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詩人としての身体

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Academic year: 2021

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(1)詩人としての身体. 鮎川真由美. ﹁見えないもの﹂との接触、事象の森の暗闇に、光を. は、古代の哲学詩人の使命でもあった。. あて、息吹をもって語りだし、存在せしめること。これ. ナ・パウシュ。彼女によって照らしだされる空間は、哀. 一 一 百 十 葉. 身体においても、言葉においても、﹁表現とは、いた. の、どこにもおさまりきれぬ感情ゃ、どこかしら停い、. しみの卜 l ン ( 音 ・ 色 ) を お び て い る 。 そ れ は 、 人 間. 現代の舞台詩人ともいえる、舞踊家であり振付家のピ るところで創造であり、表現されたものはいつも、表現. しかしまた、崇高なたたずまいにつつまれているのであ. る。そして、表現者たちの現し身は言葉だ。それらは、. メルロ U. なにか、名づけるのを惜しむような﹁名づけ﹂をめぐ. )L(. り、もどかしげに﹁問いかけ﹂ながら、﹁わたしとあな. ポンティ)に身をゆだねてゆく。. 哲学は、その言葉によって、ダンスのような身体表現. 概念という、いわば被造物. と同じく﹁芸術﹂でありうる。それは、表現という創造. L. た﹂との、見えない﹁キアスム(交差配列. 0. ば、哲学は、日に﹁見えぬ. 行為とかかわるがゆえに。ジル・ドゥルーズにならえ. のである。. することと不可分﹂(モ 1リス・メルロ Hポンテイ)な. と同様に語るものでもある。. 言葉は、身体と同様に無言であり、 身体はまた、. 序 を﹁創造する﹂. 29-. 鮎J I [. 詩人としての身体.

(2) 身体と表現 二O世紀になり、新たに、﹁解放の芸術﹂として躍りで てきたのはダンスだった。 身体を解き放ち、自由に舞い跳ぶこと。だが、そもそ も、踊ること、すなわち身体で表現することとは、口を 閉ざし、無言で﹁語る﹂表現なのであり、また、これが 本質でもあろう。 西欧のこのような舞踊芸術は、大きく二つの流れのな. ぅ、沈黙の語りにあろう。白鳥の象徴する﹁死﹂の世. 界、それを、一言葉をうしなった身体がせっせっと語りだ. ような舞踊の本質そのものを、チャイコアスキーの哀愁. し、湖面をすべる波のような情感がったわりゆく。この. ただよう音楽がともに物語ってゆく・・・それゆえ、限り なくせつなく、美しい。. このようなバレエでは、しかし、やや逆説的にきこえ. るかもしれないが、物語をあらわすパントマイムと踊り. とは分かれており、踊りのひとつながりの運動は、冷徹. にもみえる規則にしたがったシークェンスだ。これは、. て編み合わせてゆくもので、表音文字のように意味をも. 基本的に、両脚の一番から五番のポジションを要素とし. ' つ 。. た、ひとつの論理的な﹁言語﹂とみなすことができよ. レエは、したがって、厳格な運動の文法体系をととのえ. 術からみるときに用いられる語である。舞踊としてのバ. レエを、﹁ダンス・クラシック﹂とよばれるその舞踊技. よいだろう。このような﹁クラシック﹂バレエとは、バ. たない記号表現である﹁シニアイアン﹂の連鎖といって. つは﹁表現﹂的な舞踊の方向性と、さしあたりよぶこと. 的な舞踊とは、バレエの伝統に根ざしたもの. かで眺めることができる。一つは﹁抽象﹂的な、もう一. L. にしよう。 ﹁抽象. で、身体運動の形式性を重んじる。 一九世紀までの西欧の伝統的な舞台舞踊であるバレ エ。かの﹃白鳥の湖﹄のせつなき美しさとは、﹁生﹂き た人聞が、一言葉をうばわれ、白鳥の姿となって漂い舞. 3 0. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(3) つの中心が解き放たれ、﹁多﹂くの、あるいは無数の中. ﹁脱構築しするのだが、そのとき、体の重心という﹁こ. フォ l サ イ ス ( 一 九 四 九1)o 彼 は 、 バ レ エ の 言 語 を. 現代の振付家のなかでは、たとえば、ウィリアム・. してゆく。. 社会的で歴史的な身体感情として、舞台のうえで普遍化. シュ(一九四01) は、このような特殊な個人的感情を、. この表現舞踊の系列において、ドイツのピナ・パウ. 性に身体をしたがわせるよりも、むしろ、主観的な感情. これに対し、﹁表現﹂的な舞踊は、バレエのような形式. ひきいている。. 後、二O O五年より現在、フォ!サイス・カンパニーを. レエ団を、そして、それが市の財政事情により解散以. は、一九八四年から二O O四年までフランクフルト・バ. ニ ュ ー ヨ ー ク 州 ロ ン グ ア イ ラ ン ド 出 身 の フ ォ 1 サイス. は、一九七三一年以来、ドイツのヴッパ 1タール・タンツ. して、舞踊を超えた、身体の表現を試みているパウシユ. の振りつけ方法で可能になっているともいえよう。こう. てゆく。これは、個人的な記憶や感情をそれぞれのダン. なた L、﹁わたしたち﹂の関係性へと視点の転回をはかつ. いして、パウシュは、踊る﹁わたし﹂から﹁わたしとあ. グラハムといった主観的個性のきわだった先駆者らにた. イサドラ・ダンカン、マリ 1 ・ウィグマン、マ 1 サ・. けっして透明なものではないどころか、よくよくみる. 身体とは、ダンス芸術において自明なものではない。. 3 1. 心をもった、多中心のバレエが展開される。アメリカの. を身体のうえでかたちにし、あらわしてゆく方向性とい. それは、二O世 紀 初 頭 に 、 バ レ エ の 伝 統 を 汲 ん だ 抽 象. と、さまざまな色を帯び、音を響かせている身体。それ. テアタ l の芸術監督である。. なったモダン・ダンス、あるいは自由ダンス信号守色。. は、固有の記憶の諸層や﹁生活世界のロゴス﹂(メルロ. リポンティ)が重なりあい、織りなす複合体なのだか. 叶 ωロN)が生まれてきたことに端を発している。. 的な舞踊から脱し、女性の身体感情がその発生要因とも. ' え ヲQ. サーに﹁問いかけ﹂、それらをコラージュしていく独自. 鮎)11. 。. 詩人としての身体.

(4) 対照的な﹁見えないし世界│神、死、時間 1 が、極限に. み、そこにただよう情感につつまれながら、今もなお、. の絡みあいとなって現前するとき、わたしたちは息をの. ム ノ 。 このような身体を、フォ lサイスは﹁文字﹂言語(エ. まで美しく、﹁見える﹂かたちとなり、動く身体と身体 クリチュ l ル ) と し て 、 パ ウ シ ュ は ﹁ 語 る し 言 葉 ( パ. 陶酔感に浸る。. 遠性と神の傭眼的なまなざしを、そして対照的に、ゆ. ンティック・バレエ。天空を飛期する白鳥は、死の永. 死の観念を、静誼に、きわめて美的に表象したロマ. ロl ル)として、対照的にあつかっているといってよい かもしれない。そして、その潜在的な可能性を、プリズ ムをとおした感情の色階のように、生き生きと、鮮やか に、くり拡げてみせてくれる。. ・。﹃白鳥の湖﹄の美しき情感とは、このように、死の. らめく湖面に'つつしだされる人間の生のきらめき、停さ. イメージと生のそれとが限りなく接近してゆくところに. った 、お い て 身 体 は 、 技 術 川 芸 術 い近 代いに. E M印円)としていかに﹁記号化﹂され、時空間芸術と. 問題については次章の﹁語りえぬものと身体﹂で述べることにしよう. じつは、生と死のなす奥行きのあいだを、水平的な時間. て、舞台のうえで、たゆたう空間がくり拡がりながら、. あるのではなかろうか。またそれは、ひとつの物語とし. (町内. しての舞踊を構成してきたのであったか(この﹁記号化﹂の 他方で、舞い踊る身体、それは、わたしたちの生や死と. )O. むすびついた身体経験と、どのような繋がりをもってい. が蛇行しながらすすみゆく、まるで夢のような、時の遠. ﹁語る﹂言葉としての身体。. 語りえぬものと身体. 近法にしたがっている。. るのだろうか。 ロマンティック・バレエ│﹁白鳥の湖﹄を主題からみ るときには、こうよばれるは、生と死のはざまを揺れ うごく﹁仮象﹂としての美、当時のロマン主義的な理想 としての美を、ただ具現しただけではなかろう。生と. -32. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(5) 鮎} I ! 詩人としての身体. そもそも﹁踊る﹂ということは、身体でもってなにか を表現し、﹁語る﹂ということ、それは、語りえぬもの を、語る、ということでもある。 踊る、とは本来、振りつけられたものの上演日再現. 20己主古口)というよりもむしろ、そのひと固有. (吋巾匂門. の身体に、すでに振りつけられて在るものの、瞬間的な 突破、そこからの離脱や解放を、究極的な目的としょ. 'つ。 身体が己れから脱すること、﹁脱白﹂、すなわちエクス タシーとは﹁死﹂である、と哲学者のジャンリリュッ ク・ナンシ lも 言 う 。 そ れ に 、 触 れ る こ と が 、 舞 踊 の ﹁美的﹂経験であるならば、中世の﹁死の舞踏﹂とは、. 体は存在するのか、と。. なにかを﹁名づける﹂こと、しかし、その﹁名づけ﹂. が、﹁記号化﹂ではないような﹁名づけ﹂。﹁存在﹂を明. L. るみに出す名づけとは、﹁名づけの否定﹂でもある。身. ュ 体やその表現の本質は、このような意味で、﹁シ 1 ニ に抗う力だ。. バレエをひとつの﹁言語﹂とみなし、その言語の論理. を徹底的にきわめることをつうじて、その論理が自壊す. る地点に触れようとするウィリアム・フォ lサイスの構 想 。. これは、ジヤツク・デリダの﹁脱構築﹂の哲学と通底. しているともいわれる。﹁記号化﹂された身体、つまり、. 意識が、身体の外に、すばやく書き込まれながら、そこ. に﹁書き込まれしたものとしての無意識。このような無. まさにその本質をいいあててもいたのだろうか・・・。 さてここで、次のような、問いをたててみることがで. バレエの﹁文字﹂言語(エクリチュ lル)が、身体の内 きるだろう、ジャン Uリュック・ナンシ lが問いかける. B ) 空気それは科 に し な や か に 現 象 す る なEnyoロ. な 次 元 を 創 造 し て ゆ く 、 フ ォ lサイスの声をここで聴. 学的な時空間というよりも、今ここに生じつつある新た. ように。 そもそも﹁シ 1 ニユ (記号)﹂を構成しないような身. ηペ U. q t υ.

(6) いてみよう。. 風。なめらかに摺曲し、折れ曲がり、旋回するからだか. ろうか・・・海原を無限によせてはかえす波のように。. がりゆくなにか:・。それは、どこへむかつてゆくのだ. ら、おもうままに編みだされ、ときほどかれ、繰りひろ や強化よりも、貴重なヒントになるように思います。. ﹁本質的に、身体の消滅や崩壊のほうが、身体の構築 身体が自分のものでなくなる時に、それを観察する、. L とは﹁踊り﹂を、﹁グラフィ﹂とは﹁書き込. そもそも、振りつけを意味する、﹁コレオグラフィ﹂ の﹁コレ. それと会話する、そのほうが重要です。言い換えれ ば、ダンスが身体を離れ、身体がその背後にある意. ダンサーの身体を、外からではなく、内がわから、じ. りつけることを意味するようになったといわれる。. が、しだいに、身体にじかに書き込むこと、つまり、振. に舞踊の振りつけを書き込んだことがその語源である. み﹂を意味する。もともと、記憶・記録のために、紙面 L. 図、踊りたいという欲求を離れる時に。そうすると身. を置いてきぼりにして、 ひとりでに動いて. (﹁インターコミュニケーション﹄誌、一七号). 体はわたしを置いてきぼりにして動いていくのです。. ﹁わたし L. ゆく身体・・・。. なそれ│昨春、フランクフルト・アム・マインで観た新作の. イスの振りつけ。これは、意志的な身体運動と無意志的. かに、多声的な運動の﹁言語﹂を﹁書き込む﹂フォ l サ. なかでは、止まらないくしゃみや、止まらない笑いのような身. 1 サイスが﹁身体の消滅﹂と言う、このような. ﹁脱白﹂、エクスタシーは、たえず﹁わたし﹂から逃れ、. 体反応の動作も取り入れられていたとが、つねに、反り. フォ. らだの無数の中心から、かろやかに語りだされてゆく。. 面を照らしだそうとする。. かえり、摂れ、あやうく転回するような、くねった境界. 走り去るそれとして、作品﹃ソロ﹄のなかで、己れのか. ふしぎな浮遊感と自由さ、子どもの履いた長靴のよう に、きゆっ、きゅっと、床を擦る足元から吹きあがる. -34ー. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(7) ト﹂を、欲望を喚起する舞台装置とみなし、身体性を与. 話はすこしかわるが、言語の織り物としての﹁テクス るのだろう。. り﹁わたしたち﹂の、官能的な幸福として述べられてい. は、それが、意味の境界を踏み越えた、他者との、つま. るフォ iサイスと、逆のかたちで似かよっているように. たしが初めて出会ったのは、ドイツの金融都市、フラン. さて、話はかわるが、彫刻家の舟越桂、彼の作品にわ. 輝きはじめる。. の﹂を透過して、なにか﹁見えないもの﹂にそそがれ、. 身体としての言葉、一言葉としての身体は、﹁見えるも. えているロラン・バルト。これは、身体に文字性を与え 見えるかもしれない。 ﹁テクストの快楽、それはわたしの肉体がそれ自身の 考えにしたがおうとする瞬間だ。わたしの肉体はわた しと同じ考えを持っていないから。﹂. てくるとき、他者のエクリチュ lルがわたしたち自身. がある。それはテクス卜がわたしたちの生にのり移っ. た 。. て、この異郷の地に、舟越の人体彫刻はぽつんとあっ. コレクションが並べられており、そのなかのひとつとし. でであった。そこには、この銀行が収集した現代美術の. クフルトにあるドレスナ l銀行本社の高層ビルの最上階. の日常性の断片を書くに至るとき、簡単に号守えば、一. ﹁テクストの快楽はより深いあり方で達成されること. 個の共 U存が生まれるとき、のことである﹂。. ここで、バルトが暗示する脱白的な身体性は、また、. らかに香る楠から彫りだされ、うまれてくる半身像のそ. は、きわめて詩的な言葉が、題名としてより添い、やわ. 越は、カトリックの人でもある。そして、彼の作品に. (ロラン・バルト﹃テクストの快楽﹄). 性の﹁快楽﹂ともむすびついている。ある絶対的な欠. ばに、そっと、降り立っている・・・まるで光のように。. 芸術家としての使命を、﹁感情の形態化﹂と述べる舟. たし﹂は身体のうちに消滅するのだが、バルトにおいて. 如をもっ身体、この絶対的な場所の欠如において、﹁わ. 35-. 鮎J I [ 詩人としての身体.

(8) たとえば、舟越の本のタイトルにもなっている﹁言葉. ﹄). ピナ・パウシュが手がけてきたのは、 ダ ン ス そ の も. n o m u d g (ジャンリリユソク・ナンシ l ﹃共同│体(. ついて絶えず話し続けることが必要である o﹂. の、踊ることそのものをもはや前提としないタンツ・テ. の降る森﹂。さらに、﹁夏のシャワー﹂、﹁肩で眠る月比 ・・・。これらの言葉が、もの言わぬその. L. の内に、生を息吹かせ、命を宿らせるかのように. アタ 1(ダンス演劇)である。彼女の創りだす舞台では、. 、﹁冬にふれるし、﹁かたい布 ﹁冬の本﹂、﹁教会とカフェ L. L. は時々話す ﹁ 体. その構想の実現に、かならずしもダンスが必要とされる. のではない。一言葉は、そっと、語りかけている、なにか. めあい、伝えあおうとする、なにをかを。けれども、そ. が、いく度もいく度もくりかえされる。人と人とは、求. ひとりの女性とひとりの男性が互いに駆けよる。それ. わけではない。. 名づけえぬものをめぐって。それは、舟越の生みだした. れはいつも、その不可能性というかたちでしか表現しえ. 言葉は、けっして、作品がなにであるのかを指し示す. という水面の深みを、ナ. L. 二人の子どものよう:・。. たんと、上下運動をとほうもなく、無邪気にくりかえす. だろうか。それはまるで、シーソーに跨って、ばたんぱ. ない・・・、ということを、この舞台の上で表現している. ﹁人﹂の、その大理石の瞳とおなじように、どこか遠く をまなざしながら、﹁わたし. ルシスのように、愛おしそうに、ただみつめている。. 詩人としての身体 ﹁︿神は死んだ﹀が言わんとするのは、神はもはや身体. このようなパウシュの舞台で、浮き彫りになってゆく のは、なにか﹁見えない. を持たないということだ。・・・中略・・・いかなる言語の. してゆくプロセスなのだろうか。. 感情に愚かれた身体を、 感知. うちにも名を持たないこのもの、屍体のこの彼岸・・・. L. 中略・・・人がもはや言いえないもの、そうしたものに. -36. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

(9) パウシュの舞台装置、 それはしかし、現実の息づく事 物に満ちている。 ﹃春の祭典﹄(一九七五年)の米国初演では、四トンも. る﹂現実と﹁見えないし想像との、暗黙のうちに硬く保. や臨調りとして露呈し、微かに響きはじめる。生活世界の. 持されていた距離が杭け、なにかリアルなものが、光り. めるのは、身体運動としてのダンスではもはやなく、身. このような、ダンス演劇をつうじて、わたしたちがみつ. に、わたしたちはふと出会い、惹きょせられてゆく・・・。. なかで呼吸している事物や身体、それを超越したなにか. い飛ぶ。ストラヴィンスキーの大地を打つリズムを踏み. 肌の、しなやかな乙女たちが、群れになって、素足で舞. 体そのものに深く刻印された歴史的痕跡なのだろうか. の本物の土が舞台に盛られたという。その上を、白い素. 鳴らし、駆けめぐり、援ねる土、揺れる髪。春を告げる. ・・・、そして、その痕跡をたどる運動にわたしたちも静. B )﹂ 的なバレエのように機能的な身体を﹁もつ(出与. ピナ・パウシュが導いてゆくのは、たしかに、伝統. かに身をまかせる・・・。. 神話的な世界の躍動には、全身がうばわれる。. な、ずっしりと重そうなタンスを背負って、真緑の草原. 映像作品﹃嘆きの皇太后﹄(一九八九年)では、大き を、男がよろめき、歩く。ひとりの人間にのしかかっ. ことではなく、身体で﹁あることお巳ロ)﹂なのであろ. 。 つ. v. た、大きな重みをもつなにをか、を・・・。日常の事物に 固まれたカットや舞台、そして日常着をまとったダン サー兼役者たちの具体的な身ぶりは、それらの身体や事. 完全に道具化された身体と結びついた美しさ、それ. 身体の動きの、理想的だけれども格子のごとき画一的な. は、古えのバレエの、ひいては社会の模範像であった。 現存の事物を透過して、過去の時が重なりあい、ゆら. モデル。それはしかし、現実の生活世界のなかの、やわ. 物に刻まれた記憶のイメージとだぶらされている。. めきながらもけっして消失しない・・・、そこに、﹁見え. 3 7一. 鮎I I [. 詩人としての身体.

(10) 2 0 0 8 .9 2 0巻 1号 文学・芸術・文化. らかくも脆い身体との不離となって、舞台のまわりに. とがパウシュにはたいせつなのであろう。. そっと、さしもどしてやること:・、おそらく、このこ. ひろいあげてみよう。. 言葉は苦手、と言うピナ・パウシュの言葉を、すこし. は、悲しみと可笑しみの渉みあった色が染みわたる。 ﹃バンドネオン﹂(一九八O年 ) と い う 作 品 で は 、 上 演 のあいだじゅう、ずっと舞台の背後で、バレエの稽古か. ﹁それはね、どんな展開になるかは前もって号守えるも. らのひとこまが繰り返し現れる。だがダンサーの表情は、 クラシック・バレエの稽古でもとめられるようなポー. L. のではないのよ。﹂. ﹁何かできたら、 それを試すことよ。. カーフェースではない。ただただ苦しい稽古の連続に、 歪んだ顔、ひきつった身体、さらに、クラシックではお 決まりの衣装であるチュチュとの悪戦苦闘・・・。バレエ. ﹁あなたたちの呼吸で何かを表現するとすれば・・・中略. の華やかさとは裏腹に、いともあわれな人物を、身体を 締めつけ、拘束する固い撞と懸命に格闘しながら、ダン. ・・・誰かが生きているということが日に見えれば素晴. 理想へと、天上の高みへと、ひたすら祈る修道女のよ. ゆえに、普遍的な哀しみの色をおびている。美的知覚の. 生じさせる当時の社会的状況と密接にかかわっていたが. 理念。このような理念は、しかし、萎縮した身体感情を. のよ。ほかの人や子どもが全然しないことをやってね。. で自分の好きなことをして遊んでね。自分を曝け出す. 遊びをしたことを告白するのよ。みんな硬くならない. 時代の物語を思いだすこと。さあ、これからそうした. ﹁禁じられ、抑圧された遊びのひとつ、自分の子ども. らしいわね。﹂. サーはユーモラスに演じてみせる。. うにストイックにのぼりつめるのではなく、ダンスを、. やましいなんて思わないで、汚いといわれている歌を. 瞬間的な全き感覚の開示、という二O世 紀 以 前 の 芸 術. いや、身体そのものを、人間の生のいとなみのなかへ、. qJ. o o.

(11) 引きちぎってみて。物事から自分を解放するだけでは. 思い出して口に出してみて、舌を出してみて、洋服を. 言語以前の領域のはざまを、あてどもなく、さまよいな. (﹀見。宮)、すなわち﹁詩人としての身体しは、言語と. 語りえぬものについて、語ろうとする情動. 最後に、このように問いかけてみよう。. 世界は、なにゆえ、わたしに身体を与えたのか・・・、. 結語. れる・・・、それは、限りなく愛しい。. ら絡みあい、それらが織りなす哀しみの音色が聴きとら. わせる﹁わたしとあなたしの身体と身体とは、内がわか. をつつみ、人々がそのなかで溶けゆくとき、ここに居合. がら、歌う。この静、誼な詩情が、霊気のように舞台空間. だめよ。人聞にじかに向かうこと。﹂ (ライムント・ホ iゲ﹃ピナ・パウシュ タンツテアタ lとともに﹄) そう、人間にじかに向かうこと。 それは、人間の、﹁どこにもおさまりきれない感情﹂ に向きあうことと言ってよいかもしれない。このような もどかしい感情は、他の言葉に言いかえることができる のがせいぜいだけれど、﹁そうした感情を肯定すること o. ﹁感情は、あらゆる表象に先行し、それ自体で新しい. がとても大事﹂とピナ・パウシユ. ある無言の身体が語る言葉、また、ある言葉が語りだ. に、感情こそが創造の源泉なのである、と。そしてさら. に、﹁感情は、正確に舌守えばひとつの対象ではなく、動. 思想を産出するものである﹂とドゥル lズはニ一一口う。さら. 物・植物・あらゆる自然物といった様々な対象のうえに. の在り様を直観するのであろう。そして、﹁︿存在﹀とは、 わたしたちがそれを経験しようとすれば、わたしたちに. 拡がっているひとつの本質にすぎない﹂(ドゥルーズ﹃ベ. す沈黙のたたずまい・・・。このとき、人聞は、その存在. ティ﹃見えるものと見えないもの﹄)。. 創作することを要求するものなのである﹂(メルロ Hポン. ルクソンの哲学﹄)、と。. -39-. 鮎} I I. 詩人としての身体.

(12) 人間の感情を、創造の源泉とみなし、またそれを、自 うよりも、風が﹁わたし﹂になる・・・というようなモダ. ろう。その、きわめて稀薄な物質性、ほんのすこしの吐. れは、言語という事物の﹁エーテル﹂といってもよいだ. 口や身体でもって語る言葉の、艶やかなイメージ。こ. あり、 アリストテレスはこれを﹁真の言語しとみなす。. ン・ダンスの発想にもみられる。風、波、木のそよぎ、. 息によって、語り言葉は、しかし、あらゆるものについ. 然のなかにとらえる思想は、﹁わたし﹂が風になるとい. ﹁わたししを合体させていたのであろう。. て語りながら、さまざまな事象を明るみにし、それらを. 絡みあわせ、関係ずつけてゆく。. 光とエーテルは、自然の、しかし、精神と近しい素材. L. 流れる自然に、かのイサドラ・ダンカンは女性としての. 流れとしての自然、ゆれうごく身体とは、また、﹁魂. である。﹁世界が最奥で連関しあっているところのもの﹂. のことでもあろう。アリストテレスにおいて、魂とは、 のなかでは第一実体とみなされ、のちの時代には第五元素とも. ( ゲ l テ)とは、見えない精神と、物質とを巻きこむ、. 身体と宇宙に同様にあてはまる﹁エーテル﹂(﹃天体論﹄ よばれた)のことでもあった。それは、あらゆるものが. 根源的な﹁自然(ピュシス)﹂、﹁流れ﹂の創出といえる. ところで、世俗の貨幣が、あたかも聖なる輝きや価. のかもしれない。. そこから出てくるところの、天のゆれうごく空気。 そして、自然の﹁光﹂とは、西洋思想の伝統のなか で、ある絶対的な隠喰でもある。. が、生活世界のなかで、ゆらぎ、流れながら、﹁超越し. 同様に、身体という感性的な物体(関守宮司)も、それ. 値をおびるのは、﹁流れ﹂(の己吋巾ロのちにおいてである。 暗い森を明るみへと照らしだすことは、開墾者の使命. への運動をくりかえすこ骨官口出血ユ22m-ybgE ミ 芯. であるだけではない。事象の暗い森を﹁照らしだす﹂こ と、つまり﹁語りだす﹂ことは、古代の哲学や詩の使命. 同なさ. S 円門川町ミミミ同定宮内参照)。. であった。﹁語り﹂だすことそのものが﹁輝き﹂なので. 4 0. 2 0 0 8 .9 2 0巻 1号 文学・芸術・文化.

(13) 神はいまや、わたしたちの閣の内に住まい、 人間こそ が﹁超越しの担い手なのであろう。そして、 このような ﹁人聞が、身体を使う行為はみな、すでに、 本 源 的 な 表 現なのである﹂(メルロ Uポンティ)。. に問いかけて、触れる・・・。. ﹁わたし﹂と﹁他なるもの﹂とはけっして同一ではな. く、隔たったままだが、﹁他なる身体はわたしの身体に. おいて己れを再び演じる。他なる身体は、わたしの身体. を貫いて横断し、揺り動かす﹂。それは﹁ほかでもない、. すること他者の反響、共鳴﹂なのであろう(ジャン H. 視線﹂、あるいは、それは、﹁他者を自己のうちに再現. さて、出会いとは何であろうか。 わたしたちは、﹁出会うと同時にこの出会いそのもの. リュック・ナンシ l十マチルド・モニエ﹃ダンスについての対. 男性のダンサーに、あるいは女性のダンサーに注がれる を相手に対してかならず表明する﹂、それが﹁表現﹂で. アリテラシオン﹄)。. そして、 ほどけ、 そしてまた、むすびっく. さて、ベルギーのアンヌ・テレサ・ドゥ・ケ l スマイ. ケルが振りつけ、彼女じしんも出演しているヴィデオ・. ダンス﹃ロ lザス・ダンスト・ロ 1ザス﹄(一九九七年)。. ら、水色や紺色やグレ!のシンプルな色や形の普段着姿. 学校建築が舞台、ミニマル音楽に反復的に共鳴しなが. で、少女たちが、おなじような日常の仕草をリズミカル. ある﹁問い﹂がわたしのもとにやって来る、というこ とでもある。他者によって触れられ、そして、また他者. 4 1. ある。それゆえ、﹁語りかけることなく、他者と接する ことはできない﹂(エマニュエル・レヴィナス﹁存在論は根 源的か﹂)。それにもかかわらず、﹁他なるものしとの幹 そのものは、見えない。 ﹁あなたにとって愛とはなんですか﹂、とピナ・パウ シュは﹁問いかけ﹂る、ダンサーたちに、そして彼女じ. り. とは、まさしく、他者によって﹁触れられる﹂というこ. しんに。. な が. 2 古. 。. コ ー. 鮎} I I 詩人としての身体.

(14) にくりかえす。窓ガラスにも反射しているそれは、生き 生きとした﹁生活世界の群舞﹂だ。 二人であって、二人でない・・・、そして、自然の一部 である﹁わたし﹂と世界との共振・共鳴:・。 これを、﹁質的な差異がそのあいだでは存在しえない た﹁エロティシズムとは、死におけるまで生を称えるこ. ような項を探求すること﹂とドゥル lズは述べるし、ま. L(. 詩人ラン. 世界は、なにゆえ、わたしたちに身体を与えたのか。. それは、﹁太陽といっしょになった海. 刊・円. U E G g - 回 巾 邑P N O S -. ボl) を、だれかといっしょにみつめるためだろうか。. 参考資料 B ﹄ D1F n g n M 己z. -由自品・. 玄白ロコ門町宮巾ユ白山口 lHUO口々・ト同ミ印刷せな由 HN43ミ包守﹄向日以印コ印唱. 者EUB 0 ﹃3 1z.言 、35G53U与さ hsqg.kAM28 ミ ミ 目. であり、それは、ひとつの生として異質な、不連続な実. と﹂と述べるパタイユにとって、﹁死﹂とは﹁詩﹂なの. lとと. 志向込a 間 三 ・ 5uu h H NKR町民九URNS円問問問、向。ロ月O云 -N. 舟越桂﹃言葉の降る森﹄角川書底、 sg年 。. ンス・ロ lザス﹄ヴィデオ・ダンス、呂田斗年。. アンヌ・テレサ・ドゥ・ケ 1スマイケル振付﹃ロ lザス・ダ. もに﹄五十嵐蕗子訳、三元社、 S S年 。. 1ゲ﹃ピナ・パウシュタンツテアタ. ライムン卜・ホ. )0. 体が、一融けあい、連続化することである(ジヨルジュ・ パタイユ﹃エロティシズム﹄. 風でそよぐ木々に抱きすくめられるように、人と人と ふと立ちすくみ、眼を閉じて、そこにただよう沈黙に身. が、はてしない運動に身をゆだねるとき・・・あるいは、 をしずめるとき・・・。うこく身体と身体とは、わたした ちの絡みあった感覚や感情を、語りだしてゆく、自然の 詩(うた)なのである。. -42. 2 0 0 8 .9 2 0巻 l号 文学・芸術・文化.

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大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

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では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに