論 説
近世 イ ンス ブル ック市の人 口構造
高 木 正 道
歴史研究が扱 う史料 には、大 まかに分けて二つの種類がある。一つは「あるべ き状態」
(Son̲zustand)
を示 した史料であ り、 もう一つは「あるが ままの状態」(Ist…Zustand)を記 した史料である。従来の都 市史研究は、 どちらか といえば一― とりわけ古い時代 に関 しては一一第一のタイプの史料群 (例えば、都市法、特許状、ツンフ ト条例、参事会決議、請願書など)に依拠 してなされてきた。そのため、 と りわけ数量的なデータによる裏づけを必要 とする部分は しば しば空隙 として残 されたままになってい る。今後は、第二のタイプの史料 に基づ く研究によつてこの空隙を埋めていかなければならない。本 稿はそうした問題意識か らする近世インスブルック市の人口構造の研究である。
I 都 市 の住 民
現在129,000人の人口を擁するインスブル ック市 (オース トリアではウイーン、グラーツ、 リンツ、
ザルツブルクに次いで第5位)はくフランツ・マチス (Franz Mathis)によれば、16世紀末か ら17世紀初 頭の時代 には人口
5,500程
度の都市であった。ル ドルフ・ケチユケ (Kёtzchke)に よる16世紀 ドイツ都 市の規模別分類一―小都市=2000〜5000人、中都市=5000〜20,000人、大都市=20,000人以上一― にし たがえば、当時のインスブルックは小規模な中都市 ということになる。比較のために近世オース トリアにおけるい くつかの都市の人口数 を、インスブルックをも含め て示 してお くと、以下のとお りである。
ウィーン:50,000人 (1600年頃)、
60,000人
(1637年)、175,000人
(1754年頃)シュタイヤー:9000人 (1600年頃)、 7000人 (1754年頃)
グラーツ:8000人 (1600年頃)、
11,000人
(1620年)、20,000人
(1754年頃)ザルツブルク:8000人 (1600年頃)、 9000人 (1647年)、
15,000人 (1754年
頃)インスブル ック:5700人 (1600年頃)、 8500人 (1754年頃)
クラーゲンフル ト:4000人 (1600年頃)、 7000人
(1754年
頃) リンツ:3500人 (1600年頃)、10,000人
(1754年頃)このように当時のインスブル ックはt人口数の点ではオース トリアのなかで も決 して トップ・クラ スの都市ではなかったけれども、15世紀以降は宮廷都市
(Residenzstadt)お
よび領邦行政の中心地 とし て重要な役割を担った。そ してそのことは以下で見 るように同市の経済社会構造を特徴づける決定的 な要因であった。こうしてインスブル ック市は実質的にチロール地方の中心都市 としての機能を果た す ようになるが、同市が正式 にチロール州の州都(Landeshauptstadt)│こ
なったのはかな り後の1849年 のオース トリア王国再編のときで、それまではメラン (Meran)が 州都の称号 と地位 を保持 していた。さて、この時代のインスブルックの住民は、裁判権の観点からみて二種類のグループに、すなわち、
インスブル ック市の裁判権 に服するグループとそうでないグループとに分けられた。前者のグループ に属 したのは「市民」 と「準市民」で、かれらが本来の「都市」人口を構成 した。後者のグループに 含 まれたのは治外法権 を享受する「免除者」(Exempten)と 「法の保護 を受けない人々」で、かれらは 一―それぞれ違った意味においてではあるが一一都市裁判権の管轄の夕れこ置かれていた。
都市の領域は独 自の裁判区――いわゆるブルクフリーデ (Burgfriede)一― を成 し、そのなかでは都 市法が妥当 し、そこに居住する市民 と準市民は都市の裁判権 に服 した。ただ し、インスブルックの都
市裁判所 (Stadtge五cht)が市民 と準市民 にたいする裁判権 をもっていた といって も、都市裁判所 に属
していたのは下級裁判権 (niedere Gerichtsbarkeit)の みであった。すなわち、インスブルック市の裁判 官は、軽い犯罪にたい して罰金刑や禁固刑 を科すことができたにす ぎなかった。重大な犯罪、例えば 殺 人 ・強 盗 ・放 火 ・高価 な物 件 の盗 み な どの よ うな死 刑 に値 す る犯 罪― ― 当 時 の人 々が
《
Mdefizsache》
と呼んだ刑事事件―一の場合には、都市の裁判官は犯人を逮捕 して尋問 し、そのあと判決の宣告 と処刑のために犯人をゾネンブルク (SOnnenburg)の領邦裁判所 (Landgericht)に引 き渡 さ ねばならなかった。インスブルックを含むこの地域で起 こった重大な犯罪にたい して死刑の判決を下 す高級裁判権
(hohe Gerichtsbarkeit)と
それを執行する流血裁判権 (Blutgerichtsbarkeit)は 、この裁判所 に属 していた。都市裁判権の管轄下に入 らない免除者がインスブルック市 に大勢住むことになったのは、1420年に テロール公 フリー ドリヒ4世
(1404〜
1439年)が居城 をメランか らインスブルックに移 して、同市が宮 廷都市 (1665年まで)および領邦行政の中心地 となってか らのことである。廷臣およびかれらの従者、同市に居住する貴族、領邦官庁の役人や使用人、それに数はそれほど多 くなかったけれども聖職者は、
同市 に住んでいたにもかかわらず、都市の裁判官ではな く、別の裁判権力 に服 したのである。懲戒条 例 (Mannszuchtordnung)一 ― 同令 は、特 にインスブル ック市のために1568年と1585年に発布 され、
1605年、1630年、1636年に確認 された一― によれば、廷臣とその従者たちは 《Hofprofos》 の、領邦官 庁 に仕える者たちは 《untennarschalk》 の監督下に置かれることになっていた。
この免除者のグループは都市経済の支柱 となり、かれらが生みだす需要 と購買力はインスブルック
市 の経済 に大 きな刺激 を与 え、その成長 と発展 をもた らした。かれ らによってつ くりだ される需要 と 購 買 力 が な け れ ば 、 イ ン ス ブ ル ッ ク は 人 口 と経 済 の 点 で お そ ら く大 きめ の 農 耕 市 民 都 市
(Ackerbttgerstadt)の
域 を越 えることはで きなかったであろう。 しか し他面で、こうした経済的利点 は、都市 自治の観点か らす れば重大 な欠陥 を意味 していた。 なぜ な ら、 これ らの免除者 たちは、前述の よ うに都市裁判権力 の支配 の外 に置かれてお り、そのため都市 の 自治権 といって も、それは都市住民の 一部 に しか及 ばなかったか らである。
そのほか に、そ もそ も都市法の保護 を受 けない人々がいた。かれ らは種 々の理 由によ り市民 として も準市民 として も受 け入れ られない者 たち (Unaufgenonmenen)で 、 この集団は一時的 にイ ンスブル ック市 に住みついている乞食
(Bettler)ゃ
浮浪者 (Vag狙 n)等か ら成 っていた。では、市民 と準市民 か ら構成 される都市の裁判権 に服す るグループは、都市住民全体 のなかで どの くらいの割合 を占めていたのであろ うか。 フランツ・マテスの推計 による と、 イ ンスブル ック市 にお ける1603年 の世帯数 は1307で あつた。他方、1647年 の課税簿 (Stuerlist)か ら都市裁判権 の もとにあ る世帯主の数 は413で あつたことが半Jる。 したが って、本来の「都市」 人口、つ ま り都市裁判権 の支配 と保護 を受 ける人々は全世帯 のわずか三分の一 にす ぎず、残 りの三分 の二 は免 除者お よび法の保護 を 受 けない人々`
であった とい うことになる。 これはい ささか驚 くべ き結果である。だが、宮廷都市 にお けるこの ような状態 は決 して例外 的な現象ではな く、マテス によれば、例 えば宮廷都市ザルツブルク では、免除者 は全人口のお よそ半分 を占めていた。
16世 紀末のインスブル ックについてマチス とは違 った方向か らアプローチ したクリス トー フ・ハ イ ダハ ー
(Christoph Httdacher)も
、ほぼ同様 の結論 を得 ている。16世紀末期の市民台帳(BttgeⅣ
erzeichnis)に載 ってい る市民 の数 は、1590年 172名 、1592年 191名 、1595年 186名 、1598年 192名 、1599年 206名 、 1600年 188名 で、平均 して180〜 200名 とい うことになる。 また、1536年 の市民台帳
(BttgeⅣ
erzeichnis)と準市民台帳 (InwOhnerverzeichnis)に よれば、同年の市民 と準市民 の数 はそれぞれ178人 と155人 で、
ほぼ同 じである。そ こで、市民 の一世帯 あた りの人数 を平均5人とすれば、市民 身分 に属す る者の数 は1000人 弱 になる。 これにほぼ同数の準市民 を加 える と、両者の合計 は1800〜 2000人 となる。 したが って、当時のイ ンスブル ック市の住民数が5000〜 5500人 であった とすれば、本来の都市人口である市 民 と準市民
(1800〜
2000人)は都市住民全体 の約三分の一 にあたる。以上がハ イダハーの推計である。最後 に他 の宮廷都市 との比較のために、準市民 を除外 して市民 だけを問題 に したい。 これ まで述べ た ことか ら明 らかなように、17世紀の インスブル ックにおける市民 は住民全体 のお よそ3.5%、 全世帯 主 の15%程度 にす ぎなか った。そ して この ような現象 は他 の宮廷都市 で もか な リー般 的 に見 られた。
17世 紀 の ウ イー ンにおいては、市民 は全住民 の2〜 5%、 全世帯主の
10〜
20%を成す にす ぎなか った。同 じく17世紀のグラーツで も、市民 は全住民のわずか
3%、
全世帯主の約13〜
15%にす ぎなか った。以下で問題 にす るのは、イ ンスブル ック市の都市裁判権 に服す る人々、つ ま り市民 と準市民である。
とい うのは、治外法権享受者 としての免 除者や法 の保護 を受 けない人々の状態 を知 らしめ る史料 は、
残念 なが らほ とん どまった く残 されていないか らである。
Ⅱ 市 民 と準 市 民
イ ンスブル ック市の市民 (Bttger)と 準市民 (InwOhner)は ともに都市の裁判権 に服す る とい う点で は同 じであつたが、両者 はそれぞれの権利 において異 なっていた。準市民 は都市 内で営業 を行 うにあ たって市民 と同様 に都市法 の保護 を受 け、それゆえ納税 や兵役等 の義務 を市民 と同様 に負 っていた。
しか し、準市民 には都市の政治 に参加す る権利がなかった。これが市民 と準市民の決定的な差異である。
市民 は、都市裁判権 に服す る第一 の重要 なグループであ る と同時 に、都市 自治の中心 的 な担 い手 で もあ った。市 民権 の獲 得 とい う点 か らみ る と、市 民 は 「世襲 市 民」(Erbburger)と 「宣誓市 民」
(geschworene Bttger)と に分 け られた。前者 はすで に市民 としてイ ンス ブル ックに住 んでいる人々の息 子 たちで、かれ らは父親 か ら市民権 を継承す ることに よつて 自動 的 にイ ンス ブル ック市民 になること がで きた。後者 は以下 に述べ るような種 々の条件 を満 たす ことによ り新 たに市民権 を獲得 した人々で、
イ ンス ブル ック市民 として受 け入れ られるにさい してかれ らは市民宣誓 (Burgereid)を 行 って、都市 の利益 を促進 し都市 の公権力 に服従す ることを誓 わねばな らなか った。 この誓 い を破 るような行為 を した場 合 には、市 民権 を剥奪 され る こ と もあ りえた。 そ して最後 に 《Burgergeld》 ない し
《
Bttgereinkauお
geld》 と呼ばれる認容料 (AufnttmetⅨe)を支払 って、やっと市民 として認められた。新市民 として受け入れ られた人々のなかには、最近 よそか らやって来たばか りの者 もいれば、準市民 としてすでに一定期間インスブルックに定住 していた者 もいた。市民権の授与に関する決定権は市参 事会 (Stadtrat)│こあった。これは、1363年に大公ル ドルフ4世
(1358〜
65年)がインスブル ック市参事 会に授与 した権利であった。ただ し、この権利 には、1358年のヴイルテン修道院 (Sut wiltn)と の取 決めにより制限が付いていた。すなわち,イ ンスブルック市がヴイルテン修道院の隷属民(Eigenleut)
を受け入れるにあたっては、同修道院の大修道院長 (Abt)同 意を必要 とした。
インスブル ックの市民権 を獲得するためには、さまざまな条件 を満たさなければならなかった。そ れらのうち主なものを挙げれば、以下のとお りである。
(1)まず市民権 を得 ようとする者は嫡出子であることを証明 しなければならなかった。 この条件 はインスブル ック市の成立以来ずっと存在 していたにちがいないが、それがはっきりと確認 されるの は1528年以後である。嫡出の証明は、 《SippSalbrieう と呼ばれる一種の出生証明書の提示 もしくは三人 の「まともな」
(chrlich)男
子の証言のいずれかによつて行 うことがで きた。また、庶出子であっても、公権力つまり領邦君主による嫡出子 としての認知 (Legidmittng)が 得 られれば、市民 として受け入れ
‑46‑
てもらうことができた。
(2)次に人格的自由 (農奴身分か らの解放)の証明が求め られた。 このような証明が要求 された のは、一つにはかつての農奴主 との面倒ないざこざに巻 き込 まれることを避けるためであ り、いま一 つには自由な市民身分にたいする尊敬の念 を守るためであった。この証明はとりわけ ドイッとイタリ アか らの移住者にたい して厳 しく求められたが、チロール出身者にはそれほど強 くは要求されなかっ た。 というのは、この地方ではすでに15世紀以降 もはや農奴制は一般的でな くなっていたか らである。
(3)おそ らくはもっと以前か ら存在 したと思われるが、確認 されるか ぎりでは1603年に初めて一 定額の財産の証明が市民権獲得の前提条件 として出て くる。市民 として受け入れてもらいたい者はす べて、200グルデンの財産を証明することができるか、 もしくはこの金額について責任 を負 う市民か準 市民 を証人 として立てることを要求 された。 しか もこの証人は、かな り長 くインスブル ック市に住ん でいる者でなければならなかった。その後、市民 として受け入れられるのに必要な財産額は、300グル デン以上に引 き上げられた。
これにたい して家屋の所有は、古い時代 には市民権獲得のための必要条件であったかもしれないが、
16017世紀のインスブル ックではもはや決定的なものではな くなっていた。マテスによれば、1605年 には、家屋の所有者は市民の50%を占めるにす ぎなかった。
(4)ま たキリス ト教諸宗派の分裂 と反宗教改革の時代以降は、カ トリック教徒であることが要求 された。1608年の準市民の受入条令 (Aufnaheordnung)に はそのことが明記 されてお り、市民 も同様 の規定の適用 を受けたことはまず間違いないと思われる。
(5)市民権 を得 ようとする者はさらに、ずでに結婚 しているか近々結婚する予定であることを明 確にしなければならなかった。つまり、独身者は市民権 を享受することはできなかった。職人 (Geselle)
はたいてい独身だったので、市民になるチャンスはなかった。
上記のような種々の条件 を満た してはじめて、市民権の申請者は市民適格性の審査対象になること がで きた。彼 を市民 として受け入れるか否かは、前述のようにまった く市参事会の裁量にゆだねられ ていた。市参事会は理由を示すことな く申請をはねつけることができた。市民や市参事会員は移住者 との競争に神経 をとが らせていたので、申請者 を市民 として受け入れるか どうかの決定に際 しては、
市参事会の職業構成 と申請者の職業の関係が重要な役割を演 じた。周知のように、市民の娘や寡婦 と の結婚は市民権の獲得 を容易にする方法の一つであった。 といっても、それが必ず しも市民権獲得の 万全の保証 となったわけではなかった。
すでに述べたように、市民 として受け入れられることになった者は、市民宣誓 を行い、一定の料金、
すなわち、いわゆる 《Bttgergeld》 ない し 《Bttgereinkauttgeld》 を支払わねばならなかった。この料金 はもともとは一 ヵ月以内に納めればよかったが、1547年の市民宣誓によると、宣誓 を行った直後に支 払わねばならないとある。金額に関 しては市参事会が定めた1514年の規定があ り、それによれば、準
市民 の身分 を経 ることな しに市民 として受 け入 れ られた者 はすべ て最低 10グ ルデ ンを支払 うことにな っていた。新市民 はこのほか にさらに登録料 (Einschreibegcld)を 徴収 された。 これは新市民登録簿 (Burgerbuch)に 新市民 を登録す る手数料 として都市 の書記
(Stadtschreiber)の
もの とな り、その額 は 1520年以降12ク ロイツアーであった。以上 はすべ て、 イ ンスブル ック市 に移住 して きた者 あるいはすで に準市民 として定住 している者が 市民権 を獲得す る場合 の規定である。 これにたい して、「世襲市民」す なわち市民 の息子 たちの場合 に は、世襲 された市民権がいわば自動 的 に認め られた。かれ らにたい して要求 された唯一の条件 は、 イ ンスブル ック市 に世帯 を構 えていて、結婚 している とい うことであった。16世 紀 には市民の息子 たち は二、三年 ご とに市参事会 に集団で召喚 され、かれ らの前で市民宣誓が読みあげ られ、市民 として承 認 された。17世 紀 には市民 の息子 たちの市民登録 はルーチ ン・ワークとなってお り、マテスが明 らか に しているように毎年1月8日に行 われた。その さいかれ らは、市民 としての認容料 は免 除 され、都市 の書記への登録料 だけを支払い さえすればよかった。
市民権 の所有 は、 イ ンスブル ック市 に定住 してい ることを条件 としていた。新市民 は少 な くとも
5
年 間は同市 に居住 す るこ とを義務づ け られた。誰 であろ うと、 イ ンスブル ック市 で生計 を立 てること がで きなかった り、その他別の理 由か ら同市 を離れる ときには、その ことを市参事会 に届 け出なけれ ばな らなかった。市民権 を保持 したままインスブル ックを離 れることを市参事会か ら認 め られた市民 は、定め られた期 間内一‑1年以 内一― に戻 って こなければ市民権 を喪失 した。 また市参事会 は、法 を犯 した者か らも市民権 を奪 うこ とがで きた。市参事会 による市民権剥奪 の理 由 としては、不服従 、 都市の機関にたいす る侮辱的言動、姦通、商売上での詐欺 な どがあった。ところで、インスブル ック市 において、「世襲市民」す なわち市民 の息子 は新市民のなかで どの くら いの割合 を占めたのであろうか。
16〜
18世紀の期 間についてその比率 を見 る と、表 1の ようになる。 イ ンス ブル ック市 では時代 を下 るにつれて、そ もそ も新市民 として受 け入 れ られた年平均 人数が一―1487〜 1600年 =7.9人 、1601〜 1700年=6。8人 、1701〜 1795年=5。2人 と一一減少 してい くと同時 に、その なか に占める市民の息子の割合が一‑1487〜1600年=24%、
1601〜
1700年=45%、 1701〜 1795年=54%と一一上昇 していったことが示 されている。 したが って、 この間にイ ンスブル ックの市民人 口は徐 々 に流動性 を失い、固定化す る傾 向が強 まっていった と言 うことがで きるであろう。
都市裁判権 に服す る本来の「都市」人口の もう一つの重要 なグループである準市民
(InwOhner)
一一インスブルック市ではこう呼ばれたが、他の諸都市では 《Beisassen,Seldner,habitatores,incolac,
inquili五》などの名称で呼ばれた一一は、のちに詳 しく見るように、数のうえでは市民に匹敵するかも
しくはそれを上回る集団であった。いわゆる完全市民 (Vollbttger)とは区別された準市民階層が発生 したのは、
ドイツの中世都市においてもともとは都市に土地を所有する者だけが市民権を獲得するこ
‑48‑
とがで きた とい う事情 に起因するといわれる。
すで に述べ た ように、準市民 は市民 と同 じように納税 と兵役 の義務 を負 ったが、その権利 において は市民 に比べ て劣 っていた。かれ らは市民 と同様 に都市法の保護 を享けたけれ ども、都市行政への参 加 か らは完全 に排 除 され、市長や市参事会員その他 の役職 に関 しては、選挙権 もなければ、被選挙権 もなか った。 さらに準市民 は、 もう一つ と りわけ経済的 に重要 な点で差別 されていた。す なわち、商 業 と飲食旅館業 (Handels― und Wi■sgewerbe)は 市民 に独 占され、準市民 はこれ らの部 門か ら排除 され ていたのである。
準市民 として受 け入れ られるため には、市民権獲得 の場合 と同様 に厳 しい条件 を満 た さなければな らなか った。 これ については、前 出の1608年 の準市民の受入 に関す る条令 に詳 しい規定が見 られる。
まず 申請者 はカ トリック教徒 でなければな らず、それ以外 の宗派 に属す る者 は完全 に排除 された。反 宗教改革の精神が支配す る当時の雰囲気 のなかで、市参事会 はこの原則 を厳守す ることにあ くまで も こだわった。 また市民の場合 ほ ど厳格ではなかったけれ ども、準市民の場合 にもやは り嫡 出子である ことを 《sippsalbrief》 もしくは生 きた証人によって証明せねばならなかった。そ して市民 と同様 に、
人格的に自由であることを証明する義務があった。 さらに申請者は結婚 していなければならず、市民 権取得料 を支払 うための金額 と妻の財産以夕れこ20グルデンもっていなければならなかった。言 うまで もないことか もしれないが、市参事会がこのような規定を定めたのは、困窮 した市民や準市民の出現 を未然 に防 ぎ、新たに市民や準市民 になった者がかれらの納税義務 を呆たすことができるようにとい う意図か らであった。 また準市民 として受け入れられた者が都市の書記に支払わねばならなかった登 録料は市民のそれの半分、すなわち6クロイツアーであった。
兵役 についていえば、新 しく準市民 として受け入れられた者は、市参事会が定めた甲冑と武器を一 ケ月以内に準備 し、完璧な状態で査閲を受けられるようにせねばならなかった。 また税に関 しては、
次の期限の聖霊降臨祭 またはクリスマスには特 に要請がな くても市参事会に出頭 し、課せ られた税 を 期 日どお りに納める義務 を負っていた。
準市民 としての受入申請 を認めるか否かの決定権は、市民の場合 と同 じく市参事会にあった。ただ し、準市民の多 くが手工業者であったことから(後述参照)、 準市民の受入に関 してはツンフ トも加わ って同意を与えた。ツンフ トは、手工業者たちのあいだで余計な競争が起 こらないように配慮 し、各 職種 に過剰供給が発生するのを防ごうとしたのである。
ところで、市民権の獲得 と準市民権の獲得には根本的な違いがあった。前述のように市民の場合に は、新たに市民権 を獲得 して市民の一員になった「宣誓市民」 と父親から市民権 を相続 した「世襲市 民」の区別があった。 しか し、準市民の場合にはこうした区別は存在せず、父親から息子への準市民 権 (InwOhnerecht)の 相続はあ りえなかった。準市民の息子であって も、 よそか らインスブル ックに 引越 してきた人々と同 じように、準市民権の授与を市参事会に願い出なければならなかったのである。
それゆえ新準市民登録簿 (InwOhnerbuch)に は、当人の父親 はすでに準市民の身分 にある旨の注記が し
│ゴしば見 られる とい う。
さて、イ ンスブル ック市で市民あるいは準市民 として受 け入れ られたのは どの ような人々だったの であろうか。それ を17世紀 について示 したのが表2と 表3である。
表2から明 らかな ように、17世 紀 のイ ンスブル ック市 では新市民 に占める市民 の息子 の割合 は46%
であるのにたい し、準市民 とその息子 の比率 はわずか13%にす ぎない。しか し、これ らを合計す る と約
60%になる。 よそか らの移住者が新市民 に占める比率 は市民の息子 に次いで二番 目で
(34%)、
営業部 門別 にみれば特 に商業 と飲食旅館業で際立 って高 くなっている(67%)。
次 に新準市民の内訳 を見 てみる と
(表
3参照)、 まず準市民の大多数が手工業者 とその他 (日雇労働 者)であった とい う事実 を指摘す ることがで きる (両者 を合せ る と、90%をこえる)。 また全体 として よそか らの移住者の比率が市民 の場合 よ りもかな り高い (67%)のにたい し、新準市民 に占める準市 民 の息子の比率 は15%にす ぎない。 ここには、準市民 階層 の流動 的な性格が看取 される。で は、市民 と準市民 の数的関係 は どの ような ものであったのだろ うかι前 出の1536年 の市民台帳 と 準市民台帳か ら明 らか になる市民 と準市民 の数 はそれぞれ178人 と155人 で、前者が後者 を若千上回つ ていた。他方t市民権取得者の数 は1487〜 1600年 の期 間に891人 (市民 の息子 を含 む)、 準市民権取得 者 の数 は1508〜 1600年 の期 間に1144人 であつた。 したが つて、大雑把 にみて新市民 と準市民 との比率 はお よそ44対56に なる。だがハ イダハ ーは、 この事実 をもって準市民の数的優位 を結論づ けるのは早 計 だ と述べ、その理 由 として次の二つ を挙 げている。第一 に準市民 は市民 よ りも流動 的な性格が強 く、
かれ らの一部 は生涯ず っ とイ ンスブル ック市 に住 み続 けたわけではな く、他 の地域 に移動 していった。
第二 にかれ らの一部 は市民 に昇格 していった。
17世 紀 については、市民 と準市民 の数 を同時点で捉 えることを可能 にす る史料 は、残念 なが ら残 さ れていない。そ こでマチスは、約20年 の時間差のある史料 をもとに次の ように推計 している。すなわ ち、1628年 の市民台帳か ら明 らかになる163人 の市民 を、都市裁判権 に服す る413人 の世帯主 (1647年 の史料 か ら)から差 し引 くと、250人 の準市民が残 る。 したがって、市民 と準市民の比率 は40対
60と
な る。 この問題 については、 またあ とで触れる機会がある。Ⅲ 職 業構 成 と出身 地
14世紀か ら15世紀への転換期 までのインスブル ック市の発展は、同市が南 ドイツ地域 とイタリアを 結ぶ街道の要衝 に位置 していたことに基づいていた。このいわば宿場 としての機能か ら、インスブル ックではさまざまな職業集団が発展 した一― この地域 を通過する商人に車や牽引用の家畜を供給する
手工業者、旅人 に食事 と宿 を提供する飲食旅館業者、商品を輸送する運送業者、 さらに商人 (ただ し、
かれ らの活動範囲は もっぱ らインスブル ック市 に限 られていた)、 人々の基礎 的な欲求 を満 たす営業、
例 えばパ ン屋や肉屋等 々。 この ように当時のインスブル ックにはすでに重要ない くつかの職業部門が 存在 していたけれ ども、都市経済 に強い刺激 を与 えるような大 きな購買力 をもった消費者集団はまだ 現 われていなか った。
1420年 にフ リー ドリヒ4世 が イ ンス ブル ック市 に宮廷 を構 えた ことは、17世紀 まで一‑30年戦争
(1618〜
48年)と宮廷 の解散 (1665年)まで一―続 くかつてない興隆 を同市 にもた らした。 インスブル ックが宮廷都市かつ領邦行政の中心地 になると、廷 臣 とその従者、領邦官庁の役人、貴族、そ して幸運 を夢みる大勢の人たちが ここに集 まって きた。その結果、この都市の経済構造 には変化が生 じ、奢修産 業 と建築業が発展 して きた。 このほか に もイ ンスブル ックの興隆 を促進 した要因があった。その埋蔵 鉱石 によって可能 となったチロール地方の繁栄がその一つである。 さらに、ブレンナー峠 を経由する 交易 は15016世紀 に飛躍的に拡大 し、当然 にもインスブル ックは主要通過点 として大 きな利益 を得た。16世 紀 イ ンスブル ック市の市民 と準市民 の職業構成 に関するハ イダハ ーの詳細 な表 を簡略化 して示 す と、表4のようになる。 ここには、1508〜 1600年 の期間に受け入れ られた1144名 の新準市民 と、
1487
〜1600年 の期 間に受 け入れ られた総勢891名 の市民か ら市民の息子212名 を除いた残 り679名 の新市民 が、営業部 門別 に分類 されている。
全体的にみてまず 目につ くのは、手工業者の占める割合が高いということである。この特徴はとり わけ準市民 において著 しく、かれ らの多 くは手工業者であった。手工業なかで も特 に「金属加工」
(18.6%)、 「衣料」(15.0%)、「食品」(12.9%)の比率が高 く、これらを合計すると46.5%に達する。表4
の「彫石窯業」以下「食品」 までを手工業 と考えれば、準市民808人のうち636人 (79%)が手工業者 であ り、また手工業者全体
(905人
)の 70%が準市民であったということになる。準市民 に占める手工業者の比率あるいは手工業者に占める準市民の比率がこのように高い理由は、
あらためて説明するまで もない。準市民の大多数は経済的には中層 または下層に属 し、かれらには市 民権 を獲得するだけの財力が欠けていたのである。このことは、「その他」に分類 された79人の準市民 のうち62人が 日雇労働者 (Taglёhner)に 属 していたという事実によっても裏づけられる。手工業者の 多 くが準市民であったもう一つの理由としては、インスブルックでは親方の資格を取得するにさい し て、準市民であることが要求されたけれども、市民権の獲得は不可欠の条件ではなかったという点を 指摘することがで きる。また市民に比 して準市民の比率が特に高い職種 としては、次のものが挙げら れる―一大工
(36人
中32人)、 左官(22人
中18人)、 錠前師(45人
中37人)、 拍車製造工(17人
中15人)、刃物鍛冶
(11人
中11人
)、 桶屋(22人
中19人)、 織工(35人
中33人)。続いて市民に目を向けると、比率の高い営業部門は「食品」(17.1%)、 「金属加工」(15。
6%)、
「衣料」(15。1%)で、 これ らの合計 は47.8%になる。そ して、準市民 の場合 ほ どではないけれ ども、市民 に占 める手工業者 の割合 (69%)力汁ヒ較的高いのが 目につ く。だが、ハ イダハ ーによれば、 この ように手 工業者の割合が少 々高 くなっているのは、679名 の新市民 の うち職業の記載 のない者が288名 (42.4%)
もい るか らで、記載状況 の もっ とよい1598〜 1600年 の市民台帳 に基づ けば現実的な もっ と低 い数値が 出る (これについては下記参照)。 また準市民の場合 とは対照的 に、市民のなかには 日雇労働者 は一人 もいない。他方、準市民 に比 して市民の割合が特 に大 きい営業部 門 として、飲食旅館業
(28人
中27人)と商業
(26人
中16人)が注 目される。すで に前節 で に述べ た ように、商業 と飲食旅館業 は市民 の独 占 部 門になっていた。以上 は一定期 間に受 け入れ られた新市民 と新準市民 を対象 としたいわば「 フロー」 の面か らの職業 構成 の分析 であるが、今度 は「ス トック」 の面か ら、つ ま りある時点 においてイ ンスブル ックに定住
している市民 と準市民 を対象 として、その職業構成 を分析 してみ よう。
ハ イダハーによって作成 された表 を簡略化 した表5には、すで に確認 した市民 の職業 の特徴が さら にはっ きりと示 されている。す なわち、商業 と飲食旅館業 は市民 の代表的な営業部 門であ り、 これ ら に携 わる市民 は合計す る と全市民 の27〜30%に達す る。 また 日雇労働者 の ような下層 階級 はまった く 見 られない。他方、 さきほ どと同 じ方法で市民 のなか に占める手工業者 の比率 を求める と、現実 をよ
り正確 に反映 している と思 われる51〜54%とい う数値が得 られる。
同 じ くハ イダハ ーの作成 した表 を変形 した表6において は、市民 と準市民が別 々 に表 されてい る。
われわれはここで も、市民 の代表的職業 としての飲食旅館業 と商業 (両者 で全市民 の31%を包含)お
よび これ ら二つの営業部 門 にお ける市民 の圧倒 的優位 (前者 で は27人 中26人 、後者 で は30人 中27人)
を再確認す ることがで きる。 また「公務」 のポス トの過半数以上が市民 によって占め られていた (25 人 中19人)。 市民 の比率がかな り高 い職種 としては、次 の もの を挙 げるこ とがで きる一― 金細工 師 (7
人中6人)、 陶工
(6人
中4人)、 馬具屋(6人
中6人)、 白鞣工(7人
中5人)、 肉屋(16人
中9人)、 ビール醸 造業者(2人
中2人)。 また、市民 に占める手工業者の割合 は表5の場合 と同様 に54%になる。これにたい して準市民 においては手工業者の比率が極 めて高 く、70%を越 える。 また25人 の 日雇労 働者 は全員が準市民 に属 していた。準市民の比率が際立 って高い職種 としては、次 の もの を挙 げるこ とがで きる一一大工 (10人 中10人)、 左 官
(7人
中6人)、 革財布屋(8人
中7人)、 織工 (12人 中12人)、仕立屋
(23人
中18人)、 運送業者(8人
中6人)、 理髪師(7人
中7人)、 理髪師兼外科医(3人
中3人)。ちなみ に、表6から市民 と準市民 の数的関係 をもとめる と、42対
58と
な り、すで に紹介 したマテス の推計結果(40対
60)に きわめて近い数値が得 られる。17世 紀 インスブル ックの市民 と準市民 の職業構成 に関す るマチスの詳細 な表 を簡略化 して まとめる と、表フの ようになる。 この表で扱 われているのは、当該年時点での職業が判 明す る世帯主だけで、
‑52‑
徒弟や丁稚 、それ に寡婦 は含 まれていない。 また同表 中の「公務」 は実態 をまった く反映 していない ので、以下では分析 の対象か ら除外す る。
マテスは表フか ら明 らか になる点 として次の二つ を指摘 している。す なわち、第一 に突 出 して比率 の高いが存在 しない こと、第二 に17世 紀 を通 じて職業構成 は全般 的 にほんのわずか しか変化 していな い こ と。そ してかれはこれ ら二つの現象の根拠 を、 イ ンスブル ック市 の経済的課題が この期 間をず っ と一貫 して多数の免除者
(廷
臣 とその従者、領邦官庁 の役人、地代取得者 としての貴族)に種 々の産 業で もって多種多様 な財 を供給す ることにあつた、 とい う点 に見 出 している。それゆえ、当時のイ ン スブル ック市 はいわゆる消費者都市 (Konsumentenstadt)の 典型的な事例 とみなす ことがで きる。マ ッ クス ・ ウェーバ ー は消費者都市 の代表 的 な三類型 として「君侯都市」 (Furstenstadt)と 「官吏都市」(Beamtnstadt)と 「地代生活者都市」 (Gmndrentnerstadt)を 区別 しているが、1420年 か ら1665年 までの イ ンスブル ック市 はこれ ら三つの類型の消費者都市のいわば複合体 であった。
他 の ドイツ諸都市 との比較 において特 に注 目されるのは、飲食旅館業 の比重が大 きい とい う点であ る。 インスブル ックでは飲食旅館業の割合 は、表7から「公務」 を除いて計算す る と、5。
3〜
6。5%であ ったのにたい し、 ミュ ンヘ ン(1606〜
45年)では約2.5%、 アウクスブル ク (1619年)では1%、
ハ イデルベル ク (1588年)でも2.5%にす ぎなか った。 イ ンスブル ック市 におけるこの ような飲食旅館業の繁 栄 は、同市が ブ レンナー峠 を経 由 して南 と北 を結ぶ通商路 の重要 な拠点の一つであったことによる も のであった。そ して1239年 にイ ンスブル ック市 に授与 された互市強制権
(Niederlagsrecht)が
、同市 を こうした方向へ発展 させ る うえで決定的な役割 を果 た した。 ブ レンナー峠 を越 えて北上あるいは南下 す る商人 は、 イ ンスブル ック市 の互市強制権 のゆえに、同市で荷 を降ろ して関税 を支払 わねばな らな かったので、インスブル ックで一泊す ることになったか らである。これにたい して商業 においては、 イ ンスブル ックは、南 ドイツの商業 メ トロポ リスであるアウクス ブル ク、ニュル ンベ ル ク、 レーゲ ンスブル クに とて も太刀打 ちで きなか った。 また、17世 紀 にはボー ツェ ン (BOzen)やハ ル (Ha11)の 年市や大市が超地域的な意義 をもつ ようになったため、インスブル ックは商業都市 としてはそれ らの都市 に凌駕 されて しまい、地元の都市住民 に財 を分配す る小売商の 役割 を引 き受 けるようになった。同市 の商業の こう した性格 は、
(大
)商人 に比べ て種 々の小売業者が 一‑1678年を例外 と して一一 数的 に優勢 であ る とい う事実 に反映 されてい る(商
業従事者 に占め る(大)商人の数 は、1605年 31人 中10人 、1647年 51人 中15人 、1678年 38人 中22人 である)。
都市住民 の職業構成 との関連 で農業 の問題 について触 れてお くと、当時の ヨーロ ッパの多 くの都市 にお けるの と同様 に、農業経営 は農村 だけに限定 されてはお らず、 イ ンスブル ックの市民 と準市民 の 大多数 は、本業のほか に農業 を副業 として行 っていた。大抵 は自分 の家 のす ぐ裏 の土地 に菜 園 をつ く る程度であったが、 なか には干 し草 を入れる納屋や厩舎 を備 えて家畜 を飼育 した り、 さらにイ ンスブ ル ック市近郊の畑地で農作物 を栽培す る者 もいた。マテスによれば、1605年 か ら1630年 の25年 間に農
業地の明 らかな拡大が認められるという。またボーデン湖畔のブレゲ ンツ(Bregenz)で も、17世紀前半 に農業従事者の増加が確認 されている。困窮の時代 にはある程度の自給体制 を確立するために自己生 産に頼 らざるをえな くなるのが一般的現象であるが、この時期 にインスブル ックやブレゲ ンツで一―
他の営業の後退 を伴いなが ら一―農業が拡大 した原因の一端は30年戦争 による特 に手工業者 と下層民 の窮乏化に求められる、 とマテスは述べている。
中世および近世の都市は、高い出生率にもかかわらず、それを上回るきわめて高い死亡率のために、
外部 (農村地域や他の諸都市)からの流入人口によつてやつとその人口数 を維持 もしくは増加 させる ことがで きたと言われている。事実すでに見たように、インスブルック市 も大勢の移住者 を市民ある いは準市民 として受け入れてきたのである。それゆえ、都市への移住者の出身地をつ きとめることは、
都市の歴史 と発展 を知るうえで重要な課題の一つである。インスブル ック市の場合、同市の発展 を支 えた流入人口は一体 どこか ら来たのであろうか。1600年以前の時期 についてこの問題 を究明 したハイ ダハ ーは、表8に示 され る ような結論 に到達 した (表中の「イ ンス ブル ック市域」 は行 政管 区 (Bczirkshauptmannschaft)と しての 《Innsbmck̲Stadt》 を、「インスブル ック郊外」は同 じく行政管区 と してのCmsbruck―Land》 を意味する)。
1500年以前の時期 に関 してはデータ数が少ないので確たることは言えないが、インスブルック市郊 外地域の出身者が多かったようである。16世紀 を全体 としてみると、バイエルンか らの移住者が急増 し、全体の41%に達 した。そ してこれ とほぼ同 じ割合 (42%)をチロール出身者 (「インスブル ック 市」+「インスブルック郊外」+「その他のチロール」)が占めてお り、チロールのなかではインスブ ル ック市郊外の比重が高い。16世紀の前半 と後半 を比較 してみると、前半 においてはバイエルンか ら の移住者数がチロールか らのそれを上回つていたけれども (136人対88人)、 後半になると両者の関係 は逆転 した (225人対ZO人)。 バイエルンとチロールに比べると比率はかな り低 くなるが、バイエルン を除 くドイツからの移住者が8%を占めている。
では、16世紀 になって生 じた流入人口の出身地のこのような変化、つまり遠方か らの移住者の増加 は、何 を物語っているのであろうか。この問題 についてハイダハーは次のように述べている。1500年 以前 においては、インスブル ックはまだあまり重要でない小都市 にす ぎなかったので、遠方か らの移 住者 を吸引 し定住 させるだけの牽引力 と雇用機会に欠けていた。また13世紀以降急速に発展 してきた ブレンナー峠を経由する南北間の通商 も、中世後期の経済危機のために著 しく停滞 し、それが もとの 水準 にまで回復 したのは1500年前後のことであつた。こうしてこの頃か らインスブル ックヘの移住者 が増 え始める。 この時期か ら新市民 と新準市民の登録が開始 されたのは決 して偶然ではな く、多分 こ の急増 した人口流入 と深 く関連 していた。またインスブルックが宮廷都市 となって以来、大勢の貴族 や役人が住むようにな り、かれ らの購買力は商工業 にとつての需要を創出 し、都市経済の繁栄 をもた
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らした。そ してこのような都市経済の発展は雇用機会を増大 させ、遠方か らの移住者を増加 させたの である。
ブレンナー峠 を経由する南北間通商 と移住者の出身地 とのあいだには、密接 な関連が認められる。
というのは、移住者の相当の部分がこの通商路の圏域内に位置する地域、すなわち南チロール、北チ ロールの一部およびとりわけバイエルンの出身だからである。 と同時に注目されるのは、チロール以 外のハプスプルク領オース トリアの諸地域か らの移住者が きわめて少ない という事実である。 この点 に関連 してマテス とハイダハーは、ある都市への移住 にとって決定的に重要なのは経済的要因であっ て政治的な条件ではなかったと述べている。
ところで、この南北の通商路に沿った地域からインスブルック市への移住で特に目立っているのは、
北 (ドイツ語圏)から南への移動が南 (イ タリア語圏)から北へのそれを圧倒 しているという点であ る。ハイダハーによれば、これには理由があって、当時「ヴェルシュ人」(Welsche)と 呼ばれていた イタリア人は、チロール地方の人々から異分子 (fremdes ElemЮnt)とみなされてお り、それゆえ拒絶さ れがちであった。例 えば、15016世紀におけるメラン (Meran)と ボーツェン (BOzen)の 都市法には、
ヴェルシュ人に市民権 を与えてはならない という規定があった。インスブル ック市は絶対拒否 という 態度はとらなかったけれども、かれらにたい して決 して友好的ではなかった。特 に小売業での競争相 手であるサヴォワ人にたい しては、地元の住民は強い妬みを抱いていたという。
以上はインスブル ックの市民 または準市民 として受け入れ らヽれた者 を全体 として見たのであるが、
今度は市民 と準市民 を区別 して、両者の出身地 を比較 してみよう。1508〜 1600年の期間に受け入れら れた1144名の準市民のうち、出身地が記 されているのは760名である (66%)。 また1487〜 1600年の期 間に受け入れられた891名の市民のうち、出身地が記 されているのは520名である
(58%)。
これらの準 市民 と市民 をさきほどと同様の仕方で分類すると、表9お よび表10のようになる。表8との違いをい えば、「ザルツブルク」は「その他のオース トリア」の項 目なかに含められ、新たな項 目として「既住 者」が付 け加 えられている。表9の「既住者」は、すでに一定期間インスブル ック市のブルクフリー デ内に定住 したのちに準市民権 を獲得 した者ない しは準市民の息子 を意味する。表10の「既住者」は、同 じく市民権 を得 る以前か らブルクフリーデ内に定住 していた者 を意味 し、そのす ぐ下の段の数値は かれらのうちに含 まれる市民の息子の数を表す。
まず準市民の出身地を見ると、さきほど確認 したのと同 じことが示 されている。すなわち、移住者 の40%近くがバイエル ンの出身者、そ して34%がチロールの出身者であった。11%が「既住者」で、
その大部分は準市民の息子たちであった。 また、16世紀前半にはバイエル ンか らの移住者数がチロー ルか らのそれを上回っているが、後半になるとこの関係は逆転するという傾向は、準市民だけに限定
した場合にもはっきりと認められる。
次 に市民 に移 る と、表10を一見 して 目につ くのは、「既住者」、すなわち、以前か らブルクフリーデ 内 に住 んでい た者 の高 い比率 であ る。つ ま り、市民 身分 は主 としてイ ンス ブル ック市 に住 んでいた 人 々――市民 の息子や準市民一― か ら補充 された。特 に新市民の うちに占める市民の息子 の割合 は高 く、1487〜 1600年 の時期全体 で41%と なっている。 イ ンス ブル ック市 の市民 の息子 の多 くはよその土 地 に移住す ることな く同市 に とどまったのであ り、それゆえ市民層 は都市人口の静態的な要素 を成 し ていた。ただ し、16世 紀の前半 と後半 を比較 してみる と、市民の息子 の割合 は54%から33%へとかな り低下 してお り、 イ ンスブル ック市民層 の交代 とい う点では16世 紀後半 は以前 よ りも流動的であった とい える。 しか しすで に見 た ように、17世紀 になる と新市民 に占める市民 の息子の比率 は再び上昇 に 転 じ、18世紀 には54%にも達 した (表1参 照)。
17世 紀 になる と、チ ロールか らの移住者の比重が さらに増 した。 とはいえ、バ イエル ンと南 ドイッ か らの移住者の流入 も、他 の ドイツ諸地域 に比べれば依然 として多かった。マテス によれば、17世紀 にお ける新市民 と新準市民 を合 わせ たイ ンス ブル ック住民 の出身地 は、チ ロールが全体 の60.6%を、 バ イエル ンが25.5%を占めた。バ イエル ンか らの移住者 の減少 の原 因 をハ イダハ ーは、30年 戦争が も た らした破局 とそれ によって生 じたず般的危機 に求めているが、あ ま り説得的 とは思 えない。 とい う のは、先 にに触 れた ように、チロールか らの移住者が増 え、バ イエル ンか らの移住者が減 るとい う傾 向は、すで に16世 紀 の後半か ら始 まっているか らである。今 の ところ、 この問題 にたいす る明解 な答 えは見出す ことがで きない。
18世 紀 における新市民の出身地の分布状況 は表11のとお りである。18世紀 になると、バ イエル ンば か りでな く、イ ンスブル ック以外 のチロールか らの移住者 もさらに減 り、新市民 はます ます以前か ら インスブルックに住んでいた者たちによって占められるようになっていった様相が示されている。345 人のインスブルック出身者のうち265人が市民の息子であった
(表
1参照)。Ⅳ 貧 富 の差 と階層構 造
これまで述べてきたことか ら、インスブル ック市では市民のほうが準市民 よりも経済的に豊かな階 層であったと推測 されるが、この推測は正 しいのだろうか、それとも誤っているのだろうか。インス ブル ック市の住民 を上層 (Oberschicht)、 中層 (Mittelschicht)、 下層 (Unterschicht)に分けた場合、そ れらの各層 にはどんな職業を営んでいる市民や準市民が集中していたのだろうか。あるいは、そのよ うなことはまった く見 られなかったのだろうか。本節では、このような問題 をとりあげてみたい。
インスブル ック市の住民の階層構造 を貧富の差 という観点か ら考察 しようとする場合、利用価値の 高い史料 として課税簿が残 されている。チロールで規則的に年二回徴収 されたこの税 を課 されたのは、
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