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「国際教育」論への一考察

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(1)

「国際教育1論への一考察  21

「国際教育」論への一考察

吉 田 道 郎

1

 最近「国際教育」(international education)ということばがしきりにアメリカ を中心として,使われるようになってきた。それは従来の「比較教育」(compa−

rative education)と区別されるような方法と内容を主張しているようにみえ

る。

 「国際教育」の語はもともと異なった国々に対する認識と理解を促がし育てる

      (1)

ための国内での教育的営みを指したようである。「理解」(understanding)の語

は普通共感的理解を意味するのであるけれども,事実を知る意味に用い,共存や

      (2)

友好に結びっかない考え方がないわけではない。国策上敵対する国家についての 知識が有用とされるという立場である。アメリカをはじめとする自由主義,資本 主義諸国家の安全と利益のためには社会主義,共産主義諸国家の実態を認識する ことが必要である,という考えが典型的である。共感的な理解を促すものを特に

「国際理解の教育」(education for international understanding)というもの

  (3)

もある。

 「国際教育」は国内における教育活動にとどまらず,国家間の文化交流計画,

相互理解を目的とする協力関係,低開発国への教育援助,異った宗教文化間の相

       (4)

互理解の営み,国際的な情報の交換までを含むと考えているものがある。

 「国際教育」は広狭二義があるわけであるが広義のそれは冷戦の恒常化ととも に低開発諸国への教育援助,他の資本主義諸国との文化交流が「共産主義の進 展」をはばみ,これら諸国の繁栄とアメリカ自身の安全に役立つという教育支配

のイデオロギーと結びつくことになる。

 狭義の「国際教育」は主として学校教育でのカリキュラムの国際化として論じ

(2)

22  「国際教育」論への一考察

られているが,これもアメリカの社会主義諸国との対立の激化と,科学抜術の相

対的立ち遅れに対する危機感と外国語を中心とする外国の知識の負弱が国際的な 支配力を弱めているという危惧の念と結びっいて国策的に論じられていて国外に

       (5)

対する営みと深いかかわりをもっている。

 以下の節ではまずカリキュラムの国際化の一部である外国語に視点をあてて考

察し,次に第二次大戦以後のアメリカによる対外教育援助の動き,さらにアメリ

カと緊密な文化交流関係を維持し,その延長として積極的にアジア諸地域へ文化 進出をくわだてている日本の役割を老察して「国際教育」が現在もつ真の意味と

その背景を明らかにする上での問題提起としたい。

 (1)Carter V. Goodは「相互理解を促進するための教材,技術,学生,教師及び技術者   の交流」といっているが,国内の教育の質的向上に力点をおいているようである。Cart

  cr V. Good(ed),1)δ66∫o%αηノof Eelucation(2nd ed.;New York:MacGraw−Hil1,

  1959),P.297.

   William Van Tilは4つの段階で「国際教育」が展開して来たと考える。第1は異   質の文化問のよりよき理解の必要性に気づかせる。第2は劇などで生徒がいかにすぐれ   たアメリカにいる少数民族がアメリカ人の生活に貢献して来たかを学ばせる。第3は

   「キリスト教,ユダヤ教全国会議」(National Conference of Christians and Jews)

  などの全国組織がいかに異った文化問の相互交流を支えているかを学ばせる。第4は現   在行われているような異なった文化間の教育をいかにするか。という段階である,とい   い,異った文化の国内における共存は国際紛争や対立の解決への一歩だとするけれど   も,国内の教育におもな視点をおいている点でGoodと変らない。 William Van Til,

  ttlnter⊥iational Education,, 、翫暇ノo伽θ伽o.f 17ducαtional k eseαroh(New York:Mac

  Millan,1960), PP.718−724・

 (2) 「国際理解」 (international understanding)のために第2次世界大戦中教育局(O

  ffice of Education)が中国,インド,日本及び東インド諸島についての教授資料を作   成した,とIsaac L・Kandelが書いていることは交戦国である日本を知るという意味

  に解釈できる。Isaac L. Kandel,7 he b n.pαct(ゾ伽1・Viαr叩o%Americαn Ealucαtion,

   (Chapel Hill:Univeisity of North Corolina Press, l g48), p. g6.

 (3)National Education Association of the U.S., Education for International Under

  standing in American Schools(Washington, D.C.:The National Education Asso

  ciation,1948)は「国際理解の教育」は青年を国際関係での複雑な諸問題にとりくみ,

  国際協力と平和の達成に貢献する能力ある市民として働けるよう準備する教育だとして   いる。R. C・Prestonは「他の国民への共感的認識と同朋感覚を生徒の中つくり上げ

(3)

      「国際教育」論への一考察  23

 る」ことだといい同主旨である。R. C. Preston, tlssues in Teaching World Und−

 erstanding・ , Teαching J> Vo2 ICI Unaerstαndiiny(New York:Prentice Hall,1955), P.1

(4)David G. Scanlon, ttlnternational Education:An Introduction, , Zntemαt・ionαl

 ECIucαtion, A 1)ocumentαry Histo7 y(New York:Bureau of Publication, Teachers

 College, Columbia University,1961), P・1.はその一例である。

2

 学校教育のカリキェラムが国策的に論じられはじめたのは最近のことではな い。第一次世界大戦の時期(1915−1922)において公立のハイスクールでドイツ 語の履習者数は極端に減少し,それに反してフランス語の履習者数が大きく増し たことは交戦国であるドイツへの憎悪の念が全国的に強まった結果と考えられ る。中でも22州が公立のハイスクールでのドイツ語のみでなく,外国語を全面的

       (1)

に禁止したと報告されている。パーカー(William Rjley Parker)はこのフラン

ス語履習の増加すらも,友好国への理解をもとうという意欲のあらわれというよ

りは,ドイツ語の没落のギャップをうめた現象に過ぎないだろうと推定してい

(2)      一

る。

(表1)

表1

公立ハイスク・一ル外国語履習者数の変遷

雛諜の1

ラテン語

フランス語

ドイツ語

スペイン語 ギリシア語

イタリヤ語

189・年1・g・・年

350.Gggl

   5ig,251

   1

 %43.97

6.52

11.40i

 」

  i3,1cii

 N1

 %

50.61 7.78 14.33

2.85

1905年

679,702

・一

 %

50.21 9.14

20,25

1.47

191C年

73,9,】43

191酬1922年

、,165,49512,155,560

   1

 %49.05

9.90

23.69

0.67

0.75

 「

 %

37.32

8.80

24.39

2.39 0.29

 %27.52

15.46 0.67 11.26 0.09 0.02

 N   T

1928年

2,896,630

1934年 1949年

4・496・S1415・399・452

 %

21.98

14.02

1.84

9,44

  1

0.05

0.081

  F

 % 16.04 10.87

2.34

6.23

0.23

7.8 4.7

0.8

8,2

0.3

註 U.S. Bureau of Education, B・ien?ziαl S・Mln,eiy qズE〔1 moαt・ion(U. S. Bureau of Edu−

  cation Bulletin Nos.23&24.)

  Modern Language Associaナion of America, Repo2 ts cゾ醜p〜聯α雇86π伽s菰n the

   / eαeh 吻げ丑鋸8蹴Lαn」(nay(es 1959.・1961.

(4)

  24  「国際教育」論への一考察

 デェーイ(John Dewey)のNS新しい教育の理撚が実用的,機能的に受けと られたこの時期に,外国語教育の必要性に教育の現場でどのような地位を与えた

かについて判断する資料として,1924年に「コモンウエルス財団運営専問委員 会」 (Committee on Administration Units of the Commonwealth Fund)は 合衆国全土にわたる15市の889名の教師を対象とした調査で現代外国語が必要度 で第6位であったとしている。またハイスクールの教科中必要性がとぼしいもの

      (3)

の順位で,ラテン語,実用美術(Practical Arts)につぎ第3位とされている。

ついでながら1917年に事実上ドイツ語の履習が消滅したときに,入れかわって増 加したスペイン語は,大戦中にスペイン語が用いられる国々との通商が増大した

         (4)

ためと考えられている゜

 このような外国語軽視の傾向が継続する中で外困語への無知がアメリカの国際 社会での指導性にとって不利であるとの強い主張がなされるようになったのは主

として第二次世界大戦以後であり,多く軍事外交にたつさわるものたちによって

発言がなされた。

 ダレス(John Foster Dulles)は「合衆国国.民は現代外国語にもっと親しまね ばならない,アメリカはこんにち地球上のいたる所で新しい任務を負っている,

にもかかわらず深刻なほど不利な状態にある。」 とのべ,外国語教育の国策性を

主張している。ユネスコの理事(Director)の地位についたエヴアンス(Luther H.Evans)はさらに具体的に「他国民の文化,心理,理想を理解することはわ れわれ自身の生存にとって不可欠となった」したがって「我々の市民の他国のこ

       (5)

とばを用いる能力はきわめて重要な国家的資源である」という。

 1948年には陸軍の広報部(Public Information Division)は,大学その他の高

等教育機関の長あてに,国家の安全に欠くことの出来ない外国語の基礎を学生に

与えることの緊急性をうったえる要望書を発している。

 こういった背景のもとに1958年「国家防衛教育法」 (National Defense Edu cation Act)が登場する。その目的として「自然科学,数学,現代外国語の教授

を強化するために財政支出」を設定し,「1959年6月末におわる会計年度に7,0 00万ドルを州の教育機関が施設,設備を購入するのにあて,出来るだけすみやか

(5)

      「国際教育」論への一 考察  25

      (6)

に現行の教育課程の不均衡を是正」しようとするものである。

 1958年から1959年まで,即ちNDEA発効後満1年に現代外国語の公立中等学

校での履習者数,特にロシア語のそれが大巾に増加したのはその効果とみること

が出来る。(表2)

      いま一つの視点はソ連による科学抜術の発達 表2 公立中等学校における1958年

   より1ケ年の外国語履習増加度を示した宇宙開発に刺戟された教育競争意識

幽加率

スラフドイロそ

ペイ丁

テ ン

ラ ン ス

イ ツ

タ リヤ

シ  ア

    の

註Modern Language Association  of America前掲書P.16。

       (7)

なければならない。

 連邦政府による教育干与,それに伴う支出の増大の正当化は教育が国家経済に 対して収益性の高い投資であるという「教育投資論」がケネディー大統領によっ て押し出されて来たために一層補強されることとなる。1963年2月のt「青少年に 関する議会への特別メッセージ」 (Special Message to Congress on℃ur Na−

tiOll s Youth )の中で彼は「国家が我々の青年市民の利益を推進し保護するこ

とは,ただ基本的な人間の価値という点のみでなく,社会,経済の面からも極め

       (8)

て大きな利益をもたらすにちがいない投資なのである」といっている。

 連邦の教育支出と,州との連携はジョンソン大統領にも引つがれ拡大されてい

急募こういう傾向は同時に憲法に定める宗教教育の規定に関連して,私立学校,

特に教区学校(parochial schools)への州を介しての連邦の支出が認められない

という原則も部分的に変更されてはじめて公,私立学校に公平に,国策的部分に ついては助成をすることが出来るわけだが,このような利害関係の障害をものり

こえさせるほど危機意識が強いと云える。

語    15.2%

口口       3・81

語    25.6 語    32.5

詔    一4.6

融i 85・81

      

他  16・司

のあらわれとしての教育改革であり,外国語教

育はこの面からも論じられて来た。

 アメリカの教育が先ず何よりも個人市民の育 成をめぎす筋の上で多くの教育改革が正当性を 得てきたし,またそのために教育は基本的には 地方の自主性(州権)にゆだねられて来たのだ が,その伝統が変質を余儀なくされ,連邦の利 害=国策が正当性を得て来たという点は注目し

(6)

  26  「国際教育」論への一考察

 国策性,国家安全意識と他国民との共感的理解とは対立するものでありながら 峻別しないで論じられているために状況によって偽隔性を表すことになる。「我

々は必ずしもロシア語,その他の外国語の学習を国防上の必要だけで正当化する

わけではない。ロシア人やその他の国民はおおくのすぐれた伝統,科学知識ま

       (1o)

た偉大な文学・文化上の価値をももっている」というとき,国策的なプログラム と純学術上のいとなみとが協調し癒着する可能性を含んでるのである。

 アメリカ全土にわたってさまぎまな意図と機関によって「国際教育」の活動が

くりひろげられており,参加者がこれらをその意図,性格によって取捨選択が困

難であるのは,これらのいとなみがさもなくば国際性が一般に欠けている教科課

程の中で溺点をともかく葡役割繰してし・るからで認。聯的鰍育醐

は教科課程の弱点に乗ずる結果をもたらすのである。

 (1)Willi・m Ril・y P・・kcr・ / 1・e ・V・ti・nal 1・tcl est・…価吻L・・脚 ・・(Di、c。ssi。n

  G・id・and W・・k P・per I・iti・t・d by th・U・S・N・ti・n・l C・mmissi・n,1954),P.77.

 (2)同上書。

(3)G…g・S・C・unt・,・Sen.i・r Hi」(hε・hool C ?L・viictLe?m n.,(Chi・ag・・U・iversity。f Chi

  cago Press,1926), P.P.138,139.から用いた。

 (4}この時期における学校教育は国家主義的色彩が濃厚であることを小学校の教科書の分   析を通して示したのはルース・ミラーである。Ruth Virginia Miller, ttSchool Text

  books鱒d Nationalism in American Education (Unpublished Doctoral Dissrtati−

  on・Columbia University・1952)(Microfilm)この時期にいちじるしく示されている   のは交戦国のドイツと同盟国だけでなく異民族に対する一般的蔑視であるという。また   外国語履習者の減少を説明する他の点として,1917年のスミス・ヒユーズ法(Smith   Hughes Act)による職業的教科の連邦の援助が間接的に外国語を圧迫したこと,また   1919年に「中等教育改編委員会」(Commission on the Reorganization of Secondary   Education)による中等教育の再検討を意味する「申等教育の7基本原則」(Seven

  Ca「dinal P・i・・iples・f Sec・nd・・y Educati・n)によ・て,生活に則した教科が・博教   育において主張されたことなどを抜いて考えることは出来ない。

 (5)Parker前掲書P.P. iv, v.

 (6)U・S・C・d・:C・ugressi・n・1 and Admi・i・t・ativ・N・w・,85th C。ngress, Sec。nd   Session,1958(Laws), P.P.1901−1904.

 (7) 「教育競争」が連邦の教育干与の理由となっていることは高倉翔「アメリカにおける

  教育改革」 『現代教育科学』1963年11月に指摘されている。

(7)

「国際教育」論への一考察  27

(8)John F. Kennedy, Special Message to Congress onて℃ur Nations Youth・ 1963

 年2月。

(9}1968年12月現在NDEAにより30億ドルが支出され63の大学で外国語,外国文化に関  する講座の拡張に対して援助がなされ,小中学校では理科,数学,外国語などの「重要  な」教科の授業の改善のために出費されたと報告している。 (American Embassy・

 Tokyo,Pα君φo Bridye,Vol 12, No・12・, December 1968・)

⑳ Sylester B. Brownell, ttNational Federation of Modern Language Teachers

 Association, ]foalern Lαnyuαye・Journal, May 1955, P・22L

(11)Percy W. Bidwellはアメリカの4年制大学の各専攻の卒業生がどの程度「直接的」

 又は「間接的」に外国に関する講座を受けたかを詳細に分析し,社会科学専攻274名中  1.8%が4年間に充分な外国についての知識をもたらすような少くとも一つの講座をと  ったに過ぎず,自然科学,人文学,経営学 工学の学生はさらに外国についての知識欲  や履習上の必要性が低いことから,全体として極めてとぼしい外国についての知識しか  持たず,改革が要請されると説いている。Percy W・Bidwe11,0ηdθ妙翻顧θEdiuration

 in 1砺吻πA.f.fairs(New York :King s Crown Psess,1962)

3

 (1)において広義に定めた「国際教育」で,国外への,アメリカによる教育上の 営みがいつから展開したかは連邦の関与の指標を何に求めるかによって定めにく

い。ここでは第二次世界大戦以後,国際的な教育援助,文化交流が,自由主義二 資本主義諸国と社会主義諸国との対立関係で,思想的に後進諸国の人民をひきっ

ける意義と任務をもつようになる過程の教育援助の流れを概括し,特にケネディ

大統領の就任以後,従来の援助計画に転機を迎えた1960年以後の特質について考

   (1)

察したい。

 アメリカの後進諸国援助の転機の要因は第二次世界大戦以後行なって来た「マ

ーシャルプラン」をはじめとする,アメリカにとって寛大と思える援助計画にも

かかわらずアメリカの威信と人気は下り坂となったことを知り,特に後進地域で は民衆の反機から新らしい援助の方向を打ち出さぎる得ないと感じはじめること

にはじまる。

 1961年3月の海外援助計画についてのケネディ大統領の教書はこの事情を端的 に物語っている。すなわち「1960年代に入るに当って現在の海外援助計画とその

(8)

  28  「国際教育」論への一一s考察

構想は必ずしも妥当なものではなく,われわれの意図するところとは食いちが

      (2) い,また後進諸国の要求にも適していないN彼は述べている。」

 こういった海外援助方式再検討のあらわれとして登場したのが1961年の「国際

開発法」(Act for International Development)である。同法は依然として「開

発のおくれた友好的な国々と地域の経済開発の推進」を基調とするけれども「特

に技術上の協力と開発のような手段を通じての入的資源の育成を援助することに 力点を置き・教育と人的資源以外の開発を目的とする資本財に対しては,適切じ

ゅうぶんな知識と技術力瀾発出来るにいたるまで朧二義的優先性鱒懇」と

している。

 経済の繁栄と政治的独立(議会主義の採用)こそ国内からも,国外からもNX共 産主義的侵臨に耐えうる抵抗力を作り,これがアメリカの利益とも一致するわ けだし・旧い植民地主義の体験から避けえなかった「アメリカの軍事,政治,外 交に対する敵意や疑惑があろうがなかろうが……アメリカの技術,教育援助と文

       (4)

化交換計画はこころよく迎えられて来た」という自信のもとに後進国の弱みをた

くみに利用しているといわねばならない。

 後進諸国に対する援助としては「平和部隊」(Peace Corps)は屋上屋の感があ る。ロイ・フーtプス(Roy H・Hoopes)は「平和部隊」の着想はウィリアム・ジ

ェームズ(William James)にさかのぼるという。ジエームズは青年から徴集し

た平和軍に自然に対する戦いを挑ませることは世界の不幸な人達を助けることに

なるだけでなく・参加者にも刺戟を与え教えるところが多いという考えから,第一

次大轍の青年の灘と臓性鍵全な博愛心に復帰させようと考えたといら?

 「平和部隊」が援助そのものから,国内の青年問題の処理に力点をおくという 一石二鳥をねらっている事情はケネディ政権下の青少年問題がいかに深刻なもの ととらえられているかに示されており,その中心をなすものは極めて高い少年犯

    (6)

罪率である。その社会的ゆきづまりの打解がいかに急がれたかはその創設の性急 さにみられるといってもよいであろう。即ち義弟シュラィバー(Robert s. Shri−

ver)の提案に対し,2日後に行政命令を発して創設し,事後議会にメッセージ

を送り,暫定措置として部隊を編成したことを通告した,といわれる。そしてこ

(9)

「国際教育」論への・一一一考察  29

れがどれほど国民の夢をとらえたか,既存の対外教育援助とどれ程ちがった画期 的なものとして国民の目に映ったかは「ホワイトハウスに寄せられる大量の手 紙」に示され,それはケネディ大統領のどの政策よりも大衆をとらえた,と報ぜ

  (7)

られる。

 AIDが,経済的側面からの援助から主として技術,教育援助に力点をおこう

とするものであったが,抜術,教育援助すらも多く不評をかい,ことに現地政 府,支配者層には歓迎されながらも人民大衆からは遊離し反擾をうけている現実 への試行錯誤的くわだてとみることが出来る。「ラオスその他の国々でアメリカ

が政府の信頼を獲i得しているかどうかについてはかなり疑問があるとしても,国

民の不信を買っているという点については議論の余地がないほどはっきりしてい       (8)

る」とフープス(Roy H. Hoopes)は「平和部隊」に期待をつなぎつつ云う。

言主         、

 (1}組織的な教育文化交換計画は「余剰物資法」(Surplus Property Act of 1944)の改

  正としての「フルブライト法1(Fulbright Act of 1966)にはじまると云える。これに   っいで1948年の「スミス・ムント法」L(Smith−Mundt Act)により広範な活動分野と,

  余剰農産物の処分によるドルの新たな使用を保証し,更に1952年には戦時余剰物資売却   以外のドル支出を可能にし,1961年に活動に矛軟性を与えた「フルブライト・ヘイズ

  法」 (Fulbright−Hays Act)と変遷した。

   1967年の奨学金受給者はアメリカ人2,114名,外国人5,264名,1949年から1967年ま   での受給者(留学者)はアメリカより諸外国へ34,255名,諸外国からアメリカへ84,585   人であると報告されている。(文部省大臣官房編集,「文部時報」1968年12月,p・62)。

   このほか,1949年「ポイント・フオァ計画1(Point Four Program)及び1950年の   「対外援助法」(Foreign Assistance Act)は積極的な外国援助の意義づけとなった。

   個4の国への文化,教育援助としては1949年の「ブインランド交換法」(Finnish   Exchange Act)は第1次大戦の借入金を教育交換に用いることを認め,1951年「イン   ド緊急食糧援助法」(India Emergency Food Aid Act)は食糧援助の返還利子を教育   交換にあてることを認めている。

 (2)1961年3月22日のケネデa大統領の教書。

 (3)Act of International Development of 1961. Public Law 87−195,87th Covgress

   September 4,1961・

 (4)R.Freeman Butts, A ?.ericαn Edeecαtiou伽lnternαtionαg 1)eQ・elOpment,(New York:

  Harper&Row Publishers,1963), P.24.

 (5)Roy H, Hoopes「平和部隊読本」1961年,時事通信社,坂西志保訳PP.17−18。

(10)

30  「国際教育」論への一考察

(6)President John F. Kennedy/s Special Message to Congress on更℃ur Nation s

 Yonth, February 14,1963.

(7)Hoopes,前掲書P・68。

(8)同上。

4

 このようなアメリカが主体となっての教育援助計画から一歩進んでアメリカを かなめとする政治,軍事同盟の中にある経済的中進国に,隣接諸国への教育援助

を託し,アメリカの文化政策をいわば肩代りさせようという意図を表すときアメ

リカの国際教育は新たな時期に入ったとみることが出来る。ライシャワー(Edw in(). Reischauer) はアメリカ人がアジア人との育ちの差のためにアジアで受け

いれられにくいが,日本人にはそれが容易であるから,アジアにとってモデルと       (1)

なりうる「近代化」を基盤として,日本はアジアを指導する役割をもつという。

日本の経済的発展は資本主義を採用し,アメリカの方式を模範して成功をおさめ

たものであるから,日本がアジア諸国から受け入られることは,またアメリカの 経済,政治,思想体制が容認されたことにほかならない,との立場はアメリカの

支配層に定着することとなった。1962年,国務次官補であったアレクシス・ジ・

ンソン(U.Alexis Johnson)は「後進諸国が体験しつつある諸問題に比較的最 近直面し,それを解決しなければならない立場におかれた一つの大工業国として

日本はこれら(アジア)の国々に対して強力な手本としての役割を果しうるし…

…私的企業を通じての進歩の可能性を示すすぐれた見本である。」 という。そし

て,政治的役割としては「日本国憲法が課している制約と,軍事的役割について の政策にかんがみ」広い意味での任務を痛感するならば「現在以上の水準で経済 援助,投資を(発展途上にあるアジアの国々に対して)することをのぞむにちが

いない」とする。「自由世界全体はアジア諸国は共産主義がそれらを支配しよう

という多様な企てを排して,継続的に独立を確保することに強い関心をもってい

      (2)

る」と考えるからである。その底にあるものは徹底した反共思想でありアメリカ

が日本を先兵として自ら果すことの出来なかった役割をアジア諸国において負わ せようとするものであり,特にその意図が教育援助に向けられるとき,「政治的

(11)

      「国際教育」論への一考察  31 独立を認め」ながら,たくみに自らの思想を浸透させる新植民地主義の様相を呈

   (3)

して来る。

 日米文化会議がアメリカ側における右のような認識を日本の支配層がわかちも ち忠実にアジア後進諸国に適用しようとするものであることは,それの第四回会 議(1968年4月,ワシントンD.C.で開催)で「日米両国における経験を他の諸

国の教育の発展の上でわかち合う」ことを,意見の一致をみた,優先的にとりく       (4)

むべき問題の中にかぞえていることで明らかとなる。

 次に平和部隊の日本版ともいうべき,日米の役割分担ともいうべき営みは「日

本青年海外協力隊」である。この動きを求めたのはアメリカ側であったことは,

1967年にジョンソン大統領が,平和部隊に従事する奉仕的青年たちよりすぐれた 国使はない。だから,他の国々からもアメリカへ同じ様な国使を迎えたい,とい う「相互性」をのべたということから推定出来る。1963年7月から8月にかけて 自由民主党はアジア後進国にむけての青年奉仕隊にかんする懇談会を開き,これ

       (5)

に対して,おおむね保守系青年団体が協力の態度をあきらかにした。この動きは 池田内閣の政策の中に組み入れられ,1964年1月の施政方針演談に表われている が,限られた傾向の団体に属する青年たちが真に相手国の人民のこころざす形で

       (6)

の「経済的,社会的開発に協力」しうるか否かは疑わしいにしても,過去のアジ ア諸地域への侵略の事実を免罪し,類似した思考を相互に補強し合い,宣伝し合       (7)

っている事実は否めない。

 いま一つ見逃すことの出来ない事実として1965年バンコヅクで開かれた,アジ ア文相会議での要請にもとつく,従来からの教育援助計画の拡充である。即ち19 54年にはじまる東南アジアからの留学生受けいれを80名(1967年)に増加しよう

とするものであり,一方教育指導者の養成が必要であるとみて,「アジア地域教

      (8)

育センター一」の開設をくわだてている。一方1966年には「日本国内と参加国の考

え方がつかめ,思想統一が出来た」(椎名外相)として「東南アジア開発会議が 東京において開かれ,開発の基盤となる教育および職業技術訓練の進歩のために 地域的協力が必要であることを認め,さらに具体的に「発展途上にある国は,こ れら諸国に対する援助を(日本の)国民所得の1%にまで拡大し,そのかなりの

(12)

  32  「国際教育」論への一考察

部分を東南アジアに振りむける。という日本の声明を歓迎し。」「前向きな日本の

       (8)

態度を歓迎した。」 と報ぜられる。ここで同会議の性格をいちじるしく特徴づけ るものとして,はじめ日本政府が用意したといわれる「政治的立場の違いをこえ

て」というコミュニケの部分を,反共色の濃厚なフaリピン,南ベトナム,タイ

       (9)

などの要求で削除せざるを得なかったことである。「進歩のための地域協力」が いかなるものであるかを明白にものがたったといわねばならない。会議の内容に 関連して,各国共同の技術者養成機関として,「東南アジア大学」を設立する機

運が生まれたが,「設立には協力し.1「教授の派遣などで協力する」ことを日本

        (10)

政府は約している。 1966年10月の「国際教育法」 (International Education

Act of 1966)は,戦略性を前面に出してはいけないけれども,以上のような

「役割分担の背景に立って考えるとき,それはきわめて国策的な連邦による教育

       (11)

政策の一環であることが明らかとなる。

 社会教育の面では,NHKが中心となって「アジア放送連盟」が1963年5月,

韓国のソウルで結成大会を開いたことを指摘しておきたい。これは世界にも類の

少ない反共放送連盟の性格をおびている。

 (1)杉尾敏明「E・0・ライシヤワーの日本『近代化』論批判」『国民教育研究』37臥,

 ② U・Alexis Johson, ttJapan s Role in World Affairs, Amerieαn Po♂楠αz期プα甑

  May 1963.

 (3)教育における「新植民地主義」の特徴とアメリカの役割については小沢有作「新植民   地主義と教育」『講座,民主教育の理論』下。鈴木朝英編,1967年明治図書にのべられ

  ている。

 (4}American Embassy, Tokyo, Pα6ザ o Briclge, VoL 12, No.5, May,1968.

 (5}末次一郎「未開と貧困への挑戦一前進する日本青年平和部遂」1964年,毎日新聞,に   事II青が詳しい。

 (6)前田利郎「ニツポン平和部遂」1967年毎日新聞。

 (7)同上書に現地住民へ「ニッポン平和部隊」が侵透してゆくさまがのべられている。

 (8) 「毎日新聞」1967年3月9日。外国人学生の受け入れ並びに日本政府による教育援   助,協力活動については文部省官房編「文部時報」1968年,12月にくわしい。

 (9) 「朝日新聞」1966年4月8日。

 ⑩ 同上。

 圓 「世界的な指導性を確保するために必要な条件をみたすために,連邦政府が国際研究

(13)

      「国際教育」論への一考察  33 の資料と人材の開発に支援を与え,現在ある,また将来期待される諸計画に連携をもた せることが必要であり,適切で」あるとのべ,①大学学部での国際研究の拡大,②教 授,研究,カリキュラムの改善,③外国における大学教授の研修,④外国語講座の増 設,⑤外国における研究,勤務をかねた旅行,⑥客員教授としての教授の招へい,⑦外 国からの教師,教授,学生にたいする英語訓練の機会の設定などのために連邦の支出を

行ないうる,としている。 (Internatinal Education Act of 1966・Public Iaw 89−

668,8g th Copress, Octoher 291966.)

お わ  り に

 諸国民の友好と相互理解をつよめる教育は本来理想主義的なものであったよう である。この営みは国際緊張。とくに資本主義諸国と社会主義諸国との緊迫した 対立関係が意識されるに従って,国策的なものと変質し,国内においては強烈な 反共教育思想と結びつき,国外に向けては後進国の思想的・文化的支配を意味す

る,新植民地主義の一環となった。

 指摘されなければならないのは,アメリカ国内にあっては,歴史的,法制的制 約のために生まれてきた国際性の欠如,立遅れを反省し,アメリカを国際社会に 復帰させたいとねがう理想主義的教育者に乗ずることとなり,国際的には,強く のぞまれる経済開発援助の一環としての教育,技術援助にだき合せて,資本主義

を「唯一の正当な民主主義形態」とする反共的文化支配を行なうこととなる。

 日本はアメリカの経済圏にすすんで入ったアジアにおける経済的先進国であ り,「日本の道」こそアジア後進諸国の進むべき道であるとして,日米両国が役 割分担を行ない,アジアにおいてアメリカが果し得なかった事業を進んで肩代り するために,アジア諸国の盟主としての地位を確立しようとしている。それは新

しい形での「大東亜共栄圏」の復活の意図であると云うことが出来る。

 このような状況にあって「国際教育学」はいまや国による国内,国外への教育 支配のイデオロギーとして広く用いられて来ていることに注意しなければならな

い。

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