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【研究ノート】「糸満魚市場問題」について

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【研究ノート】「糸満魚市場問題」について

著者 仁昌寺 正一

雑誌名 東北学院大学論集. 経済学

号 148

ページ 259‑294

発行年 2001‑12‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024467/

(2)

「糸満魚市場問題」について

仁昌寺正一

〈目次>

はじめに−「糸満魚市場問題」への視点一 I 「糸満魚市場問題」の背景

1 . 『沖縄県卸売市場整備計画』における「泊魚市場」と「糸満魚市場」

2.水産物地方卸売市場への水揚げ規制の導入と展開

Ⅱ 「糸満魚市場問題」の経緯

l , 「糸満魚市場」の開設前夜‑1992年1月〜94年9月一

2. 「糸満魚市場」の開設とそれへの反発‑1994年10月〜95年6月一 3. 「糸満魚市場」の「休眠」‑1995年7月〜96年10月一

おわりに

はじめに−「糸満魚市場問題」への視点一

1972年(昭和47) 5月の本土復帰の直後から計画されてきた沖縄県中央 卸売市場の開設は, 1984年(昭和59) 4月にいたって実現をみた。開設と

同時に青果物部門(野菜・果物)が業務を開始し, それから14年後の1998 年(平成10) 9月には花卉部門が業務を開始した。しかしながら,当初か ら青果物部門と並んで当市場の支柱と目されていた水産物部門は,今日に おいてもまだ業務を行っていない。全国にある多くの中央卸売市場の中で は稀なケースともいえるが,その理由・事情は何であろうか。このような 東北学院大学論築経済学第148号2001年12月

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東北学院大学論集経済学第148号

疑問を持ちつつ, 2000年2月下旬に沖縄県の卸売市場関係機関でヒアリン グ調査を行っていたときl ) , それにある程度答えてくれるような事件が 1994年から96年にかけて発生していたことを知った。それが,地元新聞で

「糸満魚市場問題」と報道された事件である。

この事件は, 1994年(平成6) 10月に糸満市に開設された沖縄県水産公 社地方卸売市場(以下, 「糸満魚市場」 と略す)が, この市場の運営方法,

とくにマグロの荷捌き方法に対する批判の高まりによってセリを行えず,

わずか2年で開店休業状態に陥ったというものである。

この卸売市場が採用したマグロの荷捌き方法は,水揚げしたマグロのす べてをセリにかける「全量上場制」であった。この卸売市場の事業を軌道 に載せようとすれば,当然の方法だったかもしれない。 ところが,沖縄県 においては, この市場が開設されるまでは, これとは別な方法が長年にわ たって採用されていたのである。沖縄県内の漁港に水揚げされたマグロの うち,その一定量(上級マグロといわれる)をセリにかけることなく本土 に直送し(これは「沖縄方式」と呼ばれたり,空輸するので「上送り」と も呼ばれている),それ以外のものを沖縄県漁業協同組合連合会(以下,

県漁連と略す) と那覇地区漁業協同組合が開設者となっている那覇市泊地 区の水産物地方卸売市場(以下, 「泊魚市場」と略す)でセリにかけ,那 覇市を中心に沖縄県内各地に送るという方法である。因象に, このような 方法で,マグロの需給・価格調整が図られ, それらの水産団体に所属する 漁民の利益が確保されていたわけである。したがって, もし「糸満魚市場」

の「全員上場制」が定着していけば,従来の荷捌き方法に依拠してきた水 産団体や漁民の利益が減少していく可能性が大きかったのであり,それ故 これらの水産団体や漁民が激しく反発したといえる(「泊魚市場」と「糸 満魚市場」の地理的位置については,図‑1参照)。

l ) この調査は, 1998年度〜2000年度の3カ年にわたって行われた科学研究費助 成研究「わが国における公設'」、売市場の形成と展開に関する研究」 (課題番 号10430018)に関連して行われたものである。

2 260−

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図−1 「泊魚市場」と「糸満魚市場」の位置

「糸潤

また, これらの水産団体や漁民の「糸満魚市場」に対する反発には,中 央卸売市場への対応も含めて,沖縄県の水産物流通の将来の方向性に関す る危倶も潜んでいたように思われる。 というのも,例えば, 「泊魚市場」

は,本土復帰当初からの予定通り安謝地区の中央卸売市場への「収容」と いうことになれば,開設者である沖縄県の指導・監督下におかれ,上述の 如き市場運営には大きな制約がかけられること,その点で将来において沖 縄県の水産物市場流通における主導的立場を低下させることは明らかであ った。その一方で,沖縄県の方針に沿って開設された「糸満魚市場」は,

中央卸売市場への入場に際しては, 生産者主導 といわれる従来の沖縄 県の水産物市場流通のあり方を再編しつつ,先導的役割を果たしていく可 能性が大きかった。実際, 「糸満魚市場」開設前夜には, 「泊の機能をその ままに糸満産地市場を開設することは,中央卸売市場的な機能を期待せざ る得なくなる」 (上田不二夫「水産振興と魚市場一糸満産地市場の開設

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東北学院大学論集経済学第148号

と流通革命(4)」, 「沖縄タイムス」 1993年6月23日) という指摘もなされ ていたのである。かくして, 「泊魚市場」を活動拠点にしてきた水産諸団 体や漁民としては, 「糸満魚市場」の開設とともに進むであろうこのよう な動きを阻止すべ<, この市場の機能を麻蝉させるほど激しい反撃に出な ければならなかったと考えられる。 ともあれ, 「糸満魚市場問題」の上述 のような結末により、沖縄県においては,中央卸売市場での水産物部門の 業務開始は今日においても日程に上っていない。

このようにみれば, ここでとりあげる「糸満魚市場問題」は,沖縄県の 水産物市場流通のあり方をめく・る二つの立場の思惑が衝突した象徴的事例 であったように思えてならない。一つは, 行政主導 ともいうべき立場 から「糸満魚市場」の開設を契機にそれまでの同県の水産物市場流通のあ り方を刷新していこうとするものであり, もう一つは, 生産者主導 の 立場に立ち, 「泊魚市場」を中心に形成されてきた同県の水産物市場流通 のあり方を維持していこうとするものである。

以下では, このような問題意識を持ち,調査時に入手した資料を手掛か りに, この事件の背景,経緯等について若干の整理的考察を行って象たい。

このような作業は,いずれ,沖縄県の卸売市場流通の今日的特徴を把握す る作業に役立つものと思われる2) 。

I. 「糸満魚市場問題」の背景

1 . 『沖縄県卸売市場整備計画』における「泊魚市場」と「糸満魚市場」

周知のように,本土復帰に伴い,沖縄県にも日本国の法律が適用される ようになり,沖縄県の卸売市場に関しては「卸売市場法j (1971年4月成 立)が適用されることになった。同法では,第6条1項で「都道府県知事 は,政令の定めるところにより,当該都道府県における卸売市場の整備を

2)尚,本稿における引用注は本文中に付することにした。ほとんどが新聞記事 からの引用を示すものであるため, そのようにした方が読者にとって便宜で あると考えたからである。

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図るための計画(以下「都道府県卸売市場整備計画』という。)を定める ことができる」とされており, これに沿って沖縄県でも卸売市場整備計画 が策定されることになった。その計画は1973年に第1回目が策定されてか ら今日まで6回策定されているが, ここでは,それらの計画における沖縄 県の卸売市場の配置方針はどのようなものであったか, とくに「泊魚市場」

と「糸満魚市場」の位置付けはどのようなものであったのかといった点を 糸ておこう。

それらの計画では,沖縄県内の水産物需給の現状と見通し,それを前提 にした県内水産物卸売市場流通の現状と見通し,流通圏の設定, 「中央卸 売市場」・「地方卸売市場」・「その他の卸売市場」の三つのタイプの卸売市 場の配置方針, という順序で記述がなされている。このようなタイプ分け は, 「卸売市場法」に依拠したものである。同法によれば, 「中央卸売市場」

とは, 「生鮮食料品等の流通及び消費上特に重要な都市及びその周辺の地 域における生鮮食料等の円滑な流通を確保するための生鮮食料品等の卸売 の中核的拠点となるとともに, 当該地域外の広域にわたる生鮮食料品等の 流通の改善にも資するもの」であり, 「農林大臣の許可を受けて開設され る卸売市場」である (同法第2条3項)。また「地方卸売市場」とは, 「中 央卸売市場以外の卸売市場で,その施設が法令で定める規模以上のもの」

(同法第2条4項)であり, その開設にあたっては「都道府県知事の許可 を受けなければならない」 (第55条1項)。そして, この二つの卸売市場に ついては,同法で,施設の種類・規模,業務規定,取引方法などをはじめ,

さまざまな規定が設けられている。両者は「中央卸売市場」の広域的な供 給機能を「地方卸売市場」が補完することによって,一定の流通圏内にお ける市場流通の円滑化を図るという関係にある。この二つ以外の卸売市場

(「卸売市場法」では規定がない卸売市場)が, 「その他の卸売市場」であ る。通常,公共団体やその他の団体が開設者となっており,前2者と比べ れば規模が小さい。

さて, 1973年(昭和48)に出された沖縄県の『第1次・沖縄県卸売市場

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東北学院大学論築経済学第148号

整備計画』 (「第1次」という文字は原文にはなく,他のものと区別するた めに引用者が付したものである。 「第2次」以下も同じ)をみると,沖縄 県内には各地区の漁業協同組合が開設している卸売市場が八つあるが,

「地方卸売市場としての施設規模を有するものは,沖縄県漁業協同組合連 合会鮮魚市場外l市場である。これらの卸売市場は,集荷・分荷等卸売り 機能が劣弱であること,市場施設が老朽かつ狭駐過密化し,適正円滑な流 通の確保が困難であり,早急に改善する必要に迫られている」 (同計画, 5 ページ) という現状認識から,上の三つのタイプの卸売市場の配置方針が 示されている。まず「中央卸売市場」については, 「那覇市および浦添市 の隣接する場所に県が開設する中央卸売市場を設置する。当該市場は青果 物・水産物及びこれらの加工品を取り扱う総合市場とする」とされ,次い で「地方卸売市場」については, 「平良市漁業協同組合鮮魚卸売市場並 びに,石垣島漁業協同組合鮮魚卸売市場を地方卸売市場として整備すると ともに,糸満漁業協同組合鮮魚卸売市場が水揚げ基地としての機能をもっ ていること等社会的経済的諸条件により産地地方卸売市場として整備する ものとする」とされ, さらに「その外の卸売市場」については, 「地域の 実情に応じて,地域集配の役割をもつその他の卸売市場として存置するも のとする」とされている(同計画, 7ページ)。

この計画について留意しておきたいのは,一つは, 「総合市場」として 建設される「中央卸売市場jの予定地が「那覇市および浦添市の隣接する 場所」とされているものの, そこにおいて水産物部門での業務がどのよう な方法でなされるのか,つまり後に明示される「泊魚市場」の「収容」と いう方法でなされるのか,あるいは別の方法でなされるのかという点が未 だ明らかでないことである。もう一つは, 「糸満漁業協同組合鮮魚卸売市 場」が, 1972年に策定された『沖縄振興開発計画』の中で特別な位置を占 めていたことが明示されていないことである。すなわち, 1972年12月に本 土との格差是正と自立的発展を目標にして策定された『沖縄振興開発計画』

においては, 「漁業生産基辮轄備」の項で「沖縄本島南部に,広く県外船

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をも対象とした開発前進及び中継漁業基地を建設し,水産業発展の先導基 地の形成を図る」 (同計画, 42ページ) とされ, 糸満漁港とその関連事業 がその後の沖縄開発の一つの目玉とされていたにもかかわらず,そのこと には全く言及されていなかったのである。いずれにせよ, このようなこと が無視されていることからもわかるように, この計画は,その後の卸売市 場の配置方針の大筋を示しただけのものであったといえる。

次に, それから約3年後の1976年(昭和51) 9月に策定された『第2次

・沖縄県卸売市場整備計画』における卸売市場の配置方針をみよう。まず

「中央卸売市場」についてみると, 「生鮮食料品の流通及び消費上特に重 要な都市である那覇市及び浦添市(両市が隣接する安謝地先埋立地)に,

青果物及び水産物等の卸売の中核的拠点となる中央卸売市場を設置するも のとする。この中央卸売市場は県が開設し,野菜,果物,水産物及びこれ らの加工品を取り扱う総合市場として整備する。昭和55年を目途とする」

とされ, 「当該中央卸売市場には, . ,一・ ・県漁連及び那覇地区漁協地方卸売 市場の水産物市場を収容する」とされ, 「地方卸売市場」については, 「平 良市及び石垣市に漁業協同組合を開設者とする水産物市場を整備し,当該 地域における流通の拠点となし,適正な価格形成,円滑な集分荷を行わし める。また糸満市においては,水産物の生産及び流通上の社会的、経済的 実傭にかんが象,水産物地方卸売市場の整備を図る。当該市場は,糸満漁 協が開設する。なお,水産物市場の場合漁港整備等と一体的に行う必要が ある」とされている。さらに, 「その他の卸売市場」については,国頭村,

本部町,石川市,勝連町,与那城村,沖縄市,与那原町,知念村,港川の 各漁協が開設する鮮魚市場が挙げられている(同計画, 11ページ)。

この計画では,埋め立てによって「安謝」に建設される中央卸売市場に は,水産物部門では「県漁連及び那覇地区漁協地方卸売市場」すなわち

「泊魚市場」が「収容」されることがはじめて明示されている。因象に,

このような方針は, この市場が当時の沖縄県内12卸売市場の中で突出する 位置を占めていることからすれば,妥当であったといえよう。具体的には,

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東北学院大学證集経済学第148号

沖縄県における1973年(昭和48)の卸売市場流通堂は6,981トンであった が,そのうちの実に5,870トン(84%)が「泊魚市場」を経由していたの である。他方, 糸満市に開設予定の地方卸売市場については, 「当該市場 は,糸満漁協が開設する」とされている(つまり,後のように開設者はま だ「沖縄県水産公社」とされていない)。沖縄県のこの事業への取り組み がまだ本格的になされていないことが窺える。

1981年(昭和56) 11月に策定された『第3次・沖縄県卸売市場整備計画』

における卸売市場の配置方針をみると, 「中央卸売市場」については, 「生 鮮食料品の流通及び消費上特に重要な都市である那覇市(浦添市を含む安 謝地先埋立地)に,青果物及び水産物の卸売の拠点となる中央卸売市場を 設置するものとする。この中央卸売市場は県が開設し,青果物,水産物及 びこれらの加工品等を取り扱う総合市場として整備する。開設は昭和58年 度を目途とする。当該中央卸売市場には, ……県漁連及び那覇地区漁協の 水産物地方卸売市場を収容する」とされ, 「地方卸売市場」については,

「糸満市に沖縄県水産公社を開設者とする水産物産地市場を整備し,背後 地の水産加工団地に対する加工用原魚を供給する流通加工の拠点市場とす る。 このため県内消費地市場との整合性に十分配慮するものとする」とさ れている(同計画, 1lページ)。なお, この計画からは, 「その他の卸売市 場」の名称は使用されておらず,それに該当する「小規模市場」として,

国頭村,本部町,名護市,恩納村,石川市,与那城村,勝連町,沖縄市,

那覇市,与那原町,知念村,具志頭村,糸満市,平良市,石垣市の各自治 体内の漁協が開設する15の卸売市場があげられている。

この計画からは,それまでとは極めて大きな変化が起きていることが明 確に糸てとれる。一つは, 「泊魚市場」の「収容」というかたちをとる

「中央卸売市場」の開設が, この計画の策定からわずか2年後の「昭和58 年」 (1983年)に予定されていたことである。すでにこの計画の策定時で ある1981年には, 1973年から開始された安謝地先の12万㎡の埋立て工事が 完了し,水産物部門においては「漁協の方は吸収後の中央卸売市場への参

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加条件やその他の条件を県に要求している」 (琉球新報社『情報と資料』

nO.49、 1980年6月号, 43ページ) という段階に入っていたのである(沖 縄県中央卸売市場の計画段階の構造については,図−2参照)。

図一2 沖縄県中央卸売市場の構造(計画段階)

■垣自重用

婿

(単位Fm力〕

函台IWM wcp〔7⑳

1恥

冑畏棟(1国齢W

厩J斎

画兄咽(7.136)仲卸売咽〔軸67)

舞背保管田出所(鳩73〉■係戴■

事跡用(2、 5〉

廿

守琵室 吾困陳 エネルギー毎(花1〕

(1.1謡〕

守奄室

資料)琉球新報社『惰報と資料』No.49, 1980年6月号, 39ページ。

もう一つは,糸満市に開設される地方卸売市場の開設者が, 出損金の約 80%を沖縄県が占める沖縄県水産公社とされていること (前の計画では開 設者は糸満市漁業協同組合とされていた), またこの卸売市場の役割が

「まく・ろを主とする本土出荷」と「背後地の水産加工団地に対する加工用 原魚を供給する」とに具体化されていることである。 1972年の『沖縄振興 開発計画』に盛られた糸満市の漁業生産基盤整備プロジェクトの進展に対 応して,沖縄県が前面に立ち, これらの具体的な取り組糸を開始したこと はいうまでもない。なお, ここには明言されてはいないものの,新たに開 設されるこの地方卸売市場においては,糸満新漁港で取り扱うマグロを中 心とする水産物のすべてが水揚げされる「全量上場制」の採用が前提にさ れていると考えられる。

ところで, このような方針が実行に移されれば, これらの卸売市場にお いては沖縄県及びその外郭団体が開設者となっていることからも明らかな ように, それまでの沖縄県の水産物市場流通の体制が 行政主導 で再編 されていく可能性が大きかった。それゆえ,それまでの沖縄県の水産物市 場流通システムを支えてきた県漁連を中心とする水産団体や漁民にとって

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は, このような方針にどう対処すべきか,大きな決断を迫られたといえる。

では,その後の展開如何。 1987年(昭和62) 3月に策定された『第4次

・沖縄県卸売市場整備計画』を誤よう。それによれば, 「中央市場は,当 初計画では水産物部門を含めた総合市場として整備する予定であったが,

業者の収容等に問題が介在し, ……同時開設が出来なかった。しかしなが ら本県における水産物等の効率的な流通を確保するためにも,当該中央卸 売市場を整備し,当初計画にそって県漁連及び那覇地区漁協の水産物地方 卸売市場を収容する。開設時期は昭和66年〜70年を目途とする」とされ,

「地方卸売市場」については「糸満市(糸満新漁港内)に本県の立地条件 を活かした生鮮品の本土の出荷と漁港背後地の水産食品関連団地への加工 原魚の供給を主体とする流通加工の拠点市場として産地卸売市場を配置し,

沖縄県水産公社が開設するものとする。開設は昭和62年〜63年を目途とす る」とされている(同計画, 9ページ)。 「その他の卸売市場」に該当する

「小規模市場」には,前計画とおなじく15卸売市場があげられている。

みられるように, 「業者の収容等に問題が介在し, . ・ ・ ・ ・同時開設が出来 なかった」のであり, 「中央卸売市場」への「泊魚市場」への「収容」は 実現しなかったのである。県漁連などが,沖縄県の指導・監督下に置かれ ることを拒否したわけである。かくして,前述のように, 「中央卸売市場」

は, 1984年4月,青果物部門の象の業務でスタートすることになった。し かし,沖縄県の「中央卸売市場」への「泊魚市場」の「収容」方針は変わ らず, この計画策定から4, 5年後の「昭和66年〜70年を目途」にそれを 行おうとしている。一方, 「糸満魚市場」の開設については,その開設時 期を「昭和62年〜63年」と設定しており, この事業を「中央卸売市場」へ の「泊魚市場」の「収容」に先立って行おうとしていたことがわかる。

さて, 1992年(平成4) 3月に策定された『第5次・沖縄県卸売市場整 備計画』の中の卸売市場整備方針をみると, 「中央卸売市場」と「地方卸 売市場」の区別はなくなり, 「総合卸売市場」では, 「本県は, これまで青 果物及び水産物を取扱う総合市場として,中央卸売市場の整備を進めてき

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たが,第5次計画では,諸般の事情により水産物市場に替えて花き部を開 設し,引き続き総合市場としての整備を図る」とされ, 「水産物卸売市場」

では, 「糸満市(糸満漁港内)に本県の立地条件をいかした生鮮品の本土 への出荷と漁港背後地の水産食品関系団地への加工原魚の供給を主体とす る流通加工の拠点市場として産地市場を配置し,沖縄県水産公社が開設す るものとする」とされている(同計画, 7ページ)。 「小規模市場」には,

前々計画,前計画で挙げられている15卸売市場に,石垣市,浦添市の両自 治体内の漁業協同組合が開設する2卸売市場が加えられている。

「中央卸売市場」と「地方卸売市場」の区別をなくしたこと,そして本 土復帰直後からの懸案ともいうべき「糸満魚市場」の「収容」には全く言 及していないこと,水産物の「地方卸売市場」として位置付けられてきた

「糸満魚市場」が「水産物卸売市場」とされていること, これらのことに は如何なる政策的意図が反映されていたのであろうか。 「糸満魚市場問題」

が発生する直前の計画であるだけに興味深い。

最後に, 「糸満魚市場問題」が決着(1996年10月) した直後の1997年

(平成9) 3月に策定された『第6次・沖縄県卸売市場整備計画』におけ る卸売市場の配置方針をみておこう。そこでは, 「第5次計画では青果物 及び花きを取扱う総合市場として,中央卸売市場の整備を進めてきたが,

第6次計画では花き部を開設する。青果物については,国の整備計画に基 づき,整備を図る」とされ, 「水産物卸売市場」については, 「漁業協同組 合を中心とした,各地域における生産,流通の実情に留意しながら,流通 関連施設等の整備を促進するとともに,流通加工の拠点市場としての(財)

沖縄県水産公社地方卸売市場の活性化を図るため,施設整備等必要な施策 を推進する」 (同計画7ページ) とされている。

ぷられるように, ここにももはや「中央卸売市場」への「泊魚市場」の

「収容」に関する記述はない。また, 「(財)沖縄県水産公社地方卸売市場」

(「糸満魚市場」)に関しても,それまでの計画で使われた「生鮮品の本土 への出荷と漁港背後地の水産食品関係団地への加工原魚の供給を主体とす

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東北学院大学論集経済学第148号

る流通加工の拠点市場」といった文言は使用されていない。

以上,沖縄県が策定した一連の卸売市場整備計画における卸売市場の配 置方針の変化,及び「泊魚市場」と「糸満魚市場」の位置付けの変化をみ てみたが, このなかで確認しうる一つの大きな特徴は, 「沖縄振興開発計 画」に盛られたプロジェクトの進展に伴って現実化してきた 行政主導 による水産物市場流通業界の再編に対して,県漁連を中心とするいわば生 産者サイドが強い拒否反応を示すようになっていったことである。そこに は如何なる事情があったのだろうか。次にこの点を探ってみよう。

2.水産物地方卸売市場への水揚げ規制の導入と展開

(1)本土復帰直後における「泊魚市場」への水揚げ規制

生産者サイドによるこのような動きの源流は,やはり本土復帰という出 来事にあった。

前述のように,本土復帰に伴い,沖縄県の卸売市場にも「卸売市場法」

が適用されることになった。同法には,地方卸売市場においては「利用者 に対して,不当に差別的な取扱いをしてはならない」 (第61条) という条 項が設けられており, このことから,例えば,本土漁船が沖縄県の水産物 地方卸売市場一当時は「泊市場」の象−で自由に水揚げをすることも 可能となったのである。そしてこのような事態は本土復帰直後から現実の ものとなった。本土漁船が南方漁場や沖縄近海で獲れたマグロを中心とす る漁獲物を「泊魚市場」に大量に水揚げするようになったからである。そ の結果,それまでの沖縄県内の水産物需給関係に大きなアンバランスが生 じ,魚価低迷によって地元漁民がダメージを受けるようになったのである。

このような事態が深刻化したのは1974年6月頃であった。当時の状況を 新聞記事で承てみよう。 「5, 6月は例年水揚げ量や消費の少ない時期だ が,そこに目をつけて本土漁船が大量に鮮魚を水揚げしているといわれ,

そのため魚価が低迷し県内漁業者は休漁を余競なくされるという最悪の状

12 270−

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態に陥っている」 (「沖縄タイムス」 1974年6月23日)。 「復帰後,本土漁船 が県内に水揚げし,県内漁船を圧迫していた。さいきん特にひどく,県漁 連のセリ市場は本土船に押されがち,魚の値段は大幅に下落した。そのた め,県内漁船の収入も大幅に減り漁民l人当たり1ヵ月3万円の収入がや っと」 (「沖縄タイムス」 1974年6月27日)。 「沖縄で水揚げするのは鹿児島 宮崎熊本,大分,高知の各県漁船で,マグロ, タイを中心に,那覇地区 漁協の場合,全水揚げ量の19%,県漁連の場合30%に達している」。 「県外 漁船の水揚げが那覇で行われると,流通機構の関係で宮古まで響く」 (「沖 縄タイムス」 1974年6月26日)。 「港湾施設が不備なため, 日ごろから狭い 思いをしている泊港には,年間延べ百隻近くにものぼる本土漁船が出入り し,いっそう混乱している」 (「沖縄タイムス」 1974年6月25日)。以上,

当時の新聞記事の中の記述を並べてみたが,本土船による水揚げ急増によ って,沖縄県の漁業関係者が大混乱している様子はみてとれるであろう。

かくして,沖縄県の漁民はこのような状況の打開のために立ち上がった。

まず6月10日から那覇地区漁協が休漁に入った。出漁拒否というかたちで,

このような問題の存在を社会的にアピールしようとしたわけである。さら に同月22日,県漁連が本土船に対して水揚げ中止を通告, 25日には,沖縄 総合事務局を通じて政府にも協力要請がなされ, さらに沖縄県漁業協同組 合連合会傘下の組合長会議(32組合) も招集された。

このような一連の行動のなか, 24日からは,本土漁船の「泊魚市場」へ の水揚げはついにストップしたのである。

ところが, この直後,沖縄漁船の出漁停止と本土漁船の水揚げ停止によ って「鮮魚がまったく底をつき, 27日のセリ市には鹿児島から1900キロも 空輸してくる有様。魚種によって値段はまちまちだが,平均すると魚価は 通常の2倍にはね上がった」 (「沖縄タイムス」 1974年6月27日)。 28日か らは那覇地区漁協の漁船団が出漁し, 7月1日にはその中の数隻が「泊魚 市場」に水揚げを行ったものの, いわば焼け石に水で, 「この日のセリ市 場の値段はバカ高い」 (「沖縄タイムス」 1974年7月2日) という状態であ

−271 13

(15)

東北学院大学論集経済学第]48号

った。

こうした動きに敏感に反応したのが小売業者と消費者であった。 6月30 日には,沖縄県魚介類小売商組合が流通機構の改善を訴える総決起集会を 開いた。また7月10日には,消費者団体が沖縄県農林水産部を訪れ,魚の 品不足による魚価の高騰という事態の打開のために本土漁船による水揚げ を再開する行政指導を要請した(「沖縄タイムス」 1974年7月10日)。

こうしたなか,沖縄県農林水産部はこの問題解決への協力を県漁連に求 めた。 7月10日には,県漁連の幹部が「価格を安定させるには県漁連自体 で出荷調整をする必要がある。市場の総水揚げ量を設定し,県外漁船の水 揚げもある程度認めるべきではないかと提案」 (「沖縄タイムス」 1974年7 月11日) , さらにその後,県漁連とその傘下にある漁協が,県外漁船の

「泊魚市場」への水揚げは, 「①県内漁船の水揚げが15トンのとき②魚の 値段が高騰した時に限って認めるとの基本態度を決めた」(「沖縄タイムス」

1994年7月23日)のである。

これが,本土復帰直後に導入された「本土漁船を巻き込んだ水揚げ規制」

といわれるものである。それは, 生産者主導 で形成された沖縄県の水 産物市場流通の新秩序といえるものであった。

(2)糸満新漁港関連プロジェクトの進展に伴う水揚げ規制の再編 その後, このような内容の「泊魚市場」の水揚げ規制はどうなったので あろうか。

前述のように, 1980年代に入ると,安謝地先の埋め立て工事の完了及び 糸満新漁港の整備工事の完了が近づいたことから, 「中央卸売市場」への

「泊魚市場」の「収容」と「糸満魚市場」の開設の機運が高まり,沖縄県 の水産物市場流通が 行政主導 で運営される可能性が高まっていた。換 言すれば, 生産者主導 で形成されたそれまでの沖縄県の水産物市場流 通における秩序が再編される可能性が高まっていた。

なかでも, 「糸満魚市場」の開設のこうした動きに与えるインパクトが

14 272

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大きいことが予想された。 というのも,沖縄県が目標として掲げたこの市 場のマグロを中心とする漁猿物の水揚げ量は, 「泊魚市場」のそれを凌駕 するほどのものであったからである。すなわち, 1981年11月に策定された

『第3次・沖縄県卸売市場整備計画』をふると, 「糸満漁港においては県 外船をも対象とした産地市場が設置され,県外出荷及び加工用原魚37,751 トン(昭和60年度)の取扱量が見込まれる」 (同計画, 9ページ) とされ ている一方, 「泊魚市場」の「収容」が実現した際の「中央卸売市場」の 水揚げ蛍は「昭和65年度27,456トンが見込まれる」 (同計画, 11ページ)

とされていたのである。 「泊魚市場」にとっては,沖縄県の水産物市場流 通における強力なライバルが出現することを意味したのである。

そして, このような膨大な水揚げ量を扱う「糸満魚市場」の開設に向け てのさまざまな動きも活発化していた。まず,沖縄県の場合である。 1980 年頃の取組象状況は次のようであった。 「県農林水産部では, これまで水 産課や漁港課で兼務のかたちで進めてきた『糸満漁港背後地利用計画』に ついて, 55年1月から3人からなるプロジェクトチームを配憧,今後は同 チームが背後地施設の運営主体となる水産公社に向けた準備,水揚げの誘 致促進,加工業の誘致,はり付け,流通関係の整備など利用計画や施設整 備を推進していくことになった。/これまでのまとめによると,背後地に は荷さばき施設や給油,給水施設,製氷施設,冷蔵庫などの陸上機能施設 のほか,県内外から約3万トンを同漁港に水揚げ, スリミエ場など水産加 工物を立地させる考えだが,現在の水揚げ実績では700トンしかなく, ま た水揚げ希望調査でも60年で約6,000トンしか見込めないため,水揚げす る漁船や加工業者の確保と鮮魚や加工品をどのように流通にのせるかが課 題となっている。/県農政部は53年11月,沖縄近海で操業している宮崎,

鹿児島,大分.佐賀,高知の各県と県内の漁業者を対象に, 糸満漁港への 水揚げ利用希望調査をしたが, その数量は55年で5,520トンとなっている。

現在糸満漁港に水揚げされている700トンと合わせても県の水揚げ目標3 万トンに遠く及ばないことから同漁港のPRに懸命だ」 (沖縄タイムス社

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東北学院大学論集経済学第148号

『沖縄年鑑』 1980年, 182ページ,/は引用者が付した原文の改行箇所)。

このような記述から窺えるように,沖縄県は,糸満新漁港(糸満漁港北地 区)の完成とともに, 「糸満魚市場」へ水揚げされるであろう3万トンの 漁獲物を確保すべく,本土船の誘致に大々的に乗り出そうとしていたので ある。そして,そのために1981年(昭和56) 1月,沖縄県水産公社が設立 された。

また,糸満市の場合にも, 「糸満魚市場」を糸満新漁港とそれに関連す る背後地整備事業と一体化したものとして位置づけ,地域経済発展の起爆 剤とすべく活発な活動を展開していた。因みに,糸満新漁港とそれに関連 する背後地整備事業は,すでにこのような糸満市の期待を担うのに十分な ほどの陣容となっていた。糸満新漁港の整備についてふると, 「第5次

(昭和48年〜51年),第6次(昭和52年〜56年)漁港整備計画により,約 46億円の事業費が投入され,最大利用漁船500トンクラスを対象に,水深 5メートル,岸壁1685メートルを有する県下最大の漁港として整備された」

(沖縄県農林水産行政史編集委員会『沖縄県農林水産行政史第8 .9巻

(水産業編)』,農林統計協会, 1990年3月, 105ページ)。また「同漁港の 背後地に水産加工団地(52.2ヘクタール),中小企業団地用地(44.5ヘク タール),住宅・公園その他公共用地(177・6ヘクタール),合わせて274・3 ヘクタールの埋立てによる造成が進められた」 (同上, 105‑106ページ)

のである。そして, この水産加工団地に多くの企業が立地すれば,いうま でもなく加工原料となる大量の魚が必要とされるわけであるから,その供 給が「糸満魚市場」の一つの大きな役割とされたのである。 1982年(昭和 57) 7月には,糸満新漁港が供用開始となり,本土船マグロ船が荷揚げを 開始し, 1983年(昭和58) 10月には,糸満市企業誘致推進協議会が発足し た。かくて, 「糸満新漁港の水揚げは,県外10〜20トンクラスのまく・ろ船 により増加しつつあるが, なお一層の水揚げの促進を図るためには,産地 市場の開設が必要である」 (同上, 105ページ) という認識が強まっていた のである。

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さらに,仲買人など流通業者の「糸満魚市場」の開設に対する期待も大 きかったようである。当時の具体的活動は定かでないが,後に「糸満魚市 場」が開設した際ある仲買業者が「これまで,マグロは泊市場で仲買が 買い付けたものを, 口銭をを払って買い取るという方法をとっていた。そ れも生産者自身が抜き取って,本土市場に出荷するため,残ったマグロの なかから選んで買うという状態だったので,糸満魚市場は私たちにとって は大変ありがたい」 (「承なと新聞」 1995年1月6日) と述べていることか らも窺える。流通業者は,前述の如き水揚げ規制の中にあっては,やはり その取引き活動に一定の制限を加えられていたのである。

「糸満魚市場」の開設に連なるこのような動きが活発化する中, 「泊魚 市場」を営業拠点としてきた水産団体や漁民の危機感が如何ばかりであっ たかは想像に難くない。その危機感は, 「県内のマグロ需要は限られてい る。市場が二つとなれば,価格は下がるだけだ。自由競争になれば生産者

(漁民)は廃業に追い込まれる」 (「沖縄タイムス」 1996年7月1日) とい うことばに端的に表現されているといえる。

この生産者というのは,主として小型マグロ船のことである。 ここでは 沖縄県の漁業には深入りできないが, 1970年代以降それは大きく変化し ていた。それまで基幹的位置を占めていた遠洋漁業が2度にわたるオイル

・ショ 、ソクや200海里漁業水域の設定などに伴う生産コストの上昇によっ て衰退しつつあり, それに代わって沿岸漁業が台頭してきていたのである。

このなかで,マグロ漁業も,かつての80トン以上の大型船から5トン以上 20トン未満の小型船への転換が進んでいた(図−3参照)。この沿岸マグ ロ漁業の担い手である小型マグロ船は「老朽化した19トン船が多く鮮度維 持などで競争力が落ちる」 (「日刊食料新聞」 (1996年4月3日)などとも いわれていたが,それはともかく,それらが本土船との競争に敗れ廃業を 余駿なくされれば,沖縄県の漁業が受けるダメージも決して小さいもので はなかった。

かくして,生産者保護の立場から, 「沖縄県まく・ろ水場調整委員会」 (県

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東北学院大学論集経済学第148号

図−3 沖縄県の遠洋・近海・沿岸別マグロ延縄漁業の生産量の推移(1973〜82年)

12噸

1…

、§

マグロ延岡

沿岸マグロ圧■−....。。.

4

凸●早由◆甲由●守

2咽 −==一一 、BT

堂戸坐二.ぎぎ皇..、〆一一.

由。●●争わらG●●凸凸甲

二壱竜===

0

1973年 74年 75年 76年 77年 78年 79年 年 81年 82年

資料)沖縄県農林水産行政史編集委員会『沖縄県農林水産行政史第8 . 9巻(水 産業編)』農林統計協会, 1990年3月, 356ページより作成。

漁連などで構成)が組織され,次のような対応策(新たな水揚げ規制)が 打ち出されたのである。 1984年9月のことであった(「沖縄タイムス」

1993年12月15日,及び23日)。

①県外マグロ船は糸満漁港で水揚げを行い,本土送りを原則とする。

②泊漁港における1日当りの水揚量は25トンとする(県内船20トン,

県外船5トン)。

③正月・旧盆等著しく需要のある時期においては,市場開設者は, 25 トンの枠を超えて水揚げさせることがある。

④泊港における地元船の水揚げは,原則として全量とする。

みられるように, ここには「糸満魚市場」の開設は全く視野にいれられ ていない。糸満新漁港が取り扱う大量のマグロなどの水産物はそのまま本 土に送ろうというわけで,いうまでもなく 「沖縄方式」の採用である。ま た「泊魚市場」への本土船の水揚げ量についても,本土復帰直後と同様,

厳しい制限が設けられた。沖縄県にとって必要な限りでのみ,本土漁船の

「泊魚市場」の利用を認めるという姿勢である。こうした方法で,沖縄県 内の水産物需給・価格調整を図り,地元漁民の立場を守ろうとしたのであ

18 ‑276

(20)

る。

ともあれ, このような姿勢を堅持していたから, 行政主導 で進行し ている上述の如き動きとは真っ向から対立することになった。むろん,沖 縄県が開設者となっている中央卸売市場への「収容」も, もはやありえな いことであった。

その後, 『第4次・沖縄県卸売市場整備計画』の策定に向けて, 「県は 1986年10月, 糸満産地市場開設に向けて糸満漁港利用促進協議会を設立,

関係者間で話し合いを始めた。 ところが, 同協議会の幹事会はわずか3ヶ 月で暗礁に乗り上げる。漁連側は『もし糸満産地市場の仲卸業者が糸満で 揚がったマグロを県内向けに出荷すると,那覇市の泊市場に大きな影響を 及ぼすので規制すべき』と主張した。流通業者は『県内流通業が規制され たら経営が成り立たない』と反対した。話し合いはまとまらず87年1月,

幹事会は長い休眠状態に入った」 (「沖縄タイムス」 1992年10月28日)ので ある。以上のような経緯からすれば,当然の結末であったのかもしれない。

Ⅱ 「糸満魚市場問題」の経緯

ここでは, この事件の経緯を具体的に辿って象ることにしたい。この経 緯は,大別すると次の三つの時期に区分することが可能であろう。第1の 時期は, 糸満漁港利用推進協議会が再開された1992年1月から「糸満魚市 場」が開設まで漕ぎ付けた94年9月までであり,第2の時期は, 「糸満魚 市場」が開設した1994年10月から「沖縄方式」が復活した95年6月までで あり,第3の時期は, 「糸満魚市場」が極端な水揚げ減少に陥った1995年 7月から事実上の倒産を余儀なくされた96年10月までである。以下,順次 みていこう。

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1 . 「糸満魚市場」開設前夜‑1992年1月〜94年9月一

(1)「糸満魚市場」の運営をめぐる主導権争い

1992年1月, 『第5次・沖縄県卸売市場整備計画』の策定に向けて沖縄 県卸売市場審議会が開催され, 「糸満魚市場」を今年度中に開設する方針 が打ち出された。これと連動して, 1987年1月以来ストップしていた糸満 漁港利用推進協議会が開催された。この協議会での最大の問題は, 「糸満 魚市場」の会社形態をどのようにするか,換言すれば, この市場の運営の 主導権を誰が握るのかということであった。このことについては,すでに 5年前の同協議会に沖縄県から原案が提示されていた。資本金 億円の第 三セクター方式の株式会社とし, 出資構成を, 糸満市40%,生産者団体が 30%,流逮業者が30%とするものであった。それは糸満市と流通業者が70

%を占めるという出資比率から明らかなように, 行政主導 の色彩を鮮 明にしたものであった。当然の如く,県漁連など生産者団体が猛反発し,

結局, 同協議会は中断を余儀なくされたのである。

再開された同協議会も,やはり5年前に沖縄県が提示した案をもとに審 議が進められた。 3月には,糸満市が, この案に沿ったかたちで4千万円 を予算化した。しかし,やはり生産者サイドの同意が得られず, 1月以来 4回の会議が開かれたものの, 3月30日の会議を最後に再び暗礁に乗り上 げてしまった。当然,年度内の「糸満魚市場」の開設は見送られたのであ る。ここまでが, この問題をめく・る攻防の第1ラウンドであったといえる。

県漁連がこれに関する独自の案を提示したのは,同年10月に入ってから のことであった。それは,大要次のようなものであった。①沖縄県の水産 物流通に混乱を起こさせないためにも,県漁連が「糸満魚市場」の卸売業 を単独で担当するのが最善である,②「泊魚市場」との関係では, 「糸満 魚市場」を本土漁船, 「泊魚市場」を県内漁船の水揚げ基地として位置づ ける,③流通の混乱防止(とくにマグロのだぶつき防止) と生産者の魚価 暴落に伴うダメージを回避するため, 出荷調整も行う (「みなと新聞」

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1992年10月12日)。県漁連としては, このようなかたちであれば,開設者 である沖縄県水産公社の指導・監督下にあっても,水揚げ規制を基本とす る市場運営が十分可能と踏んだわけである。

県漁連は, この案を10月27日に開催された糸満漁港利用推進協議会で発 表した。 しかし,それは沖縄県が提示していた当初の案から「180度転換 したもの」 (「沖縄タイムス」 1992年10月27日)であり, しかも「糸満魚市 場」の運営において基本原則とみなされていた「全蛍上場制」を否定する ものであったから,すでに当初の案で固まっていた糸満市や流通業者など の猛反対を招くことになった。糸満食品加工業組合にいたっては,県漁連 の「乗っ取り行為」と批判した(「沖縄タイムス」 1992年10月27日)。結局,

ここでも合意が得られず, 「物別れ」に終わった。第2ラウンドの終了で ある。

その後, 「糸満魚市場」会社の形態をめく・る対立は「平行線」をたどり,

沖縄県の行政的立場からの調整が不可欠な状況となっていた。その沖縄県 の「調整案」は,翌1993年7月に出された。 7月8日,沖縄県の農林水産 部長が沖縄市を訪れ,市長に対して次のような案を提示したのである

(「沖縄タイムス」 1993年7月9日)。

①「糸満魚市場」の卸売業務は.県漁連を中心とした生産者団体に任 せる。

②水揚げは入港順,全量上場制を原則とする。

③運営に当たっては, 県, 糸満市,流通業者が加わった市場運営協議 会を設置する。

この中の①の「県漁連を中心とした生産者団体」というのは,県漁連単 独か.県漁連と系統団体(糸満漁協など)の協同かのどちらかということ が含意されていた。この案は文字通りの「調整案」であった。すなわち,

①は県漁連のそれまでの主張をほぼ認めたものであった。②は沖縄県,糸 満市,流通業者などのそれまでの方針を踏襲したものであった。③は新た に「市場運営協議会」を設置し,卸売業務を担当する「県漁連を中心とし

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東北学院大学論集経済学第148号

た生産者団体」が, 「全農上場制」の原則を遵守するか否かをチェックし ようとするものであった。

この案に対する反応はどうであったろうか。 7月20日,県漁連はこの案 を全面的に受け入れる旨を表明した。県漁連としては,卸売業務という市 場運営の中心業務を独占すれば,状況次第で②を弾力的に運用できると判 断したのかもしれない。一方,糸満市はこの案を全く問題にしなかった。

8月13日には,糸満市長が,第3セクター方式の株式会社設立をと県に要 請した。あくまでもこの市場の運営の主導権を確保しようとする姿勢を貫 いたわけである。この後8月25日には,沖縄県農林水産部が糸満市と県漁 連を県庁に招き打開策を協議したが, 「結局,県あっせん案をめぐる双方 の話し合いは平行線をだどり,物別れとなった」 (「沖縄タイムス」 1993年 8月26日)。かくして第3ラウンドも終了した。

このような経緯から,沖縄県はまた新たな調整案を作成しなければなら なかった。その案は1994年2月9日に提示された。次のようなものであっ た(「みなと新聞」 1994年3月8日)。

①「糸満魚市場」の卸売会社は,糸満市,県漁連,糸満漁協流通加 工業者で構成する株式会社とする。

②この会社の資本金は1億円とし,その出資構成の基本的枠組みは,

糸満市30%,県漁連40%,糸満漁協20%,流通加工業者10%とする。

③水揚げ形態については, 入港順,全愚上場を原則とする公正,公平,

自由な市場とする。

④開設に向けた具体的な事項については,関係者間で協議し必要な事 務手続きなどを進め,早期建設に努めるものとする。

沖縄県はこの案を「最終調整案」と位置づけ, 2月22日に, これに対す る回答を3月15日までに寄せてほしい旨の文書を関係機関に送付した。糸 満市はただちに賛成した。沖縄県が当初提示した案に類似しており, この 市場の運営でかなりの発言力を確保できるという判断がなされたものと思 われる。県漁連は3月10日に理事会を開催してこの案について協議したが,

22 −280−

(24)

最終的な結論を出すには至らなかった。出資金額が出資団体中最大(四千 万円)で負担が大きかったこともあるが,やはり上のような出資構成で市 場の運営上の主導権を確保できるかどうか見通しがつきにくかったのであ ろう。例えば,沖縄県がこの調整案を県漁連に打診したところ,糸満漁協 の出資比率20%を10%に減らし,残りの10%を沖縄近海鮪漁協や那覇地区 漁協などの出資枠とすべきという意向を持っていたというが, この意向に は「糸満漁協が市側と連合し, さらに流通加工業者が加われば, 出資比率 は60%となる」ことから, 「県漁連としては主導権争いを有利に展開する には糸満漁協の持ち分を10%に抑え,残り10%を確保しておく必要がある」

(「象なと新聞」 1994年3月9日) といった思惑が反映されていた。糸満 漁協に関していえば,それまで「糸満魚市場」の開設に際して糸満市や流 通業者と行動を共にしてきた経緯があり,県漁連としては, 自らの系統下 にあったとはいえ,必ずしもパートナーと承なせなかったのである。 この ような意向であったものの, 5月10日の理事会でこの案を受け入れること を決定した。 「最終案」を拒否すれば,孤立しかねなかったからである。

こうして第4ラウンドに至って, ようやく 「糸満魚市場」の卸売会社の形 態が決ったのである。

しかしながら, このような諸団体の力関係の「微妙なバランスの上にた って設立された魚市場」 (「沖縄タイムス」 1996年11月6日)であっただけ に, ひとたびそれぞれの思惑が表面化すれば,市場運営にさまざまな支障 がでかねなかったことはいうまでもない。

その後, 8月1日にはこの会社が設立された。社長には糸満市長が就任 した。 10月3日が「大安」ということで初セリが行われることとなった。

(2)厳しい船出を予想させる動き

ところで, 「糸満魚市場」の開設が目前に迫った9月下旬,本土マグロ 漁船が「①市場が上物マグロの値を支えきれるか疑問,②セリにかけるこ とで鮮度が落ちる−などの理由から全量上場に反発」 (「沖縄タイムス」

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東北学院大学論集経済学第148号

1994年9月22日) していることが伝えられた。これは, この市場の前途に 不安を投げかけるものであった。

ここでいう「上物マグロ」とは,本マグロといわれる体長3mにも及ぶ クロマグロのことである。その取引金額も各種のマグロの中で最高である。

その相場は,需要量の大きさを反映して,沖縄県内よりも,本土の方が高 かった。このマグロは, ほとんどが刺し身向けであり, 「鮮度が命」とさ れる。つまり鮮度如何が需要・価格を大きく左右するという商品特性を持 っているのである。このことが,本土漁船にかぎらず,マグロを扱う漁船 が「全蹟上場制」を嫌う主な理由であった。これについては,次のように 説明される。 「新鮮さを保つために小型マグロ漁船では漁港へ帰っても,

水揚げ,選別および荷捌(さば)き作業に気を使い, とりわけ作業の迅速 性が要求される。県外送りについて空輸が不可欠な条件となるのである,

/沖縄の市場での取引は1本1本のマグロについて,その品質をみせつつ,

競(せ) り売りされるのであり,比較的時間のかかるこのような競り売り を県外送りのマグロについて行うことを生産者は嫌っているのである」

(伊野波盛仁「マグロと市場問題」〈3>, (「沖縄タイムス」 1994年6月13 日)。/は引用者が付した改行箇所)。

このような動きに加えて, 「糸満魚市場」の前途にとってさらに深刻な 問題が発生した。それは,県漁連がそれまで沖縄県の漁船のみが水揚げを していた「泊魚市場」への本土漁船の水揚げを了承したことであった。県 漁連は「糸満魚市場」の最大株主であり, そこへ役員も派遣していたので あるから,極めて奇妙な動きであった。 「自らつくった県漁連が市場つぶ しに奔走するという前代未聞の事態」 (「日刊食料新聞」 1996年4月3日)

といわれたのも,ある意味では当然であった。

県漁連がこのような行動をとったのは,経営面で直接大きな痛手を蒙る 恐れがあったからであった。やや遠回りになるが,沖縄県のマグロの流通 の特徴から説明しよう,沖縄県全体のマグロの取扱い量は年間約,万トン であり,その内訳は沖縄県内漁船による泊漁港取扱い分が7,000トン,本

24 −282−

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土船による糸満新漁港分が3,000トンであった。そして泊漁港取扱い分 7,000トンについて承ると,そのうちの2,000トンが本土へ直送され,残り の5,000トンが「泊市場」へ上場され,那覇市をはじめ沖縄県内に向けら れていた。一方,糸満新漁港取り扱い分3,000トンについてゑると, 1,500 トンが本土へ直送され,残りの1,500トンが「泊魚市場」に陸送されてセ リにかけられ,沖縄県内に供給されていた。このようなしくみから, もし

「糸満魚市場」が開設され, 「全量上場制」が採用されれば,糸満新魚市 場から「泊魚市場」に陸送されていた1,500トンがなくなることになった のである。それは金額にして14〜15億円にも上るといわれた。これが「泊 魚市場」での県漁連の水産物の取扱い額の約64億円の中からすっぽり抜け てしまうことになるわけであるから,県漁連の危機感が如何ばかりであっ たかは想像に難くない(以上の数値は,伊野波盛仁「マグロと市場問題」

〈2>, (「沖縄タイムス」 1994年6月12日, に拠っている)。

さて, 9月29日には,鹿児島県のマグロ船が「泊魚市場」に水揚げを行 った。 「県漁連は泊漁港に県外専用のバースを確保するなど積極的に受け 入れる姿勢を見せている」 (「沖縄タイムス」 1994年9月30日)のであった。

このような状況ではあったものの, 9月30日には,予定通り,県庁にお いて「糸満魚市場」の開設許可証交付式が行われ,沖縄県農林水産部長か ら,開設者の沖縄県水産公社に開設許可証,卸売会社の「糸満魚市場」

(社長・糸満市長)に卸売業務許可証が手渡された。

2. 「糸満魚市場」の開設とそれへの反発‑1994年10月〜95年6月一

(1)マグロ価格の暴落を契機に高まる反発

1994年10月3日, 「糸満魚市場」で初セリが行われた。糸満漁協所属の 漁船による水揚げしかなかったが, ご祝儀相場の「初セリ高値スタート」

(「沖縄タイムス」 1992年10月4日)であり, 10月7日には,宮崎県漁船 8隻によるマグロ10トンが水揚げされ,心配された本土漁船の水揚げもな

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東北学院大学論集経済学第148号

され, 2週間後には市場関係者が取引内容を「予想以上」と評価したほど であった(「沖縄タイムス」 1994年10月16日)。

しかしながら, 「糸満魚市場」開設に伴う利害関係からくるトラブルは その後も絶えなかった。例えば, 11月15日,沖縄県水産公社は,糸満新漁 港内の岸壁を利用して「糸満魚市場」以外に水揚げをした漁船には,仕込 み作業(油,水,氷の供給)を行わない」ことを,県漁連などに通告した。

これは,本土漁船が強引に糸満新漁港内の岸壁に荷揚げし, 「泊魚市場」

に陸送するケースが後をたたないことへの対抗措置であった。この措置は

「全量上場制」を維持しようとすれば, どうしても必要であった。 ところ が, この措瞳には県漁連がただちに反発し,結局,沖縄県を仲介にして交 渉を続けることになった(「琉球新報」 1994年11月17日)。また, これに先 立つ11月8日,県漁連は, 「泊市場」と「糸満魚市場」の両方で営業して いる仲買人に対して, 「泊市場と糸満魚市場の両市場のうち, どちらか一 方の選択」を迫り, これに従わない場合には, 同月19日以降の「漁連市場 での販売停止」の措置をとるという文書を送付した。明らかに, 「糸満魚 市場」との決別を迫ったものである。結局,県漁連は,沖縄県知事から撤 回指導を受け, この文爵を撤回した(「ゑなと新聞」 1996年7月1日)。

このようないわば小競り合いが続いているなか,マグロ価格が暴落して いることが伝えられた。 「10, 11月期に県内で水揚げされるマグロ類の中 で6, 7割を占めるピンナガマグロ(通称・ トンボマグロ)の相場が急落 している。昨年11月の泊市場の平均がキ口当たり252円だったのに対し,

今年は同月11日以降から130円台で低迷。糸満市場でも11月平均が219円だ ったものの. 同月16日以降は200円を割り, 120円前後で推移している」

(「沖縄タイムス」 12月4日) と。その原因は定かでない面もあったが,

県漁連は「糸満魚市場」の開設による県内への供給過剰にあると主張した。

かくして「糸満魚市場」の開設に対する批判活動がエスカレートした。 12 月16日には,県漁連などの主催で,県内の52水産団体から約600人の漁民 が参加して「漁業経営危機突破漁民大会」が開かれた。 「会場には,大漁

26 284

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旗や県,県水産公社を 攻撃 するプラカードが立ち並び, さながら『糸 満魚市場糾弾集会』の様相を呈していた」 (「沖縄タイムス」 12月17日) と いう。そして, 12月26日には. この大会に参加した水産団体の代表者らが 沖縄県農林水産部を訪ね, 「糸満魚市場」の運営のあり方などについての 批判を含め.状況打開の要請を行った。

(2) 「沖縄方式」の復活

その後,マグロ価格は.年末年始にかけての「正月需要」で一時持ち直 したものの, 1月中旬以降再び低迷,例年の半値以下で推移した。こうし たなか, 「沖縄方式」の復活を求める動きが強くなっていった。 1995年3 月3日には,那覇地区漁協,沖縄県近海鮪漁協伊良部鮪船主組合などに 所属する漁民と大分県,高知県,宮崎県の漁協に所属する漁民によるマグ ロ価格低迷打開の協議が行われ, 「昨年10月に開設した県水産公社地方卸 売市場=糸満市西崎=の影響が大きい−との基本認識で一致。開設以前 のように,県外船がセリを経ず,県外へ直接マグロが送れるよう関係機関 に要請していくことを確認し」 (「沖縄タイムス」 1995年3月4日),協議 終了後には,沖縄県水産公社に出向き,本土送りのための施設開放を要求 した。 3月6日には,沖縄県まく・ろ生産者協議会が,やはり「沖縄方式」

の復活を沖縄県農林水産部に要請している。

こうした動きを受け,ついに沖縄県が事態打開に乗り出した。 3月17日,

沖縄県農林水産部は, 「糸満魚市場」での「直接県外送り」を要求する生 産者(県漁連や県近海鮪漁業協同組合の代表者ら) と, 「全量上場制」の 維持を主張する当市場関係者(糸満魚市場㈱社長,仲買人組合代表ら)を 県庁に呼び,①一定量を超える水揚げがあった場合,糸満市場で直接送り を実施する,②実施に当たっては全量上場の基本を崩さずに,緊急避難的 な期限付きのものとする, という提案を行った。しかし, これには「糸満 市場」側が猛反発し,結論は出なかった(「沖縄タイムス」 1995年3月18

日)。

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東北学院大学諭集経済学第148号

ところで, このようなやりとりが行われている間も, 「糸満魚市場」は

「水揚げゼロ」という状況が続いていた。その結果, 4月末には, 当市場 の累積赤字は4,800万円にも達していた。この危機的状況を打破するため,

当市場は, 「全量上場制」の見直しも含めて,何らかの手を打たざるを得 なくなっていた。そして5月9日,ついにこの「全量上場制」の見直しに 踏み切った。まさしく 「糸満市場側は昨年の市場開設以降一貫して全量上 場制を取ってきただけに,原則を崩した格好で妥協点を見つけることにな る」 (「みなと新聞」 1995年5月10日)のであり,苦渋の選択にほかならな かった。

1995年(平成7) 6月5日, 「糸満魚市場」の開設者である沖縄県水産 公社の理事会が開かれた。この会議では,市場運営については, 「入港順

・全量上場の基本方針を維持しつつ,当面は弾力的に運営する」こととし,

この卸売市場の荷捌き施設を使用した「直接県外送り」, すなわち「沖縄 方式」を再開することを承認した。また荷捌きの施設使用にあたっては,

①卸売業者以外の施設使用者は,既に当公社の回船問屋の承認を得ている 者,回船問屋,漁協系統のうち当公社市場運営協議会に諮り当公社が決定 した者,②卸売業者以外の使用はセリ業務使用後に行う,なども決められ た(「みなと新聞」 1995年6月6日)。いうまでもなく, これによって「糸 満魚市場」においてセリと「沖縄方式」が併存することになったわけであ る。本土出荷と「泊魚市場」の陸送の分を差し引いても, この市場に上場 される分が増加すると見込んだのである。

翌6日には,早速, この決定を受けて本土船が寄港した。マグロ漁船6 隻が約10トンの荷揚げを行い, このうち本マグロなど約3トンが「沖縄方 式」で本土の市場に送られ,残りは「泊魚市場」に陸送されセリにかけら れることになった。また3隻が約1 .9トンを「糸満魚市場」に上場した

(「沖縄タイムス」」 1995年6月7日)。 「糸満魚市場」にとっては, この時 点では,上述の決断が当市場の危機的状況を打開することになったことを 確信させるような状況の到来であった。

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ところで, 6月10日には「糸満魚市場」取締役会が行われたが,その会 議において県漁連は,次期の取締役会への役員派遣を見送ることを表明し た。当市場の施設の自由な利用と「沖縄方式」が認められ,今後は集荷競 争において「糸満魚市場」が「泊魚市場」のライバルとなることから,そ のような決断したということであった(「みなと新聞」」 1995年6月14日)。

「糸満魚市場」と県漁連のミゾはますます深まるばかりであった。かくし て, 「糸満魚市場」は, また大きな試練を迎えようとしていたのである。

3. 「糸満魚市場」の「休眠」‑1995年7月〜96年10月一

(1 )追い詰められる「糸満魚市場」

では, その後の状況はどうなったのであろうか。事態が好転し, 「糸満 魚市場」への水揚げが増加したであろうか。答えは否であり,事態はむし ろ一層悪化していった。図−4を参照しつつ,予めその状況を象ておこう。

当市場の水揚げ愚は, 6月5日の沖縄県水産公社理事会の決定を受けてわ ずかに増加したが,それも束の間,翌7月からは減少しはじめ, 8月以降 はまたしても「水揚げゼロ」と表現されるような状況となった。その原因 は,例年と較べて糸満新漁港への本土漁船の寄港数が激減していたこと,

また糸満新漁港に寄港しても「糸満魚市場」には上場せず,他の卸売市場 に上場する漁船が増加していたからである。後者に関していうと, 「糸満 漁港への水揚げ総量と糸満魚市場の取扱量の比較は, 6月が総量271トン に対し,市場水揚げはその41%の112トン, 7月は234トンに対し32%の74 トン, 10月は273トンに対してわずか1O%の22トンという状況」 (「沖縄タ イムス」 1995年12月3日)であった。他の卸売市場のうち大半は,いうま でもなく 「泊魚市場」であった。県漁連など生産者サイドが攻勢に転じた ことが窺われた。以下の展開は, このような状況を背景としたものである。

1995年8月17日, 「糸満魚市場」は,沖縄県水産公社に対して, 当市場 の荷捌き施設利用のしかたを見直すよう,要請した。当市場の荷捌き場の

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参照

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