【研究ノート】那覇市の公設市場について
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 東北学院大学論集. 経済学
号 144
ページ 171‑203
発行年 2000‑09‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024466/
【研究ノート】
那覇市の公設市場について
仁昌寺正一
1 .はじめに−那覇市の公設市場への視点一
1999年と2000年の2年にわたって,短期間ではあるが,筆者は,岩本由 輝氏とともに沖縄県那覇市を訪れ,公設市場関係の諸機関においてヒアリ ングと資料収築を行った。総勢8名のメンバーで分担して行っている全国 各地の公設市場の調査のためである。調査の主な課題は,本土のほとんど の公設市場が衰退傾向を辿っている中,沖縄県のそれが今なお一定の隆盛 を保ち続けている理由・根拠を明らかにすることであった。本稿は, この 調査の中間的総括として作成したものである } 。
現在,那覇市には.第二次世界大戦後に開設された常設の公設市場が八 つある。すなわち,①牧志公設市場雑貨部・衣料部(1951年4月及び8月 開設),②牧志第一公設市場(1950年12月開設),③牧志第二公設市場(1969 年11月開設),④東公設市場(1963年6月開設).⑤田原公設市場(1965年 6月開設),⑥宇栄原公設市場(1967年2月開設),⑦若松公設市場(1969 年2月開設) ,⑧真和志公設市場(1969年4月開設)。これら八つの公設市 場には, 「那覇市公設市場条例」 2)に基づいて市内小売業者の入場・営業
l ) この調査は, 1998年度〜2000年度の3カ年にわたって行われている文部省 科学研究費助成研究「わが国における公設'1、売市場の形成と展開に関する研 究」 (課題番号10430018,研究代表者岩本由琿)によるものである。
尚,公設市場は,雄密にいえば公設小売市場であるが,通常,公設市場と 略称されることが多い。 ここでも,公設市場ということばを使用する。
2) これは,全体で16条からなり,那覇市公設市場の設置の趣旨,使用料,使/顔 東北学院大学論集経済学第144号2000年9月
171− 1
表一1 那覇市公設市塙の店舗数
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(雄)散価は 19(Kl年10月現在のもの。
(資料】那馴Ih産業振興課資料より作成。
が許可されている。現在422店が入場・営業しているが,表‑1を糸るよ うに, これらのうちの203店(48. 1%)を「精肉」 ・ 「鮮魚」 ・ 「食料品」
の三つが占めている。公設市場が生鮮食料品販売の拠点という性格を持っ ていることがわかる。また, 422店のうちの182店(43. 1%)を牧志第一公 設市場が占めており,最も規模が大きい。
設置地点は,図 1の通りである(上述の①〜③に対応している)。こ れらの地点に開設された経緯を勘案すれば,二つのタイプに分けることが 可能であろう。一つは, その系譜が終戦直後に自然発生したといわれる闇 市場にさかのぼるもので, これには国際通、の南側に設立されている⑩②
③の三つが含まれる。 もう一つは,那覇市の都市化の進展に対応し, 196() 年代に市内各地に吹々に建設された市営住宅の付属商業施設として整備さ れたもので, これには④⑤⑥⑦③が含まれる。尚,後者のタイプに分類さ れるものには, これら五つのばかに1963年に設立された辻公設市場もあっ たが,それは1990年に市営住宅の建て替えに伴い閉場した。
これら八つの公設市場の中で今日最も大きな賑わいを象せているのは,
上の二つのタイプの前者に属する②牧志鋪一公設市場(第一牧志公設市場
、蕊用料の徴収方法,使用者の禁止事項,禍害賠償などを定めている。 1949年4 月1Hに制定されて以来,何度も改正され今日に至っている。
−172−
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リ│蝿巾の公設市場について
図−1 那覇市公設市場の設置地点
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1牧志公設市場雑貨部・衣料部
( l(旧1年」ノ] . 8 1 2牧志第一公設市場( 1蝿()年12月開設I J 牧 と龍 を公設巾場( 1969年11月開設)
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! :Z'1寺松公設巾場(1969年2月開設ト 氏 IINI志公設市場1 1969年4月開設)
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( 111 Fil「1 UIIWI I II経済部竹働1
11
- 173
と呼ばれることもある)である。それは,その規模に相応しく,鮮魚,精 肉,乾物,惣菜, 青果などを豊富に取り揃え, 「那覇市民の台所」として の役割を果たしている。また土産を求める観光客も多く,観光名所の一つ にもなっているといっても過言ではない。それ故,上述の課題に接近する 上で注目せざるをえないのは, この公設市場だということになる。
ただし,そうではあるにしても,次の二つの点は看過されるべきではな いように思われる。一つは,牧志第一公設市場の集客力は, それが中心と なりつつも,周辺の三つの商店街(市場本通り,むつみ橘通り,平和通り)
との繋がりの中で形成されているという点である。実際買い物に行く那 覇の人々も, これらを一体化しているものと糸なし, この一帯を「マチグ ヮー」 (市場=マチの愛称) と呼んでいる。また, そのような観点に立ち,
この一帯を「那覇公設市場」とみなそうとする記述もある。すなわち,
「那覇公設市場という名称は正式にはない。国際通りの南側,市場本通 り,むつみ橋通り,平和通りの三本の通りから市場地帯がはじまり, ほ ぼ700メートル南の開南本通りにぶつかるあたりまで続く。その中心に,
これは正式名称の第一牧志公設市場という建物があり, 肉屋,魚屋.乾 物・漬物屋などがここに集中している。しかし市場全域はひろく,野菜,
<だもの,茶,衣料,雑貨,惣菜などの店が,露店, バラック,雑居ビ ルとその店構えは千差万別ながら,複雑に入りくんでちょっとした迷路 をつくっている。那覇の人びとは, この市場一帯をたんに市場(マチグ ヮー) と呼んでいる。単純明快でありながら,指示する中身は莊然とし ているあたり, いかにも沖縄風というべきか。 とにかく , その市場一帯 を那覇公設市場といっておくことにする。」 3}
いずれにしても,牧志第一公設市場と周辺の三つの商店街を切り離して 考えることは適当ではない。やはり,それらが一体となって集客力のある 一大ショッピング・ゾーンを形成しているとみるべきであろう。尚,以下 3) ナイチヤーズ編『沖縄いろいろ事典』 (新潮社, 1992年2月), 47‑50ペー
ジ。
4 174−
那覇市の公設市場について
では,便宜上, この牧志第一公設市場を核とするショッピング・ゾーンを
「市場地帯」と呼ぶことにする。
もう一つは, この「市場地帯」が,農家が相対売りを行っている卸売市 場ゾーンである与儀地区の「農連市場」−設置者は沖縄県経済農業協同 組合連合会一と有機的な繋がりを持っているという点である。この「市 場地帯j内の小売業者の多くが「農連市場」から野菜・果物を購入してお り,二つのゾーンには,卸売・小売の関係を通して,一方の盛衰が他方の それに大きな影響を与えるという関係が形成されているのである↓) 。 し たがって, この「農連市場」の動きも,われわれの視野に入れなければな
らないことになろう。
以下では, このようないくつかの特徴を踏まえつつ,那覇市の公設市場 のこれまでの歩象を辿る作業を行う中で, ここでの課題に接近してみるこ
とにする。
2.戦前の那覇市の市場
ところで,那覇市の公設市場はいずれも第二次世界大戦後に設立された ものであったが, それらの前身と思しき市場はすでに戦前にも存在してい 4) 牧志第一公設市場と | 農連市場」とのこのようなつながF)については,沖 縄大学沖縄学生文化協会「那覇市第一牧志公設市場調査報告・竹富島調査報 告」, 『郷土』第20号, 28ページを参照。
また, この二つのゾーンが強いつながりをもっているという見方は,例え ば, 次のような記述にも承られる。 「農連市場から平和通11, そして牧志の 第一,第二公設市場ですが, このつながりというのは一つの市場地帯をつく
‐〕ているわけです。私も那覇の街にお客さんを案内するときは,牧志の市場 から農連市場まで歩いて案内するのですが, そういう一つのつながりが出来 ておi)ます。 ということはお互いに農連市場が具合悪くなるとほかのところ にも影響が出て来ます。共通のお客さんをもっているのですから, これは関 連して市場の様子が変わって来るというふうに考えなければいけないと思い ます」 (来間泰男「中央卸売市場と市場問題」,那覇市経済部消費経済課『中 央卸売市場と市場問題』所収, 1982年2月, 12ページ)。尚, この引用文で は, 「市場地帯」の範囲が「牧志第一公設市場を核とするショッピング・ゾー ン」と「農連市場」を含めたものとされているようであるが,筆者は,本文 で述べたように,前者の象に限定しておくことにする。
−175
一︒
た。そこでごく簡単にでも,戦前の市場の様子をぷておこう。
『那覇市史那覇の民俗資料編第2巻中の7』によれば,明治末期頃,
那覇には, 旧市役所前から山形屋付近まで,大道を挟んで,据笥市,小間 物市,塗物市,壷屋市(陶器市), 米市,昆布市,芋市,野菜市,豆腐市,
松明市などが開かれており, また.海岸寄りの地域にも生物を扱う魚市や 肉市があったという(282ページ)。すべて露店商人による青空市であった。
その後, 1918年(大正7) 6月に, これらの市場の多くは,那覇の都市 化の進展に伴い,東町の一角に移転・統合した。これが 東町市場 であ る。沖縄県を代表するウフマチ(大市)であり, ナーファヌマチ (那覇 市場) と呼ばれていた。図−2は, 1940〜41年(昭和15〜16)頃のこの市 場内の品目別の市の配瞳をぷたものである。 「敷地は道路をへだてて東西 に分れ,東側は肉市と漁市が主で壷屋市,米市,砂糖市,鶏市と果物,卵 売りなどが並び,夕方客が多くにぎわうのもここであった。西側には,野 菜市,芋市,豆腐市,チンシ市(結婚式用品,年忌供物用品の小間物を売 る)や饅頭売りなどが並んでいた」 (282ページ)。
また那覇市には, この東町市場の他に,それと較べればスケールの小さ い市場が五つあった(表−2参照)。これら五つの市場は,東町市場がナー
表−2 戦前の那覇市の市場(東町市場を除く)
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紫野菜,魚鯛豆寓,モヤシ. オカラ. r1モギ.苫龍, キビガラ ユデ昆布,千切大根
栄元手I1j判 私設 80
紫野菜,豆腐, モヤシ.魚賦, 肉鯉ユデ昆力j・卵,牛・野, 糸瓜,
萌瓜.生聾,キウリ,冬瓜, ト料瓜, 千切大槻, カマボコ,オカラ 業野菜,豆腐,肉類,魚類,演物, 大根,卵, モヘ。シ, キ『7'j 千 切大根,甘藷,乾魚, トブシ,キビガラ,牛芳. 。"マボコ, 寸力ラ
久茂寺市場 私設 80
塩化Jh場 私設 100
(商科)那覇市「那覇『1』史那開の民俗管料田節2巻中の7」, 290〜29]ページよ』]作IRo
6 −176
図−2 1940〜41年頃の「東町市場」 (ナーファヌマチ)
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(出所)那覇市『那閣市史那覇の民俗資料編第2巻中の7」, 284/t−ジ。
ファヌマチと呼ばれていたのに対し, それぞれの地区でマチグ'7−と呼ば れていたようである。東町市場と較べれば買物の量も少なく , 「たとえば 肉類の如く東町市場では一斤とか半斤買う人がいるのに反し,その他の市 場で平常四半斤(四十匁)を買う人はよい方で,大方は十銭分や五銭分と こまぎれ買いが多く魚貝類もその調子であった。」 (289ページ)。
これら六つの市場は, 7万市民の食料の補給機関の役割を果たしていた。
食料の集散作業に従事する人が多数集まるため,連日「芋を洗うような混 雑ぷり」 (289ページ)であった。また,それらでの売手はもっぱら婦人で あり, 「その日その日の商売の一本勝負は,生馬の目をぬくようなはげし いもので,男まさりの気性の女性が多く,市場の雰囲気は,いつも活気が 溢れていた」 (288ページ) 5) 。市場はこれらの「婦人達の情報交換の役 目」も果たしていた(288ページ)。尚,那覇では,近代以前からも,市場 での売手は婦人であった(282ページ)。
以上が,戦前の那覇の市場の様子である。
ところで,戦前の那覇市の市場に関しては,今日なお検討を要する一つ の大きな問題が残されているといえる。それは,戦前の那覇市には 公設 市場 があったのか, それともなかったのかという問題である。
戦前の那覇市には,上述のように六つの市場があったが, その中の東町 市場潟原市場,泊市場の三つは,那覇市の市有地に開設されており,そ の使用料を那覇市が徴収していた。潟原市場 泊市場については定かでは ないが,東町市場には「市場の管理と使用料を徴収する職員が二人」おり, そのための事務所も置かれていた(282ページ)。 このようなことから, こ れら三つの市場は,市設市場, あるいは市営市場であり, したがってある
5) 因みに, この時期よりやや遡るが, 1893年(明治26)年に糖業視察のため に沖縄を訪れた青森県の笹森鵠助は, 同年9月28日に那綱の殻物市場を訪れ た際の印象を, 「婦女」によって行われる相対取引上の駆け引きが, 「殴打」
を「常体」とするほど凄まじいものであると記述している(東希望校注『南 嶋探検2 琉球漫遊記』 (平凡社) , 218ページ)。 してみると,市場での雰囲 気はずっとこのようなものだったのであろう。
8 −178−
那覇市の公設市場について
意味では当然の如く公設市場であるとされている。例えば, 1974年に那覇 市が発行した『那覇市史通史篇第2巻近代史』の657ページでは,昭 和8年現在の那覇市の公設市場として,この三つの市場があげられている。
また近年では, 1997年に刊行された堂前亮平著『沖縄の経済空間』 (古今 当院)の123ページにも, 同様の記述がみられる。
このような記述がなされる根拠は, どうやら, 1934年(昭和9)に沖縄 県社会課によって発行されたといわれる「沖縄県社会事業要覧」 (沖縄県 社会福祉協議会『沖縄の社会福祉25年』, 1971年, に所収)に求められそ うである(因みに, 『那覇市史通史篇第2巻近代」には, この文書か らの引用であることが明記されていないが,堂前氏の著書にはそうである ことが明記されている)。この文書には, 「本県二於ケル日用品ノ交易ハ古 来多ク市場二於テ行ハル需要者対生産者直接取引ヲ為スヲ以テニ者ノ便利 ナルコト言フヲ俟タズ是中央市場及公設市場ノ制度二則レルモノニシテ右 ハ大イニ奨励助成スベキ社会的施設ナリ而シテ本県二於ケル市場ニシテ現 在市町村ノ建設二係ルモノハ左記ノ通り合計十三ケ所ニシテ是等ノ市場ハ 少額ノ使用料ヲ徴収シ市町村民へ自由二使用セシムルヲ以テ需要者対生産 者ニヨク是ヲ利用シ居ルモ其ノ設備二至リテハ極メテ不完全ナルヲ以テ将 来大イニ改善ノ必要アリ」 (傍点・ ・ ・引用者) と記述され,那覇市の公設市 場として,東町市場,潟原市場,泊市場の三つがあげられている。
しかしながら,われわれが那覇市歴史資料室でたまたま入手した三つの 文書の記述では, このような見方は否定されている。
そのl ・那覇市勧業課発行の『昭和10年5月版那覇市の産業』の中の
「市場」の項には, 「那覇市に於ける取引市場は其由来最も古く遠く旧藩 時代より施設経営せられたもので他府懸に於て近頃漸く発達して居る公設 市場とは大いに趣を異にし従って遠近に係わらず農民が直接に其生産物を 消費者に対して販売して居る有様で最近良く叫ばるL生産者より直接消費 者へと云ふことを如実に現している所等最も誇るに足るものである」 (57 ページ,傍点・ ・引用者) と記述されている。
‑179‑ 9
その2・那覇市発行の『昭和12年版那覇市勢要覧』の中の「市場」の 項でも, 「那覇市場j (東町三丁目23ノ1 .束町三丁目23ノ5)に関して,
「本市市場ハ(公設市場二非ス)単二市有地ヲ以テ市場二充当セシメ其一 部二建物ヲ建設シ,葺卸ヲ敷設シ他鮮魚市場ハ木造平屋一二○坪特二混凝 土ヲ敬流シ一坪宛ヲ組板(コンクリート) トシ月額一定ノ使用料ヲ徴収シ 他ハ露店トシ市場ヲ使用スル商人ヨリ入場ノ都度使用料ヲ徴収シヅLアル モノニシテ旧慣踏襲ノ名称ナリ最初小公園設置ノ急務ノ為メ現在ノ地ヲ選 上大正七年六月十日旧市場を移転シ来リシモノニシテ生産人小売人仲買人 二開放シ特殊的市場ナリ」, 「早晩公設市場トシテ公定相場ヲ標瀧トナシタ キ希望アルモ時機尚早シ」 (27‑28ページ,傍点・ ・引用者) と記述されて いる。
その3・那覇市役所発行の『昭和14年度版那覇市勢要覧』の中の「市 場」の項にも, 「本市には市設市場3カ所,私設市場3カ所があって七万 市民の台所として重要な役割を持っている然し本市設市場は公設市場とい う性質を有せず単に市有地を市場に充当し建物を建設して鮮魚市場, 肉市 場,野菜市場となし商人に使用させて使用料を徴収しているものであり旧 慣踏襲のまLで大正七年六月十日旧市場より移転開設せるもので生産人,
仲買人,小売人に開放した特殊市場である」, 「尚私設市場も市設市場と同 じ性質のもので古慣習を踏襲せるものである」 (37‑38ページ,傍点一引 用者) と記述されている。
糸られるように,昭和1O年代前半に那覇市が発行したこれらの文書のい ずれにおいても, これら三つの市場は, 公設市場ではない と記述され ている。すなわち, それらの市場は,他の三つの私設市場と同様, 「入場 ノ都度使用料ヲ徴収」して「農民が直接に其生産物を消費者に対して販売」
する「旧慣踏襲」したものであり,そこでは取引き価格形成においても,
専ら「生産人・小売人・仲買人」に任されるかたちになっており, 「他府 懸に於て近頃漸く発達して居る公設市場」のように「公定価格」の形成と いったいわば 上から の政策的意図が全く糸られないとされている。
10 一i80
那覇市の公設市場につL,て
これに対し,上述の沖縄県社会課の立場は, これら三つの市場は「公設 市場ノ制度二則レルモノ」であるとしている。 ここでいう「公設市場ノ制 度」とは.公設市場が果たした歴史的役割と関連するものである。よく知 られているように.公設市場は, 明治後期以降の我が国の急速な資本主義 化の進展の中で,国家主導の卜.,都市住民への生鮮食料品をはじめとする 日常生活品の廉価による安定供給という社会政策的課題を担って登場し,
1918年(大正7) 4月の大阪市を皮切りに全国に波及していった。その際 自治体による市場の敷地や建物の提供は,廉価販売の有力な手段の一つと して採用され,一定地域の低価格の「公定相場」を形成するために大きな 役割を果たしたのである。つまり,沖縄県社会課は, これら三つの市設市 場がこのような動きに沿って設立されたもの, その意味で 上から の社 会政策的意閃に沿って設立されたものであると主張しているわけである。
沖縄県社会課と那覇市役所の主張の是非については, ここで検討する余 裕はない。ただ,気掛かりなのは,上で挙げた『那覇市史通史篇第2巻 近代史』にせよ堂前氏の著苫にせよ, さらにまたその他の近年の文献にせ よ6) ,那溺市役所の上述の如き主張を検討した形跡が全く象られないこ とである。この問題は,場合によ=〕ては,那覇市の公設市場の歴史を吾き 換えねばならないほど重大であり,その点で今後の研究の進展に期待する
ところ大である7 。
6) 例えば,琉球新報社縄『新南嶋探検−笹森儀助と沖縄百年』 (琉球新報 社, 1999年9月)でも「那覇の市場は1932 (昭和7)年[1918 (大正7)年 の誤り・ ・ ・引用者〕,東町に移転する。 ・ ・ ・ここが戦前の公設市場で,事務所に は市場の管理と使用料を徴収する職員がいた」 (223ページ) とされている。
7) 今後の研究でとくに亜要な点は, 1918年(大正7)年6月10日に移転した
「東町市場」 (那覇市場)に関していえば, その移転の際の動機についてで あろう。 これについては,先にあげた那覇市勧業課発行の『昭和12年版那 覇市の産業』においては, 「瞳初'1,公園設侭ノ急務/為メ現在ノ地ヲ選上大 正七年六月十日旧市場ヲ移転シ来リシモノ」とされている。 ここからは,移 転に際しては強い政策的愈図(とくに社会政策的意図)がなかったというニ ュアンスがみてとれよう。 ところが, 1919年(大正8) 11月に内務省衛生局 が発行した『各地方二於ケル市場二関スル概況』 (保健衛生調査室網纂)に おいては, 「本県ハ公設市場二関シテハ最モ古キ歴史ヲ有シ」ておI) 「本県/貢
−181− 11
3.公設市場と「農連市場」の登場・定着
(1)闇市場から公設市場へ
さて,第二次世界大戦後.那覇市の公設市場は. どのような経緯を経て 登場してきたのであろうか。国際通りの南側にある三つの公設市場につい ていえば,その系譜が終戦直後に自然発生した闇市場に連なるものである ことは上でもふれたが, この闇市場との連続性では, とくに1950年12月と 1951年4月・ 8月に相次いで店舗が建設された牧志第一公設市場と牧志公 設市場雑貨部・衣料部が問題となるであろう。
この点については, さしあたり,それらの母体となった当の闇市場がど のような背景・経緯から発生してきたのか, またどのような地点に発生し たのかをみておく必要があるように思われる。
沖縄県の戦後史に関する記述を糸ると, 1945年4月〜1946年4月の時期 は「収容所時代」とされ, またそれに続く1946年5月〜1948年1 1月の時期 は「経済統制の時代」とされることがある。
「収容所時代」は「無償配給時代」とか「溺貨なし経済」の時代ともい われる8) 。沖縄の人々が収容所での生活を送り,食料,衣類等はいうに
、蝋ノ誇リトスル蕗」であるが, 「市場全般ヲ通シ商品ノ陳列二秩序ナク且一般 二不潔ノ嫌アルヲ以テ之力改善二留意シ地方ノ状況二鑑ミ夫夫施設スル魔ア リ」とし, 「当那覇地区二於テハ・ 市場ノー部ヲ改築シ本年〔調査が行われ た1918年のこと 引用者] 7月ヨリ開始」とされている。つまり, これによ れば, 「不潔の嫌」などを取り除こうとする政策的意図から. 「東町市場」に 移転・改築したということになる。因象に,沖縄県社会課が1934年(昭和9) が発行した「沖縄県社会事業要覧」の源流は, この内務省衛生局発行の文普 にあるのではないかと思われる。
また,沖縄県と那覇市の公設市場の位盟づけが異なることについての政治 的背景を研究することも重要であろう。これに関連して 岩本由輝氏は「1935 年以降の那覇市が,那覇市場,すなわち東町市場は,いわゆる公設市場にあら ずと再三にわたって否定しているのは, ・ ・ ・沖縄県社会課に対する反発である」
(アジアひたか象研究会編集『hitakami』第1巻第4号, 2000年5月, 2ペー ジ) としているが, これを一歩進めて,それではなぜ,那覇市役所は,沖縄県 社会課が公設市場とすることに反発したのかを明らかにする必要があろう。
8) 琉球銀行調査部編『沖縄戦後経済史』 (1984年3月) , 30ページ。
12 −182−
那覇市の公設市場について
及ばず,ほとんどすべてのものを米軍から無償で供給され,それ故,物資 の交換は行われず, 当然貨幣も存在しなかった。この時期,那覇市の状況 はどのようであ‑〕たろうか。改めて言うまでもなく、沖縄では第二次世界 大戦時, 「鉄の畢風」カミ吹き荒れたといわれるほどの激しい戦闘が展開さ れた。 1944年10月10日には,那覇市は米軍機による大空襲を受け,市域の 90%が灰峨に帰してしまった。 これに加え, 1945年3月26日以降には米軍 との間で「地上戦」が行われ,那覇市も壊滅的なダメージを受けた。むろ ん, こうした過程で,市内に存在していた六つの市場もすべて消失してし まった。 1945年4月1日,米軍は軍政府の樹立を発表し, これ以降戦争 の中で生き延びた住民を非戦闘地帯に設けた避難収容所に次々に強制収容 していった(したがって,収容を開始した4月1日が「収容所時代」のス タートとされる)。各市町村の住民が避難収容所から出身地への帰還を許 されるようになったのは1945年末頃であり,那覇市民の場合には, 「11月 10日,陶器製造を目的として壷屋出身の城間康昌が先遣隊103人の陶工を 伴って壺屋町に入市,つづいて11月15日と、大城謙吉を隊長とする設営隊 136人が設営と瓦製造の目的で入市」 9)した。そしてこれ以降,壷屋とそ の周辺には各地の収容所から次々に人口が流入し, 1946年3月には1200人 余を数えるに至った。同年4月半ばには,収容所からの沖縄全島への帰還 がほぼ完了し、 この時代は終わることになる。
この時期に続く 「経済統制の時代」は,貨幣が登場したものの,物資の 自由な取引が認められず,生産・販売から消饗に至るまで完全な統制下に 置くことが政策的に追求された時期である。それは, 1946年4月下旬から
「自由企業制」へ移行する1948年11月まで約2年半続いた。この時期のス タート時の動きを少し具体的にみておけば, まず1946年4月24日,米軍政 府は「沖縄軍政府経済政策について」を発表し,主要品目の物価と労働者 の賃金水準を定めた。 「賃金の決定に当たっては,前述の物価に基づいて 9) 那覇市社会福祉協議会『戦後那覇市の社会福祉の歩糸』 (1996年3月) 64
ページ。
‑183 13
生活費を決め, この生活を支えるのに妥当な賃金を算定」したという。ま た, 1946年4月26日には「割当配給量および配給制度」を発表し,全物資 を官公砦の売店を通して販売する割当配給制を実施した。さらに, これに 対応して, 1946年5月13日には,米軍政府経済内令「沖縄における商業お よび金融取引」において,個々人による企業活動を禁止することを宣言し た。このような一連の文普によってとられた経済統制の方針は, 「公正な る配給」と「インフレ防止」を意図したもので,首尾一貫したものであっ たⅡII c
ところが,にもかかわらず, このような方針が徹底されることはなかっ た。 「統制経済がスタートした瞬間から住民レベルでは統制の目をくく.っ た経済活動が開始され」Ⅲ) ,闇取引が横行したからである。極端な物資 欠乏状態の中で,公認の配給経路はほとんど顧みられず,公定価格を上回 るヤミ価格が発生し,高騰を続けた。 「1946年6月を基準とする諸物資の 値上がりは,わずか2年半で米が3.7倍,甘藷7.8倍,鮮魚10倍,鰹節4倍,
たばこ6.3倍という異常さであった」 2) 。 これに対しては,沖縄民政府も
「ヤミ取引防止に関する声明書」を発表(1947年1月)するなどの対応を したものの, もはやどのような力をもってしてもこの勢いを止めることは できず, 「1947年秋には『ヤミ市』が公然と市民権を得るようになった」'3)
のである。
以上が闇市場が発生した背景・経緯である。
次に, この闇市場がどのような地点に発生したかについてである。周知 のように, |日那覇市内は「収容所時代」から米軍が兵姑基地として使用し ていた。そのため,那覇市民は,帰還が許されるようになっても, ここへ は帰還できず,他地域からの移住者とともに,壺屋町をはじめとする県道 南側の一帯に「無秩序,無計画的に我れ勝ちに住承ついて」いった14) 。
琉球銀行調査部編『沖縄戦後経済史』 (1984年3月), 79‑80ページ。
同上, 81ページ。
同上, 81ページ。
同上, 83ページ。
10) 11) 12) 13)
14 184−
那覇市の公設市場について
そしてこのような状況に対応して, この地帯の道路では青空市(露店市)
がゑられるようになった。むろん,上述のように当時は経済統制下である から,警察の目を盗んでの販売ということになる。古田茂氏によればⅢ 「ま ず寄宮付近に近郊農村の生産者が農産物を持って来て販売するようになり 自然発生的に青空市を形成するようになった。これが,いつの頃かは明白 でないが与儀十字路付近に移動して市を形成するようになった。そしてさ らに移動があり, 1947 (昭和22)年11月頃から開南バス停留所付近を中心 とした地域で市が形成されるようになった(開南市場)。開南市場に次い で,平和通りにも市(那溺市場)がみられうようにな‑〕た。そしてこの頃
,?〕 キ 『Rfj L上まと]
から,開南市場を上町といい,那覇市場を下町と呼ぶようになった。」旧) 。 かくして,闇市場の場所が固定化していったのである。
ところで. やや脇道にそれるが, これらの闇市場では,那覇市近郊の農 家が運んできた野菜などの農産物のほかに, 「ナベ. カマ, ハミガキ,ポ マード,英語辞叫にコンブなど,沖縄では生産されない, あるいは不足し ている品々が所狭しと露店で売られていた」という'6) 。未だ生産活動が 再開されていない統制経済下にあって, これらの物資はいったいどこから 調達されてきたものだったのだろうか。端的にいえば,二つのところから 調達されたものであった。一つは,米軍からである。それらの物資を米軍 の食料集積所や資材集積所に忍び込んで盗んだり,米軍の作業に従事する 中でくすねたりすることを「戦果」 (センクヮ)と呼んでいたというが】71 , その「戦果」が闇市場に並べられたのである。 もう−.つは,醤貿易からで ある。 この密貿易のルートとしては,与那国などを中継する台湾ルート,
14) 那覇市社会福祉協議会『戦後那覇市の社会福祉の歩ふ』 (1996年3月163 ページ。
15) 吉田茂「生産者相対先市場の形成と展開一沖縄県那覇市在,農連市場の 事例分析」 (梅木利巳縞著『農産物市場構造と流過』,九州大学出版会, 1986 年12月) , 30ページ。
16) 山城榮徳さん追悼集刊行会『山城榮徳伝』 (1997年2月) , 117ページ。
17) 沖縄タイムス社『庶民がつづる沖縄戦後生活史』 (1998年3月),"7章参 照。
−185− 15
香港ルート,奄美大島から鹿児島や大阪を結ぶ本土ルーl、などがあったが,
これらによって運ばれてきた物資が闇市場に並べられたのである'8) 。 さて,それでは, この二つの闇市場から牧志第一公設市場と牧志公設市 場雑貨部・衣料部が登場した経緯はどのようであったのだろうか。実は,
その間の具体的経緯はあまり明らかではない。 しかし,店舗建設地点から 判断すれば, これらの二つの闇市場のうち,平和通りの闇市場が牧志第一 公設市場と牧志公設市場雑貨部・衣料部となっていったものと思われる。
この間, 1948年4月初旬には,那覇市は「移動当時の元市役所跡」の 426坪の土地に闇市場の露店商人を集めている]9」 。那覇市がこのような対 応をしたのは, 当時,露店商人が急増傾向にあったからである(1947年11 月頃には50人程度だったものが, 48年4月頃には500人を突破していたと いう)。そして那覇市は, まだ統制経済下であることから, 「非公式に市任 命の指導員を置き,一方,市場使用者を以て那覇市共催会を組織せしめ,
これ等の会員から市場使用料に代る徴収金を徴収して, この費用を以て市 場内の整地費,事務, 人件費等に充てる工作を施しつつあった」 20)ので ある。また, 「自由企業制」移行後の1949年1月には,那覇市は「那覇市 公設市場使用料条例」 2')を制定している。 ともあれ,那覇市のこのよう 18) 密貿易の三つのルート中でも,戦後間もなく始まったのは台湾ルートであ り, 「とくに台湾ルートの中継地となった国境の島・与那国は密貿易で潤っ た。 ・ 瀬服や毛布などの米軍からまきあげた戦果品やヤミ物資,薬英,銅線 などのスクラップが台湾からの米や砂糖とバーター交換され」ていた(沖縄 タイムス社『庶民がつづる沖縄戦後生活史』, 1998年, 67ページ)。尚,沖縄 の密貿易については,石原昌家『空白の沖縄社会史一戦果と密貿易の時代』
(晩聲社, 2000年1月)に詳しい。
19) 那覇市社会福祉協議会『戦後那覇市の社会福祉の歩み」 (1996年3月) , 70 ページ。
20) 同上, 71ページ。
21) これは.全体で6条からなる簡単なもので, 「那覇市公設市場の販売人は 本条例に依り使用料を収めなければならない」 (第1条) とし, その使用料 を「土地1/4坪に付金戚円」 (第2条) と規定している。 この条例は,以 後,使用料引き上げに伴い,毎年のように改正されていく。 1952年1月の改 正では,便用料は「建坪l/4坪に付き1日金拾円以内) とされており,短 期間のうちに大幅に引き上げられていることがわかる。 /〆
16 −186−
那覇市の公設市場について
な一連の関与によって闇市場は公設市場へ「昇格」してい=>たわけである。
その後,那覇市は, この公設市場を店舗化する必要に迫られた。それは,
①この地点がガーブ川下流に位置するため「雨期ごとにガーブ川の氾濫」
によって「場内通路は泥埠の海と化す状況を呈していた」こと,②商人の 入場が相愛わらず増加の一途を辿っていたこと,③那鞘市の象ならず, 「全 琉的物資の交流地」としての役割を果たすようになっていたこと等の事情 からである2z) 。 こうして那覇市は,新たに不在地主所有の土地1032坪を 借り受け, そのうちの165坪に精肉鮮魚市場の店舗を建設(1950年12月) , 続いて13()坪に雑貨市場の店舗を建設(51年4月) , さらに132坪に衣料市 場の店舗を建設(51年8月) した。いうまでもなく, この精肉鮮魚市場の 店舗が今日の牧志第一公設市場であり, また雑貨市場と衣料市場の店舗が 今日の牧志公設市場雑貨部・衣料部である。
公設市場が闇市場から登場した経緯は以上の通りであるが, その後の状 況にもふれておこう。この二つの公設市場は,店舗完成後,那覇市の都市 化の進展に伴う人口増加(1950年10万8673人→1955年17万1694人) と市域 拡大(1954年に首里市と小禄村を編入) と相俟って,沖縄全域における商 業の中核的機能を一層強めていった。そうした中で顕著になった一つの動 きは, これらの公設市場周辺に,例えば「千歳橘裏に新天地衣料市場」, 「協 和ビル奥に野菜市場」の登場といったかたちで,相次いで「衛生市場」が 登場してきたことである23' 。換言すれば,公設市場を中心とする一帯が
、、因みに, ここでの「円」は「B型軍票円」 (米軍が発行した紙幣Iのこと である。当初,米軍の方針(1946年4月15R実施)では,沖縄の法定通貨と して, 日本銀行券と米軍の補助軍票との二繩を使用させることになっていた が, R本銀行券の発行が遅れてしまったために軍票のみが油貨とされた。そ の後,第二次(1946年8月5日実施),第三次(1947年8月1 日実施)の法 定通貨変更という複雑な経緯を経て, B型軍票円が法定遡貨になり, 1 ドル
=12()B円という為替変換比率が設定された。その後,それは1958年まで使 われた。
22) 那糊術社会砺祉協議会『戦後那覇市の社会福祉の歩み』 (1996年3月) , 71 ページ。
23) 邪朝市『鰹報市民の友』第50号(1955年8月1O日)。
−187− 17
「市場地帯」となっていったのである。
(2)農産物の卸売機能を強める「農連市場」
公設市場の2店舗完成後から間もない1953年6月.琉球農業協同組合連 合会(後の沖縄県経済農業協同組合連合会)は,蔬菜,精肉, 食糎品など を備えた「農連市場」を設立した。設立の主な動機は,闇市場発生当初か ら劣悪な条件で農産物販売を行っていた農家の救済であった。それという のも,例えば,那覇近郊農家の主婦が農産物を運んでくると, 「主婦の頭 に乗った野菜篭を,アチョーラー(仲買人)が, 3〜4人で引きずり降ろ し,勝手にわけて勝手な価格で引き取る」24 といった乱暴なやり方が横 行していた。また,労働条件も悪く,農家の主婦は闇市場の中で少しでも 有利な売り場を確保したいために深夜に家を出なければならなかったし,
もし遅れて闇市場に入場できなければ新興地のあちこちで「立ち売り」を しなければならなかったのである。
野菜売り農家のかかる立場を改善すべ<, 「売手を一場に集めて,農連
〔琉球農業協同組合連合会…引用者〕の管理,指導下でこの市場をつくろ うという計画は,昭和24,5年頃から手掛け」 25)られた。その後, 用地の 選定・確保,交通アクセス,ガーブ川の洪水対策などをめく.って締余曲折 の経緯があったものの,ついに1953年6月に開設に漕ぎ着いた。因みに,
市場建設地は米国民政府財産管理部が管理する農業試験場用地を借り受け たもので,その面積は1000坪であった。
ところが,開設直後から公設市場との競合が現実化し,極度の経営イく振 に陥ることになった。すなわち「那覇市が平和通り裏に公設市場を建設し たばかりに,落日を見るように客足が途絶え,生産腱家もソッポを向くよ うになり,期待は裏切られて閑古鳥が鳴く」 26) という状況になったので ある。
西原光雄『農連事件』 (琉球新報社, 1998年1月) , 40ページ。
山城榮徳さん追悼集刊行会『山城榮徳伝』 (1997年2月), 119ページ。
琉球農業協同組合連合会『琉球農連五十年史』 (1967年8月), 714ページ。
188−
24)
25)
26)
18
那覇市の公設市場につL ,て
前述のように, この時期の公設市場は,店舗完成とともに,その周辺も 含めて,商業の広域的拠点性を高め,大きな賑わいをみせていた。当然の 如く,販売農産物もこの地域に集中しつつあった。例えば今,表−3によ って, 1955年時点における「市場地帯」の販売業種とその従事者数をみて 糸ると, 従事者数では全業穂で実に1200人余にも達していること, そして それらのうちのかなりの人数が,牧志第一公設市場と平和通り・市場本通 りの商店街における野菜,果物,その他各種の農産物加工品販売の従事者 であることがわかる。
表−3 1955年時点における「市場地帯」の業種別販売従事者数 小間物雑賀
東市場 | 衣料品.靴類
一…I‑食肉顛一 一. . I 鮮魚類
耐市場 |蝋衝
鰹節類
: 野菜頚
Tで〒.. ユュザロロ■で■で画■■■■■ユニュニ
臨時従事者
1
凡
ノくRU日UもIりら寺jnU汗j内b﹂nU
n 6 9 全
︲ 1 9 台 一
︑ 即 司
︲ 1 1 1 ざ コ ー 2 1
2
・
1
勺
﹂
糸
L
I
公設市場
衣料品 雑貨 漬物 菓子 果物 煮芋 花 飲食物 臨時従覗者
97 18 37 22 12 9 4
(約) 60 310 1239 平和通I) ・市場本遡り
計
(注)東市場とは牧志公設市場雑貨部て衣料部のこと。西市場とは牧志第
‑公設市場のこと。
(資料)那覇市『広報市民の友』魂50号(1955年8月10日) より作成。
したがって, 「農連市場」の経営不振を打開するためには,何としても,
牧志第一公設市場を核とする「市場地帯」との差別化戦略を打ち出すこと が必要であった。果たして,琉球賎業協同組合連合会はそれを実行した。
「那覇市営市場との関係をはっきりさせる。即ち,農連中央市場は卸売市
189‑ 19
場とし,市営市場を小売市場とする」27」 と。すなわち, 「農連市場」を卸 売機能に特化させる経営戦略が打ち出されたのである。 1959年3月のこと であった。
こうした戦略が功を奏し, 「農連市場」はごく短期間のうちに盛況に転 じた。 1960年3月のこの市場の様子を伝える記述を引用しておこう。 「市 場は午前5時より開市一腱家の利用者は午前中に約500人, 買出人は1800 人,計2300人が押しかける盛況である。農産物1日の総売高は1300弗位約 4万噸の品が捌かれている。これらの農産物は殆ど相対売で引取されてい る。 農家側を地域別に見ると豊見城村が断然多く全体の40%強を示し,
真和志,小禄,南風原と続いている。一方買出人は市内の雑貨商が最も多 く,遠くは嘉手納,コザ方面から自家用車やオートバイで大量仕入に来る。
これを時間的に見るに,小禄の農家が一番早く午前5時頃には20人位が買 手を持っている。空が明るくなる6時頃には買手が増して300人位に達し,
農産物を運ぶ車輌や買出人のオ、ソサン達で活気づき7時から8時には一段 と激しさを増して1000坪の市場もそれこそ足の踏み場もない盛況振を呈す る。 11時にもなれば引潮のように販売をおえた農家は家路を急ぎ場内は 静かになる。 1時には市場従業員による清掃が始まるが, その塵挨は処理 馬車の1 ,5台を下らない。午後からは約4()人位の仲買人が野菜類の小売を
している。」28) (/は, 引用者が付した原文の改行箇所)
かくして, 「農連市場」は, その後ますます「狭陰な市場で,那覇市な らびに周辺都市の中央卸売市場的機構を果たし」劃ノていくようになる。
むろん、 「市場地帯」に対しても,農産物の卸売市場機能を強めていった。
4.公設市場の改築・移転問題
1960年代に入ると, ガーブ川の度重なる氾濫被害を契機にして,公設市
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720ページ。
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那綱市の公設市場について
場の改築の動きが浮上してきた。その後, この動きは, 「市場地帯」に無 秩序的に張り付いていた多数の小売業者の複雑な利害対立を背景に10年以 上にわたって紛糾し, 1972年に「西市場」 (牧志第一公設市場)の改築と いうかたちで収束する。ここでは, この間の経緯をみてみることにする。
尚, ここでは, 当時の呼び方に従って,牧志第一公設市場を「西市場」と する。
ガーブ川の氾濫に伴う「市場地帯」の小売業者の対立は,すでに1950年 代末から深刻化していた。例えば,次のような動きがあった。
1958年「2月7日の浸水でもっとも大きな被害を受けた那覇市公設市場 の米,化鰹品,雑貨市のおばさんたち約70名は,市議会開会中2月27日ひ る3時に市長室にワンサとおしかけ,兼次市長,渡口副議長に対して,浸 水被害の対策について強く訴えた。要望は, 『今度の浸水の原因は水上店 舗があったためで,それを撤去しないあいだは,落ち着いて仕事もできな い。 とくにツユも近づいているので,水上店舗の撤去,排水工事を早急に 実施してもらいたい』というもの」30)であった。これを受けて, 1958年 2月28日の那覇市議会においては「ガーブ川水上店舗早急撤去要請決議」
が満場一致で可決された3' ) 。
しかし, このような動きに反発して, 1960年3月, ガーブ川商店街組合 は「血と汗で築きあげたこのガーブ川畔はあくまでも私達に権利があり,
生活の根拠地である。 この土地を追われると私達はその日から路頭に迷わ ねばならないので, あくまでも確保し…・ ・ ・」32) という姿勢を打ち出した。
因糸に, 当時, この商店街は, 72()店の「ガーブ川水上店舗」 (店舗の裏側 をガーブ川につつかえ棒をして支えた店舗) と71店の「花屋通り会」店舗
(ガーブ川を挟んで営業していた店舗)から成り立つ一大勢力であった。
したがって, 「市場地帯」の再開発が実行に移されれば, このような対 那關市『広報市民の友』第87号(1958年3月1 日)。
同上。
那閣市『広報市民の友』第114号(1958年3月15日)。
191−
30)
31) 32)
21
立が再燃することは必至であった。
さて, 1961年8月, 「ガーブjl l改修工事は,米民政府23万ドル,琉球政 府8万ドル,工事にともなう物件補償8万5千ドルは那覇市が負担」する というかたちで行われることになった33) 。那覇市が受け持つことになっ た「物件補償」の主な中身は,工事期間中のガーブ川商店街の仮設店舗建 設費であった。そして工事開始に伴い, 「ガーブ川水上店舗」業者は牧志 lノ796番地(後に牧志第二公設市場が建設されたところ)の仮設店舗に,
また「花屋通り会」業者は新栄通りの仮設店舗に,それぞれ移転していっ た。
この時点での那覇市の大きな課題は,工事終了後, これらの業者, とく に現場復帰が困難な「花屋通り会」の小売業者をどこに収容するかであっ た。この課題に対応して出されたのが, 1962年5月の「西市場」改築プラ ンであった。それは,大要, (イ)平屋建てのこの店舗を鉄筋コンクリー トのビルにし,地下1階にも多数の店舗を収容可能なスペースを設ける,
(ロ)新栄通りに仮店舗に設けて営業している「花屋通り会」の小売業者 を地上1階に収容する, (ハ) これまで「西市場」で営業していた'1,売業 者を地下1階に収容しようとする, というものであった。そしてこのプラ ンに沿って, 1962年8月11日には,那覇市と「花屋通り会」との間で「公 設市場を改築し,地上1階に那覇市が責任をもって花屋踊り会71人を収容 させる」という契約が交された鈍) 。 しかし, このような動きに対しては,
地上I階から地下に移ることで売上減少が予想される「西市場」の小売業 者が黙っているはずがなかった。改築後の店舗の地上1階への入場には既 得権のある自分たちを優先すべきだとして,一歩も譲らなかったのである。
こうして, このプランは宙に浮くことになった。
1966年6月には,那覇市が新たな「西市場」の移転プランを発表した。
33) 「空転した牧志公設市場問題」 (沖縄の窓社『月刊沖縄の窓』創刊号,
1969年10月), 29ページ。
34) 同上, 29ページ。
22 −192−
那覇市の公設市場につL,て
これには, この土地の地主が土地明け渡しを要求しているという事情もあ った。移転先は70m先の牧志lノ796番地(「ガーブ川水上店舗」が仮設店 舗で営業していた場所)であり, ここに総面積5264㎡,地下1階・地上4 階の鉄筋コンクリート建て,全館冷房施設完備, エレベータ付設という,
当時としてはモダンな店舗を建設しようとしたのである。 このプランに対 しては, 「花屋遡り会」業者などが賛成したものの,それ以外の「西市場」
業者をはじめとする市場関係業者の多くが, 「市が計画を変更して新市場 設置をきめた敷地は,裏通りで商売は成り立たない。死の宣告である。 ・ ・ ・ どんなことがあっても現在の市場からは動かない」 35) と主張し,真っ向 から反対した。 とはいえ,土地の明け渡し要求が出ていることもあって,
那覇市としても, このプランを撤回するわけにはいかなかった。かくて予 定通り着工し, 1969年11月に新店舗(牧志第二公設市場)を完成させた。
ところが, 「西市場」業者は,新店舗完成後もここへは移転しなかった。
那覇市が「西市場」敷地の地主との間で新市場完成後1カ月以内に土地を 明け渡すという覚書を交わしていたため,たとえ新店舗に移転しなくても ここを立ち退かなければならないことになっていたわけであるから,実際 は居座ったことになる。ではどうなったのか。前述のように,結果的には,
1972年10月の「西市場」の改築ということになるのであるが, 当時那覇市 長であった平良良松(在任期間1968年12月〜1984年11月)は, それに踏象 切るまでの経緯を次のように回顧している。
「旧市場に居残った業者は.…その土地を市が購入して,市が市場を建 設し,これまで通り安い使用料で貸せという。/前市長と地主の上岡氏,
上原氏,照屋太郎氏との間には『新市場が完成したら1カ月以内に市が 建物および施設を撤去して,土地を明け渡す』と覚書を交換した経緯も ある。保守,革新という立場の違いはあっても,前市長の行政行為を簡 単にホゴにする訳にはいかない。私は, どこへ顔を向けるべきか深刻な 事態に立ち入った。 //これはもう一つ市場を建設しない限りおさまらな
35) 同上, 31ページ。
−193− 23
い。商人には,一般の市民とはちがって, 消費者とのつながり,仕入れ や商いの構えなど,簡単に換えることのできない問題がある。これを強 行すると血を糸ることになる。事実,那覇市議会の委員会では, 『私た ちを移す<・らいなら, クルチクィレー』と机の上に身体を投げだした婦 人もいて,陳情は常に殺気だっていた。私は,稲嶺,前田両助役,関係 部長と相談し,第一公設市場の改築に踏みきることにした。」36) (/は 引用者が付した原文の改行箇所)
凄まじいやりとりがあったことが窺われるが,かくして「西市場」が改 築されたのである37) 。それは,鉄筋コンクリート造り3階建,店舗面積 約1300㎡,収容コマ数400コマであり,それまでの木造平屋店舗の装いを 一新したものであった。
ともかく, このような経緯を経て, ガーブ川改修をきっかけに開始され た公設市場の改築問題は, 10年以上の歳月を経て, この間二転三転し, よ
うやく決着することになったのである。
ところで,以上のような経緯の中で登場した牧志第一公設市場と牧志第 二公設市場のその後の展開如何。牧志第一公設市場は,本稿冒頭に述べた ような活況を呈し,今日に至っている。 ところが,牧志第二公設市場は,
開設当初から不振が続き,再三にわたる那覇市のテコ入れにもかかわらず,
ついに2001年3月をもって閉鎖されることになった38) 。両店舗の距離は 36) 平良良松『平良良松回顧禄 革新市政16年一』 (沖縄タイムス社,
1987年10月), 196‑197ページ。
37) 実は,その後も,市長のこのような方針はすんなりとは通らなかった。市議 会では,西市場を改築することになれば,前市長の施策の失敗が明確となる ため, これに連なる少なくない議員が「全業者を第二公設市場に移し,現在 の西市場敷地は地主に返還し,業者と協力して地主に新しい市場を建設させ ることが得策である」といった言い分で抵抗してきた。これに対し,市長は,
専決処分権限を行使して, 1971年12月4日に着工に踏み切った。 これに対し ては,地主も土地の所右権を盾に建設禁止を仮処分を申請,これが認められて 工事はストップをかけられたが,那覇地裁がこの仮処分を取り消す那覇市の 異議申し立てを認めたため,工事が再開された(平良良松,前掲書, 198‑
201ページ)。 「西市場」の改築までには, このような経緯もあったのである。
38) 「琉球新報」 1999年3月31日。
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那覇市の公設市場について
わずか7()mしか離れておらず, しかも店舗設備では後者のノjが近代的とい えるのに,なぜかくも明暗が別れてしまったのであろうか。
この点について,岩本由岬氏は, 「第一牧志公設市場の活気は, それが 公設市場であるからではなく,戦前のウフマチであったナーファヌマチの 機能をそこに移したからであるといわざるをえない」 :'9! という。ここで いう「ナーファスマチの機能」はさまざまであろうが,一つには,沖縄の 広範な地域における生鮮食料品などの 物資集散の中心機能 があげられ るであろう。戦前「東町市場」である「ナーファヌマチ」が,那覇を含む 沖縄南部一帯から生鮮食料品をはじめとするさまざまな物資を集め,那覇 を中心とした広範囲に及ぷ地域のショ 、ソピング・センター的役割を果たし ていたことは前述の遡りであるが, このような役割・機能が,戦後,闇市 場を経て牧志第一公設市場において復活・再現したというわけである。い うまでもなく, この機能を持つか否かで,市場の性格・立場は決定的に異 なってくる。つま11,牧志第二公設市場は,牧志第一公設市場に代わって この機能をついて持てなかったということになる。
そして, この機能を持つか否かは,その市場が公設であるか否かとは,
いうなれば,次元を異にする問題なのである。このことは,戦後,戦前の
「ナーフアヌマチの機能」の一部, とくに農産物の卸売機能を分担した「農 連市場」が,沖縄県経済農業協同組合連合会(開設時は琉球農業協同組合 連合会)の管理 トで隆盛を続けたことでもわかる。
したがって,以上のような経緯に引き付けていえば, 多くの市場業者が 頑なに「西市場」を離れることに抵抗しつづけたのは.苦難の末に再生・
発展させたこの機能を何としても失いたくなかったからであるということ になろう。
39) 岩本由卸「那覇のマチとマチグヮー」 (アジアひたかみ研究会綿築
『hitakami』第2号, 1999年秋) , 3ページ。
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