• 検索結果がありません。

山路愛山の中国認識と人種論

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "山路愛山の中国認識と人種論"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

山路愛山の中国認識と人種論

著者 藪田 謙一郎

雑誌名 同志社法學

巻 59

号 2

ページ 577‑607

発行年 2007‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011199

(2)

山路愛山の中国認識と人種論

五七七同志社法学 五九巻二号

山路愛山の中国認識と人種論

藪  田  謙 一 郎

 (一一四七) はじめに

 今日、中国は社会主義市場経済の下、世界という民族の林の中に再びその巨大な姿を現している。中国をめぐる多種多様な言説が世界各国の論壇をにぎわしているのは、その衝撃の大きさを物語るものにほかならない。

 かつて、中国は、日本の知識人にとって今日とは異なる意味で重要な意味をもつ国であった。すなわち、最初は日本の提携の対象ないし敵対者として、後に帝国主義的拡張の対象として、である。民友社の徳富蘇峰、山路愛山、竹越三

叉も例外ではなく、彼らは何れもその著作において中国に関するかなりまとまった議論を残している。

 徳富蘇峰が﹃七十八日遊記﹄を著したのは日露戦争後のことである。蘇峰は、清朝の改革に注目し、中国覚醒の時期が既に到来したと述べつつも、当時一般的であった中国﹁非国論﹂と同様に、中国には国民国家を形成するだけの条件

(3)

山路愛山の中国認識と人種論

五七八同志社法学 五九巻二号 (一一四八)

が無いとして、その﹁覚醒﹂に疑問符をつけ、近代化には悲観的な見解を示している。それに対して、鋭い批判の矢を

放ったのが山路愛山である。 山路愛山の批判の要点は、帝国主義の時代においては、強固な国民統合を実現し、国民国家を形成することによって

のみ国際社会の中で生存を維持することができるのであり、中国もその例外ではありえず、中国もまた国民国家形成へ向けて歩み始めている、というものであった (

。この論理は、愛山が主張する﹁帝国主義﹂、﹁国家社会主義﹂の論理を中 1)

国に適用したものでもあるのだが、中国も日本と同様に、世界共通の歴史の法則の下にある、という主張であった。 ただ、蘇峰の﹃七十八日遊記﹄を読めば、蘇峰のいう中国の﹁覚醒﹂も実は国民国家形成という意味で使われている

のであり、中国の知識人が国民国家形成の必要を認識し、その実現のために努力しているということは否定していないことは明らかである。ただ、認識することと実現することは別のことに属し、蘇峰は、その実現の可能性に懐疑的なの

であった。小稿では、蘇峰を批判した愛山が中国における国民国家形成の可能性をどのように考えていたのか、そしてそれと日本との関係をどのように考えていたのかを見ていきたい。

1

 山路愛山の中国観

 古代より日本人の目には、中国は大国であり、文明の先進国として映っていた。江戸時代に至り、﹁泰平﹂という観

1

)日本と中国の近代 点から、日本の優越が信じられるようになったといわれている (

ことによって、日本の先進性と中国の後進性が論じられるようになる。ただ、中国が先進国ではないとしても、大国で 。更に、近代に入ると、﹁文明﹂という観点を導入する 2)

(4)

山路愛山の中国認識と人種論

五七九同志社法学 五九巻二号 あることは否定できない事実であると考えられた。そして、その大国が、もし近代化に向けて動き出したとすれば、東海の島国日本は容易に中国に圧倒されてしまうに違いなかった。﹁脱亜﹂を説く福沢諭吉においても軍事大国である中

国は日本の脅威として認識されていた。また、愛山が指摘しているように竹越三叉の﹃支那論﹄は、中国が強大になる前に、中国を打ち破ろうという主張であったのである。

 だが、﹁前に突立つて自分の妨害をする清国と相撲を取つて見なければならぬ﹂ということになり清国と開戦すると﹁何ぞ図らぬ、清国は何でも無かつた (

﹂。日本は日清戦争において勝利し列強として東アジアの国際舞台に現れ、その十 3)

年後には世界最大最強と号する陸軍を擁するツアー・ロシアを破ってその地位を確乎たるものとした。一方、中国は、日清戦争の敗戦後、列強による分割の対象となり、日露戦争の時には、自国の領土で行なわれる戦争に交戦区域を設定

して中立を宣言するよりほかに道はなかったのである。 日本と中国のこの強烈なまでの対照は、多くの人に、何故日本は帝国主義国家となりえたのか、何故中国は半植民地

に淪落してしまったのか、という疑問をなげかける。この問題をめぐる議論は、その当時から今日に至るまで枚挙に暇がない。そして、この問題は、更に、中国は近代化しうるのかという問題と結びついていた。

 山路愛山も、この問題の解釈を試みた知識人の一人であった。愛山は、日清・日露戦争後、帝国主義国家日本の国民

の一人として、いわば徳富蘇峰と同様に﹁興国の市民﹂として、祖国日本と西隣の垂死の老大国中国の近代化の歩みと可能性を検証しようとしたのである。この問題について、愛山は﹃日漢文明異同論﹄という著書を残している。

 愛山が﹃日漢文明異同論﹄を執筆したのは日露戦争後である。この時期、中国の近代化が世界の注目を集めていた。日清戦争後、康有為、梁啓超らは日本を範とし、立憲政体の樹立までを視野に入れた改革の計画を提起し、光緒帝の支

持を得て、実行に移した。変法派の改革運動は、守旧派のクーデターによって夭折したが、その計画自体は義和団事件

 (一一四九)

(5)

山路愛山の中国認識と人種論

五八〇同志社法学 五九巻二号

後に実行に移される。また、日露戦争は、専制国家に対する立憲国家の勝利と中国知識人に認識され、改革を加速させ

ることとなった。変法を武力によって圧殺した西太后も改革の必要を認識し、将来における立憲政体の建設を宣言するに至る。かつての洋務運動と異なり、清朝の支配を前提としつつも、政体の変更を含む大規模な改革が計画され、実施

されたのである。この改革は﹁新政﹂と呼ばれているが、それが実現すれば、清朝の下に中国は国民国家として国際社会にその姿を現すはずであった。

 今日より見れば、﹁新政﹂はその後の中国の改革の目標を示すものではあったが、財政という点だけからしても実現の可能性はなかったといわざるをえない。だが、﹁新政﹂の推進者たちは、その困難を認識していたが、改革は実現す

るものと信じていた。また、海外の観察者もまた中国の覚醒と復興を信じたのである。かつて康有為は日本の改革のコースをたどることが中国富強の道であると論じた。﹁新政﹂においても、日本の近代化が模範とされた。日本に可能で

あったことは中国においても可能であるに違いない。ましてや中国は衰えたとはいえ、なお地大物博の大国である。そして、日本と中国は同じく黄色人種に属している。中国は国民国家として生まれ変わることは可能である。愛山が﹃日

漢文明異同論﹄を執筆したのは、このような主張に反駁するためであった。愛山は次のように述べている。

﹁日本は自ら日本の歴史ありて今日の日本を為し、支那には支那の歴史ありて今日の支那を為したる訳にて、支那は日本に非ず。日本は支那に非ず。此理窟が分らず。支那は直に日本となり得べしと妄想して驕慢の心を生じ、或

は極東に於て忽ち第二の日本が出来ては世界の大変化なりとて苦労するは共に杞憂に過ぎずと云ふべし⋮⋮且夫れ人を知る所以は即ち己を知る所以なり。支那を論ずるは併せて日本を論ずるなり。日本の読者若し之によりて支那

を解すると共に日本を理会するを得ば此論独り支那人と西欧の論壇に益するのみに非るなり (

﹂。 4)  (一一五〇)

(6)

山路愛山の中国認識と人種論

五八一同志社法学 五九巻二号 したがって、書名に﹁異同﹂とあるが、実際には愛山は日本と中国が全く﹁異﹂るということを論証しようとしたのである。そして、差異を明らかにする目的として、欧米人と中国人の誤解を解き、同時に日本人に日本への認識を高めさ

せることであると述べている。 ﹁一九〇〇年に義和団の氾濫が起こり、一九〇四年に日露戦争が勃発して、黄禍論は拡大の頂点に達した﹂といわれ

ている (

ことを常とする日本人は、この風潮に無関心でいられず、多くの論者が様々な形の反論を試みた。愛山も黄禍論を﹁愚 。また、この時期、米国における日本移民排斥が激しさを増してきていた。過敏なまでに欧米人の目を気にする 5)

論﹂として斥けている (

否定するものではあるが、欧米人が読むことを念頭において執筆されたとも考えられない。愛山の執筆の目的は、中国 。だが、愛山の日本と中国は全く異なるという主張は、確かに黄禍論者のいう日中同盟の脅威を 6)

の高まりつつある国権回収運動に対して中国人の﹁妄想﹂と﹁驕慢﹂を打ち破り、日本の近代化の成果を肯定しつつ、帝国主義へ向けて日本の国民統合を強化することにあった、と見てよいであろう。

 清朝の洋務運動は軍事や工業などの分野に近代化を限定するものであったのに対して、日本の明治維新は幕藩体制を

2

)日本と中国の差異

打破し、根幹から近代化を推進するものであった。このことに異論はないであろう。問題は、何故、日本が徹底した近代化を行い国民国家を形成することができたのに、中国ではそれができなかったか、ということである。これまででき

なかったとはいえ、今後、徹底した改革を行いさえすれば、清朝中国は国民国家たりうるのであろうか。また、革命派の説くように清朝が異民族王朝なるが故に徹底した改革を行うことによって、国民国家を形成することができないので

あれば、清朝を打倒しさえすれば、中国は国民国家となりうるのであろうか。愛山の見るところでは、問題は、そのよ

 (一一五一)

(7)

山路愛山の中国認識と人種論

五八二同志社法学 五九巻二号

うに単純なものではない。

﹁国家は活物にして固より製造すべきものに非ず、国家の繁達は⋮⋮内に在る生命の次第に開発するものにして自然の歴史あり、国家の改革、国民の進歩と云ふも此歴史の法則を破り得べきに非﹂ず (

。これは愛山の史論に共通して見られ 7)

る主張である。日本も中国もともに﹁歴史の法則﹂を破ることはできず、したがって国情が極めて重要な意味をもつことになる。では、愛山は、日本と中国の何が違うといっているのか。

 愛山は先ず人種の違いから論を起こしている。日本と中国は人種を全く異にしているのみならず、地理的環境のために日本人は﹁合金作用の全く行なはれる一個の混合人種﹂となっているのに対して、中国人とは﹁人種的合金作用の真

に行なはれざる異種異様の人民﹂の汎称に過ぎない (

 第二に、愛山が指摘するのは、﹁封建﹂と﹁郡県﹂という政治制度の違いから生じた社会、国民性の差異である。江 。 8)

戸時代の日本では、武士は藩を単位とする共同生活体の下に、﹁己の私を計らず共同生活の公利を計﹂る存在であった。そこでは武士一身一家の利益と藩という共同生活体の利益は不可分の関係で結び付けられており、﹁義勇奉公﹂は藩と

自己の双方の利益を実現するものであった。この数世紀にわたる封建時代を経過したが故に、日本人は共同生活を理解し、﹁共同生活の為めに一身の生活を献ずるの義務﹂を学び、藩への忠誠を国家への忠誠に転化し、明治維新後に国民

意識を形成することを容易にしたのである (

 中国でもかつて封建制が行なわれていた時代には、同様の共同生活体が存在したと考えられるが、封建制は早くに廃 。 9)

れ長年にわたって郡県制が行なわれてきた。郡県制においては、治者と人民との間をつなぐものは法律だけであり、その間にはむきだしの支配・被支配の関係が存在するだけで、そこに生活する人々は一身一家のほかに共同生活を理解す

ることはできない。中国が﹁個人主義の極めて発達したる国﹂となったのは当然であり、自己の利益を守るために国家  (一一五二)

(8)

山路愛山の中国認識と人種論

五八三同志社法学 五九巻二号 よりも個人を重んじることを責めることはできないが (

民という意識を育てることは非常に難しいといわねばならない。しかも、清朝という少数民族の建てた王朝の下で、人 、そこから究極的には自己の犠牲をも求める国家という観念、国 10)

口の大多数を占める漢族は被治者の地位に置かれており、このことも国民としての意識を形成する妨げとなっている。 第三の差異は、国民統合の中核となるべき存在の有無である。日本においては天皇が存在し、国民が﹁組織体たり有

機体た﹂る共同生活体を形成することを保証している (

ていない。清朝の皇帝は満洲族の利益を国家全体の利益に優先させるものであり、天皇のような存在には決してなりえ 。一方、中国においては、天皇のような国民統合の中核が存在し 11)

ない。地域格差の大きな中国において、中国人という意識を維持することが可能なのは、儒教という紐帯が存在するが故であるが、儒教は﹁宗教的の事にして政治的の事﹂ではなく、儒教による国民統合も現実にはありえない。ただ、中

国人の思想は﹁民主的﹂でもあるので、交通が発達し、交流が盛んになれば、あるいは君主政から共和政に移行する可能性は排除できない (

。愛山はこのように述べているが、革命派への関心は低く、清末の時点では、革命を予想していた 12)

とも思われない。結局のところ、清朝中国においては国民統合を実現する可能性はない、ということである。 愛山は、ほかに﹁教育と学問﹂、﹁文武軽重﹂、﹁西学論﹂、﹁基督教﹂という項目を立てて、日中両国の比較を行なって

いるが、それらの分野に見られる差異の多くは、﹁人種﹂と﹁封建﹂・﹁郡県﹂によって生じたものである。﹁人種﹂の問

題は跡で別に論ずるとして、ここでは﹁郡県﹂の問題について考えてみたい。 前述したように、郡県制の下で中国人は自己の利益のみを追求する極端な個人主義者となった、と愛山は考えていた。

中国では封建制が廃れてより後、土地の私有が生じ、土地の売買が自由になったことから富豪が生まれ、貧富の格差が発生した。漢代に既にこの問題について議論がなされ、歴代の王朝はしばしば富豪の兼併を抑えようと対策を講じたも

のの、問題は解決されることなく、今日に至っている。貧富の格差が極端に拡大した結果、中国は、富豪と細民のみが

 (一一五三)

(9)

山路愛山の中国認識と人種論

五八四同志社法学 五九巻二号

存在し、中等階級が存在しない社会になってしまった (

。このような社会構成をもつ中国は国家の名に値しない。愛山は 13)

﹃社会主義管見﹄で次のように述べている。

 ﹁或る国に於いては一階級の他の階級を圧抑する国あり。たとへば羅馬共和政治時代の貴族と平民との如し。されど是実は一国の名の内に二個の国家(貴族の国と平民の国)の並立して地歩を争ふものにしてかゝる状況に在る

人民は有機的の一国と見做し難きものなり (

。﹂ 14)

愛山の認識する中国社会は、まさにこのようなものであったことは疑いないであろう。国民意識の欠如というだけではなく、その社会構成から見ても、中国は国家としての実を備えていなかったのである。

 また、日本では学問は政治と絶縁していたが故に学問は独立し、思想の自由が可能となったが中国では科挙のために学問は政治の奴隷となったが、中国で学問が政治から独立しえなかったのは教育が普及していないからでもある、と愛

山は述べている (

もあるが、教育が富豪に独占されていたということにもよる ( 。教育が普及していないのは、一つには漢字という習得するのに時間のかかる文字を使っているからで 15)

。貧富の格差は同時に教育の格差としても現われるのであ 16)

る。  (一一五四)

(10)

山路愛山の中国認識と人種論

五八五同志社法学 五九巻二号

2

 辛亥革命と袁世凱政権への評価

して存在して居るけれども支那人は国としての共同生活を味つていない (  前節で愛山が日中の差異をどのように見ていたかを簡単に紹介した。それを整理すれば、﹃支那論﹄で﹁支那は国と

1

)中国における国家建設

﹂と述べているように、中国人は個人主義的で 17)

共同生活を理解せず、公共心を欠き、国家的観念が欠如しており、その社会的紐帯は弱く、国民統合の中核が存在しない、というものである。人民に国民の意識がなく、国家統合の核もなく、また教育も普及していない。このような社会

で国民国家を形成することが難事であることは論を俟たない。 ただ、愛山は、同時に中国人が愛国者たりうることも認識していた。﹃支那論﹄では、それを﹁美はしい支那魂﹂の

発見と呼んでいる。愛山がそれを見出したのは、近年その評価をめぐって中国で活発な議論が展開されている義和団においてであった。

 中国の官僚・読書人は﹁富豪﹂であり、﹁自保・自足の念のみ盛ん﹂で、彼らに愛国心を見ることはできない。だが、﹁支那の平民は決して外国人の横梁跋扈に対して憤慨せざる意気地なしばかりではな﹂く、決然と起って攘夷を実行し

た。その行動は﹁無知無謀﹂ではあったが、これによって中国の﹁一般の人民は誠に国事に冷淡の如く見へるけれども教養次第で彼等は愛国者の如く死ぬことが出来﹂、﹁立派な愛国者となり得べきこと﹂を世界に示したのであった (

。 18)

 ただ、彼らは教育を受ける機会がなく、国家という観念をもたない﹁散漫なる無意義の人群 (

﹂として放置されている。 19)

愛山の考えでは教育を受けていない﹁平民﹂は政治的原動力ではありえない。﹁政治的原動力は智者賢者の階級﹂以外にはないのである (

。 20)

 (一一五五)

(11)

山路愛山の中国認識と人種論

五八六同志社法学 五九巻二号

 中国の最大の課題は、国家を構成する国民を作り出すということにほかならない。そこでは、教育によって国民意識

の涵養を図り郡県制の下に形成された﹁千古の弊習﹂を除去することが求められる (

つまでもなく、中国の知識人も清朝政府も認識しており、学校制度が急速に整備されていた。 。このようなことは愛山の指摘をま 21)

 日本式の教育制度を導入することは必ずしも難事ではない。漢字の使用は教育の普及を妨げる一因となっているが、漢字の習得が難しければ、あるいはローマ字を採用しても良い。だが、教育の普及を妨げる真の原因は、貧富の懸隔と

中等階級の欠如にあるのであり、教育制度や文字の問題ではない。。 愛山は明治維新の原動力となったのは、教養と政治的関心とをもつ武士身分であったという。江戸時代、商人は武士

を圧倒するほどの力をもち、またその独自の道徳を発達させてはいたものの、教養がなく、その生活は﹁個人的﹂であり、﹁自分一人富みさえすればそれにて済む﹂が故に、国民国家の形成はもとより、新しい産業を担うこともできなか

った (

 中国の読書人は富豪と等号で結ばれるような存在であり、教養こそあるもの常に自己の利益を打算して行動するもの 。 22)

であった。つまり、愛山が﹃現代金権史論﹄などで描写する江戸時代の商人に類する存在である。愛山のいう武士ないし中等階級、すなわち教養あり一定の資産をもつ中産階級が、中国には存在しない、つまり近代化を進め国民国家を担

うべき階級が欠如しているということになる。したがって、教育を普及させ国民の意識を涵養するには、何よりも先ず貧富の懸隔を打破し、国家を共同生活体として理解させることが課題となるのである。我々はこの分析に、愛山の国家

社会主義を見ることができる。 愛山の国家社会主義が、英国の社会帝国主義の影響を受けていたことはつとに指摘されているところであるが (

、それ 23)

は帝国主義時代に国家を維持し、発展させるために﹁社会主義﹂政策をとって、国家の力によって階級対立を緩和し、  (一一五六)

(12)

山路愛山の中国認識と人種論

五八七同志社法学 五九巻二号 国家を共同生活体と位置づけ、個人の利害と国家の利害とを結びつけることによって強固な国民統合を実現しようとするものであった。したがって、貧富の懸隔は階級対立を激化させ国民統合を妨げるものとして認識されている。ここで、

我々は、愛山の﹁支那を論ずるは併せて日本を論ずるなり﹂という言葉を思い出さなければならない。愛山の展開する中国論は、同時に、日本の他山の石として読者に示されているのである。

 このことは貧富の懸隔という問題に限った話ではない。郡県制の下に中国では公共心が失われてしまったと愛山は述べていたが、明治維新後の日本もまた郡県制の社会である。郡県の社会では、﹁頼むべきものは独り個人の智、勇、弁、

才﹂であり、﹁個人主義﹂、﹁拝金主義﹂が支配することになる (

の日本でも中国と同様に公共心が失われ、自己一身の利益を国家に優先させるようになり、大坂の町人流儀の﹁平凡の 。これは中国も日本も変わりはない。したがって、今後 24)

唯物主義凡俗主義﹂が日本全体を覆う可能性がないとはいえないのである (

。 25)

 愛山は、教育を普及し、貧富の懸隔を打破し、国家を共同生活体たらしめることが中国近代化の鍵であると考えた。

2

)辛亥革命への視点

ここで問われるべきは、それを中国の政権が実現しうるだけの力を備えているか、ということである。前述したように、

愛山は、その可能性にはかなり悲観的であった。とはいえ、清朝が革命によって崩壊することは恐らく予想外の事態であったと思われる。

 張之洞が死去した折、西太后の没後、摂政となった醇親王載

を論ぜず、南北を問はず、清国の人心悉く改革に鋭意なる時代の潮流に駕して此摂政王あり﹂と愛山は書いている (

は光緒帝の変法維新の遺志を継いでおり、﹁今や満漢

。 26)

 だが、愛山が高く評価していた醇親王載

は、直隷総督として近代化を精力的に推進していた袁世凱を罷免し、皇族

 (一一五七)

(13)

山路愛山の中国認識と人種論

五八八同志社法学 五九巻二号

に権力を集中しようと試みる。清朝は、その後、立憲政体への改革を加速させながら、中央集権を進めていくが、その

措置が、地方自治への志向を強めていた郷紳層からなる立憲派、さらには地方の漢族官僚の反発を招き、辛亥革命が勃発するや全くの孤立無援の悲境に陥ることとなった。

 清朝は多民族を統治する体制を構成していたものの、満洲族による統治という性格をついに脱し得なかった。このことが清朝中国が国民国家に転換し得なかった原因の一つであった。愛山も﹁満洲人の特権を当時の儘にして置いては国

民として列国競争の間に独立し得べき余地はない⋮⋮支那は国としての陣形を立直さねばならない﹂ことを認め、中国には革命が必要であった、と述べている (

。だが、愛山のいう﹁革命﹂には﹁事実上の革命﹂という留保が付けられてい 27)

る。これは辛亥革命が﹁倒満興漢などゝ云う無意義の民族論﹂を以て起こったと批判的にのべていることと無関係ではない。

 愛山にいわせれば、漢族による民族国家の樹立という主張は、実は﹁日本学の余毒﹂であるという。日本の文献を通じ、あるいは日本人の教師からから社会科学を学んだ中国の知識人は、その学んだ民族国家論を﹁胡椒丸呑にして政治

論に応用し﹂、一つの民族は一つの国家を形成しなければならないと考えるようになり、その結果が、辛亥革命だ、というのである。そして、この民族国家論は、中国の国情には相応しくないのだという。王柯氏は﹁日本人が﹃単一民族

国家﹄という環境で

na tio n

を文化的属性と解釈した行為は、中国の近代思想に﹁一民族一主権国家﹂および﹁同一民族は同一の文化的背景をもっていなければならない﹂という烙印を押した﹂と述べているが (

、愛山もこれに近い見解をも 28)

っていたことが分かる。 中国において一民族一国家の主張が無意味であると愛山が考えた理由は三つある。まず潅族そのものも地域的な差異

が大きく、﹁人種的合金作用﹂が行われたと見ることはできない。次に、太平天国を鎮圧した後、政権は事実上漢族の  (一一五八)

(14)

山路愛山の中国認識と人種論

五八九同志社法学 五九巻二号 官僚によって維持されるようになっていた。第三に、満州人は、その固有の言語も風俗も失ってしまっており、実質に於いては既に漢族に同化されてしまっている (

。その既に漢族に同化されてしまった満洲族を殊更に武力で排斥する必要 29)

があるとは愛山には思われなかったのである。満洲族の政治的特権を廃止すれば、武力革命は必要ではない。このように考える愛山からすれば、清朝の皇帝を象徴的存在とし事実上政治権力を放棄させる﹁虚君共和﹂が理想的であったよ

うである。 だが既に﹁虚君共和﹂の主張では時局は収拾し難い事態となっている。清朝には革命派を鎮圧する力はもはやなく、

一方革命派にも北伐を断行するだけの力はなかった。この時、清朝、国内の各党派、そして列強から時局を収拾する人物として期待されて登場したのが袁世凱である。袁世凱は、一方で清室に迫って優待条件と引き換えに退位させ、その

一方で革命派と交渉して中華民国臨時大総統の地位についた。革命派は制度的に袁世凱の専権を防止する措置を講じ、議会において多数派を構成することで政権を手中のものにしようとした。愛山は革命の将来について次のように語って

いる。

 ﹁隣家の兄弟が真の大国民になるにはたゞ所謂満洲政府を倒した計りでは理想に向かって一歩を踏み出した計り

であると思ふ。底の無い、厚みの無い、上すべりの改革は我々が隣家の兄弟に望む所では無い。我々は今の革命党が志を得た後に議論倒れに流れず、仲間喧嘩に陥らず、常に整々堂々として規律を守る団体であると云うことを世

界に向て証明することが出来たらば其時初めて諸君の成功を祝そうと思う (

﹂。 30)

愛山は革命党の成功を祝することができたであろうか。

 (一一五九)

(15)

山路愛山の中国認識と人種論

五九〇同志社法学 五九巻二号

3

)袁世凱政権の評価

 清末における袁世凱に愛山は高い評価を与えている。直隷総督袁世凱は、行政、軍事、教育の改革を推進し、﹁新学を採用し、新制度を建てる為に群議を排して邁往した精悍の気象は曾国藩、李鴻章の壮時よりも寧ろ多くの威厳があつ

た﹂と述べている。袁世凱は﹁時勢を創造し得る人物﹂ではないとも見ているが、その敢為の姿勢は、愛山の好む所でもあった。そして、改革の中心人物として足利尊氏の如き地位を占めていたともいう。逆賊とされた足利尊氏を愛山が

高く評価していたことは余りにも有名であるが、袁世凱は﹁上は廟議を定め下は士論を鎮する﹂位置を占め、秩序を維持しつつ改革を進めることのできる人物として評価されているのである。また、対外的には、米国と結んで日本に対抗

する政策をとったが、その当否はさておき確かに﹁愛国者﹂の事業であったことは否定できない、とも語っている (

 この袁世凱が臨時代総統に就任したことは愛山にとって歓迎すべきものであったであろう。明治維新の時、江戸を無 。 31)

血開城した勝海舟を愛山は高く評価している。それは、勝が国内で争っていては﹁世界列強の間で此国は保ち難し﹂と考え、挙国一致に着眼した人物であったからである。同様に、列強の競争の中で半植民地である中国の混乱が長引くこ

とは避けるべきことであると考えたに違いない。 そして、列国からも﹁ストロングマン﹂として期待された袁世凱が主導する上からの近代化、これこそが最も現実的

な道と愛山には考えられたのであろう。日本においても、明治政府の﹁干渉主義、世話焼主義﹂があったからこそ近代化は可能であったのである。愛山は、明治初年の日本について次のように述べている。

 ﹁町人は無学文盲、時勢と共に移ることを知らず、武士は学問才気ありて時勢を見るの眼はあれども、三百年来

武士道世界の籠の鳥たりし因果には眼太だ高く、手甚だ低く、ほとんど無用の人物たるを免れざりし時代に於て、  (一一六〇)

(16)

山路愛山の中国認識と人種論

五九一同志社法学 五九巻二号 国家の干渉無く、役人の世話なくして日本人民は果たして世間に立つて男一疋、押しも押されもせぬ国民となることを得べきや否や (

﹂。 32)

 中国においても事情は同様であろう。ましてや、中国には、武士に相当する階級が存在しないのである。

 さて、前節で愛山の革命派への言葉を引用したが、実は、愛山は革命派には全くといってよいほど期待していなかった。それは、愛山の目に、革命派は上からの﹁干渉主義﹂を妨げるものと映っていたからだけではない。愛山の革命派

に対する低い評価は、彼の議会制に対する懐疑とも結びついている。ただし、それは、中国人の民度が低い、中国人には議会制を理解できない、といった考え方によるものではない。中国の政治思想も高度に発達したものであり、議会制

を運営できないというのは皮相の見であるとしているのである (

はなく、議会制そのものへの懐疑を意味している。 。ここでいう議会制への懐疑は、中国での議会制だけで 33)

 普通選挙運動に取り組んでいた愛山は、同時に議会制に深刻な懸念を抱いていた。何故ならば、資本主義国家においては、代議制はブルジョワジーの支配の道具となる可能性があると考えていたのである (

。マスメディアもまた同様にブ 34)

ルジョワジーによる世論操作の道具となりかねない。世論も議会もブルジョワジーによる国家統治になるならば、国家

は階級間の調和を実現する共同生活体としての実を失うこととなる。日本におけるブルジョワ独裁の危険性を警戒していた愛山にすれば、貧富の懸隔している中国では、議会は富豪すなわちブルジョワジーと地主階級の国家統治の機関と

して機能するだけということになろう。 まして、明朝末年の歴史が教えるように中国人には議論のための議論を好む傾向がある上に、中国の版図は余りにも

広大で、地域格差が大きいと愛山は考えた。その国で﹁支那人を議会に集めて其投票の結果に依り支那を一個の堅固な

 (一一六一)

(17)

山路愛山の中国認識と人種論

五九二同志社法学 五九巻二号

国民的生活に造り上げようとするのは木に縁つて魚を求めるよりも甚しい妄想である﹂と愛山は断言する (

。 35)

 革命後、袁世凱は、議会制民主主義を目指す国民党の指導者宋教仁を暗殺し、国民党系の都督を挑発して第二革命を起こさせた。第二革命を武力で圧殺し、国民党を非合法化して国民党の議員を議会から追放した袁世凱は、大総統の権

限強化に努め、最終的には中華帝国皇帝に即位する。このような袁世凱の政策と行動は、反動的というべきものであるが、単純に反動と決め付けるわけにもいかない。袁世凱がその手に権力を集中して行なったことは、確かに中国の近代

化を目指すものであったことも否定できない。最後に、皇帝となったことも、伝統的な皇帝という権威によって、近代化を推進しようとする試みであったともいいうるのである。

 中央集権の下に近代化を推進しようとする袁世凱の政策は、愛山から見れば肯定されるべきものであったことは、これまで紹介してきた愛山の発言から容易に理解できるであろう。そして、国家社会主義者愛山に言わせれば、中国社会

の様々な弊害の根源である貧富の懸隔も、また、強力な国家権力によってのみ実現され得るのである。愛山は述べている。

 ﹁今日に於て支那を立直さうとするならば、先ずその平民階級に復活の元気を与へ、人類は誰でも自由平等なる

ものであつて、皆独立して富をも地位を得、其運命を開拓する自由を持つて居るのだと云ふことを意識させ、さうして斯う云ふ個人の機会均等主義は唯だ有力なる国家の鼓舞に依つてのみ現実にさるべきだと云ふことを深く意識

せしめるに在る。他の語を以て言へば平民の階級に活力を与へて富豪政治を根本的に破壊し家本位の思想を国本位に転ぜしむるにあり (

﹂。 36)  (一一六二)

(18)

山路愛山の中国認識と人種論

五九三同志社法学 五九巻二号  国家の統一を維持しうる強力な政権によって実行される社会政策による貧富の懸隔の打破と教育によってのみ中国は国民国家たりうる、というのである。袁世凱が社会状態を徹底的に変えることができるか、またその意思があったかは、

かなり疑問ではあるが、国家を階級対立から超越した存在とする三元論に立つ愛山が、袁世凱政権による中国の統一と近代化だけではなく社会政策までをも期待していたとしても不思議ではないであろう。

 だが、袁世凱の帝政は脆くも崩壊した。雲南の武装蜂起を契機とする第三革命が急速に西南各省に拡大する中で、孫文らの中華革命党も山東に兵を挙げ、復辟を目指す宗社党も武装蜂起を準備する。更には北洋軍閥の内部でも帝政反対

の声があがる。この四面楚歌の状況の中で、袁世凱は帝政を取り消して大総統の地位を守ろうとしたが、間もなく悶死する。日本の大隈内閣は、この時、反袁勢力に支援を与え、あらゆる手段を講じて袁世凱政権を打倒し、中国を混乱に

陥れて親日政権をつくりあげようとしたのだが、愛山は大隈内閣を厳しく批判し、袁世凱に同情を寄せた。﹃支那論﹄は次の言葉で締めくくられている。

 ﹁袁の死を聞いた我々は、何となく﹃噫大隈、袁を悶死せしむ﹄、極東の天下是より多事ならんと云ふ感を抱かざ

るを得なかつた。是れ果して大隈内閣の成功なる乎。是れ果して日本外交の勝利なる乎。是れ果たして日本人民が

第二の同胞たる中華の好兄弟に向て為し得たる最良の友誼であらう乎。深くして且大なる疑問である (

﹂。 37)

 (一一六三)

(19)

山路愛山の中国認識と人種論

五九四同志社法学 五九巻二号

3

 愛山の中国論における人種

(1)人種のもつ意味 袁世凱の死を聞いて抱いた感懐を述べる時、愛山は、中国人を日本人の﹁第二の同胞﹂、﹁中華の好兄弟﹂と呼んでい

る。日本人が中国人を如何に敵視し、あるいは蔑視したとしても、日本人と中国人が﹁同文﹂あるいは﹁同種﹂であるとする考え方は、日本人の頭の中に常に抜き難く存在してきた。

 愛山によれば、今日において特色ある文明とは中国式の文明とヨーロッパ式の文明の二つしかなく、日本の文明も中国式の文明に属するものであった (

。漢籍の中に育った愛山にとって、﹁同文﹂を否定することは不可能であった。また、 38)

朱子や清朝考証学など中国思想に深い敬意を抱いていた愛山は、中国思想は必ずしも西洋思想に劣るものとは考えていなかった (

。したがって、﹁同文﹂を否定しなければならない必要もなかった。愛山においては、社会における学問の役 39)

割の差異を明らかにするだけで日本の優越性を説明するに足ったのである。 だが、前述したように、様々な側面から日本と中国の異質性を強調した愛山は、﹃日漢文明異同論﹄では、日中両国

は全く人種を異にすると主張しているのである。なお、、当時使われていた人種という言葉は、﹁同じ種類の人﹂という程度の意味であるが (

、愛山のいう人種も同様の意味である。。 40)

 日本において日本人種、日本語の起源をめぐる研究が本格化したのは一八八〇年代以降、﹁ナショナリズム、帝国意識の高まりに基づくもの﹂であった。ナショナリズム、帝国意識の伝道者の役割を担ったジャーナリストたちは人類学

者以上に活発に人種に関する発言を行なっている。例えば、民友社を代表する歴史家である蘇峰、愛山、三叉の何れもが人種についてかなりまとまった言説を残している。  (一一六四)

(20)

山路愛山の中国認識と人種論

五九五同志社法学 五九巻二号  彼らにとっての人種とは、科学的研究の対象というよりも、むしろ、社会と歴史を説明し、政治的主張を正当化する論理であった。竹越三叉は日本人の祖先を南洋、更にはフェニキアに求めた。また田口卯吉は、日本人はアーリア人種

であると説いた。今風にいえば﹁トンデモ本の世界﹂と択ぶところがないような議論であるが、少なくとも本人たちは真剣である。ただ、その真剣さは、身体形質や言語の研究によって結論を得ようとするものではなかった。日本人のア

イデンティティと可能性を論証し、その優秀性を説き、海外発展の方向を正当化するために、日本人種はアーリア人であらねばならず、あるいは南洋に故郷をもたねばならなかったのである。日本人が実はフェニキア人やアーリア人であ

るなどというのはやや極端な例ではあるが、政治的な必要が人種論を規定しているのは当時の一般的傾向であり、決して孤立した議論ではない。

 日露戦争後には、日本人種論は、帝国意識と抜き難く絡み合い、日本人の統一性と優秀性、そして異民族支配を声高に語るものとなる。この時期には、それまでジャーナリズムをにぎわす人種論に批判的な姿勢をとり、﹁人種分類の恣

意性を強調し、日本人種の起源について語ることに慎重だった﹂、日本における人類学の祖、坪井正五郎においても﹁﹃われわれ﹄についての確固たる自負、自身の高まりとそれに基づく(日本)人種をめぐる語り﹂が浮上してくることが指

摘されている (

。人類学にはいわば素人であるが、人種を論ずることを好み、もともと坪井の﹁慎重﹂さをもちあわせて 41)

いなかった愛山は、この時代の風潮と無関係ではいられなかった (

 ﹃日漢文明異同論﹄においても、また﹃支那論﹄においても、愛山は、封建と郡県こそが両国の差異の根本的な原因 。 42)

であると論じていた。これは愛山の一貫した主張である。この愛山の論理に従えば、社会のありかたによって人種の性格(国民性、民族性といってもよい)は変化するはずのものである。事実、尚武と質実の美質をもつ満州族は支配者と

して君臨している内にその性格を変え、日本人と人種を同じくするはずの朝鮮人も日本人と性格を異にする、と愛山は

 (一一六五)

(21)

山路愛山の中国認識と人種論

五九六同志社法学 五九巻二号

考えていた。また、それ故に、明治維新以降、郡県制の下にある日本人の変質を危惧しなければならなかったのである。

 だが、同時に愛山は社会制度の如何にかかわらず、不変の人種的特質があるとも考えていた。この不変の人種的特質、そしてそれが歴史を規定する一要素であるという発想は、愛山の史論の到る所に姿を現している。例えば、﹃日本人民史﹄

では、東北地方の日本人はアイヌと混血したが故に﹁性質も鈍重﹂、関東地方の日本人が保守的なのは﹁其血液ハ今ノ朝鮮人ニ類シタルガ為﹂ではないか、と書かれている。そして、現代人の﹁性情﹂を理解するにも、その血統を遡り人

種を明らかにして﹁始メテ其秘密ノ鍵ニ達シタリト謂フベキカ﹂と述べている (

。 43)

(2)日本と中国の人種 では、愛山は、日本と中国の人種をどのようなものとして読者に示そうとしたのか。

 まず、日本について見ると、日本人は混合人種であるが、﹁狭議の日本人﹂すなわち﹁日本国を建てたる幹部の人種﹂は北方起源であると主張している。適者生存の法則の下、﹁狭義の日本人﹂は﹁広義の日本人﹂すなわちマレー系など

の異人種との生存競争に勝利し、征服、同化して、今日の﹁合金作用の全く行なはれる一個の混合人種﹂たる日本人が形成された (

。 44)

 この﹁狭義の日本人﹂は、言語や宗教(シャーマニズム)などから見て、朝鮮族や満洲族、蒙古族と人種を同じくし、﹁チュラニアン種族﹂あるいは﹁フィノ、タルタリアン語系﹂に属するものであるという。このチュラニアン種族なる

ものは、ツラン人やウラル・アルタイ語族ともいわれるものである。愛山の説くチュラニアン種族の特質なるものを聞いてみよう。

 チュラニアン種族は、正直で武勇を重んじ質朴の風をもつなど多くの美質を持つとされるが、愛山が特に強調するの  (一一六六)

(22)

山路愛山の中国認識と人種論

五九七同志社法学 五九巻二号 は、その政治的組織の能力である。この人種は天神を篤く信仰し、その君主を神の如く尊敬し、その下に団結して強固な生活共同体を形成し、その成員は公の為に私を捨てることをもって誇りとする。組織の才、統治の才に優れ、﹁大き な国家を建設し、多数の人民を統治する優等の人民となり得べき素質﹂に恵まれた人種なのである。また、外来の文明を吸収消化し、自らに適用する上で優れた能力を発揮してきた (

。  45)

 このようなチュラニアン種族の特質は、最もよく日本において表現され、実現されたのであった。日本は古代より中国の文物を消化して我が物とし、近代以降は西洋文明を吸収してきた。そして、﹁日本国民は始めより一個の共同生活

体にして而して皇室は常にその中心として完全なる共同生活の実現に努力﹂してきた。﹁組織体たり有機体たる日本国民の生命に至つては未だ曽て一日も中断せ﹂ず、﹁日本国民の皇室あるは猶ほ人間に脊髄あるが如く之を欠けば遂に国

民たる生命を維持する能はざるなり (

彼が同時代の日本人に示そうと描き出したのは、このような自画像である。ところで、この日本人の自画像は、中国人 ﹂。愛山が自らの主張を悉く事実と考えていたかどうかは実は疑問なしとしないが、 46)

(特に漢族)の正反対の性格をもつものとして描かれている。まず、外来の文明に対する反応は、西洋人の中国に対する態度

― ―

日清戦争前に中国を大国として扱ったが故に中国は﹁自足自尊の悪習﹂を脱せず、また白人宣教師の横暴が 中国人に西洋文明を軽蔑させることになった (

― ―

にも問題があったとはいえ、遅鈍というしかない。中国の人種は大別 47)

して、﹁漢人種﹂、チュラニアン系の﹁東胡匈奴﹂、マレー系の﹁呉越﹂に別れるが、中国の﹁本幹の人種﹂たる漢人種は﹁総ての点に於て其東西南北の人種に勝﹂っている。ところが、ギリシャ人と同様に凝集力を欠き﹁国家的組織﹂の

能力に乏しいという欠点をもっている、としている (

 社会進化論を受け入れ、生存競争が社会集団の間、国家の間で行なわれている、と考える愛山にとって、日本と中国 。 48)

との優劣は明白であった。このような言説は、日本においては、天皇の下に組織体・有機体として共同生活体を構成す

 (一一六七)

(23)

山路愛山の中国認識と人種論

五九八同志社法学 五九巻二号

る日本人は、国家間の生存競争の中で勝利していくために、この性格を決して失ってはならない、という主張にほかな

らない。一方、中国は、生存のために国民国家を形成する必要があるが、いわば先天的にその能力が欠如しているといっているに等しい。﹃支那論﹄においては強力な中央集権体制による国民国家建設を期待しているかのように見えた愛

山であるが、人種の論理を用いるときには、このような結論しか導き出せないのである。﹁漢人には民族として一団と為り得べき予想の甚だ薄いものであることを断定する﹂、﹁支那人が一個の国民となり得るや否やは猶ほ疑問として存

する (

﹂、これが愛山の出した結論であった。 49)

 さて、小熊英二氏は竹越三叉や大隈重信の日韓併合論を﹁日本の進出方向が﹃同人種、同民族に向かって﹄という意

3

)人種の論理と帝国主義 識から決められていることがうかがえる﹂と指摘している (

るとしており、同じ人種であるという論理で日韓併合を正当化している。 。愛山も、朝鮮人は日本人と同じくチュラニアン種族に属す 50)

 一方、中国人

― ―

﹁漢人種﹂は、日本人とは人種が異なる。愛山にいわせれば、日本人が毛深いのはアイヌと混血したためであり、朝鮮人の皮膚が黄色いのは漢人と混血したためである (

。人種論のカリカチュアのような議論であるが、 51)

漢人種と日本人の人種が異なると愛山が考えていたことの例証にはなる。 さて、﹃支那論﹄の末尾で、中国人を日本人の﹁第二の兄弟﹂と愛山が呼んでいたことを前に紹介したが、﹃支那論﹄

では、中国人と日本人が同種であることが強調されている。﹃支那論﹄での愛山の発言を見てみよう。  (一一六八)

(24)

山路愛山の中国認識と人種論

五九九同志社法学 五九巻二号  ﹁日本人として支那を眺める時には日本と支那の心には国境は無い。日本人と支那人とは他人ではない。日本人と支那人とは殆んど同じ血肉である⋮⋮日本人の血は或部分まで支那人の血だ。支那人と日本人とは一所になつて

﹃我々﹄と云ひ得べき兄弟である﹂。

なお、ここで﹁同じ血肉﹂といっているのは、古代より日本には中国より移住したものが多く、日本人と混血したということを指している (

。 52)

 このような言葉を、その十年ほど前には﹁支那人種と日本人種とは其親密たるべき痕跡なし (

同じ口から発しているのである。十年一昔というが、変われば変わるものである。 ﹂と断言した同じ人物が 53)

 しかも、この変化は、愛山の研究の結果、人種的な同性を発見したことによって生じたものではない。﹃東西六千年﹄や﹃日本人民史﹄では相変わらず人種が異なると記されており、同種とはいっていないのである。﹃支那論﹄では、同

種が強調されているが、﹃支那論﹄とその同時期の著作を仔細に読めば、愛山の日本と中国の人種に対する見解は基本的には変わっていないことがわかる。

 日本人を﹁狭義の日本人﹂と﹁広義の日本人﹂とに区別したのと同様に、﹁支那人種﹂を、いわば﹁狭義の支那人種﹂

=漢人種と﹁広義の支那人種﹂=﹁東胡匈奴﹂、﹁呉越﹂に区別するならば、同種を主張することが可能となる。すなわち、﹁東胡匈奴﹂すなわち今日の満洲人や蒙古人はチュラニアン種族に属し﹁狭義の日本人﹂と人種を同じくしている。

﹁呉越﹂人種はマレー系であり、﹁広義の日本人﹂と同一の人種である、一方、中国の﹁本幹﹂たる漢人種と日本人は人種が異なる、という主張は一貫しているが、漢人の植民地ないし居住地が日本に存在したことを持ち出し、混血したが

故に同一の人種であると主張することも可能である。更にいえば、﹁呉越﹂人種は既に漢人種に同化しているのであった。

 (一一六九)

(25)

山路愛山の中国認識と人種論

六〇〇同志社法学 五九巻二号

 愛山は、その時の状況と必要に応じて、日本人が、この﹁本幹﹂と人種が異なることを強調し、あるいは﹁東胡匈奴﹂

もしくは﹁呉越﹂との同種を強調するのである。﹃支那論﹄でも主として﹁本幹﹂以外の人種と日本人が同種である故をもって﹁﹃我々﹄と云ひ得べき兄弟﹂であると説いているのである。

 では、何が愛山をして﹃支那論﹄で同種を強調せしめるにいたったのか。第一次世界大戦によって生じた国際情勢の変化であると考えて間違いないであろう。関内への進出へは抑制的であった徳富蘇峰が一転して関内への積極的進出を

説くにいたったのと同様に、欧米列強の中国における勢力が一時的に後退したのを好機として、愛山もまた中国への積極的進出を主張したのである。

 ﹁支那と日本島とは併せた大きな区域は我々の活動すべき場所、我々が同感の空気を呼吸し得べき場所、我々の

祖国、我々の墳墓の地である (

﹂。 54)

 この言葉は、第一次世界大戦という背景の下で理解されなければならない。そして、同人種であるということは、中国への干渉を正当化する論理として機能することが期待されているといってよいであろう。﹁与黎元洪﹂では、日本人

と中国人の同人種たることを強調した後に、﹁惜日本大官、貴国当路。多非経国之器。坐井見天。各民其民。無混同之略﹂と記している (

。 55)

 愛山は、大隈内閣の反袁工作を批判したが、それは、内政干渉そのものを批判するものでは決してなかった。愛山が世界史研究より得た結論は、小国から大国へ、大国から強国へと発展し、今日の帝国主義列強間の激烈な生存競争の中

から帝国が生まれてくる、ということである。そして、この競争は﹁レーシカル ストラッグル(諸人種間の競争)﹂  (一一七〇)

(26)

山路愛山の中国認識と人種論

六〇一同志社法学 五九巻二号 という形をとる (

。日清・日露戦争後の日本を愛山は次のように描き出す。 56)

 ﹁我々は最早、島の国ではなくなつた。アジア大陸に領土を有する陸上の帝国になつた。我々の支配する人種は、もう昔のやうに日本人種一つではない。我々は朝鮮人をも我々の種類の中に加へた。台湾に於いては、南支那人を

も我々の同胞の中に算へるやうになつた。我々は陸と島に跨り、朝鮮人、支那人を純粋の日本人に結び付けた大きな国になつた﹂。

 日本人の次なる課題は﹁日本帝国を大なる国と為し、大なる帝国と為す﹂べきことであり、この帝国の建設という事

業はチュラニアン種族である日本人には﹁相応しい事業﹂であり﹁人種的運命に向つて進むべき運命﹂であった (

 袁世凱政権による統一と国民国家建設への期待は、愛山のこのような帝国主義との関連において理解されるべきであ 。 57)

る。すなわち、日本に中国全体を植民地化する可能性がない以上、欧米列強の支配に抵抗しうるだけの能力を備えた、統一された中国が日本の提携相手として求められる。﹁問題は同盟をする方法なのである﹂と伊東昭雄氏は指摘してい

るが (

、確かに愛山にとって同盟は対等である必要はなかったはずである。なお、﹁ツラン主義﹂(ツラン人は愛山のいう 58)

チュラニアン種族のこと)という﹁反欧米反白人と反中国という二つの立場を同時に、しかも公然と唱えることのできる首尾一貫したイデオロギーであった (

﹂といわれるが、愛山の主張は、中国との同盟であって、中国を排除するもので 59)

はない。

 (一一七一)

(27)

山路愛山の中国認識と人種論

六〇二同志社法学 五九巻二号

 むすびにかえて

 愛山の中国観をめぐってはさまざまな評価がなされている。﹃支那論﹄で展開されている中国の統一と国民国家化への期待は、これを虚偽として否定することはできない。ただ、増井経夫のいうように愛山は﹁隣国が日本と同じような

国家となることを心から念願している (

本の帝国建設を妨げるであろうことは明白である。 ﹂とまでいえば、明らかに言い過ぎである。中国が帝国の建設に乗り出せば、日 60)

 日清・日露戦争において勝者となり、強国となって帝国建設の資格を得た日本は、同人種であるが故に、朝鮮を併合した。人種の特性よりして決して強固な統合は実現しえない中国は、日本と提携しつつ国民国家の建設に努めるべきで

ある。日本は中国人と同人種であるが故に、中国を指導するべきである。これが、第一次大戦下の愛山の主張であった。 また、工藤雅樹氏は愛山の﹁人種論は日本の大陸進出を正当化するための﹃日鮮同祖論﹄であり、さらに﹃日満・日

蒙同祖論﹄さえ主張しようとするものであった。そして、天皇中心の家族国家論を説き、国権論・大陸膨張論を歴史的にささえようとする意図が明白である (

﹂と述べている。小稿で紹介した愛山の主張から、工藤氏の批判が肯綮に中るも 61)

のであることが首肯されよう。愛山が満洲人や蒙古人を日本人と同じチュラニアン種族であると説いていたことは既に紹介したが、その遺著となった﹃世界の過去現在未来﹄では満洲人を﹁我々と一番近い人種として、従兄弟同士の間柄

とも言ふべき﹂とまで述べている (

一六年に死去したため、あくまで仮定の話とならざるを得ないが、愛山が﹁満洲国﹂建国を見た時、どのように反応し 。﹁満洲国﹂の正当化まであと一歩の地点まで愛山は来ていたのである。愛山は一九 62)

たかを想像することは可能である。 愛山は﹁アジア大陸に領土を有する陸上の帝国﹂日本の発展を喜び、﹁満洲国﹂の成立を肯定したことであろう。い  (一一七二)

(28)

山路愛山の中国認識と人種論

六〇三同志社法学 五九巻二号 わゆる﹁五族協和﹂の内、日本、朝鮮、満洲、蒙古はチュラニアン種族である。残る漢族にしても﹁広義の日本人﹂と同種であるといえるだけの﹁柔軟さ﹂を愛山はもっていた。まして、事実として、漢族と満洲族、蒙古族との混血が進

んでいる。この事実をもって日本の華北分離工作を正当化することは十分にありえる。更に、汪兆銘政権に対しても、同種であることを強調することで、同盟を正当化することも可能なのである。

 愛山の﹁可能性﹂はこれだけにとどまらない。﹁広義の日本人﹂の中には南方からやってきたマレー系の人種が含まれているが、﹁呉越﹂人種もマレー系であるとされる。彼らは﹁海の人﹂であり、海上活動に長けている。鎖国政策に

よって日本は海上活動から撤退した。だが、と愛山は続ける。

 ﹁天然は終に人事を指揮する。日本は再び海軍国となつた⋮⋮日本の将来は日本の地理が暗示して居る (

﹂。 63)

大東亜共栄圏の不吉な予言である。愛山は歴史の科学的研究を主張した。だが、記紀神話の自由研究を主張したのは、皇室を中心とする家族国家日本という主張を理性の検証に耐えうるものとして鍛え上げるためでもあった。人種の研究

は、その時々の必要に応じ、力点を変えることによって、日本の帝国主義的拡張を正当化しうるものであった。学問の

政治からの自由を説く愛山においても、学問は政治の必要に奉仕するものであったのである。

1

) ﹂、蔵 ﹄(

2

) ﹄()、

3

) ﹂、集 ﹄()、

 (一一七三)

参照

関連したドキュメント

[r]

[r]

『 個人の尊厳 と人間の平等』に基づ く日本社会 を築 くことである 」 ( 1 8 頁)。 また,編者 自身の論稿の中 で とくに注 目したいのは,歴史教育の研究者

と、楊守中は王陽明は良知しか言わなかったので偽学であると答え、許篈がまた、なぜ王陽明を崇める

3  

その意味では、一見、本論3.1.(1)−(3)で見た straight

[r]

9 1931 年の満州事変から 1937 年 7 月前までの局地的抗戦において、日本軍の損失が