Title
表現主義としての初期カール・バルト : ヴィルヘルム帝政 期というコンテクストから見た初期バルトの神学Author(s)
深井, 智朗Citation
聖学院大学総合研究所, No.34, 2006.2 : 407-428URL
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4295Rights
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表現主義者としての初期カ
1
ル・ バル ト
ー
l
ヴィルヘルム帝政期というコンテクストから見た初期バルトの神学
深 井 智 朗
問題設定
( 1 )
初期カ1ル・バルトの神学思想のコンテクストの解明のための研究は︑大別するならば︑神学史的な視点からと政治
史的な視点からなされてきたと言ってよいであろう︒前者の研究はこれまでに数多くの研究が試みられ︑わが国におい
ても盛んに論じられてきたものである︒バルトの思想を新正統主義︑神学的ポジティヴズム︑宗教改革思想の復興者︑
マルキオンの再来︑脱デノミネーション化されたカルヴィニズムというように理解するのがそれであり︑さらにバルト
の思想を
L
・アオイエルバッハによってとりあえず完成した人間学的な無神論を前提とした神学と考える立場も︑後の研究者によって命名された仮想の敵である神学的リベラリズムや文化プロテスタンテイズムへのラディカルな批判者︑
あるいは新しい神学的な立場の創始者として解釈する場合も同様である︒
後者の研究はバルトの思想のコンテクストを宗教社会主義や当時のラディカルなマルクス主義との関連で理解しよう
とするものであり︑
F
・w
・マルクヴアルトやD
・シエロングのような研究に見られるものである︒これらの研究は確かに前者の研究には見出されない初期バルトの思想の社会史的な解明を試みている点で興味深いものであるが︑残念な
ことに結局は初期バルトがどの程度宗教社会主義の影響やマルクス主義の革命思想を持っていたのかということや労働
40 8
組合運動へのコミットメントの様子を解明することに終始しており︑結局は神学史的な研究とそれほどには変わらない
研究結果を提示することになっている︒
前者も後者も初期バルトの思想的なコンテクストを解明することには失敗している︒その結果バルトの神学は
﹁メ
ル
クゼテク的な性格を持つ﹂︑すなわち﹁系譜がない﹂神学であると説明されたりするのである︒しかしどのような思想
も社会的なコンテクストと無関係に生じるものではない︒バルトの神学がそのようなものとは切り離されて︑超越の次
元を強調したとしても︑そのように神学を性格付けること自体が︑既にこの時代の特定の状況に規定されていることで
もあ
る︒
それ故に︑初期バルトの思想的なコンテクストとその思想の特質の解釈のためには︑より社会史的な視点が明らかに
なるような方法が必要なのであり︑その政治史的なコンテクストを明らかにする必要があるのではないか︒本論では︑
初期バルトの神学が︑彼が神学的な教育を受け︑初期の神学的な枠組みを形成したヴィルヘルム帝政期に確立された社
会システムや思想的な立場へのラディカルな破壊という性格を持っており︑彼の神学はそのような思想的な影響と社会
的なコンテクストの中で形成されたことを明らかにしたい︒それが﹁表現主義者としての初期バルト﹂という視点であ
たとえば
F
・フエルマバやW
・る︒確かにバルトを表現主義的な思想家の中に加えること自体は新しいことではなく︑( 3 )
ロ
lテなどによってなされてきたことでもある︒しかし本論の試みは︑﹁表現主義﹂という概念の用法を社会史的に拡大し︑今日のヴィルヘルム帝政期やヴァイマ1ル共和国研究に見られるように︑政治史的なものにまで拡大すること
で︑彼の思想の政治的なコンテクストを解明することにある︒
それ故に︑ここでいう﹁表現主義﹂とは︑芸術や文学の諸傾向のことではなく︑ピ1タ1・ゲイが印象深いメタフ
ア1で表現したように︑﹁父としてのヴィルヘルム帝政期﹂に対する﹁子であるヴァイマ1
ル共
和国
期﹂
の反
乱で
あ問
︑
ヴィルヘルム帝政期後期に教育を受け︑育てられた世代がその思想的な父に反抗して生み出された
﹁ヴ
ァイ
マ
lルのフ
ロン
ト世
代﹂
のもうひとつの呼び名である︒このフロント世代は︑ヴィルヘルム帝政期が生み出した社会システムのみ
なら
ず︑
それを支えたイデオロギーとしての学問や文化︑ドイツ・ルタl派的な家父長的性格︑あるいは政治システム
を破壊し︑旧来の伝統や文化︑そして宗教システムによって覆い隠されて見えなくされてしまった︑時代の本質的な課
題と取り組むことを試みた世代である︒初期バルトはそのような世代の特徴を顕著に備えた︑神学者であつむ︒
そこから本論の前提として以下の諸点が確認されるべきであろう︒第一に︑ヴァイマ1ル時代とは実はヴィルヘルム
帝政期後期の受け皿であって︑しばしば﹁ヴァイマ
1
ル文化﹂と呼ばれ︑み出されたように考えられているが︑ そこには何か新しい文化や社会システムが生
( 6 )
ワイ
マ
1ル共和国時代は決して新しいものを生み出さなかったこと︒第二に︑バ
ルトはヴァイマ1ル共和国の神学者ではなく︑あるいは
E
・H
・テ
1ト等によって印象深く論じられているにもかかわ
らず第三帝国やボン共和国時代の神学者でもなく︑そのような時代区分をするのであれば︑まさに彼はヴィルヘルム帝
政期後期というコンテクストの中で神学者を開始し︑思想形成をした神学者なのである︒第三に︑それ故に彼の思想︑
とりわけ初期バルトの思想は︑ヴィルヘルム帝政期のコンテクストの中で理解されるべきであり︑同時代のいわゆる表
現主義者たちの中でも︑もっとも表現主義的な思想を展開した者として理解されるべきであろう︒
ヴィルヘルム帝政期後期とは何であったか
このヴィルヘルム帝政期を決定付けている社会的な動向として︑急速な工業化︑労働者階級の台頭︑﹁調整なき権威
( 8 ) ( 9 )
的多頭制﹂等をあげることができるであろう︒ライナー・レプシウスが指摘するように︑ヴィルヘルム帝政期の最初
の数十年ほど︑劇的な近代化が進んだ時期はなかったと言ってよい︒その変化の根拠は都市人口の急激な増加という統
4 10
計的な報告の中に見出すことができる︒一八七一年に帝国内の都市人口は一二六パーセントであったが︑
一九
一
O
年には六
O%
を超
え︑
その数は一︑三八
O
万人に達している︒この急速な工業化を帝国の宗教であったドイツ・ルタl派の問題と関係付けて考えるならば︑
階級の問題を抱えることになり︑
ルタ
l派はこの工業化によって伝統的なルタ1派の信者層にはなかったいわゆる労働者
さらに社会システムの転換期にあってルタ
l派という政治的ロビlの誕生を経験す
ることになった︒
前者について言うならば︑
ルタ
1派の伝統的な職業観とはルタ1以来農民と専門職によって特徴付けられ︑また社会
システムにおいてはユンカーなどに代表される家父長主義的な大土地所有制度を前提としていたのであるが︑この時代
ルタ
l派はこれまで経験のない新興勢力としての労働者階級と︑その労働問題という新しい宗教的︑政治的な課題と取
り組まねばならなくなった︒
ルタ
1派の社会倫理を基礎付けていた
﹁創
造の
秩序
﹂
の神学はこの現実の前で機能を失つ
ていた︒この間題の解決のためにルタ1派によって生み出されたのが
﹁福
音主
義社
会協
議会
﹂
と呼ばれるもので︑
易 ﹂
V I }
ではフリードリッヒ・ナウマン︑エルンスト・トレルチ︑オット1・パウムガルテン︑アドル
フ・フォン・ハルナツク等による新しい教会社会政策が提案されてい問︒彼らは︑神学的には保守的な立場をとる場合 マックス・ヴェ!パ1︑
でも︑リベラリズムの影響を受けているとしても︑ドイツ・ルタ
1
派がこれまで経験したことのない社会層としての労働者階級とその問題と取り組んでいたのであった︒
この問題は工業化以前の社会システムや価値観を支配してきた︑ドイツ・ルタ1派にとっては解決困難な新しい課題で
あった︒もっともルタ1派だけではなく︑帝政期の圧力団体の多くはこの間題と取り組んでいたのである︒ライナー‑
レプシウスの分類に従えば︑ヴィルヘルム帝政期は四つの社会的・道徳的陣営から構成されていた︒第一に社会の保守
層と結びついたプロテスタント陣営で︑主として貴族層︑農民︑中産階級や重工業層によって構成されていた︒第二が
リベラルなプロテスタント陣営で︑
いわゆるドイツ教養市民層を呼ばれる勢力で︑既存の教会制度からは一定の距離を
とり︑しかし敬慶な生活を送ることにおいては熱心であり︑
かつてリヒャルト・ロ!テが
﹁教会外のキリスト教﹂と呼
んだグループである︒第三がカトリックであり︑第四が社会民主主義グループである︒興味深いことにこれらの四つの 道徳的・宗教的な陣営は︑ヴイルヘルム帝政期の政党の歴史の展開と重なり合っていね︒そしてこの時代に重要なこと は︑工業化以前のドイツの政治的・宗教的対立の機軸であった政治的リベラリズムと政治的保守主義との対立という単
純な図式は解消されおり︑
バルトの政治的︑神学的な立場についての説明でもしばしば用いられるこのような図式はほー
とんど意味をもっていなかったということである︒
後者との関連で言えば︑ヴィルヘルム帝政期はその名に反して︑絶対的な帝国主義の時代でもなく︑中央集権的な時 代でもなく︑イデオロギー的にもさまざまに異なる諸集団によって構成されたコラージュが急速に再結日開化された時代
であったということである︒その結果がヴェ1ラlの一言う﹁調整なき権威的多頭制﹂
の社会ということであった︒神学 史においてもこのような傾向は反映されており︑従来のリッチュルとその学派︑宗教史学派︑神学的ポジテヴイズム︑
自由主義神学︑文化プロテスタンテイズムなどの区分も実はこの時代のルタ
1
派を理解するためにはそれほど有効では なく︑神学的な保守主義とリベラリズム︑政治的な保守主義とリベラリズムの組み合わせがドイツ・ルタ
1
派内に存在
していたのである︒
このようなさまざまなロビーが存在し︑利益集団の競合する社会を横断し︑ヴィルヘルム帝政期に社会的な統一を与 えていたものは︑結局はナショナリズムであった︒ドイツ・ルタ
l派の例をあげれば︑一八七一年の帝国成立は︑
えば領邦教会制度の破壊へと導くかもしれないと考えたプロイセン以外のルタ
1
派によって強く批判されていた︒しか
しこの帝国の成立を︑
オーストリアに対するプロシアの勝利︑またフランス的なリベラリズム︑あるいは革命へのドイ
た と
政治的な立場をも超えて︑ ツ精神の勝利と受け止めることによって︑ドイツ・ルタ!派はそれ以後︑神学的なリベラリズムも保守主義者も︑その
ナショナリズムという点においては一致することになったのであ的︒それ故にドイツ・ルタ
4
12
ー派内には神学的リベラリズムのナショナリスト︑神学的保守主義のナショナリスト︑政治的リベラリズムのナショナ
リスト︑政治的に保守主義のナショナリストがいたのである︒神学的保守主義と政治的なリベラリズムが︑また逆が結
びつくことが稀ではなかったように︑神学的リベラリズムと政治的保守主義との結びつき︑また逆も稀ではなかっ鳩︒
そう考えるならばヴィルへルム帝政期のパラダイムとは実は︑ドイツ・ナショナリズムによって支配されており︑
そ れ
に対する相対化の思想がなかったというわけではないが︑ドイツ・ルタ1派について言うならば︑大多数は︑どのよう
な神学的︑政治的な立場を取るにしてもナショナリズムによって結びついていた︒
この視点を読み違えると︑カール・バルトの神学の登場の意味が︑わが国でかつてそうであり︑今もそうであるよう
な大きな誤解に基づくものになってしまう︒カール・バルトの思想を︑神学的には正統主義(それは原罪などの︑ドグマ
を肯定するという意味であっても︑プロテスタント正統主義時代の神学的な方法に遡るという場合でもてあるいは保
守主義と考え︑それまでのリベラリストたちの神学である
A
・フォン・ハルナックやE
・トレルチへのアンチテーゼと説明することは大きな誤りである︒あるいはバルトは当時のリベラルなキリスト教から教会的な︑伝統的なキリスト教
( M )
﹁教会的﹂神学者だと見られるがこれもまた大きな誤りであろう︒を守った
バルトの登場は︑ヴィルヘルム帝政期の政治的・思想的なコンテクストから見るならば︑国民教会的な︑ドイツ・ルタ
ー派の制度を破壊する過激派の登場であり︑ヴィルヘルム帝政期の急激な工業化によって生じた社会変動に対応できな
い︑
ドイ
ツ・
ルタ
1派をどのように改革し︑いかにして変化し続ける時代に対応できる精神的な基盤を形成できるかとい
うことを考え︑教会の保持と変革を考えたハルナックやトレルチは教会を擁護する保守派だったのである︒つまり初期
バルトの思想は︑当時の社会的コンテクストに基づくならば反教会的であり︑バルトが批判した人々こそ教会的な勢力
だったのである︒それ故にバルトの思想はヴァイマlルのフロント世代が︑伝統的な価値概念や社会システムを破壊し
ょうとした表現主義者であったと同様に︑彼は宗教システムにおける﹁表現主義﹂と呼ばれるようになったのである︒
このようなコンテクストを理解してこそ︑バルトの一九一九年と一九二二年の﹃ロ1マ書講解﹄における教会批判︑
宗教批判を正確に理解することができるはずである︒
表現主義とは何か
ヴィルヘルム帝政期の社会的
H
政治的なコンテクストの中でその思想を形成したバルトを理解しようとする場合︑注目すべきはいわゆる︑ドイツ﹁表現主義﹂の運動である︒表現主義はまさにバルトがドイツ・ルタ1派の枠内で果たして
いた役割を︑より広いコンテクストの中で担っていた時代精神であったと言ってよいであろう︒
表現主義の起源やその用語解説︑さらにはその諸類型についてここで詳細に取り上げることはできない︒しかしピ1
タ1・ゲイがそのように考えたように︑への﹁ラディカルな子の反逆﹂として表現﹁父としてのヴィルヘルム帝政期﹂
主義を理解するならば︑表現主義は単純にひとつの芸術運動の枠組みを超えて︑その時代精神を反映する︑ひとつのパ
ラダイムに終りを告げる役割を果たすものであったと言ってもよいであろう︒
と呼ばれる芸術運動が一般に認識されるようになったのは︑
年四月のベルリン分離派第二二回展においてであると言われてお問︑同年の一一一月︑パウル・フエルデイナンド・シユ ドイツで﹁表現主義﹂︑あるいは
一九
一二
﹁表
現主
義﹂
ミットが﹃ラインラント﹄誌に掲載した評論﹁表現主義者たちについて﹂はそれ以後のこの用語の︑ドイツでの使用を規
定したと言ってもよいであろう︒そこでは表現主義はポスト印象主義︑あるいはさらにその先の反印象主義に見られる
芸術的な動向をさしている︒しかしこれは狭義の表現主義である︒ベルリンの美術史家マックス・デリは表現主義的な
絵画の解説者であり︑同時代の目撃者でもあるが︑彼は一九一二年六月に﹃パン﹄誌に﹁キュビニズムと表現主義﹂と
4
1
4いう評論を書き︑次のように述べている︒﹁表現主義者は自分自身の体験に基づいてある種の感情を自己のうちにもち︑
かつそれを外に押し出そうと(表現しようと)するのであり︑表現主義者たちはこうした種類のものに対して直感的に
選択された表現であるが︑輝かしい表現でもあ硲﹂︒
ところで︑本論で表現主義という場合には︑絵画や音楽における表現主義に限定されるものではなく︑より広義の表
現主義であり︑ヴィルヘルム帝政期末期に︑この政治的︑文化的なパラダイムを批判した勢力の総称である︒たとえば
ドイツ文学史でもこの時代︑とりわけ一九一O年から一九二O年までの十年間を﹁表現主義の十年間﹂と呼び︑この時
代の政治的文学運動と表現主義とがそこで結び付けられている︒
M
・シュタルクによれ郎︑政治的活動と文学活動を表裏一体と考えていた表現主義者たちとは︑
一九
一
0年代には二
O
歳代後半から三O
歳代
であ
り︑
いわゆるドイツ教養市
民層の家庭で養育され︑大学教育を受け︑﹁ヴィルヘルム帝政期の既存の価値観を覆し︑新しい社会と芸術の発展を目
指した一群の世代である﹂︒それは一九一四年の第一次世界大戦の勃発とその終了によって表現主義の活動が急速に衰
えて行った後にはワイマ1ルのフロント世代と呼ばれた思想家たちである︒カール・バルトはまさにこの世代に属して
いる
本論で用いられているのは言うまでもなく広義の表現主義であり︑それはヴィルヘルム帝政期の社会システムに対し ︒
て︑それを破壊し︑その背後︑あるいは深層にある人間的・精神的な本質を直接﹁外に押し出そう﹂とする立場であ
り︑そのような立場の総称である︒それ故に芸術や文学との領域のように︑自らを表現主義者であると規定しない場合
でも︑この時代の伝統的な価値観を破壊し︑新しい社会的なパラダイムを考えていたあらゆる動向を﹁表現主義﹂︑あ
るいは﹁表現主義者﹂と呼ぶ事ができるであろう︒
初期バルトの表現主義についての言及箇所
カール・バルトが表現主義者であるという場合︑ここで意味されていることはパウル・ティリッヒが表現主義をその
神学的な方法論形成に援用したというような意味で彼を表現主義者と呼んでいるのではない)︒あるいはパウル・フエヒ
タ1が指摘するような意味で表現主義が神学的な要素を元来内包しているという意味ではな吋︒もちろんカlル・パル
ト自身が自らを表現主義者であると呼んだこともない︒しかし彼は既に述べたような意味で広義の表現主義者であると
考えることで︑彼の初期の思想の社会的なコンテクストはより正確に解釈されるであろう︒
ところでバルトが表現主義について言及しているテクストは皆無ではない︒彼は﹃ロ1マ書講解﹄が出版された一九
一九年の九月二二日から二五日まで︑ドイツのタンバッハで行われた宗教社会主義者協議会に出席し︑
という講演を行ってい持︒ そこで
﹁社
会に
おけるキリスト者﹂
この講演は初期バルトの思想の特徴をもっともよく示しているものとして注目すべき内容をもっている︒バルト自身
﹁この講演はまったく単純明快なものとは言うことができずに︑前進するかと思えばまた後退し︑あらゆる方向へと動
き出してしまう機械のようになってしまい︑明確な蝶番や隠れた蝶番も決してないわけでないような講演﹂になってし
まっか)﹂と述べている通り︑決して理解しやすいものではない︒この講演の中でバルトは従来の宗教社会主義を批判し︑
さらにはこの時代の労働者問題から生じたあらゆる立場の運動や思想に対する批判を展開している︒バルトがここで試
みたことは︑ヴィルヘルム帝政期のルタ1派の社会問題との取り組みである︑いわゆる﹁福音主義社会協議会﹂の線か
ら出てくる左右両派の労働者問題との取り組みへの批判である︒
バルトは次のように述べている︒バルトはキリスト及びキリストの宣べ伝えた神の国の思想を今日の保守陣営ともリ
ベラルな社会思想とも異なるものだと述べ︑さらに﹁神の国はわれわれの抗議行動によって初めて始まるものではな
4 1 6
く︑神の国は︑あらゆる既存のものに先立つように︑あらゆる革命にも先立つ革命である﹂と述べている︒神の国は保
守派に対してもまたリベラリズムに対してもまったく新しいものであり︑両者に対して常に否定を突き付けるものであ
るとバルトは言うのである︒
バルトによれば︑リベラリズムも保守主義も︑結局は﹁キリストをお好み次第に世俗化すること﹂︑
﹁キリストと労働問題﹂というような元来結び つまり自分の好
みや思想を説明したり︑補ったりするために﹁キリストと社会﹂とか︑
つくことがないようなものを結びつけているという点で誤っているという︒あるいはバルトは次のように述べているの
であ
る︒
﹁今日では︑社会民主主義︑絶対平和主義︑ワンダーフォゲル︑かつては祖国のために︑スイス精神︑ドイツ
精神︑教養ある人たちの自由主義のためにしてきたような世俗化﹂は避けられねばならない︒
つまりバルトはイエスの語った神の国というのは︑この世と結びついたり︑その世俗化版としてのこの世の何かにな
り得るようなものではないというのである︒イエスと労働者︑イエスの社会主義︑イエスと社会などという問題︑すな
わちイエスの教えをあまりにも急激に現世のために通用するように改造し︑それを使用しようとする考えの全ては神学
的に誤った問題設定であると考えたのである︒その誤った︑無理な設定をしているのがヴィルヘルム帝政期のルタ1派
の左派︑右派の社会主義的な思想や社会政策であったと彼は考えたのであろう︒イエスの福音はそれ以前に遡るものな
のである︒むしろこれらの思想や運動が︑神の国が持つラディカルな革命的な側面を覆い隠してしまっているのであ
り︑神学はこの覆い隠しを取り除いて︑元来の姿を回復しなければならないと考えているのである︒
バルトはこのような説明のために︑表現主義を持ち出したのである︒これが﹁社会におけるキリスト者﹂における表
現主義の問題である︒バルトは﹁社会の中のキリスト者﹂において次のように述べている︒﹁われわれは現代の表現主
義の芸術が生み出したものに対して︑非常に深い嫌悪観をいだいているかもしれない︒しかしこのような嫌悪観の中で
次のことが明らかになるはずである︒これらの人々にとっては︑実はラファエロもデュlラーもあまり大きな顔をして
引き合いに出すことは出来ないような︑いわゆる芸術それ自体とは異なった何か︑つまり内容が︑また生の中のひとつ
のものに対する美の関係が関心事である︑ということなのである﹂︒バルトはここで芸術の領域における表現主義の仕
事を評価しているのである︒その意味は表現主義に嫌悪観をいだく人々が︑結局は芸術が表現しようとしている主題そ
のものに関心を持つのではなく︑むしろ芸術作品が打ち出す他の副次的な効果に関心をもって︑事柄それ自体と取り組
んでいないということなのであろう︒表現主義とは︑そのようなものを破棄して︑事柄それ自体と取り組む手法である
とバルトは説明したいのである︒
そして﹁われわれは表現主義を単純に否定するだけではすまされない﹂のだと言う︒そうではなくて︑この考え方に
ならって︑考えるならば︑今日の社会の諸問題︑とりわけヴィルヘルム帝政期における教会の社会の諸問題との取り組
み︑あるいは社会主義運動は︑運動のための運動︑教会のための社会活動になっていて︑事柄それ自体との取り組みを
回避してしまっている︑それ故にバルトは次のように述べたのである︒﹁もしわれわれが今と批判しているのである︒
目︑非常にまじめに︑﹃労働︑労働こそは︑今日のヨーロッパが必要としているものなのだ﹄という叫びに声を合わせ
るならば︑まさにこの死活問題においてスパルタクス団の人たちが︑労働それ自体のくびきの下に再び帰るよりはむし
を死んだほうがいいし︑すべてを滅ぼしてしまうほうがましだ︑とわれわれに答えたとしても︑少なくともわれわれの
心の底まで驚いたり︑憤慨したりしようとは思わないのである︒要するに︑われわれは︑自分たちの把握によって︑全
き参与を示しつつ︑教会がわれわれの時代の運動の中で問われているそのところに共にいるであろう︒新しい諸権力が
まさに宗教それ自体という門の前でいかに速やかに停止したかということ︒まさにこの抽象的なもの︑カトリック的
な︑またプロテスタント的な形をとったこの死の力が︑その存在に対するその名に値する根本的な抗議と何らかの仕方
で対決しなければならないことを無視して︑いかに簡単に妥当させながら自己を主張することができたかということ︒
このことはあなたがたにとっても︑ドイツ革命において起こったもっとも驚くべきことではなかったか﹂︒
4
1 8
このテクストは明らかにバルトがヴィルヘルム帝政期後期に思想形成を果たした表現主義者のひとりであったことを
示している︒ここには極左革命党の運動も︑そして教会のそれぞれの宗派も︑結局は事柄それ自体と対峠することな
く︑既存の社会形態の中で自己保持に終始して︑問題との取り組みを回避しているというバルトの主張が繰り返されて
いる︒これは明らかにこの時代の表現主義者たちとの思想的関連を示すテクストである︒しかしもしバルトが同時代の
表現主義者たち︑すなわちヴィルヘルム帝政期後期が産み落とした子であり︑
ワイ
マ
lル共和国初期に活動した異端児
としての表現主義者と違っている点があるとすれば︑それはバルトが他の︑ドイツ表現主義者とは違って︑ドイツ・ナシ
ョナリズムとの結びつきが希薄であったということである︒彼はいわばヴィルヘルム帝政期においては
﹁異
邦人
﹂
であ
った
から
であ
る︒
四
初期バルトの神学的なプログラムとしての表現主義
バルトが表現主義者︑神学的表現主義者であると本論が主張する根拠は︑この表現主義についての肯定的な評価を下
されているテクストが存在しているからではない︒むしろ初期バルトの神学的な特性の中に︑表現主義者としての性
格を見出すことができるというのが本論が示す根拠なのである︒バルトが既に述べたような理由で広義の表現主義者
であるという根拠を提示し得るテクストの中から︑政治的なコンテクストが明らかになるものをひとつだけ検討してみ
( m )
ょう︒それは彼の
﹁教
会論
﹂
であ
る︒
初期バルトの表現主義的な性格は︑彼の教会論︑あるいは教会批判を見るとより明らかになる︒この議論で彼は︑明
らかに既に見てきたようなヴィルヘルム帝政期の教会システムを前提に考え︑それを批判し︑破壊し︑その背後にある
教会の本質を取り出そうとしている︒つまり初期バルトの教会論は︑ヴィルヘルム帝政期の︑ドイツ・ルタl
派の
状況
︑
そして表現主義者としての彼の思想を想定する時にだけ明らかになる︒
このような問題設定におけるバルトの教会批判は︑﹃ロ1マ書講解﹄では︑実は﹁教会﹂について論じられた九│
一章を読むだけでは明らかにはならない︒バルトの教会批判は実は
﹁宗
教﹂
の問題について論じている第七章を見なけ
れば
なら
ない
︒
そこで﹁宗教﹂と呼ばれているものこそ︑ヴィルヘルム帝政期の教会の姿に他ならないからである︒
初期バルトの思想に特徴的なことは︑
﹁教
会
H
宗教﹂
その時バルトとの対立という構造である︒
﹁イ
エス
の福
音﹂
と
の念頭にあるのは︑ヴィルヘルム帝政期の二つの宗教的な立場であり︑ひとつは制度としてのキリスト教︑すなわち教
会組織を否定して︑﹁教会外のキリスト教﹂になってしまった個人的なキリスト教的敬慶であり︑もうひとつは帝政を
支える宗教となったドイツ・ルタ1派の保守的教会論である︒後者では教会は政府の政治的な政策を宗教的に補完する
機能を持っていた︒バルトはそのどちらをも批判しているのであるが︑彼が﹃ロl
マ書
講解
﹄
で宗教を批判している場
合には︑実はそこにはキリスト教以外の他宗教という意味はなく︑﹁宗教となってしまった教会﹂という見方が提示さ
れているのである︒すなわちバルトはアンシュタルト化し︑現世の政策論に終始する教会は︑イエスの福音とは相容れ
ない︑宗教的な組織であり︑また啓蒙主義の影響を受け︑人間の敬慶な態度という自己満足に終始する
﹁教
会外
のキ
リ
スト教﹂も超越者としての神を失った︑やはりイエスの福音からは切り離される宗教であると考えたのである︒
ここで二つのことが問題になる︒第一の点は︑彼が教会の本質と︑現在の組織としての教会を区別し︑後者は前者が
明らかになることを覆い隠し︑妨げているものと考えているということであり︑それ故に後者は前者を外に押し出すた
めに取り除かれねばならないと考えている︑ということである︒ここに彼の教会批判の特徴があり︑﹂れは明らかに表
現主義的な思考である︒
第二に︑この図式は︑彼がヴィルヘルム帝政期の国民教会を想定しているという点では︑既存の教会制度の破壊を彼
4 20
が考えていたという点で︑彼はまた政治的表現主義者であると言ってよいであろう︒彼は教会を否定しないのである が︑既存の教会制度を肯定することはできないという意味で︑ヴィルヘルム帝政期という父の時代に反抗する子としての表現義者なのである︒
そしてそこから提示されるバルトの教会批判は︑ラディカルな教会破壊者としてのバルトの姿
であ
る︒
それ故に初期バルトの神学は教会の破壊者としての性格を持っていたのであり︑
バルトを教会の神学者︑ある
いは新正統主義と言う場合には︑よほど厳密な規定をしなければ︑
バルトの思想のコンテクストからはずれてしまうと いうことになるであろう︒逆に言うならば︑このバルトの過激な思想を受容できたのが︑ヴィルヘルム帝政期崩壊前後 の 十 年
﹁表現主義の十年﹂と呼ばれたあの時代だったのである︒
そこでは既存の価値観の批判と崩壊とが顕著な仕方
で生じていたのである︒
結び││このように視点から見た場合のバルトの神学の特質
以上のような視点から初期バルトの神学を考察しようとする場合に問題となるのは︑バルトは新しい神学的なパラダ
イムの創始者であったのか︑
それとも彼は従来のパラダイムの完成者ないしはラディカルな批判者であったのか︑
と
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うことである︒
これまでの初期バルトの思想は︑神学的リベラリズム︑あるいは文化プロテスタンテイズムの批判者︑神学的伝統の 擁護者︑新正統主義の登場というように理解され︑また彼の思想も神学史的なレベルで検討されてきた︒しかしそれで
は既に述べた通り︑バルトの思想を正しく理解したことにならないのではないだろうか︒従来の初期バルト研究の問題
は︑バルトを新しい神学的パラダイムの創始者と見なしてきたことではないのか︒それ故にバルトは彼を育て上げた神
学︑すなわちヴィルヘルム帝政期の神学的傾向を完全に批判ないしは精算し︑新しいパラダイムの中で神学を再構築し
た︑新しい時代の神学者と見なされてきた︒そのために︑あるいはバルトの後付のような自伝的文章のために︑パルト
の神学におけるコペルニクス的な転換はまことしやかに語られ︑信じ込まれてきたのである︒
しかしこれまでの考察︑すなわち彼を表現主義者と見る見方は︑初期バルトの神学的な営みを︑ヴィルヘルム帝政期
の神学的なパラダイムの中に位置付けることになる︒すなわち初期バルトはヴィルヘルム帝政期の神学的なパラダイム
の中
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それをラディカルに批判した神学だということである︒
この点で注目すべきはトゥルツ・レントルフのバルトの見方であろう︒
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バルトの神学を︑啓蒙主義的な思想︑すなわち近代における人間の神的なものからの自律というという考えをもっとも
ラディカルに受け止め︑それを神学に適応し︑人間は神を認識し得ないと言う程に︑そのような可能性を一切もたない
程に人聞から自律したものであると主張しているのだと指摘している︒
それ故に神学は啓示から開始されるわけであ
る︒すなわち啓蒙主義のもっともラディカルな神学への適応が初期バルトの神学だということになる︒啓蒙主義者が超
越の次元を否定すればするほど︑超越の次元と人間との結びつきを否定すればするほどバルトの命題︑人間と神との質
的差異︑あるいは人間の神認識の不可能性についての命題は妥当性を持つことになるというわけである︒
﹂のレントルフの見方は︑一方でバルトの神学が︑啓蒙主義の批判や影響のもとに営まれねばならなかったヴィルへ
ルム帝政期の神学的なパラダイムの中で営まれていたことを明らかにし︑さらに彼の神学がそのようなパラダイムによ
って規定されていたことを明らかにしている︒そして他方でバルトはヴィルヘルム帝政期の神学的なパラダイムの完成
者であることも明らかにしている︒その見方は正しい︒
確かにレントルフの見方は従来のバルト研究に欠けていた︑より広い思想史的なパlスペクティヴを切り開いたとい
うことができるであろう︒しかしこの指摘だけでは初期バルトの神学的なコンテクストは明らかにならないであろう︒
4 22
さらに重要なことは︑本論において見てきた通り︑初期バルトのラディカルな教会批判という側面である︒従来の研究
がバルトの神学が新しいパラダイムを切り開いたという場合にそのパラダイムとは何であろうか︒ここで注意しなけれ
ばならない点は︑バルトは確かに神学に新しい言葉を持ち込んだが︑その言葉によって批判されているのは︑ヴィルヘ
ルム帝政期の神学と教会システムなのであり︑それはバルトの﹃ロl
マ書
講解
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の教会批判に顕著に現われ出ている︒
しかしそれではバルトはそのようにして批判した神学や教会システムに対して︑何か対置すべき新しい教会論を提示し
たのかと言えば︑そうではなかった︒初期バルトの神学や教会批判は︑既存のヴィルヘルム体制のための宗教システム
としての教会を前提として成り立っている︒すなわちそれがあるからこそ︑バルトの神学と批判的な思索は成立してい
るのである︒彼は新しいものを生み出し︑提示したのではなく︑既存のシステムを批判する中にその神学的な営みを確
立したのである︒この点︑すなわち彼は新しい神学的パラダイムの創始者ではなく︑既存のパラダイムの完成者ないし
はもっともラディカルな批判者であるという見方は︑彼自身による神学的なプログラムについての説明やこの時代の神
学史的な研究によっては解明されないことであり︑ヴィルヘルム帝政期の社会史的
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政治史的なコンテクストの解明によってはじめて明らかにされることであり︑その研究にさらに着手しなければならないはずである︒
注
( 1 )
﹁初 期﹂
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カル・バルトの神学思想という場合︑すぐに検討しなければならないのは︑カール・バルトの思想における﹁初期﹂の問題である︒バルトは一九一九年の﹃ロ
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マ書講解﹄によってその神学的な立場を確立したと言われており︑一九一九年の著作で明らかになった彼の神学的な立場は何年ごろに確立されたのか︑ということに研究者は注目してきた︒他
方で︑この一九一九年の神学的な立場がより方法論的に確立されて︑後の﹃教会教義学﹄(未完)における神学的なプログ
ラムの展開へと至るまでのプロセスを研究することにも研究者は注目してきた︒その結果︑一九一九年以前のバルトの思
想については十分な研究がなされてこなかったと言っても過言ではない︒なぜならバルトの研究者たちにとっては︑一九
一九年以前の神学は︑バルトによって否定された神学的なアプローチを試みた︑克服されるべき神学なのであり︑バルト
自身がその中で教育されたことも︑バルトの神学的な枠組みが︑もちろん一九一九年の著作もそのコンテクストの中で形
成されているということもほとんど意味のないこととして扱われているからである︒しかし本論ではカ
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ル・バルトの思想を一九一九年以前と以後とに分けることで︑バルトの思想的な発展をみることをしてはいない︒むしろそこには彼の思
想的なパラダイムの一貫性が見出されると言ってよいであろう︒
本論で﹁初期バルト﹂という場合には︑彼が﹃ロ
1
マ書講解﹄の改訂版を一九二二年に出版し︑その後一九二六年までを考えている︒この年代規定の理由は︑なお検討の余地が残されているかもしれないが︑第一にこの年バルトは︑ドイツの
国籍を取得していること︑後の神学的なプログラムを規定することになる方法論の確立に寄与したアンセルムス研究に着
手した年であり︑彼はこの時から︑ヴァルヘルム時代に確立されたドイツの神学的パラダイムの破壊者であることから︑新
しい神学的パラダイムの確立者としての道を歩みだしたと言ってよいからである︒﹁初期﹂バルトと本論が呼んでいる場合
には︑ヴィルヘルム帝政期の神学的パラダイムの破壊者としてのバルトのことを考えているのであり︑このようなバルト
の神学思想が︑ヴィルヘルム帝政期の文化や思想の破壊者としての表現主義者たちの活動と平行現象︑ないしは協調関係
にあるのではないか︑というのが本論の問題提起でもある︒
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ルのフロント世代﹂とは一八八五年から一八九O年にかけて生まれ︑一九一四年の大戦開始時には二五歳から三O歳になって大学教育を終えており︑その後の職を求めていた世代であり︑ヴィルヘルム体制崩壊時には職を得ているか︑そ
のための最終的な努力をしていた世代である︒またこの時代彼らは兵役を避けることができず︑多くは戦場に赴いている︒
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( 6 )
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ル文化とは︑その全てがヴィルヘルム帝政期に形成されていたと考えている︒
( 7 )
﹁ヴィルヘルム帝政期﹂あるいは﹁第二帝国期﹂とは一八九O年からヴィルヘルム二世の退位と一九一八年一一月の革命に
よるすべての王家の退位までの期間の通称であり︑厳密な概念とはいいがたい︒
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