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小 松 和 生

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(1)

天皇の戦争責任に関する覚書( 1 )

一一太平洋戦争を中心に一一

目 次 はじめに

I  開戦決定過程

小 松 和 生

( 1 )   7 月 2日「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」

( 2 )   9 月 6 日「帝国国策遂行要領 J ( 3 )   1 1 月 5日「帝国国策遂行要領」

( 4 )   1 2月 1日御前会議...・

H

・ . . (以上本号) E  戦争遂行過程

( 1 )   戦果拡大期 ( 2 )   戦局転換・敗退期 E  降伏決定過程

( 1 )   近衛上奏文と天皇の対応 ( 2 )   国体護持と本土決戦論 むすびにかえて

はじめに

‑617‑

戦前の天皇は,大日本帝国憲法に,第 1 条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之

ヲ統治スム第 2 条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス J ,第 3 条 f 天皇ハ国ノ元

首ニシテ統治権ヲ総携シ此ノ憲法ノ:条規ニ依リテ之ヲ行フ

j

とされ,また第 5

条(立法権)からはじまって,第 1 1 条(陸海軍の統帥権),第 1 3 条(宣戦講和お

(2)

‑618‑

よび条約の締結権)などを含めて第 1 6 条(恩赦権)までの 1 2 項目にわたる天皇 大権を一手に掌握していたように,絶対無比の権力者であり絶対君主そのもの であった。

このような統治権の総携者たる天皇は,統帥部や政府の重要決定について

「裁可 J (承認〉する場合,決して単なる形式的に承認するような立憲君主では なかった。たとえば内奏癖でも有名な東条英機が, r 十二月五日頃の閣議並に 十二月六日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し十二月七日に上奏し たので、あります。尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏いたしました」と宣 戦詔書作成について供述しているよう d J 「裁可 J に至るまでには, I 内奏 J と いう非公式の打診が内大臣や侍従武官長を介して場合によっては何度も行わ れ,それによって「御内意 J を確かめ,また「御下問

j

を受けて,案件の修正 や取消しを繰り返し,承認されることが明らかになった時点で,はじめて「裁 可奏請 J が行われて,正式に「裁可 J された。内大臣木戸幸ーも「天皇は国務 大臣の輔弼によって国政をなさるのであるが,時には強い御意見を述べられる

こともある。(中略)天皇が御納得されない場合は,概ねの場合問題はそのまま サスペンドされて決定が延ばされるか内閣の方が考え直すのを例とした

j

とし ている。このように統帥部や政府の重要決定ではあっても,天皇はそれらの決 定に対して,ただ機械的に「裁可 J する単なるロボットで、はなかったので、ある。

ところが, 1 9 7 5   (昭和 5 0 ) 年 9 月 2 0 日に天皇は,ニューズウィーク誌に対 し,対米英戦を避けることができなかった理由として, r 開戦時には閣議決定

があり,私はその決定を覆すことができなかった。これは帝国憲法の条項に合 致すると信じています」とのべている。つまり,天皇は閣議決定に従って立憲 君主として対処したにすぎず,自分には戦争責任などなく,専ら軍人や閣僚た ちに責任がある,というのがこの記者会見での主な主張なのである。しかし,

もともと統帥権は内閣の輔弼の枠外におかれていたのだから果たしてそうだろ うか,という疑問が当然にでてくるのである。

そこで, 1 9 4 1   (昭和 1 6 ) 年 1 2 月 8 日午前 7 時に臨時閣議が対米英宣戦布告を

‑124‑

(3)

‑619

決定するまでの,天皇とかかわる実質的な開戦決定過程を詳細に再現し,次い で戦争遂行・降伏決定の両過程についても歴史の真実に迫ってみたいと思う。

この場合の中心的史料として,東京裁判などを気にせずに書いた戦前期執筆の もので,とくに天皇の側近中の側近で、あリった内大臣木戸幸一の日記 c w 木戸幸 一日記』上・下巻)や 1 9 4 0 (昭和1 5 ) 年1 0 月 3日から 1 9 4 4 (昭和1 9 ) 年 2 月2 1

日の間,参謀総長の任にあって重要国策事項の審議状況や上奏の際の御下問奉 答等を筆記した杉山元のメモ(~杉山メモ』上・下巻)などに主に依拠している ことは以下の論述で示す通りである。

I  開戦決定過程

( 1 )   7 月2日「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 J

太平洋戦争への突入の決定は,少くとも, 1 9 4 1   (昭和 1 6 ) 年1 2 月 8日の閣議 決定から 5 ヶ月ほど前の同年 7 月 2 日の第 5 回御前会議決定の「情勢ノ推移ニ 伴フ帝国国策要綱」にまで遡らなければならない。すなわち,同要綱は「南方 進出ノ歩ヲ進メ又情勢ノ推移ニ応シ北方問題ヲ解決ス」という方針をかかげ,

「蒋政権屈服促進ノ;為更ニ南方諸域ヨリノ圧力ヲ強化」し, I 本号目的達成ノ為 対英米戦ヲ辞セス」とするもので,仏領インドシナ南部への進駐 (7 月2 8 日実 施) ,米英による中国援助ルートの遮断,そのためには対米英開戦も辞さない とするものであった。つまり,天皇のいう「開戦時には閣議決定があり,私は その決定を覆すことができなかった

j

のではなく,それ以前の 5 ヶ月も前の御 前会議で「対英米戦ヲ辞セス」の決定がなされていたのである。しかも,この

「帝国国策要綱 J 決定における御前会議後の杉山参謀総長の所見によると, I オ 上ハ非常ニ御満足ノ様子ナリキ、オ昼食後一時半直チニ御裁可セラレタルモノ ナリ J とされているように,天皇の決定への姿勢はきわめて積極的であった。

7 月 2 日のこの決定と同時に,大本営は関東軍特別演習を発動してソ連への 戦争準備とし,同2 8 日には仏領インドシナ南部へ進駐した。これに対し 7 月2 5

日にアメリカが在米日本資産を凍結し,次いで2 6 日にイギリス, 2 7 日にオラン

‑125‑

(4)

‑ 6 2 0

ダが各々の日本資産を凍結して応えた。

8 月 I 日の「第二次派遣ニ関スル上奏ノ際御下問」において,天皇は「仏印 ニ進駐シテカラ仏側ハドウカ J と質問し

i

杉山総長が「仏モ骨ヲ折ヅテ居ルシ 又総督モ最近兵ヲ集メテ日本ト共同シテユクコトガ主権尊重ニヨロシイト述へ テ居ル様ナ次第テ大体其態度ノ、良ヒト思ヒマス 然シ南部ニハ『ドゴール』派 カ居ルノデ多少ノ¥騒クコトカアルカト思ヒマスカ大丈夫デアリマス」と答えた のに対し,天皇は「国境ニ支那兵カ来テ居ルト言フガドウカ」と質問をつづ,

総長は「物ノ交換ニ入国シアリ 掠奪等アノレモ最近増加セシ次第ニアラズ或ハ 昆明へノ進攻ヲ恐レ消極的防禦ヲヤルタメカモ知レマセヌ」と答えている。こ のように「対英米戦ヲ辞セス」としづ条件っきの仏領インドシナ南部進駐につ いて,天皇は全く阻止しようなどという気配すらみせてはいなかったのである。

その上,永野軍令部総長が対米英開戦について「物カ無クナリ逐次貧シクナル ノデドウセイカヌナラ早イ方ガヨイト思ヒマス」としていることについても,

そのあと全くノーコメントで,事実上,即時開戦論を認めた形にさえしていた のである。

( 2 )   9 月 6 日「帝国国策遂行要領」

そのような中で同年 9 月 6 日の第 6 回御前会議が開かれ,以下のような内容 の「帝国国策要領

j

が決定され 7 5 )

「帝国ハ現下ノ急迫セル情勢特ニ米,英,蘭等各国ノ執レル対日攻勢, wソ 』 連ノ情勢及帝国国力ノ弾挽性等ニ鑑ミ『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』中 南方ニ対スル施策ヲ左記ニ拠リ遂行ス

一 帝国ハ自存自衛ヲ全ウスノレ為対米(英,蘭)戦争ヲ辞セサノレ決意ノ下ニ 概ネ十月下旬ヲ目途ト、ン戦争準備ヲ完整ス

二 帝国ハ右ニ並行シテ米,英ニ対、ン外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ 努ム

対米(英)交渉ニ於テ帝国ノ達成スヘキ最少限度ノ要求事項並ニ之ニ関連

(5)

βhU 

シ帝国ノ約諾シ得ル限度ノヴリ紙ノ如シ

三 前号外交交渉ニ依リ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ 場合ニ於テハ直チニ対米(英,蘭)開戦ヲ決意ス

対南方以外ノ施策ハ既定国策ニ基キ之ヲ行ヒ特ニ米『ソ』ノ対日連合戦線 ヲ結成セシメサルニ勉ム

つまり,この「帝国国策遂行要領

j

こそ, r 十月上旬頃ニ至ルモ尚要求ヲ貫徹 シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英,蘭)開戦ヲ決意ス J とされてい るように,事実上,太平洋戦争突入を決定したものである。

天皇は, 9 月 6日の決定の前日 9 月 5日に「突然陸海軍統帥部長ヲ召サレ近 衛総理立会ノ下ニ御下問」を行い,総長に以下のような「奉答 J をさせている。

「御上 南方作戦ハ予定通リ出来ルト思フカ 参謀総長 右ニ対シ馬来比島等ノ予定作戦ヲ奉答ス

御上 予定通リ進マヌ事カアノレタラウ五ヶ月ト云フカソウハイカヌ コトモアノレタラウ

総長 従来陸海軍テ数回研究シテ居リマスノテ大体予定ノ通リ行ク ト思ヒマス

御上 総長

御上 総長

御上 総長 御上

上陸作戦ハソンナニ楽々出来ノレト恩フカ

楽トハ思ヒマセヌカ陸海軍共常時訓練シテ居リマスノテ先ツ 出来ノレト思ヒマス

九州ノ上陸演習ニハ船カ非常ニ沈ンダカアーナレパドウカ アレハ敵ノ飛行機カ撃滅セラレル前ニ船団ノ;航空ヲ始メタカ ラテアヅテ,アーハナラヌト思ヒマス

天候ノ障碍ハドウスルカ

障碍ヲ排除シテヤラネハナリマセヌ 予定通リ出来ルト思フカ

オ前ノ大臣ノ時ニ蒋介石ハ直ク参ノレト云フタカ未タヤレヌテ

ハナイカ

(6)

6 2 2  ‑

参謀総長更メテ此ノ機会ニ私ノ考へテ居リマスコトヲ申上ゲマスト前提シ日 本ノ国力ノ漸減スルコトヲ述へ弾捺力ノアノレウチニ国運ヲ興隆セシムル必要

ノアル、コト又困難ヲ排除シツツ国運ヲ打開スル必要ノアルコトヲ奏上ス 御上 絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)

総長 絶対トハ申シ兼ネマス 而シ勝テル算ノアルコトタケハ申シ 上ケラレマス必ス勝ツトハ申上ケ兼ネマス

尚日本トシテハ半年ヤ一年ノ平和ヲ得テモ続イテ困難カ来ル ノテハイケナイノテプリマス 二十年五十年ノ平和ヲ求ムヘ キテアルト考ヘマス

御上 アふ分ッタ(大声ニテ)

ここでもみられるように,天皇はかなり突こんだ作戦について質問し,その 結果をふまえて, 9 月 6 日の「対米(英,蘭)開戦ヲ決定ス」る「帝国国策要 領」を裁可したのである。天皇が「私ハ毎日 明治天皇御製ノ 四方の海皆同 胞と思ぷ夜 i こ な ど あ i 波の立騒く、、らむ ヲ拝語、ンテ居ル」と述べていることだ け f ,平和主義者だったとはきらきら言えるものではなく, 9 月 5 日の「御下 問 J と関連して,木戸内大臣も「対米施策につき作戦上の御疑問等も数々あ り」としているように,それが単なる戦争へのためらい(不安)にすぎなかっ たことは以上の経過から明らかである。

さらに 9 月 6 日の対米英蘭開戦決定以降,天皇は,以下に示すような「御下 問 J などを繰返して太平洋戦争開戦への道を促進していったので、ある。まず 9 月 9 日「南方作戦構想ニ就キ上奏ノ際御下問 J では,次のような遣り取りが行 われている。

「御上 作戦構想ニ就テハヨク分ッタ

南方ヲヤッテ居ル時北方カラ重圧カアッタラドウスルカ 総長 南方ヲ始メタ以上ハ之ヲ達成スル迄右顧左阿スルモノニアラ

スシテ湛進スル必要カアリマス 又ソウ御願ヒ致シマス 但 シ北方ニ事カ起レハ支那ヨリ兵ヲ転用スルコトナトモ致シマ

‑128‑

(7)

‑623‑

シテ中途テ南ヲヤメル様ナコトハイケマセン 御 上 ソレテ安心シタ

支那カラ兵力ヲ抽出スルコトハ大ナル困難ヲ伴フニアラスヤ 総長 之ハ支那方面テカカ薄クナリマスカラ戦面ノ縮小其他ノコト

モヤラナケレハナラヌト思ヒマス 此ノ事ハ年度作戦計画テ モ考へテ居リマス ソレテモ支那ニハ心配ハ入リマセン 」 以上のように南進政策強行に伴うソ連の脅威などについて,さかんに質問を しており,その結果にもとづいて, 9 月 1 0 日の「対南方動員ニ関スル上奏ノ際 御下問 J で ,

「御上

総長

又聞クノテアルカ南ヲヤッテ居ル時北ハ出テ来ルコトハナイ

絶対トハ申上ケラレマセンカ季節ノ関係上大キナモノト出テ 来ルトハ考ヘラレマセン

というような応答のように一抹の不安を示しながらも,結局, i 動員ヲヤッテ 宜シイ 市シ近衛, w ノレーズベルト』ノ話カマトマレハ止メルダラウ」と裁可し ているのである。

一方,こうした南方作戦への「御下問 J i 裁可」による対米英開戦促進の過程 で,天皇は国際情勢や作戦対策について,すでにかなりの精通した能力を身に つけるようになっていた。たとえば,木戸幸ーは, 9 月 2 9 日の日記に天皇から

「調査方御下命 J として, i 米国のゴム保有量並に中南米に於ける生産量,及錫 の保有量並に米国が獲得し得る産地 J と記しているし,また 1 0 月 1 3 日の日記に は,太平洋戦争開戦に伴うヨーロヅパ政策についての天皇の意見として次のよ

うに要約している。

「対米英戦を決意する場合には,尚一層欧州の情勢殊に英独,独ソの和平説 等を中心とする見透し及び独の単独和平を封じ日米戦に協力せしむることに つき外交交渉の必要あり。又,戦争終結の場合の手段を初めより充分考究し 置くの要あるべく,それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき

‑129‑

(8)

6 2 4

方策を樹つるの要あるべし。」

このように対米英開戦への道を準備し促進していく天皇について,東亜新秩 序の建設というアジア侵略主義を標携する当時の内閣総理大臣近衛文麿でさ え , I 自分が総理大臣として陛下に,今日,開戦の不利なることを申し上げる と,それに賛成されていたのに,明日御前に出ると『昨日あんなにおまえは 言っていたが,それ程心配することもないよ』と仰せられて,少し戦争への方 ヘ寄って行かれる。又次回にはもっと戦争論の方に寄っておられる。つまり陸 海の統帥部の人達の意見がはいって,軍のことは総理大臣には解らない。自分 の方が詳しいという御心持のように思われた」と嘆かざるを得ないほどの戦争 推進派とみていたのである。「従って統帥について何ら権限のない総理大臣と

して,唯一の頼みの綱の陛下がこれではとても頑張りょうがない J と 色 日 米 関戦に自信がもてないとして近衛内閣は 1 0 月 1 6 日に総辞職する。

1 0 月 1 8 日の東条内閣成立に際しては,天皇は, I 時局極めて重大なる事態に 直面せるものと思ふ。此の際,陸海軍は其協力を一層密にすることに留意せ よ」と陸海軍両大臣(東条と及) 1 1 ) に述べて,挙国一致の戦争推進体制を督励 しているし,また木戸内大臣が日米開戦強行論者の東条を首相に推薦したこと について, I 極めて宜しく御諒解」を示し,その上, I 虎穴に入らずんば虎児を 得ずと云うことだね J と述べて木戸を感激させてい 2

以上のような過程を経て,いよいよ開戦も煮詰ってきた 1 1 月 2 日から 3 日に かけて,東条首相と陸海両総長(杉山と永野〉が国策再検討案について上奏し た際に次のような「御下問奉答 J が行われ在

「御上 大義名文ヲ如何に考フルヤ

東条 目下研究中テアリマシテ何レ奏上致シマス

御上 時局収拾ニ『ローマ』法皇ヲ考ヘテ見テハ如何カト思フ 御上 海軍ハ鉄 1 0 0 万屯アレハ損害カアッテモヨイカ

損害ハドノ位アル見込カ

永野 戦艦 1 ,甲巡 2 ,軽巡 4 ,飛行機 1 8 0 0 機位カト考ヘマス

130‑

(9)

‑625‑

御上 陸軍モ相当ニ損害カアルト思フガ運送船ノ損害等モ考へテ居 ルダラウナ,防空ハヨイカ,朝鮮ノ『ダム』カ壊レタラドウ

スノレカ

杉山 防空ハ全国的ニヤリマスガ,東京,大阪,北九州ニ重点ヲオ キ其他ハ監視,連絡,燈火管制,地方消防ヲヤル程度テアリ

マス

2 日の「御下問」は以上のように戦後処理対策から戦争能力,戦闘から予想 される損害や防空体制にまでわたっていたが, 3日の「御下問」は, 1 2 月 8 日 の宣戦布告の直前に,真珠湾奇襲攻撃と並んで奇襲するマレー,フィリピン,

香港への攻撃作戦についてであった。すなわち,

「御上 香港ハ『マレー』作戦ヲ確認シテカラヤルコトハ解ッタ支 那ノ租界ハドウスルカ

杉山 租界接収及交戦権ノ発動ハ目下研究シテ居リマス 御上 租界ハ香港ノ後デ、ヤルダ、ラウナ

杉山 サウデ御座イマス他ノ方面デ、ヤルト『マレー』ノ奇襲ハ駄 目ニナリマス

御上 租界ノ、何時頃ヤルカ

杉山 外交トモ関係アリ何レ改メテ申上ケマス,然シ先キニヤルコ トハナイ様十分注意致シマス

御上 オ前ハ『モンスーン』デ上陸カ困難ニナルト言ッテ居タガ十 二月ニナッタガ上陸ノ、出来ルカ

杉山 段々悪クナリマス又最近従来申上ケシヨリハ更ニ困難ナルコ トモ判明致シマシタガ,未ダ至難ト迄ハユカナイト思ヒマス ガ日ガ延ピレパ実ハ増スノデ一日デモ早イ方ガヨイト思ヒマ ス

御上 『マレー』ハ天候メ関係カラハドウカ

杉山 『マレー』ハ機先ヲ制、ンテ空襲ヤル様ニ考ヘテ居リマシタガ

‑131‑

(10)

‑626‑

気象上カラハ雨カ三,四日連続降ルノデ奇襲ヲ主ト致シマシ タ 比島ハ大丈夫ト思ヒマス

両案ヲ考ヘテ適当ニ律スルコトヲ考へテ居リマス (気象統計ノ天覧ヲ願ッタ)

御上 総理ハ航空ノ命令ヲ早ク出スコトヲ話シテ居タ アレハドウ

杉山 航空関係ノ、大連青島上海等テ出発出来ル様ニシテ待ッテ居リ マス 然シ出発日次カ延ピ、ルコトノ不利ニ就テノ対策ハ種々 研究ノ結果大命ヲ御前会議終了後ニ発セラレテモ何トカ間ニ 合フ様ニナリマシタ,又其方カ筋ガ通ヅテ居ルト思ヒマス 御上 筋ノ通ッ夕方カヨロシイ

御上 泰ニ対スル外交交渉ノ¥大義名文カラ言ヘパ早クスルヲ可トシ 又軍ノ奇襲カラハ遅イ方ガヨイト思フガドウカネ

杉山 仰ノ通リテアリマス然シ決意致シマセヌト企図カ暴露シ又 現在ノ、相当ニ切迫、ンテ居ルノデ気ヲツケノレ必要ガアリマス,

ヨク外務側ト相談シテ研究致シマス 御上 海軍ノ日次ハ何日カ

永野 八日ト予定シテ居リマス 御上 八日ハ月曜日テハナイカ

永野 休ミノ翌日ノ疲レタ日カ良イト思ヒマス 御上 他ノ方面モ同シ日カ

杉山 距離カ相当ニハナレテ来ルノデ同時ニハナリ得ナイト思ヒマ ス

以上で明白なように,香港,マレー,フィリピンの奇襲攻撃について,詳細 かつ執劫なほど突こんだ質問をして,天皇自身が事実上作戦立案に参加してい るのである。「開戦には閣議決定があり,私はその決定を覆すことができな かった J どころでは全くなかったことが明らかである。

‑132‑

(11)

‑627‑

( 3 )   1 1月 5日「帝国国策遂行要領 J

1 1 月 2 日 , ‑ . . . . . , 3 日の「御下問・奉答 j における事実上の奇襲作戦会議をふまえ て .11 月 5 日には,第 7 回御前会議において. I 対米英蘭戦争ヲ決意シ」かっ

「武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ノ、作戦準備ヲ完整ス」という内容 の「帝国国策遂行要領 J が決定・裁可されるに至っ??;そうして同日御前会議 終了後,作戦計画が改めて「上奏

j

されたときに,天皇は,再び次のような

「御下問」をしている。

「 御 上 此際秘密保持ノ点カラ軍司令官以下ヲ何時頃現地ニ向ケ出発 セシムルカ

杉山 総司令以下ハ七,八,九ノ三日間ノ作戦打合セヲナシ其後隷 下軍ノ同様ノ打合セモアリ又企図秘匿上カラモ早ク出発スル ノハ適当デナイト思ヒマスノデ此点ハ特ニ注意致シマスガ其 日ハ未タ確定シテ居リマセン

御上 何時迄秘密カ保テルカ

杉山 アレダケノ軍隊デアリマスカラ何トモ申上ケラレマセヌ 御上 北ヲ騒ガセルナ

杉山 統帥部トシテハ極力防止ノ注意ヲ与ヘテ居リマス

杉山 宜昌カラ兵ヲ退クノハ此際適当デナイノデ一部兵力ヲ内地カ ラ増加シナケレハナラヌカトモ考へテ研究中デ御座イマス 御上 宜昌カラ退クノハヨイダラウ

杉山 南ヲヤリ之ヲ支那ニ利用出来ルナラ非常ニヨイノデアリマス ガ,北ニ不安デアル以上ノ、出来マセヌ然、シ南ノ結果ヲナルヘ ク直接支那ニ及ホス様ニシ度ク研究シテ居リマス 」 このように天皇は,陸海軍両統帥部以外の閣僚たちゃ重臣にも極秘とされる 作戦計画について「上奏 J をうけ,細かい「御下問」を行ったのち . I ヨク御納 得セラレタリト拝ス,直ニ御允裁ヲ賜リタリ J と杉山が述べているように,充

‑133‑

(12)

‑ 6 2 8

分に内容を承知の上で「裁可」している。つまり,天皇は, i 上奏 J されたもの を機械的に「裁可」する単なるロボットでは決しでなかったので、ある。

開戦決定の責任者は天皇であり,その決定を覆すことができなかったのは,

統帥問題については輔弼の枠外としてほとんどタヅチさせてもらえなかったむ しろ重臣やその他の閣僚たちであったとも言える。そのため天皇は,開戦も直 前にせまった 1 1 月 2 6 日に,東条に対して, i 開戦スレパ何処迄モ挙国一致ヂヤ リ度イ J として, i 重臣ハヨク納得シテ牛ノレカ、政府ハドウ考へテ居ルカ,重臣 ヲ御前会議ニ出席セシメテハドウカ

j

と念を入れるのである。東条が,この天 皇の提案に対して「責任ノ無イ重臣ヲ御前会議ニ出席サセルノハイケナイト思 ヒマス」と「奉答」したのに対し,天皇は「分ッタソレデハ俺ノ前デ懇談ヲサ セテハドウカ」と執劫に重臣の参加を迫っている。東条は「御前デ懇談デアリ マスカ j と渋っているのに対して天皇は「サウ夕、、」と東条に再考を促がすので あった。

こうして, 1 9 4 1   (昭和 1 6 ) 年 1 1 月 2 9 日に天皇は,東条に指示した重臣との懇 談会を強行し,そのあと大本営政府連絡会議でドイツ・イタリアに対する外交 措置など「開戦決定ニ伴フ国内外ニ対スル措置」について検討しているが, 1 1

月3 0日にも,天皇は,木戸の「今度の御決意、は一度聖断被遊るれば後へは引け ぬ重大なるものであります故,少しでも御不安があれば充分念には念を入れて 御納得の行く様に被遊ねばいけないと存じます J との奉答にしたがって,海軍 大臣と軍令部総長の自信のほどについて再度確かめ, i 何れも相当の確信を以 て奉答せる故,予定の通り進むる様首相に伝ヘよ」と「御下命」す g ; かくし

て F 予定の通り J の 1 2 月 1 日の御前会議開催に至ったのである。

( 4 )   1 2月 1日御前会議

天皇の「御下命 J で午前 2時より開催された第 8回の御前会議では, i 十一月 五日決定ノ『帝国国策遂行要領』ニ基ク対米交渉ノ、遂ニ成立スゾレニ至ラス 帝 国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」という文字通りの最終的決定を行うのであるが,天

‑134‑

(13)

‑629‑

皇は,今やこの会議では一言も発言せず, I 本日ノ会議ニ於テ,オ上ハ説明ニ対 シ一々領カレ何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ,御気色麗シキヤニ拝シ恐健感激ノ 至リナリ」と杉山が述べているようなむしろ満足した態度で臨むことがで、きた のである。そして向日,両総長に対し,天皇は「此ノ様ニナルコトハ己ムヲ得 ヌコトダ ドウカ陸海軍ハヨク協調シテヤレ」と改めて督励し, I 今朝以来米 ノ状況ニ変化ハナイカ j などと「御下問 j するが,このような天皇の姿は,杉 山には「竜顔イト麗シク拝シ奉レリ j と感じさせるほど開戦決定に対して積極 的な姿勢と映っていたのである。

この 1 2 月 l 日の開戦決定をふまえて,同 8 日,午前 7 時に聞かれた臨時閣議 で対米英蘭宣戦布告が形式的に可決され,向 1 0 時に枢密院本会議でも同じく形 式的に可決されて,同 1 1 時 4 5 分国民に, I 朕葱ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス,

朕ガ陸海将兵ハ全力を奮テ交戦に従事シ,朕ガ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ,

朕が衆庶ハ各其ノ本分ヲ尽シ,億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ,征戦ノ目的ヲ達 成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ?などという有名な詔書が公布されたので

ある。

しかし,すでに同日午前 2 時には,かつて天皇も関与した作戦通り,日本軍 はマレ一半島へ奇襲上陸し,同 3 時には真珠湾を攻撃,同 8 時には香港を攻撃

していたのである。

以上みてきたことで明らかなように,閣議による開戦の「決定を覆すことが できなかった」という天皇の弁明は全くのデタラメであり むしろ閣議決定は 御前会議決定のあとの単なる形式であるにすぎ、なかった。その上,当時の首相 東条英機自身も,東京裁判の中で, I 日本国の臣民が,陛下のご意志に反して,

かれこれするということは,あり得ぬことであります J と言いきっている。し かも 1 2 月 8 日の形式的な閣議決定を遡ること少なくとも 5 ヶ月以前の 7 月 2 日 の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱

j

からはじまって, 9 月 6日の「帝国国策遂 行要領 J , 1 1 月 5 日の「帝国国策遂行要領 J ,そして 1 2 月 1 日の御前会議と決定 を重ねる度ごとに,天皇は開戦への道をむしろ主導的に推進していったのであ

‑135‑

(14)

‑630‑

る。少くともこれらの諸事実からみても,天皇の戦争責任は明白である。さら には開戦後の戦争遂行過程,降伏決定過程における天皇の言動が追及されなけ ればならない。

( 1 )  

東京裁判研究会編『東条英機宣誓供述書~

1 1 7

頁・

1 2 0

頁。

( 2 )  

W木戸幸一日記(東京裁判期)~

4 5 4

頁。

( 3 )   W

杉山メモ』上

2 5 9 ' " " 2 6 0

頁。

( 4 ) 同 2 8 5 ' " "6

頁。

( 5 ) 同 3 1 2

頁。

( 6 )  

3 1 1

頁。「天皇異例の御発言」として賛美している一例として『戦史叢書大本営陸軍 部大東亜戦争開戦経緯

<0

~ (防衛庁防衛研修所戦史室編)がある。

( 7 )   W

木戸幸一日記』下巻

9 0 5

頁。

( 8 ) ( 9 )   W

杉山メモ』上

3 3 1

頁。

QO) 

W

木戸幸一日記』下巻

9 1 0

9 1 4

頁。 ω(1

2 )  

富田健治『敗戦日本の内側~

1 9 6

頁。 ω(1

4 )   W

木戸幸一日記』下巻

9 1 8

頁。 (15) 

W

杉山メモ』上

3 8 6 ' " "8

頁。 (16) 同

4 1 7 ' " "8

頁。

仰 向

4 3 1

頁。 (18) 同

5 8 3

頁。

Q9) 

W

木戸幸一日記』下巻

9 2 8

頁。 側 『杉山メモ』上

5 4 3 ' " "5

頁。

ω 

児島裏『東京裁判(下)~

1 2 1

頁。

参照

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