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不確かな判断 : ラシイとヨウダ

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(1)

不確かな判断 : ラシイとヨウダ

著者 中畠 孝幸

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 1

ページ 25‑33

発行年 1990‑06‑03

URL http://hdl.handle.net/10076/2596

(2)

不確かな判断

ラシイとヨウダf

鼻‥‑ワード

……

らしい、ようだ、推量

はじめに

言語を用いて表現活動を行うにあたっては、断定を避けた言

い方が必要になることがある。ある事柄を話し手の推測によっ

て述べる場合、あるいは他者からの情報をもとに述べる場合な

どである。具体的な形式と七ては、グロウ、ラシイ、ヨウダ、

、、、タイダ、ソウダ、トイウなどが用いられる。これらの形式は

推量、伝聞、様態といった意味のうちいずれかを表すが、断定

を避けたその表現機能を一括して「概言」という▼しとがある。 (寺村〓九七れ)参照。)本稿でほその概言の形式のうち、

特に意味・用法が似通っていてその差異が論じられることの多

いラシイとヨウダについて考案する。

ラシイとヨウダの共通点は、現実の判断材料を根拠として、

それをもとに(不確かな)判断を下すという点にあるといわれ

る。現実の世界の判断であるという点は、仮想の世界での推測

に用いることのできるグロウとの対比によって鮮明になる。グ

ロウと逢い、ラシイもヨウダも話し手の頑の中にだけ存在する 中島孝幸

ような仮想の世界を描くことはできない。たとえば、「あの人

は泣いている笥」「あの人は泣いている‥到u可」「あの人

は泣いている割引瑠」の三者を比較すると、ダロウを用いた文

の「あの人」はその場に存在しないが、ラシイやヨウダを用い

た文の「あの人」はその場に存在すると理解される。このこと

からも分かるように、専ら現実に生起している事象をもとにし

た話し手の判断を表すというのがラシイとヨウダの一致した機

能であるといえる。(■注1)

それでは、そのような共通点をもつラシイとヨウダの相違点

はどこにあるのだろうか。

これまでもラシイとヨウダの違いについては数多く論じられ

てきたが、その多くは意味・・用法のうえで重なり合う「推量」

をめぐってのものであった。ところで、「推量」以外にも、ラ

シイには「天気予報によると今日は雨が降るら引u〓」のように

他から伝え聞いたことを示す「伝聞」の用法、ヨウダには「ま

るで雪が降っている割引瑠」のように表面的にそう見えること

ー25.‑

(3)

を示す「比況」の用法があるが、聞き手がどういう場合に「推

量」と解し、どういう場合に「伝聞」や「比況」と解すか七い った点はこれまであまり問題にされてこなかった。ラシイ・ヨ

ウダの中心的な意味・用法を解明するためには十推量」だけで

なく「伝聞」「比況」をも含め、概言の形式としてラシイ.ヨ

ウダを包括的に検討する必要があるのではなかろうか。

また、ラシイ・ヨウダは言い切りに用いる場合と連体修飾に 用いる場合とで必ずしも意味・崩法が一致するとは言えない。

言い切りの文を連体修飾にすると意喋が変わってしまったり、

連体修飾の場合のみに生じる意味があったりする。本稿はその

ような点にも注目し、ラシイ・ヨウダの意味・用法について、

できるだけ広く考察を加えようとするものである。

これまでの研究

細かい検討に移る前に、これまでなされてきた研究がどのよ

うな観点からラシイ・ヨウダの相違について執明しているかに

ついて、概観する。

まず第一に、判断材料としての情報がどのような性質のもの

であるかという観点からの説明がある。話し手の外部からもた らされた情報を根拠に推量判断を下す場合がラシイ、話し手自

身の観察に基づく直感的な判断の場合がヨウダを用いる、とい うものである。代表的なものとしては寺村〓九七九)、森田 (一九八〇)などがあるが、寺村氏の場合、はっきりとそのよ うに区分七てしまわず、どちらかというと他者から得た情報に 基づく度合いが大きいのがラシイ、逆に話し手自身の観察に基 づく度合いが大きいのがヨウダである、と相対的に捉えている 点に特徴があるといえる。

第二に、話し手が事態に対してどのような意識をもっている

か、という観点からの説明がある。たとえば、柴田(一九八二)

では話し手と事態との心理的距離というものが問題にされてお

り、次のような例があがっている。「現地から帰った人の諸に

よると、アフリカでまた暴動があったヨウダ。」「現地から帰

った人の話によると、アフリカでまた暴動があったラシイ。」

ヨウダと言ったほうがアフリカに関心や関係をより多くむって

おり(即ち、話し手と事態との心理的距離が近く)、ラシイと

言った場合には傍観者的(即ち、話し手と事態との心理的距離

が遠い)というものである。早津(一九八八)も先に触れた間

接的情報・直接的情報という要因にくわえてこの話し手の心的 態度を「ひきよせ・ひきはなし」という用語を用いて大きく取

り上げている。

第三に、話し手が下した判断に自ら責任をとる意識があるか

ないかについて、責任をとる意識が大きいのがヨウダ、責任を

とる意識が小さいのがラシイである、という指摘がある。これ は先の寺村(一九七九)で触れられている。また、相同〓九

八〇)でも、判断の根拠が間接的情報か直接的情報かなど先に

‑‑‑‑‑‑‑‑‑26‑

(4)

触れた要因のほか、この責任をとる意識のあるなしについて言

及されている。(注2)

引用した論者以外にもまだ論はあるが、これまで進められて

きた議論の主要な点は以上のようにまとめられるであろう。

ここで問題点をあげれば、まず、判断の根拠が間接打情報か

直接的情報かによる区分は、同じ状況でラシイ・ヨウダの双方

が使える場合の説明原理とならない。間接的情報による判断と

考えられる「テレビのニュースによると、新しい税が導入され

るラシイ/ヨウダ」のような場合も、また、直接的情報による

判断と考えられる「電気が消えている。あの人はいないラシイ

/ヨウダ」のような場合も、双方用いることができ、情報が間

接的か直接的かという要因からの使い分けはなされていない。

また、間接的情報か直接的情報かを程度の差とする相対的な解

釈も、一方が全く使えない場合の説明には有効であるとはいい

がたい。(長嶋(一九八五)参照。・)

ラシイが間接的情報による判断であるというのは、ラシイが

「伝聞」と解釈される場合から導j出された結論のように思え

る。また、ヨウダが直接的情報による判断であるとされるのは、

後にも触れるように、話し手自身が捉えた感覚・知覚をそのま

ま表現する場合(たとえば「ちょっと味が薄い割引瑠」「顔色

が悪い割引瑠ね」など)にはヨウダしか用いられないという事

実からヨウダ全体の説明原理を見出そうとしたためであると考

えられる。 次に、話し手と事態との間の心理的距離、あるいは、責任を

とる意識の強弱といった問題であるが、ある例文については確

かにその要因が働いているように感じられることもあるが、そ

釘要因を考慮しなくてもよい場合が多数生じるように思える。

それらの要因は、ラシイ・ヨウダが置かれた前後の文脈の中で

生ずることであり、ラシイ・ヨウダに本来備わっている機能そ

のものではないと考えられる。

このようにみてくると、やはり、「推量」にしぼって比較す

るのではなく、広く概言の形式として両者の意味の重なりやず

れを細かく検討することによって初めてその本質的な相違が見

えてくるのではないかと思われる。

ラシイ・ヨウダの意味区分.

表にしたがってみていくことにする。まず、ラシイには「男

らしい人」とか「子供らしい遊び」といったように、・いかにも

その属性を有しているということを表す用法がある。表に「属

性描写」と示した欄がこれに当たる。これは、前に付く語が限

られていること、香定形をもつことなどから、一般に助動詞ラ

シイとは区別されることが多い。

次に、「伝聞」がある。話し手が情報採取の現場におらず、

他から与えられた情報を、それがおそらく間違いないという話

し手の判断を加えて情報提供者以外の第三者に伝えるとき、ラ

2・7‑

(5)

比 況 娩 曲 推 量 伝

.聞

展性描写

C, 王∋ A

ラ シ イ いあ■らあ ・ぽそらめ つ休山こ るのしの らのしつ てみ田の ら時い人 なこいき いらさ手 し計 ○は かと ○■リ なしん紙 いは 泣 つは 寒 い.いらは

○ま い た.話 ○休しい

ら層 みいか

しに ○に

て る

いの

と も

田 団 同

ウ ダ 降外泣あ ぼそよめ い̲あよあ

つはいの らのうつ るのうの て(て人 なこだき よ時だ人 いまいは かと ○リ う計 ○は るるる′、 つは 寒 だは 泣 よでよま た結 く′ ■○ま う)うる よ題

.が

だ雪だで うに

○が ○\ノ だの

シイは「伝聞」として解釈される。B棚の「めっきり寒くなっ

た引u叫」「そのことほ話題にのぼらなかった引u山、l」がその

例である。

次に「推量」として、C欄に「あの人は泣いている引u叫」

「あの時計はまがっている、l執しl〓」の二例をあげてある。ここ

で「推量」を「伝聞」と区別した基準は、「伝聞」では情報採

取の現場に話し手がいないのに対して、「推量」で.はその現場

に話し手が存在し、自ら得た情報を判断の根拠としている、‑と

いう点にある。ここで、話し手が情報採取の現場にいたかいな

かったかというのは、文脈に頼らなければ分からないといった 面があり、たとえば、C棚で「推量」とした二つの文にしても、

話し手が「あの人」や「あの時計」と同じ場にいるという前提

のもとで「推量」と見撤し得たのであって、庵し「00さんに

よると」といった表現が前にきて、話し手が「あの人」や「あ

の時計」の状況を直接知ったのではないことがはっきりしてい る文脈であれば、聞き手はその文を「伝聞」として理解するで

あろう。(注3)

しかし、文脈を抜きにしてもなおB欄のように「伝聞」にし

かとれない場合があるのはなぜであろう。「めっきり寒くなっ

た引u「〓」「そのことは話題にのぼらなかった引u〓」」が「伝

聞」と解釈されるわけは、「めっきり寒くなった」「そのこと

は話題にのぼらなかった」といったような直接体験がラシイと

いう推論形式で示されると、事実判断への根拠が他者の言であ

‑‑‑28‑

(6)

ると感じられるためであろうと思われる。「めっきり寒くなっ

た」ことの根拠は何かと問われたとしても、これは直感的な判

断であり、論理的に推論すべき事柄とは異なるものであるから

答えようがない。直感的な感覚、直接体験を敢えて推論として

述べるからには他者の言を通してその事柄を知ったと考えざる

を得ない。以上の理由から、.「めっきり寒くなったらlu叫」や

「そのことは話題にのぼらなかった引u叫」は「伝聞」と解釈

されるのである。

このように、ラシイの意味は、判断の根拠となる情報を話し

手自身が自ら得たと認められる場合には「推圭」、第三者から

伝え聞く形で情報を得たと認められるばあいには「伝聞」、と

いうふうに二分して考える必要がある。

もっとも、そのように仮に二分できたとしても、ラシイの果

たしている機能ほ一つであると言わなければならない。両者と

も、ある根拠をもとにした推論の結果、ある事実の(不確かな)

認定に達する、という点では変わりなく、断定はできないが事

実はこうであろう、という話し手の姿勢を表すという共通項を

有している。ただ、推論の偲拠として他者の書か、自分が感知

した事態か、どちらかが際立たされたときのみ「伝聞」「推圭」

の違いが現れる。

ラシイが事実を推論するのに用いられるとすれば、ヨウダは

事実よりむしろ現実世界を描写するのに用いられる、と言うこ

とが可能である。 表のC棚「あの時計はまがっているらしい」とD欄「あの時 計はまがっているよl引だl」を比較してみよう。もし発話時の状 況が、振り子つきの柱時計が止まっているのを見て、というの であれば、ラシイが用いられると考えられる。時計の微妙な設 置角度はおそらぐ目に入らず、時計が止まっているという事態 から時計がまがっているという事実を推論するのにはラシイが 適しているからである。一方、時計がまがっているという事態 を感覚でとらえて、それをそのまま言語化するのにはヨウダが 適している。もしそこにあるのが止まっている柱時計ではなく、 絵であったなら、判断のための根拠が目でとらえた事態そのも のしかないから「あの絵はまがっている割引瑠」と言うであろ う。この場合、「あの絵はまがっている舅uり」とは言わない はずである。

さて、感覚がとらえた現実世界を措くという性質をもつたヨ

ウダには「推量」という砕からはみ出る意味・用法がある。表

のE欄に示した「紛曲」がそれである。D欄の「推量」との違

いは、事実が話し手に了解されている点にある。事実は話し手

にとって分か.っているのだが、それを敢えてはっきり言い切ら

ないのが、このE欄の「娩曲」の場合である。「めっきり寒く

なった割引ガ」と言う場合、めっきり寒くなったこ七は話し手

が充分感じ取っていることであるが、それを断定的に言わず娩

曲に表現しているのである。また、「そのことは話題にのぼら

なかった割引璃」と言う場合も、実際に話⊥辛が会合の場など

‑29‑

(7)

にいて、そのことが話題にのぼらなかった事実は知っているに

もかかわらず、それを娩曲に述べているのである。このような

ヨウダは話し手が事態右実際に体験しているという意味で「実

体験のヨウダ」と呼ぶことができる。実体験のヨウダの例とし

ては、次のようなものがある。 (1)ずいぶん込んでいる割刊瑠。

(2)山川さんは席をはずしている割引川m叫。

(3)ガスの臭いがするよlJ刊瑠。 (4)このごろは物売りをあまり見かけなくなった粛.剖川m叫。 (5)このあたりも昔の賑わいを取り戻している割判州叫。

これらの例には知覚を表す表現が多く現れている。話し手が

直感的にとらえた事柄をはっ重り漸定的に言わない場合にこの

娩曲用法が用いられることが分かる。実体験のヨウダが用いら

れている文のヨウダをラシイに変えると、その文は「伝聞」の

意味になる。表のE欄と先に触れたB欄を比較すると、そのこ

とは明らかである。

最後にF欄の「比況」についてみてみよう。D欄、E欄との

比較でみると、D欄の「推量」は話し手にとって事実が明らか

ではない。E欄の「娩曲」は今触れたように話し手が事実を了

解している。そしてF欄の「比況」もやはり話し手が事実を了

解している。ただ、一ヨウダの先行部が事実と異なることが明ら

かであるという点で異なっている。つまり、「あの人は(まる

で)泣いている粛引瑠」と言う場合、おそらく実際には笑っで いて涙をぼろぼろ流しているような状況が想定され、事実は泣 いているのでないことが話し手にとってはっきりしている。ま た、「外は(まるで)雪が降っている朝刊瑠」と言う場合も、 雪が降っているのでないことは明らかであり、事態が雪が降っ ている状態に近いことを言っているにすぎない。

話し手の事実了解という観点からヨウダの意味・用法は以上

のような広がりをもつが、いずれにも共通しているのは現実界

への現れを描くという点である。ヨウダは事物や事態が真実ぜ

うであるかよりも、寧ろ、事態が表面上どうであるかを問題に

すると考えられるのである。

連体修飾の場合

ここまでラシイ・ヨウダが言い切りに用いられる場合につい

て、その意味・用法を検討した。ところで、ラシイ・ヨウダが

連体修飾に用いられるときには、言い切りについて言えたこと

がそのまま当てはまらないことがある。たとえば」 「推童」を

表すときにはヨウダ(の変化形ヨウナ)は用いられず、専らラ

シイが用いられるという傾向がある。次の例をみてみよう。

(6)その情報によると、グアム鳥のタロホホ川のほとり

で五十七、八歳と思われる元日本兵引u叫男が発見さ

れた、というのだが、…… (「私のいる」)

(7)つい五、六問うしろの桜の木の下に、道路工事の人

‑30‑

(8)

夫‥珂uり七、八人の男が腰をおろしていた。

(「浅草」)

(8)出社すると、.社会部のデスクが、ビルの屋上から撮 った引u〓富士山の写真をボンとぼくのはうに投げて、

(「私のいる」)

(9)「鐘増さま」は、秋田で芸者をしていた引u叫彼女

を、北海道へ連れていって囲ったが、…∵

(「浅草」)

(川)個人の所有引u叫小さな手漕ぎのボートから揚げら

れた魚は、すぐさま屋台に並べられ、・…‥

.(「スペイン」)

(6)から(川)は連体修飾にラシイが用いられた実例であ

る。まず、(6)の「元日本兵引u〓男」の場合、この「らし

い」を「のような」で置き換えて「元日本兵の粛・.刊なl男」とす

ると、もとの「推量」の意味はなくなり「比況」の意味になっ

てしまう。(7)(8)も「らしい」を「(の)ような」で置

き換えると、やはり、「推量」から「比況」に意味が変化して・

しまう。また、(9)(川)をみると、「らしい」.を「(の)

与っな」で置計換えること自体難しい場合もあることが分かる。

(6)から(川)のいずれの場合も、「推王」という意味を

変えずに「らしい」を「(の)ような」で置き換えることは不

可能で、もし別の衰現を用いるとすれば「と思われる」などを

用いなければならない。 また、逆に、次のような「比況」のヨウナをランイで置き換

えると、意味が「推量」へと変化する。

(‖)ある老婆の前には、どこかで拾ってきたよ割引瑚男も

のの古靴が一足、シャンデリアのガラス玉が数拉、ど

こかの教会から、はがし救ってきた粛‥つ一朝石のかけら、

それに五十年位前の茶色っばくなった女の人の写真が

二枚お小.てあった。 (「スペイン」)

このように連体修飾で「推量」のヨウダが使えず専らラシイ

が用いられるのはなぜか。

連体修飾というのは被修飾語の内容を規定する機能であるの

で、「推量」の連体修飾であっても、被修飾語が事実としてど

うであるかを推論する方向で規定しなければならない。その点

から言えば、ラシイが選ばれることになる。ヨウダは先に述べ

たように、事実がどうであるかよりも表面上の現れに重点が置

かれるため、事実を推論する方向での連体修飾には適さないの

である。

ただ、ヨウダは連体修飾に用いられたとき全く推量の意味を

もたないわけではなく、たとえば「何かいいことがある割引嘲

気(感じ・予感……)がする」など限られた被修飾語の場合に

は、「推量」の意味を含むと考えられる。

また、言い切りのヨウダにない機能として「例示」がある。

「私は当時ケネディの皐l到瑚政治家にもマリリン・モンローの

割引瑚女優にも会った」のような場合がこれで、文脈によって

‑31‑

(9)

は同じ文が「比況」とも解される。「例示」のヨウダについて は、国立国語研究所〓九五一)に用例がいくつかあげられて

いる。

四 ま と め

ラシイ●.ヨウダ介意味・用法を、言い切りだけでなく連体修

飾の場合についても検討した。「属性描写」のラシイを除いて、

以上述べたことをまとめると次のようになる。

(i)ラシ十は事実を推論する場合に用いられ、判断の根拠

となる情報が他から伝え聞いたものであるときは「伝聞」

話し手打身の直接得たものであるときは「推量」の意味

になる。

(五)ヨウダは現実界を描写する場合に用いられ、話し手に

とっての事態の不確かさを示すときは「推圭」、話し手

の知り得た事態を断定的に述べないときは「娩曲」、事

態を他のものになぞらえて示すときには「比況」の意味

になる。

(…皿)連体修飾の場合、「推量」の意味では一般にヨウダは

用いられず、ラシイが用いられる。このことは事実を推

論しようとする場合に用いられるラシイと事態を描写し

ようとする場合に用いられるヨウダの性格の養いを表し

ている。 本稿では概言の形式のうちラシイとヨウダのみを扱ったが、

関連する、、、タイダ、ソウダといった形式についてもさらに研究

を進める必要がある。

(注1)もっとも、金田一(一九五三)にも似た指摘があるよ

うに、「だろう」の前に「の」をおき「のだろう」とす

ると現実の判断材料についての言及になる。また、「の」

をつけない場合でも、「あの人は(ほら、あそこで)泣

いているだろう」のように、聞き手の存在を前披とする

場合ならやはり現実の判断材料についての言及となる。 この点に関連した記述が森山〓九八九)にある・。

(注2)日本語教科書にも以上の説明に沿った記述がみられる。

たとえば、今年(一九九〇年)発行の『現代日本語コー

ス中級Ⅱ』(名古屋大学総合言語センター日本語学科編)

には次のように記されている。

……「ようだ」は主観的な推量ですが、推理過程を

経ている点が、「‑そうだ」と違います。ですから、

「ようだ」を使った推量では、話し手ほ責任が大き

いと言えます。一方、「らしい」は、テレビとか雑

誌とかの外からの情報に基づいた推量であり、その

意味で客観的です。「らしい」を使った推圭は、で

すから、「ようだ」に比べると、責任が小さいと言

えます。(同書二八三ページ)

‑32‑

(10)

(注3)ヨウダについても、同一の文が文脈によって推量と比 況のどちらにも解釈されうる場合がある。寺村〓九八

四)には、「あの学生は男のようだ」「国に帰ったよう

です」「雨が降っているようだ」の三例があがってい、る。

【付記】本稿は一九八九年十月七日に東京、津田ホールで行わ

れた平成元年度日本語教育学会大会での発表内容に加筆

したものである。

【参考文献】

柏同

株子〓九八〇)「ヨウダとランイに関する一考察」

(『日本語教育』四一号)日本語教育学会

金田一春彦(一九五三)「不変化助動詞の本質」(『国語国

文』第二二巻二‑三号)京都大学国文学会

国立国語研究所(一九五一)『現代語の助詞・助動詞

用法と実例 ‑ト』秀美出版

柴田

武(一九八二)「ヨウダ・ラシイ・ダロウ」(国広

哲弥締『ことばの意味3』)平凡社

田中

俊子(一九八八)「いわゆる推量のラシイとヨウダ

モダリティの強弱とコトの内容の構造の観点から」

(『東北大学日本語教育研究論集』第三号)

寺村

秀夫(一九七九)「ムードの形式と意味(1)

轡書的報道の表現

‑・・」(『文撃言語研究

言語篇』

4)筑波大学

i

(一九八四)『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』く

ろしお出版

長嶋

善郎(一九八五)「ヨウダ・ラシイについての覚え書」

(『猿協大学外国語教育研究』4)

西出

郁代(一九六九)「研究ノートー

「らしい」お

よび「そうだ」 」(『日本語・日本文化』1)大

阪外国語大学‑

!

(一九七二)「研究ノートI 「ようだ」による

表現」(『8本譜・日本文化』3)大阪外国語大学

早津恵美子(一九八八)「らしい」と「ようだ」(『日本語

学』第七巻第四号)明治書院

森田

良行(一九八〇)『基礎日本語2』角川書店

森山

卓郎(一九八九)「コ、、、ユニケーションにおける聞き 手情報1聞き手情報配慮非配慮の理論

」(仁

田義雄、益岡隆志編『日本語のモダリティ』)くろしお

出版

【例文を引用した資料】

略号

小西章子『スペイン子連れ留学』(新潮文庫)「スペイン」

沢村貞子『私の浅草』(新潮文庫)…………・・・「浅草」

森本哲郎『「私」のいる文章』(新潮文庫)…「私のいる」

‑33‑

[本学教員]

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