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ローマ美術論断章−共和政末期〜帝政初期の住宅壁 面装飾−

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面装飾−

著者 辻 成史

著者別表示 Tsuji Shigebumi

雑誌名 ヘレニズム〜イスラーム考古学研究

巻 2020

ページ 69‑83

発行年 2020‑12‑31

URL http://doi.org/10.24517/00061640

(2)

ローマ美術論断章

-共和政末期~帝政初期の住宅壁面装飾-

Chapters on Ancient Roman Art

-Wall Decoration of the Roman Houses from Late Republican to Early Imperial Period-

辻 成史(大阪大学名誉教授)

Shigebumi Tsuji (Emeritus Professor, Osaka University)

第一章 文芸に表れた古代ローマ住宅

 公・私を問わず古代ローマ建築の壁画装飾が最盛時を迎えるのは、共和制末期から帝 政初期、紀元前50年前後から紀元後一世紀の間にあることは、大方の研究者の認めると ころである。美術史学の見地からは、A.マウの提案したポンペイ絵画の第二様式の時代、

さらに細分化して言うなら、そのフェーズ1cに始まったと見られている。1その壁画装飾 の盛行の背景として、今日まで様々な提案がなされ議論されてきた。一例として、この時 代に浮上してくるいわゆる「聖なる牧歌的風景」に関しては、かつてE. W. リーチが帝政 期の詩文との関係を詳細に論じたが、2帝政期の散文の中で、もっともしばしば言及される のは、ネロ帝の時代にペトロニウスが著したとされる『サテュリコン』中の、有名な解放 奴隷にして大富豪トリマルキオの長広舌である。3

 これに対し、帝政期の世俗文学の双璧を成すアープレーイユス(124-174 AD)の『変身談』、

通称『黄金の驢馬』の方は、「話中話」ともいうべき長短の物語を多数含んでおり、中で も巻の四、五、六を費やして語られるアモールとプシュケーの物語は、後々まで世界各地 で語り継がれるこの物語の最初期の例として、文芸史上重要である。4また演劇に関しても、

巻の十に語られた「パリスの審判」の黙劇の描写は、これに呼応する壁画がかつてはポン ペイにあり、重要なドキュメントとなっている。5 実際アープレーイユスの語る劇場の描 写は、上演の光景ばかりでなく、劇場、とくにその舞台背景scaenae fronsについても、修 辞的な誇張を含んでいるとはいえ、興味深い指摘を行っている。

 さらに加えて、『黄金の驢馬』の冒頭の個所は、拙論著者の知る限り、これまであまり 指摘されていない、帝政期の大邸宅建築とその装飾についての重要な示唆を含んでいる。

始めに物語の発端を述べておこう。コリントの名家出身の青年ルキウスは、テッサリアの ヒュパタという町に、ミロオという知人を、しかるべく紹介状を持参して訪ねて行く。そ こに滞在しながらいろいろの経験をするのだが、しかしルキウスの本当の目的は、魔術を 覚えることにあった。彼はその目的を果たそうとするあまり、自ら渦中に身を投じること となり、ついに驢馬に姿を変えられてしまうのだが、それは後の話として、巻の二では、

母の親しい知人でこの町に住む裕福な婦人ビュラエナと出会い、華やかな中産階級の生活

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を楽しむ。

 次いで同巻3節の終わりから4節には、出会ったビュラエナの一行に連れられて、彼女 の立派な邸宅に立ち寄る場面が語られている。少し長くなるが、アトリウムに入ったルキ ウスの見たものは次の様に記述されている。

3.Dum hunc et huiusmodi sermonem altercamur, paucis admodum confectis passibus ad domum Byrrhaenae (4) pervenimus. Atria longe pulcherrima columnis quadrifariam per singulos angulos stantibus attolerabant statuas, palmaris deae facies, quae pinnis explicitis sine gressu, pilae volubilis instabile vestigium plantis roscidis delibantes, (1)nec ut maneant inhaerent, et iam volare creduntur.

“While we were talking in this manner, we had walked a short distance, and reached Byrrhena’s house.

(Book II:4-5)

The reception hall, the atrium, was especially beautiful, with a column at each corner on which stood a statue of a palm-bearing goddess, wings outspread, the motionless dew-wet feet barely touching the polished surface of the spinning globe, so as to appear in flight not stationary.

(「こんなふうにお互いに話あううち、ほんのわずか足を運んだきりで、私らはビュラ エナの邸につきました、

見ればその玄関先(atrium)の素晴らしく立派なこと、四隅の角々に立てた柱へそれぞれ に彫像がのせてあるのは、勝利女神の姿で、翼をひろげながらも歩は踏み出さず、ま るい球の今にもころげだしそうなうえに、露もたれそうな蹠をそうっとつけていると ころは、そのままそこに留まっていようとはとうてい思えぬ身のかるさに、今にも飛 び立ってゆきそうな気がします。(呉・国原訳)」pp.48~49)

 これによれば、一行はアトリウムに立っている。そこは何らかの形で吹き抜けになっ ており、床の中央には雨水を溜めるインプルヴィウム、あるいはそれに相当する方形の 空間があったと想定して良かろう。本文中の、「四隅の角々に立てた柱へそれぞれに彫像 がのせてあるのは、勝利女神の姿で・・・」は明らかに、その方形のインプルヴィウム

impluviumに相当する空間の四隅に建てられた柱と彫像を指している。ここで共和制末期

の大邸宅の建築プランとその装飾を概観しておきたい。6

共和政末期の富裕階級の住宅

 共和制末期に建てられる富裕階級の都市住宅あるいは別荘には、基本的に表通りに面し た比較的狭い出入り口から入る。(挿図 1)入るとそこはファウケスfaucesと呼ばれる 小部屋兼短い通路となっており、そこを通り抜けると、まずアトリウム(玄関間)が開ける。

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部屋の規模はそう大きくはないのが一般的であるが、部屋 のほぼ真ん中には方形の凹所が設けられ、しばしば浅くは あるが雨水を湛えたプール、インプルヴィウムとなってい た。またインプルヴィウムの四隅のほかにも大彫刻の置か れることもあった。

 アトリウムをさらに奥に進むと、そこにはより広々とし た柱廊ペリステリウムが開けていた。空に向かって開けた ペリステリウムの「中庭」には、しばしばプールが設けら れたり、小庭園のように植栽されたりした。この解放され た空間を取り巻いて、庇に覆われた歩廊が周囲を巡ってい た。後年のキリスト教建築の回廊クロイスターの前身であ る。ぺリステリウムの長大な壁面はしばしば多くの画像に 飾られた。

 決まりではないが、アトリウムからペリステリウムは、直線で見通せるようになったも のも多く、その視線の終点には謁見室タブリヌムが置かれた。そこは邸宅の所有者が訪問 者と正式に出会う社交の場であった。またアトリウムやペリステリウムの開けた空間に面 しては、家族や召使、奴隷の部屋、食堂トリクリニウム、図書室等々が配置され、ペリス テリウムに入ったものは、また家族や召使と会うこともできた。これはウイトルウイウス が述べている通りである。

nobilibus vero, qui honores magistratusque gerundo praestare debent officia civibus, faciunda sunt vestibula regalia alta, atria et peristylia amplissima, silvae ambulationesque laxiores ad decorem maiestatis perfectae; praeterea bybliothecas, pinacothecas, basilicas non dissimili modo quam publicorum operum magnificentia habeant comparatas, quod in domibus eorum saepius et publica consilia et privata iudicia arbitriaque conficiuntur. (Vitruvius, de arch. VI, 5, 2,)

( for men of rank who, from holding offices and magistracies, have social obligations to their fellow-citizens, lofty entrance courts in regal style, and most spacious atriums and peristyles, with plantations and walks of some extent in them, appropriate to their dignity. They need also libraries, picture galleries, and basilicas, finished in a style similar to that of great public buildings, since public councils as well as private law suits and hearings before arbitrators are very often held in the houses of such men.)

「実に、名誉と官職をえて市民に対する職務を執らなければならぬ貴族たちには王宮の ように高い玄関、十分な広さのアートリウムとペリリステューリウム、その偉さに似合っ てつくられた広い 林苑と遊歩路、それに加えて図書室・絵画室・公共建物の壮大さと ちがわないように造り上げられたバシリカがつくられるべきである。なぜなら、この人

挿図1 フォーヌの家平面(IV,

12,2/5)Photo©ICCD. http://

www.catalogo.beniculturali.it

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たちの邸宅ではしばしば公の会議や私的な採決あるいは仲裁がおこなわれるから。(森 田訳)」

 第二様式から第三様式にかけての時代、都市内部ではなく、周囲に広々とした田園や自 然を擁した郊外別荘の場合は、上記のように室内に広いペリステリウムを設ける必要がな く、むしろ戸外に向かって、遊歩廊を伴った広々とした庭園を設けることができた。この ような場合についてはのちに触れることとしよう。

オプロンティスの大別荘

 以上のような第二様式時代の邸宅のプラン一般を踏まえたうえで、戦後最も注目を浴び た発掘と言われる海浜に面した大別荘跡を観察してみよう。遺跡はポンペイからさらに西 に進んだトーレ・アヌンツィアータ、古代名オプロンティスにある。この大別荘はしばし ば皇帝ネロの第二夫人ポッパエアの住まいとされ、その名を冠して呼ばれることがある。

しかし、その規模といい、壁画装飾の見事さから見て、その創建の始まりはネロの時代か ら遥かに遡る紀元前40年前後と考えられている。別荘の入り口は北の山側斜面に向かっ て突出し、ひと際背の高い二本の堂々たるフルーティングを施した円柱と、入口の両端を 支える、同じく装飾された角柱に飾られている。この突出した北口正面は、その左右の一 段奥まったところに、低い屋根を伴った長いポルティコスを擁しており、あたかも大きな 鳥が羽を広げたような偉観を呈している。(挿図2)この北側正面に酷似した大別荘の景 観を描いた小絵画(ピナックス)が発掘されていることから、これがいわば当時の大別荘 建築の理想形であったことが偲ばれる。7この北側正面から入ったところは一般のファウ ケスと異なり、広々とした方形の空間となっている。この広間はさらに壁越しに南の小ペ リステリウム状の「庭園」に続いている。(壁には窓が穿たれている)「庭園」の三方の壁は、

かつては美しく装飾され、その壁に沿って灌木が植栽されていたと考えられている。8さ らにそこを抜けると、そこは恐らくタブリヌムであったと思われるもう一つの広間越しに、

広大なアトリウムを望むことが出来る。アトリウムの豪壮な壁面装飾は、この別荘の壁面

挿図2 オプロンティスの大別荘 北正面 Photo©Author

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装飾のうちでも呼び物である。

 通常であればこの北から南に向かう動線の先にペリステリウムがあるところだが、今知 られている限りでは、この先に建造物はない。恐らく往時、海浜に面していたこの大別荘は、

この例外的に豪華なアトリウムから、広々としたナポリ湾の景観を楽しむことができたで あろう。クラークの引用する地質学者G. ダ・マイオによれば、この別荘は、高さ12メー トルに及ぶ海際の断崖上に建てられていたという。9実際の屋内ペリステリウムは、その 手前の広間(おそらくタブリヌム)を左に、つまり東に折れたところにある。また広間か ら西に折れたところには、食堂をはじめ、数々の華やかに装飾された部屋が蝟集している。

アトリウムから望まれた見事な海景は、屋内ペリステリウムには期待すべくもない感動を ここに住む人や訪問者に与えたことであろう。

アトリウム壁面装飾再建の試み

 例外的に広々としたアトリウムの中軸上には大型のインプルヴィウムが置かれている が、東西の大壁は、左右対称に同じモティーフに飾られ、ほとんど鏡像を成す。しかしそ の画像構成は意外に複雑である。保存状態の良い西壁面を取り上げてみよう。(挿図3)

まず二枚の堂々とした扉が目を引く。ヘレニズム起源のこのモティーフはすでに第一様式 にも登場していたが、10第二様式に至って一層贅を凝らしたものとなった。扉パネルにはそ れぞれ一対の勝利女神が表されている。さらに扉の上のコーニスは、ナイル川風景にも似 た水辺風景を模した枠付きのピナックス(小絵画)で飾られている。

 しかしこの二枚の扉の表現には大きな違いがある。壁面の左半、扉を中心とする左右対 称構図の画面は、壁面のほとんど三分の二近い面積を占める。対して右端、つまり北のア トリウム入り口に最も近いところの装飾は、同じように扉モティーフを中心としながら、

その描写は著しく異なる。この西壁面の原状再建のためには、J. クラークの引いている建

挿図3 オプロンティス アトリウム西壁 Photo©Author

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築家T. リッデルの再建案と、ブレイズビーの再建案(挿図4)の基となった1967年の発 掘の現場写真が手掛かりとなる。11クラークによれば, 西壁上部を飾る多数の円柱の頂部 分(すべて断片化してしまっているので、現状では展示されていない)は、イオニア式の 柱頭に飾られていた。12

アトリウム西壁南寄り部分の装飾

 ここでもう一度壁面全体の構成を吟味してみよう。左手の広々とした壁面は、扉口モ ティーフを中軸とし、左右対称にそれぞれ三つの柱間を宿している。つまり合計七つの柱 間が見られるが、中央の扉を含む部分は、左右を、特別の抽象文様を施した一段と太い白 い柱で他の部分と区別されている。観者が立つ地面から扉口まで四段の踏段が(絵画で)

しつらえられていて、この部分は円柱列を支える「迫り出しの棚(プルテウス)あるいは 段(ポデイゥム)」は除かれている。さらに、中央左右の円柱とそれに隣接する細身のフルー

挿図4 オプロンティス アトリウム西壁 ブレイズビーによる再建案 (J. R. Clarke, The villa of Oplontis(2014)による)

挿図5 オプロンティス アトリウム 西壁装飾 部分 Photo: On the courtesy of Buzz Ferebee.による ティングを施された二重の柱

列の間にも、プルテウスに深 い切込みが入っている。切り 込みの先は一段と奥まってお り、その下部にはガラス製品 とも見える用途不明の容器、

上部には突き当りの壁面には 正面から、その左右のこれと 直交する壁面には側面から見 られた盾状の肖像(イマーゴ・

クリペアータ)が描かれてい る。(挿図5)

 この部分の背景は、上部の

(8)

肖像画の部分を除けば、暗い青系に彩られているが、その次の柱間の奥の壁は明るい赤に 彩られている。プルテウス上に立つ最後の円柱の背後は、青い空ともおぼしい明るい色で あるが、その下部は低い壁が、奥に向かう観者の視線を遮っている。その壁の向こう側に も細い円柱が描かれている。手前のプルテウス上の円柱とこの小円柱の間には、盾が懸け られている。画面左端、つまり南端はここで終わっているので、それと対称をなす右端も ここで終わりと見做してよかろう。

アトリウム西壁北入り口寄りの装飾

 上記の部分は堂々たる左右対称構成である。しかしその右手、つまり北方向には、まだ 画面が続いている。まず円柱一本をおいて、その向こう、やや奥まったところに第二の扉 口が見える。(挿図6)古代ローマ絵画の研究者は多く、とくにオプロンティスに言及し ない研究者はいないといっても良いくらい多いが、意外なことに、このアトリウムの東西 壁装飾の北端の部分に関する記述は、今もって非常に満足すべきものはない。13そこで改 めてこの部分の記述を試みたい。

 まず注目したいのは、この扉モティーフの向かって左端が、上から下まで手前の円柱に よって遮られて見えないことである。従って、この扉の左端と、既に見てきた壁面左の左 右相称の柱列群との関係は非常に曖昧である。さらに不思議なのは、この手前の円柱であ る。その基底部は、一番手前の地面に無造作に置かれた、背の低い三脚の鼎のようなもの で隠されているが、鼎の足の間からは、扉口に至る四段の踏段が透けて見える。すなわち、

この「謎の円柱」は、プルテウスにせよポディウムにせよ、その立つべき土台を持たず、

「宙吊り」になっている。第二様式の特色である強固な三次元の建築構造とはかけ離れた 表現である。この後に続く諸例に照らしてみるなら、この異例の扱いの目的は、「謎の円柱」

付近から右に展開している場面が、壁面左の大部分を占める左右相称画面とはまったく別 挿図 6 オプロンティス アトリウム西壁装飾 北端部分

Photo©Author

(9)

種のモデルに基づいていることを示すためである。

 このことを証する要素はいくつかある。まず、この壁面北端部分の柱列は、先に記述し たように、一応ドーリア式のオーダーに従ってはいるが、本来のドーリア式よりはるかに 細身であり、フルーティングもみられない。柱頭も基壇部分も貧弱であり、明らかにトス カーナ風である。(挿図7)とはいえ、柱頭は一応トリグリフとメトープの交代するドー リア式のアーキトレーヴを支えており、この点では伝統を踏んでいる。このアーキトレー ヴは扉モティーフ左、低い目隠し壁の向こうに見える細身の円柱の上から始まり、曲折し ながら扉モティーフの右に続いている。円柱列は、それを支えている基壇(ポディウム)

とともに、扉モティーフに向かって遠近法的に収斂しているように見える。但し、その基 壇が四本目の円柱の左側でさらに方向を変えているのは恐らく画家の誤りで、正しくは円 柱の右側で基壇の方向を変えるべきであったと思われる。

 それにしても、この基壇の紆余曲折は見るものを混乱させる。恐らく本来は左右対称構 図の中心を成していたであろう扉モティーフの目に見える部分は、一段と画面の奥に押し 込まれつつも、辛うじて正面から見られている。しかしその向かって右に並列するトスカー ナ式円柱、そのアーキトレーヴ、基壇は、正面から見たにしては柱の開きが大きく、観者 が大きく右に身を捻ってここを見たようにすら見える。最後には、上述のように、この基 壇そのものが右斜め方向に収斂するところで壁画は終わっている。この変則的な柱列の構 成は、拙論著者の推測では、オーダーの一種のアルカイスムと相俟って、柱間に掛けられ た豪奢な「マケドニア風」の盾を見せ、このアトリウム全体に、強いギリシャ嗜好を反映 させるためであったと思われる。

とりあえずの結論

 オプロンティスの大別荘アトリウム装飾の検討をひとまず閉じるにあたり、改めて確認 挿図7 オプロンティス アトリウム西壁北端部 オーダーとアーキトレーヴ

Photo©Author

(10)

しておきたいことがある。それは、第二様式の複雑な建築構成を基本とした壁面装飾が、

決して単一のモデルにのみ依存した、一貫した装飾プログラムに依っているのではないと いう事実である。壁面装飾を請け負ったフレスコ画の工人たちは、複数のモデルを依頼人 に提示し、それらを巧みに組み合わせることによって、より複雑な画像プログラムの意味 を実現したことであろう。次章に用意したボスコレアーレ出土のP. F. シニストール邸の 壁面装飾では、異なる来歴の画像組み合わせの一層興味深い例が見られるはずである。

第二章

P. F. シニストール邸の再調査

 20世紀の初め、ニューヨークのメトロポリタン美術館は、二件の大きな買い物をした。

1900年にポンペイの東北、ヴェスヴィオ火山中腹に位置するボスコレアーレとボスコト レカーゼの二つの場所から、豪華な別荘の遺跡、とくに多数の壁画が出土した。発見時の 土地の所有者は、出土したものをアメリカとフランス、その他のヨーロッパ諸国の収集家 や美術館に分けて売り渡した。 もちろんヨーロッパから遠く離れたアメリカの美術界に とっては、真正の古代ローマ絵画がニューヨークの美術館で見られることは、大きな喜び であった。それだけに、メトロポリタン美術館は、とくに戦後、壁画の修復、研究、展示 に大きな精力を費やし、拙論筆者の知るだけでも再度にわたり、修復の成果とともに展示 替えをしてきた。14

 その最近の成果は、欧米とヨーロッパ各地の美術館、修復工房、考古学者たちが大規模 な国際チームを組んで行ったボスコレアーレのP.F.シニストール邸を中心とした発掘、調 査、研究である。2007年に完結したこのプロジェクトの成果は、その年にメトロポリ タン美術館のBulletinの一冊として出版された。15そこではこれまでの考古学調査の成果を はじめ、P.ファンニウス・シニストール邸の歴史・社会学的背景、建築、装飾の技術的背 景等々が簡にして要を得た形で報告されたが、中心となる壁画に関してはベッティーナ・

バーグマンが担当している。バーグマン論文は、これまで断片的な形でヨーロッパ各地に 散在していた壁画の部分を、CGのグラフィック技術を駆使してそれぞれの原位置に嵌め 込み、ヴァーチャル画面で邸宅の内部をくまなく歩きながら鑑賞出来るようにした。これ によって、シニストール邸壁画装飾の高い芸術性と先行するヘレニズム芸術との親近性が 今まで以上にアッピールすることとなった。

 その発見以来一世紀以上にわたり、P. F. シニストール邸の壁画がもっとも強く研究者の 興味を引き付けてきたのは、ひとつは、レフカディアの「最後の審判」地下廟慕正面のよ うなヘレニズムの先行例を如実に反映するH室の人物群であり、もう一つはH寝室Mの 壁面装飾であった。(挿図 8)ここでは本論の趣旨に沿って、後者について再考してみたい。

劇場背景画とその影響

 ポンペイの第二様式と共に現れるいわゆるメガログラフィア(大絵画)の背景に、前五

(11)

世紀後半以後、大きな発展を見せた劇場の舞台背景、いわゆるscaenae fronsのあることは、

早くから言われてきた。その主たる根拠としてしばしば引き合いに出されるウイトルウイ スのde arch.V,6,9は具体的に次のように述べている。16

Genera autem sunt scaenarum tria: unum quod dicitur tragicum, alterum comicum, tertium satyricum. horum autem ornatus sunt inter se dissimili disparique ratione, quod tragicae deformantur columnis et fastigiis et signis reliquisque regalibus rebus; comicae autem aedificiorum privatorum et maenianorum habent speciem prospectusque fenestris dispositos imitatione, communium aedificiorum rationibus; satyricae vero ornantur arboribus, speluncis, montibus reliquisque agrestibus rebus in topeodis speciem deformati.

(9. There are three kinds of scenes, one called the tragic, second, the comic, third, the satyric.

Their decorations are different and unlike each other in scheme. Tragic scenes are delineated with columns, pediments, statues, and other objects suited to kings; comic scenes exhibit private dwellings, with balconies and views representing rows of windows, after the manner of ordinary dwellings; satyric scenes are decorated with trees, caverns, mountains, and other rustic objects delineated in landscape style.) (http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Vitr.5.6.9&fromdoc

=Perseus%3Atext%3A1999.02.0073)

「スカエナの種類には三つある。一は悲劇の、他は喜劇の、第三は諷刺劇のスカエナと 呼ばれるもの、これらの装飾は手法において互いに異なり別々である。悲劇のスカエナ は円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸 宅や露台の外観また一般建物の手法を模し配置された窓の情景を持ち、諷刺劇のスカエ ナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の風物で装飾される。

(森田訳)」

挿図8 ボスコレアーレ出土 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵 P. F. シニストール邸 寝室M  Photo©Author

(12)

 さらに、ウイトルウイウスの後段の一節de Archit. VII, 5,2も十分な広さのある「エクセ ドラ」(この場合は古代ローマの住宅の中心をなす広い吹き放しのアトリウムあるいは柱 廊ペリスティリウム)に面した壁面の装飾につき、以下のように述べている。

“Postea ingressi sunt, ut etiam aedificiorum figuras, columnarum et fastigiorum eminentes proiecturas imitarentur, patentibus autem locis, uti exhedris, propter amplitudines parietum scaenarum frontes tragico more aut comico seu satyrico designarent,・・・”

2. Afterwards they made such progress as to represent the forms of buildings, and of columns, and projecting and overhanging pediments; in their open rooms, such as exedrae, on account of the size, they depicted the facades of scenes in the tragic, comic, or satyric style;

(「2.その後建物の形や柱と破風の凹凸をさえ模写するようになったが、エクセドラの ような開放的な場所には、壁面が大きいので、悲劇風や喜劇風あるいは風刺劇風にスカ エナの表面(scaenarum frontes)を写し、・・・」(森田慶一訳))

 これらの箇所に則って、戦前から多くの研究者が、シニストール邸の寝室M装飾の各 画面は、それぞれに悲劇、喜劇、サテュロス劇の舞台背景を模したものであると示唆して 来た。

 しかし今日の研究史的状況にあっては、scaenae fronsとそれを模したと言われる絵画の 関係は、それほど直接的でも単純でもない。というのは、前五世紀後半以来急速に発展し た劇場の背景は、最初は木骨造りであり、それを石造の、あたかもヘレニズム時代の廟墓 の正面のように立体的に表すためには、木板のパネルに描いたものをそれに倚り掛けてい たとも考えられている。さらに、その描かれた壁面を分割している、同じく描かれたり浮 彫された柱と柱の間のスペースには、しばしばその演劇の出し物に関係のある人物が、こ れまたパネルに描かれてそこに挿入された、と考えられている.

 事実scaenae fronsは、研究者にとっては、時に捉えどころのない概念とも見られてい

る。17

劇場背景画と第二様式

 とはいえ、scaenae fronsが、二次元の絵画平面の中に、視覚的により複雑な三次元的奥 行きをもたらしたことは、重要な美術史的貢献のひとつである。さらにあらためて指摘 しておきたいのは、ヘレニズム期における絵画空間の深化の出発点に、scaenae fronsの強 固な左右相称性のあったことである。つまり、ポンペイ第二様式の成立とともに顕著と なる古代的な遠近法は、近世以降の遠近法と異なり、一点収斂ではなく、多くの場合画 面中軸の軸線に向かっての、いわゆる「ニシンの骨」式の遠近法であった。(ただし最近

Ph. Stinsonがその好論文の中で指摘したように、中軸線上に収斂すると言っても、第二

(13)

様式以降のメガログラフィアでは、画面上部と下部では観者の視点が上下に移動してい る。18) だがそれにも拘らず、とくにparascaenaeを伴った、多くの三画面構成の中央に位 置する画面では、中央の軸線の左右が厳密に左右対称を形成し、それによって画面全体の 奥行きに向かっての収斂がいっそう強調されている。

 挿図 8 のシニストール邸の寝室壁面装飾を改めてみてみよう。面積およそ縦横 4 x 6

㎡の寝室は当時の恒例として、入ったところの、より広い前室とその奥の狭いアルコーヴ の二つの空間に分かれている。前室の天井が平滑であったとされているのに対し、アルコー ヴの天井は緩やかな穹窿天井である。ベッドはこのアルコーヴに置かれていた。壁面装飾 の全体は、前室部分とアルコーヴにはっきりと分かれている。入り口に面したより広い前 室東西それぞれの壁を飾る壁画は、中央画面とその左右を固める脇場面の三画面からなる 三幅対である。(挿図 9)三画面は全体として強固な左右相称を成している。中央画面 下半分では、聖域を俗域から分かつ仕切りの壁と扉口によって、奥に向かう観者の視線は 遮られているが、仕切り壁の向こうは、樹木が豊かに繁茂し、その中から、東西の壁そ れぞれにディアーナの異なった出現の姿が金色の彫像のように現れている。19これに対し、

その左右を固める脇場面の中心は、既にオプロンティスのアトリウム装飾を論じたところ で馴染みとなっている、あの「ギリシャ風の」豪華な扉である。

 ここで注意したいのは、この扉口の中央画面寄りのところにかなりの高さの円柱があり、

その上にはおそらく有翼のアルテミスと思われる女神像が、二本の松明を手にし、「いま にも動き出しそうな」動勢で ―おそらく片脚を踏み出すようなポーズで- 円球の上 に立っている。円柱にはこれが聖柱であることを示すリボンのようなものが巻かれており、

挿図9 ボスコレアーレ出土

ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵 P. F. シニストール邸寝室M

壁面装飾 Photo©Author

挿図10ボスコレアーレ出土     ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵 P. F. シニストール邸寝室M

壁面装飾中央画面 Photo©Author

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柱の前にはまだ犠牲の火が残る円形の祭壇が置かれている。祭壇の側面には一連の踊る人 物が浮き彫りされている。ほとんど同じモティーフは、合計八点の脇の画面のすべてに見 られる。これを上出のアープレーイユスの本文と比較するなら、そこでは柱上の神像は有 翼のニーケーとされている。描かれた扉口のモティーフとの位置関係を考量するなら、シ ニストール邸の画面に描かれた柱上のアルテミス像も、明らかに閉ざされた扉口よりは観 者に近く、インプルヴィウムの四隅におかれた四体の内の二体がこのような形で視覚化さ れていると考えて良かろう。このことから、観者が立っているのは、その方形のスペース の中央であるという推測が許されよう。

次なる課題に向けて

 これまで寝室Mの壁画に関する美術史家の議論は、先述のようにそれと劇場背景画と の関係、さらにまた第二様式の最大の特徴とされる空間表現の問題に集中し、それらが表 現している内容については、付け足しのように言及されるに留まっていた。その古典的な 例が上出のバイエンであろう。彼は、多くのページを費やして、「秘儀の家」に始まる初 期第二様式の諸例を記述、分析しているが、観察は全面的に新たな空間表現の出現と展開 に充てられており、イメージの内容的考察はほとんど見当たらない。

 このような第二様式成立に関する学界の、ほとんど習慣のようになっていたアプローチ に対し、拙論とは多少異なる視点からではあるが、批判的に取り組む研究も早くから現れ

ていた。Ph.W. レーマンは、1953年の早きに、シニストール邸壁面装飾をウィトルウィウ

スが述べたような、三種類の劇場背景と読むことは難しく、とくにこの三画面形式画面の 脇画面は、むしろ当時のローマ都市の街路風景を描いたものではないか、と提案してい る20。しかし、この扉口を中心テーマとした構図が、外部から都市内部に向かう通路では なく、アトリウムという特別の空間の内部を飾る(象徴的)画面であることは、これまで の観察から疑う余地はない。その点でアープレーイユスの記述は大きな力となる。

 ここでは結論に換えて、最後の設問で拙論を閉じたい。もし脇画面についてのこのよう な解釈が正しいとするなら、レーマンも述べたように、この扉口は中央画面に描かれたア ルテミスの「神性出現」に至る通路であろうか?あえて私見を述べるならば、このような 推測は理念的には正しいかもしれない。しかし画面から推測する限り、それには大きな問 題がある。何故なら、この中央画面と脇画面とは、実は別個のモデルに依っっており、視 覚的には相容れない関係にあるからである。詳細は次の稿に譲るとして、まずはこの中央 画面を見る視点が、脇画面とは比較にならぬほど対象に迫っていることを指摘しておこう。

それには、そこに置かれた果物のモティーフの大きさを見るのが良い。(挿図 10)もし 同じモティーフが脇画面にあったならば、ほんの点にしか見えないであろう。一つの壁面 装飾の中で、その象徴的意味を強調するため、観者の視点を強制的に移動することは、既 にオプロンティスで常ならぬ表現を生むこととなっていた。(この項続く)

(15)

後注

1  H. G. Beyen, Pompejanische Wanddekoration vom zweiten bis zum vierten Stil, Bd.1, Text (Haag 1938), esp. pp.89ff,

2  E. W. Leach、The rhetoric of space : literary and artistic representations of landscape in Republican and Augustan Rome (Princeton University Press, c1988)

3  青柳正規『トリマルキオの饗宴』(中公新書)(東京 1997)は、その社会・政治史的 背景を詳細に伝えてくれるが、論の重点は饗宴そのものにあり、美術史文献として は関連個所への言及にとどまっている。最近の研究書としては、L. H. Petersen、The Freedman in Roman Art and Art History, (Cambridge 2006)

4  『黄金の驢馬』に関しては呉茂一, 国原吉埜助共訳『黄金の驢馬』(岩波文庫118-1)

(東京 2013)。とくに呉による解説が重要。アモールとプシュケーの物語に関しては pp.57~58を参照。

5  呉-国原訳『黄金の驢馬』pp.422~431. H, Denard, “Lost theatre and performance tradition in Greece and Italy, (=M. McDonald-J. M. Walton, The Cambridge Companion to Greek and Roman Theatre, (Cambridge 2007), Chapter 8), pp.151~154.

6  ポンペイとその周辺に見られる第二様式の時代の別荘建築、その装飾と機能について は、J. R. Clarke, The Houses of Roman Italy 100B. C. Ritual, Space, and Decoration, (Berkeley, Los Angels, Oxford, 1991), pp.49~53, 94~123, et passim.に詳しい。

7  B. Bergmann, JRA Supplement, (2002), p.103, fig.10.

8  Ibid., p.105.

9  J. R. Clarke, "The Villa of Oplontis: A “Born Digital" Project," In Preserving Complex Digital Objects, (Ed. J. Delve and D. Anderson), 259-272 (London 2014) esp. pp.63~64.

10  R. Ling, Roman Painting, (Cambridge 1991), pp.15~16.

11  Clarke, op.cit., pp.62~63, figs.8 and 9.

12  拙論著者の見るところ、クラークの引いている1967年の発掘写真には、確かに上部(二

階)の頂の柱列が写っているが、その柱頭がイオニア式であるかどうかは、写真から は判定できない。また、壁面右端の、同じく豪華な扉を含む部分に続く円柱列は、そ の頂きにトリグリフとメトープの交代するドリア式のエンタブラチャーを頂いている が、円柱にはフルーティングはなく、柱頭も貧弱で、ローマ式のトスカーナ式オーダー を思わせる。

13  1970年代ではあるが、それ以前の研究をよく渉猟して書かれたG.-Ch. Picard, “Origine et signification des fresques architectoniques romano-campaniennes de second style”, Revue Archeologique (1977), N. S. Fasc.2, pp.231-252, とくにpp.245~246.は公正な視点からかな り正確な記述を行っている。

14  Series of the Metropolitan Museum of Art Bulletin prior to 2007.

15  The Metropolitan Museum of Art Bulletin, Spring 2010.

16  Vuitrvius, de architecture  と そ の 英 訳 は Morris Hicky Morgan, Ed.,Vitruvius

(16)

Pollio, The Ten Books on Architecture http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc

=Perseus%3Atext%3A1999.02.0073

17  A, Rouveret, Histoire et imaginaire de la peinture ancienne, (Rome 2014), pp.174ff.

18  Ph. Stinson, “Perspective Systems in Roman Second Style Wall Painting”, AJA, 115 (2011), pp.405~26.

19  入口の間の入って左手の西壁では、アルテミスは両手に松明を掲げた左右相称の姿 で、反対側の東壁ではいわゆるDiana Lunaの姿で、左手に収穫物を載せた笊のような 物を持ち、右腕を高く伸ばして収穫物を頒布する姿で表されている。

20  Ph. W. Lehmann, Roman Wall Paintings from Boscoreale in the Metropolitan Museum of Art, (Cambridge Mass. 1953), とくにpp.90ff.

参照

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