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(1)

◎特別報告

「三戸南部氏の城 聖寿寺館」

南部町教育委員会 布施 和洋

◎26 年度調査報告

「史跡九戸城跡」「在府小路遺跡第 23 次調査」

二戸市教育委員会文化財課 鈴木 裕一郎

「前小路遺跡」

二戸市教育委員会文化財課 蔦 川 貴 祥

平成 26 年 12 月 23 日(火・祝)

場所 二戸市埋蔵文化財センター

後援/ 南部町教育委員会・岩手県文化財愛護協会・岩手日報社・デーリー東北新聞社 NHK 盛岡放送局・カシオペアエフエム・一般社団法人二戸医師会・一般社団法人二戸歯科医師会 九戸城を活かす会・九戸城ボランティアガイドの会

(2)

平成26年度調査遺跡一覧

遺跡名 時代 所在地 調査期間 面積 担当

1

柿ノ木平遺跡 縄文後期 近世 石切所字 柿ノ木平 4 月 17 日~5 月 30 日 2,183 ㎡ 蔦川

2

前小路遺跡 第30 次~37 次調査 奈良 平安 近世 石切所字前小路 4 月 22 日~12 月 8 日 3,789 ㎡ 蔦川

3

在府小路遺跡 第23 次 第24 次~27 次調査 縄文 中世 近世 福岡字在府小路 23 次 24 次 25 次 26 次 27 次 4 月 30 日~7 月 2 日 5 月 7 日~6 月 24 日 6 月 30 日~7 月 18 日 7 月 14 日~7 月 25 日 10 月 9 日~10 月 30 日 790 ㎡ 201 ㎡ 140 ㎡ 71 ㎡ 168 ㎡ 鈴木 鈴木 柴田 鈴木 鈴木

4

三ノ丸遺跡 第1 次・ 第2 次調査 中世 近世 福岡字城ノ外 1 次 2 次 5 月 8 日~5 月 27 日 10 月 20 日~11 月 11 日 50 ㎡ 97 ㎡ 柴田 蔦川

5

晴山遺跡 第34 次調査 縄文 奈良 石切所字 晴山、台中平 6 月 2 日~9 月 12 日 307 ㎡ 蔦川

6

史跡九戸城跡 中世 近世 福岡字城ノ内 7 月 3 日~12 月 3 日 416 ㎡ 鈴木 柴田

7

天台寺跡 近世 浄法寺町御山 11 月 4 日~11 月 7 日 1 ㎡ 柴田

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特別報告

特 別 報 告

『三戸南部氏の城 聖寿寺館』

南部町教育委員会

布施 和洋

1 南部氏の入部とその後の変遷

(1)入部時期 鎌倉時代の糠部郡は北条氏の得宗領であった。得宗被官であったと考えられる南部 氏の糠部入部の時期は不明な点が多いが、鎌倉時代末頃までには入部していた説が有 力である。南北朝時代になると南部師行が建武政権下、陸奥守北畠顕家から糠部郡検 断奉行に任命され、糠部郡を統治する。「師行寄進状」(1334 年)からは、師行が本三 戸付近を根拠地としていたとも読み取れる。また、町内の斗賀神社には、県内最古と なる正平21 年(南朝年号 1366 年)の鰐口も奉納されていることから、当時、この地 方が南朝勢力下にあったことが伺われる。 三戸南部氏・九戸氏・根城南部氏・七戸南部氏はそれぞれ大規模な城館を営み、そ れぞれが独立した形で勢力を保った。 (2)三戸南部氏の城館変遷 本三戸城(聖寿寺館を含む)→(新)三戸城→福岡城→盛岡城 (3)支配領域 24 代晴政の代,三戸南部氏の 支配領域は三戸郡(青森県)・北 郡(ただし下北半島は八戸根城 を本拠とする同族根城南部氏領 で あ り , こ れ を 除 い た 現 上 北 郡)・津軽(田舎・平賀・鼻和の 三郡(青森県)・岩手郡(岩手 県)・鹿角(秋田県)に及び,さ らに志和郡(岩手県)・閉伊郡(同) にも進出していた。津軽には石 川城や種里城等、進出の拠点と なる城館も築かれ、三戸南部氏 当主の身内や有力な家臣が派遣 された。 津軽への中継地点となる鹿角 地方にも城館が築かれるに至る。 不来方にも室町時代後半の早い 段階で勢力を拡大していたと考 えられ、南部氏の支配領域は多岐にわたった。 1 青森県の中世城館

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2 南部氏関連城館と文化財

(1)城館(町内に 29 カ所) ①三戸南部氏の城館(聖寿寺館跡・平良ヶ崎城跡) ②南部家重臣クラスの城館(東氏の上名久井城跡・北氏の剣吉城跡) ③その他家臣の城館(苫米地館跡・森越館跡・高橋館跡・福田館跡・八木田館跡等) 図2 三戸南部氏の城館変遷図と南部氏一族の領域変遷模式図

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特別報告 (2)当主の霊廟・墓所 三戸南部氏の拠点が三戸城や盛岡城に移された後も、聖寿寺館跡が廃城してから約 100 年後の近世初頭まで、三光庵(寺)境内等に南部氏やその家臣の墓所が造られた。 ①伝2 代南部実光の墓所 実光は奥州に入部していない。他の歴代当主の墓所か ②23 代南部安信の宝篋印塔(県重宝) 本三戸八幡宮境内地に所在 ③若宮八幡宮 25 代晴継を祀ったとされるが、墓所は残っていない。 ④26 代 南部信直夫妻の墓所(H8 県史跡指定。国史跡指定に伴い H17 指定解除) ⑤27 代南部利直霊屋(県重宝)三光寺境内に所在 ⑥27 代利直四男 南部利康霊屋(国重文)三光寺境内の所在 ⑦塚ノ越古塚(町史跡)大正中頃までは5基存在。人骨・刀・大量の炭化物が出土。 (3)家臣・上人等の墓所 ①桜庭安房の墓石 ②岩舘右京の墓石 ③八木橋藤十郎の墓石 ④恵海上人五輪塔

3 聖寿寺館跡の発掘調査

(1)史跡指定 平成 16 年 9 月 30 日(追加指定 平成 25 年 3 月 27 日) (2)発掘調査 ①期 間 国指定のための調査 平成 5 年~15 年度 整備のための調査 平成19 年~26 年度 ②面 積 約 1 万㎡ 図3 本三戸城推定域 本三戸城推定域と関連文化財

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(3)主要な遺構 ①掘立柱建物跡 A区画 建替えも含めて数十棟の建物。主殿・会所を想定。 場所によって3~5 回の建替え。100~200 年程度の存続期間。 図4 聖寿寺館跡の縄張り・空間想定 図5 A区画の建物想定図(平成 26 年度調査区を中心に)

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特別報告 ②竪穴建物跡 B区画に集中。一部A区画にも存在。倉庫・工房を想定 SI-27 は南北 14.2m東西 6.2mで国内最大級。 年代は15 世紀後葉~16 世紀前葉。多量の炭化物と被熱した陶磁器。 ただし、A 地区の堅穴建物は切り合い関係が最も新しい。 ③井戸跡 A区画。当該期の井戸跡は現在のところ1 基のみ。 直径6~7mの円形。年代は 15 世紀後半~16 世紀前葉。 1/4 を調査、大量の炭化物と 500 本の釘、被熱した陶磁器が出土。 →1539 年の廃城時に伴う火事場整理の跡と考えられる。 ④堀跡 3 条(北側堀・東側堀・虎口 2~3 の堀)北側は 3 回改修。 薬研堀から箱堀へ。平場から堀底までの比高差6.5m。 ⑤土塁跡 樹園の整地の際、ほとんど削平されているが、東側部分に一部残存。 基底部3~5m、高さ 1~1.2m。柵列のピットは約 50cm間隔で並ぶ。 (4)主要な遺物 ①陶磁器 中世陶磁器は平成25 年度までで 2,535 点。全体の種類別傾向としては、青磁 が 20%、白磁が 13%、染付が 24%、 瑠璃釉・赤絵が 2%、葉茶壺が 1%、 瀬戸美濃が26%、珠洲が 0.003%、越 前が2%、信楽が 3%、瓦質土器が 2%、 産地不明国産陶器が6% 図6 北側堀跡(左 断面実測図・右 断面写真) 図7 土塁跡(左 断面実測図・右 断面写真) 図8 青磁酒会壺

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②金属製品 武器・武具類(小札、鉄鏃、刀子、鞐・飾金具・八双金具・八双鋲・透 彫金具)、刀装具(切羽・小柄・笄・鞘 尻・目貫)、鉛製品(鉄砲玉3 点)建築 用具(鉄釘・鋸・鎹・鏨・手斧・青銅 製取手・押縁・引手金具)生活用具(火 打金、馬具、火箸)宗教用具(青銅製 獅子頭、鈴、鉦鼓)、坩堝53 点 ③石製品 硯15 点、茶臼 75 点、粉挽き臼 244 点、 砥石65 点、石鉢 26 点 すり鉢が欠如→石鉢はすり鉢の代用品? 粉挽き臼が突出して多い→当該期の粉食文化を反映? ④骨角製品 アイヌ文化の遺物としては骨角製品が20 点出土 鹿角製刺突具1 点、骨鏃 1 点、鹿角製骨針 6 点、弓矢に用いる中柄 4 点、 骨角製鞐・耳かき各1 点 未成品や加工痕のある鹿角 →アイヌが城館内で道具製作? ⑤銭貨 銭貨は約450 点出土。 ⑥その他 金箔押し天目台が1 点。 京都産金箔土器2 点(東北初) (5)年代 聖寿寺館が存在していた当時の同時代史料には、1536 年(天文 5)に浪岡北畠氏によ り作成された『津軽郡中名字』があり、「南部の知行は一百八十年ト云主従八騎ニテ甲斐 国ヨリ下リテ…」とある。天文5 年から 180 年前は 1356 年(正平 11)となり、南部 11 代信長か12 代政行の頃にあたる。また、1514 年(永正 11)成立とされる『余目氏旧記』 からは「南部氏ハ甲斐国下て六代なり」とあり、南部氏の入部が14 世紀代と想定される。 これらの年代は14 世紀中頃という聖寿寺館跡の出土陶磁器から得られる考古学的な成 果と一致する。SI-59 の埋土上層からは、14 世紀中頃に位置づけられる瀬戸美濃卸皿が 出土している。他に14 世紀代の遺物としては、14 世紀後半代の端反の青磁碗・白磁碗な ど、伝世の可能性の低い碗・皿がセットで出土していることから、14 世紀中頃に築城年 代が求められる。ただし、15 世紀中葉以前の明確な遺構が存在していないこともあり、 築城年代は15 世紀中葉~後葉とも考えられる。 廃城年代は文献では1539 年(天文 8)と云われる。最盛期の出土陶磁器は 1480 年頃 から1530 年頃まで流通する瀬戸大窯のⅠ期が多く、染付端反皿など 16 世紀前葉までの 遺物は大量に出土するが、16 世紀中葉以降は遺物が劇的に減少する。1560 年以降に出現 する瀬戸美濃大窯Ⅲ期やⅣ期の折縁皿はわずか5 点のみの出土となっている。16 世紀中 葉以降に確認される染付碗のE 群や 16 世紀末以降の F 群の皿も数点しか確認されてい ないため、考古学的にも16 世紀中葉には廃絶していたことが確認された。 図9 向鶴青銅製目貫 図10 京都産金箔土器

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平成 26 年度調査報告 瀬戸美濃産灰釉陶器(折縁菊皿) 平成 26年度調査状況

史跡九戸城跡

所 在 地 二戸市福岡字城ノ内地内 調 査 原 因 環境整備事業に伴う内容確認調査 調 査 期 間 平成 26 年 7 月 3 日~12 月 3 日 調 査 面 積 416 ㎡ 主 な 時 代 中世、近世 主 な 遺 物 陶磁器(染付・瀬戸美濃)、金属器、銭貨

①遺跡の説明

史跡九戸城跡は、市街地のほぼ中央の河岸段 丘上に位置しています。西は馬淵川、北は白鳥 川、東は猫渕川と三方に川が面しており、それ ぞれ、九戸城の外堀となっています。城は本 丸・二ノ丸・若狭舘・石澤舘・松ノ丸・三ノ丸 の曲輪と、武家屋敷跡である在府小路遺跡とで 構成されています。 1591(天正 19)年の豊臣軍による奥州再仕 置により九戸城は落城しました。その後豊臣秀 吉の命を受けた蒲生氏郷によって本丸・二ノ丸・松ノ丸が近世城郭に改修されましたが、 若狭舘・石澤舘は中世城郭のままと考えられています。 1989(平成元)年より史跡整備のための内容確認調査が本丸と二ノ丸東側で継続して行 われています。本丸では礎石建物跡を含む掘立柱建物跡が確認されていますが、遺構数は あまり多くありません。二ノ丸東側では掘立柱建物跡や竪穴状遺構、堀跡、門跡、柵跡が 確認されています。

②調査の内容

今回の調査では、「九戸城期と福岡城期の土 塁の構造解明」と「二ノ丸東端段差上部にお ける九戸城期の様相の解明」を目的としまし た。 あ調査区は大手門の東側で、調査区の中央に 土層確認用のベルトを設定しました。表土は 人力で剥ぎ取りを行い、その後検出作業を行 いました。ただ、調査区付近には十数年前ま

(11)

柱穴検出状況 土塁断割状況 で建物があり、調査区はその敷地内にあることから現代のゴミ類を伴う攪乱か く ら んが深く、元の 土(地山)がなかなか検出できませんでした。 調査は、遺構への影響を配慮して柱穴は検出にとどめ、溝跡と土塁の堆積状況を確認す るために断割を行いました。調査終了後は農作業用の寒冷紗を全面に敷き、廃土で埋戻し を行いました。

③調査の結果

調査の結果、堀状遺構1 基・溝跡 1 条・土坑 1 基・柱穴 100 個以上とともに、土塁の基 底部が確認されました。 堀跡と当初考えられていた堀状遺構(SD9)は土塁とほぼ並行して延びていますが、途中 で途切れていました。2 か所深掘りを行ったところ、幅は 3m以上、深さは 1.2m、底部は 平らな箱形でした。埋土底部からは瀬戸美濃産の折縁菊皿や永楽通宝が出土しており、16 世紀中葉から17 世紀初頭と推定されます。この堀状遺構の性格は不明です。 あ土塁は基底部と思われる硬くしまった白色火山灰が東西方向へ帯状に確認されました。 土塁の頂上から基底部の先まで約6.35mでありましたが、厚さが 0.8mで、傾斜は緩く、土 塁下の地山近くまで攪乱があったため、上段は大きく削平され、北側にかけて整地されて いると思われます。また調査区西側を断ち割ったところ版築はんちくの可能性がある細かな土の単 位が見つかっています。 柱穴は全部で100 個以上確認され、その中に柱痕があるものがあり、数棟の掘立柱建物 跡が想定されます。 出土遺物としては、瀬戸美濃産の灰釉陶器や染付などの陶磁器が検出時にまとまって出 土しており、それ以外では銭貨の出土がありました。 以上のことから、土塁については削平が多く、全容解明には至りませんでしたが、版築 によって作られていると考えられます。SD9 については性格、土塁との関係は不明です。

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平成 26 年度調査報告

前小路遺跡

第30~37次調査

所 在 地 二戸市石切所字前小路地内 調 査 原 因 新幹線二戸駅周辺地区土地区画整理事業 調 査 期 間 平成 26 年 4 月 22 日~12 月 8 日 調 査 面 積 計 3,789 ㎡(内訳は表を参照) 主 な 時 代 奈良時代、平安時代、近世 主 な 遺 物 土師器、須恵器、土製品、石器(磨す り 石い し、敲たたき石い し等)、鉄製品

①遺跡の説明

前小路遺跡は平成12 年 2 月 20 日に新規に発見された遺跡です。中曽根遺跡の南側、馬 淵川との比高差約 15mの河岸段丘上に位置しています。遺跡の中央を南北に市道大村線が 走り、それと並行して旧道が川沿いを走っています。旧道はかつての街道で、馬車が走れ るほどの道幅であったそうですが、今は崖の崩落が進み、人ひとり程度しか通れない幅に 狭まっています。 前小路遺跡は、昔の人々にとっても住みやすい場所であり、これまでの調査成果から平 安時代の竪穴住居跡が 100 棟以上検出されており、大規模な古代集落跡であったと考えら れています。

②調査の内容

前小路遺跡の調査は、新幹線二戸駅周辺地区土地区画整理事業に伴う事前調査です。宅 地造成、道路工事等に先立って発掘調査を行ない記録・保存します。

平成

26 年度前小路遺跡調査別遺構数内訳表

調査名 面積 (㎡) 竪穴 住居 竪穴 遺構 掘立柱 建物 土 坑 井 戸 溝 近世 墓 不明 遺構 第30 次調査 336 第31 次調査 550 3 2 16 4 第32 次調査 598 7 3 6 第33 次調査 151 1 第34 次調査 553 5 10 3 8 1 第35 次調査 966 14 1 24 4 3 4 3 第36 次調査 186 3 第37 次調査 449 7 1 6 合計 3,789 36 1 1 37 4 18 34 8

(13)

第34 次調査作業風景 第34 次調査第 2 号溝跡 調査は、重機により表土を剥がし、遺構のあ る面からは人力で掘り下げます。場所によって 異なりますが、これまでの調査から、現況より 概ね深いところで 80cm~1m、浅いところで 30cm~40cm 下げると遺構面が確認できます。 遺構の時期を知る指標として、出土した遺物 から判断する方法もありますが、「十和田a 火 山灰(※1)」という白色の火山灰からも大まか に判断できます。 十和田a 火山灰は西暦 915 年に降下したことが知られており、その火山灰がどのように 堆積しているかを見ることで遺構の時期決定のヒントになります。 今年度の調査では、昨年に引き続き、市道大村線の西側6m道路部分と宅地部分(第 32・ 35・37 次調査)と、東側の宅地部分(第 30・31・33・34 次調査)を調査しました。その 結果、多数の竪穴住居跡を中心に、平安時代の溝、土坑など、前小路集落の特徴をあらわ す貴重な成果が得られました。 ※1…十和田火山から噴出された火山灰層。文献資料から類推して 915 年に噴火したとされている。白色を呈している。

③調査の結果

今回の調査の結果として、36 棟の竪穴住居 跡、溝18 条、土坑 37 基が検出されました。中 でも第34 次調査で検出された平安時代の溝は、 幅3.2m、深さ 70cm と大きく、南から北東の 馬淵川に向かって回るように伸びており、昨年 度の調査で出た溝と繋がります。堆積土からは 土師器や須恵器、石製品、動物骨(ウシかウマ の骨?)などが出土しました。出土遺物や堆積 土の類似性から竪穴住居跡群に近い時期と 推定され、朝日山の山裾から馬淵川までの緩斜面からの雨水や生活用水などの排水や集落 を区画する機能があったと考えられます。 今後は、溝と住居跡の存続時期の関係、溝よりも内側にある住居と外側にある住居の違 いなどを明らかにし、溝がどのような意味を持っているかを明らかにしていきます。 近年の成果をまとめると、前小路集落は、 ①馬淵川の河岸段丘上に位置し、南西に行くほど住居密度が高くなる。 ②時期は9 世紀末から 10 世紀初頭の竪穴住居跡が中心であるが、それよりも古い奈良時代 の竪穴住居跡もある。 ③馬淵川へと伸びる排水を兼ねた区画溝が多数ある。 ④小鍛冶こ か じを行っている。 ⑤ロクロ土師器・須恵器を使用している。 ⑥琥珀・製塩土器など岩手県沿岸北部の集落からの流通品が出土している。

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平成 26 年度調査報告 第23 次 調 査 区 全 景

在府小路遺跡

第23次調査

所 在 地 二戸市福岡字在府小路地内 調 査 原 因 集合住宅建設に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成26 年 4 月 30 日~7 月 2 日 調 査 面 積 790 ㎡ 主 な 時 代 縄文時代(後期初頭)、中世 主 な 遺 物 縄文土器、石器、土偶、陶磁器、鉄製品、銭貨

①遺跡の説明

在府小路遺跡は九戸城跡の南側に位置してお り、九戸城二ノ丸跡、松ノ丸跡と堀跡で接して います。九戸城が落城し、蒲生氏郷が改修して、 南部氏に交付されて福岡城となった後の武家屋 敷跡と考えられています。これまでに遺跡の西 側で掘立柱建物跡や石積みの道路側溝跡、井戸 跡などが確認されていますが、東側へ行くにつ れ、中近世の遺構は少なくなり、縄文時代後期 の遺物・遺構の出土が多くなっていき、様相が大きく違います。

②調査の内容

調査区は、現状は畑地で縄文土器が表面採集できる状態だったことと、過年度に行われ た隣接地の下水道工事に伴う発掘調査時に、縄文時代後期の縄文土器や竪穴住居跡が見つ かっていたことから、多くの遺構・遺物が出土することが想定されました。 重機で表土を掘削した表土直下から多くの縄文土器が出土したため、遺物を取り上げな がら検出作業を行い、建物跡の有無を確認していきました。ただ、土が大変見づらかった ため、周囲より遺物の出土が多く、土が黒いところを中心にベルトを残した上で、掘削作 業を行いました。 また、住居上層の埋土に中 掫ちゅうせり浮石ふ せ き(いわゆるアワズナ)が多く含まれ、周囲の検出面と 類似しているため分かりづらく、住居の壁出作業の際は、住居の壁を断ち割ったのち、壁 の立ち上がりを確認しました。

(15)

発掘した炉跡 ミニチュア土器

③調査の結果

今回の調査では、縄文時代後期初頭(約4,000 年前)と考えられる竪穴住居跡 12 棟と中 世以降の井戸跡2 基、縄文時代よりは新しい時期不明の土坑 2 基が確認されました。 竪穴住居跡は、調査区の全体に確認されまし た。直径4m~11mで、特に 8m を超える大型 の竪穴式住居跡が多く確認されました。住居の 中には炉があり、中央よりもやや壁際に寄り炉 の入り口には1 対の平らな石が立った状態で あるものが多く見つかりました。また、床面の 上層に炉が重複する場合があり、時期差がある ことが分かりました。 遺物のうち縄文土器は縄文時代後期初頭が主 体ですが、縄文時代前期、中期の土器も確認されています。それ以外には土偶やミニチュ ア土器、石鏃をはじめとした石器が出土しています。土偶は頭部や胴部などが出土しまし たが、どれも破片で出土しました。ミニチュア土器や石鏃は今回の調査で多く確認されて おり、ミニチュア土器は35 点、石鏃は 51 点出土しています。また井戸からは、瀬戸や白 磁といった陶磁器や、鉄製品、銭貨が出土しています。 以上のことから、遺跡の東端部は井戸以外の近世遺構は希薄であり、福岡城期にはあま り利用されなかったために縄文時代の遺構・遺物がそのまま残され、多く確認できたとい えます。 土偶(頭部)

(16)

平成 26 年度調査報告

在府小路遺跡 第24~27次調査

所 在 地 二戸市福岡字在府小路地内 第 24 次 調 査 原 因 個人住宅建設に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 5 月 7 日~6 月 24 日 調 査 面 積 201 ㎡ 第 25 次 調 査 原 因 個人住宅建設に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 6 月 30 日~7 月 18 日 調 査 面 積 140 ㎡ 第 26 次 調 査 原 因 公共下水道工事に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 7 月 14 日~7 月 25 日 調 査 面 積 71 ㎡ 第 27 次 調 査 原 因 個人住宅建設に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 10 月 9 日~10 月 30 日 調 査 面 積 168 ㎡ 主 な 時 代 縄文時代、中世、近世 主 な 遺 物 縄文土器、石器、銭貨

①遺跡の説明

在府小路遺跡は史跡九戸城跡の南側に位置し、九戸城二ノ丸跡、松ノ 丸跡と堀跡で接しています。九戸城が落城し蒲生氏郷が改修して、南部 氏に交付し、福岡城となった後の武家屋敷跡と考えられており、現在ま でに遺跡の西側で掘立柱建物跡や石積みの道路側溝跡、井戸跡などが確 認されています。 ただ、東側へ行くにつれ、中近世の遺構は少なくなり、縄文時代後期 の遺物・遺構の出土が多くなっていき、東西で遺跡の様相が大きく違い ます。 今回の調査では第24 次調査は遺跡の西側、第 25~27 次調査は遺跡の 中央から東側に位置しています。

②調査の

内容・結果

第 24 次調査 以前、住宅が建っていたため、大きく後世の削平を受けていましたが、 表土を重機で掘削したところ、竪穴遺構が2 棟確認されました。そのう ち1 棟は中近世の竪穴遺構で南側に張出を持ち、壁際には柱穴が確認で きました。遺物は銭貨・鉄釘・縄文土器などが数点出土しましたが、ど れも遺構に伴いません。

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第 25 次調査 表土下の黒色土内から主に縄文時代後期の土器がまとまって出土し、さ らに検出作業を進めた結果、土坑が3 基、柱穴が多数確認されました。 柱穴は規則的に並ぶものの、一部の柱穴の埋土にはビニールが入ってお り、後世の攪乱の可能性があります。 第 26 次調査 対象地は砂利敷の道路で、下水道工事に伴う調査のため、1 日に約 8m ごと重機で掘削し、調査終了後、工事を行う方法で調査を行いました。そ の結果、溝跡が3 条、柱穴が 8 個確認されましたが、重機のバケット幅 の調査しかできなかったため、これら遺構の関係性は不明です。 第 27 次調査 25 次調査と同様、表土下の黒色土内から主に縄文時代後期の土器がま とまって出土し、さらに検出作業を進めたところ、土坑2 基、不明遺構 2 基、柱穴20 個が確認されました。土坑のうち 1 基は埋土が浅く、石が組 まれている状態でした。柱穴は建物として認識されるものはありませんで した。 24 次調査竪穴遺構 26 次調査溝跡・柱穴 25 次調査全景 27 次調査土坑

(18)

平成 26 年度調査報告

柿ノ木平遺跡発掘調査

所 在 地 二戸市石切所字柿木平地内 調 査 原 因 民間保育施設移転新築工事に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 4 月 17 日~5 月 30 日 調 査 面 積 2,183 ㎡ 主 な 時 代 縄文時代、近世 主 な 遺 物 縄文土器、石器、土製品

①遺跡の説明

柿ノ木平遺跡は、九戸城の南西、猫渕川西岸の河岸段丘上に位置してい ます。 周辺の丘陵上には、縄文時代・奈良時代・平安時代の散布地として知ら れる天神下Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、穴牛・上穴牛遺跡、弥生時代前期の遠賀川系土器 の壺の中に人骨が埋葬されていた中穴牛遺跡があります。

②調査の

内容・結果

今回は、民間保育施設移転新築工事に先立って試掘調査を実施したとこ ろ、縄文時代の遺物包含層等を確認したため、全面発掘調査となりました。 まず重機による表土剥ぎをおこない、遺構検出面までの深さ50~60cm まで掘り下げ、遺構は人力による掘削作業を実施しました。 溝跡2 条、近世墓 2 基、遺物包含層(縄文時代後期)を検出しました。 北西方向(九戸城方向)に延びる幅1m、深さ 40cm の溝跡は、調査区中 央で北東方向に延びる類似した溝跡とT字に交わっています。 溝跡からは遺物等は出土せず、所属時期は不明ですが、土師器など古代 の遺物が遺跡全体からあまり出土していないことから中世以降のものと 考えられます。 調査区全景

(19)

三ノ丸遺跡 第1次・第2次調査

所 在 地 二戸市福岡字城ノ外地内 調 査 原 因 個人住宅の新築工事に伴う緊急発掘調査 調 査 期 間 平成 26 年 5 月 8 日~5 月 27 日(第 1 次調査) 平成26 年 10 月 20 日~11 月 11 日(第 2 次調査) 調 査 面 積 第 1 次調査 50 ㎡、第 2 次調査 97 ㎡ 主 な 時 代 中世、近世 主 な 遺 物 陶磁器、縄文土器、銭貨、石製品

①遺跡の説明

三ノ丸遺跡は、二戸市の中心街城ノ外・五日町地内に所在しており、 史跡九戸城跡の曲輪の一つです。今回の調査区は、馬助坂を下る途中の、 県道より一段低い平場に位置しています。北側には土塁が残存していま す。旧地形は馬淵川に向かって緩やかに傾斜していますが、調査区東側 を削って平場を造成しています。

②調査の

内容・結果

今回の調査は、第1次調査・第2 次調査ともに個人住宅の新築工事に 先立って行いました。重機による表土剥ぎを行い、遺構検出面までの深 さ40~60cm まで掘り下げ、遺構は人力による精査作業を実施しました。 結果は、第1 次・第 2 次調査とも、竪穴状の掘り込みや根石を伴う柱 穴が確認されています。 第2 次調査では、その柱穴が 5 個並んで検出されましたが、今回の調 査範囲では明確な建物は検出できませんでした。 遺物は、近世から近代の陶器類や銭貨などが出土しています。 第1 次調査区全景 第2 次調査区全景

(20)

平成 26 年度調査報告

晴山遺跡(上里遺跡群)第34次調査

所 在 地 二戸市石切所字晴山・台中平地内 調 査 原 因 新幹線二戸駅周辺地区土地区画整理事業 調 査 期 間 平成 26 年 6 月 2 日~9 月 12 日 調 査 面 積 307 ㎡ 主 な 時 代 縄文時代、奈良時代 主 な 遺 物 縄文土器、土師器、陶磁器、鉄製品ほか

①遺跡の説明

晴山遺跡は、蛇行する馬淵川の左岸北側の河岸段丘上に立地し、上里遺 跡群の中では南西に位置しています。付近は馬仙峡と呼ばれる独特の河川 景観をなしており、大崩崖や国名勝に指定されている男神岩・女神岩があ ります。 周辺の遺跡としては、北側に鎌倉時代の方形ほ う け い居館き ょ か ん跡あ とである諏訪前遺跡 や、弥生時代の集落跡である火行塚遺跡や大渕遺跡があります。 これまで中世の遺跡とされていましたが、近年の調査で、縄文時代や奈 良時代の遺構も確認され、様々な時代の複合遺跡であることが明らかにな ってきました。

②調査の

内容・結果

晴山遺跡の調査は、新幹線二戸駅周辺地区土地区画整理事業に伴う事前 調査で、道路工事に先立って調査を実施しました。 竪穴住居跡2 棟(縄文時代・奈良時代)、土坑 4 基、不明遺構 1 基が検 出されました。中でも、奈良時代の竪穴住居跡は、焼け落ちた住居である 焼失家屋で、炭化した垂木や柱などの建築部材がきれいに床面に残ってい ました。また、同じ竪穴住居跡から甕一個体が、潰れた状態で確認されま した。 第2 号住居跡炭化材検出状況 第2 号住居跡甕出土状況

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天台寺跡

所 在 地 二戸市浄法寺町御山久保地内 調 査 原 因 保存修理事業に係る内容確認調査 調 査 期 間 平成 26 年 11 月 4 日~11 月 7 日 調 査 面 積 1 ㎡ 主 な 時 代 近世 主 な 遺 物 銭貨、桟瓦

①遺跡の説明

天台寺跡は古代寺院跡とされますが、現在、目にすることができる本 堂・仁王門・堂宇などは、万治元年(1658)に南部重直公によって再建 された以降のものです。仏像などから遅くとも平安時代末頃には成立し、 寺に伝わる寺宝などから鎌倉時代~室町時代においても存続していたよ うです。 昭和53 年から平成元年まで、浄法寺教育委員会が中心となって継続し て発掘調査を実施しましたが、残念ながら、古代から中世にかけての考 古学的な証拠は発見されていません。

②調査の

内容・結果

平成25 年度より始まった重要文化財天台寺本堂及び仁王門保存修理事 業に伴い、本堂基壇の雨落ち部分の確認が必要となりました。このため、 工事への影響の少ない本堂東側基壇の一箇所を選び、石の抜き取り痕跡 を確認するためトレンチ調査を実施しました。 雨落ち部分は硬いコンクリートで固め られていましたが人力で取り除きました。 コンクリート叩きの下層から厚さ約40cm 以上に積み上げられていた玉石が確認さ れました。この玉石の中には桟瓦の破片が 混じっていたことから、本堂の屋根が桟瓦 から銅板に葺き替えられた時に構築され たものと推定されます。 また、玉石の下からは人頭大の角礫が確 認されました。角礫は2 段に積み上げられ ており、近代の遺物が混じらないことか ら、江戸時代に南部重直公によって再建さ れた時のものと推定されます。 基壇調査状況

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プログラム

13:00 開 会 13:00 あいさつ 13:10-13:50 特別報告「三戸南部氏の城 聖寿寺館」 南部町教育委員会社会教育課史跡対策室 布施 和洋 13:50-14:05 質疑応答 14:20-15:15 平成26 年度調査報告 ・史 跡 九 戸 城 跡 二戸市教育委員会文化財課 鈴木 裕一郎 ・前 小 路 遺 跡 二戸市教育委員会文化財課 蔦川 貴祥 ・在 府 小 路 遺 跡 二戸市教育委員会文化財課 鈴木 裕一郎 15:15-15:30 質疑応答 15:30 閉 会

語句説明

n 遺構

い こ う 竪穴住居など地上に残された生活の痕跡のこと(不動産)

n 遺物

い ぶ つ 土器、石器などの生活道具のこと(動産)

n 竪穴住居

たてあなじゅうきょ 縄文時代から古代に見られる地面をほり窪めて床とした住居のこと

n 竪穴

た て あ な

遺構

い こ う 主に中世以降の竪穴式の建物をさし、工房などに使用された

n 掘

ほ っ

立柱

たてばしら

建物

た て も の 地面に穴を掘り、礎石を用いずに柱を建てた建物のこと

n 土坑

ど こ う 貯蔵などに用いられた様々な形の穴のこと

n 土師器

は じ き 古代に使用された素焼きの土器

n 須恵器

す え き 窯を用いて高温で焼かれた硬質の土器

n 攪乱

か く ら ん 遺構などが、新しい時代の耕作などによってかき回されてしまっている状態

n 地山

じ や ま 自然のままの土、地盤のこと

n 検出

けんしゅつ 土をきれいにして遺構の土を見やすくする作業のこと

参照

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