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フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(こ

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(1)

︻研究ノート︼

フリースの﹃心理的人間学ハンドブック﹄について︵こ

速 川 治 郎

︵一︶

 フウ:スはこの書を一八二〇年に出版し︑一八三七年にその第二版を出したが︑その内容に変化はない︒唱七年

たっているが︑思想の変化はなかったわけである︒それだけ思想が堅固であったということになる︒それ以上のこ

とは今ここでは述べないことにする︒この書を論ずる前に﹃フリース全集﹄の編纂者ケ七戸ッヒ︑ゲルトゼッッァ

ーの緒言の内容を概説しておきたい︒その方がなにかと便利だからである︒

 ﹁理性批判がなけれぽ︑いかなる純粋哲学も明々白々に形成することができないが︑しかし心理学がなけれぽ︑

いかなる理性批判も理解することができない﹂︒フリースのこの文は﹃心理的人間学ハンドブック︑あるいは人間

精神の本性についての学﹄を公版した理由になるであろう︒彼は次のようにも言う︒﹁一般に認められる心理学的

な言語使用を学則に準拠して決めるということには現在まで大きな障害が立ちはだかっている︒心理学は内的な

早稲田人文自然科学研究 第33号(S63.3)

179

(2)

︵心の中の︶経験の︵科︶学として形成されなけれぽならない︒認識時の人間の精神活動の諸性質︑つまり或るこ

とをしたい気持︑欲望︑有意的行動︑これらの記述が先の︵科︶学の基礎にある︒そして︑a︑あらゆる形而上学

的仮定︑b︑人体構造についての生理学的法則から精神的なものを説明しようとするあらゆる試み︑c︑更に博物

学において身体上の差違があるということから借りて来るあらゆる説明︑以上三点に先の︵科︶学は拘束されはし

ない︒...﹂︒︵1︶フリースは心理学の根本思想として︑悟性︑すなわち自己支配力︵これによって人間は自己

自身を形成することができる︶の中にある人間独持のかなり高度の能力を明確にし︑そこで心理的人間学の仕事全

体を意識の︑すなわち自己認識の科学的形成として規定し︑意識の︑すなわち自己認識の能力を精神解明の能力と

みなすということを主張する︒このことによって彼はライプニッツ主義者として認められる︒が︑そこにはバゥム

ガルテン以前のライプニッツ主義がある︒それもそのはず︑パウムガルテンは感情の低知覚︵℃o葺ωづ①容︒℃島︒旨ω︶

から︑認識する意識の統覚︵巷づ︒﹁︒o℃謡︒づω︶に至るまでの連続した心理現象を強調し︑前者の後者への転換を哲学

の中心課題とするからである︒

180

 フリースはこの点を哲学史の観点からではなく︑むしろヘーゲルとの対決の中で明白にしょうとした︒﹁こうし

て私はヘーゲルに対立する極めて特殊な関係にある︒⁝哲学史は悟性の自己認識の発展である︒しかし︑この

悟性は私にとっては人知であり︑これは自ら思索するものが社会生活を送る中で形成されて行くものである︒これ

に対してヘーゲルは徐々に意識される世界精神を考えている︒このことによって︑われわれ二人の考えは哲学史を

述べる際にも再び全く別々になってしまう︒たとえ哲学史に彼が望んでいる非常に多くの点で彼と私が一致してい

ても﹂︵一八巻︑組頁以下︶︒

(3)

フリースのr心理的人間学ハンドブヅク』について(一)

 フリースは真理感情論の中でもヘーゲルから離れている︒﹁われわれはわれわれの真理感情からの発言を分析す

ることを哲学的研究内の最初の仕事と見る﹂︵二四巻︑四七五頁︶︒ここからヘーゲルとの関係を端的に表現しようと

するならば︑フリースの哲学は感情の現象学として︑ヘーゲルの﹃精神の現象学﹄に対立すると言えなくもない︒

 フリースは﹃心理的人間学﹄の中で真理を把握することと真理を感じることとの関連を考える︒すなわち﹁真理

を把握することと真理を感じることとの関係を真に︵科︶学的に明白にすることがわれわれにとって初めて求めら

れる︒そして︑このことは悟性がその関係状況を深く説明することによって生じる︒把握することと感じることは

われわれの精神の全く一つの思考力に︑あるいは判断力に所属する︒その力は自己支配力であり︑われわれの生活

を意志により内的に︵心の中で︶行う力である︒そして︑これらの力が表象と認識とに応用される︒その結果われ

われの精神特有の力によって︑かなり高次の自己認識がわれわれの心の中に形成されるのである﹂︵一巻︑五六頁︶︒

 彼は常に名辞説明と事実説明とをはっきりと区別する︒このことによって後に﹃新理性批判﹄︑﹃形而上学﹄の中

心になるものを彼は語る︒﹁把握することのない思考はないし︑思考のない悟性的精神活動もない︒このことは名辞

説明によれば全く正しい︒しかし事実説明によれば︑把握することでもって思考の本性は解明されず︑むしろ︑す      アウフフアツセンベての把握するということの基礎には︑感情として真理の直接的︑内的︑有意的な捕 捉が意識以前にあり︑また

真理の直接的な判定がある︒この判定は思考の中で最も固有な︑最も内的な力である﹂︵一巻︑五六頁︶︒﹃形而上学﹄

の中では﹁どの認識作用もわれわれの精神の活動である︒だから︑すべての認識は内的経験の対象︑従って心理的

人間学の対象である﹂︵八巻︑一〇四頁︶︒純粋理性学を探究する思弁︑経験的思考の有意的規定としてある思弁すら

も極めて重要なものである︒︵有意という意味はフリースによると次の通りである︒﹁私は﹁有意﹂の意味を行動し

181

(4)

ようと決断する場合に出て来る欲望によって規定される活動力ととる︒従って﹁有意﹂とは人間においては︑﹁意

志﹂によって︑すなわち思慮のある欲望︵<oδ鼠ロaoqo切Φσqδao︶によって営まれる活動力という意味であるL

(一

ェ︑四二頁以下︶︶︒この思弁︑従って哲学的思索をするこつは内的な︵心の内の︶自己を観察することである︒そ

のこつはあいまいな表象を捕捉し︑それを明白にするものである︒そのこつはいわぽ鋭い心眼であり︑特定のもの

の観察によって︑まだ分解されていない表象が分解され︑このことによって同時に表象全体へ秩序がもたらされ得

るのである︒哲学だけでなく︑内的な自己観察に完全に依存する極めて難しい心理学の部分もただこの思弁によっ

てのみ形成され得るということ︑だから哲学を教える幸運は思弁のこのこつによって心理的人間学と全く結び付け

られているということ︑これら二つのことが容易に分かる︒

 フリースの考えは心理主義だという非難が出そうな言い方をしている︒すなわち︑彼の心理的人間学の一部であ

る哲学的人間学は形而上学に依存していないのであり︑哲学的人間学の諸法則から︑すべての哲学的演繹が出て来

るのであり︑更に︑この演繹により哲学を学的に取り扱うことがでぎるのである︒そこで哲学的人間学はすべての

哲学の根本学である︒その学の使命は︑人間精神の内的現象を理性生活の根本法則に連れ戻すことなのである︒し

かしながらフリースは心理主義者ではない︒彼は経験的心理学の形而上学的基盤をも強調しているからである︒す

なわち﹁他面では︑われわれは︑形而上学なしに心理的人間学の正当な論述ができると望んではならない︒すべて

の経験認識︑従って内的認識にはその基礎として哲学的諸形式がある︒内的な︵心の︶本性の形而上学がある︒そし

て︑この形而上学が内的活動の基礎概念︑その活動程度︑精神の能力等々を決めてくれるのであり︑内的な︵心の︶

本性を記述する際に先の形而上学についての諸命題が述べられないでいるわけには行かないのである︒だから︑そ

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(5)

フリースのr心理的人間学ハンドブヅク』について(一)

の諸命題を避けようとするならぽ︑その記述は欠陥のあるものとなる﹂︵一巻︑一〇頁︶︒こうして彼は哲学が独善的

になることを防ごうとする︒﹁日常生活において使用される言語のレベルできちんと分かることがある︒それは︑

われわれが悟性の助けによってのみ︑有用なもの︑道徳的なものを感覚的に気持ちのよいものから区別し︑この気

持のよいものを乗り越え得るということである︒また先のレベルで︑その悟性により人間形成が完全に行われ︑人

間が動物的本能を越えて立つということが分かる︒更に先のレベルにおいて︑われわれが悟性によってのみ思慮深

い決断や慎重な行動を取り得るということ︑この行動の際︑悟性が感覚的欲望︑心情運動︑激情を押さえ付けると

いうこと︑この二つのことが分かる︒しかし︑目常生活において使用される言語は再三再四誤解され︑概念と感情

との間の混乱した争いの中へ巻き込まれる︒それも︑その言語が規定された概念に従って判断するという能力のみ

を︑その悟性と考え︑その悟性を同時に︑また主として自己支配力︑性格の道徳的意志と認めない時にである︒

 ところで︑悟性がそういう意味を持った場合︑悟性と理性との関係はどんなものであろうか︒

 その関係の言明をわれわれは日常言語の使い方から借りて行うことはできない︒なぜならぽ︑悟性︑理性という

二つの言葉を似たように使う日常言語の使い方は厳密性︑明確性には程遠いからである﹂︵一巻︑五八頁以下︶︒しか

し︑このことは言語を基準とすることを断念するものではない︒なぜならぽ彼はそのような基準を置くことに成功

しているからである︒すなわち﹁われわれは︑悟性︑理性の能力を推理しようとするのでも︑またカテゴリーの能

力と異った理念の能力を推理しようとするのでもなくて︑むしろ直接的認識の自己活動のみを理性と呼び︑純粋理

性の意味を諸原理による直接的認識の能力と取ることによって﹂︵一巻︑六〇頁以下︶︑成果が得られている︒すなわ

ち︑彼によって述べられた悟性︑理性に対する一定の解釈は恣意的な言語規定ではない︑つまり法則に結び付いた

183

(6)

意志に反対する偶然的な好みでできた言語規定ではない︒﹁そのように解釈することが鋭い学的概念規定になると

するならば︑ドイツ語を使用するという方法から言って︑そう解釈せざるを得ない﹂︵一巻︑六一頁︶︒

 フリースは日常の人知︵σqoヨ︒ぎ興蜜①昌ωoげ︒恥く︒﹁ω8口α︶と良識︵σqoω口出α興竃Φ旨ωoげ︒旧く震ω欝ロα︶とを区別して︑

このことを論理学の中の偏見論に関連させている︒しぼしぼ日常の人知はこの上なく愚かなものとなる︒日々の仕

事をする場合︑われわれの判断を忍びく感情をも生活上不可欠ないわば先導老とわれわれが取るならば︑ブリ!ス

はこのことに危険を感じる︒すなわち﹁なんらかの感情を持った場合︑そこのところであいまいのまま前提された

      びゆうものは同時に間違いを犯す切っ掛けとなる︒というのはその基礎に︑われわれがもともと習慣︑教育︑誤謬推理に

よって持った軽率な偏見が知らず知らずの内にあるからである︒そして︑偏見を言葉に上らせないようにする思考

過程を偏見が押さえ付けている﹂︵一巻︑二〇二頁︶︒だからフリースが教育︑教養を必要とする意味が生じるのであ

る︒ 自己支配︑自己形成の課題は個人的なものとしてあるだけでなく︑社会的なものとしてもある︒﹁すべてのわれ

われの判断の根拠︑地盤を堅固にすることは︑個人にとっても︑更に全国民にとっても必要なことである︒⁝       せき国民が公の生活の中で︑いろいろと判断をする場合あいまいのままになっている前提を徐々に純化︵明晰に︶して      や行くということは人間の歴史の中で真の精神陶冶を続けることになる﹂︵一巻︑二〇二頁︶︒そこで﹁一般心理学全体

は倫理学を自然に準備するものとなる﹂︵一巻︑四八頁︶︒この考えは時代が経つにつれて消え去ってしまうものでは

ないであろう︒

 フリースは最初︑︵一般︶心理学︑心理学の予備学︑理性批判︑︵心理的あるいは哲学的︶人間学という語を同義

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(7)

的に使っている︒ケーニッヒ︑ゲルトゼッツァーはその証拠を細かに挙げているがここではそれを割愛したい︒

︵二︶

フリースの『心理的人間学ハンドブック』について(一)

 フリースは﹃ハンドブック﹄の序文で心理的人間学の課題︑その方法の規則について述べている︒まず注目すべ

きことは︑人間の本性学として三つの学があることである︒それは9人体の生理学︑つまり人体人間学︑口心理的

人間学︵心理学︶︑日比較人間学である︒eは人間の身体の本性を︑口は人間の精神の本性を︑日は人間の身体と

人間の精神との相互関係を研究する︒これらの内国がフリースによって取り上げられる︒心理的人間学は理論学で

あり︑広義の自然科学である︒それと言うのも精神の自己観察という事実が普遍法則からか︑あるいは人間精神の

本性から説明されるべきだからである︒そして心理的人間学には二つの分野がある︒㈲人間精神の内的現象が経験

になるが︑その現象から組み立てる本性記述があるのに対して︑ω現象を普遍法則から説明しようとする理論︑あ

るいは本性学がある︒ヴォルフによれば㈲は経験心理学であり︑㈲は合理的心理学である︒しかしフリースはこの

ヴォルフの区別には反対する︒なぜならぽ︑どの科学においても記述と本性学︵説明︶は明白に分かれず︑両者は

様々な度合いで混合しているからである︒カルスは人間精神の本性一般︑人類の普遍法則を研究するものとして一

般心理学を挙げたが︑フリースによれぽ︑この語は本性学と極めてうまく通じ合うものがあり︑フリースの哲学的

人間学の課題にもつながる︒哲学的人間学の理論は︑哲学と全く特殊な関係を持っており︑形而上学に左右される

ものではなく︑哲学的人間学の理論の法則から︑哲学を広義の科学として検討するに値するという哲学的演繹が生

185

(8)

じる︒哲学的人間学はすべての哲学の根本学であり︑その人間の課題は人間精神の内的現象を理性活動の根本法則

に還元することである︒

 フリースは言う︒﹁心理的人間学の学的方法は理論的自然科学一般に示されたすべての規則に従わなけれぽなら

ない﹂と︒この言い方には心理的人間学が自然科学的色彩を濃くしていることが感じられる︒

 心理的人間学︑人体生理学︑比較人間学は相互に結び合った学であるが︑心理的人間学と人体生理学は理論的学

として全く別々の体系を主張する︒精神生活が説明根拠として必要とする理論は人体論の基礎付けにはならない︒

心理的人間学は精神としての自己を認識する内感によって明らかにされ︑多くの経験によってその人間学の内容は

豊かになる︒心理的人間学は表象︑認識︑意欲感︑努力意志︑すなわち︑われわれの精神の性質は身体の性質とし

ては認識されない︒人体生理学は心理的人間学と違い外感によって解明されるのであり︑空間の中で形成され︑し

かも運動する生体の性質を観察するのである︒

 比較人間学は理性的生物の精神機能と身体機能との相互比較によって展開される︒この比較はフリースにとって

も重要である︒しかし︑彼はそれによって精神的なものと身体的なものとが同一になると言おうとしているのでは

ない︒精神は決して身体ではなく︑身体的特性を持たない︒この点でヘーゲルが精神は身体︵骨相学上の骨︶であ

り︑身体は精神であると言うのとは違う︒現代科学におけるDNA︵デオキシリボ核酸︶︑すなわち遺伝子の本体

を構成している高分子化合物が遺伝をつかさどっている限り︑精神を支配しているとも言えるが︑高分子化合物が

精神の働きそのものとは言えない︒が︑その化合物がフリースの言う身体的なものでもない物質である︒しかし︑

それは物質そのものではなく︑遺伝子の本体である︒その限りで︑それは身体的なものであり︑精神的なものでも

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(9)

フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(一)

あると言えなくもない︒しかし︑やはり︑それは精神の働き︑性質そのものではない︒

 哲学的人間学においては︑精神の本性はわれわれの感覚的理性の統一によって理解され︑説明される︒

 すべての理論科学はア・プリオリな認識の二つの形式︑哲学的形式と数学的形式を持ち︑前者は難問題を抱えて

いる︒どういうことかと言うと︑心理学において︑内的︵心の内の︶本性の形而上学に出番を与えることに特に注

意しなけれぽならないということである︒なぜならぽ︑その形而上学の要求を退けることも強調することもできな

いからである︒フリースは現に生きているわれわれの精神の本性に制限する︒だが彼は形而上学なしに心理的人間

学を正しく取り扱えると考えてもいけないとする︒

 内的知覚︑意識は自我の様々な活動を提示する︒この精神活動を精神能力なしに考えようとする不可能な抽象化

を求めるのは屍理屈である︒だから哲学的作為に注意を払い︑普通の言語を使用することを真としなければならな

い︒突飛な言語を使用してはならないのである︒ここには一種のヘーゲル批判が読み取れる︒

 人間精神における︑すべてのものは︑われわれが生活して行く上で結合して統一体を形成する︒従って認識︑欲

求感︑熱望︑努力がばらばらにあるのではなく︑実際に生きて行く場合︑それらが統一されているのである︒

︵三︶

 第一部は﹁人間精神の能力に応じた人間精神の記述と理論﹂であり︑第一節が﹁人間精神の一般的考察﹂であ

り︑その﹁序論﹂が書かれている︒この中で悟性についての叙述が目を引く︒人間の本来的な高次の能力が悟性︑

187

(10)

自己支配力であり︑この支配力によって人間は自己陶冶することができる︒このことがフリースの科学の根本思想       88なのである︒      −

 第一章が﹁われわれの精神生活の形式について﹂であり︑Hが﹁精神活動と精神能力﹂である︒われわれはわれ

われ自身を︑すなわち精神を認識︑欲求感︑熱望︑努力という活動の原因として認識する︒この活動は速やかに変

化する︒これに対してわれわれの心の内で持続するものが精神能力であり︑精神能力が精神活動の原因である︒

 心理的人間学は特に精神能力について語る︒なぜならば精神能力は精神の性質であるからである︒自我は行為で

はなく︑動因であり︑自我は活動ではなくて原因であり︑その結果が活動である︒

 精神活動はアリストテレスのエネルゲイア︵現実態︑伽鵠ミ⑩脊︶であり︑精神能力はデュナミス︵可能態︑象遷要の︶

である︒口は﹁生命﹂︑その下に︑﹁第六項︑人間精神は生きたものである﹂がある︒この場合︑﹁生きた﹂とは活

動を指している︒日は﹁理性﹂であり︑その下に﹁第七項︑人精精神は理性的なものである﹂がある︒理性態は精

神のすべての自己活動の内的な︵心の内の︶統一態にある︒生命統一態という能力としての︑あるいは精神の自己

活動としての理性によって︑われわれの生命の根本形態が規定される︒こうして︑われわれは理性によって︑例え

ば一つの世界︑一つの真理についてのすべての統一表象を︑必然的認識のように獲得する︒同じように例えば上気

嫌であるという統一態はわれわれの快感から出る様々な刺激が共働することから得られるのであり︑また︑すべて

のわれわれの快感は美しいものの必然的な規定の下に従属させられるのである︒更に︑われわれは理性によって意

志力の統一態をも獲得する︒

 理性はフリースによれば︑精神の自己活動という能力︑あるいは︑われわれの生命統一態という根本能力であ

(11)

フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(一)

る︒別のところでは︵第一巻︑五一頁︶︑理性は精神の根元的な自己活動となっている︒四は﹁感覚﹂であり︑その

下に﹁第八項︑人間精神は感覚的なものである﹂がある︒人間精神は理性であり︑これは感覚の助け︵刺激︶によ

って理性の生命活動にまで発展できるのである︒見たり︑飢えたり︑のどがかわいたりするのは精神の自己活動で

あるが︑これに達するのは感覚的刺激によってのみである︒これに対して︑われわれの外にあるのは対象を空間︑

時間の中で認識する制約︑不滅性の理念︑神の理念︑精神上の美しさの理念は精神の純粋自己活動に帰属する︒そ

れらはわれわれの生命の感覚的刺激から出て来るのではなくて︑われわれの精神の本性から生じるのである︒

 われわれの理性は認識したり︑快を感じたり︑有意的に行動したりする感覚的能力である︒あるいは理性は認識

したり︑快を感じたり︑意欲する精神である︒精神生命が発達するならぽ︑精神がいかに認識し︑いかに快を感

じ︑いかに意欲するかは︑精神のいわば芽の状態の内に決められている︒しかし個人が将来︑実際に何を認識し︑

感じ︑意欲するかを私は予想し得ない︒なぜならぽ︑そのことは偶然の外的な切っ掛けに依存するからである︒そ

のことが感覚態である︒国︑﹁素質と熟達﹂︑因︑﹁記憶と習慣﹂には注目すべき内容がない︒囮︑﹁精神連合﹂︒精

神連合の法則︑あるいは精神活動連合︑精神再生の法則は心理的人間学において極めて重要な根本法則である︒そ

れもそのはず内的な思考の流れの中でその法則が多くの思考を整理したり︑結合したりするからである︒また精神

連合は記憶︑習慣を通して内的な思考の流れを一定にする︒この流れの中で精神活動は相互に入り混じり合いなが

ら変化するのであるが暗記する者は︵例えば明治維新成立の年について︶一連の表象を絶えず一定の秩序に従って

再生するのに慣れている︒この表象がその人の頭の中で順序よく連合するのである︒言葉は思想の記号となる︒と       鵬いうのは言葉が同時に表象になり︑それに慣れることによって思想と連合されるからである︒会話というものは例

(12)

えば最初︑話をしている内容から突然唐突な内容の話へ跳び移るべきではなく︑思想の類似したものが結合してで

きるものである︒だから精神連合による精神活動の継時性︑同時性︑類似性という法則の下で内的な思考の動きは

規定される︒こうして︑われわれは回想したり︑思考したり︑夢を見たりする時に︑ある表象の働きから他の表象

の働きへと移るのである︒囚︑﹁純粋理性﹂︒純粋理性の法則はわれわれの精神生活の永続的︑不変的根本形式を規

定する︒この根本形式に帰属するものは︑真なるもの︑麗なるもの︑美なるものにおける必然性の意識である︒こ

の必然性という単なる形式は︑純粋理性態においては︑すべての精神活動が統一︑結合されていることによっての

み︑唯一の活動態として規定されている︒しかし︑この活動態は真なるもの︑善なるもの︑風なるものにおける内

容を︑精神の根本能力が持っている多くの性質によってのみ獲得する︒

 第二章﹁われわれの精神の根本能力について﹂9﹁認識︑心︑活動力﹂︒われわれの第一の素質は物の存在を認

識する︑すなわち表象する素質であり︑第二の素質は心あるいは心情の素質である︒これがわれわれに関心を与え

る︒われわれの快感︑不快感から出て来る物の価値をわれわれが表象する際に︒第三の素質は人間の活動力であ

り︑これと心情との結合によって︑心情は衝動あるいは切望能力になり︑快感は欲情になる︒そして欲情を通し

て︑われわれの精神の生きている印としてあるものが有意的行動となり︑われわれの精神の理性的有意︑行動する

理性となる︒われわれの活動力には二種類がある︒a︑外面的には︑われわれの身体の能力を自らの意志によって

動かすものがあり︑b︑内面的には︑関心を他の精神活動と連合させることによって︑われわれの精神活動の力を

自らの意志によって強くしたり︑弱くしたりするものがある︒これが悟性と呼ばれる自己支配力である︒

 われわれの精神生活におけるすべてのものは認識であるか︑あるいは認識によってのみ可能である︒認識として

190

(13)

フリースのr心理的人間学ハンドブック』について(一)

の素質は他の素質によって前提される最初のものである︒われわれは物の存在についての表象を欲求感︵例えば快

感︶なしに持つ人を考え得る︒それもそのはずその表象の中には物の価値︑無価値についての表象がないからであ

る︒心の素質をわれわれはその認識︑表象なしには考えることができない︒こうして認識されたもの︑表象された

ものにのみ︑われわれは価値を置いたり︑置かなかったりする︒また︑すべての関心は物の価値︑無価値の表象の

中にある︒口﹁悟性﹂︒理性をフリースは精神の根元的な自己活動と呼ぶのに対して︑悟性は有意的な内的活動で

あり︑特に思考の中に現れる︒人間が世界を時間︑空間の法則の下で︑そして相互作用の下で認識するというこ

と︑また人間が義務の尊厳性を確信しているということ︑これらのことは︑われわれの精神の根元的な自己活動に

よって規定されている︒悟性とこれに対立するものとの比較説明は次の通りである︒a︑悟性と感覚︒感覚には認

識における直観が必要であり︑悟性には反省が必要であり︑悟性は思考能力である︒b︑悟性と理性︒この対立は

多義的である︒悟性︑理性の特徴を言えば︑1︑悟性は概念を必要とする能力であり︑理性は推理する能力である︒

ただし︑悟性が全く推理を持たないとは言えないのではないか︒2︑悟性は規則を必要とする能力であり︑理性は

原理を必要とする能力である︒3︑悟性は自然概念を必要として︑学的認識をする能力であり︑これに対して︑理

性は理念を必要とする能力︑理念から出て来る認識能力である︒c︑悟性と感情︑あるいは悟性と趣味︒悟性は前

以って与えられた概念によって物を判断し伝達する能力であるが︑これに対して︑真理感情︑趣味においては︑物

を直接に判断する能力が現れる︒これらの区別を総括して悟性をいかに規定したらよいか︒悟性は反省能力であ

り︑認識の際あらゆる事物を判明にする能力であり︑あるいは前以って規定された一定の概念によって︑物を判断       Mする能力である︒この説明は感覚と悟性との間の関係に適合する︒感覚の直観は明晰︵ある物を全体的に見抜くこ

(14)

と︶であるが︑思考の助けがなければ判明︵ある物の内容を分析して明らかにすること︶ではない︒思考は概念を

使用することによって物の間接的な判断を行う︒

 やはり︑悟性は一般的に言えば︑規定されて︑与えられた概念によって︑物を判断する能力である︒が果してこ

れでよいのだろうか︒フリースが口﹁悟性﹂で更に述べているのは次の通りである︒認識能力としては思考力が悟

性であるのに対して︑直接的認識をする自己活動が理性であり︑純粋理性は諸原理を直接に認識する能力である︒

 必然的な真理︑信仰︑美なるものの理念︑道徳的なものの理念︑これらのものを所有するのは精神の純粋理性に

よってであるが︑われわれは悟性によってその精神を意識して︑悟性の一層高次の陶冶が行われる︑

 第三章﹁精神陶冶の諸段階について﹂︒われわれの生命の発展は次の三つの主要な制約の下で生じた︒a︑精神

上の生活を刺激する初めのものはわれわれの理性の感性的刺激である︒これにより認識︑心情︑活動力に応じて︑

われわれの精神活動の内容がわれわれの生命の純粋に理性的形式の中へもたらされる︒b︑感性上刺激されるこの

生命は内的に絶えず形成し続ける本性法則の下にある︒この法則は記憶の法則︑習慣の法則︑精神連合の法則とし

てある︒ここでは精神における記憶︑習慣を陶冶する第二段階︵これは後述の2である︶が規定される︒c︑人間

の精神は悟性の自己支配によって発達する︒悟性に従って精神を陶冶する三つの段階が作られる︒1︑最初の刺激

である感性上の陶冶の段階︑2︑下位にある思考の流れ︑あるいは記憶による思考の流れ︑この二つの流れに応じ

た陶冶の段階︑ただし︑この場合︑その流れは習慣︑精神連合によって生じる︒3︑上位にある思考の流れの法則

に応じた陶冶の段階︒ただし︑この流れは悟性の自己支配によって生じる︒

       ︵未完︶

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