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― ― 「モネの庭」を巡って

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1. はじめに

近年の日本からのフランス周遊ツアーの多く に、ヴェルサイユ宮殿やモン・サン・ミシェル などの世界遺産と並んで、ノルマンディー地方 の ジ ヴ ェ ル ニ ー に あ る 画 家 ク ロ ー ド・モ ネ

(Claude Monet 1840 

1926)の家と庭園の見学 が組み込まれている。4

  月から10月までの7ケ 月しか開いていないこの庭を訪問する日本人観 光客は数多い。この庭が人をひきつける理由は どこにあるのだろうか。

すでに、モネと彼の庭、モネの作品の源泉と しての庭については、多くの論考があるが、本 論では、はじめにモネの作品の解釈と「モネの 庭」の観光体験との関係について、観光の作品 解釈の媒介という観点から考察する。次いで、

日本国内にある「モネの庭」と称する場所につ いて、こうした庭がどのようにして日本で受け 入れられているかについて分析と考察を試み る。

2. 画家モネの庭―ジヴェルニー

1883年、モネはノルマンディー地方のジヴェ ルニーに居を構えた。ジヴェルニーはルーアン とパリを結ぶセーヌ川沿いのごくありふれた、

静かで美しい村落であった。モネの借りたピン

ク色の家はその村の中で最も大きなものであっ たという(Tucker[1995:175])。モネはこの 土地で二人目の妻となるアリスとともに安定し た家庭を作り上げることができた。同時にもと もと庭仕事の好きであったモネは造園に夢中に なった。そして、その庭は彼の後半生の作品の 重要な主題となっていったのである。

1890年には土地と家を購入し、本格的に庭造 りに心血を注ぐこととなる。ジヴェルニーに 移ってからも、制作のため長期に家を空けるこ との多かったモネは家族に宛てた手紙の中で も、庭の手入れに触れ、庭師への指示を書いて いる。また、旅先から苗木や種を送ることも あった。

1893年には、道路と鉄道をはさんだ向こう側 の土地も手に入れ、庭を拡張した。これが、「水 の庭」と呼ばれる部分で、「睡蓮」の連作を生 み出す源泉となる。モネがこの水の庭を造るた めに、セーヌ川の支流であるリュ川から水を引 き、池を作り、睡蓮を植えることになったとき、

周辺の住民は強く反対した(Tucker[1995:

175])。住民たちは、川から大量の水を引き込 むことや異国からもたらされた奇妙な植物に よって川が汚染されることを恐れたのである。

これに対してモネは強く反発、すぐさま政治的

「モネの庭」を巡って

―ジヴェルニーから日本へ―

小 坂 智 子

要 旨

本論は、フランスのジヴェルニーにある「モネの庭」の観光体験とモネの作品解釈の関係について考 察するものである。さらに、「モネの庭」を模して造られて、日本の庭について、分析と考察を試みる。

キーワード

クロード・モネ、モネの庭、作品解釈と媒介

(2)

手法でこれを解決しようとした。最もすでにモ ネの計画は進んでおり、住民の反対は遅きに失 していた。あまつさえ、1901年と1910年には拡 張工事も行われたのである。

「水の庭」には睡蓮やボタン、つつじ、藤な どを植え、日本風の太鼓橋もしつらえた。モネ の日本と日本美術に対する深い理解と敬意はこ うした形で庭にも印されたのである。この「水 の庭」と家の周辺の「ノルマンディーの庭」か らは、晩年の「睡蓮」の連作を中心とした作品 群が生み出された。

こうして、モネが精魂傾けて造り上げ、創造 の源泉となった庭であったが、現在我々の訪れ ることのできるジヴェルニーの家と庭園は、往 時のままに継承されてきたものではない。モネ の死後遺産を相続したのは次男のミシェル・モ ネ だ が、し ば ら く は モ ネ の 義 理 の 娘 ブ ラ ン シュ・オシュデ・モネ1)  がジヴェルニーの家と 庭の事実上の管理にあたっていた。彼女の死後 は1961年まで弟のジャック・オシュデが管理し ていた。しかし、手入れは次第に行き届かなく なっていた。ミシェルが1966年に交通事故でな くなると、遺言により、その遺産はパリのマル モッタン美術館に寄贈された。マルモッタン美 術館はフランス芸術アカデミーに属している。

作品はマルモッタンに移動したものの家と庭は しばらくは荒れるままに放置された。その後、

クロード・モネ財団の理事長、フランス学士院 会員のジェラルド・ヴァン・デル・ケンプの尽 力により、国の援助や寄付を受け、本格的な大 改修が行われて庭は生き返り、1980年から一般 に公開されている。

3. ジヴェルニーを訪れること

モネの庭には年間およそ40万人が訪れるとい う。ヴェルサイユ宮殿の約10分の一程度の客数 であるが、7

  ケ月間しか開いていない施設であ ることやパリからの交通の便を考えると少ない とはとてもいえない。

モネの家を訪問する人々が登場したのは、

1980年の一般公開以来と考えがちであるが、

もっと古くから、人々はこのジヴェルニーを目 指してやってきていた。モネがジヴェルニーに 引っ越してほどなくすると、芸術家たちの一団 がやってきた。画家を志す人々が、パリから程 遠くない田舎で、芸術家コロニーを形成するこ とは、よくあることではあった。モネを慕うア メリカ人の画学生たちはパリを離れ、ジヴェル ニーで夏をすごしにやってきた(ラックマン

[2003:211])。1887年にはすでに土地のカフェ はホテルになり、食料品店に外国産の食品も並 んだという。ラックマンの言葉を借りれば、「主 要な土地の産業として、芸術観光業が農業を補 うようになってしまった」のである。当時のジ ヴェルニーの人々に観光業としての意識があっ たかはともかくとして、ここではラックマンの

「芸術観光業」という言葉に注目しておきたい。

現在ジヴェルニーの地を訪れる観光客の中に、

アメリカ人と日本人がしめる割合が大変高いと いわれるが、アメリカ人の数が多い一因はここ にある。1992年には彼らアメリカの画家たちの 作品を集めた美術館がジヴェルニーにオープン している。

日本の人々も生前のモネを訪ねていた。彼ら は主としてモネの作品を購入することを目的に やってきていた。黒木三次夫妻は、モネの友人 でフランス首相であったクレマンソーに伴われ て訪れ、作品を購入している。このときモネと ともに撮った写真が現存している。彼らは4点 の作品を購入し、そのうちの2点は現在東京の 石橋財団ブリヂストン美術館に収蔵されてい る。また、画家児島虎次郎は、大原美術館のコ レクションのためにモネから直接睡蓮の絵を 買った。もともと日本の著名な西洋絵画のコレ クションは第一次大戦後の日本の経済発展に 伴ってこの時代に形成されたものが多い。

その中でも桁外れのコレクションを有してい たのは松方幸次郎である。彼もまた1922年にモ ネの元を訪れ、18点もの作品を一挙に購入し 2)。それから60年余りたったバブル期には、

(3)

モネの全作品のうちの10パーセントは日本に存 在するとさえいわれていたが、モネと日本との 関係は、モネ自身の若い頃からの日本への興味 に加え、生前のモネに対する日本人の敬意から も特別に親密なものであったことがわかる。日 本の現在のモネ人気は、長い時間をかけて形成 されたものである。

しかし、こういった生前のモネを求めてやっ てきた人々と、今日のジヴェルニーを訪問する 人々の目的はおのずと異なったものになってい る。

通常、美術をテーマにした観光であるなら ば、いわゆる作品を鑑賞したり、歴史的な建造 物や遺跡の探訪を目的としたものがほとんどで ある。いわば、本物をじかに見ることが目的と なっている。しかし、モネの庭の場合、ジヴェ ルニーにはモネの作品は存在しない。彼の家の 壁にかけられているのは、多数の日本の浮世絵 である。そのほかに見られるのは複製画とブラ ンシュが描いた作品だけだ。実際に画家の家を 訪ねながら、当の本人の作品を鑑賞することが ないという、奇妙にねじれた体験をすることに なる。

同様な体験にゴッホをめぐる旅がある。南フ ランスのアルルやサン・レミあるいは、彼の終 焉の地であるオーヴェール=シュル=オワーズ では、ゴッホの足跡をたどることができる。実 際にアルルでは、画架を持ったゴッホのプレー トが街路に埋め込まれていて、そこをたどって ゆくとゴッホゆかりの場所を訪れることができ る。有名な跳ね橋3)  や彼の入院していた病院の 中庭といった場所にはゴッホの複製画が置か れ、作品と描かれた場所を比較することができ る。

アルルやサン・レミは、現在我々がゴッホと 聞いてすぐに思い浮かべるような作品−たとえ ば、《ひまわり》、《星月夜》−の生み出された 地であるが、オーヴェール=シュル=オワーズ は彼の終焉の地として名高い。アルルのように ローマ時代の遺跡やロマネスクの教会などのそ

の他の文化資源に恵まれていないこの街は、

ゴッホを求めてやってくる人々であふれてい る。

三浦篤は、ゴッホの終焉の地であるフランス のオーヴェール=シュル=オワーズで体験し た、作品の前で感じるものとは別の感動を分析 している(三浦[2002:182

185])。ゴッホの 特異な生涯と作品をたどりながら、いわゆる

「ゴッホ神話」が形成されていく過程をおい、近 代美術がいわば擬似宗教として機能しているこ とを指摘する。ゴッホゆかりの地を訪ねる体験 は、いわば聖地への巡礼と同様なものであり、

社会の犠牲となった芸術家への償いの気持を呼 び起こすものであると説く。

現在一般的に流布しているゴッホという画家 像は、必ずしも、実態を正確に伝えるものでは ない。こうしたゴッホ像が作られた背景には美 術史学や展覧会、映画、小説、戯曲といった言 説がある4)。愛と友情を拒絶され、精神に変調 をきたし、社会から理解されぬままに、自らを 撃ち死んでいった画家、あるいは死んだ後に なってから、ようやく評価を得ることのできた 画家といったゴッホのイメージは、繰り返し、

本や映画、TV番組などで語られる「神話」で ある。その画業の死後の評価は、近年の高額な オークションレコードに明解に示されている。

こうした生前には評価されなかった悲劇の画 家が、死後に認められるという天才の神話―天 才は同時代には理解されない―は、近代になっ て生まれたものである。しかし、このように、

英雄視されるアーティスト像は、いわば、聖な る殉教者であり、「神の死」が宣告された近代社 会においては、芸術が宗教の役割を担っている とするのが、三浦の論旨である。

こうした、ゴッホの聖人伝説とその聖地めぐ りとしての観光という捉え方は果たして、モネ の例においても有効であろうか。

モネもまた、画家としてのキャリアのはじめ から、社会に温かく迎えられたわけではない5) しかし、ジヴェルニーに居を構える頃から、次

(4)

第に彼の生活は安定してきていた。1900年代に 入ると彼の名声は定着し、晩年の大作であるオ ランジュリー美術館の『睡蓮』は、国家的プロ ジェクトであった。こうした晩年には大家とし て認められ、曲折はあるものの家庭生活にも恵 まれ、長い人生を送った画家の生涯を、ゴッホ の生涯を重ねあわせることはできない。モネ は、前衛からはじめ最後は大家となる成功した 近代の画家像をなしている。

モネを崇める言葉もある。アンドレ・マッソ ンはオランジュリー美術館のモネの「睡蓮」の 間を「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼んだ。

神格化されているのは、作品そのものであり、

彼が生きた場(=ジヴェルニー)は聖地ではな いのである。

では、モネの庭で我々が経験するのは、どの ようなことなのであろうか。筆者とジヴェル ニーに同行した知人は(美術史の専門家ではな く、一般的な愛好家であったが)、「モネが立っ ていたその場に立つことができたので感激し た」と語った。ここでは、偉大な画家と同じ空 間を共有できたことに対する感動がある。モネ と同じ場に立つという、その場を神聖化する感 情を持ったことは確かなように思われる。しか し、それは、ゴッホほどに、その「悲劇的な人 生(つまりは神話)」と結びついたものであっ たとは思えない。むしろ、まさにこの場所で、

モネが絵筆を執っていたということに、つまり は、作品と直接結びついている場を共有してい ることに、ウエートが置かれている。

筆者の恩師であり、モネに関する大著を著し たヴァージニア・スペートが講義の中で、「絵画 を見る喜びは、それまで経験したことのないパ

−スペクティヴを獲得することである」と語っ たことを、しばしば、思い出す。モネのような 物語性を排除した視覚優先の作品を描く画家の 場合、このことは、「それまで、経験したことの ない視覚」を手に入れることと言い換えてよい ように思う。それまでは、睡蓮の花とにごった 水であった光景が、モネの庭に立ち、モネが絵

筆を執っていた場所に立つことにより、きらき らと光を反射する色鮮やかな水面へと変化する 視覚を得ること。これこそが、モネの庭で我々 が経験することなのではないであろうか。いわ ば、モネの視覚を通して、庭を、自然を、世界 を眺めることを知るのである。

モネの庭を訪れても作品を見ることはできな い。しかし、そこは、そこへ行く前にあるいは、

行ってから出会うモネの作品を理解する手立て が与えられる場であるといえる。いわば、モネ の庭の観光には芸術作品を解釈する道筋をつけ る作用、つまり媒介としての作用があるのであ る。

4. 日本におけるモネの庭

前項では、モネの庭を訪れる体験から、観光 の作品解釈への媒介作用について、指摘した。

しかし、作品から離れた庭そのものの吸引力に ついても指摘しておく必要があるように思われ る。そのために、ここでは、現在日本に再現さ れている「モネの庭」について、まとめておき たい。日本では現在いくつもの「モネの庭」が ある。ジヴェルニーの庭を模して、あるいはイ メージして造られたこれらの庭を詳述すること から、日本における「モネの庭」の人気のあり かが見えてくる。

「モネの庭」を称する場を列記してみよう。

高知県北川村の「北川村モネの庭マルモッタ ン」、印象派の作品をモチーフとした庭園美術 館「ガーデンミュージアム比叡」、香川県直島の 地中美術館にある「モネの庭」、2004年の花博 のおりに作られ、現在も公開されている「浜名 湖ガーデンパーク」、その他にも栃木県足利市 のフラワーパーク内の「モネの庭」、日本で一番 早くジヴェルニーの庭から睡蓮を移植したとす る愛知県豊橋動植物園の「モネの庭」、岡山県倉 敷市にある大原美術館にある「モネの庭」など である。

高知県北川村にあるモネの庭は2000年に開園 した。村民1600人の村で、初年度は21万人を集

(5)

客したことで一躍注目を集めた。工業団地の計 画が頓挫した土地は、自然公園にする以外に手 はなかったという。事業費22億円は村の年間予 算に匹敵する。96年に村の人がコンサルタント とジヴェルニーのモネ財団を訪ねた時には、す でに日本の3つの自治体が接触をしていたとい う。ちょうど、この時期に隆盛を迎えるガーデ ニングブームのあおりを受け、「モネの庭」を わが町にという発想は、稀有なものではなかっ たのである。

北川村の村民一体で取り組む姿勢が評価さ れ、「北川村モネの庭マルモッタン」という名 称の使用が許された。いわば、本家のお墨付き というのが、集客のポイントの一つでもある。

パンフレットには「世界に2つのモネの庭」「フ ランスから高知に」「モネが見ていた風景があ ります」の字が躍る。庭園内には、何点かのモ ネの複製画も展示されており、モネの描いた場 所 が こ こ に あ る と い う こ と を 強 調 し て い る

(Fig. 1)。

ジヴェルニーに倣って、「水の庭」と「花の庭」

に分けた構成、ショップとレストランの入って いる建物はモネの家をモデルにしたものという ように、つとめて再現を心がけていることがわ かる。「水の庭」は睡蓮の池を中心に、ジヴェル ニーにもある日本の太鼓橋を模したといわれる 橋が架かる。「花の庭」にはモネの家が再現さ れた建物があり(Fig. 2、Fig. 3)、その前には

ジヴェルニー同様のバラのアーチも作られてい る(Fig. 4、Fig. 5)。建物内には、モネの複製 画やモネの家をミニチュアで再現したものなど が展示されている。さらに一角には、体験コー ナーがあり、押し花アートなどのセミナーを実 施している。また、モネ関連の書籍の閲覧コー ナーも置かれている。ショップ内には、村の特 産品であるゆずを使ったワインや菓子類と、モ ネのグッズ(絵葉書、複製画、傘など)が販売 されている。一方レストランでは、モネの料理 本からの料理もあるという。レストランのデザ インには、フランスのカフェを意識したような テントや、ジヴェルニーのモネの家の食堂に用 いられている色彩が使われている。

別棟にはワイン・セラーがあり、ここでも、

高知県産のくだものを使ったワインが販売され ている。ショップやワイン・セラーの品揃えに

Fig.  北川村モネの庭マルモッタン「水の庭」2005 10月撮影

Fig.  北川村モネの庭マルモッタン、レストラン、

ショップの入っている建物 200510月撮影

Fig.  ジヴェルニー、モネの家 1999年9月撮影

(6)

は、村や地域の物産を売り出そうとする意欲が 感じられ、村の第三セクターが開業した場所に ふさわしく、「村おこし」の一環として、開業 されたいきさつが見て取れる。一方で、ワイ ン・セラーは、モネからフランス、フランスか らワインという、連想が働いているように思わ れる。フランス的なテイストを演出する意図が 垣間見える。

高知県とジヴェルニーとの気候の差は著し く、花々までジヴェルニーと同じ種類というわ けにはいかないようだ。筆者は、ジヴェルニー には9月、北川村には10月に訪れたが、フラン スと日本との気温の差を考えれば、ほぼ似たよ うな時期といって差し支えないと思う。しか し、日本の高温多湿の夏を過ごすことのできる 花は、ジヴェルニーの庭の花とはかなり異なっ ていたが、ダリアやナスタチウムなどの、ジ ヴェルニーでも目立った花々は、北川村でも場

を与えられていた。中心である「水の庭」の睡 蓮は、ジヴェルニーから株分けされたものであ ることが、解説板に記されている。さらに、モ ネがジヴェルニーで栽培を試みたものの定着さ せることのできなかった熱帯性の「青い睡蓮」

が、ここでは栽培されている。その睡蓮もモネ が苗を仕入れていた南フランスから特別に取り 寄せたものである旨が説明されている。ジヴェ ルニーよりも、モネの望んでいたものが実現で きているというわけで、いわば、再現の真正性 を強調するかのようである。

現在では、初年度の驚異的な入場者から、急 激な減少が続いている。2004年度は12万人にま で落ち込んだ。当初は無料であった入場料も2 年後には300円に、本年度からは700円に値上げ されている。受付の方の話では、当初のような ものめずらしさから訪れる客から、季節ごとの 花を見に来るリピーターへと客層が変化してい るようである6)。また、「モネの庭」以外にも、

子供の遊べる空間や、自然遊歩道も整備され、

人々の憩いの場である公園としての性格がより 強くなっているようである。

再現性の点では、浜名湖のモネの庭のほうが 優れているかもしれない。浜名湖花博の目玉の 一つとして造られたモネの庭は、ほぼ、ジヴェ ルニーと同じような配置で、三分の二のスケー ルで再現された。時間をかけて、モネの生きて きた時代と同様な庭を復元してきたジヴェル ニーに比べれば、短時間で造り上げられた浜名 湖の庭は、花博の開催時には植栽の伸び方が足 りず、ジヴェルニーの濃密な庭を知っている と、薄められたような印象はいなめない。

外観はほぼ忠実に再現されたモネの家にはモ ネの生涯と作品に関するデータベースや、ハイ ビジョンの上映があり、モネに関する知識も十 分に得ることができるように配慮されていた。

花博の会場跡は、現在は浜名湖ガーデンパーク として公開されている。

公園内にモネの庭が再現されている例として は、豊橋動植物園、足利フラワーパークが挙げ Fig.  ジヴェルニーのモネの庭 バラのアーチ 

1999年9月撮影

Fig.  北川村モネの庭マルモッタン、「花の庭」バラ のアーチ 200510月撮影

(7)

られる。ここでは、もっぱら、池に睡蓮が浮か べられ、再現されているのは、「水の庭」であ る。豊橋は日本で始めて、ジヴェルニーの睡蓮 を株分けしたという。本家のジヴェルニーの庭 にも、豊橋にあるこの庭についての日本語のプ レートが置かれている。

一方、美術館に「モネの庭」を再現する例が 存在する。大原美術館、地中美術館は、モネの

「睡蓮」の連作を所蔵、展示している。大原美術 館の《睡蓮》(1906年)は先にあげた児島虎次 郎がモネから購入したものである。睡蓮もま た、ジヴェルニーから株分けされている。

地中美術館は、建築家安藤忠雄の設計、展示 デザインの建物に、モネ、ウォルター・デ・マ リア、ジェームズ・タレルのたった三人のアー ティストの作品が、設置されている、特異なコ ンセプトを持った美術館である。この美術館の

「地中の庭」は、今夏新たに入口の前に設けられ たものである。ホームページの解説には次のよ うに書かれている。「『地中の庭』は、クロー ド・モネが愛した植物を配した庭園です。モネ 自ら造園したジヴェルニーを題材として、モネ が描いた作品、資料などを調査し、選定した約 150種類の草花と約40種類の樹木が四季折々の 表情を見せます。『地中の庭』は、自然との対話 を楽しめる場所であり、モネが描いた自然の美 しさを、実際に体験することにより作品への理 解を深めていただきたい、という思いが込めら れています。」モネの庭を知ることで、作品を より深く理解することへの期待が述べられてい る。

この他にも京都の大山崎山荘美術館の庭に も、睡蓮とアイリスの一角が設けられていた が、大山崎のモネの展示スペース「地中の宝石 箱」と地中美術館の設計者が安藤忠雄であるこ とを考えれば、発想の源はおそらく同一であろ うと推察される。これらの庭は、まさに、展示 されている作品の鑑賞の手助けとしておかれて いるのであり、先に筆者が指摘したような、作 品解釈への媒介作用を担っているのである。

このほかに、庭そのもののモチーフを印象派 の画家たちによっている「ガーデンミュージア ム比叡」の例がある。2001年に開園したこの場 所は、ミュージアムと名乗るこの庭園には、陶 板で再現された、モネ、ルノワール、シスレー といった印象派画家たちの作品がおかれ、その 風景が庭に再現されている。2004年度は13万人 近い入園者を集めている7)。陶板に複製されて いる作品の中では、モネの作品が最も多く取り 上げられている。ここでは作品を鑑賞するとい うよりも、庭そのものによる作品の再現に主眼 が置かれているのである。

インターネットで検索してみると、このほか に現在も計画中のものや、計画されたものの実 現に至らなかった例が存在していることがわか る。日本中に「モネの庭」が存在していると 言ってよいだろう。

これらは、モネの作品を鑑賞するために設け られた庭と、庭そのものの魅力を再現すること に主眼が置かれている庭に、大まかに二分でき る。このことは、「モネの庭」というものの魅力 として、我々は、作品を見るための手助けと庭 そのものの観賞との二つとして捉えていること を示すものである。

5. おわりに

本論では「モネの庭」を訪れる観光について、

考察を試みた。ジヴェルニーのモネの庭を訪れ ることは、作品解釈への媒介となることを指摘 した。一方、日本で、再現された「モネの庭」

からは、作品そのものへと導く視点と、庭園の 類型として「モネの庭」を見つめる視点とが、

見られること、そして、それら二つの視点が、

「モネの庭」に人々が足を運ぶ要因となってい ることを分析した。しかし、これらのいくつも 作られた日本の「モネの庭」は、果たして、文 化的な観光を呼び起こす装置として機能してい るのか、あるいは、単に、フランスやモネとい うブランドの力を借りた戦略であるのか、これ らについては考察する余地が残されているよう

(8)

に思われる。

1)ブランシュ・オシュデ・モネは二人目の妻アリ スの連れ子であり,クロード・モネの息子ジャン と結婚しているので,二重の意味で義理の娘であ る.

2)モネの日本人との交流については吉川(2004)

を参照.

3)現存する跳ね橋はゴッホの描いたものではな い.ゴッホが描いた場所から20メートルほど離れ たところに再現されたものである.

4)ゴッホ神話の形成に関しては,以下の文献に詳 しい:木下(1992),圀府寺(1992,1996,1999,

 2004),Heinich(1991=2005).

5)革命的アウトローであった印象派の画家たちと いう言説も,現在では見直しを迫られている.

6)2005年10月9日取材.

7)筆者の問合せに関する回答(2005年10月).

参考文献

木下長宏(1992)『思想史としてのゴッホ』学藝書 林.

圀府寺司編(1992)『ファン・ゴッホ神話』テレビ 朝日出版局.

圀府寺司(1996)「ファン・ゴッホ《烏の群れ飛ぶ 麦畑》―物語の結びとしての『絶筆』」『美術史の

スペクトラム―作品・言説・制度』(若山映子,

圀府寺司編),光琳社.

圀府寺司(1999)「消えた『烏』と『麦畑』『西洋美 術研究』1号,125145頁.

圀府寺司(2004)「ファン・ゴッホ展覧会史」『西洋 美術研究』10号,5263頁.

佐藤聡子(2001)「ミュージアムとテーマパークの はざま―『北川村モネの庭マルモッタン』をめ ぐって―」『アートマネジメント』第2号,61 67頁.

三浦 篤(2002)「芸術という名の宗教」『語りえぬ ものからの問いかけ』(宮本久雄,岡部雄三編),

東京大学出版会.

吉川節子(2004)「日本とモネの出会い」『武蔵大学 人分学会雑誌』第35巻4号,4567頁.

Spate, V.(1992)Claude Monet:The Colour of Time.

 Thames & Hudson, London.

Rachman,  C. (1997) Monet.   Phaidon  Press,  London=高階絵里加訳(2003)『モネ』岩波書店.

Tucker, P.  H.(1995)Claude Monet:Life and Art.

 Yale  University  Press,  New  Haven  &  Lon- don.

Heinich,  N.(1991)La gloire de Van Gogh:essai d’anthropologie de l’admiration. Editions  de  mi- nuit, Paris=三浦篤訳(2005)『ゴッホはなぜゴッ ホになったか:芸術の社会学的考察』藤原書店.

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