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イデオロギー諸形態について

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(1)

イデオロギー諸形態について

p P

イデオロギー諸形態について      三九

(2)

あるととろの経済政策学を科学として確立することには︑極めて困難な内容を含むといわねばならない︒又根本的に マルクスの資本論が階級的であるとする考えは寧ろ誤りではなかろうか︒

又スターリンの一一一一口語学に関する諸論文は︑イデオロギー概念に関して︑重大な混乱をもたらした︒既に彼の誤りに

ついては種々の批判がなされているが︑尚イデオロギー諸問題について不明瞭な点が極めて多いといわざるを得ない︒

言語はイデオロギーそのものであり︑従って又明らかに上部構造である︒

又プロレタリヤ階級の存在と意識の不一致について指摘されているが︑之らのイデオロギーの諸問題について明白 ならしめる必要がある︒五口々は更めてイデオロギーの般本問題に立ち帰り︑認識の問題から出発する必要があろう︒

その為に先づイデオロギー及びイデオロギー諸形態を明らかにし︑次稿に於て社会科学の階級性批判︑スターリンの

言語論批判を取り上げよう︒

五口々はイデオロギーとは何かを先づ明確ならしめる必要がある︒イデオロギーなる言葉は︑もとイデーという言葉

と関係があり︑イデーなる一一三口葉は一プラトン哲学によって有名になったが︑その一一一一口葉のな味内容は哲学の立場によって

臭って用いられて出る︒カントは組歴史的なものとしたのに︑

へ!ゲルはそれ自身のうちに発出を合むものとして︑

すなわち歴史的なものとして把握した︒然し︑イデーはあくまでも観怠

ω

所産にすぎなかった︒一二木治は﹁イデ

l

見万は本質存ム仕の方向に於ける存ト仕論的決定を合んでいる︒しかるにそれぞれの

ι ι

論的決定にはそれぞれの人間学

が対応しており︑そして本質存在の方'川に於ける存在論的決定に一般に対応するものは︑開性の人間学であるわ一とし︑

イデー的見方に対して︑イデオロギー的見方︑即ち︑現実作花の万向に於ける存花論的決定を対置し︑イデオロギー

(3)

的見万の成立する為には︑いわゆる曜史的意議の発達がなければならないと指摘する︒

しかし︑イデオロギー的見方についても多くの著書︑論文があり︑尚種々の混乱がつきまとっている︒こ︑に一つ

のイデオロギー概念を明らかにする為には︑寧ろ之らの諸論に立ち入らない万が賢明だと判断する︒

吾々は先ずマルクスのイデオロギー規定を理解する必.安がある︒マルクスはドイツ・イギオロギーに於て次の如︿ ﹁(イデオロギー論)﹂

﹁天上から地上に降りて来るドイツ哲学とは全然反対に︑乙﹀では地上から天上へ昇られる︒換一一一目すれば︑人聞が

語り︑想像し︑表象するところのものから出発されて︑或いはまた訂られたる︑思惟されたる︑想像されたる︑表象 されたる人聞から出発されて︑それから肉体をもった人間に到達するのでなく︑現実に活動している人間から出発さ れて︑彼らの現実的な生活過程からして︑この生活過程のイデオロギー的反射と反悼の発展もまた叙述されるのであ る︒人聞の頭脳に於ける仮幻的構成物もまた︑彼らの物質的な︑経験的に確かめ得る︑そして物質的渚前提に結びつ けられている生活過程の必然的な補足物である︒このようにして︑道徳︑宗教︑形似上学︑及びその他のイデオロギ

ー︑並びに︑それらに照応する諸々の意識形態は︑もはや独立性の外観を保持しない︒それらのものは︑なんら‑歴史

を持たない︒それらのものは何ら発展もない︒却って彼らの物質的性産と彼らの物質的交通とを発展せしめつつある

このような︑彼らの現実と共に︑又彼ら

ω

思惟と彼らの思惟の生産物と一緒に変化するのである︒芯識が生 活を規定するのでなく︑却って生活が意識を規定する︒第一の見方に於ては︑ひとは生ける個人とみられた意識から

ひとは現実的な生ける個人そのものから出発し︑そしてな識を 第二の現実の生活に適応せる財に於ては︑

単に彼らの意識としてみるのであるよ 即ち︑イデオロギーとは物質的諸前提に結びつけられたところの生活過程の志識への反映として抱握されており︑

イデオロギー諸形態について

(4)

人間の存在の反映としての認識が主体化されたものであり︑それは意識形態乃至は運動として現実化する︒マルクス

はあらゆる社会的意識形態をイデオロギーの現実形態として極めて一般的な︑広い概念に於て把握している︒即ち︑

意識の仮幻的構成物さえも︑物質的生活過程の反映として把握されていることを注意すべきである︒

且つ︑五日々が気付くもう一つの事は︑拙論(その一)に於て指摘せる如きマルクスの暗示的表現︑即ち一出発点は何よ

りも先づ︑自然的規定性││﹂という意味が︑イデオロギー概念の中にも含まれている事である︒﹁フォイエルバッハ﹂

に対する批判はフランス︑イデオロジストの把握した﹁人間学﹂を︑即ち︑人聞の自然的存在性を完全に否定したも

のではない︒マルクスに於ては︑人間の自然的存在も︑歴史的に発展し︑且つ人間が社会的存在としてしか現実化し

得ないという意味に於て︑人間の社会的イデオロギーの責要性を指摘したのである︒

マルクスはこの二つの意識の存在を歴史的に説明する︒﹁われわれは︑根源的な歴史的関係の四つの契機︑四つの

面をすでに考察したのちに︑いまやはじめて︑人間は意識をもまたもっているという乙とを見出す︒﹂﹁人間の意識は︑

はじめからすでに一つの社会的産物であるし︑とにかくも人聞が存在しているかぎりは︑いつまでも社会的産物であ

る︒乙の意識は︑もちろん最初は︑もっとも近くの感覚的環境についての意識と︑意識化しつつある個人のそとにあ

る人や物との局限された関連についての意識とにすぎない︒これは同時にまた︑自然についての意識である︒:;:こ

の自然についての意識は純粋に動物的なものである︒﹂

﹁この意識端緒は︑その段階の社会生活そのものと同じように動物的なものである︒それはたんなる畜群的意識であ

る︒とのばあいに人聞が羊と区別されるのは︑ただ人聞においては彼の意識が本能のかわりをしている︒あるいは彼の

本能が意識されたものであるという乙とだけによるのである︒乙の羊群的意識あるいは種族的意識は︑生産力の増大と

欲望の増加︑およびこの両者の基礎となっている人口の増加とによって︑さらに発展し完成するということになる︒﹂

(5)

乙の乙とは人聞社会が発展して︑社会的意識が発展したからといって︑自然に対する意識がなくなるということを

意味したものではない︒このことは根源的な歴史的関係の四つの契機と同様に解することが出来︑﹁とにかく社会的

活動の乙の三つの面は三つの異った段階として把握されるべきではなくて︑歴史の端緒以来︑最初の人間以来︑同時

に存在しつづけてきて︑今日も尚歴史のなかで通用している三つの面として把握さるべきであるよという思想と同一

の立場に立つものである︒(拙稿その一参照)

即ち︑既に明らかにされた知く︑人間は自然的存在である乙とは︑人間には自然的存在によって規定されるところ

ω

意識と︑社会的存在によって規定されると乙ろの意識との二つの意識を持つζとを意味する︒人間の生産過程が︑

人間と自然との質量代謝にすぎないところの労働過程であると同時に︑社会的な生産関係を必然的に含むものである

乙とは︑人聞の自然に対する認識は︑同時に社会関係としての意識を内包している事を意味する︒人聞が存在の二つ

の矛盾する両側面の統一であるように︑人間の意識も︑相互に矛盾する自然的意識と社会的意識との統一として把握

一般にはイデオロギーを単に人間の意識の一側面にすぎないところの社会的意識を意味するが︑五口々は自然

的意識と社会的意識との統一として現実化し︑動揺し︑運動する意識をイデオロギーとして把握しよう︒

先づ︑自然的存在によって規定される意識とは何かといえば︑自然との質量代謝の過程を行うととろの生きた人間

としての感情感覚に基くものであり︑人間一般に普遍的に内在しているところの意識である︒叩けば﹁痛く﹂︑食事

をとらなければ﹁ひもじい﹂という感覚は︑﹁食事をとらなければひもじい﹂という意識を生む︒

それは人聞の五感を通じて吾々が意識するものである︒本来人聞は欲望の最大充足を求める限り︑人間個体としては

内!

(6)

本能的︑従って又利己的である︒かかる感性的認識は現在五口々の家庭の幼児の生活態度に見られるものであり︑叉そ

こに原始的人聞の生活意識を見ることが出来る︒しかし︑かかる感性的認識も︑人間個人としては幼児が大人に生長

する過程に於ける経験の噌大によって︑又人類としては︑人間社会の杯史的発展に伴って︑欲望の明大と共に発展す

かかる人聞の認識過程は単なる認識対象に対する認識の明大のみではなくして︑日然の中の一部分としての認識主

体そのものの認識︑即ち︑人聞の

' H

己忌識の発展を伴うのである︒幼児の成育過程が本能的衝動から漸次自己な識

ω

発展として把握されるように︑人聞の歴史は又一面白己意識の発展の過程である︒

又人間倫理は社会関係である︒一般に倫理は歴史的な︑社会的なものとして︑犬々の生産様式に規定されたものと

して把握される︒然し乍ら︑吾々が気づくことは︑社会倫理の根底には︑人間個体の生在︑及びその欲望の最大充足

の原則が貫かれていることである︒人聞が集団として何らかの社会形態に於て生活しなければならないことから︑社

会的倫理が発生するが︑人間個体にとっては本来︑個体の生十仔及びその欲望の最大充足が︑最高の善でなければなら

ない︒かかる最高の善を集団に於て実現する場合に︑必然的にその人間集団個々人にとって社会的倫理の意識が発性

する︒かくの如き社会的倫理意識は人間側々人の自己怠識の相互作用によって人間性として発展する︒

即ち︑自己の経験によって︑自ら快楽と思うことは︑他の人にとっても快楽であり︑白己の古痛は他人にとっても

文苦痛であることを知る︒自らの生活水準の向上への希望は︑他人にとっても同様に希望であることは容易に認識す

る乙とが出来るだろう︒個人としての人間は︑集団としての人間の社会秩序維持の為の倫理というものを必要とすれ

ば︑自己の欲望の充足︑乃至幸福を安全に維持しうる事であり︑それが人間相互に凡て保証される場合である︒更に

認識︑従って文自己意識の発展に伴って︑自己の労働の支出に対する欲望充足の増大という報酬は︑他人の労働の支

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出に対する欲望の充足の増大と同じ割合でなければならないとする人間平等の意識が発生する︒五口々は之らを人間

ω

日然的存在から規定されて来る本質的倫理として担握することは観念的主張ではなく︑人間が暦史の発展と共に︑叉

人間個体の認識の発展と共に獲得されて来たところの人間性であって︑民族の差異を越え︑附級を越えて︑吏に或る

限定された意味に於ては歴史を貫いて︑五日々人聞が消花的に持っていると乙ろの意識なのである︒五日々が現実の社会

に於て階級的矛盾を意識するのは︑資本家と労働者という社会的な地位から直岐に発生するのではなくして︑そ

ω

作 一 産に於ける役割とそれぞれの収入から得られると乙ろの現実の生活を通して︑即ち︑人間の臼然的感覚を時介して初 めて︑社会的矛盾が現実に意識として把握されるのであり︑自然的倫理としての人間性という消

ι

的立識を内布きせ

ているからに他ならないのである︒

勿論︑人間の且然的倫理は︑人間の認識の発展につれ︑社会の発展につれて︑人間性の発展として漸次獲得される

知のものであるω

又人間個々人にとって人間性の獲得の程度の去はあるとしても︑本質的に︑普出的立識として発出する吋能性をも

つものである︒それは現実的には︑自己にとっては基本的人権の主張となり︑他人に対してヒュ

i

われる︒勿論それはへ

l

ゲル的な観念としてのイデーではない︒又三木治

ω

いう虚偽のイデオロギー

ω

如く︑非現実 的︑非実践的なものでもない︒それは一定の社会に於ては︑可能性として消

ι

的なものにすぎないかも知れないが︑

又人間個々人にとって人間性の獲得の相異はあるとしても︑現実の社会的イデオロギー形態としての倫聞を︑本質的

に規制し︑常に批判するところのものであり︑社会に於ても︑個人に於ても︑

うるものなのである︒ 一時的︑部分的ではあっても現実化し

l

チはエンゲルスを引用して次の如く問題提起を行なう︒

L

(8)

﹁歴史の本質は意識された企図︑意欲された目標なしには︑なにととも発生しない︒﹂然し乍ら︑﹁暦山人の中で働い

ている多くの個々の意志は︑たいてい︑意欲された結果とはまったくちがった結果をもたらすものである︒したがっ

て︑個々の意志の動機は︑いずれも同じく︑そこに起った結果の全体にたいしては副次的な意義しかもたない︒﹂から

である︒﹁すなわち︑乙の動機のうしろには︑さらにどのような原動力があるのか︒行為するひとびとの頭脳のなか

で︑このような動機にかわるのは︑どのような歴史的原因であるのか︒﹂しかも︑﹁消民族全体︑さらにその諸階級全

体をうとかし︑そしてこれを大きな歴史的な変動をつらぬいておこなわれる持続的な行動にまで導くような﹂原動力

そのものが規定されねばならないと︒(未来社﹁階級意識論﹂七頁)

彼はその解答として﹁階級意識論﹂を展開する︒科学的マルクス主義の本質として︑歴史の現実的な原動力がその

原動力についての人間の(心理学的な)意識から独立しており(八頁)︑階級志識が意識され得る段階にはいるのは︑

身分構造がなくなり︑純経済的に組織された資本主義になってからである︒(一二九頁)而して︑附級全体の歴史的に

意味ある行為は階級意識から規定されるのであって︑個々人の思惟によって規定されるものではないョ従って︑階級

意識とは︑同時に︑各人の社会的︑歴史的な経済状態についての階級的に規定される無意識なのであると︒乙の場合

無意識とは虚偽の意識(ルカ

l

チ的)を意味している︒而して︑科学的認識の発展に伴って︑プロレタリヤは正しい

階級意識に日醒めることによって︑歴史的変革の役割を果すことが出来ると説明する︒

而し乍ら︑ルカiチの説明は納得出来ない部分が残る︒即ち︑資本主義社会以前の社会形態の変革に際しては︑

歴史的に行動する人間の動因のうしろにある真の原動力というものは純粋に意識されえなかったのである︒乙の原動

力はほんとうの動機のうしろに︑歴史的発展の盲目的な力としてかくれたままであった︒﹂(三八頁)ろうか︒例えば

﹁農民の場合にはそのイデオロギー的形態はつねに︑ひとつの借物にすぎない﹂から︑﹁こうした農民大衆を一般に

(9)

統一的に運動させるためには︑戦争とか都市の革命などのような外的な変革が必要なのである︒﹂(四四頁)と云う説

明と同様に︑前資本主義社会の変革は︑利害関係者の斗争等によって惹起された百目的な便乗の結果にすぎず︑漸次

発展する経済的諸関係の反映としての宿命的なものにすぎなかったろうか︒ルカ

l

チの階級意識論によっては︑前資

本主義社会変革の原動力は説明されないという他はない︒又︑階級社会は利害の対立を前提としている︒然し︑利害

の対立が存在するから︑社会革命が起ることにはなり得ない︒利害の対立の激化が客体的︑主体的な一定の条件を充

たした時︑初めて社会革命が発生するのである︒

イデオロギーが物質的力に転化しうるのは︑人間の自然的存在によって規定される意識を根底に持つからで

ある︒もし︑資本主義社会に於て︑労資聞の経済斗争が労働者の賃銀の上昇をひき起し︑資本家の独占利潤がそれを

可能ならしめ︑労働者と農民の所得隔差が増大し︑労働者階級の二重構造を深めるならば︑社会革命は農民からも発

生しうるにろう︒革命は常にしいたげられた階層から惹起されるのである︒

然し乍ら︑一般に人間の自然的存在によって規定される意識は︑決してそのままでは現実化しない︒それは︑社会

的意識に媒介されて表現され︑又社会的意識を穏々規定するものとして︑内在的に包摂された形態で存在する︒

三︑社会的意識

然らば︑人聞の杜会的存在によって規定される意識とは如何なる内科を持っかを検討しよう︒

人類はその初めから類的実存であった︒而も︑類的な存在は常に社会的な何らかの形式を持たねばならない︒従っ

て︑人類は社会的・慌史的に規定されたところの社会的存在であった︒即ち︑五口々の意識は吾々が存在する社会によ

って規定されると乙ろの社会的意識を形成する︒而らば︑人間の社会的意識は如何なる内群をもつか︒

(10)

Y¥ 

先づ吾々の意識はその所属する世界の︑乃至は国家の社会形態によって規定される︒もし︑百々が片山する社会が

資本主義的階級社会であるならば︑資本主義一般の意識と︑吾々の所属する附級によって規定3れるだろう

c

尚細か

く分析するならば︑五日々が公務員であるか︑会社員であるか︑農民であるか︑という円己の社会的地杭によって規定

されるにろう︒

更に︑五日々の社会的意識は自らの過去が辿って米たところの生日経験によって規冗されるにろう従勺て︑たとえ

同じ会社員であったとしても︑夫々の社会的意識は︑夫々の過去の生活経験によって大きく影科されている何である二

即ち︑各個人の意識は現在自らの属する社会的地位によって規定されているとは限らず︑逆に彼の社会的地作と矛市

した意識も持ちうるのである︒

然し乍ら︑意識に対して尚一層主要な役割を果すものがあるョ階級社会に於ては︑経済的に支配する階級がイデオ

ロギーの生産手段を独占する乙とによって︑大衆の意識に影響を与える︒例えば︑現代資本主義社会に於ては︑資本

家階級は︑新聞・雑誌等の印刷物︑ラジオ・テレビ等の広報機関︑宣伝機関等の独占的所有によって︑又経済力によ

るイデオロギーの内・容に対する支配によって︑日常生活の凡ゆる面に於て大衆の意識に働きかける︒即ち︑支配附級

の希望するイデオロギーが︑社会のイデオロギーに影掛けを及ぼし︑支配する︒社会主義社会に於ても︑同氏側々人

ω

牡会的意識も︑かかる政治的指導者のデマゴギーによって強く影軒されることには変りはたい︒

乙乙で五日々が注意しなければならないζとがある︒資本主義が独占段階に入るととによって︑帝国主義が初まる︒

l

一一ンは帝国主義を寄生的な︑または関朽しつつある資本主義と規定して︑その内

‑ W什を五つ挙げる︒第一に山占に

よる生産力の停滞︑腐朽︑第二︑金利生活者の増大︑第三︑資本輸出による寄生性︑第四︑政治的反動︑第五︑舶は凶

地支配︒然し乍ら︑かかる寄生化︑腐朽化の発生する経済的根本原因は︑生産力発展の停滞であり︑附級閃係の固定

(11)

化である︒このことはレ

i

ニンが指摘したように︑資本家乃至は・支配者階級のみに反映されるものではなく︑労働者

l

ニンは乙の意味でカウツキーを批判し︑労働運動を潟敗させる労働者階級の一部を指摘の意識にも反映される︒

このことは︑帝国主義段階の宵朽化した土台から規定される労働者の意識は︑やはり魔朽化した怠識に

一万では立身出世主義がより醜い形で横行し︑同僚を蹴落してでも支配者階級の恩忠すぎないのではないか︒即ち︑

にあづかろうとし︑他方では将来に対する希望を失って無為徒食に安んじ︑更には詐欺横領︑暴力団への転訴をもた

らす︒社会的存在から規定される労働者階級の意識は︑やはりかかる社会的意識にすぎないのであって︑多くのマル

クス主義者が云うように︑労働者階級に生産的な︑従って健全な人間性豊かな意識も︑社会主義的意識も発生しうる

理論的根拠は存在しないのである︒

五口々は次に人聞の自然的在在から規定される意識と社会的在在から規定される意識との両者の関係を明らかならし

める必要がある︒

四︑社会的イデオロギー

人聞が自然的存在であると同時に社会的存在であり︑それら二側面は相互に矛盾の関係にあり︑相互依存と相互排

反の性格をもっ︒人聞はこの存在の矛盾したこ側面から︑矛盾した意識の二側面をもっ︒人は自分を一個の人間であ

り︑男性であると意識すると同時に︑自分を労働者であり︑月給取りであると意識する︒人間はこの二つの意識に動

揺し︑悩

b

在在である︒彼が労働者として満足しているか否かは︑乙の矛盾が相互排反的であるか︑相互依存的であ

るかによって決定される︒

男女の関係に於ても同様である︒社会関係は男女家族の関係に於て初源的に現われる︒彼が愛すると共に︑彼女も

(12)

彼を愛してくれる時︑彼は人間男性としての自然的要求と︑彼女との関係という社会的欲望とを一致させる乙とが出

来る︒その時彼は幸福だと感ずる︒だが彼が彼女を愛したいのに︑彼女が受け入れてくれないとすれば︑彼の自然的

要求は︑彼の社会的現実と排反する矛盾の関係に立たざるを得ない︒彼の幸福も悲しみも又︑彼が社会人である限り

は︑決して主観的なものだけではあり得ない︒彼の心理は︑彼の二重の存在性から規定される二つの意識の選択︑統

一としての動きであり︑迷いである︒人はその苦しみが激しい時︑人聞社会から逃避し︑僧門に入り︑或いは自然の

山に帰り︑人間の自己疎外から一時的にしろ解放されようとし︑或いは飲酒によって現実をまぎらわす乙とになる︒

又吾々は認識主体の存在が︑人間主体の意識の二面性として現われると同様に︑認識客体もまた社会的存在である

限りは︑その存在の二面性によって︑五口々に認識の二面性を与える︒而色︑この主体と客体の認識の二面性は夫々相

応する関係にある︒

商品が使用価値と価値との統一物であるように︑五口々の意識は︑同じ物を或る時は使用価値として意識し︑或る時

は価値として意識する︒一キログラムの牛肉を︑肉屋は千円と考えるが︑五口々は鍋の中の肉をうまいと思って食う︒

凡ての存在が社会的存在である限り︑即ち︑独り人聞にとどまらず︑人聞が作り出すもの︑人聞が働きかけるもの

凡て︑二つの側面を以って吾々の意識に対立する︒

r

五口々はその二つの側面を客観的に比較することは出来ないが︑何れを主視し︑何れを選ぶかということが出来

るにすぎない︒人が山を天然記念物として保存したいと考えるか︑その山の社会的価値を荒視してダムを建設するか

は︑人々が選摂することである︒人は自らの社会的関係に於て︑物を価値とみたり︑使用価値とみたりするにすぎな

い︒彼が物を価値として考えようと︑使用価値として考えようと︑彼が何れの判断をするかは︑彼の無意識的な選択

が働いている︒そしてそれは︑価値と使用価値との相互関聯を日らの欲望という立場から︑一万では生きものとして

(13)

の人間の感覚で︑他方では社会人としての人間の頭脳で判断するのである︒

ここに吾々は一つの事実に気付く︒乙の人間の二つの意識は異った性格をもっているということである︒毛沢東の

用語によるならば︑日然的存在によって規定される認識主体の意識は主として感性的認識に基く︒人聞の五感は個人

的差別はそれ程大きくはない︒人は誰でも冬には果︑く︑夏は暑いと感じ︑人聞を見れば人間であると認識する︒ζ

事は認識客体が自然的存在をそのまま反映させるからである︒このことは次の説明で尚明らかになる︒自然的存在に

よって規定される意識に対して︑社会的存在によって規定される認識主体の意識は︑それぞれ多種多様であり︑又そ

の認識程度の相異は極めて大きい︒人間は自分の置かれた社会的立場から認識する︒各々その社会的立場が呉るよう

に︑その認識視角の相異によって社会的意識は異るし︑又彼らは夫々の臭った立場からしか社会的実践は行うことは

出来ない︒農民の社会的認識視角や実践は︑資本家のそれと異るがために︑農民の社会的意識と資本家のそれとは異

るのである︒又その自らの地位の社会的認識は︑その実践と科学的判断の相異によって異る︒人々は一般に無意識的

に社会的意識を規定されがちである︒

更に吾々は社会的認識客体について考えてみよう︒街頭を歩く一人の男を見ても︑五口々は彼が会社の社長なのか︑労働

者なのか︑商人であるかを判断することは難かしいが︑人々は彼が一個の男性だという乙とは誰でも容易に判断するζ

とが出来る︒それは主体の感性的認識で事足りるからである︒然し︑彼についての社会的認識は科学的探求と実践によ

って︑その認識程度の相異は大である︒彼が自分を社長であると称しても︑社長でない場合もある︒彼の現実の社会的

活動を調査する乙とによって︑更には彼と直接的な社会的実践の関係に立つことによって︑彼の社会的地校に対する認

識主体の社会的意識は高められる︒商品を使用価値として見るととは簡単であっても︑その商品の生産が関係している

と乙ろの社会的関係の正しい認識はそれ程容易なものではない︒而るが故にこそ︑人々は商品の社会的価値を価格とし

イデオロギー諸形態について

(14)

て判断するにとどまり︑商品の物神性によって支配されるのである︒例えば︑労働者や農民が︑その社会的存在を正 しく反映した意識を持ち難い理由はそこにあるのであり︑社会的意識の啓蒙活動の必要な所以もそこにあるのである︒

以上の如︑き︑人間の意識の二側面は統一せられて︑彼のイデオロギーを形成し︑更に人々のイデオロギーはその社

会のイデオロギー諸形態を形成する︒

人間個人については︑彼らの意識の二側面のからみ合いに於て︑夫々異ったイデオロギーを持つことが出来る︒そ れは彼の人生に於ける経験︑見聞︑知識︑認識態度その他様々な要素によって彼の人格が形成せられ︑人間的には極

めて善良であっても︑社会的失格者であったり︑その逆の場合もあり得ょう︒又彼の意識の一部分が拡大せられて︑

仮幻的なイデオロギーの所有者たる場合も現われ得るだろう︒その意味では観念論的イデーもイデオロギーに他なら ないのである︒人々はその生活に満足しているか︑社会と妥協するか︑諦感するか︑願望するか等々によって夫々の

イデオロギーをもっ︒

資本主義に於ける労働者がその社会的矛盾の激化に伴って何らかの脱出を計ろうとする時︑二つの方向を見出すこ

とが出来る︒一つは彼の社会的意識側面に根︑ざすところの非協力的な非社会的イデオロギーであり︑徹底した個人主

義に基く︑立身出世主義︑詐欺︑横領︑暴力等であり︑他は︑彼の円然的意識側面に根ざすと乙ろの人間性豊かな︑

従って反社会的イデオロギーであり︑寧ろ現存の社会的土台から規定された社会的意識とは無縁なものとなる︒人々は

基本的人権として意識するところの人間性の最低限界意識を無視したイデオロギーは持つ需はないからである︒かか る窮地に追い込められた人間の抱くイデオロギーは︑非社会的イデオロギーか︑反社会的イデオロギーであり︑彼ら

(15)

が何れの意識を抱くかは︑彼の持つ人間性によって規定されるものであり︑非社会的穴場と︑反社会的しり場とは全く

正反対のものであり乍らも︑極めて接近した︑従って容易に相互に転化しうる性格を持つものである︒

然的意識は社会的意識に媒介されて現実化され︑社会的意識は自然的意識に同介されて体得きれるが︑この際には更

に革命的反社会的イデオロギーとして質的転化が行われる︒大衆のイデオロギーが物質的力に転化し付るのは︑即ち︑

犬々異ったイデオロギー︑例えば︑農民と労働者のそれが︑最も一般的︑日然的意識︑即ち人間れを叫介して統一3 一般的には円 れることによって︑反社会的イデオロギーに転化するのであるD

社会的意識は自然的意識を通じて体得され︑逆に臼然的意識は社会的意識を通じて現実化されるものでめるが︑純

粋な個人的意識は社会的意識によって埋没され︑社会的意識は社会的土台から︑社会の歴史的発展段附から規定され

るのである︒個人の社会的イデオロギーの矛盾は︑個人と社会の矛盾として感得され︑杜会の発展段附に合致しない

個人的願望(自然的意識による願望に基く)は必ずしも実現し得ないのである︒

即ち人間の意識の二側面が︑社会的イデオロギー諸形態に如何なる関係に於て現実化するかを考察する必要があろ

予 つ ノ

人間の意識の二側面は︑統一せられて現実のイデオロギー諸形態を形成する︒従って︑意識諸形態が社会的性格の

強いものであればある程︑人間の意識の社会的側面が強く表現され︑逆に︑社会的性格の弱いものであればある程︑

人間の意識の自然的側面が強く表現されるどろう︒前者を代表するものとして︑政治︑法作等があり︑後者を代表す

るものとして︑数学や自然科学等があり︑その中聞に夫々のニュアンスを以って︑宗教︑倫理︑芸術︑言語等のイデ

オロギ

l

諸形態が横たわるだろう︒それらの性格の相異は︑それらイデオロギー諸形態の形成の動機︑目的等によっ

て異なり︑又歴史の発展に伴って或程度の内容の変化が現われる︒一般に科学の発達︑認識の発達に伴って︑人間性

(16)

の増大に伴い︑人類の時代を貫き︑地域差を越えたところの普遍妥当性を持つ価値や︑真理が獲得されてゆく︒それ

は或いは数学であり︑自然科学の発展であり︑人間の倫理も又合まれる︑たろう︒然し乍ら︑未聞の時代に於ては自然

科学的知識や︑最も普遍的妥当性を持つ数学でさえ︑政治的な︑附級的な性格が強かったのである︒現代に於ても︑

数学はその応用面に於て︑例えば統計等に於て階級的性格を以って現われる︒その芯味でイデオロギー沼形態は何ら

かの意味で社会的性格を反映している︒

しかし他面︑社会的性格の強いイデオロギー形態としての政治︑法律等に於ても︑集団の秩序維持という一般的役

:

割や人間性を全く無視した存在ではあり得ない︒如何なるイデオロギー形態に於ても︑社会が人間の集団である限り

は︑人間の基本的欲望に前提をおくところの普遍的な価値をも同時に内在せしめていることは事実である︒た

r

なる内容を持っか︑又は如何なる階級に重点があるかという相異があるのである︒かかる普川一的価値によらないイデ

オロギ

l

諸形態は︑如何なる社会に於ても永続きしうるものではない︒

且つて未開の社会に於ては︑政治も︑宗教も︑天文学も︑自然科学も︑数学も︑倫理も︑芸術も一体であった︒人

類の認識の発展につれて︑夫々の普遍的価値に従って分化し︑独立して来る︒普遍的価値は例えば︑真︑善︑主︿等に

よって表現される︒宗教は人間の白熱に対する不完全性︑自然の無限に対する有限性を満すものとして︑その神秘的

ベールによって︑人々の心を把握して来た︒と同時にそれは人間的倫理をその根幹にしなければならなかった事も事

突である︒もし人間の倫理を根幹としない宗教があったとしても︑それは朕史の流れに速かに消え去る外はなかったわ

宗教の神秘牲が科学の発達によって明るみに出

3れると共に︑倫理は宗教から独立して把握ぎれて来る︒キリスト教

が他の宗教に比して永い生命を維持し得て居る理由の一つは︑キリストの教えそのものが︑人間愛という人間性の最

高の倫理を根幹としていたからに他ならない︒カトリックが長崎に於ける原子爆弾の投下を批判しなかったり︑ベト

(17)

ナムのように残酷な人民の抑圧を行うならば︑それは最早キリスト教ではないだろう︒

資本主義社会に於ける資本家階級のデマゴギーが︑デマゴギーたり得ることは︑かかる普遍的価値を利用している

からに他ならない︒資本主義に対する旺歌には︑人聞の自由︑経済活動に於ける自由︑欲望充足の自由宇をその旗印

の一つに掲げる︒従って︑かかるデマゴギーの偽慢性を暴露することの困難もそこに横たっているのである︒

資本主義社会に於ては︑人間が社会的存在としてしか現実化きれない為に︑そ乙に於ては︑商品生産の諭朗が貫

L J

人間性は潜在的な可能性としてその底に横たわる︒然し︑商品の論理は資本主義社会を貫く特殊法則にすぎない︒仲情

きた自然的存在としての人間の歴史が︑それら社会的形態の発展の内容を構成して来た︒それら科学的知識や人間性

は発展しながらも尚且つ︑普遍妥当性を持つ法則の可能性なのである︒

従って︑現実の社会的イデオロギー形態としての倫理は社会的︑歴史的な規定を受けて現われる︒倫理は経済体制

の相異によって異り︑歴史の発展と共に変化する︒階級杜会に於ては支配階級のイデオロギーを.反映した倫班が通用

し︑本来社会人の内的規制であるべきものが︑社会的︑階級的圧力によって通用させられる︒﹁君に忠﹂とは封建社

会の倫理であったし︑逆に資本主義社会では法律にふれない行為は悪ではないと考えられる︒法律は労働者が失職に

よって︑盗むか︑自殺するしか生きる道がないとしても︑資本家のかん首の合理性と︑私有財産の不可侵を支持し︑

差押えの正当牲を暴力によって強行する︒社会の規模が大きくなるに従い︑又資本主義社会の商品制生産の拡大が行

われるにつれて︑社会はいわゆるマルクスの物神性が十交配する︒倫理︑道徳は︑社会の片隅に生きながらえて︑社会

の秩序は主として︑権力を背景とした法律によって維持される乙ととなる︒社会のイデオロギーとしての倫理は︑自

己の生命に危険がある場合︑自己の利害に関係する場合に於てしか︑市も強制的な権力によってしか守られないこと

(18)

吾々は社会のイデオロギー活動︑乃至諸形態に対して︑種々の価値判断を行う︒資本主義的であるとか︑階級的で あるとか︒吾々生きた人聞は未来に希望を託する限り価値判断をしなければならないし︑価航判断の般東は人間の自

己放棄に他ならない︒

之ら各人の意識に対して︑日己の階級に有利に社会を動かす為に種々のイデオロギー活動が行われ︑イデオロギー

相互間の斗争が発生する︒

例えば資本主義社会に於ては︑資本家階級はイデオロギーの生産手段の独占的所有によって︑彼らに好都合なイデ オロギーが宣伝される乙とによって︑一般にそれが社会の支配的イデオロギーに転化する︒

然し乍ら︑か﹀るイデオロギーは支配階級のイデオロギーとは必ずしも一致しない︒社会内の矛府が激化する可能 性があればある程︑大衆欺臓の為に行うイデオロギー活動︑資本主義発展の永遠性が唱えられ︑又一面ではテレビ等 を通じて一億総白痴化の愚民政策が必要となるのであって︑支配階級が資本主義の危機志識を抱いているからに他な

又資本主義が発展することによって労働者の勢力が明大し︑有力な団体を結集しうることになると︑彼らのイデオ

l

活動も或程度の成果を獲得しうるようになり︑彼らも自らの階級の為のデマゴギーを飛ばすことも起るだろうっ 即ち︑階級社会に於てはイデオロギーは附級れを帯びて現われ︑従ってそれらは︑現実を正しく反映したものでは なく︑誇張され︑意識的に生産されたと乙ろの政偽のイデオロギーである

υ

イデオロギーとして軽蔑された意味で一般に理解される場合がある︒

(19)

ルカ!チは虚偽の意識の概念を社会の具体的客観的実在を反映しないものとして把握するョこの場合具体性とは口パ 休的な総体性としての社会であって︑社会の発展の一定の高さに於げる生産秩序と︑それによって影響きれる社会の

階級組織を指す︒

従って︑虚偽の意識とは︑

(

l

チ﹁階級意識論﹂)

一面的︑部分的な社会の認識であって︑ブルジョワジーのな識は虚偽の広識として︑阪叱

史的︑客観的に限定されるに対して︑プロレタリヤの意識に於てのみ社会の本質の正しい洞察が可能であるとし︑

彼らの場合には虚偽の意識の中にさえ︑あるいは彼らが客観的にみて誤っている場合できえ正しいも

ω

'

んでいるのである︒﹂とする︒ブルジヨワ意識が虚偽であって︑プロレタリヤ意識が正当であるとする納引出来る主張

一面的︑部分的社会の認識であっても︑それが正しい認識方法によるものであるたら 一面的︑部分的である乙とは︑その真理が相対的なものであるにすぎないとしても︑ の根拠はそこには見出せない︒

ば︑それは一つの真理である︒

一面的︑部分的な︑特殊的な︑従って相対的真理にすぎないものを全面的な︑総体的 一般的な真理の如く主張することは虚偽のイデオロギーということが出来る

ο

従って︑虚偽のイデオロギーとは︑ 虚偽のイデオロギーではない︒

誇張され︑或いは意識的に生産され︑流布されるところのイデオロギーであろうと︑無意識的に︑従って認識方法に 於て誤ったイデオロギーであろうと︑現実を正しく反映していないイデオロギーを指すのであって︑意識的であるか︑

無意識的であるかは問題外である︒た

Y

特定の目的の為に作為せられたイデオロギー活動をデマゴギー即ち︑イデオ

ロギ!としてのイデオロギーと呼ぶのである︒

現実を正しく認識したものであるかどうかは︑唯物弁証法的分析によっているかどうかによって決定されるピろうの

ブルジヨワジ

l

の認識が歴史的︑相対的なものにすぎないという志味ではプロレタリアートの認識に於ても何ら変る

イデオロギー諸形態について

← 子L

(20)

例えば︑虚偽のイデオロギー概念を﹁個人のな識的虚一五ゃ︑形式︑論理的な虚偽﹂と解すべきではな︿︑

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現実か

らの遊離という内容的な虚偽﹂と解すべきであるといわれるが︑(城塚登氏﹁思惣﹂一九五八年一月号)﹁現実から

の遊離﹂という内容から虚偽を判定するということは何を基準として行うことが出来るだろうかQ虚偽か虚偽でない

かを決定するものは︑認識主体や認識内容によるのではなくして︑認識万法によって判定しなければなら心いコ認識

万法が正しければ︑現実が誤って把握されることは起り得ないからである︒日然科学に於ける実験結果が正しいか正

しくないかは︑実験方法が正しいか正しくないかをその実験結果と現実との検証が行われるにすぎない︒社会科学に

於ては実験が不可能でめることは︑その正しいか正しくないかは︑認識万法によって判断する他はないのである︒

現実から規定されないと云う意味に理解してはならない︒意識は存在の何らかの形に於ける反映である︒現実を正し

く反映していない意識であろうと︑意識は現実から何らかの意味で規定されたものであるからである︒マルクスの用

いた仮幻的意識も現実の或る一面の誇張されたものである︒

存在が意識を決定するという意味は︑意識は存在を例外なしに正しく反映することを保証するものではないっ叩月仙識

客体を正しく把握するか︑しないかは認識主体の問題であり︑認識方法の問題である︒

(21)

マルクスは本質的にヒューマニズムであった事は明らかであり︑

の完全な本質的一体性であり︑人間についての貫徹された自然主義であり︑白然についての貫徹されたヒューマニズ

ムである︒﹂(﹁経済学︑哲学手稿﹂)と云う思想が流れている︒ マルクス哲学の根底には︑﹁社会は人間と日然と

マルクス主義の三つの源泉といわれる︑ドイツの弁

一品法的哲学︑イギリスの古典派経済学︑フランスの空想的社会主義は︑厳密に云えば︑ドイツの弁証法的古学とイギ

リスの古典派経済学が︑唯物論者マルクスの社会科学としての資本論を生み︑フランスの空組的社会主義はマルクス

主読者のヒューマニズムの源泉となったという乙とが出来るし︑ローマン主義ドイツ哲学のフイヒチやシエリンゲ及 ぴフオイエルバッハ等に彼のヒューマニズムの源泉を見るととも出来ようし︑彼が重要視する人間自己疎外論は︑人 問の社会的側面を分析することによって逆に人間としての人間を明るみに浮き出させることが出来るからに他ならな

かった︒彼の社会科学的分析は単に社会発展の客観的法則を明らかにする目的にとYまるものではなくして︑人間の

疎外からの開放というヒューマニズム的立場に立つものであった︒社会科学が真に人類に役立ちうる為には︑五口々は

マルクスのいう人間の問題に立帰らねばならない時代に直面しているという事が出来る︒

1.

7 L  

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