1.はじめに 「石碑」という言葉を聞いて、普通の人が思い浮かべるのは「神社や寺などに建っている、 小難しそうなことが書いてある石の板」というイメージであろう。別に、そういう一般的 なイメージが間違いだと言いたいわけではない。普通は石碑などというものは、目に入っ てきても「素通り」するだけであるし。実は、筆者も長い間そうであって、変わってきた のは比較的最近のことである。 ところで専門の学術誌には、石碑の文章の解釈が載っていることがある。ただ、それら の論考は、碑文の史料的意味を説くことが多い。むろん、そういう仕事は歴史学の研究と して重要である。しかし筆者としては、石碑を文学として味わってみたいと思った。本稿 では、自宅の近くにある漢文の石碑の読解を通じて、その文学性を示してみたい。 また「漢文で書かれた石碑」であるから、ただ単に漢字を並べ立てた文章ではなく、そ の背景には中国古典文学の豊かな素養があるわけである。中国の古文の、文法・語彙・修 辞法に基づいているのである。そうでなくては、きちんとした漢文とは言いがたい。で、 石碑について記した後には、中国古典文学の中の漢詩を味わってみることにした。取り上 げた漢詩は、いずれも中国文学史における名作とされるものである。 「自宅近くの石碑と中国文学の名作」という二方面から、国境を越えて広がる漢文学の、 豊かな世界の一端を示せれば幸いである。 2.石碑 筆者の住まいは町田市内の上小山田町で、気が向いた時には町内の神しんめい明神社に散歩に行 く。神社は小高い丘の上にある。その境内の片隅には、漢文で書かれた「合ご う し の祀之碑ひ(意味: 神社統合に関する石いしぶみ文)」という石碑が立っている。 昨年、神社の境内で、氏子の人たちと立ち話をする機会があった。立ち話の結果、筆者 【研究ノート】
石碑と漢詩
伊 藤 直 哉
キーワード:石碑、漢詩、中国文学、日本文学が碑文の口語訳と書き下し文を作成して、氏子の皆さんに贈ることになった。ところで訳 を作ったというのは、取りも直さず、碑文を熟読したということである。熟読の結果、「こ れも文学だな」と感じた。神明神社は、至ってローカルな社やしろである。こういう無名の神社 の石碑にも、文学が潜ひそんでいることがあるわけだ。本当に文学というのは、思いがけない 所にも存在するものである。以下に、この場を借りて石碑の紹介をしたいと思う。(口語訳、 書き下し文、原文の順に記し、いささか注を加えた。) [口語訳] 合ご う し の祀之碑ひ(神社統合に関する石いしぶみ文) 本田定さだとし年が、謹つつしんで題額を篆てんしょ書で書いた。 (注①):本田定年は明治・大正期に活躍した書道家で、本業は医師。 (注②):題額とは、石碑上方の□で囲んだ部分のこと。□の中には、篆てんしょ書という 古い字体で「合祀之碑」と書かれている。 (注③):この口語訳は段落に分けた。(口語訳の次の書き下し文も、同様に分けた。) 上小山田には多くの社やしろがあちこちに点在していた。明治乙きのと亥いの年(1875)、神明神社、 金山神社、及び二か所の稲荷神社、三か所の日枝神社を、統合して祭ることになった。 今年は甲きのえ寅とらの年(1914)、秋葉、琴平、蚕こ影かげの諸神社を新たに加えることになった。た だし神明神社が主で、他の九神社は付属する形である。そして、立派な本殿を建て拝殿も 作った。大た く み工の技はすぐれ建材は頑丈、壮大で美しい。 そもそも神社が多すぎれば、何かと煩わずらわしく不便である。ゆえに統合したのも止むをえ ないことであった。 しかし、他の村里では成しとげられなかったことが、この里で実行しえたのは素晴らし いことだ。建設工事には多額の費用がかかった。他の村里であまり見られないことが、こ の里に出現したわけで、模範となりえよう。ましてやこの地は小高い丘に樹木が茂り、ま ことに神域であって、人々が神を祭るのに絶好の場所と言うべきだ。以下に、賛美の言葉 を述べる。 村の衆は和気あいあい、習俗は純朴。 厳 おごそ かな祭り、心をこめて神に仕える。 盛んに茂る丘の上、緑は深し木々の色。 建てられたこの場所こそは、神のお住まい。 神の心に叶かなうゆえ、尽きせぬ幸さちを与えてくれる。 穀物・果実すくすく育ち、桑の葉もいよいよ豊か。 ご先祖様の作ったものを、後のちの人々忘れなきよう。 建物作り屋根を葺ふき、永く続くよ、この社やしろ。 大正三年甲きのえ寅とらの年(1914)九月 小島守政が謹つつしんで文ふみを作り、息子の孝が書道 で字を書いた。赤羽知親が石に字を彫ほった。
(注④):小島守政は町田市小野路の漢学者。 (注⑤):平成四年(1992)に神社は火災で焼失したが、二年後、立派に再建さ れた。 〇この碑文は単に事実だけを述べたものではなく、神社建設に対する深い思いが込められ ていると言えよう。それからまた簡潔な筆遣いの中に、上小山田の人々への共感や、な かなか優れた自然描写も含まれている。よって、十分に文学作品として味わいうるもの だと思う。 [書き下し文] 〇まず「書き下し文とは何か?」ということを確認しておきたい。書き下し文は、漢文 を訓くんどく読(→日本の古文に直訳)した読み方を、書き記した文のことである。つまり一 種の翻訳文なのであるが、古文への直訳なので、現代人が理解するには更に口語訳を する必要がある。ゆえに、先ほど口語訳を示したわけである。 漢文というのは本来「中国の古文」を指すものだが、しかし「中国人が書いたもの」 とは限らない。それは英語の文章が「イギリス人が書いたもの」とは限らないのと同 様である。古代から二十世紀の初めに至るまでの長い間、漢文は、東アジアの知識人 が共通に用いた文章語であった。たとえば菅原道真(845 ~ 903)は漢詩文集を残し ているし、近代の夏目漱石や森鴎外にも漢文の著作がある。その意味で漢文は、日本 文学の重要な構成部分でもある。 また漢文は、西洋のラテン語に相当するものとも言える。かつて西洋の知識人は、 共通語としてラテン語を用いた。たとえばイギリスの物理学者ニュートンも、ラテン 語で本を書いている。 合ご う し祀之の碑ひ 本田定さだとし年謹つつしんで額を篆てんず。 上小山田は社やしろ多く、各地に散在す。明治乙おつ亥がい、神明社、金山社、及び稲荷社二つ、日枝 社三つを合ご う し祀す。 今玆これ甲こう寅いん、又 秋葉、琴平、蚕こかげ影の諸社を以もって焉これに加う。而しかも神明社を主と為なし、九社 之 これ に属す。是ここに於おいて大いに本殿を修おさめ、又 拝殿を建つ。工たくみは良く材は堅く、輪りんかん奐甚はなはだ美うるわし。 夫それ廟びょうう宇多きに過ぐれば、則すなわち事煩わずらわしくして不便なり。所ゆ え以に之これを合ご う し祀するは已やむを 得ざるなり。 然 しか れども他たきょう郷未いまだ行う能あたわずして此この郷能よく之これを行うは、善と謂いう可べきなり。工事経営、 其その費ついえ実に鉅おおし。未いまだ多く他郷に見えずして此この郷に見ゆるは、義と謂う可きなり。況いわん や其の地 山高くして樹き秀さかえ、洵まことに霊境と為なし、民の敬うやまいを神に致いたすに、亦また至れる哉かな。銘めい に曰いわく、 一いっ郷きょう和楽し、習俗敦とん淳じゅんなり。祭さ い し祀は粛しゅくぼく穆、誠を以もって神に事つかう。 鬱う っ こ乎たる山さんしょう椒、樹じゅ色しょくみどり碧を凝こらす。之これを経おさめて之を営み、神の宅すまう所なり。
既すでに神意に愜かない、福を降くだすこと無むきゅう窮。穀こ っ か果完まっとうして実り、蚕さん葉よう滋ますます豊かなり。 前人の創つくる所、後人 怠らず。維これ修おさめ維葺ふき、祠し廟びょう千せんざい載なり。 大正三年甲こう寅いん九月 小島守政謹つつしんで撰つくり、男おのこ孝謹つつしんで書く。 赤羽知親刻きざむ。 [原文]~~句読点は原文には付いておらず、筆者が補った。 合祀之碑 本田定年 謹篆額。 上小山田多社、散在各地。明治乙亥、合祀神明社、金山社、及稲荷社二、日枝社三。今玆 甲寅、又以秋葉、琴平、蚕影諸社加焉。而神明社為主、九社属之。於是大修本殿、又建拝 殿。工良材堅、輪奐甚美。夫廟宇過多、則事煩而不便。所以合祀之不得已。然他郷未能行 而此郷能行之、可謂善矣。工事経営、其費実鉅。未多見於他郷而見於此郷、可謂義矣。況 其地山高樹秀、洵為霊境、民之致敬於神、亦至矣哉。銘曰、 一郷和楽、習俗敦淳。祭祀粛穆、以誠事神。 鬱乎山椒、樹色凝碧。経之営之、神之所宅。 既愜神意、降福無窮。穀果完実、蚕葉滋豊。 前人所創、後人不怠。維修維葺、祠廟千載。 大正三年甲寅九月 小島守政謹撰、男孝謹書。 赤羽知親刻。 3.漢詩 さて次には、この石碑の背景を成す中国古典文学の中から、五首の漢詩を選んで味わっ てみたい。まずは杜と甫ほ(712 ~ 770)の「登岳陽楼(岳がく陽ようろう楼に登る)」を見てみよう。 [口語訳、書き下し文、原文] かつて聞き及んだ洞どうてい庭湖この眺め、 昔聞く洞庭の水 昔聞洞庭水 今登る岳陽楼。 今上のぼる岳陽楼 今上岳陽楼 東南の方かた、呉ご そ楚の大地を切り裂いて 呉楚 東南に坼さけ 呉楚東南坼 現れた海のような湖に、 昼は日輪、夜は月が、交互に浮かぶ。 乾けんこん坤日夜浮かぶ 乾坤日夜浮 肉親や友人からの便りは途絶え、 親しん朋ぽう 一字 無く 親朋無一字 年老いた病やまいの我が身に残されたのは、 老病 孤こ舟しゅう有り 老病有孤舟 孤独な舟だけ。 戦 いくさ は続く、関所のある山の北、 戎じゅう馬ば 関かんざん山の北 戎馬関山北 都長ちょうあん安の辺あたりで。 力なく高たかどの殿の手すりに寄れば、 軒けんに憑よれば涕てい泗し流る 憑軒涕泗流 止めどなく涙が溢あふれる。
作者の杜甫は、李り白はくと共に唐を代表する詩人である。のみならず、三千年に及ぶ中国文 学の歴史においても、頂点に立つ大文学者の一人である。 李白と杜甫は、それぞれ詩し せ ん仙、詩し せ い聖と称される。李白は詩仙、その文学は天空を飛ひしょう翔す る仙人の歌声であり、常人の遥かに及ばぬ境地にある。対するに杜甫は詩聖、詩の世界に おける聖人と言われる。ところで聖人とは、決して「霞を食って生きる人」の謂いいではな い。喜怒哀楽、つまり「普通の人間の感情」を有しつつ、それを深化・昇華させて万人の 救いを希求する人間、これこそが聖人である。中国の文化史上において、孔子は、かかる 意味での第一の聖人であった。詩の世界では杜甫である。彼の詩の多くは、無限の憂愁に 満ちている。なぜならば、その根底に、万人の救いを求める熱い心が秘められているから である。 さて8世紀なかば、唐帝国は繁栄を極めていたのであるが、突如安あんろくざん禄山の乱(755 ~ 763)という大反乱が起きる。その大反乱に続いて、次には異民族が侵攻してきた。戦乱 の被害は、北中国で甚じんだい大であった。その結果、詩人は北方にはおられなくなり、南方をさ すらう身となった。そして 768 年、洞どうてい庭湖こ(南中国の湖南省にある)を望む岳がく陽ようろう楼に立 ち寄った。詩の1、2句が、その辺の事情を簡潔に物語っている。 続く3、4句では、高たかどの殿から見た湖の眺めを歌い上げる。この両句の意味については 様々な説があるが、今は口語訳で述べたように解しておきたい。(参照:田部井文雄『唐 詩三百首詳解』上巻 367 ページ、大修館書店) 杜甫の眼前には、海のように涯はてしなく雄 大な湖が広がっている。 後半5~8句は、そのような大自然と対比した我が身の小ささ・儚はかなさと、北方へ帰れぬ 嘆きとを歌う。かつて中国の国家原理であった儒教は、知識人の責務として、社会に貢献 をするよう求めている。儒教の知識人たる杜甫の願いは、北の都長ちょうあん安で皇帝の良き補佐官 となり、人々を幸福にすることであった。それを実現できぬ嘆きと憂愁とが、詩全体に満 ち溢あふれている。 次には許きょこん渾(788 ~ 860 ?)の「咸陽城東楼(咸かん陽よう城じょうの東とうろう楼)」を見てみよう。 [口語訳、書き下し文、原文] 町を囲む城壁の櫓やぐらに登れば、 一たび高こうじょう城に上のぼれば万里愁い 一上高城万里愁 胸に溢あふれる万里の愁い。 葦 あし と柳の眺めは、古ふるさと里を流れる 蒹け ん か葭楊よう柳りゅう 汀てい洲しゅうに似たり 蒹葭楊柳似汀洲 長江の中な か す州を思わせる。 川か わ も面に雲が出はじめて寺院の 渓けい雲うん初めて起こって日ひ か く閣に沈み 渓雲初起日沈閣 向こうに日が沈み、 山の雨が降って来るのか、 山さん雨う来たらんと欲して風楼ろうに満みつ 山雨欲来風満楼 櫓 やぐら は吹く風の中に。
緑の野原へと鳥たちが帰り行く、 鳥は緑りょく蕪ぶに下くだる 秦しん苑えんの夕ゆうべ 鳥下緑蕪秦苑夕 そこは夕暮れ時の秦しんの庭園跡。 蝉 せみ は黄色に染まった林で鳴く、 蝉は黄こうよう葉に鳴く 漢かん宮きゅうの秋 蝉鳴黄葉漢宮秋 そこは秋景色の漢かんの宮殿跡。 旅のお方よ聞いてくれるな、 行こうじん人問う莫なかれ当年の事 行人莫問当年事 過ぎ去った日々のことを。 東の古ふるさと里を離れて今は、 故国より東に来たって渭い水すい流る 故国東来渭水流 渭い水すいの流れを見つめるだけ。 先に述べたように、唐帝国は 8 世紀なかばに甚大な被害を受けたのであるが、その後 は復興をとげ国力は回復してきた。しかし、9 世紀の 810 年代ころから次第に衰亡の色 が濃くなってくる。いわゆる晩ばん唐とうの時代である。作者の許きょこん渾は、晩ばん唐とうの詩人である。同時 代の詩人たちの中で、許渾は、李りしょういん商隠や杜と牧ぼくに次ぐ名手の一人とされる。ちなみに彼の詩 で、誤って杜牧の詩集に収められた作品が、何首も存在している。 さて「山さん雨う来たらんと欲して風楼ろうに満みつ(山雨欲来風満楼)」は、この詩の第4句なの であるが、その事実を知らなくても「聞いたことがある」と思う人は多いはずだ。この句 が、成語として使われているからである。成語としての意味は「何かが起ころうとする気 配」ということ。日本だけではなく本場・中国でも、もちろん成語辞典にちゃんと載って いる。自分の詩句が後こうせい世それほど広く知られるに至る、と作者許きょこん渾が予想していたかどう かは、むろん知る術すべもない。しかし、この句が詩の眼目であることは間違いなかろう。 詩題にある咸かん陽ようとは、古代の秦しん帝国の都を指す。唐の都長ちょうあん安から見れば、渭い水すいという川 の対岸に位置する。渭水のほとりにある町なので、渭い城じょうとも呼ばれる。「城じょう」は日本語の「し ろ」ではなく、町を囲む城壁のこと。その上に櫓やぐらが設けられた。ゆえに詩題の「東楼」は 「東の城壁の櫓」の意になる。 作者は深い望郷の念をいだきながら、そこに佇たたずんでいている。古ふるさと里は、咸かん陽ようから東の方 へ遠く離れた江こうなん南の地、長江の下流域である。佇むうちに時は移ろい、閣かく(高い建物)の 向こうに日が沈んでいく。作者の自注によれば、この閣は慈じ福ふ く じ寺という寺院のこと。 さて雨が降り出しそうになり、鳥たちが急いで巣に帰っていく。蝉も不安げに鳴いてい る。そしてその場所は、滅んだ王朝である秦、漢の廃墟なのだ。我が唐帝国も、同じ運命 をたどりつつあるのではないか? この詩は、詩人の鋭い直観によって、帝国の滅亡を予見した作品と言えよう。また、滅び に向かいつつある唐帝国への深い哀惜の念も、同時に描かれていると見るべきであろう。 許渾と同時期の李りしょういん商隠(813 ~ 858)も、共通するテーマの詩を書いている。詩題は 「楽らくゆう遊原げん」という。この詩は五言絶句、つまり二十文字の短い詩である。楽遊原は長安の 南郊にあり、行楽地として古くから知られた場所であった。よって詩の本文では「古こ げ ん原」
と称されている。楽遊原からは、長安の街を一望することができた。 [口語訳、書き下し文、原文] 日暮れ時、心愁いて、 晩に向かって意こころ適せず 向晩意不適 馬車を走らせ、古こ げ ん原に登る。 車を駆けて古こ げ ん原に登る 駆車登古原 夕焼は限りなく美しい。 夕せきよう陽は無限に好よし 夕陽無限好 しかし、暗い夜が迫ってきている。 只ただ是これ 黄こうこん昏近し 只是近黄昏 心愁うる詩人の目に入ってきたのは、眼下に広がる街、夕焼に染まった長安の街である。 長安という当時の世界を代表する都市の、限りなく美しい時刻であった。しかし暗黒の夜 の闇が、すぐそこまで迫ってきている……。まさしく葉よう葱そう奇き氏が言うように、ここには唐 の衰微を哀惜する気持ちが込められているだろう。(参考:葉葱奇『李商隠詩集疏注』31 ページ、人民文学出版社) またそれと同時に、衰亡の中においてこそ発現する美を歌い上げよう、という志向も見 て取れはしないだろうか。「ただ単に嘆いているだけ」ではないのではあるまいか。李商 隠の作品を通観すると、随所に、衰亡の美を愛いとおしむ思いが感じられる。この点を記して おき、今後の探求課題としたい。 最後には、陶とうえんめい淵明(365 ~ 427)の詩二首について述べよう。まずは「読山海経(山せんがい海 経 きょう を読む)」其その二を見てみる。『山せんがい海経きょう』というのは中国古代の特異な神話の書物で、陶 淵明の愛読書であった。その読後感を、陶淵明は連作詩「山海経を読む」に記している。 連作詩の其の二は、高貴な女神である西せ い お う ぼ王母を歌い上げたものである。ところで、この詩 には解釈上の問題があると思われるので、その箇所の口語訳は「?」としておいた。 [口語訳、書き下し文、原文] 夕焼雲の彼方、麗うるわしの玉ぎょくざん山で、 玉ぎょくだい台 霞かを凌しのいで秀ひいで 玉台凌霞秀 西せ い お う ぼ王母はやさしく微笑んでいる。 王母 妙みょう顔がんを怡やわらぐ 王母怡妙顔 天地と共に生まれたのだから、 天地と共と も倶に生まれ 天地共倶生 一体どれほどの年齢だろうか。 知らず幾いくばく何の年なるかを 不知幾何年 ? 霊化は窮きわまり已やむ無く 霊化無窮已 館 やかた も一つの山には限らぬ。 館か ん う宇 一いちざん山に非あらず 館宇非一山 旨 うま 酒 ざけ に酔い、新たなる歌を歌う。 高こうかん酣 新しんよう謡を発す 高酣発新謡 世俗の曲の遠く及ばぬ歌を。 寧なんぞ俗ぞくちゅう中の言に效ならわん 寧效俗中言 さて「?」を付けた箇所を、岩波文庫の『陶淵明全集』(松枝茂雄、和田武司両氏の訳注) は「神霊の力は窮まり尽きるときがなく」と訳している。諸訳注書を見渡してみると、こ
の方向で解釈しているものが少なからず存在する。むろんこういう解釈でも意味は通じる が、「霊化は窮きわまり已やむ無く(霊化無窮已)」の「化」の字義からは逸脱してしまうだろう。 「化」とは何か? 言うまでもなく「変化」であろう。だから「霊化」は「霊妙なる変化」 の意味になる。この句全体としては、「霊妙なる変化は休むことなく」と解すべきだと思う。 またその方が、これと対を成す「館やかたも一つの山には限らぬ(館宇非一山)」の句とも合う と思われる。この二句で陶淵明は「西王母は、姿も住居も一つには限らない」と言いたい のであろう。ではこのような表現で陶淵明は、どういうことを言い表しているのだろうか? 管見の限りでは、それを明確に示した論考は見当たらないと言える。 そもそも中国の古代神話で西王母は、『山海経』に「豹の尾、虎の牙をして、しばしば 吠えたけり、髪の毛は乱れ(豹尾、虎歯而善嘯、蓬髪)」と記される恐るべき異形の神であっ た。しかしながら時代は下って魏ぎ晋しん期になると、西王母の姿は変容してくる。『漢武内伝』 に「背は高すぎず低すぎず、麗うるわしい雲のような姿、絶世の美貌(修短得中、天姿奄藹、容 顔絶世)」と描かれるように、眉目秀麗なる女神に変貌していったのである。(参考:前野 直彬『中国小説史考』(秋山書店、71 ページ) 陶淵明は王朝で言えば晋から宋そうにかけての 人物だから、このような西王母の二つの異なった相貌を熟知していたはずである。 だからおそらく陶淵明の想像の中で、西王母は「異形の神→美神→異形の神→美神」と いうように、目めくるめ眩く変容する存在になっていたのではないだろうか。まことに神秘的な、 絶え間なく変貌する女神になっていたのではないだろうか。だとすれば、まさしく非凡な る想像力の発露と言えよう。 陶淵明の詩における想像力については、拙著『桃源郷とユートピア』(春風社)の 136 ~ 140 ページで触れたことがあるが、この「山海経を読む」其の二にも同様の筆の冴え が見て取れるのである。 また、この詩を熟読すると、あたかも西王母と共に宴席に連なっているかのような感覚 を覚える。つまり、神話の世界にさまよいこんだ気持ちになれる。これも文学の力と言え るだろう。 次には「示周続之祖企謝景夷三郎(周しゅうしょくし続之、祖そ き企、謝しゃけい景夷いの三さんろう郎に示す)」という詩を 見てみよう。この題名の「示」は「詩を贈る」、「三郎」は「三人の男性」の意である。 陶淵明は役人生活を辞めてから、尋じん陽よう(江こうせい西省九きゅう江こう)で隠者暮らしをしていたが、同じ く隠者であった周しゅうしょくし続之(と祖そ き企、謝しゃけい景夷いの三人)が、地方長官の招きに応じて尋陽に来て、 学問を講ずることになった。ちなみに「地方長官から招かれた」というのは、「学者とし て高い評価を受けた」ことを意味する。周続之の伝記である『宋そうじょ書』隠いんいつ逸伝・周続之を読 むと、その点は明らかである。それに対して陶淵明は、『宋書』隠逸伝・陶潜(陶淵明) によれば、学者としては全く評価されていなかったことが分かる。 ところで陶淵明は、酒を愛した世捨て人として知られるが、一方では自分の名声にも 並々ならぬ関心を寄せていた。だから、周続之たちに対抗心を持ったのは当然である。こ
の点については、石川忠久氏の『陶淵明とその時代』(研文出版)89 ~ 93 ページが参考 になる。 「示周続之祖企謝景夷三郎(周しゅうしょくし続之、祖そ き企、謝しゃけい景夷いの三さんろう郎に示す)」は、周続之たちを当 て擦こすった詩だと思われるが、その描写を見ると「ホメ殺し」的なユーモアが随所に示され ている。詩を贈られた周たちは、皮肉られてると知りつつも反論はしにくく、苦笑するし かなかっただろうと思われる。 以下に、口語訳、書き下し文、原文を記そう。なお、後の読解の都合上、句番号をつけた。 1 わしはボロ屋で長患い、 痾やまいを負おう頽たいえん簷の下もと 負痾頽簷下 2 一日中、楽しいことなどありはせぬ。 終日 一いつの欣よろこびも無し 終日無一欣 3 ごく稀まれに、薬や鍼はりが要いらない時に、 薬やくせき石 時とき有って閑かんに 薬石有時閑 4 心を寄せる君らを思う。 我が意中の人を念おもう 念我意中人 5 住まいはそれほど遠くはないが、 相あい去ること尋常ならざるに 相去不尋常 6 なぜか遥かに思えてならぬ。 道路邈はるかなるは何なんにか因よる 道路邈何因 7 周しゅう君は孔子の学を講じてる、 周しゅうせい生 孔こうぎょう業を述べ 周生述孔業 8 馳せ参じたるは祖そ君と謝しゃ君。 祖そ し ゃ謝 響きょう然ぜんとして臻いたる 祖謝響然臻 9 孔子の道がほろんで約千年、 道喪ほろんで千載に向なんなんとし 道喪向千載 10 今こそついに復興だ。 今こんちょう朝 復また斯ここに聞く 今朝復斯聞 11 馬小屋は学問所ではないけれど、 馬ば た い隊 講こ う し肆に非あらざるも 馬隊非講肆 12 古典調べに余念がない。 校こうしょ書 亦また已はなはだ勤つとむ 校書亦已勤 13 大切な息子たちがおるゆえに、 老ろ う ふ夫 愛する所ところ有り 老夫有所愛 14 近所同士になりたいものよ。 爾なんじと隣為たらんと思う 思与爾為隣 15 どうか君たち、聞いてくれ、 願わくは言ここに諸子に誨おしえん 願言誨諸子 16 我が侘わび住ずまいの隣に転居しては? 我に従え潁えい水すいの浜ほとりに 従我潁水浜 第 11、12 句「馬小屋は学問所ではないけれど、古典調べに余念がない(馬ば た い隊 講こ う し肆に 非 あら ざるも、校こうしょ書 亦また已はなはだ勤つとむ)」は、周続之らの学問所の所在地を揶や ゆ揄した表現である。ま た、郭かく維い森しん、包ほうけい景誠せいの両氏が述べているように、滑稽味が感じられる詩句である。(参考: 『陶淵明集全訳』64 ページ、貴州人民出版社) 地方長官の馬小屋であるから、たくさんの馬が「ヒ、ヒーン」と声を立てていたことで あろう。加えてもちろん、馬糞の匂いもプンプン漂ってくる。その隣にある学問所で研究 とは、「ホ、ホントにご立派ですなあ」と言っているわけだ。まさしくこれは「ホメ殺し」 である。 それから第7句「周しゅう君は孔子の学を講じてる(周しゅうせい生 孔こうぎょう業を述べ)」にも皮肉が込められ ている。孔子は、自分より約五百年前の周しゅう公こうが定めた文化的制度を、復興させることに命 を賭けていた。つまり歴史的には「周→孔」という順番になる。それが今度は逆に「孔→周」
という順番になった(孔子→周続之)。要するに周続之を、中国文化史上の偉人・周公に 比すべき人物に祭り上げ、「おお、周→孔→周、なんと偉大なる道の継承よ!」と賛美(実 は皮肉)しているわけである。 また第9、10 句「孔子の道がほろんで約千年、今こそついに復興だ(道喪ほろんで千載に 向 なんな んとし、今こんちょう朝 復また斯ここに聞く)」にも含むところがあろう。 陶淵明の別の作品「飲酒」其その三には、「道喪ほろんで千載に向なんなんとし、人ひとびと人 其の情を惜し む(道喪向千載、人人惜其情)」とある。ここで陶淵明は「孔子の道がほろんで約千年、 世間の人々は真心を見失っている」と嘆いている。孔子の道が衰退したのは、それほど重 大なことであったのだ。だから、周続之たちが簡単に復興できるわけはない。そういう意 味の皮肉が込められている。 更に、第 10 句の「今こそついに復興だ(今こんちょう朝 復また斯ここに聞く)」は、『論語』の文章を巧 みに用いた当て擦こすりにもなっていると思う。『論語』里り じ ん仁篇に「子し曰いわく、朝あしたに道を聞かば、 夕 ゆうべ に死すとも可なり(子曰、朝聞道、夕死可矣)」とある。孔子は、道の追及に全力を傾 けた。朝その真理を体得できたら晩に死んでも構わない、という意気込みであった。とな ると、この第 10 句「今こそついに復興だ(今こんちょう朝 復また斯ここに聞く)」の含意は、「周君は、そう いう孔子の精神を体得してるんだねえ、実に立派だねえ」という賛美(→ホメ殺し)であ ろう。 この「示周続之祖企謝景夷三郎(周しゅうしょくし続之、祖そ き企、謝しゃけい景夷いの三さんろう郎に示す)」を読んでみると、 学問の評判の上では全く冴えなかった陶淵明が「転ころんでもただでは起きぬ」文学者精神で、 一発やり返した詩だという気がする。 その出発点は「あまり上品とは言えない」対抗心であったろうが、詩を作る過程におい て、実に人間臭いユーモアの詩になったものと思われる。それから、多少言いすぎかも知 れないが、この詩を熟読してみるとカタルシス(浄化)的なものを感じる。「文学として 練り上げる」ことを通じて、陶淵明の対抗心はかなりな程度まで緩かんかい解されて、一種のカタ ルシスに達したように思えるのである。 本稿の「はじめに」で記した「国境を越えて広がる漢文学の、豊かな世界の一端を示せ れば」という気持ちがどれだけ伝えられたかは、読者の皆さんの判断にゆだねるしかない が、最後まで読んで下さったことに対して深くお礼を述べたいと思う。
[参考文献] 戸田浩暁『日本漢文学通史』(武蔵野書院、1957 年) 加藤徹『漢文の素養』(光文社、2006 年) 町田地方史研究会編『町田歴史人物事典』(小島資料館、2005 年) 瞿蛻園、朱金城校注『李白集校注』(上海古籍出版社、1980 年) 杜甫著、仇兆鰲注『杜詩詳注』(中華書局、1979 年) 田部井文雄『唐詩三百首詳解』上巻(大修館書店、1988 年) 許渾著、羅時進箋証『丁卯集箋証』(中華書局、2012 年) 李商隠著、葉葱奇疏注『李商隠詩集疏注』(人民文学出版社、1985 年) 陶淵明著、陶澍集注『靖節先生集』(文学古籍刊行社、1956 年) 松枝茂雄、和田武司訳注『陶淵明全集』(岩波書店・岩波文庫、1990 年) 前野直彬『中国小説史考』(秋山書店、1975 年) 石川忠久『陶淵明とその時代』(研文出版、1994 年) 郭維森、包景誠訳注『陶淵明集全訳』(貴州人民出版社、1992 年) 拙著『桃源郷とユートピア』(春風社、2010 年)