著者 栃木 利夫
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 71
ページ 1‑15
発行年 2009‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011572
私の大学での研究・教育の体験は、一九六一年Ⅲ月の入学入学から始まりました。ただし研究へのプロローグとしては、大学入試などにむけての高校時代での学習で、世界史・日本史など社会科教科のなかで、一九五○年代~六○年代のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ(Ⅱシ・少.Fシ)民族独立運動、民族自決を必然なるものとして理解してきたことからのスタートでした。日本の敗戦と戦後世界でのアジア民族の抵抗への共感もありました。個人としては保守的家庭環境の中ではありましたが、第二次枇界大戦、Ⅱ小一五年戦争、朝鮮半島支配などH本市川主義・砿川主義政策への批判的評仙は「門たり前」のものとして受けとめていました。いわば「戦後教育」の民主症義、Ⅲ川主義、つまりは新しいⅡ本川懲法のなかで培われてきた歴史認識を、当時の生活のなかで何世代の若者と共有していたのです。一九六○年代の学生にとっては、中脚共産党の歴史的評価は、毛沢東とともにあり、隣脚小川の社会主義化、人民公社の集川化などの械極的評価も共通に認識していました。しかも中国共産党は創立初期の陳独秀らの「右翼H和見主義」を克服し、毛沢東の湖南農民運動、劉少奇らの安源炭鉱闘争、周恩来らの国際的外交などの経験をもった「一枚岩」指導部として認識されていました。中国共産党第七回大会
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) はじめに
中国国民革命と私の現代中国認識
栃木
利
夫
はじめに歴史を語る前提に、中脚の近代とは「なにか」、現代とは「いつのことか」をとりあえずお話します。「西欧の衝撃」(ウェスタン・インパクト)と中国の主体的近代への歩みの矛盾を、どのように止揚化するかの歴史的検討課題はあります。しかし今川はとりあえず、アヘン戦争期の一八四○年代以降から一九川九年までを中国近代として時期を区分し、四九年以降を中国現代とする時期区分で、話を進めていきます。また学生時代を含め戦後の一時期まで、一九一九年の五四運動をもって、以前をⅢ民主主義革命期、以降を新民主主義革命期として、五四運動期の六月三日からの労働者階級が変革主体として、政治的舞台に登場したとして高く評価されたことがありました。毛沢東らの新民主主義革命史での区分でもあり、一九一七年ロシア革命の世界的影響のもとで、中国現代が一九一九年から開始されるとする区分です。まだそこにこだわる評価もありますが、現代の中川研究では、五四時期に労働運動が時代の画期となるほどの高揚期とは言えません。反帝国主義、反封建闘争としての広がりや深まりがあったとは一一一一mえないのです。五四運動は、n本帝国主義と親日派の安徽派新交通系官僚に対する民族運動と限定され、北京政府統治下の北洋軍閥体制へ批判が高揚したのではないのです。無論、第一次大戦後のパリ講和会議での調印をさせなかった民衆運動の成果は、高く評価されます。しかし労働運動が政治的課題に正面から立ち向かうのは一九二五年の五・一一一○ と思います。 二九四五年四月~六月開催)での「若干の歴史的問題に関する決議」を受けとめた歴史的認識の世界に浸っていました。当時、日本での学生や一般向け概説書は、岩村三千夫・野原四郎箸「中国現代史』(岩波新書)などでした。また中国共産党史・革命史では、エドガー・スノウ「中国の赤い星』やアグネス・スメドレー「偉大なる道」など読まれ、前者は毛沢東、後者は朱徳といった指導者の歩みと体験が紹介され、それらを通して形成された歴史認識でした。以下に、まず私の研究課題の国民革命史から何を学んだかをお話します。その後に、一九六○年代での近現代史認識から、研究・教育にかかわる私自身の歩みを振り返りながら、その後の中国研究・中国観の変動について、述べていきたい 法政史学第七十一号
時期区分(中国近・現代)と中華民国初期の国民革命への胎動
二
次の前提として中華民国初期の時期区分と、国民芯命にむけて胎動した民国初期の動向をお話します。中華民国時代(一九一二~一九四九)の初期は、辛亥革命・第一革命(南京臨時政府)からです。プレリュードとしての辛亥革命運動は一九○五年、中国[革命]同關会が東京で成立したことから開始されました。その成立大会は日本の東京赤坂、アメリカ大使館横の霊南坂界隈の大倉喜八郎敷地内(推定)坂本金弥別邸で開かれたことは知られています。鉄道国有化反対連動(保路運動)やボイコット運動が展開され、Ⅲ川蜂起などの革命情勢の高揚の中で、武川日蜂起(一九二辛亥の年一○月一○日)を行いました。急遼、帰国した孫文が一九一一年一二月一一九日、中華民国臨時大総統に推挙され、翌一九一二年の一月一日、南京で臨時大総統就任を宣誓し⑲中華民国の成立を宣一一一一口します。一月二日に太陽暦使用を宣一一一一口します。翌三日、中華民国臨時政府が南京で成立し、集まった各省代表によって代表者会議を開催します。民意を代表する参議院の代行機関の機能を果たし、一Ⅱ二八日、正式に参議院が成立しました。’一月には、孫文、黄興らは、革命寵が清軍と対時する情勢のなかで、清朝の北洋軍閥の実力者、哀世凱との妥協的交渉を行い、臨時大総統の地位を哀世凱に譲渡しました。一九一一一年二月一一一日清朝は最後の皇帝、宣統帝溥儀退位の上諭を発して表世凱に臨時政府組織の全権を委譲し、ここに清朝は滅亡したのです(辛亥革命・民同元年の第一革命)。それは第一次世界大戦以前にアジアで初の共和制国家が誕生し、民族的主権を指向した「国民国家」成立でもありました。孫文は下野しますが、その取引の条件にもかかわらず、三月一○Ⅱ、哀阯凱は、南京ではなく北京で臨時大総統への就任を宣誓しました、一方南京では二日、臨時政府が、臨時約法を公布し、中国同盟会は、それまでの秘密結社を政治結社と改めて、南京で新たに発足しました。また光復会は統一党となり、さらに一二年八月、同盟会は統一党はじめ共和党ほか三党などの諸党で、大きな新政党、議会政党の国民党になりました。清朝打倒はなりましたが、共和制の民主主義は実現できませんでした。臨時参議院は、臨時政府を北京に移すことを正式に決定し、また二院制の採用も決定し、参議院と衆議院とになりました。北方では哀世凱の専制体制が強まり、これに 運動であり、反帝反軍閥闘二のなかで展開されたのです。
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) 反帝反軍閥闘争が全面的に展開するのも一九二○年代の北伐戦争時期においてでした。つまり中国国民革命
一一一
対し議会で多数を占める南方系の国民党派の議員は、南京への遷都を主張するなど宋教仁らを先頭に抵抗し、北京での衆参両院選挙では、国民党が第一党になります。これに対して、哀世凱は三月一一日に、刺客を派して、宋教仁を上海で暗殺しました。宋教仁は、法政大学のかつての留学生促成科で一年ほど学びました。哀世凱は国民党に対抗する勢力として、御用政党の進歩党を組織して、革命派を切り崩します。一九一一一一年に李烈鉤の江西挙兵など、国民党急進派は哀世凱政権への戦端をひらきますが敗退し、この第二革命は失敗に終わりました。南方派は敗退して北京の国民党議員も駆逐されました。一九一三年五月、哀世凱は、従来の約法(旧臨時約法)を修正した新約法を公布しました。哀世凱は大総統に選出され、一方、一九一三年国民党は解散令で弾圧され、また一九一旧年には国会や地方の各省議会への解散令も出されます。亡命した革命党員は、Ⅱ本に渡り、東京で中華雌命党を結成して、抵抗します。当時、一九一W年七Ⅱ、第一次世界大戦が勃発し、八刑にはⅡ本が対独立戦をします。中国政府は当初中立宣一一一一mをしますが、Ⅱ本軍は青島、さらには山東半島を殆ど占領しました。また翌一五年一几にはⅡ本は中国に対して「対華二一カ条要求」を提出し、哀世凱はこれを殆ど受諾して条約に調印しました。さらには皇帝への就任をはかり、帝制運動も始めます。このような情勢に対して、帝制取り消しなどを求めて、一二月、唐継堯・察鍔らは護国軍を雲南で組織し、独立を宣一一一口し討哀護国運動を展開します(第一二革命)。これらの情勢の中で、一九一六年一一一Ⅱ、哀世凱は帝制を取り消し、六月、北京で病死します。黎元浜が大総統職を引き継ぎ、段騏瑞が総理に就任します。他方、一九一七年九月には南方の広州で、孫文を軍政府大元帥とする中華民国軍政府(軍政府)が正式に成立して、新たな抵抗運動として護法戦争を始めました。なお北方でも、九月に「青年雑誌」が発刊され、翌年には「新青年」と改称し、李大釦、胡適、陳独秀らの民主主義や新文化運動が展開します。このように中川における新たな民主主義的高揚が見られ、近代化の歩みが始まっていました。この情勢の中で、N民舗命、国民脚家を模索する運動が展開したのです。 法政史学第七十一号
一一中国近代史のなかの国民革命
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国民革命での原点は、国民党・共産党の合作(第一次国共△口作)でした。まず、国民党改組後の「三民主義」について、周知のところですが、紹介いたします。「中国国民党宣言」(柾精衛・胡漢民ら起草、二一一一年一月一Ⅱ発表)「中国国民党総章」二三年一H二日発布」で一不されたものは、次のような内容でしたⅡ①民族主義》世界氏族の平等、民族自決と民族国家の実現をめざす。②民権主義牢面接民権の実現、男女平等の全民政治を求めて普通選挙制度実行の選挙権の他、創制権(イニシアティブ)、複決権(レフェレンダム)、罷免権(リコール)川権を人民が持つ。また人氏が集会、結社、一一一一m論、冊版、肘住。信仰の絶対的自由権が認められる。③民生主義「国営実業、平均地権、貨幣改革など」次に国民革命については、一九二○年代での陳独秀論文「造国論」一九一三年九月「脅導」での主張が代表的なものです。「現段階はプロレタリアート革命ではなく、ブルジョアジーとの両階級連合の国民革命(z畳・邑困のぐ○一三・口)の時期が成熟している口」革命的な両階級の共同戦線によるブルジョア民主主義革命こそが「国民党の使命」であると主張しています。彼は中国共産党一二全大会(一九一一三・六)で、コミンテルン一月決議を受けて、国共合作にむけての「革命的統 柱でした。 ここで中国国民革命とは何か、お話しいたします。国民革命は、本来的には国民党の三氏主義(氏族・民権・民生)のもとで展開された一九一一○年代中国の民族的民主的敢命です。反帝反封建(軍閥)の闘争、すなわち反帝国主義では、不平等条約撤廃(外貨排斥)、独立・自由(租界回収、植民地支配脱却)の運動です。反封建主義では、国内の封建的軍閥の打倒ないし封建的諸制度・抑圧からの解放を目指す革命でした。革命としての政権奪取としては、広東政府ないし南京政府(南方政権)による北京政府(北方政権)・北洋軍閥支配打倒の革命です。軍事的闘争では「北伐」戦争として展開されました。また各階層の民衆連動の組織化も電要ないます。一戦線」
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) を主張したのです。
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これらを基軸として如何に戦いを進めるかが課題となったのです。実際に展開された運動としての柱は、政権構想実現の国民会議、軍事的闘争では、北京政府(北洋系軍閥集団)打倒の北伐戦争でした。一九二一一一年一○月、直隷系軍閥曹銀が賄賂を国会議員に贈り、総統の地位に就きました。「曹銀賄選」事件です。各派軍閥は蒋銀総統の正当性を否認することを口実に、北京をめぐる争いを展開しました。この争いは翌二四年の江漸戦争を経て、九月の第二次奉直戦争に発展しました。奉天派張作森と直隷派呉伽孚との北洋軍閥間では山海関、熱河の一帯で猛烈な攻防戦を展開しました。そのなかで頂隷系の砺玉祥は奉天系の支援も受けて、部隊を前線から撤退させ、北京に入城し、クーデターを起こしたのです。これが一○月の「首都革命」「北京政変」で、直系軍閥蝉銀が監禁された事件です。鵜玉祥の支持のもとで、北京政権は段祓瑞が中華民国臨時執政に就任したのです。当時、鵺玉祥は民衆への職業教育で知られ、キリスト教に改宗してクリスチャン・ジェネラルの練名も得ていました。宗教的には多信教的でおおらか。イデオロギーでもロシア外遊から共産主義にも親近感を持ったといわれます。国民党左派の支持者との評価も受けていて、南方の革命の波が及んでいた事例といえます。かれは、自らの軍隊を「阿民軍」と改称し、河北の一部、チャハル、河南地力を支配しました。この情勢下で、砺玉祥や段祓瑞政府は孫文に会議開催の要請をおこない、孫文も「国民会議」の開催と参加の意向を示したのです。このように国民会議とは、一九二四年の第一一次の奉天派・直隷派の抗争(第二奉瓶戦争)で、直隷派が敗北した際に、段旗瑞が調停した際に提起したものが知られています。軍閥間の抗争の中から新たな合意の場として国民会議が提哨されたのです。段祓瑞は、軍閥などの諸派の既存勢力から代表選出を行うことを求めました。孫文は一九二四年一○月の「広東商団事件」を抑え込んだ後、段騏瑞政府の要請を受けて、北上しました。広州を出発するあたり、孫文は一一月一三Hに「北上宣一一一一口」を発して、「国民革命の新しい時代」での「国民会議」開催への期待と主張を行いました。「武力と国民の結合」のために、第一に国民の要求に適応する情勢の発展」をはかり、「各派勢力の利益分割や権利独占の罪悪を一掃する」、第二に「国民が自らの要求を選択し」、各派が専断して「大衆を無視する罪悪を一掃する」ことを目指したのです。その当面の政治課題として「国民会議を招集して、中国の統一と建設を図る」ことを主張しました。当面は、その前提として、実業、商工業、教育などの各界、大学、各省学生連合会、農会、曹錫・呉侃孚に反対する冬 法政史学第七十一号一ハ
振作森と段旗瑞は善後会議の開催をきめて、孫文に参加を求めました。しかし孫文は大衆的基盤のない善後会議には参加せず、李大釦らと国民会議促成会全国代表大会を開いて、国民会議運動への参加を呼びかけました。しかしすでに病魔に侵されていた孫文は、一九一一五年、一一一月一二日、北京で客死し、まさに「革命未だならず」の「遣嘱」をのこして、その解決の努力は次の世代に託されたのです。共産党は依拠する労・農・学生などの各界組織の人衆的運動の支持者の巾からの代表によって構成されるものを求め、民族連動や労農運動の高揚のなかから国民会議運動を腱開していきました。国民会議運動は、そのための促成運動が各地で展開され、広州市長選などの民選の試みなどもありましたが、その後の階級対立、党派間の抗争などで、国民会議の成立は進みませんでした。一方では、湖南農民運動などのラジカル化に伴なう亀裂も深まり、国民革命の展開では、軍事的抗争が先行していきました。北伐戦争による同氏党・共産党など南方勢力による北力勢〃(北京政府とその基盤たる北洋系軍閥)打倒のN氏革命の軍事的展開が、一九二○年代の主要課題となったのです。各省独立そして地域的割拠・「聯省自治」運動から新たに北方政権の北京政府・北洋軍閥支配の打倒と統一化が目差されました。一九二○年代末、後述の張学良の東北易幟など各地での地方勢力・政権の中央化、全国統一化の「曲りなりにも」の達成によって、すなわち広義では一九一二~一九二八、限定的には、一九二四~一九二八の期間において同民革命が展開したのです□この時期の中央・地方政府の推移を示すと、以下のようにまとめられます。南方政権の攻勢亜広東政府一九一七~第一次国共合作一九二四↓広東国民政府一九二五↓「北伐」↓武漢国民政府一九二七・一・一↓南京国民政府一九一一七・四・一八、分共(第一次国共分裂)七・一五↓東北・張学良「易幟」一九二八・一二・二九、北京政府の崩壊、南京国民政府の「統一」達成。 軍隊、政一しました。
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) 政党などの諸団体による予備会議の開催を提唱しました。一一一川一三日、孫文は、市民の歓呼のなかで北京に到着
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北伐の評価では、従来の北伐史の叙述が、歴史の政治的評価によって共産党、「大陸中川」の評価と、台湾を含む同氏党側の中華民国史の評価とは、異なっていたことを述べておきます。一般的には日本の研究害でも、一九二六年からの第一次北伐と一九一一八年四月の第二次北伐の一一段階区分で叙述され、「大陸中国」からすれば、第二次北伐は国共分裂後の国民党主導の統一で敗北の歴史なので、ほとんど積極的評価の叙述はなかったのです。他方国民党側からすると、東北易雌で中国の全国的統一を完成しましたから、当然、第二次北伐も積樋的に評価されました。しかし二七年の何時期に北上した容共派・武漢政府、唐生智らの長江渡河の北伐は、叙述されませんでした。これらをどのように総合的統一的にまとめて北伐を叙述するかが課題と考えました。結論的にいえば、広東からの北上、武漢や南京攻略、そして各戦場の戦いを共産党側の資料・叙述と国民政府側の記録や軍事史的な時期区分を加味すると、新たな叙述が可能となります。私は、坂野良吉先生(上智大学)と一○年間の共同研究をおこない、一九九七年一一一月に共著「中国国民革命」(法政大学出版局)にまとめました。幸いこのテーマでの専著は少ないこともあって、一○年余を過ぎた今も温かい評価をいた と新軍閥」忘蜘典」から) 国民革命時期の軍事的な代表的抗争の北伐に話を移します。先にも述べましたように、北伐では、阿民革命軍が広東・広西を基盤に台頭して北上し、華南、華中の北京政府系の軍閥政権や軍事勢力を打倒し、革命軍の統一を実現したものです。南京国民政府が南京を首都として、北京政府に代わって中央政府になりました。時間の制約もありますので、詳細の
ここで、軍閥の定義をお話ししておきます。軍閥とは、猜末の混乱期に軍人が各地において権勢を得て形成されました。小軍閥は各地に、大軍閥は督軍、巡閲使となる。親分・子分式地方的要素が強い。地方地盤で割拠し地主層と結託する。私兵を擁し独断で租税を徴収し、国税を横領する。交通機関を私有し、兵力をもって私利を営む営利集団。「旧軍閥と新軍閥」が分けられるが、「内容はMじ、ただ看板が異なるだけ」とも、いわれました。二九二九長野朗「支那問題 展開過程は省きます。 法政史学第七十一号
一一一北伐戦争の叙述から学んだこと
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湖南に向けて、広悲上の拠点でした。そ(受け止めていました。 第二次北伐の再開後の段階(④一九一一八年一二月の張学良の東北易幟で北伐終了としたのです。これまで軽視されてきた第三段階③が、第一次北伐でも重要な歳調的展開過程として評価できたのです.。またその過程で従来の北伐史叙述では、見られなかった事実が浮かびlがってきました。北伐戦争について私が担当した部分から、いくつかエピソード的事件を列挙してみます。従来では北伐軍が「広東を出て北上すると、武漢までの戦場では葉挺独立団の英雄的戦闘で迅速に行動し」、「破竹の勢いで進軍し勝利した」との印象を持たれていました。湖南に向けて、広東省境を越える際、広東北部の最終拠点は、詔関です。また湖南省の省都長沙の南にある株州も交迎上の拠点でした。その二つの拠点間は輿漢(広州・漢Ⅱ)鉄道が敷設されて、その鉄路を北上することで戦地に赴いたと 渡河)。 はじめに北伐戦争の期間は、一九二六年五月~一九二八年六月の約二カ年でした。ほぼ日本の昭和初期に当たります。一九二六年五月に広東国民革命系軍事勢力(唐生稗軍)と武漢の北洋軍閥直隷派(呉侃孚軍系)の、湖南省での勢力争いの戦争がおこります。六月二七Ⅱ広東の蒋介石は革命軍総司令に就き、唐生智軍を支援して、七月から湖南に向かい東部を支配します。これまで北伐前史を、国民革命軍創設から」九二六年北上出兵までとして、軍事史としての第一次北伐第一段階を一一六年七月の出師北伐から開始とすることが多かった。しかし軍事史との重ね合わすと、第一次北伐を軍事史的には三段階(①湖南・湖北の武漢攻略戦、②江西・福建・江湖の戦場、及び南京攻略、③南京・武漢の対立と同時的長江 だいております。思っております。
北伐軍は確かに広州から鉄路で出発したのです。武漢に到着した光景もありました。しかし輿漢線の詔関~漢u間は、まだ開通していなかったのです。兵士たちは徒歩などで行軍していたのです。また別のルートでは、訊関~江西省籟州に抜けて、籟江の水路から南昌経川で武漢に向かうコースもありました。多様な進路が
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) それは先行研究や資料を総括的に付け合わせることで、従来にない北伐像の一端を捉えて叙述できたと
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あったことは当然ですが、鉄路コースを想定してしまったのは、日本の中国近代史の概説などには、当該路線の掲載地図に鉄道線路記廿の書かれていたことが誤解の大きな一因でした。さらに広東と福建・湖南の省境は南嶺山地があり、炎天下にそこを徒歩で越えることは大変な苦境にあったといえます。当時、広東・香港は労働者たちの省港ストライキで、罷業地帯でした。北伐軍には、それら労働者たちが輔重輸卒的任務を果たして軍用荷物や武器・弾薬を担いで同行していました。行軍兵士たちの軽装はそのために可能だったのです。反面、高地の暑さに犠牲になった工人たちの遺骸が見られたといわれています。行軍途上で食料や物資が不足すると、現地調達よりも補充のため広東に引き返すことになっていたとも言われます。それら部隊や丘〈貝の苦境と苦情に対し、もっと配慮すべきとの蒋介洞宛ての文書もありました。また湖南~湖北の北洋軍との激戦地には、汀泗橋と賀勝橋が知られています。直隷派軍閥の呉伽孚は、退却せずに踏みとどまるよう指令し、違反したものは処罰するとしましたが、退却がとまらず、その部隊の将校の首をはねて橋脚に吊るして見せしめにしたけれど、止めることができず拠点の橋を放棄して後退したといわれています。また湖北の武閂城などの戦いでは、城壁を登って攻め込むために長く繋がれた梯子が用意されました。しかし守備軍の城壁からの砲火にあって、北伐単には多くの死傷肴を出しました。それを見ていた革命箙の外国人顧問の将校は、「まるで中世の戦いだ」とあきれたようで、この戦術はあきらめたといわれます。当時の北洋軍、北伐軍双方の実態は、このような記録、戦闘詳報、回想記、従軍日記などから、探索することが求められています□一方的に進軍して打ち破ったかのきれいごとの歴史叙述ではない実態の一部を垣間見た思いです。史料批判や傍証作業を前提としつつ、具体的事実の確認からさらなる底流の歴史的事実を探っていきたいものです。国民革命期での研究課題は、今後の私にとっても多くの課題が残されています。北伐戦争期の南北抗争を経て、一九二○年代、南方からの国民革命勢力は政権確立と中央政府・国家権力を掌握する道を上昇し、他方、北方の北京政府・中央政府は地盤とする軍閥勢力も分断されて勢力が下降し、没落の道を歩んでいくという、対照的上昇、下降の交叉を見せたのです。一九二○年代末から、一一一○年代にかけて、蒋介石南京政府時期の「易幟」や中国「統こへの道に、旧軍閥勢力はどのように対応したのでしょうか。日本の対満州支配の強化のもとで、東北 法政史学第七十一号
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アジア太平洋戦争戦時下については、前橋市内での防空壕の記憶がわずかに残っています。また、前橋から、空襲を避けて、群馬の西部、桐生巾近くの大間々町(現、みどり市)奥の川今に家族疎開をした思い出もあります。その際に罹った中耳炎はやがて慢性化して、戦後から大学教員生活を送るに至るまで耳鼻科に通うことになります。これを私のアジア太平洋戦争の後遺症として認識したのは、高校生の頃でした。一九四九年、小学校に入学しました。その五年頃から地学 敢近は、各地域の実態と資料による研究成果が趾にⅢされています。それらの新たな発捌資料や研究成果を、改めて轄迦していくことが、私の課題と忠います。そのtで、個別的にも深められた研究成果から、この過渡期の全体像の実態を深める課題は興味あるものです。北伐と凶比載命の時期に限っても、Ⅱ本の山東出兵と「対支非干渉」運動も丁寧に兄血すことが必要です。蒋介石が国民革命時期に来日した際の動向も、私は中断しています。また「民衆の協力による北伐成功」を評価しつつ、国共対立から分裂期になる北伐戦争後期と川比党による形式的「統この実像、あるいは抗日統一過程での反蒋派の諸勢力と、かつての中国問題研究家でジャーナリスト、橘撲『中国革命史論」などで示された脚比党内の軍閥化、「新軍閥」既定の批判的再検討などにも注Ⅱしていきたいです。落ち穂拾いからスタートするかもしれませんが、私の手元に収集されながら、放満されたり見落とされた歴史的事実を、再考することから、新たな歩みを始めたく思います。本稿を閉じるにあたって、妓後に補論として少し薪い学生の侍さんへの伝一一一一Ⅱとして、お話ししたいと思います。 だのでしょうか。 地域から周辺地域に移動させられ、東北車などの抗日と東北川帰の願いが張学良の西安事件の重要な基盤でありました。また東北の民衆的ゲリラの抗日抵抗はこれまでも評価され論述されてきました。一九三○年代以降の抗日などの抵抗において、各地域の旧勢力の瓶隊の動向を見直していきたいと凪います。また英米など両欧帝国主義のもとで蒋介石国民党政府はいかなる経済的政治的な関係を取り結んでいったのか、あるいは反蒋勢力としての地方の割拠勢力は独自の道を歩ん
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) 四私の歩んだ道
冒頭にも少し書きましたが、一九六一年に私が入学したのは、東京教育大学文学部史学科東洋史専攻でした。当時は民俗学や考古学を学べる新設学科の史学方法論にも興味を持ちましたが、当時のアジアで展開する情勢変動への関心から、東洋史学科専攻にしたのです。理系も興味がありましたが、数学と物理・化学の成績が不振で、入試準備で点数のよかった文系史学科が選択の理由でもあったのです。群馬大学地学科へ私が入学することを期待されていた先生が言われた「君もやはりマニア以前だったのかね」は、いまも耳に残っています。学生・院生時代(東京教育大学文学部東洋史学科、同大学院修士)の一九六○年代は、大学のサークルは中国研究会に所属し、人民公社など社会主義の新中国に期待と未来の道を探り、当時の革新系政治思潮を受けとめていきました。学生から院生(修士課程)での研究活動では、学内での研究会から始まって他大学・大学院研究者に広がった向主的な「中国現代史研究会」が研究基盤を作りました。孫文・辛亥革命から中国近代史にわたって活躍される中国研究者、野沢豊先生のもとで、一九二○年代中国共産党機関誌「轡導』の資料購読会から始まりました。当時は共通課題で研究会が組織され、やがて時代別、テーマ別の研究会が並行して組織されて研究会が進行していました。これが、本当に資料の読解力や時代をみる力量を高めました。法政史学科の研究会やゼミ演習の自主的組織の近代・現代史研究の場でも言えます。中国現代史研究会は、その後に変化も見せながら何度かの共同研究害も刊行し、現在まで新たなメンバーで継続されています。野沢先生の研究雑誌『近きに在りて』(汲古書院)は、日本のみならず中国・台湾、韓国、米国などの各地の研究者に研究交流と討論の場を提供しています。 、立化が始まりました。 に関心があり、群馬大学の岩石・鉱物や火山灰を研究されている先生方の研究室にお邪魔して親切な指導を受け、地学野外巡検にも参加しました。県立前橋高校時代、クラブは地学部(岩石・鉱物採集、温泉鉱物「研究」、自然観察・調査)で過ごしました。また蝶の観察など自然の中の生活も楽しかったです。高校三年の生徒会役員で一九六○年安保に関わりました。立場は日米新安保体制を有意義と評価し、安保反対デモの同級生たちと論争しました。家庭内では父親との話しあいから日本や世界の情勢での異論との葛藤はありました。青春期の 法政史学第七十一号一一一
一九七○年代、長崎造船大学に就職して、一九七○年~一九七八年までの八年間、長崎で新たな研究と教育の課題に取り組みました。孫文と長崎、国権派のジャーナリスト「東洋Ⅱの出新聞」」の鈴木天眼や西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)らの生きた日中関係史を掘り起こし、一九二○年代の広東政府・孫文と広東商業資本や地方軍閥陳燗明をめぐる「広東商団事件」は、私の研究者として「地域」に立った中国近代史研究論文となりました。学生・生徒たちとの「戦争と平和」ゼミ(原点ナガサキ)。被爆者運動と「長崎の証一一一一口」に協力、原子力船むつ反対運動など、研究者・教育者とし と思います。 評価しない私たちの運動はする活動にも参加しました。しかし文化大革命の「混釘 さて大学院を修了する(一九六八年三月)時代には、中国文化大革命(一九六六~七六)の開始となります。当時、高校などの世界史非常勤講師と歴史科学協議会の機関誌『歴史評論」(校倉書房)編集・校正委員で生活を維持していました。編集委員会での討論や、「歴評」誌上の掲載論文や「歴史学研究」誌上の歴史学界の動向や研究会・シンポジウムなどで、歴史認識や研究の方法論など、現代との緊張感をもって学ぶことができました□私にとって中国文化大革命は、衝撃的事件でした。中国現代史、同時代史としての中国で何が起こっているのか、文化大革命とは何なのか、暗中模索、無我夢中で当該事件に関わる資料を収集しました。刈時の主たるメディアは新聞で、その記事と週刊誌のルポルタージュなどでした。その記事のスクラップブックは、今も研究室にあります。ゼミや講義でもお見せしたと魁います。また仲間たちとは「毛沢東選集』や伝記や著作などの初版とその後の政治的修派・加筆の再検討、中ソ論争での「プロ独裁論」「過渡期論」「国家の廃絶と死滅」の道を論議しました。研究会では中西功氏との出会いとその著作「中国革命の嵐の中で』の毛沢東論や一九三○年代に展開された尾崎秀実、矢内原忠雄などの中国統一化論争などから同時代の中国革命認識を再検討を行ない、その革命認識や中国認識は、私の以後の研究課題となりました。またⅡ本では、Ⅱ中友好運動の再検討が迫られていました□H中交流の断絶など友好運動の川雛な時期であり、文革を評価しない私たちの運動は「日日友好」とも椰楡され、「友好商社」の友人は退社を迫られ、その解雇無効の訴訟を支援
中国国民革命と私の現代中国認識(栃木) 「混乱」の中から、中国革命史の歴史的な事実を、突き放す冷めた視野から見直す契機もつかんだ
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て生活しつつ市民運動に参加もしました。そこで被爆者の真実の声を聞き、平和を求める市民の原爆許すまじの抵抗を、現実の重みのなかで受け止めたといえましょう。長崎証言の会の市民たちは、各自の思想、信条、党派無党派を相互に知りながら被爆者の思いを軸に活動を続けていました。私は、そのヒロシマ・ナガサキの原点を学びました。長崎を離れて東京に移ることになった一九七○年代末、私の送別会で被爆者の友人から語られた「私たちは死ぬまで原爆から離れることはできなどとの挨拶も、その後の私の生き方への支えになりました。一九七八年から法政大学(教養部)時代は始まり、学内改組で二○○三年から文学部史学科に移籍して六年目、法政一一一○年余を経て、現代に至ったのです。この間に私立大学への国庫助成運動(国庫助成に関する私立大学教授会連合の関東協議会や全国連合の事務局活動)、法政大学教職員組〈口・東京私大教連など組合活動(全法政委員長・中央委員など)、八○年代中ごろから市民運動として法政平和大学世話人(これまでの尾形憲、中川作『石谷行諸先生などの後)の一人として、課題を抱えながら、現在にいたっています。なお居住地の群馬では、自然環境保全運動(県指定天然記念物・赤城山のヒメギフチョウの保護、生物の多様性の中での共生と保全)を一九八六年前後から現在に至るまで、継続して取り組
中国近代・現代研究では、一九八九年の第二次天安門事件(六四事件)では衝撃を受けました。都小平・改革開放期に人民解放軍の民衆弾圧、改めて「新中国」、「人民中国」とは何であったか!を問い続けてきました。二一世紀の現在、中国江沢民時代の愛国主義ナショナリズムも相対化されるかにみえましたが、中国社会の勝者敗者、強者弱者の格差、都市と農村の経済的格差拡大と農民工の失職の行方は気になります。「新、由主義Ⅱ阿家的管理・裁量的政策から市場原理の調節にゆだねる経済思想。競争的環境の政策」、Ⅱ中相互認識の課題としてのH本・アジアでの教科書問題とアジア連帯と友好(アジア的共同・連合)の可能性、平和憲法の危機への課題など山積しています。学生の皆さんには、アジアや世界の中での日本の現実を直視して生きてほしいと思います。歴史認識では、史料・資料に歴史を語らしめることで、本物の歴史を学んでください。歴史学会のシンポジウムなどへも参加してほしいですね。落ち着いた雰囲気のある史学科から、すぐれた認識と行動が生み出せる環境を作り上げてください。 んできました。 法政史学第七十一号
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講義を受講した学生諸氏の感想文では、少なくない日本史などを学ぶ人々の中から、アジア史の歴史やモノの見方から日本史や歴史を学ぶ複眼的視野が開けたとの声を聞きました。このような感想などでの交流や、ゼミやレポート、卒論を通じての学生の皆さんとの共同作業から、私の歴史認識も鍛えられたと思います。ありがとうございました。歴史学は生き方の学問です。新しい未来を生きる宝を掘り川されることを願っています。多くのお世話になりました史学科同僚の先生方に、また法政三○年間に教養部、文学部史学科でご支援いただき、また交流させていただいた多くの皆さまに、改めて御礼のご挨拶と致します。
[付記]本稿は去る二○○八年十一月十九Ⅱ、法政大学史学会、秋季大会での講演に基づき、時間的に割愛したものと語り残したことを追記したものです。
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