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佛教学研究 第60・61号 021能仁, 正顕「『知恵のともしび』第1章の和訳(4) : 縁の考察」

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(1)

F

知恵のともしび、』第

1章の和訳

(

4

)

一一縁の考察一一

龍 仁 正 顕

本稿は, F仏教学研究』第 56号 (70頁 ~93頁)に続き,弓日恵のともしび』 (PrajnapradIpa)第 1章 の 第 7鳴から最後の第14傷までの和訳研究である。 〔 じ 縁 生 の 倍 別 的 批 判 1 )因縁説批判 ② 国縁の定義 ⑤ 二諦の弁,EIJ(l) ① 二諦の弁別(2) (③ デーヴァシャノレマンの見解 ① ブ ッ ダ パ ー リ タ 批 判(5) 2)所縁縁説批判 ① 世尊による無所縁の教示 ⑤ 二議の弁別 ① 非認識主体の所縁の否定 ③ 無所縁に関する論理と教註 3)等無関縁説批判 ① 二議の弁別 ⑤ 滅の意味をめぐって ① ブ?ッダパーリタ批判(6) り 増 上 隷 説 批 判 -15 -第 7信abc匂 第 7告abc匂 ( 再 入 第 7イ昌d句 第

8

1

島ab匂 第 8鑓c匂 第 8鑓d匂 第 9鑓

(2)

弓5恵のともしび』第1章の和訳(4) ① 増上縁の定義 ⑤ 二諦の弁

J

J

I

J

5

)縁生批判のまとめ ② 縁 中 有 果 説 批 判 @ 縁中無果説批判 ① 縁 の 変 化 し た 果 の 批 判 @ 非縁の変化した果の批判 6)第2倍以下に対する解釈の結語 [ 5

J

不生の教証 第

1

0

傷 第 6偏dc匂(再) 第11弱,第12傷 第13偏,第141昌a匂 第14骨量bcd匂 第

2

鑓abc句(再)

(3)

主知恵のともしぴ』第1主主の和訳(4) 一一一翻

3

訳一一

(

4

)縁生の掴別的批判

1 )因縁説批判 ② 国縁の定義 p.39, 16; P-PPT 220a8, D-PPT 189b3 以上のよフに,ます諸縁の総括的な吾定を提示したので,それら〔因縁〕 の個別的な否定の形式〔の提示〕を欲して以下に説明する。 まず「因縁J (hetu-pratyaya) に関して,この場合,諸縁は共同してはた らくのであるが, (持に〕生ぜしめられるもの(=結果)を生ぜしめる〔直 接的な〕縁であるもの,それが〔因〕縁であると考えられる。 ① 二請の弁別(1) P.40 もし,生ぜしめられる〔結果〕の生起ほ, (諸縁の〕集合体に依存してい るのであるから,生ぜしめるという性質はただ一つ〔の縁〕にあるのではな い,と言うならば,既に生を否定したので,その〔言明〕は合理ではないと 考えられる。しかし,言語習慣上での呂〔縁〕の概念定立は容認されるので 為り,その上で,勝義としての国〔縁〕の漂茜であることは不合理であると いうように説明するのである。 この〔言語習慣〕において,国〔縁〕はこうである。すなわち,存在する もの,あるいは非存在のもの,あるいは寄在するものであワかつ非存在のも のであるうちの,ある一つ〔の結果〕を生ぜしめる,と認められるのである が,その場合, 1 7

(4)

-『知恵のともしぴ』第1章の和訳(4)

(

1

)

存在するものとしても,

(

2

)

非存在のものとしても,あるいは

(

3

)

存 在 するものでありかつ非存在のものとしても,事物(法)が生起しない 場合,

[

第 7

ab

匂] そのときに誌,勝義の立場では, どうして菌印象〕が生起させるものといえようか。 [第 7傷 c匂] 〔この言明から次のような論証式が形或される。すなわち,

J

く主張〉それ(=因議〉は〔結果を〕生起させるものでは決してない。 く証因> (結果が

J

(

1

)

存在するから,また

(

2

)

存在しないから。 く稔例〉たとえば(1)自身のように,また(2)他者のように。 そのような推論による排斥があるからである。また(3)(その〕二つの主張 にともなう誤謬があるからである。以上のことが意図されている。したがっ て,因坊柔〕の原因であることは不合理であるので,それ(=結果の生起〉 もまた不合理で、ある。因〔縁〕の原因であることは,生ぜしめられる〔結 果〕を現に生起させることによって説示されるのであって, (勝義の立場に おいて

J

r存在」などを特梧(laksana) とするものとして現に生起させる のではない。したがって,結果 (hetumat)が因〔議〕より生じるというこ とは,言語習慣上のことであって,国〔縁〕もまたそのように成立するので ある。 ① 二議の弁別(2) あるいはまた,自部派の者たちは再ぴ反論する。一一「く主張〉諸感官を 生ぜしめる因〔縁〕等は実在する。く証因〉あるがままに (tatha)如 来 は 教 示されたから。く喰例〉およそ如来が転示されたものは,あるがまま陥る。

(5)

F知恵のともしEん 第1章の和訳(4) たとえば,

q

呈繋は寂静である』というように。〈適合〉同様に,世尊が F因 は生起させるものである。所縁は心・心作用の認識対象である。等無関は間 隔をへだてることなく滅した心・心作用のうち〔阿羅漢の〕最後を除いたも のである。増上は,あるものが有るときあるものが生じる,その〔前者)で ある』と教示された。く結論〉したがって,そのように国等の諸縁は,縁を 自性とするものとして実在するJo したがって,証因は成立するので,望ん だ意味は損なわれない。 これに対して〔我々は〕答える。一一(1)世俗の立場であるがままに容認さ れるのだから,また(2)(君たちの〕稔例にある誤謬を指講することによって 既に答論したのだから,それは不合理である。 さらに反駁して関わねばならない。一一この場合,君の証国の意味として 意図されているもの辻何なのか。「如来は世俗の立場であるがままに教示さ れたからj ということなのか,あるい誌「勝義の立場で教示されたからJ と いうことなのか。世俗の立場であるならば, (君〕自身に〔証茜の〕意味が 成立しない。一方,勝義の立場であるならば, 存在するものとしても,非存在のものとしても,あるいは存在するも のであっかっ非存在のものとしても,事物(法)が生起しない場合, [第 7傷 ab匂,再説] その場合には,存在と非存在とその両者を本質とする結果の縁が否定され るのであるから, どうして因〔縁〕が生超させるものといえようか。そのような場合に は 〔 因 縁 辻 〕 あ り え な い 。 [ 第

7

cd

侍]

それは〔結果を〕生起させる原因では決してない,ということが文章の 記誌で、ある。したがって,勝義の立場では,生起させられるものと生起させ

19

(6)

-r知恵のともしぴ』第I章の和訳(4) るものとは成立しないのだから, (君の〕証習の意味は成立しないし,また 意味は相容れない。 ③ デーヴァシャルマンの見解 能者〈デーヴァシャルマン〉は言う。一一中観論書においては,定説を立 てないという〔論述)形式を採用することにより,自性の無いこと〔のみ) が説示される。そのことによってそこで否定されるべき対象辻二つである。 すなわち,言葉に対する執着と,言葉の表示対象に対する執著である。その うち生を否定したことによって,言葉の表示対象に対する執着は既に否定さ れた。言葉に対する執着を否定する形式〔の提示〕を欲して, 存在するものとしても,非存在のものとしても,あるいは存在するも のでありかつ非存在のものとしても,事物(i:去)が生起しない場合, どうして国〔縁〕が生起させるものといえようか。そのような場合に 辻 〔 因 縁 は 〕 あ り え な い 。 [ 第

7

1

昌,再説] 以上のように〔ナーガールジュナは, )説かれたのである。この〔備の〕 要吉はこういうことである。すなわち, (結果を〕生起させるものであるか ら因〔縁〕であると考えたとしても,そのようなもの辻,結果が存在するも のである場合にしろ,非存在のものである場合にしろ,あるいはその両者で ある場合にしろ,ありえないのだから,「原菌」という言葉を使用する根拠

(

p

r

a

v

r

t

t

i

-

n

i

m

i

t

t

a

)

がない。したがって,因〔縁〕の原因であることは不 合理である。それ故に,「諸存在はまさに生じる。原因があるから」と〔対 論者が〕論じたこと誌成立しないのである。

(7)

『知恵のともしぴ』第I章の和訳(4) ① ブッダノマーリタ批判(5) 他者(ブッタツマ-1)タ)は言う。 「勝義の立場で辻, 諸存在はまさに 生じる。原因があるから」 と 〔君たちは〕論じるのであるが,存在物が存在 するものである場合にしろ, 非存在のものである場合にしろ, るるいはその 両者である場合にしろ, 〔因縁はそれらを〕現に生起させるもので誌ないか ら, 原因の号寺椙(l

a

k

s

a

n

a

)

をもつことは妥当しない。 したがって,証因の 意味は成立しないのである。 〔それに対して我々は批判する。〕 一一それは正しくない。 〔その理由につ いては〕既に答論したことだからである。 以上のように, まず因縁の縁であることは不合理である。

2

)所縁縁説批判 ② 世尊による無所縁の教示 今度は「所縁諒J

(

a

l

a

m

b

a

n

a

-

p

r

a

t

y

a

y

a

)

の縁であることがまた不合理で、 あることを考察する。 現にあるこの事物(法〉は決して所縁を有さない, された。 と 〔世尊は)教示 [第

8

ab

匂] というのは「あるがままの」 という意味であ というのは独自の特桓を保持するからである。「この 〔儀〕中の「現にある

s

a

n

J

る。「事物品

armaJ

ayamJ

とは眼識等〔の六議〕 であり, 認識として成立したものを示してい る。「戸府議孟

lambanaJ

とiま, 〔色等の六境の〕 それら認識されるべき対象で あり, おおよそ所縁は把握されたもの (gr亘

h

y

a

)

で、ある, という意味のも 21

(8)

-「知恵のともしぴ』第 1主主の和訳(4) のである。「所縁を有さない

an

lambanaJ

とは所縁が存在しないというこ とで、ある。 ① 二諦の弁別 どうして所縁が存在しないかと言うと,勝義の立場では,それら〔眼識 等〕の生が否定されるからである。 く主張〉現に生じつつある〔識〕にも所縁辻存在しない。 く証因〉現に生じつつあるから。 く喰例〉たとえば,色のように。 したがって,あるがままに現にあるこの事物には所縁が存在しない,と 〔世尊は勝義の立場から〕教示されたのである。 〔一方,眼識などが〕所縁を有する,というのは言語習慣としての真理の 道理を確立するためで、ある。すなわち,何らかの所縁によって〔識が〕生じ るとき,その〔所縁〕として頭現が生じているから, (識は〕所縁を有する, と言われる。しかし,財産家〔と財産〕のように,同時的な関係にあるから で誌ない。したがって, そのように,事物が所縁を有さないならば, [第

8

1

c

句] すなわち,勝義の立場では,認識主体(二眼識等)が存在しないからであ る。 ① 非認識主体の所縁の否定 p.44・229bl.197a3 また誰かある者が,非認識主体の所縁がある,と分別講想することも不合 理であるから, (次のように説く。〕

(9)

「知恵のともしぴJ第1章の和訳(4) どうして所縁があろうか。 [第

8

d

句] この場合,所縁は決して存在しない,ということが文章の意味である。た と え ば , 無 開 業 を な す 者 匂 語

n

t

a

r

y

a-

k

a

r

i

n

)

に ど う し て 〔 真 理 の 〕 現 観

(

a

b

h

i

s

a

m

a

y

a

)

があろうか, (否, )というのと同じである。したがって, 再麦, (あるがままに如来は教示されたから,と前に述べた君たちの〕その 同じ証因の意味は成立しないし,意味は相容れないことになるのである。 ③ 無所縁に関する論理と教証 さらに他者~j:,分別相似

(

v

i

k

a

l

p

a-

s

a

m

a

)

という誤った非難(j吾

t

i

)

に結 ぴつける。一一「色は所縁をもたない。色謹に属するからJ ということは, 〔アビダルマ〕論書中にも「所縁をもたない法辻何か。色と浬繋(択滅)で あるj と説かれていることからして,合理である。しかし,その〔論書中 に) i所縁を有する法は何か。すなわち,心・心作用である」と説かれるこ とを〔君たち中観派は〕認めるのだから,「心・心作用には所縁がないJ と いうことを認めるのは理に適わない。 〔それに対して我々辻答える。〕一一以上のことは不合理で、ある。 (1)(君 たちが所依とする論書の言葉が我々の提示した「色J の〕喰例を立証してい るからである。 (2)また〔識が〕元素より成る物質

(

b

h

a

u

t

i

k

a

所造)ではな いことを〔所縁が存在するということの〕証国として述べた場合であっても, 〔心・心作用以外に提示しうる,非所造の色の)喰例法ありえないからであ る。また(3)たとえ「把彊されたものが所縁である」といった,それら〔心・ 心作用という認識主体〕の対象

(

a

r

t

h

a

)

において〔所縁を〕分別構想した 場合であっても,心・心作用の把握対象であることを〔後に〕否定するから である。前述と同じ〔般若波羅蜜の〕道理によって,勝義の立場で辻,識が

i

i

i

議する主体で、あるとは認められないからである。 ま た 世 尊 は お 説 き に な ら れ た 。 一 ー さ ら に ま た 善 勇 猛

(

S

u

v

i

k

r

a

n

t

a

v

i

-23

(10)

-「知恵のともしび』第1章の和訳(4)

k

r

a

m

i

)

よ,菩薩はそのように行ずるとき,色を認識せず,乃至,菩提を有 する者を認識しない。何故か。善勇猛よ,一切法辻所縁をもたない。それら の所縁となる把握対象は,諸法中のどこにもないからである。善勇猛よ,こ のように急は色の認知対象で誌ない,乃至,識

i

ま識の認知対象ではない。善 勇益よ,認知対象ではないから色は色を知らず,見ることはなく,乃至,識 は識を知らず,見ることはない。色・受・想・行・識を知らず,見ることが ない,それが般若波羅蜜である。 以上,所縁縁をも考察し終えた。 3 )等無関縁説批判 ① 二諦の弁別 今度は「等無関縁J

(

s

a

m

a

n

a

n

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a

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a

-

p

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a

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a

y

a

)

が 主 題 と な っ た の で , そ れを考察する。 本〔論〕中,勝義の立場から,あらゆる事物〈一切法〉が〔自・飽・両 者・無因生の〕あらゆる観点から否定されたから,諸の事物辻生じたもので ない,と説き尽くされた。それ故に, (ナーガールジュナはお説きになっ た。〕 諸の事物が生じていないとき,滅iまありえない。 [第

9

ab

匂] 生じたものでなはないのだから, (存在しない〕第二の頭が滅することと 同様〔にあっえないの〕である。それによってどうなるのか。 ℃与こがって,等無関〔縁〕辻不合理である;

[

9娼

c

句] 勝義の立場においては。〔そうであるから,等無関縁が存在するという〕

(11)

F知恵のともしぴ』第l章の和訳(4) その〔論証〕は,意味が成立せず,また意味カヰ目容れないのである。 あるいは一般論として生を容認する場合でも, (我々は〕次のように言わ な汁ればならない。一一この場合, (註俗として〕等無関縁は以下のこと, すなわち, (間揺をへだてることなり滅した心・心作用の集合体が等無関 縁である,と考えられるので為るが, く主張〉それ(=間隔をへだてることをく減した心・心作用の集会 体)がまた生じようとしている集合惇の縁であるというのは 不合理である。 く証因〉競に滅しているから。 く議例〉たとえば,滅して久しい識のように。為るいは色のように。 そのことに関して〔ナーガールジュナはち説きになった。一一〕 既に滅してしまったときに誌,また一体何物が縁で、あろうか。 [第

9

d

句] 決して縁ではありえない。なぜなら,滅してしまったのだから,生じよう としている存在物を助勢する能力がないからである, ということをそのこと は意図している。「また Cむという語誌,等無関娠でなく,また共同しては たらく縁でもないというように,否定を一括するためである。 ⑤ 滅の意味をめぐって 〔対論者が言う。一一〕もし極々に特定の因と縁の力によって存在物が生 じつつあるときには,

(

1

)

減しつつあるものが擦関をあげることによって助勢 するから,また(2)その(間掃をへだてることなく滅したー剰那〕より別の過 ぎ去った数剥那によって中訴されないから,等無関縁は成立する。したがっ て,誤謬はないのである。 〔それに対して,答える。〕一一(1)非物質的なもの (arupin)詰対象にお

-25

(12)

-F知恵のともしぴ』第工主主の和訳{4} いて場所を占めないから,また(2)r間隔をへだてることなく過ぎ去った六の p. 47 (33) 識が意(マナス)である」という説により,間隔をへだてることなく滅した (3母 ものである意が縁であるから,それほ正しい反駁ではない。たとえ滅しつつ あるものを縁であると想定したとしても,等無間縁ではありえない。なぜな ら, (生じつつあるものと〕同時だからである, とある者は言うのである。 ① フゃッ夕、パーリタ批判(6) 234b2. 201b4 (3母 他者(ブッダパーリタ〉は〔第 9

J

径の後半を解釈する。 したがって,等無関〔縁〕は不合理で、ある。既に滅してしまったとき に 誌 , ま た 一 体 何 物 が 縁 で あ ろ う か 。 [ 第 ヲ イ 昌

cd

匂,再説] 以上のことは,生じてない場合であっても,である。「また

c

む と い う 語 は,ここでは (a匂の〕生じてない〔事物〕に関係付けるものと理解される べきである。既に滅した種子も,生じてない芽も再者ともに存在しないので, 種子が滅した場合と芽が生じる場合のどちらにも,原因が存在しないことに なると帰謬するのである。 〔これに対して我々は答える。〕一一それは正しくない。もし,この意味 を認めるならば, (次のような誤謬が付随する。〕すなわち,既に滅したもの が滅することに辻原因がないのだから,その存続していない〔種子〕より生 じようとしている〔芽〕が生じると考えるときには,滅と生の両者ともに原 因がないことになってしまうのであるが, (その意味を〕逆転することによ って先に指請した誤謬はなくなる。その時, (それは婦謬の〕余地のある言 明 (8忌

vak

a

-

v

a

c

a

n

a

)

であるので,反対の論証されるべきもの

L

すなわ ち主張〕と論証するもの(,すな

b

ち証冨〕の言明の意味があらわになる。 それでどうなるのか。すなわち「滅したものは縁ではない

L

すなわち滅し てないものが縁である〕。原因をもつものであるから。また生辻滅してない

(13)

F知恵のともしぴ』第1章の和訳(4) 心・心作用の集合体を原因として有する。原因をもつものであるからJ と。 それもまた,不合理である。前者〔の主張〕で辻証因が成立しないからで ある。後者〔の主張〕では最初の主張と相容れないからである。なぜなら, あらゆる観点

V

ら生が否定されたからである。したがって,この〔第 9)備 によって等無関誌もまた否定されたので,その〔君たちの〕証密の意味が成 立しないという誤謬,あるい辻意味が相容れないという誤謬となる。 以上のように,また等無間縁をも考察し終えた。

4

)場上縁説批判 ① 増上縁の定義 今度は「増上縁J

(

a

d

h

i

p

a

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i

-

p

r

a

t

y

a

y

a

)

が主題であるので,それを考察す る。 君は,あるものが有るときあるものが生じる,その〔読者〕が増上〔縁〕 である,と考える。 ① 二諦の弁別 それに対して我々の学説で誌,勝義の立場において不生と説くので,諸の 存在物は自己本質が得られず,幻のように自性として空である。したがって, 自性がない諸の存在物に実在性はないから, [第

1

0

ab

匂] すなわち,存在しないから,というのである。しかも,ただ勝義の立場だ けでなく,世閣の言語翠'演としても同様で、ある。なぜならば,ただ一つの原 因が為るだけで辻結果が生じるとは認められないので,

-

(14)

27-F知恵のともしび』第1章の和訳(4) あるものが在るときあるものが生じる, という〔増上縁〕は理に適わ な い 。 [ 第

1

0

cd

匂]

したがって,君には同じ証因の誤謬が付髄する。 ある者たちは,それら(四縁〕があることを示して言う。一一 f(く主張〉 勝義の立場において,それら四歳はあると考えられる。〕く証因〉世俗の立場 でもるるがままに容認されるから。く喰例〉たとえば,

I

I

I

呈繋は寂静である」 というよう iこ」と。 〔これに対して我々は答える。〕一ーかれらの喰例には以前と同じ誤謬が ある。無常等の災禍によって汚された有為〔法〕よワ欲望を転居して,かの 〔浬繋〕に向けて躍を起こすために,「?設は寂静であるJ と説かれたが, それ泣言語習慣としての真理に属している。一方,勝義の立場ではそれ(= 浬繋〉が実在すること iまない。また世尊は,分別して言葉を仮説し,甚深な る教法をイ言解することのできない,教化されるべき人々を正しく安らかにす るために,「寂静」等のすぐれた徳性をもって浬繋を正しく称揚されたが, それも言語習慣としての真理を容認されたからである。勝義の立場では, ~.呈 葉さへも実在性等の自性としては空である。したがって〔君たちの〕喰例は ありえないのだから,証国は成立しない。また,それ(ニ証因)がありえな いのだから, (君たちの〕望む意味は成立しない。 5 )縁生批判のまとめ ① 縁中有果説批判 以上のように〔我々は〕縁を否定し尽くしたけれども,さらに他者は反論 する。一一「く主張〉勝義において,張等の諸感官を生起させる諸議は実在 する。く証密〉それら(=諸縁)の結果が生じるから。く国除例〉たとえば, 芽を生起させる縁である稲穀のょっに。く異喰例〉一方,存在しないものに

(15)

f知恵のともしぴ』第1章の和訳(4)

i

ま縁はない。たとえば,亀毛の衣のように」と。 〔我々は〕かれらに対して次のように関わなければならない。一一君にと って,極々の縁のうちに,また総体のうちに,結果は結果自身として存在す るのか,あるい辻存在しないのか。それによってどうなるなのか。もし, 〔結果が〕存在するならば,その主張への〔我々の〕返答は, 存在する場合には,縁が何の役にたとうか。 [第 6信 d句,再説] と既に答論した。 ① 縁中無果説批判 240b6. 207a2 もし存在しないならば,その返答も, 存在しない場合には,一体何物にとっての縁であるのか。 [第 6信

c

句,再説] と既に答論した。 さらに,また解説しよう。あるとき, ;国%の縁のうちにも,総需のうちにも,その結果が存在しないなら

S

, [第11傷 ab匂] そのときには, 諸縁のうちに存在しないものがどうして縁より生じるだろうか。 [第11錆 cd匂]

2

9

(16)

-r知恵のともしぴ』第1章の和訳(4) 勝義の立場で辻,結果は決して生じないのである。諸縁のうちに〔結果 は〕存在しない(からである

L

ということが文章の意味である。糸の中に 乳酪は存在しないのだから,どうして糸より乳酪が生じょうか。 〔対論者は言う。一一〕稲穀等の中に芽等が存在しなくても,そのように 生は言語習慣の一部となっていて,凡患の智あるものの共通の認知対象であ ることを見るので,勝義の立場として,眼等の諸感官辻生じると考えられる。 それ故に, (ナーガールジュナは〕お説きになった。一一 もし,その〔結果〕が存在しなくても,それら諸縁より生起するなら ば,

[

第1

2

ab

句] そのときには, 縁でないものより一体なぜ結果は生起しないのか。[第

1

2

cd

句] したがって,この場合〔帰謬の〕余地のある言明で為るから,存在しない 結果は縁でないものから生じないのと同様に,諸縁からも生じない,と〔文 振の意味を〕決定する。たとえば,もし「作られた音声が常住であるならば, 一体なぜ作られた水差しも毘様に需住で

i

まないのか」というように論じた場 合であれば, τ声は常住ではない。作られたものであるから。たとえば,水 差しのように」という意味が理解される。したがって,この場合,論証式は 〔次のようになる〕。 く主張〉勝義の立場では,芽として空で為る稲穀等より,その〔芽〕 が生じることは理に適わない。 く証因〉結果であるから。 く馬表例〉たとえば,手

L

酪のように。 したがって,先に指捕した誤謬はない,ということはありえない。

(17)

r知恵のともしぴ』第l章の和訳(4) ① 縁の変化した果の批判 これに対して〔対論者は〕論乙る。一一「く主張〉勝義の立場では,内的 な註詮物の諸縁は実在すると把握される。く証因〉それら〔諸縁〕から出来 上がったものであるから。〈稔例〉たとえば,水差しのようにJ と。「それら より出来上がったもの (maya) であるからJ とは「それらより変化したも の (vik訂 a)であるからj という意味である。「変化したJ ということに対 して「出来上がったJ と表現しているので,たとえ

i

ま水差しは泥より変化し たものであるというように,と(稔例が示される〕。 これに対して〔ナーガー/レジュナは〕答える。一一一 結果が縁より出来上がったもので為るならば, [第

1

3

a

匂] すなわち,縁より変化したものであるならば, 諸縁は畠身より出来上がったものではない。 [第

1

3

b

句] 縁を自性としない,という意味である。 f自性」に対して「出来上がった もの」と表現しているからである。たとえばバラモンの心はバターより出来 上がったものであるように,というのと同様である。どうして諸縁は縁を自 性としないのか, ということは以前に示した。したがって, 自身より出来上がっていないもの(二縁)から〔生じた〕結果が, 体 ど う し て 縁 よ り 出 来 上 が っ た も の で あ ろ う か 。 [ 第

1

3

cd

句] 勝義の立場では,結果は縁より出来上がったものでない,ということが文 章の意味である。たとえば,もし,デーヴアラータが年少期から発行者であ

3 1

(18)

-主知恵のともしぴE第I章の和訳(4) るなら';f,ノてヴァラタは ~1本どうしてかれの息子であろうか, というように。 また,その自1'主として空である,幻衛部の仮現させた一塊りの泥より生じた 水差しは,言語習慣としても,その〔泥〕より変化したものである,と賢者 たちが認知することは正しくない。 ℃?こがって,縁より出来上がったものではなど。 [第14鑓 a匂] したがって,結果は縁より出来上がったものではないのである。そうであ るので, (君たちの〕喰例はありえない。なぜなら,論註されるべき属性と 論証する属性を完備しないからであり,前出のように証因の意味が成立しな いか,あるいは意味が相容れないものとなる。 ③ 非縁の変化した果の批判 これに対して他者辻, (中観論者の〕論破の意味を仮託増補して述べる。 ーーもし,縁ょっ出来上がった結果がありえないことによって, (喰例が

J

う ちえず〕推論がありえないということを示したとしても,結果は結果の吉性 を捨離しないから,それは否定されない。したがって,別様に説くことがで きる, τく主張〉勝義の立場では,諸感官の縁は実在する。く証国〉結果が存 在するから。く聡例〉たとえば,芽のように」と。 これに対して〔ナーガールジュナは〕答える。 非縁より出来上がった結果は存在しない。 [第14鑓 bd句] 非縁ょっ出来上がった結果は,言語習慣としても, (存在することを〕認 知することはできないので,「勝義の立場で、はJ というのは一体どういう呂 的があってのことなのか。 これに対して〔対論者は〕言う,一ーもし,勝義の立場で諸縁が縁の自性

(19)

「知恵のともしび』第Z章の和訳(4) として空であるならば,そのときには,諸縁は非縁の自性として空で

i

まない, ということを〔中観論者は〕容認することになる。したがって,非縁は成立 するから,望むことは成立する。 〔それに対して我々は答える。〕一一一それは正しくない。我々が「縁でな い」と説く場合iこは,縁の自性を否定することだけを説示するのであって, 命題歪定の意味の否定が把握される。したがって, (縁でないものを肯定し て 〕 非 縁 の 自 性 を 説 示 す る も の で は な い 。 〔 鵠 中 の pratyayapratyayah

ku

帥 の 〕 結 合 関 設 を 分 解 し

τ

, 金 丸 と い う こ と と 「 ど う し て 縁 で あ ろ うか」ということに解釈するのである。非縁は縁の自性として成り立たない, というのが文章の意味である。あるいは,蔀に示した方法でもって,存在す るまたは存在しない結果が生ずるということを否定した。したがって, 結果は存在しないので,非縁が一体どうして縁でありえょうか。

[

14信 c2d

匂]

それ(=縁)の本質を欠いた,縁ではありえないものが,一体どうして縁 であろうか,否,というのが文章の意味である。その (i縁」という〕観念 と語を使用する根拠となるそれら〔諸縁の)結果は決して存在しないからで ある,ということが意図されている。 6) 第 2倍以下に対する解釈の結語 249a2, 213b5 、~、~ )~ 」ー」ー町、ー, 縁は西種類,すなわち因縁と所縁縁と等無嵩縁と 同 じ く 増 上 縁 で あ る 。 [ 第2侶 abc匂,再説] という〔第 2儀 〕 以 下 , 他 者 が 説 い た 諸 縁 の 自 性 (svabhava) と 特 殊 性 一 -

(20)

33-『知恵のともしびJ 第1章の和訳(4)

(

v

i

s

e

s

a

)

を否定したことにより,本〔章〕は完結した。

(

5

)不生の教証

かくして本章の意義は不生を説示することであり, その事実によって, 〔以下に〕説かれる,縁起の不生であることの教証 (agama) である。

V

アナヴァタプタ龍王所閉経』に〕 が成立するの 縁より生ずるものは何であれ, それ誌生じたものでない。 そこには自 性としての生はない。 縁に依存するものは何であれ, それは空であると説かれる。空?生を知 る者は放逸で、はない。

4じく ド入拐伽経.0 ~こ〕

f

可誌ども生ずることなし何ほども滅することなく, 世界は超然としていると見る, か れiこは存在するということも存在し ないということもない。 同じく ド入諸仏境界智光明荘厳経』に〕 如来辻常に不生の法であり, 一切諸法は善遊に等しい。 同じく 〔間経典に〕 マンジュシュリーよ, それ主文, そなたはまたこのような仕方で, 次の ように知るべきである。 一ーかの「生じもせず滅しもしない」 という

(21)

「知恵のともしぴ』第1章の和訳出 ことは如来の同義語である。 同じく ある処で辻一切の渇愛が滅しているが,それは不生ということである。 不生であるものは菩提である。世間の人々辻生に執着するが,ここに おいて仏詑は出現することもなく浬繋するということもない。 同じく (11交天所関経』に〕 Z工々。 ある者は,謹は生ずることなく形成することもない,と逼知する, かれらは,この世間に活動するけれども,この世需に住著しない。 アーチヤールヤ・パーヴィヴェーカによって作られた,『根本中』の註釈, 『知恵のともしび』中の「縁の考察」という第一章である。 註 (1) アヴアローキタヴラタは次のように本文を註釈している (Wa220b7以下)。 下線を引いた部分は本文に対話5する言葉である。 αs bondα五zsa dan chu daiz

me d仇 γlunla sogs争αγ均enrnα慨 smyu gu bskyed争α

iγkyen塗註立主主 拠γgzan品αt5se:慨 すnodkヲi

1

為。η詮盆 αs boη 話,10 na las問 ug;筑 skヲehi s α boγz la sogs las mi skヲe bas de単 争 均

γ

i

bskyed争ar by.αbaγn伊 豆'u bskyed抑 単 rky主主αs boη ganyzn抑 deγg

抑与

iγkyenヲ 抗 争αγ bstαη bcos mdzadμ

do/ /種子・地・水・火・風などの童盤

l

主芽を生ぜしめるため の共同して辻たらく縁であると他者は考えるが,一方,種子のみから芽が生じ るのであって,種子などから生じるので、はないので,生ぜしめられるもの,す なわち芽を生ぜしめる縁であるもの,すなわちを重子,それが因縁であると論書 の著者は承認している。

(2) na sannasanna sadasandharmo nirvartate yad互

17

ab

(22)

35-「知恵のともしぴ』第1章の和訳(4)

(3) katharn nirvartako hetur / 7 c

(4) PP, PPT: tha snad pa yiηla.この一文はワレーザ一本では欠落している。

(5) 漢 訳 は 「 岳 部 人J (57b20)で る る 。 ア ヴ ア ロ ー キ タ ヴ ラ タ に よ れ ば,mdo

sdejうadag (Sautr互ntika) とbyebrag tu smra ba dag (Vaibh亘sika)であ る (Wa223a2)。

(6) 以下の関答は,パーヴィヴェーカ,すなわち「論理学者J (tarkika)の議論 として『プラサンナノマダー』に引用される。 Pras.p.31, 1-3: satty ev記hyat

-rnikayatanotpadak註 hetvadaya,.T tatha tath亙gatena nirdesat, yad dhi yath亘 tathagatenastinirdi~tarp. tat tath互, tadyath亘 santam nirvanarn iti / / (7) 前稿 (3.4.aJ参照。 (8) Pras. p.31, 4・10:ko hi bhavatarn abhipreto 'tra hetvartha,.t sarp.vc:tya tatha tath亘gatenanirdesat, uta pararnarthata iti / sa:rpv~tya cet, svato hetor asiddharthat亘/paramarthatas cet, na sannasanna sadasaddharrno nirvartate ya街 /(7ab) sadasadubhay泣rnakak亘ryapratyayatvanirakaranat,tada,

kathaE11I1iWartako het11r warp sati hi yujyate//(7cd) naiv亙sau nirvartako het吐1,iti vakyarthaT. / tatas ca pararn孟rthato nirvartyanirvartaka tv亘siddhe,.T asiddh亘rthat孟 viruddh亙rthata va hetor iti / (9) アヴPアローキタヴラタによれば,slob d戸oη de ba sa rma 互(C亙rya -Devasarrnan)である (Wa225a針。パーヴィヴェーカのデーヴァシャノレマン に対する評価について,詳しくは,江島恵教『中観思想、の展開.u161-165買を 参揮されたい。 側 この中観論者の基本的立場誌, F廼誇論』第29告に明確に示されている。 yadi k互canapratijna sy亙nrne tata eva me bhaved dosah/

nasti ca rnama pratijna tasman naivasti rne do:?aT./ / もし私に

f

可らかの主張があるならば,まさにその点で誤謬が私にあること になるであろう。 しかし,私には主張iまないのであるから,誤謬は私にiままったくないので ある。 (11) Tib:わiugpaI}i byed rgyu. (12) アヴアローキタヴラタによれば,slob d戸on bu ddha 1うtl li ta亘(carya -Buddhapalita)である (Wa227al)。ブッダノマーリタ註, P, tsa 185b8; D, tsa 164b7・.ただし,この PPへの引用部分は,その要約文であり,パーヴィヴェ ーカがその趣旨を論理形式に再構成したもので為る。「言正因」の誤謬を指捕す

(23)

f知恵のともしぴ£第1章の和訳(4)

るブッダパーリタの言葉がそのまま原著に出ているわけではない。 (

13) 前 稿 (3.3.bJ参J開。論証式の形式を錆えず,主張のみであり,証国を欠き,

稔例を欠いているということである。

鈍 analambanaevayarp san dharma upadisyate / 8a

yin pa

chos

didm会5'spa ni / med pa khoηαr ne bar bstan /

[漢訳]婆髄婆所説真実無縁法 (15) Tib:gyur pa; Skt: b加ta.傷頚の ytnμ:hi chosは,漢訳では「真実…法」 とある。註釈文のチベット訳では‘deltar yin paJ:zi chos'という表現もみられ る。したがって,y仇 μ を註釈して言い換えたおJurpaの原語に bhiita(真 実の)を想定することができょう。 (16) Tib: chos zes bya ba ni ran gi mおhannid

J

I

dzin paJ:zi phyir ro. AKBh, Pradhan ed. p. 2, 10: svalak$a:IJadharal).ad dharmal).ノfーヴ千ヴェーカの提 示する f法」の定義は, F撰 舎 論2 における「法j の定義に合致している。 間 Tib:blolabZag

μ.

類似表現は,前額 (3.2.bJにblola rnαm par bZag nasという表現がある。そこで辻「認識のうちに形相を与える」と和訳した。 前 稿(3)の註26もあわせて参照されたい。 (18) 11中観,心論s第3章第165告に説かれる論証式に対応する。 atha va cittacaittanam naiv亘lambanami号yate/ tattvato jayamanatvad grahyatvad vapi ri1pavat/ /165

あるいは,く主張〉真実として,心・心作用に所縁があるとは考えられない。 〈証因〉現に生じつつあるから,あるいは把握対象でるるから。〈稔例〉 たとえ江色のように。

(19) アヴアローキタヴラタは次のように本文を註釈している (Wa229a5-6)。 下 線を号│いた部分が本文の言葉である。 d'migsμ serpo da先 snonpo la sogs

μ

担金互主 rnampar ses

μ s

kye bana gan gz

ρ

hyir yul snon po daゑser

iうoゐsogspa dag la rnam paァ sespa yan deJ:zi rnam Jうasnon po dan ser

po la sogs

μ

r s免on ba skye b'C!_de

:

l

ti戸hyirdm~訴 μ dan bcas

μ

zes 主主空宇t.おおよそ黄や青などの所縁によって識が生じるとき,青や黄などの対 象に対する識はまたその青や責などの形相として顕現が生じている,というそ の理由により,所縁を有すると言われるのである。漢訳は「知識忠光然後提起。 故名縁縁。不知財与主農J (57c)であり,識と所縁との時間的前後関捺を認め る内容となっている。 鱒 Tib: nor can bzin du.この警蟻は,ブッダパーリタ註に提示されており, 法と所縁との同時存在を示すものでるる。同時的な関係にある点については, 「時間に区別がないからJ (kalabheおりといって, F中観心論』第 3章 第166 偶においても論じられる。 -37

(24)

-f知恵のともしぴs第1章の和訳(4)

部) athan註lambanedharme / 8 c.チベット訳は deltar chos ni d抑留srned

na /であり,de ltarはathaに対応するが,原語は tathaであった可能性が ある。漢訳は「如是」である。

劉 kuta

.

T

alambanam punat' / 8 d

鈎北}II秀知 rインド古典論理学の研究.n (鈴木学術財団, 1973年)316頁-321 頁参照。正しい在留の条件は,まず主題の属性でありかつ同喰備の属性でなけ ればならないが(もう一つ辻その属性が異稔例にはないこと), jうる論証式に おいて,主題にはなくて同喰例にある特殊な属性を提示することによって,原 主張を批判しようとする論法が下分別相桜j である。もちろん,この論法は誤 りとされる。今の場合,識が戸対象をもたないことを例証する色は,急羅に属す ることや所造色であるという性賓をもつが,その性質は識にiまない。そこで, その反対概念である,非所造色という識の性賀を示して,識が所縁をもつこと を反証しようとするのである。同じく,桂 f因明王理問論研究〔六

J

J

(

W

広 島 大学文学部紀要』第44巻, 1984年)54-55頁参照。 掛 アヴアローキタヴラタによれ誌,「論書」と iまchosrnnon pahi bsおn bcos (abhidharma -錆stra)である (Wa23Ua4)0 W槙 舎 論J 第 1章 第34鵠 ab匂お よび、その註釈によれば,所縁をもつものに六議・意根の七心界と心作用をあげ, 所縁をもたないものに五根・五境の十色界と心不相応行をあげている。無為法 であるj呈繋が所縁をもたないことは言うまでもない。 鈎 Suvikrantavikramiparip,!cch亘-pra]箆 p吾ramit亙-sutra (Rinsen Buddhist Text Series III), p. 29, 12-17.ただ、しここに誌「所縁」句lambana)の語は見 当たらない。 事母 anutpanne~u dharme~u nirodho notpadyate/ 9 ab (21) nanantaram ato yuktarp./9 c

吉司 Walleser ed.:dea) don darn 1arめ 約αgrτtbpaC

) nid dan

:galdJ ba完id

do.テキストについて,諸本の異国は以下のようである。 a)deはP,D とも に欠く。 b)don darn par: ...par ste(P-PPT)ぃ・.par ni(D-PPτ) ,…par te

(D-PP).c)rna grub paの前に地本iますべて denid donを置く。但し D-PP でiまdoη に 続 い て ぬrnparの語が続き dondarn parという桁語のー部をな

す。 d)lJgal baの前に地本はすべて donを霊く。また漢訳註,「是故第一義中 次第縁者此不相応、。如是役義不成。以相違故J (58a) とある。以上より,総 合的に判慨して,次のようにテキストを訂正する,一- don darn戸ar te de nid don rna grub jうαがddaカdonlJgal ba nid do.

その内容について,アヴアローキタヴラタによれ迂,「勝義の立場において」 というの辻第

9{

昌c匂を限定する語として解釈する。それは漢訳の場合も同様 である。また「意味が成立しない」というのは,勝義の立場において等無関縁

(25)

「知恵のともしひ)第l章の和訳(4) が存在するといった論註の意味が成立しないのであり,一方,世俗における場 合ならば,勝義の立場での論証と矛盾するというのである (Wa232b4以下)。 倒 niruddhepratyayas ca kat_ / / 9 d 側 Tib: so sor nes pa; Skt: pratiniyata.アヴアローキタヴラタによれば,践 耳鼻舌身の五根と色声香味触の五境が,[J直次,個々に特定の国と縁である。そ れによって眼識等の存在物が生ずるという (Wa233b心。 (31)τib: go skめsfp句ed抑. 締 Tib: yul na/la mi gnas pa.アヴアローキタヴラタによれ認, τ際関をあ汁 て goskabs斡'YedpasJという対論者の論挺を否定する言明に対応したもの である。 F倶舎論』では地水火風の西大種 (mahabh註ta)について,すべての 色の依り所となるものであり,またそれらより生じたその集まりにおいて場所 を占めるもの (sar:pnivesa,gnas pa), とされる (AKBh,I. ad.k.12ab)。こ のsamnivesaに相当する用語であると考えられる。この語に対して, F慎 舎 論』において,玄突は「形相J,真諦は「形量」と漢訳している。

紛 Wallesered.: rnam ses glαゐyin;D-PP, PPT: rnam ses gan yin de yid do. 後者をとる。?ヴアローさそタヴラタはこれを τ定説 grub 抑~hi mthαJ;J と 言う (Wa234a6)。 典 拠 は 同 じ く F倶 舎 論 』 に 求 め ら れ る 。 AK,I. 17ab:

sannam anantar亘titar:pvij信 namyad dhi tan manat_.

紬 Wallese:τed.: ma thag会αちiγ均 問 先id;D-PP, PPτ:悦 αt加 吾 仰 ち

iyid γ勾ennid.~義者をとる。 縄 アヴアローキタヴラタによれば,註釈者自身,すなわちパーヴイヴェーカを iまじめとした中観論者で、あるとする (Wa234bl)。前註織闘に示したように,

q

具合論』の所説に基づいた答論で、ある。 繍ブッ夕、パー 1)タ註, P, tsa 187a2-8; D, tsa 165b7-166a5.IT'プラサンナパダ 一』にも間様の考察があり (Pras,p. 89, 9-15),それはブッダパーリタ註を欝 諜にしたものである,と指摘される。丹治昭義 f中論釈明かなことば 1dl (関 西大学出張部,日88年)231頁,註852参照。 初) この前後の文章の意味が不明瞭でその論理は通じにくいので,以下にアヴァ ローキタヴラタの解釈をあげておこう (Wa235b3以 下)0下譲を引いた部分が キ文の言葉である。 jiltaγglagsヲod抑 ヲ ぬ 争αdenid bst.α% 争α~hi 悼抑 i sgrub初 旬αbadaをzsg;慨 も 争abzlog初]き

itshig gi品開 γれれon争αs乏esby.α b α smγ邸 te/bsgrub争αγbヲαbα 三 部 均αba下zzsα bon dah机 抑 gu三:ig加 da;仇 悦αs均es抑 Z手l'isγzzγned争αちi悼ヲiγγ匂 側 悦αヲi汎争αγ bsgγub争αγbヲα b αrJ;o /哲γub拠 三es匂a bαniJ;g,

ε

α

争αγ均en mαyzη悌 乏esbヲα bade

sg杭Itb 争αち~i chosヲぬ tesa bon dah悦 抑 伊 J;g,αg争αdahs均eba g:仇risγgヲU

med 抑γ thal bar

ち郡

Aγ γo知 bya b吟o/ / de gnis bzlog舛~i tshig gi

(26)

-F知恵のともしび、』第 1主主の和訳(4)

γnnon台αγ えesbヲab邸 nibsgrub争αγ 均αbα l:zg

.

a

呂 抑 γ均 初 期αヲ 如 何 乏es

bya bαbzlog抑r(litshig gi don mαJ;gag争αγ均enyzn台α乏esb'抑 α dan/ b 哲γub拠 saboγz dαhγn抑 伊 } き:gag拠 dahskye ba gnisγg抑 med争αγ thal

bar

.

l

!

吾ヲurγo乏esbya ba bzlog

拠ち

it: shig gi don sa bonおれ myug:税 同αg

争αdahskye ba gnisγg抑 Cα:nヲ同 no乏esbヲαbaj跳 ねγL争邸 so/ / de

g

:

i'is

bzlog加も:itshig gi don m仇on争邸 gl

.

a

εsヲod拠(hitshig ciγhgヲuγお γza/

bsgrub争αγ 匂α切 迫 盟 主 拠 地 弾 丸 悦αヲ抗争α乏esb'ッαbα bzlog

持ち

it: shig gi don m品。%争αs 切切α Ij~α:gs 抑 γ均m ヲ加えes 均α baち:i glagsヲod争αγ

:gyur la / sgrub争asαbon dah悦 抑 ZUEEεαg争ad,的 skyeba gnisγgyu med争u

thal加γ

l

J

gyuγγo乏es匂αbabzlog争α:stshig gidon 慨をも側争α~s nzα bon s dah m'ヲugu h,g略 拠 品 納 skyeba gnisγgyu can yz:れ nozes byαbarIjgyu:γ

ro /どのように〔婦謬の〕余地があるのかということを示すために,所在と 能託を反転した言明の意味が為らわになる,と言ったのである。「所詮」 は, 「滅した種子と生じてない芽辻両者とも存在しないから,誌ではない」と論証 される。「能証J tま,「滅したものは隷で

i

まない」ということを論証する属性で あって,「種子が滅した場合と芽が生じる場合のどちらにも,原図が存在しな いことになると帰謬する」といわれたことである。そのこを「反転した言明の あらわになった意味」といわれるものによっ,戸斤証,すなわち「滅したものは 縁ではない」ということを反転した言明の意味,「滅してないものは紘であるJ ということ,および ちらにも,原図が存在しないことになると帰謬するJ ということを反転した言 明の意味,「減した種子と生じている芽も両者とも因を有する」ということが あらわになる。そのこを反転した言明の意味があらわになって,どのように 〔婦謬の〕余地がある言明になるのか, と言えば,所証,すなわち「滅したも の誌縁ではない」ということを反転した言明の意味があらわになり,「滅して いないものが縁である」という〔帰謬の〕余地があるものになる。そして能証, すなわち「種子が滅した場合と芽が生じる場合のどちらにも,原習が存在しな いことになると燭謬する」ということを反転することによって,言明の意味が あらわになり,「すでに滅した種子も生じている芽も,両者とも原虫を有する」 ということになる。

執 Tib:g.αもを yod γza g,α十z

h

るyuもを α db ebd

α

基金oγ 泌oddo.この理主主義誌は,

(4.l.c)の自部探の提示する論言正式中のく連合〉に示されるものである。アヴ アローキタヴラタによれば,mdo sdeμ &習 (Sautrantika) と byebrag tu

smra ba dag (Vaibh亘sika)である (Wa236b針。『プラサンナパダ-JJ にも ほぼ同じ定義がみられる (Pras,p.87,1・2: yasmin sati yad bhavati tat

(27)

F知恵のともしび、五第1章の和訳(4) 縁の定義を示す定型匂とみなしていたようであるが, IJ{具舎論』ではその説は 確認できない。生に対して障碍をなさないという点で,自身以外のすべての法 に増上縁の性質を認めるのがアビダルマ論者の基本的立場で、おる (A豆Bh,11. ad. k. 50a, 62d)。 櫛 註havan亘m nihsvabhavanam na satt互vidyateyatal)_ / 10 ab

制;) saUdam asmin bhavatity etan naivopapadyate / 10 cd

部)

C

4

.

1.

c

J

C

4

.

l.

d

J

参照。その自部派の者たちに対するパーヴィヴェーカの 批判をふまえた反論で、ある。 絢 Wallesered.: chos zab mo la mos pa rnams.PPT: chos zab mo la mα mos pa rnams.PPは北京販およびデルゲ販とも否定辞がない。一方,アヴア ローキタヴ舟ラタの註釈文およびそこに主用される PP本文のどちらも,mos μ は否定辞maをともなっている。漢訳も同様に「不信」とあワ,否定文と して読んでいる。その否定辞の有無について,どちらの読み方も可能で、あると 考えるが,今辻後者にしたがって「語解することのできない」と読む。その典 拠としては,誓えば『迦葉品j](Kasyapaparivarta)~140-H49 仏空性とい う甚深の教法を信解することのできなかった五百人のよと丘が教え導かれ,つい に 心 解 脱 (vimuktacitta) を得たことが説かれる。ところで, r{言解」と訳し たチベット語 mosρα に対応する党語は adhimuktiであり,‘inclination'(性 向)を意味する。甚深の教法を理解することが解脱に通じるのであるが, adhimuktiとiま,理解した上で、あれ,あるいは理解誌およばず漠然としてであ れ, mukti (解説〉に向かい傾斜する心のあり方を意味するものと考えられ, その意味で「信」であり,「語解」なのである。仏陀の説法がどのようにして 行なわれるに至ったのか,その中観論者の解釈については, f中議』第24章 観 四諦品の所説と

f

芽せて考察する必要がある。 制 Tib: dbugs d_b戸 的 ba; Skt: 誕vasana.IJ蔵 漢 大 辞 典J によれば,dbugs db戸 的/hbyinpaには τ安慰」という意味がだされている。 制 Wallesered.:phyogs de la ni;PPT, D-PP:phyogs de

t

f

:

i lan ni.後者をと る。

栂 Wallesered.:gan rken du I]gyur;PPT: med na gan gi(s) rkyen ces bya;

D-PP:med na gan gis rkyen du lJgyur.地本により mednaを補って読む。

綿 naca vyastasamastate~u pratyaye~v asti tatphala

r

p

.

/

llab

制 pratyayebhyahkathaI11tac ca bhaven na pratyayewyat//11cd

弘司 athasad api tat tebhyal)_pratyayebhyal)_pravartate / 12ab

側 apratyayebhyo'pi kasman nabhipravartate phalam / / 12cd (50) Tib: byun ba.

担) Tib: gyurμ.護訳では第13信で論じられる mayaを「転異J r転J r転変j

(28)

41-F知恵のともしび五第1章の和訳(4) と訳している。また「プラサンナパダ-,,11では mayaをvikaraと解釈して論 じている。チベット訳,漢訳ともにvikaraに相当する訳語であるので,原語 にvikaraを想定することが可能である。 倒 phalazpcapratyaYamayaI11/13a 記事 pratyay話 casvayar手may立与/13る 制 (3.1.b)など参照。前稿(3)の註鈍に, F中論』第15章第 2告に示される自'注 (svabhava)の定義を紹分したが,記載に誤りがあったので,訂正し改めて あげておく。自性は,作られたものでなく (ak

r

:

taka,ma byas pa),改変さ れ な い も の (akrtrima,bcos ma ma y仇 pa),f也 に 依 存 し な い も の

(nirapek明hpara tra, gzaη la bltos pa med戸α)である。

倒 phalamasvamayebhyo yat tat pratyayamayarp katham / / 13 cd

紛 tasmanna pratyayamayarp / 14 a

(57) n亙pratyayamayarpphalarp / sarpvidyate

1

14bd

Walleser ed.: rkyen min las勿 幼 brasbu ni; PPT, D-PP: rkyen min las byz仇 brasbu ni / yod min.後者をとる0

(58) Walleser ed.:rtog paηPPT, D-PP: rtogs par.千表者をとる。 舗 前 稿 (2.2.a)註22および、 (4.1.dJ参照。

制 Pras,p. 90. 1: pratyayas capratyayas ceti samasa.t. / IFプラサンナパ夕、

一』では,この複合語を「縁と非騒がJ という dvandva(並列護合語〉に解 釈している。ブッダパーリタ註でも同様の読み方になっている。

(61) phalabhavat pratyayapratyay長与 kuta与

/

1

1

4

c2d

純 江 島 前 掲 書74-83頁参照。

掛 アヴアローキタヴラタによれLf',砂初

gluhi rgyal po ma dros pas zus声ahi mdo (互rya-anava ta ptanagaraj a -pari prccha -siltra)の名をあげる

(Wa250a2)。 ま た 本 経 はAnavataptahradapasarpkramanasiltraの 経 名 で 『プラサンナパダー』第13章 に も 教 証 と し て 引 か れ る こ と がKajiyama

t

こよ り指識される (p.128脚注)。その究文は以下のようである (Pras,p. 239, 10 -14 および静注 2 参.~~)。

ya与pratyayairj亘yatisa hy jato no tasya utpadu sabh亘vato'sti

1

yat pratyay亘dhinu sa 釦nya ukto yat silnyatarp janati so 'pramattat

/

1

制 ア ヴ ァ ョ ー キ タ ヴ ラ タ に よ れ ば,f;Phag pa la先 初rgsegs paf;i mdo (Arya・la出 亘vatara-siltra)の 名 を あ げ る (Wa250b1)0

Saddharma-lahkavatara-siltram, P.L.Vaidya ed., Buddhist Sanskrit Texts NO.3リ

1963, p. 60, 15-16:

(29)

F知恵のともしぴ』第1章の和訳(4)

tasy亘stinasti nopaiti viviktarp.pasyato jagat / / III. 14

総 ア ヴ ア ロ ー キ タ ヴ ラ タ に よ れ ば,IJphag pa saお 切las thams cad kyi yul

la 争iugpa ye ses snan ba争zrgyaη gyi mdo (瓦 ya-sarvabuddha-vi$ayava tarajnanalo kalamkara -sfitra)の 名 を あ げ る (Wa250b3)。 本 経 も

『プラサンナパダ-jj 第22章に教証として引かれるものである (Pras,p. 449,

5-6)0 w智光明荘厳経jj (Jna凶 lokalamkara)の党文テキストとともに挙げて

おこう(大正大学綜合錦教研究所党語保典研究会編, 2004年, 54-55頁)。

anupadadharma

T

.

satatarp.tath亘gatat.sarve ca dharma

.

T

sugatena sadrs亘h/ Pras anutpadadharma

.

T

satatarp.ta吐lagata

T

.

sarve ca遭larma sugatena sadrs互h/おおalok亘lamkara 漢訳では, f大 乗 入 諸 儀 境 界 智 光 明 荘 最 経dl (大正No.359)に, f如 来 無 生 j去本常 一窃法典善逝等J (大正12,257a) とある。 鶴 田 じ く f大乗入諸傍境界智光明荘巌経jj (大正詩0.359)に, F妙吉祥,不生 滅 者 此 説 部 是 知 来 増 語J (大正12.255a) とある。以下に,党文とチベット訳 文を挙げておこう(同研究会編 F智光明荘厳経jj 52-53夏)。

tad anen互pite manusri

T

.

paaryaye1)aivam veditavyarp. / anutpado 'nirod

-ha iti / tathagatasyaitad adhivacanam iti /

IJjam dpal rnam gran des kyaカ IJdiltar skye ba med pa dan /抱agpa

med pa zes bya ba de ni de bziη gsegsραが おhigbla dgas yin戸arグigpar

byalJo / /

約 ア ヴ ア ロ ー キ タ ヴ ラ タ に よ れ ば , 扮hagpa

t

.

s

幼 仰szus pa争imdo

(Arya -brahmaparip,"!ccha -sfitra)の名をあ汗る (Wa251a2)。

総 漢 訳 に よ れ ば , F党王揮経』の名をあげる。 F思 益 楚 天 所 関 経jj (大正 No.

586)に , 「 若 見 知 五 陰 無 生 亦 無 減 是 人 現 仔 世 百 不 依 世 間 」 と あ る 経 文 に 相当する(大正15,38a-b)0 (完)

参照

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