ページ 63‑71
発行年 2006‑08‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011234
シュライアマハーの宗教理論に おける平和戦略
Friedensstiftende Impulse in Schleiermachers Religionstheorie
ギュンター・メッケンシュトック
Gunter Meckenstock
訳:川 島 堅 二
Translation:Kenji Kawashima
はじめに
Ⅰ.コミュニケーションという宗教の根本傾向 1)宗教の概念
2)宗教の現況
3)宗教の社会的結びつき
Ⅱ.シュライアマハーにおける宗教の構造論 1)宗教の自立性
2)宗教における弁証法的な根本対立 3)宗教の社交性
Ⅲ.シュライアマハーの宗教理論における平和創出的動機 1)宗教の文化的意義
2)事実的諸宗教の評価 3)事実的諸宗教の歴史性 終わりに
はじめに
人類の歴史における多様な社会的状況において示されているのは、平和を造り出し たり、対立を促進させたりという点で、宗教は二重性を持つということである。この ことは、制度的に高度に複雑に組織された一神教に特に言えることである。多くの宗 教が、内部では平和を義務として課し、普遍的な平和を造り出すことを願っているに もかかわらず、宗教の持つ本質的な構造が、平和の尊重としばしば矛盾しているので ある。なぜなら、宗教の遂行には、常に主観的な拘束力がついてまわるが、それは社 会的承認を目指しており、その際に、絶対者との出会いに由来する特別な性格を主張 する。したがって、この真理主張と生の様式の一般的な貫徹を目指す努力には、激し い抗争が潜在しているのである。宗教の社会的形成力が大きくなればなるほど、また、
絶対者の経験からくる義務化の性格が決定的に受け取られれば受け取られるほど、攻 撃的な態度が、宗教的行為や社会的行為全体に、破壊的な影響を及ぼす危険の度合い が高くなる。これに加えて、宗教的伝統の存続は、他の抗争動機を支持する形で要請 され、道具として利用される。
なぜ、このようなことになるのか このような宗教のアンビバレントな作用は何 に由来するのか 宗教の平和を造り出す力を強化し、その破壊的な衝動は抑制する というように宗教を理解することも可能なのか これらの問いに答えるために、私 は三つの段階で議論を進めていきたい。先ず、宗教の持つコミュニケーションに関わ る根本傾向を短描し、それを政治的社会的文脈で描いてみたい。次に、シュライアマ ハーにおける宗教の構造論を短く述べ、最後に、平和を造り出す要素という観点でシ ュライアマハーの宗教理論が持つ特別な性格を明らかにする。
Ⅰ.コミュニケーションという宗教の根本傾向
私は宗教的コミュニケーションが持ついくつかの重要な特徴についての叙述で始め るが、先ずは、宗教概念の定義を述べる。
1)宗教の概念
宗教とは、絶対者の地平で経験に意味を与える知覚である。宗教は単に、自然や歴 史として遭遇するような外的経験世界だけを主題化するのではなく、自分の体験や願
望や意欲といった内的経験世界をも主題化する。宗教は、世界経験や自己経験の具体 的な内容から出発し、その目指すところは、絶対者を通して開かれる経験可能性によ って現実性を現在化して意味を与えることである。宗教においては、絶対者の経験、
世界経験、自己経験が互いに関連し合っている。
宗教意識は、常に具体的なものにおいて始まり、具体的なものを、超越者及び絶対 者が現象する場所であると考える。全体的普遍的感覚は、個において開示される。生 き生きとした宗教意識は、主観的な驚きなしには存在しない。私たちに拒否しがたい 仕方で関わり、私たちを規定するものを通して、宗教は驚きというあり方を考える。
この宗教意識は、絶対的な感覚と制約された感覚とを相互に関連させる。宗教的意味 の開示によって、超越者が有限な経験において言語化されるとは、無限者、全体性、
現実の必然性が、他ならぬ有限者、特殊性、時間性、この世の偶然性への洞察におい て輝き出ることであり、またその逆でもある。
2)宗教の現況
現在の宗教の状況は、否定的な宗教の自由と積極的な宗教の自由の緊張状態に、ま た、極端な宗教否定と排他的な宗教実践の緊張状態にあり、世界中で相反する二つの 傾向、すなわち、個人主義的平均化と原理主義的特異化によって規定されている。こ れらの傾向は、大きな世界宗教においては久しく見られた傾向だが、東西の冷戦終結 後も減じていない。
西欧の産業社会では、制度化された宗教に対する懐疑的で控えめな態度が広く拡大 している。その際に、19、20世紀に定式化されたラディカルな宗教批判が、暗黙のう ちに背後にある。このラディカルな宗教批判は、ある特定の神観念や啓示の否認以上 のもので、信仰の意義そのものを否認する。フォイエルバッハの人間学的宗教批判、
マルクスの社会学的宗教批判、あるいはフロイトの心理学的宗教批判はいずれも、特 定の姿形や機能を宗教に特徴的なものとして確認し、それらを消去できる、あるいは、
他の社会的心理的機関で代用できると主張しようとした。信仰はすべて心や精神の病 である。憧れ夢見る幻惑、あるいは、まやかしの慰めを与える抑圧の道具だというの である。このような診断がなされるならば、信心深い人間や集団は、教育的あるいは 心療内科的治療処置をほどこされねばならないということになる。たとえこのような ラディカルな宗教批判が、政治的法的には一般に認められることがないとしても、
様々な議論の中で機能的な推測の形をとって宗教に対する一般的な疑いを強めること になる。宗教の自由を、宗教からの解放というように否定的に理解することがここか ら出てくる。
最近の出来事を見る限り、「学問的技術的に規定された近代人の意識は宗教と相容
れない。宗教は消滅に向かう阻止不可能な没落に定められている」といった文化診断 的な言説は当たっていない。いわゆる現実の社会主義は、その宗教批判的含意を社会 組織的にも転換したが、その社会主義の社会編成は、社会の競争において自らを主張 し続けることはできなかった。その際、失敗の少なからぬ要因は、あらゆる宗教を意 識的に否定し抑圧したことだった。その限り、社会主義の実験の終焉は、宗教的意識 の放棄が社会的に生産的で望ましいというテーゼの否定であるとも考えられる。
政治的文化的抗争において、宗教的確信や伝統、尊重は、異なった党派が混乱して 散在している状況ゆえに、様々な理由から引き合いに出され、認定機関とされる。宗 教というものが、相当な社会的力を解放できるということが、現在、イスラム世界で は大きな役割を果たしている。伝来の宗教が、その原理主義的な姿において、西欧世 界や世俗化、資本主義や個人主義に対する防波堤として要求されている。多くの諸国 において軍事的に実施される社会的出来事は、地球規模で先鋭化されて、宗教の自己 限定能力への問いのみならず、宗教の平和希求への問いを提起している。
3)宗教の社会的結びつき
宗教は多くの表現形態や現れ方、多くの慣習や教説、多くの儀礼や制度、多くの社 会的ネットワークや展開を持っている。制度化された宗教団体によって実践されるよ うな、公に表される信仰の形態と共に、個々人によって非常に異なった領域で行われ る個人的な信仰の形、あるいは、外部とあまり接触を持たない小集団によって、独自 な表現世界で保たれる狭く限定された信仰の形がある。
これら様々な信仰の形は、非常に多種多様な仕方で、近代の社会発展と絡み合って きた。近代の生活世界を形成する諸要素は、学問的な世界解釈、技術的工業的な世界 の姿、組織的社会的存在への備え、分業による産業経済などである。居住の場と仕事 場は、空間的にも機能的にも分離されている。必要経済は、産業経済に席を譲った。
様々な職業活動の遂行は、宗教的秩序や枠をもはや必要としない。
目的設定的な自律性という近代の根本思潮は、しばしば制度的宗教の働きに抗して、
宗教的生活形態や神学的伝承の深刻で長期にわたる変化の過程を始動させた。この文 化的変容は、教義的倫理的教育や、宗教的生活実践に深く浸透している。
宗教は、様々な社会的政治的文化的状況において自らを現す。無宗教と勘違いされ ている社会においても、宗教は多様な仕方で存在している。ヨーロッパでは破滅的な 宗教戦争を経験して以来、宗教の活動領域を制限する政治的な努力がなされるように なった。西洋先進諸国では、国家は宗教的中立を宣言し、制度的公的宗教の多元主義 を構築してきた。宗教の自由の人権に配慮した定式化は、平和を造りだす意図を持っ ている。そこから生じるのが、宗教間の対話に対する新たな強い要求であり、諸宗教
に対して政治的な規則を求めるという要求である。宗教間対話、人口の多くを占める 宗教の代表者間の対話は、制度宗教の平和の能力を強化するはずである。
Ⅱ.シュライアマハーにおける宗教の構造論
宗教の持つ根源的な二律背反に直面して、シュライアマハーは、彼の宗教理論にお いて、宗教の平和創出の動機を、より厳密に特徴付ける重要な貢献をしている。シュ ライアマハーは、基礎的な分析において、宗教的経験が本質的に、平和的で多様なコ ミュニケーションを目指しているということを示した。
1)宗教の自立性
宗教についてのシュライアマハーの考察は、次のような確信に担われている。すな わち、宗教は、人間の生にとって個人的には本質的、社会的には不可欠の形成力であ る独自な生の力であるという確信である。宗教の権利は、認識や行為に対するその業 績に存するのではなく、宗教自体に根拠を持つ。すなわち、宗教は厳密に、他のもの で代用することのできないもの(selbstsubstitutiv)である。宗教的な確かさは、形式 や疎遠な記述からは生じない。人工的につなぎ合わせて造り出すこともできない。
この宗教の自立性は、シュライアマハーによって、否定的に、また積極的に説明さ れる。否定的なテーゼはこうである。宗教は形而上学的に、あるいは道徳的に、構想 されてはならない。超越的な認識の体系として、また、態度に規律を与える規範集と して構想されてもならない。積極的なテーゼはこうである。宗教は無限者の直観と感 情(『宗教論』)、絶対依存感情(『信仰論』)である。
宗教的感覚において、直観と感情は、その生起の瞬間には一つである。およそ真の 宗教的直観と感情とは、そのような両者が一つであるような瞬間に由来しなければな らない。宗教は、感覚と対象とが未だ分離されない生き生きとした統一を知覚するこ とによってのみ生じる。この宗教的な生の瞬間に対しては、いかなる代用品も存在し 得ない。
2)宗教における弁証法的な根本対立
以上のような宗教の構造は、その危機を暗に含んでいる。絶対者の経験は、その固 定化へと突き進み、それによって有限化に向かう。絶対者は、有限な意識の構造の中 にはめ込まれる。あらゆる意識にとって構成的な反省は、宗教的統一の瞬間をも捉え る。感覚と対象とが離れ離れになることで、直観と感情も離れ離れになる。どんな叙
述も、この二分化、境界付け、対立の法則を免れない。これによって宗教は、自らの 弁証法に陥る。宗教は無限者を表現することを欲する。宗教は、万有、全体性と統一 へ自らが向かうことを表現することを望む。そこで宗教は、自らの内容に反して、有 限者の形式的法則、範囲付けしたり、差異化したりする有限者の法則に屈しなければ ならない。たとえ、絶対者が相対性に対してはっきりと際立たせられているにせよ、
絶対者は相対的にならねばならない。それゆえ、宗教においては、その内容と、それ に相応しくない形式との間で、果てしない抗争がある。無限者は、それが言葉で表さ れるや否や、その記述において、一つの有限なものに変わってしまう。これに対して 再び宗教の抵抗が始まる。宗教は形式に対して、内容を確保しようとする。それがで きないと、宗教は沈黙を望む。したがって、宗教は、主張とその取り消しの繰り返し である。宗教は、自らの過誤行為の過程を主題化し、叙述しなければならない。宗教 理論は、この内的な弁証法をも把握しなければならないが、シュライアマハーは、そ の両方を試みている。
この根本的な弁証法的対立が無視され、有限化された絶対者が、絶対的妥当性をも って社会的に主張されるならば、根本的に誤った展開が、内的にも外的にも脅威とな って立ち現れる。これは避けることができない。むしろシュライアマハーは、宗教の 構造の中に、この一面性に対する対抗策が置かれているのを見ている。この絶対者の 本質に対応する宗教の姿が、信仰者の共同である。
3)宗教の社交性
信仰者の共同は、人間的にだけではなく、宗教的に基礎付けられる。すなわち、宗 教は、個々の信者や、彼らに固有の視野からの直観において実現されるよりもはるか に無限に豊かである。いかなる個人も宗教を汲み尽くすことはできない。直観ともの の見方の無限の多様性は、当然の自己謙遜と、他のあり方の友好的な受容を引き起こ す。そこから生じるのは、相互伝達の要求と自明の寛容さである。
宗教的共同体は、補遺と批判に基づく。無限者のあふれ出る充満に対して、信仰者 は、常に自分の不十分さを感じ、それゆえに補遺を求めるが、それは、他の無限者の 直観を伝達されることによってなされる。無限者に対する各個人の不十分さは、他者 による吟味と評価への促しとなる。信仰の自由と純粋さのゆえに、各信者は、相互伝 達を必要とする。この相互伝達においてのみ、各個人の直観や経験の吟味と是認が存 在する。対話を導くのはミッションの衝動ではなく、敬虔な自己確認の必要であり、
絶対者の無限性の意識から、無限者に引き渡されているということから、そして、原 理的に無尽蔵である無限者の伝達から生じる懐疑である。相互的な伝達は、多様な信 仰の旗印のもとにあり、信条における対立を超える。
Ⅲ.シュライアマハーの宗教理論における平和創出的動機
宗教は、社会における互いに共にある状態(Miteinander)を造りだす。シュライア マハーは、平和を造りだす力を他ならぬ次のことを通して強調する。すなわち、彼は、
宗教的伝達の共同体を、ミッションの衝動や排他的要求によってではなく、自己を修 正する用意を通して、また、補遺への求めを通して確かに見ているということによっ てである。
1)宗教の文化的意義
宗教が、人間の文化の本質的で不可欠の領域であるとしても、シュライアマハーは、
他の文化領域に対する宗教の専制支配的要求を全て拒否する。ある社会の文化的特徴 のために、宗教の優位を主張するあらゆる宗教理論に対して、シュライアマハーは、
彼の四領域(宗教、国家、学問、経済)社会理論において、宗教の制限をもくろむ。
彼は、およそ発達した社会の繁栄に本質的で不可欠な文化的諸要因の多元性というこ とを考える。これら4つの文化領域は自立的に組織されねばならない。それらの制度 を造り出すことは、社会的相互作用を規定している。これら4つの文化領域のいずれ も、他を支配してはならない。それらは他の領域と交流を持つが、その際、自分自身 の本質的特徴を発達させることができるという仕方で、これら4つはまとめられねば ならない。シュライアマハーは、宗教に対する国家の支配要求も拒否するのと同様に、
国家や、学問、経済に対する宗教の支配要求も断念する。
2)事実的諸宗教の評価
シュライアマハーは、生きて伝承された宗教の歴史的具体性に対する興味を喚起し ようと努める。事実的諸宗教に対する興味を起こそうというのである。あらゆる無限 の力がそうであるように、宗教も独自な姿で具体化されねばならないのである。それ ゆえシュライアマハーは、啓蒙主義において非常に好まれた自然宗教(それは個体化 能力を持たない)に対して、決然と反対する。確かに事実的(positiv)なものは、そ れが絶対的に定立され、唯一の万有の啓示であることを要求するならば、硬直化の危 険をはらむ。しかし、宗教的精神は、そのような硬直状態を、常に繰り返し感激の流 れの中にもたらす。生は、個別の生としてのみ存在する。宗教的生は具体的である。
個人の信仰の活性化のために、シュライアマハーは、通常の小教区教会ではなく、個 人の共同体による教会組織的教育を支持する。
事実的宗教の評価からシュライアマハーに生じるのは、一つの事実的宗教が排他的 な要求をなすことの拒否であり、表面的拡大という意味でのあらゆるミッションの催 しの厳格な抑制、そして画一化や混合の拒否である。事実的宗教はどれも、自分自身 の歴史的発展をたどらねばならない。諸宗教の相互の法的社会的立場と、宗教的作用 とは、はっきりと区別されねばならない。諸宗教(例えばキリスト教とユダヤ教)を 法的に平等に扱うというシュライアマハーの国家に対する政治的要求は、神学的に諸 宗教間の関係における無差別の信仰を目指すものではなく、諸宗教それぞれの独自な 生を支持しようと望むことなのである。各宗教は自身の展開能力を示し、保持しなけ ればならないのである。
キリスト教に対してシュライアマハーは、特に自由のイデーを要求する。どんな信 仰の自由も、現実のキリスト教に反対する形で戦い取られねばならないのではなく、
自由はキリスト教独自の精神なのである。それは、キリスト教の起源においてすでに 無制約の自由を承認していた。キリスト教は宗教の宗教である。宗教がキリスト教に 再帰することによって、宗教批判は宗教的行為となる。キリスト教においては、宗教 自体が主題化される。この宗教の再帰性に、次の言説は根拠を持つ。すなわち、キリ スト教は、宗教の高次の発達によってこれ以上に凌駕されることはないという言説で ある。
キリスト教信仰は、単純であると同時に求めるところの多い信仰である。それは、
あらゆる時代、あらゆる場所で生全体に影響を与えようとする。敬虔、神の力、信仰 の誤謬、信仰の強化、これらがその対象である。キリスト教信仰は、歴史的過程にお いて自らを見るのである。
3)事実的諸宗教の歴史性
シュライアマハーは、事実的宗教の発展能力を、キリスト教に優先的に目を向けな がら解説する。キリスト教の歴史において、宗教の自己組織をめぐる内的な論争は、
長い歴史を持っている。16世紀の宗教改革以来、対立する教派の排他的真理要求の継 続的抗争が続いている。場合によっては一つの社会の中でそうした抗争がある。18世 紀の啓蒙主義以来、伝統的な束縛から出て、自立を求める努力によって規定された生 のあり方が形作られてきた。
キリスト教の歴史的起源は、宗教あるいはキリスト教信仰の変わることのない規範 の姿に定められているわけではない。この起源は、排他的な保持を求めていないし、
宗教的な言葉を絶対的に結び付けているわけでもない。この起源は、宗教の無限性ゆ えに、さらなる展開と可変性を目指している。起源への関連は、規範的に排他的では なく、充実と発展を目指している。起源への関連は、さらに生き生きとしたキリスト
教の歴史を可能にするのである。起源への関連が真実であると認められるのは、それ が宗教の充実を、普遍的な意味において解放することによってである。
キリスト教によって特徴付けられた文化世界の、近代における教派的文化的に多様 な経験は、古代の多様な解釈を繰り返すことを許さない。キリスト教や他の現存する 諸宗教の絶対性要求は、この要求に合った多様性の経験に対する反省の新たな段階を 要求している。
シュライアマハーは、彼の教義学『キリスト教信仰論』において、神学に対するこ の新たな要求を顧慮していた。この教義学を福音主義教会に自ら結びつけることによ って、シュライアマハーは、平和創出への重要な促しを与えている。宗教改革と対抗 宗教改革の闘争的な教派主義に対して、彼は、ローマ・カトリック教会とプロテスタ ント教会との法的な違いを概念的に理解し、それをキリスト教の本質とうまく合うよ うに示すことによって、次のことに成功した。すなわち、破壊的な論争に終止符を打 つこと、そして、教派的な真理要求の形成を、どちらの要求も軽んじることなく、そ れぞれの持つ信仰の強さと構造上の弱さと共に、大きく構想されたキリスト教の発展 史の中に描き込むことである。
終わりに
シュライアマハーは、自分の宗教理論をキリスト教を優先して発展させ、展開した。
ヨーロッパのキリスト教内部の教派的な抗争に対して、彼は、平和を造りだす戦略を 定式化した。キリスト教の信条のために定式化されたものは、より広い意味で、事実 的諸宗教にも当てはめることができる。シュライアマハーの宗教理論は、キリスト教 の地平を越えて、事実的諸宗教の平和的な共存や生き生きとした共同に対する衝動を 与えるのに相応しい。多様性の承認、自己修正の用意、補いの手段に対する関心、こ れらは正に、生き生きとした霊感による諸宗教の発展のための重要な動機である。