年、太常少卿祖孝孫、既 に雅楽を定 め、 六年 に至り て、椿亮 ・虞 世南 ・醜. 徴等 に詔 し て楽章を分制せしむ。 その後、則 天 の称制す る に至 って、改 易す. 実 にの っと って泰 山 に有事す ること にし、張説 ・右散 騎常侍徐 堅 ・太常少卿 章演 ・秘書少監康 子元 ・国子博 士候行果ら に命 じ、札官 ととも に集賢院 にお 三 。封禅 にあた って張説 は 旧書 「 礼儀志」 一 いて封禅 の儀注を 刊撰 させた ( 封禅使と し て儀式を取り しき った のであ る。. る所多 く、歌辞はみな是れ内 出せり。開元 の初 めは、中書令張説 の奉制 し て 玄 造 る所 に則 るも、然れども貞観 の旧詞を雑 へ用ゐたり」とあり、張説作 の 「 玄宗 開 元十 宗開元七年享大廟楽章」十六首を載 せる。 ここにはまた張説 の 「 。. 、. はじ. 唐 会 要 』 三 二 「雅 楽 」 上 に は 「開 三年封泰山鵡天楽章L 十 四首 も 収 め る 『 元十 三年、燕 国公張説 に詔し て楽章を改定 せしむ。上自 ら声度を定 め、 説は つく. 類礼」 礼 記』 に注 した 「 開元 の初め、玄宗は太 子賓客 元行沖 に、醜徴 が 『 に 「 義疏」を撰せしめ、 国学 に学官を立 てようとした。元行沖 は国子博 士苑 行恭 ・四門助教施敬本 らと 五〇巻を勤成 し、十 四年 八月 に奏上した。尚書左. これが詞を為 り、太常 の楽 工し て集賢院 に就き て教習せしめ、数月 にし て方. 張説 のこのような学術 ・文 化面 における多彩 な活動 は、学士とし ての身 分. 泰山肥天楽章」は、玄宗と張 説 の合作 であ った ことを記し て いる。. 々は. 丞相張説は、 そ の内容 が多 く先 儒 の義 に轟くと駁奏 し、玄宗 はそ の五〇巻を. 、封 め て畢 る。因り て封禅郊廟詞曲 及び舞を定め、今 に至 るま で行 はる。 」と 「. お も. ▲ 旧 書 「元 行 沖 伝 」)。「時 議 以 為 へら く 、 内 府 に留 め て学 官 を 立 て る のを や め た ( 入つ ・. 大 唐 新 語』 七 の記 事 であ る 。 説 の通 識 は 醜 徴 を 過 ぐ と 」 と は 、 『 こ のよ う に、 張 説 は 礼 に 関 す る 深 い学 識 を 持 って いた 。 ま た 、 開 元 十 七 年. 5 2.

(11) . . 高 木 重 俊. 士 には本もと 『 大』 の称な し。中宗 以 て大臣を崇寵せ んと欲 し、景龍 中、修文館 に大学士 の名あり。臣 の如きは畳 に敢 て大を以 て称と為 さん. に裏打ちされる。彼は中宗 の景龍 三年 ( 七〇九)十 一月 に修文館学士とな っ ている。開元十年九 月、朔方巡察 から帰京した彼は麗正殿修書使 に任 じられ、. 『 や」 と 述 べ、 玄 宗 は そ れ に従 った ( 唐 会 要 』 六 四 「集 賢 院 」)。. 張説 が集賢学士 に拝 し、院庁 で宴会を催 した。酒を挙げ る にあ たり、. を 以 てし、官班を以 て前後と為 さず。説聞く に、高宗朝 に史を修 せしと. えつ. 彼 は謙譲 し て先 に飲もうとせず、諸学士 に 「 学士 の礼は、道義 の相高き. ◎. 徐堅 ・賀知章 ・越冬鴫 らを奏 し て入院 させた。開元十 三年 四月、封禅 の儀注 が奏上されると、玄宗 は中書 門下及び礼官学士を集 仙殿 に集め、宴を賜わ っ た。 そして、集仙 殿 の麗正書院を集 賢殿書 院と改称 し、張説を学士 に充 てて 院事を知 せしめ、徐堅 ・賀知章 ・陸堅らも学士 に任じられ、学士 ・侍講学士 ・ 『 直学士は十 八人 に のぼ った ( 唐会 要』 六四 「 集 賢院」)。 これより集賢院学 士は常 に宴飲賦詩 し、各 種 の修撰事業 に当 た った。玄宗 は これを褒美し て十. き 、学士十 八九人あり、時 に長孫大尉 は元奥 の尊を 以 てし て、先 に飲む を肯 んぜず、其 の九品 の宮を守 る者 にも、また後 に在 るを許さざ りき」 『 と 言 い、十九 人 の杯を 取らせ、 一時 に乾杯した ( 大唐新語』 七)。 ◎ 賀知 章 が太常少卿 から礼 部侍 郎 に遷り、集賢 学士 を兼 ねた。 「 賀 公は 二 つの栄命 を加え られたが、学士と侍郎と ではどち らが美 であ ろう か」 と源乾曜 が聞くと、張説 は、「 侍 郎は皇朝 より 己来、衣 冠 の華選たり。望 ・. 八学士 の像を画かせた。 集賢院 の隆盛を支え た のは張説 の力 であ った。彼を中心とす る集賢院 の活 『 動 に ついては、池 田温 「 盛唐之集賢院」( 北海道大 学文学部紀要』十九 ノニ、 昭和 四十六年 二月) に詳 細 に記述され ている。. 実 の具 に美な るに非ざ るより は、以 てこれ に居る ことなし。然りと難も、. はぢ. の認識 の表わ れ であ る。彼はま た、学芸 の土は道義 の高 さ によ って結ば れ、. 土を集 め て宴を賜わ る のは、学芸 に心を寄 せる天子 の篤 い心 の表 われだとう. 。 『 大 唐 新 誠ぎ : ) の中 、 此 を 最 と 為 す L と 答 え た ( ① の詩 は 「 恩制賜食於 麗正 殿書 院宴、賦得林字」 詩 の前半 で、 『 全唐 詩』 八七 で第 三句 は 「 諏詩聞国政」 に作 る。 こ の詩は、 天子 が麗正書 院 に学芸 の. 涛・( 子)夏 の文学を兼 ね て、始め てこれ に処り て龍なか る べし。 二美. を. 先 王 の道を懐き 、精紳 の軌儀 たり。揚 ( 雄) ・班 ( 固)の詞彩を麹 み、( 子). つつ. 終 には是 れ具員 の英 にし て、ま た往賢 の慕 ふ所 に非ず。学士 な る者 は、. つひ. 学士と しての張説 にま つわ る逸話 は多 い。それら の中から、彼 の見識を探 っ て み よう 。. の 張説は麗正殿学士となり、玄宗 に 「 東壁 は図書 の府、西垣は翰 墨 の林、 詩を議 し ては国体 に関はり、易を講じ ては天心を 見 る」と いう詩を献 じ た。玄宗 は深く佳賞 し、 「 進む る所 の詩を得 たり、甚 だ佳妙 と為す。風 『 雅 の道、斯 に観 るべし」と述 べた ( 大唐新誠控 八) たいぐう. の 陸堅が中書舎 人となり、麗正学士 には不適任者もおり所司 の供擬も過 多 であ ると感 じ、朝 列 の者 に 「 此れ亦た国家 に何 の益 かあら ん、空しく 此 の如き費損を致す のみ」と語 った。張説はそれを聞 いて諸宰相 に 「 説 聞く、古 より帝 王は、功成 れば則ち著縦 の失あり、或 は池台を興造し、. 官位 の高低 には関係な いと考え る。新 興士族 の柔軟 な意識 の反映と見 てよ い. たう。② にも 示され るよう に、 この学芸 こそが国政 の根幹な のだとす る張説. 或は声色 に歌 翫す。聖上は儒を崇び徳を重 んじ、親自 ら講論し、図書を. だ ろう。侍郎 よりも学士 の方 が名誉 だとす る◎ の逸 話 には、学士張説 の真面. えつ. 刊校し、学者を詳延す。今 の魔正は是れ聖主 の礼楽 の司、永代 の規模 に. 目がう かがわれ る。官僚とし ても将帥 とし ても彼は人後 に落 ちな い存在 だ っ. かく. し て不易 の道なり。費す所 の者は細 にし て、益す所 の者 は大なり。陸子. みづか. 『 の言 は 、 いま だ 達 せ ず と 為 す 」 と 語 った ( 大 唐 新 語 』 -)。. たが、彼 は学士 の職 こそが自 己 の天職 であ る考え て いる のであり、礼 や暦、 そし て歴史 に該博な知識を有す る張説は、ま さ に 「 学士」 と称す るに相応し ◎ 最初張説 は集 賢 殿 「 大 学士」 に任命 された。彼 はそれを辞 退 し、 「 学.

(12) . 張説について (下). い人 物 だ った の であ る 。. 七 、人 と な り を 巡 って 張説は逸話 に富む人物 であ る。それら の中 には、伝奇小説と紛う ほど の巧 みな 筋 書 き に仕 立 てら れ て いる も のも 多 い。 し た が って、資 料 と し て の信 懸. 廉潔な鹿懐真 に天 の加護 がなか った のは気 の毒 であ るが、そ の対極 に いる張 説 の貧欲 さはよけ い際立 つ。. 張説 が保 有 し て いたと いう 財宝 に関す る話も多 い。 『 松蜜雑録』 には、宰. 相 挑崇 と 御史 中丞李林甫 に構陥 さ れ て絶体 絶命 のピ ンチ に立 た された 張説 新羅)の 「 は、か つて恩を売 った書生 のはかり ごとを用 い、難林郡 ( 夜 明簾 」. を 九 公 主 に贈 り、 玄 宗 に取 り な し ても ら って窮 地 を 脱 し た と いう 話 が あ 。元 の伊世珍 『 採蘭雑志』 から の記事 とし て、 「 張 郡嬬記』 巻中 では 『 る官). 性 には乏し いのであ るが、他方 、張説は時代 の著名 人 であ るだけ に、全く根 拠 のな い話は逆 に作り にくく、幾分 か の事実をもと に読者 になるほどと思わ 説. 張 燕 公 説 、 宰 輔 の才 開 元 天宝 遣 事 』 下 には 、 「 品 に貧 欲 だ と いう の であ る 。 『. しく蓉修を懐き、 尤 け服 玩を好 む」 と述 べて いた。派手好 みで器用 ・装飾. ち手を以 て持し て此 の珠を弄すれば、便ち心神 の開悟せ ろを覚 へ、事 は巨細. 恵むあり。紺色 にし て光あり、名を 記事 珠と日 ふ。或は闘忘 の事 あれば 、則. 『 開元中、張 説 宰相と為 る。人 の説 に 一珠を 開元 天宝 遺事』 上 には、 「. えつ. だ 説 の宅 の み光 な し 。 簾 こ れ を 奪 へる な り 」 と いう 話 を 載 せ て いる。. 夜 明簾 を 以 てこれを懸くれば、白 日より 柄 かなり。夜半 に月出づ るも 、惟. あきら. 元宵 に予 て諸姫を召し て共 に宴 せ るに、月なき に苦 しむ。夫 人 難 林 の. おい. せ る内容が必要とな ろう。そ の幾分か の事 実を、逸話 の中から窺 ってみよう。 明皇 政敵挑崇 が臨終 に及 ん で、家 族 に張 説 への対応策を遺言したと いう 『 其 の人は少 雑録』 の話は前 々章 に引 いた。そ こで挑崇 は張説 の人となりを 「. あり て、誼詐多く、復 た財賄 を貧 る。時人亦 た これを多 と し、亦た これを汗. となく、漠然と して明暁たり、 一も忘 るる所な し。説 秘 し て至宝とす るな. とりわ. なりとす」と記す。時人は有能 な宰相とし ての側面と貧 欲な策謀家と し ての. り 」 と いう 記 事 が あ り 、 さ ら に 、 『 雲 仙 雑 記』 巻 之 六 には 『 類 票 記』 を 引 き 、. 「 張燕公 に石緑鏡 台あり、明川 の道士より得たり。玄宗 そ の異あ るを聞き、. 側 面 と を 見 て いるわ け であ る 。 『 独 異 志 』 上 には 次 の よ う な 話 が あ る 。. 取り て精 炭十車を以 てこれを焼かしむ るに、変せず、乃ち 己む」と いう 記事 が 見 え る。. や. には. やまひ. 止 め て号 果 せ し め ず し て 日 は く 、 「公 の命 は いま だ 終 は ら ず 、 我 こ れ を 知. 在 であ る。張説 の事逃 にま つわ る逸 話 に小説風 のも のも多 いことと軌を 一に. 玄宗朝 の宰相鷹懐真、 疾 なく し て暴 か に終 は る。夫 人 の窪氏、児女を るを得たり。公は清倹 にし て廉潔 、進む に寒くし て退く に謙なり。 四方 の 賂遺は、整髪も留 めず。張燕国と時を同じくし て相と為 る。張は納貨山積. す る事 柄 であ るが、あ の張説ならば これぐら いの財宝 は持 って いただ ろう と. 『 資 治 通 鑑 』 開 元 十 四 年 の条 に は 、 「説. えつ. 才 智 あ り て賄 を 好 み、 云 々」 と. 夜明簾 ・記事珠 ・石緑鏡台とも に、財宝とは言うも ののす べて小説風 の存. せ る に、 其 の人 は 尚 ほ 在 せ り 。 著 ・倹 の報 い、 登 に虚 な ら ん や」 と 。 宵 分. 信じさせ るに足りる。張説 が貧 欲 であ ると いうイ メージは相当 に浸透し て い. かた. 夫 人 の言 を 以 て啓 陳 す る に、公 日 は く 、「理 をは. えつ. に及 び て、公 は 復 た 生 く 。左 右. ふい}. た の であ る 。 たぐ. は 固 に同じからず。冥司 に三十炉あり、 日夕 に 秦 を鼓 し て、説 の為 に横 いづ. 記され るが、この年 四月 の御史大夫 窪隠甫 ・御史中丞宇文融 の張説告発 は 「 術. 財 を 鋳 す 。 我 に は 一も 無 し 。 悪 く ん ぞ 匹 ふ べけ ん や」 と 。 言 ひ詑 り て復 た 絶 ゆ。. 土を引き て星を占 はしめ、私 に 拘 ひ借修し、賄賂を受納す」と いう内容 だ っ. したが. これ は み ご と な 小 説 仕 立 て にな って いる が 、 納 貨 が 山 のご と く 積 も る張 説. た。 「 納 賄 L は官僚告 発 の常套的 罪条 であ ると は言え、 司馬光も張説 の人と. たから. のた め に、冥 途 の役 人 ま でも が 不 義 のお 銀 を 鋳 造 し て いた と いう の であ る 。.

(13) . . 高 木 重 俊. なり を 「 好 賄 」 と 見 て いた よ う だ 。 張 説 に 関 す る マイ ナ スイ メ ー ジ に は 、彼 が 策 謀 家 であ ると す るも のが あ る。. 『 明皇雑録』 には、張説 が駁調中 の岳 州刺史から、開元五年 二月 に荊州大都. 今 を 引き、 「. 取 らず」 と却 け て いるが、権 倖 への贈遣 を怠 るはず がな いと. いう 、 張 説 に対 す る 時 人 の思 いが 、 こ の説 話 に 反 映 さ れ て いるだ ろう 。. じんかん. 『 資治通鑑』 「開元十 四年」 に、 「 上 武恵妃を以 て皇后と為さ んと欲す。 あ 武氏 は乃ち 天を戴 かざ る の鱗なり、貴 に以 て国母と為 或 ひと上言すらく、 『. 通り に使 者が蘇廻 の邸 に赴 くと、たま たま曇 天が数旬 にも わた って続 いた 日 で、夕方、 弔問客 が訪 れ て故蘇理 の旧友 の話を し て いたと ころ へ張 説 の詩が. 中書令を罷免 され て いた。そ こで玄宗 の意向を先取りし て武恵妃を皇 后 にし、. と欲すと盛 言す、且 つ太 子は恵妃 の生む所 に非ず、恵妃 に復 た自 ら子あ り、 若 し度極 に登 らば、太 子 は必ず危 ふか ら ん』 と。上 乃ち止む。 」と いう 記 述があ る。 このとき、窪隠甫 ・宇文融 ・李林甫らと の抗争 によ って、張説 は. す べけんや。人間に、張説は立后 の功を取り て、更 に相 に入 るの計 を図らん. 届け られたため に、蘇翻は鳴 咽流沸し て悲 し みに耐えず、翌 日、封事をた て. 府長史 に転任す るにあた っての、同紫微黄門平章事蘇題 に対す る工作 が記さ れ て いる。張 説は蘇 廻 の亡 父蘇痩 と親 しか った ので、 「五君詠」 詩 で蘇痩を 詠 じ、使者を戒 め て蘇 窺 の命 日の夕方 に子 の蘇 廻 のもと に届けさせた。指示. ま つ って王室 への張説 の忠勤を訴えた。そ こで玄宗は張説を荊州 に移 した の. 宰 相 に返 り 咲 こう と 謀 った と いう の であ る 。「考 異 」では 『 皇 后」 唐 会 要 』三 「 の記 事 を 引 いて いる 。 そ こ で は 「 或 ひ と 」 は 侍 御 史 藩 好 礼 と な ってお り 、 合. 涼丞相府、余慶在玄成」とう た って蘇 廻 に送り、 それを読 んだ宰相蘇 廻が張 説を岳 州刺史から荊州長史 に遷 した のだと記 され て いる。張説 の詩句 は、蘇. か判定す る術はな いが、藩好礼 に仮託 し てこ の上表文を書 いた人物も、 それ. 司馬光 は張説 の策謀 の記事を書 いたわけ であ る。 この策謀 が事実 であ るか否. わせ て 寒翫要』 に収 められ て いる蘇発 の駁議 では、 この表 は藩好礼 の作 では. 痩 ・蘇廻 父子を漢 の章賢 ・章玄成 父子 になぞらえ、蘇窺 が亡くな って丞相府. を 『 通 鑑』に 引 いた 司 馬 光 も 、張 説 の策 謀 を 否 定 し ては いな い の であ る 。「『 資. だ と いう 。 こ の話 は 、 開 元 十 一年 五 月 、 張 説 に た てま つら れ た 王 冷 然 ( 六九 ニー 七 二 四) の上 書 官 )の中 にも 、 張 説 が 「五 君 詠 」 で 蘇 窺 の こ と を 「凄. は も の寂 し く な った が 、 父 の余 慶 が 子 に及 ん で、 蘇 廻 も いま 宰 相 に な って い. こ こま で見 てき た 食 欲 ・策 謀 家 と いう 張 説 への マイ ナ スイ メ ー ジ は 、 多 く. な いが、作者は誰 かわからな いと述 べる。作者が不確かな上表文をもと に、. ると いう 意 味 。. 治 通鑑』 は、 ーた いに彼 に対 し て非 同情 的 であ る」 と は 「 吉 川論 文 すご の 見解 であ るが、司馬光 は張説 の人となり に胡散臭 さを感じ て いた のであ ろう 。. りな いが、当時 の人 々は張説 の心 理的作戦 に舌を巻 いた のであ ろう。 開元四. の稗史 ・俗 説 に出 る のであ るが、他 方、 彼 に対 し ては、 「 説 気 節 に敦く、. 張 説 の思惑 はうまく的中 したわけ であ る。 こ の程度 では策謀と言う には足 年 のこ の話 が、語り継がれ て開元十 一年 の王冷然 の張説宛 の上書 に記 され て. 晩年 に到 るま でこ の両側面を保持 し つづけたわけ であ る。 張説が嚢 じ て、太常卿 は彼 に 「 文貞」 と いう 訟号を定 めた。左司郎中 の陽. 前稿第 三章第 二節 で述 べた醜 元忠構 陥事件 におけ る張 説 に対す る評価、 「 剛 直」と 「 巧詐 ・傾巧 ・翻覆」と いう 相 反す る評価を想起 させず にはおかな い。 こ の事件 は 長安 三年 ( 七〇 三)、張 説 三十 七歳 のでき ごと であ った が、彼 は. えつ. いる のだ か ら 。. 立ちど ころに然許し、後進を推籍す るを喜び、君臣朋友 の大義 に於 て甚だ篤 、 、 し。 」命新唐書』本伝)と いう き わめ て肯定 的な評価があ る。この両側面 は. ま た、 『 燕 国 公 張 説 は 、 倖 像 の人 な り 」 と いう 書 き 出 朝 野禽 載 』 五 に は 、 「. し で、張説 が玄宗 の寵を受 け る特進 王毛 仲 にしば しば金 玉を贈 っていたこと、 開元九年夏 に、朔方道防禦討 壁大 使と し て辺を巡 る王毛仲を、 天平 軍節度大 使 であ った張説がも てなし て いる時 に、張説を兵部尚書 ・同中書門下三品 に す ると いう 恩勅が届き、張説 は王毛仲 の手を取 って踊り、そ の靴 の先 に接吻 し た と いう 話 を 載 せ る 。 『 考 異 L で は こ の話 資 治 通 鑑 』 「開 元 九 年 九 月 」 の 「.

(14) . 張説について (下). 伯成 がそれ に反対 し、 工部侍郎 の張九齢は太常 の判断を擁護 し、紛 々と し て. 唐 以来、 五人同詫な るは、亦 た嫌 ふこと無きな り 曾. 美訟、以 て加 ふる無き なり。徳望尤重 な るに非ざ れば、此 の誼を受けず 。有. そむ. と記す。最高 級 の褒. 文貞」 と誼を 賜 った ので 決 しなか ったが、玄宗 みず か ら神道碑文を製 し、 「. まさ. 辞 であ る。張説 の行遊 が肯定的 に評価 され て いる のであ る。. いまし. ここま で、上 ・下 ・の二篇 に分け て、政治世界 におけ る張説 の活動 に つい て、彼 の出目 や人となりをま じえ て概観し て来た。彼は相と し ても将と し て. おわ り に. 朝臣複 陽伯威」とし て 『 唐会要』 八○ 「 決着 した。陽伯成 の駁議 は姓名を 「 駁太常燕 国公張説詮議」と題す る。 全唐文三 ニ三 一には 「 註」に収められ る。『 まこと. 議 し て 日 は く 、 「註 な る者 は 、 徳 の表 は れ 、 行 な ひ の逃 に し て、 将 に 以 はか. 張 て風俗を激励 し名教を検束 せ んとす。固 に虚誉なく、是 れ実録を尊 ぶ。『. のが. も学士とし ても 、 そし て本稿 では考察 の対象とはしなか ったが、詞人 ・文 人. いづ. 細微 の人を 粛 めず、頗 る周慎 の旨 に轟く』 説罷相制』に準 るに云 へらく、『 か か まも 行な ひは半古を履き、防りは周身を開く。 致仕制』に云 へらく、『 と。また 『 ぎづ かまびす うたが いまだ瓜李 の 嫌 ひを免 れず し て、衆多 の口に 喧 し』 と。 且 つ玉 の暇あ か. とし ても時代 の 一流だ った。彼は新 興階級 の出身 な るがゆえ の柔軟な思考 と、. か. 。 、 る は 、尚 ほ磨 く べき な るも 、人 の斯 く 活 け た ろ は 鷺 く ん ぞ遣 る べけ ん や. きわ め つき の寒 門 の出身な るが ゆえ の富貴 への強 い執着心とをも って行動 し. あらた. 彼 の行為は新興階級らし い 一種 の積極主義 によ っ た。「 吉 川論文」ではそれを 「. 註し て文貞 と 日 ふは、何 ぞ温勧 を成 さ ん。請 ふ太常 に下し て、 更 め て行 よ. 事 に拠 り て議 を 定 め よ 。 謹 し ん で議 す 。」 と 。. ゐるに及び、忠を納るること倦 々たり、また封禅を 図り、典章を発明す 。開. て貫 か れ て い る 。」 と 説 明 す る 。. 曲 停燕 図中書令 制」と し て 『 張 説罷相制」 は張 九齢 の起 草 で、「 文中 の 「 江集』 七 に収 められ て いる。開元十 四年 四月 に張説が中書令を罷免された の は、前述したよう に宇文融ら の告発 によ る。そ こには術士王慶則 ・僧道岸 ら. 元 の文物 の彬 々たろは、説 の力 多き に居る」と高 く評価 し ている。彼 はま. 説 の邸を包囲 させ て致仕を命 じた にも かかわらず、とも に彼 の復帰を許 し て. 年から足かけ十年 にわた って張説を外職 に出 し、開元十 五年 には近衛兵 に張. 張説 にと っては玄宗 の信任 こそが頼 み の綱だ った。玄宗もまた、開元 の初. そし て、そ の人間臭 さが、彼を多 く の逸話 の主 に押 し上げた のであ る。. 配慮が必要だ った。彼 の人物像 に関す る両面 の評価 は、とも に当を得 て いる。. 成り上がり ぶり が、時代 の関心を呼 んだ のであ る。 後楯 のな い孤 門 の張説が権力 闘争 の渦 の中 で富貴 の道を歩む には、相 当 の. 術 ・文化 の人と し て、玄宗 の治 世を飾 った のであ る。彼 は時代 の著名人 であ り、美醜とりま ぜ て彼 にま つわ る逸話が語られた 谷)。唐 はじま って以 来 の. で活躍 した のはち ょうどま んなか の約十年間 で、彼は この安定 の時代 に、学. さに開元 の元勲 とな った のであ るが、開元時代 二十九年間 のうち、彼が 中朝. 『 説 は玄宗 に於 て最も 徳有 り、太 平 事 を 用 新唐書』 本伝 の論賛 では、 「. 罷相制」 に と の張説 の交 際、張説配 下 の張 観 ・苑尭 臣ら の悪事 が記 され、 「 致仕制」 に言う 「いまだ 言う 「 細微 の人を粛まず、頗 る周慎 の旨 に乗く」、 「 瓜李 の嫌を免 れず」とは、 この事件 の捜査結果 にもとづ いた表現 であ る。陽 文貞」 伯成はそ の二 つの制勅をもと に、制勅 に悪 しざま に記 され て いる人 に 「 と いう詫号を与え れば、詫が悪を組 み善を勧め ると いう意義を失うと主張 し たわけ であ る。陽伯成 の駁議は表向きは 二 つの制勅 の文面を根拠 にす るも の の、彼 の意 識 には、 これま で見 てきたよう な張説 の食欲 ・策謀家と いう ダー 清 白 に し て節 を 守 る を 貞 と 日 ふ」 と い テ ィイ メ ー ジ が 、 「説 法 解 」 に 言 う 「. 、 う精神 にそぐわな いとす るも のがあ った であ ろう。しかし 彼 の駁議 は玄宗 に取り上げ られなか った。 『 定 訟」 には、太宗朝 の鄭公醜徴、玄宗朝 の梁公挑崇 ・ 封氏聞見記』 四 「 。 燕公張説 ・広平公宋環 ・都公章安石、 みな註し て文貞 の二字と為す 人臣 の. 9 2.

(15) . 俊 重 木. 高. お り 、 開 元 の功 臣 の生 き 残 り であ る張 説 への信 頼 は 強 か った の であ る 。. 本稿 では言及しなか ったが、張説は岳 州 でも幽州 でも、中朝と玄宗 に対す る 思 いを 詩 に詠 じ て いる 。 ま た 、 張 説 が 儒 者 の冠 服 を 装 って いた のを 見 た 玄 きんす. ぼ. 〈 宗 が、自 分に異な るそ の姿を嫌 い、内 様 ( 宮 中仕様) の中 子と長脚 の羅 の際. 頭を 賜わ ると、張説 はそれを 服し て謁見感謝 し、玄宗 は大 いに悦 んだ ( 『 封 氏聞見記』五 「 中帳」 )と いう話 や、幽州都督だ った張説が入朝 し て 「 戎服」 を着 用し て謁見す るとへ玄宗 は大 いに喜 んで井州 大都府長史二 修国史を授 け た ( 新書 「 ) と いう 話か らは、並 み の君 臣関係を越え た 両者 の親近 張説伝L 感 がう かがわれよう。張説 の富貴 の生涯 は、玄宗 そ の人 によ って支え られ て いた の であ る。. 〔 注〕 1. 『 開 天 伝 信記 では、 玄 宗 は 泰 山 を 封 じ た 帰 途 に井 州 に向 か った と 記 す が 、 これ だ と 』 開 元十 四年 のこと にな る。 こ こ では 『 張 説 年 譜』 の考 証 に従 う 。. 2.正しくは 「 『 故開府儀同三司行尚書左丞相燕国公贈大師張公墓志銘」( 曲江集」十八) と いう 。. 3.琴仲勉 『 唐人行第録」 ( 中華書局、 一九六二年四月)所収。第三六二頁。 4. こ の こと に つ いては、 吉 川 幸 次 郎 「 張 説 の伝 記 と 文 学」 (『 東 方 学』 第 一輯 、 昭 和 二. 十六年三月。のち、『 吉川幸次郎全集」第十 一巻に収録。昭和四十三年八月) です でに. 指 摘 さ れ て いる。 せつ. 資治通鑑」「 5.『 考異」では開元元年十 二月の張説 の相州左遷 の記事 の後 に 『 松蜜難録」 の こ の記 述を 引き 、 「こ の説 も ま た 好 事 者 よ り 出 づ る に似 たり 」 と いう 。 挑 崇 は 開 元 四. 年 に相を罷め、李林甫が御史中丞にな った のは開元十 四年であるo. 6. 『 公 鷲」 に、 「 唐 披 誉ぞ 「 論 薦 書 」 と し て収 め ら れ る。 『 全唐 文」 は 巻 二九 四。 7.注 4 に掲 げ た論 文 。. 8.挑崇 の誼は、張説が撰した 「 故開府儀同三司柱国贈揚州刺史大都督梁国公戯文貞公 神道碑奉勅撰」墾全唐文』二三0)でも 「 文貞」とするが、両唐轡 「 眺崇伝」および 『 唐 会 要』 八 〇 では 「文 献 」 と 記 さ れ る。 な お 、 唐 代 に 「 文 貞 」 と 謡 さ れ た 人 には 、 他 に. 許国公蘇瑠、克国公陸象先、横縞甫、牛憎濡が いる。. わ れ るだ ろう 。. 9.参考までに、方積六 ・呉冬秀編撰 『 唐五代五十 二種筆記小説人名索引」 ( 中華轡局・ 一九九 二年七月)を検索す ると、張説 の同時代 の人名 では挑崇が八〇条、張九齢が六 四条、宋張が六二条、張嘉貞が三五条載せられ ているが、張説は 一四二条 にのぼる。 もとより単純な比較は危険 であるが、この数値からも張説 の話題性 の大きさがうかが.

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