フリ−ドリヒ・ヘルダ−リン (その6) 小説『ヒュ ペ−リオン』第一章 成立史
その他のタイトル Friedrich Holderlin (6)
著者 高尾 国男
雑誌名 独逸文学
巻 20
ページ A223‑A248
発行年 1976‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00017825
度こそ前者に属するもので︑彼は不断に成長︑発展する精神の各段階に立って︑常に否定的態度をもって先行した
段階を回顧し︑反省していた︒そして既に創作したもの以上に詩人の精神内容が発展し︑高まってくると︑既成の
作に対し不満の感をいだいてこれを捨て︑更に新たなより高い見地に立って︑前段階以後成長し︑発展してきた精
神内容をその作品に盛ろうとする︒ゲーテの創作過程を見ても︑二三の作品を除いては︑
めて似ている︒これに反しシラーやその他のドイツの偉大な詩人の創作態度は︑概ね後者に属するもので︑彼等の
作品の資料と︑彼等の体験︑及び思想︑観念との関係は︑常に限られた特定の時に終結している︒従って彼等の生
涯の各段階においてそれぞれ価値ある作品が創作されていった︒
それ故ヘルダーリンの小説﹃ヒュペーリオン﹄の創作過程から見て︑われわれは彼の最後の草稿︑即ち完成作と
して今日現存している﹃ヒュペーリオン﹄全二巻こそ︑詩人の心霊に宿った理想の作品として見ることができる︒ る︒この見地から見て︑ っ
て変
化し
︑
または成長してゆくということはなく︑ 詩人が一個の作品を創作しようとして先ずこれに著手し︑漸次これを完成してゆく過程を見ると︑二つの型がある︒その一っは︑作品の外衣をなす所謂資料と︑作品の内的発展を形成する所謂詩人の体験や思想︑観念との関係が︑時を経るに従って変化し︑または成長してゆく型である︒もう︱つは︑その関係が前者のように時を経るに従
詩人がその作品を創作しつつある時だけに限られる型であ
nンツェブッイオーン
ヘルダーリンが小説﹃ヒュペーリオン﹄の構想を描いて︑これを完成していった態
小説
第 一 章 成 立
﹃ヒュペーリオン﹄
史
ヘルダーリンの場合と極
b g
百 とはいっても詩人の生成発展した精神内容は︑上段述べておいたように完成作以前の各稿態にも十分含まれているその時代時代の稿態をも十分検討する必要を認め
る︒これがまた同時に作品の成立史ともなる訳である︒そして小説﹃ヒュペーリオン﹄の稿態とは︑バイスナー編
ゥー ル
築の全集によると︑所謂﹃原ヒュペーリオン﹄
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﹃タ
ーリ
ア断
片﹄
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﹃ 韻
文稿
態﹂
︱
, D i e m e t r i s c h e F a s s u n
g ^
^﹁ヒュペーリオンの青年記﹄︱, H y p e r i o n s J u g e n d ^
.と﹃最後から二番目の稿
態﹄
︱
, D i e v o r l e t z t e F a s s u n g ^ 6
と﹁最終稿の前段階﹄︱
, V o r s t u f d e e r e n d g i i l t i g e n F a s s u n g
^との六つの段階が
^
ある
訳で
ある
︒
偉大な詩人の青年期の作品は︑多くの場合放胆な精神の動揺と︑模索的な洗錬されない不純さとを含んではいる
が︑また一般読者の興味の中心となる素材的なもの︑個人的なものがいまだ形式と一体化していないために︑却っ
て読者の理解に入りやすく︑従って一般大衆に大きな影響を及ぽすものである︒例えばゲーテの﹃ゲッツ﹄
v o n B e r l i c h i n g e n m i t d e r e i s e r n e H n a n d "
や﹃ヴェルテルの悩み﹂
" , D i e L e i d e n d e s j u n g e n
W e r
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'
シラーの﹃群盗﹄
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r '
^やクライストの﹃ローベルト・ギスカール﹂, , R o b e r t G u i s k a r d
^ ‑
ヘッベルの
﹃ユ
ーデ
ィッ
ト﹄
, , J u d i t h
^
^やハウプトマンの﹃日の出前﹄, , V o r s o n n e n a u f g a n g ^
^などは後年の作品と比較して︑
ゥー ル
全く違った効果を与えている︒この点から見ておそらく初稿の﹃原ヒュペーリオン﹄やそれ以後の諸々の稿態など
も︑甘味な︑どっしりとして重い果実のように︑長い歳月をかけて成熟した完成作とは違った効果を大衆に与えた
かもしれない︒それ故これ等の稿態はいわば未完成なトルソーのようなものであるとはいえ︑われわれはこれ等を
も知っておく必要がある︒またこれ等は単に文学史家にとって重要であるばかりではなく︑
が有する価値のためにも︑即ち詩人の青春時代の深い思想から流れでたかの香り高い幽欝の美を認識するためにも が
ため
に︑
われわれは詩人の精神発展の各段階に立ち戻って︑
これ等の稿態それ自身
224
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︐ 1 1 1 l l I l 0 p I I I j
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特に必要なのである︒というのは既に述べたように︑これ等の稿態には完成作とは全然異った詩人の生活と体験︑
思想と観念とが反映しているし︑更にわれわれはこれ等を通じて︑詩人のいだいていた世界観や人生観の発展の道
程と︑それに関連して詩人の純粋な思想の戦の跡を窺うことができるからである︒
小説﹃ヒュペーリオン﹄は︑詩人の多くの作品のうちで︑その完成のために最も長い時間を要したものである︒
既にテュービンゲンの学院時代に︑ディルタイの所謂﹃人類の理想に捧げる讃歌﹄をまだ完全に歌いおわらなかっ
た頃から︑早くも﹃ヒュペーリオン﹂に著手し︑それからワルタースハウゼン︑イエーナ︑ニュルティンゲン︑フ
ランクフルトと︑詩人が漂泊するところ到るところで稿を進め︑遂に一七九七年の復活祭にその第一巻を出版し︑
次で一七九九年の復活祭に第二巻を公にした︒その間約八ヵ年の長い時を費している︒更に心身を痛めてフランス
のボルドー︵国oa8口邑から帰来し︑彼の精神病がやや沈静してのち︑フランクフルトの近郊ホンブルクに滞在
中︑友人シンクレーアのいうところによると︑第三巻を書こうとさえ企てていた︒こういう風でこの小説はヘルダ
ーリン研究家の興味の中心となり︑従ってこの小説の成立史に関する研究文献の多いのも当然の結果と思われる︒
一作品の成立史を考究する方法は︑その作品を創作せる詩人の書簡︑若しくは日記︑或は詩人に直接に︑間接に
触れた人々との対話等によることは勿論であるが︑特に﹃ヒュペーリオン﹄の場合においては︑当時の若き詩人に
及ぼせる文学上の作品の影響を看過するわけにはいかない︒そして彼が事実同時代の文学から強い影響を受けてい
たことは︑全く疑う余地がない︒特にルソーの﹃エミール﹄や﹃新エロイーズ﹄︑ブーターヴェックの﹃ドナーマー
伯﹄ご○烏呉ロ○口四日日︽︽︑ハインゼの﹃アルディンゲルロー﹄等は可なり永い間の影響を与えた︒更にゲーテの﹃若
きヴェルテルの悩み﹄︑シラーの﹃ドン・カルロス﹄︑ティークの﹃ウィリァム・ロウェル﹄・曹弓筐旨日冒言呂︽︽︑
古いところでは︑オシアンなどの影響も考えられる︒また﹃ヒュペーリオン﹄に含まれているすべての思想と観念
とが︑古くはプラトーン︑新しくはカントの著作を通じ︑なお同時代の人としては︑シラー︑フィヒテ︑シェリン
グ︑ヘーゲル等の著作︑もしくは個人的な思想交換によって感化されたことも見逃すことはできない︒従って以上
挙げたものの端的な影響の明らかな痕跡は﹃ヒュペーリオン﹄の諸々の草稿のうちに認められるが︑要はこれ等先
人の創作品や思想観念は詩人の精神の世界を説明するに役立つのみで︑結局この小説の最後の完成作は︑以上述べ
た先人の影響を蝉脱して︑純粋に最も独特に表現されている︒
一八八五年︑アウグスト・ザウアー︵シロ四樗里詮口角︶が﹃ヒュペーリオン青年記﹄ご国琶罵風o易旨需ご魚︽の
第一章と第二章の初めの部分とを︑ヘルダーリンの遺稿の中から発表し︵ごシ冒冨ぐ藍埼巨詰国富侭のg三s敏︽
雪く.の.雷・庫︶︑彼の友エーミール・ペッッォールト︵同日豈勺の言○国︶の示教に基いて︑この断片をもって小説
﹃ヒュペーリオン﹄の最古の草稿を発見したものだとした︒しかしその後ペッッォールトはこの判断を限定し︑こ
の断片と︑一七九四年の秋︑シラーの﹃ターリア﹄誌上で発表された﹃ヒュペーリオンの断片﹄所謂﹃ターリア断
片﹄の二つをもって︑われわれに知られている限りの最古の﹃ヒュペーリオン﹄の草稿であるとした︒またこのと
きザウアーは︑彼の発見した断片を︑詩人の遺稿のうちにあった韻文稿態と直接の関係があるものと認め︑この韻
文稿態は︑散文稿態を追加的に韻文化したものにすぎないと断定した︒
次に﹃ヒュペーリオン青年記﹄の大部分の後半即ち第三章の終りと第四章と第五章及び第六章の初めとがB・リ
ッッマン︵団.F昔日四口巳の手によって初めてへルダーリンの全集の中に収められた︒これでこの断片の中大体は
.ウール発見されたことになった︒そこでザウアーとリッッマンはテュービンゲン時代の所謂﹃原ヒュペーリオン﹄とは正
にこれだと信ずるに至った︒
I l l l I I l j 1 こ こ で も う 一 つ 挙 げ て お き た い こ と は
︑ 一 八 八 九 年
︑ カ ー ル
・ リ ッ ッ マ ン 負 閏
﹈ F 昔 日 四 国 ロ
︶ が
︑
﹃ ヒ ュ ペ ー リ
226
オン発展史﹄・Np敵国具昌烏旨ロ甥需の呂旨三の号の困昌罵凰○口今︽という論文の中で︑散文の稿態は韻文の稿態より
も時代的にずっと早く書かれたものに違いないことを発表して︑ザウアーの推定を局限していることである︒
それはとも角として︑K・リッッマンといい︑B・リッッマンといい︑以上の発見されたこの部分をもって︑フラ
ンクフルト時代に書かれた完成作の最初の稿態であると思った︒ところがその後一九○七年に至って︑ツィンカー
ナーゲル︵甸国自国国憲目画需﹈︶は︑﹃ヘルダーリン作ヒュペーリオンの発展史﹄ゞb討圃具言呉旨ロ甥需のg甘三①
9国国巳号藍易国冨罵凰○風︽という精細を極めた研究を発表したが︵C屋呈gppQ甸○厨9口ご需口国昌の宮胃亨
ロロ・嗣巳冨侭①g三号誌Q2閂目四三の92くひ濤閂団9毛.望国雲貝頤乞三︶︑その研究の最も偉大な意義は︑
ウール詩人がテュービンゲンの学生時代に書きおろし︑当時友人の前で読んだ﹃原ヒュペーリオン﹄が存在していたが︑
今日それが失われていることを確証した点である︒
われわれは他の多くの詩人の場合と同様に︑ヘルダーリンの場合にも︑彼と友人との間を往来した書簡によっ
コンッエプッイオーンて︑この小説の構想や当初の仕事について知ることができる︒エーミール・レーマン︵同日宮F9日四目巳
プラーンのごときは︑この小説の設計は既に一七九○年の終りか︑一七九一年の初めかに計画され︑次いでその創作が始め
られたと主張しているのは少し極端のように思われるし︑またこれを立証するに足るだけの資料も今のところは全
ウールくない︒寧ろ既に前に述べたように︑﹃原ヒュペーリオン﹄の存在を証明したツィンカーナーゲルの論証︵二三頁
三七頁︶に基いて暫らく考察してみたいと思う︒
ウ0ル﹃原ヒュペーリオン﹄の考案は︑詩人のテュービンゲン時代のどの時期であったかをここに明言することは困難
であるが︑この小説についての最初の言説は︑一七九二年六月三日︑ヘルダーリンに宛てた友人マーゲナウの書簡
に現われている︒﹁君は小説家になるつもりだね︒無経験な巡礼者をおびやかす深淵の間を︑﹃ターリア﹄は安全に lllllll1UD■︐1111lllrr●111︲111卜011︲411︲101引9JⅡ111ⅡⅡⅡⅡl︲IIlIlllllII
君を導いてくれるだろう︒﹂この二つの文章から見ると︑今までは声高らかに︑ひたぶるに讃歌だけを歌いつづけ
てきたヘルダーリンが︑ここで小説に筆を転じようとしているのが窺われる︒またこの文面だけから想像すると︑
ヘルダーリンはこれより先きに友人マーゲナウに宛てて︑自分の書こうとする小説について何等かの暗示ぐらいは
与えていたに違いない︒しかし勿論この書簡は今日は遺憾ながら行方が明かでない︒ところが後になって︑マーゲ
ナウはこの小説についてもっと詳細のことを知るようになった︒というのは一七九二年秋休暇に︑ノイッファーに
宛ててこう書いているから︒﹁ホルッ︵註友人間のヘルダーリンに対する愛称語︶は今現に第二の﹃ドナーマー﹄
もいうべきヒュペーリオンについて書いているが︑期待するところ多いように思われる︒ヒュペーリオンという人
物とは自由を愛する英雄で︑蟄固な主義をもった真のギリシャ人だ︒僕は是が非でもその主義を聞きたいのだ︒﹂こ
の手紙から察すると︑マーゲナウの来訪を機会に︑ヘルダーリンは最初の草案の一部分を読んで聞かせた上に︑恐
らくは自ら︑今現に書き始めているこの小説と︑詩人と哲学者とを兼ねたブーターヴェック︵卑.団○昌臼言禺ご宝
1房鵠︶の﹃ドナーマー伯﹄︵ごQ崎呉ロopmB9へ︽弓窒l認︶とを比較したことは容易に想像される︒なおこの書簡
ウールによると︑詩人は既に一七九二年秋にはこの小説に著手していたことが明らかであり︑﹃原ヒュペーリオン﹄につ
いて三つの重大なポイントが示されている︒第一にブーターヴェックの﹃ドナーマー伯﹄との確かな類似と︑第二
に﹁自由を愛する英雄﹂という言葉は︑奴隷のように束縛された現代に反抗する一英雄の面影を暗示し︑第三には
﹁筆固な主義をもった真のギリシャ人﹂という言葉は︑簡潔ながらも主人公の性格を十分に暗示している︒
更に詩人自身が直接にこの作品について︑ノイッファーに宛てた二つの書簡がある︒第一は一七九三年六月の初
めに書かれた手紙の最後のところで︑﹁この次には君の判断を乞うために︑僕の小説の断片を送ろう︒好奇心があ
るならその間に愛するドクターに訊ねるがいい︒その内の少しばかりを彼に読んで聞かせたのだ﹂︵第六巻八四頁︶
’
228
l ト ー I 1 l I l l l l I
と書いている︒即ちこの書簡によれば︑この年の復活祭に︑詩人が﹁愛するドクター﹂即ちシユトイトリーンがテ
ューピンゲンにヘルダーリンを訪ねたとき︵八四頁︶︑この作品の一部分を読んで聞かせたことは明らかである︒第
二の書簡は七月の末多分二十一日か︑Iそれとも一︑二日遅れてかl書かれたもので︵八五頁以下︶︑これによ
って見ると︑当時へルダーリンがシユトイトリーンに宛てた原稿小包の添書ともいうべき書簡がなければならない
筈だのに︑この書簡も失われていることはわれわれにとって非常な損害である︒もしこの書簡が現存すれば︑われ
ウールわれはこれによって﹃原ヒュペーリオン﹄の当時の状態を更に明瞭に知ることができるからである︒とも角もそれ
までに書きあげられた小説の大部分の断片が︑シユトイトリーンに発送するためにノイッファーの手紙の届いた朝
には包装されたのである︒ヘルダーリンが︑この断片は単に断片として見られてほしいのだという立場を︑シユト
イトリーンに績々述べておいた所謂添書は︑上述したように今日は遣っていない︒しかし幸い同日にノイッファー
に宛てた手紙には︑多少これを補足している︒追伸の中で︵八八頁︶︑シユトイトリーンに宛てたこの包みを彼のと
ころへ届けてくれとノイッファーに依頼している︒この包みは一七九三年七月二十日付のノイッファーの手紙が到
着した朝には既にでき上っており︑従って七月二十一日か︑遅くとも二十二︑三日の手紙といっしょに包まれてノ
イッファーに送られている︒若し﹃ヒュペーリオン﹄の原稿がこの包みの唯一の内容物であるとすれば︑その原稿
は彪大なものであったに相違ない︒また有難いことにはノイッファーに同時に送られたこの書簡を見ると︑﹃ヒュペ
ーリオン﹄を執筆していた当時の詩人の心境や︑その作品の内容や︑またその執筆の動機などが窺われる︒特に執
筆の動機として︑彼の讃歌群が美しい心情をもった同時代の人々の心をあまり捉えていなかったので︑この事実が
ギリシャ人を主人公としたこの小説の計画を一層強めたのだといっている︒また﹁今日︑シユトイトリーンに送る
断片で︑僕のヒュペーリオンが果して口達者な︑冒険好きな騎士達よりも少しはましにわれわれを喜ばす主人公の 「
いないと思っことが幾度もある︒﹂ 心の友よ/僕は勿論それほ ドイツ哲学思想史的にいえば︑の先駆をなしているとヒルデプラントなど 或はイリスス 仲間入りができるのではないかどうか︑君の周囲の高雅な女友達等に判断してもらってくれ﹂といっているところを
見れ
ば︑
ヘルダーリンは当時流行していた騎士小説の通俗趣味と違って︑ヒュペーリオンの美と自然に心を傾け
る崇高なギリシャ的性格を特に強調している︒当時プラトーン︑特にその﹃髪宴﹂に沈潜していた詩人の心境は︑
以下引用してあるように正に神々に酔った人そのものであった︒﹁⁝⁝幸を恵み給う自然の懐から︑
河のほとりなるプラクナスの杜から帰ってきたときの神々しい時間︑プラトーンの弟子達の仲間にたむろして︑壮
給 く が お く が
厳なる人のゆく跡を見送っては︑根源の世界といういや果ての不可解の境をさ迷うさまを見︑或は深所の深所︑世
界の霊がその生命を自然の数知れぬ脈中に送ると︑その流れでた力は無限の循環をなして︑その後再びそこに還る
という霊の国のさい果てまで︑めまいするままにその人につき従ったときの神々しい時間:
. .
. .
﹂︵
第六
巻八
六頁
︶︒
こういう神々しい陶酔の状態にあって︑彼の詩境もまた開けていったことは間違いない︒またの世界霊の思想は︑
シェリングの﹃世界霊﹄︵一七九七年︶
はいっている。詩人の書簡はなおつづいてこういっている。「…•••こういう時間こそ、
ど意気消沈してはいない︒そうしてこうした瞬間に僕をあたため照らしてくれる甘美な焔の火花を︑僕が今熱中し
ている作品︑僕の﹁ヒュペーリオン﹄に伝え︑その他また人類の歓ぶように時々何かを世に送ることができるに違
更にヘルダーリンは︑断片といっしょに芸術家の原理についてシュトイトリーンに宛てた手紙の中で棲々のべた
うち最も重大な点さえも︑時間の足らないために述べることのできないことを遺憾に思うと書いている︒しかし
﹁これだけはいっておこう︒この断片は︑確たる性格を熟慮して展開させたというよりは︑寧ろ偶然な気分のごっ
︑
︑
︑ モ テ イ ー フ
たまぜのように見える︒というのは︑僕は思想︑感情の動機を不明のままにのこしているからである︒そしてこれ
230
「
﹃ヒュペーリオン﹄について詳細に論じているこの書簡に対するノイッファーの返事は伝わっていない︒しかし
シユトイトリーンは︑彼に送られた断片について次のような返事を書いている︒﹁あなたの小説を読んで︑私はそ
の美しい言葉と生き生きしている描写とにとても引きつけられました︒私がこの断片より以上のものを手に入れま
すなら︑ご計画について私の判断が得られます︒もしあなたが初めの方をできるだけ早く送って下さるなら︑私は
あなたに対して非常に有難く感じます︒I時代の精神に関する秘密な章句をこの作品の中に書き入れることを思
いとどまらないで下さい/﹂︵一七九三年九月四日︶
この返書から見ると︑この断片は︑大体においてヘルダーリンの詩を想わせ︑ノイッファーに宛てた七月下旬の
書簡を想わせるような古代ギリシャに対する深い憧慢に満ち溢れた作品ではなかったろうか︒しかし新しい印象の
社会を瓢望して︑一種の社会改革の理想に燃えていたシユトイトリーンから見れば︑このプラトーンに惑耽し︑ソ
クラテースに酔い︑アリストファーネスの機知におぼれたギリシャ憧慢の若い詩人に対しては何となく物足らなさ
も感じたであろう︒それなればこそ︑時代の精神に関する秘密な章句をこの作品の中に書き入れることを思いとど
ウールまるなと注意を喚起しているのである︒従ってまた完成作に出てくるアラバンダのような人物はこの﹃原ヒュペー
リオン﹄では到底考えられない︒またこの小説はどういう形式をとったかも今日遣っている文献からは断言できな
い︒しかし﹃ヴェルテルの悩み﹄や﹃ドナーマー伯﹄のように書簡体の形式で︑所謂告白文学の形式をとったらし は︑規則正しい心理的展開によって悟性を働かせようとするよりも︑寧ろ︵美的享受のために︶思想︑感情の絵画によって趣味の力を働かせようとしたからである︒しかしそうはいっても勿論︑結局はすべては正確に性格と性格に影響する環境に帰せられねばならない︒これがこの小説の場合に当てはまるかどうかは︑結果が示すかもしれない︒﹂︵第六巻八七頁︶︒ Iもl1IllJIIl01I1IIIlll
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間
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こ
の
小
説
に
つ
い
て全く語られていないことは怪しむに足らない︒というのはその当時は専ら卒業試験︑次で学院の卒業︑帰郷︑家
庭教師の就職運動︑ワルタースハウゼンヘの移転などに心を用い︑忙殺されていたからである︒
すべての﹃ヒュペーリオン﹄断片のうち︑シラーによって彼の雑誌﹃新ターリア﹄第四巻第五号一七九四年十
一月一日に載せられた﹃ヒュペーリオンの断片﹄ご再品目の三ぐ○口国望冨風○口︽︽はその成立の時が明らかであるだ
けに︑成立史を研究する上に確かな鍵となっている︒
詩人がフォン・カルプ家の家庭教師としてワルタースハウゼンに来たのは︑一七九三年の暮れ近くであったが︑
既に永い間﹃ヒュペーリオン﹄については何事も語らなかった︒しかし遂に翌年四月の初めノイッファーに宛てた
書簡において︑初めてこの小説について物語っている︒今われわれは前年七月の書簡を想い起すと︑実に九ヵ月の
間詩人は全くこの小説について沈黙を守っていた︒﹁僕は今小説だけに没頭している︒僕は今計画にもっと統一を
もちたいと思う︒また作全体がもっと深く人間の中に這入りこむように思われる︒﹂︵第六巻二○頁︶この手紙を
読むと︑既に改作が始まっておることが明らかに察知できる︒しかしこれが果してその後﹃新ターリア﹂に掲載さ
れた﹃ヒュペーリオンの断片﹄となったのか︑或はこの仕事がテュービンゲン時代の最初の構想に従って進められ
ウールたものであるかどうかは︑可成り焔大と思われる﹃原ヒュペーリオン﹄の原稿が遣っていないので︑確実には決定
しがたい︒しかし九四年十月十日︑ノイッファーに宛てた書簡で︑﹁この夏は大抵僕の小説で過ごしてしまった︒
そのうちの最初の五つの書簡はこの冬﹃ターリア﹄誌上で君のお目にかかるだろう︒今その第一部は殆んど全く終︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑っている︒古い原稿からは殆んど一行も遣らなかった﹂と明瞭にいっているところから見ると︑極めて根本的な改
作が行われたことには間違いはない︒従ってこの改作のためには可成りの時間を要したであろうし︑またその改作
232
の著手もそう遅れてはいなかったと想像される︒従っていくら遅れてもワルタースハウゼンに移って間もない︑九
四年の早春には既に改作に著手していたのではなかろうか︒もう一つの手紙lそれは九四年の復活祭前に書かれ
たらしいノイッファーに宛てた手紙lを読む必要がある︒﹁主に僕は今なお僕の小説だけに注意を払っている︒
僕はこのことで結局自分を潮笑せざるをえなくとも︑技巧と別れを告げようと固く決心した︒加うるに僕は全心全
霊をうちこんだ抽象の領域から今は可なり戻ってきている︒﹂︵第六巻二三頁以下︶この手紙でも彼は小説の新し
い形態について語っていることが想像される︒以上の九四年四月のうちに書かれた二通の書簡から推論が許される
ウールならば︑テュービンゲン時代の所謂﹃原ヒュペーリオン﹄の計画には先ず真の統一が欠けていたということが推定
されるし︑次に全体を余りに抽象的に取り扱いすぎて︑手紙にもあるように人間との交渉が余りにも少なかったの
で︑それを飽き足らず思った詩人はこれを捨ててしまったのであろう︒また﹁全心全霊をうちこんだ抽象の領域か
ら今は可成り戻ってきている﹂という言葉は︑テュービンゲン時代の後期には︑既に書いておいたように︑ヘーゲ
ウールルやシェリングとの交遊によって哲学︑抽象の世界に余りにも沈潜しすぎていたので︑﹃原ヒュペーリオン﹄もそ
の影響を受けて︑作品全体が余りにも抽象的に取り扱われすぎていたのが︑ワルタースハウゼン時代に至ってこれ
が見捨てられ改作されたのであろう︒こういう現象はヘルダーリンの生涯にもう一度繰り返されている︒例えばイ
エーナ時代にカント︑フィヒテの影響を受けて矢張り抽象の世界に没頭し︑一時は韻文稿態の﹃ヒュペーリオン﹄
に筆を染めていたが︑やがてフランクフルトにおいて空想の所産ではない本当の生けるディオティーマを知るに及
んで︑彼自ら﹁空気の精霊﹂といった抽象哲学の世界から遁れて真の完成作﹃ヒュペーリオン﹄が産みだされたの
とその軌を一にしている︒
九四年五月二十一日の苧日の弟に宛てた手紙で︑﹁僕は今あるものを制作中だ︒それが清書されないうちは︑僕は話し
更に九四年七月三日︑友人ノイッファーは︑﹁君の小説に対して僕は非常に好奇心があるよ﹂とヘルダーリンに
書いている︒その返事かどうかは分らないが︑同月中旬︑﹁僕は僕のこと︑僕の小説のこと︑僕のカントや美学の
研究のこと:⁝・について話したい﹂︵第六巻一二六頁︶と書いているところを見ると︑まだこの七月には︑﹃新ター
リァ﹄に載せるための小説の執筆中であったことは疑いない︒そのためかこの小説については同年十月十日にノイ
ッファーに告げるまで約三ヵ月の間沈黙している︒この手紙は上段既に引用しておいたからここに重復するのを避
けたいが︑この手紙から推定されることは︑新しい稿態の最初の五つの書簡が﹃新ターリァ﹄誌上に載せられるた
めに︑所謂﹃ヒュペーリオンの断片﹄として分離されたことである︒またその手紙の中でシラーにその原稿を送っ
ウールたことも明らかな事実だし︑﹃原ヒュペーリオン﹄とはすっかり変った新しい稿態の第一部が殆んど完成に至った たくない﹂︵第六巻二九頁︶という文言を見出すことができる︒この言葉も矢張り﹃ヒュペーリオン﹄のことを意味しているとすれば︑彼はこれより先き︑九三年の秋から年の暮れまで一二ルティンゲンに滞在していた間に︑十七才になる弟に対しては最初の稿態の﹃ヒュペーリオン﹄については一言も話したことはなかったのではないかという想像もなり立つ︒
この﹃ヒュペーリオンの断片﹄の様式は所謂書簡体で︑世界文学史上多くの先縦があるとはいえ︑小説の様式と
して必ずしも上乗のものではないが︑その後四年半の後に完成された︒﹃ヒュペーリオン﹄全二巻の思想内容の天
才的なひらめきは既にこの断片の中に現われている︒当時彼はシラーの美学上の論文﹃優美と品位﹄に刺戟されて
美学上の論文を書いた形跡があるし︑またカントの哲学︑特に﹃判断力批判﹄に強い関心を寄せていた︒特にシラ
ーの﹃哲学書簡﹄の深い影響のもとに︑一七九四年の早春から晩夏にかけてこの断片を書いたものと思われる︒そ ことも間違いない︒
234
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ドイツ語に雛訳されたリチャード・チャンドラー︵観gmaO富国巳2︶の﹃小アジアとギリシャの旅﹄︵弓国蔚涜
言鈩の置冨言閂四国go制の8弓窪︶に負うていることをツィンカーナーゲルは指摘している︒
この小説の成立に強い関心を寄せていたフォン・カルプ夫人はシラー夫人に宛てた手紙で︑﹁あなたのご主人が
若いものの手紙に対してすぐに返事を下さるように︑なお且つお送りした﹃断片﹄をいく分ひい気めで受けとって
貰いたいと︑ご主人にお願いしてくれませんか﹂と書いている︒またこの﹃断片﹄は既に述べておいたように一七
九四年十一月に﹃新ターリア﹄第四巻に出ている︒九四年十一月にノイッファーに宛てた書簡で︑イエーナに移っ
てきたヘルダーリンがシラー家を訪問したその日に︑彼が見違えたゲーテの面前で︑シラーがゲーテに﹃ターリ
ア﹄を手渡したことを報告している︒ノイッファーは一七九五年一月二十六日︑﹁僕は君の﹃ヒュペーリオン﹄を れは上述の十月十日の書簡の中で︑﹁青春より男子の本質への大いなる過渡︑情熱より理性へ︑空想の国より真理と自由の国への大いなる過渡はいつもかくの如く徐々に取扱われる価値があるように思われる﹂︵第六巻一三七頁︶と書いているからである︒要するにこの断片の根本思想は︑恰も﹃哲学書簡﹄においてラファエルが彼の友ユーリウスを空想の世界から理性の世界︑即ち精神のより高い自由の世界へ導こうとしたように︑青年から成人への大過渡︑情熱から理性へ︑空想の世界から真理と自由の世界への大きな過渡を示している︒
また詩人は十月十日の手紙の中で︑﹁とに角僕は全体が清書される日を喜んでいる﹂と書いているが︑その日の
到来を彼は余り遠い日とは思っていなかったらしい︒というのはこの﹃断片﹄以上に彼の心にかかっていた﹃ソク
ラテースの死﹄ごロ日日&号のの昊国誘叺︽をギリシャ劇の理想に則して書こうという腹案をもっていたからであ
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﹃ タ ー リ ア
﹄ 誌 上 で 読 ん だ
︒ 親 愛 な る ヘ ル ダ ー リ ン 君
/ 君 が 僕 の 眼 前 に い る か の よ う に 思 わ れ た
︒ 僕 は 君 の 作 品 を
読み︑君の感情と主義を読んですっかり君がわかった︒﹂
一七九四年十一月︑彼がワルタースハウゼンからイエーナに居を移したことは既にわれわれは知っている︒彼は
今や従来尊敬の念を傾けていたシラーの身辺に身をおき︑巨人フィヒテの講義を聴くとともに︑小説﹃ヒュペーリ
オン﹄に対する努力は益々熟してきた︒先の﹃ターリア断片﹄に不満を懐いた彼は︑また新しい形式のもとにこの
小説に著手している︒これがイエーナに移ってから間もなく著手した韻文稿態に相違ない︒ツィンカーナーゲル
は︑カール・リッッマンの説に対して︑韻文稿態は初期のものではなく︑イエーナに移って︑フィヒテの教理の印
象を受けてから初めて成立したに相違ないことを証明している︒
勿論この韻文稿態はすぐにまた中断され︑その変更ともいうべく散文稿態即ち﹃ヒュペーリオン青年記﹄の第一
章︑或は最初の二章はなおイエーナ滞在中に企てられている︒それのみならず韻文稿態から移されたのではない
が︑それに続く散文の稿態がかなりイェーナ時代に進捗していたに相違ない︒
一七九五年一月十六日︑母に宛てて︑﹁私が数年来手にかけている仕事がこの復活祭までに完成したら︑私はあ
なたの重荷にはならないでしょう﹂と書き︑それから十日遅れてヘーゲルに︑﹁僕の創作活動は︑今日殆んど全く
僕の小説の資料の改作に向けられている︒﹃ターリア﹄誌上の断片はこれ等の素材の一つである︒復活祭までには
完成したいと思う︒その間はこれについて沈黙させてくれ﹂︵第六巻一五四頁︶と告白しているのは︑既に前年の
十一月にノイッファーに宛てて︑﹁思惟と詩作で作りたいもので頭も心もいっぱいだ﹂︵第六巻一三九頁︶といって
いることも︑ヘーゲルへの書簡でいっている︑﹁僕の小説の資料の改作﹂を意味していることは明らかである︒
ツィンカーナーゲルは︑緊密な関係にあるこの二つの稿態︑即ち韻文稿態と散文稿態の﹃ヒュペーリオンの青年
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第
三
巻
一
八
一
頁
︶
完
成
吟
ティナ人アダマスとの友情︵完成
示されているにすぎない︒それは
語るでしょう︒﹂︵第三巻一八一頁︶ 記﹄の中︑どちらが上述の手紙で考えられていたのかという問題を未解決のままにしておいた︒ここでは韻文稿態も散文稿態もともに素材の改作といいうる︒なぜならば︑今までに出来上ったものを再び生硬な材料としているからである︒この際考えられることは︑﹃ヒュペーリオン断片﹄によって公にされた所謂ワルタースハウゼン稿態が︑イェーナ稿態の基礎となっているだけでなく︑ヘルダーリンは今また確かにテュービンゲン稿態にも戻っている︒テューピンゲン稿態のように夙に捨てられたもの︑或はヘルダーリンの多くの詩作において見られるように未完成のまま︑生硬なものとして︑その当時役立たなかったものを後になって再び取りだして︑それを完成するやり方は︑ヘルダーリンの場合には繰り返し繰り返し見られるやり方である︒そういうやり方からのみ︑僅かに二三ヵ月のうちにある稿態が成立して︑その清書がぎっしりつめて書かれた四つ折判の頁で七十二頁以上にも及んでいるということが説明される訳だ︵バイスナー︑成立史︑第三巻三○三頁︶︒改作の程度は素材の全然新しい排列で推測されるワルタースハウゼン稿態︵﹃ヒュペーリオン断片﹄︶では︑メリーテとの出会は初めの方にでてきており︑それ以上の出会は予見されない︒﹁僕は永遠の存在のある時期に再び出会うだろう︒確かに/互に類縁のものは︑永遠にお互から遁れることはできない︒﹂︵第三巻一六七頁︶﹁僕は星の彼方においてその他のことを聞くだろう︒﹂︵第三巻一七九頁︶︒弓さようなら︑ヒュペーリオン﹄が彼女の最後の言葉であった︒そういって彼女は姿を消してしまった︒﹂︵第三巻一八一頁︶完成作では︑第二巻︵第三巻一○二頁︶にこの場面と同じものが描かれている︒若きティナ人アダマスとの友情︵完成作ではアラバンダとの友情︶︑彼と昔のトロアスヘの旅は初めの手紙で僅かに暗示されているにすぎない︒それはいつか他の時に語られる筈である︒﹁アダマスとの旅についてもいつか他の時に
またアダマスとの不和についても︑次に自由のための戦い︑メリーテに宛てた手紙についても後に語られる筈で
ある︒今︑この二つのイエーナ稿態では︑書簡体の形式が捨てられたばかりではなく︑︵書簡体の形式を捨てたこ
とによって︑ヘルダーリンがテュービンゲン稿態の形式に戻ったか否かということはいわれない︶とりわけその筋
はヒュペーリオンの青年時代が老人ヒュペーリオンによって若い訪問者に︑時を追うて語られるという構成になっ
ている︒あの奥ゆきの深い小説の形式は︑額縁物語によるこの表現法をもとるものである︒そもそもツィンヵーナ
ーゲルは︑この散文と韻文の稿態は︑一七九四年から五年に亘る冬よりも以前には書かれていないこと︑また先ず
散文で書いたものを同時に韻文で書いたものに違いないと論断している︒なおこの断片に出てくる老賢人を︑青年
の懇願によって自己の青年時代を物語るヒュペーリオンと解釈したために︑この稿態を所謂額縁小説として解釈し
ている︒従ってこの老賢人の青春物語こそヘルダーリンのイエーナ時代の創作の主要なる内容をなしているといっ
ている︒︵ロ耐圃ヨミ甘匡ロロ甥四囲g言亘のぐ○国函堅号邑言の困曽ロ日旨口の$︶これに反し︑マリー・ヨアヒーミⅡ
デーゲ︵冨胃届きg三日一︲ロの需︶は︑ヘルダーリン著作集の第二部︵一九○九年︶の緒言で︑﹁ツィンカーナーゲ
ルのようにこの断片を所謂額縁小説と見ることはできない︒即ち賢人がヒュペーリオンで︑従って最初の章で賢人
を訪れる詩人に︑後の章で彼の生涯の歴史を物語るこの小説の主人公であり︑従ってわれわれは第一章で﹁私﹂と
いっている人物を副人物としての詩人と解釈し︑しかし後続の章では賢人を主要人物として考えねばならないよう
なツィンカーナーゲルの所謂額縁小説の説には賛成しがたい﹂︵二十一頁︶といっている︒なおョアヒーミ︲デーゲ
は他の考慮を別としても︑終りの方の章にでてきて物語る主人公は︑くり返し明らかに賢人の許に話しにきて︑第
一章で語られた賢人の教理を殆んど逐語的にくり返すという事実は︑ツィンカーナーゲルの仮説と矛盾してくる︒
もし賢人が小説の物語の主人公であるとすれば︑従ってその賢人は︑絶対的に︑第一章で賢人が若い訪問者に聞か
せたと全く同じ教理を︵失われた章において︶賢人に聞かせたもう一人別の賢人について物語ったに相違ないだろ
238
また第一次世界大戦後に公にされたヘルダーリン全集︵國重日厨g︲︻曼耐○房シロ猪号の︼冨魑ロロのロQ昌呂z貝︲
言昇ぐ.国巴︸冨喝胃戸さ再霜震彦風口巨時呂甸国巴風○画艀呂閉のロロQFpQ葛侭ぐ.型需ロ日︶の第二巻で︑フリー
ドリヒ・ゼーバスが︑ヨアヒーミⅡデーゲの仮説に賛意を表わしている︒︵五○一頁︶
一七九五年二月二十二日に母に宛てた手紙では︑その年の復活祭までに出来上るなどとは書かないで︑復活祭後
第一巻が出来上るだろうと書いている︒﹁私が今までに手をかけてきた制作は順調に進んでいます︒もし彼︵筆者
註シラー︶がこの制作を引き受けてくれれば︑勿論幸いに過ぎることでしょう︒でも私は疑わざるをえません︑
と申すのは︑この制作はたっぷり二巻になりますし︑さればといって断片では引き受けそうもないからです︒また う︒それ故ヘルダーリンは二度︑短時間に︑次ぎ次ぎと全く同じことを報告せねばならなかったであろう︒彼がそういう風に彼の小説を書くに当って著手したとは考えられないだろう︒﹃ヒュペーリオン青年記﹄に出てくる賢人は︑寧ろ完成作のアダマスに応じている︒賢人は師である︒或はlより抽象的に表現するならばl賢人は︑修業時代の教理によって主人公の眼前におかるべき筈の小説の生命の目標を具体化している︒断片の両部分で一つの
モティーフ完全体をなしているという仮説の基礎は︑ョアヒーミⅡデーゲの考えるところでは︑様式︑契機︑場所︑外面的事
情及び形式から見て︑しかし特に︑人間精神の豊饒と自由に対して︑人間の本性の貧困︑即ち窮乏についての根本
思想を貫徹する点から見ても︑この両部分が内面的に連関性をもっているという点にある︒即ち︑人間の感情生活
I就中︑友情と愛︑及び他の人々との間における伝達への人間の墾望l人間を母なる大地に引きつける人間の
精神が豊かであればこそ︑人間は神性への最高の認識︑観照︑行動へと努力をつづけてゆけるのである︒人間精神
の富と欠乏というこの両方面を調和ある結合にもたらして︑それを平和に富んだ統一と美に導くのが︑この小説の
目標である︒
また第壼 b
全部をも引き受けることはむつかしいでしょう︒というのは︑彼が思い切って引き受けてくれた以前の雑誌︵筆者
註新ターリァ︶でさえその断片だけが印刷されていますし︑そういう訳ですから制作の一部分が彼によって二度
食卓にのせられなければならないでしょうから︒その上私は彼の望みに応じて︑復活祭後にはその第一巻が完成す
るその制作を彼に提出いたします︒然し私はある友人を通してある出版屋に︑どういう条件ならその原稿を引き受
ける気かと問い合わせました︒私は先方が原稿を受けとった後︑従ってその本が印刷に附せられないうちに︑支払
われてほしいということを条件としました︒と申すのは︑さもなければ︑私はそのお金を半年経ってやっと手には
いるでしょうから︒そして私はすぐに返事を待っているのです︒﹂︵第六巻一五七頁以下︶
この手紙から見ると︑詩人は︑名を挙げていない友人を通して︑名を挙げていない出版元に︑原稿の出版を依頼
した形跡がある︒しかし︑シラーはまだコッタに依頼してはいない︒ヘルダーリンは一七九五年三月十二日︑母に
宛てた手紙で︑初めてこのことを知らせている︒﹁シラーはテュービンゲンのコッタに︑私の作品を出版する意志
があるかどうか私の名前を出して手紙を書きました︒私は毎日毎日返事を待っています︒﹂︵第六巻一六○頁︶シラ
ーは三月九日にコッタに手紙を書いている︒﹁ヘルダーリンは﹃ヒュペーリオン﹄という小さい小説を執筆中です︒
その一部分は﹃ターリア﹄誌の最終から二番目の号に掲載されました︒約十二ボーゲンになる第一部は︑二三ヵ月
のうちに出来上がります︒あなたがそれをご出版下さるおつもりなら︑大変うれしいことでしょう︒彼には本当に
独創的な点が多いのです︒そして私はなおそれに対して若干の影響をおよぼしたいと望んでいます︒兎に角私は将
来﹃ホーレン﹄のために︑ヘルダーリンを期待しています︒と申すのは彼は大変勤勉で︑将来文学の世界で一廉の
人物となる才能には全く欠けてはいませんから︒﹂これに対してコッタは三月二十日にシラーにこう確約している︒
﹁あなたからへルダーリンの﹃ヒュペーリオン﹄のご推薦を賜わっておりますので︑私どもはそれを出版するつも
240
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I l ト ー q 1 1 1 I b l l り で す
︒ あ な た は こ の こ と を 彼 に お 知 ら せ 下 さ い ま す か
︒ そ れ と も 私 ど も が し て も 宜 し う ご ざ い ま し ょ う
月十三日︑ヘルダーリンは弟にこれを知らせている︒﹁僕が既に知らせたことのある僕の作品をシラーの勧誘に応
じてテュービンゲンのコッタが出版することになりました︒どれだけコッタが僕に支払うかは︑コッタが当地に来
たときに決着される筈だ︒それをシラーがそう望んでいるのだ︒それは約二週間のうちに起るだろう︒﹂︵第六巻一
六四頁以下︶コッタは︑ライプチッヒヘの旅の途中︑恐らく四月二十七日にイエーナに来たであろう︒ヘルダーリ
ン自身がコッタと交渉したのか︑それともシラーがその代理人となったのかそれは不確実である︒四月二十八日ノ
イッファーに宛てた手紙で報告した言葉の一節にある﹁僕はこれ以上要求したくなかった﹂という言葉から推し測
ると︑ヘルダーリン自身交渉した可能性が強い︒他面この文句には二つの誤解がある︒その誤解には︑直接出版元
と著者との間で結ばれた協定よりは寧ろコッタの出発後シラーの側からだされた最初の軽率な報告を思わしむるも
のがある︒というのは︑ヘルダーリンはこの手紙では何はさておき第一巻に対してだけで百グルデンの稿料が約束
されたし︑しかもコッタがその稿料を早くも指示したのだということをなお信じているからである︒﹁僕の小説の
第一巻に対してテュービンゲンのコッタは百フローリン支払ってくれた︒僕は暴利をむさぼりたくないので︑これ
以上は要求したくなかった︒シラーが僕のために出版の世話をしてくれた︒この小さな作品で憤慨してはいけな
い/僕はこの作品を書きあげるよ︒というのはそれがひとたび書き初められたのだし︑それに全然無よりはましだ
から︒そしてすぐに︑何か他のもので僕の信用を恢復したいという希望で自ら慰められているのだ︒﹂︵第六巻一六
九頁︶この手紙の中で︑﹁僕はこの作品を書きあげるよ︒というのはそれがひとたび書き初められたのだから﹂と
いう文句は︑﹃ヒュペーリオン青年記﹄の清書が既に進行中であることを暗示している︒
五月二十二日︑母に宛てた手紙で百フローリンの金が九月までに手にはいる希望をのべている︒﹁今までよりも︑
イェーナ滞在の末期において︑肉体的にも精神的にも破滅したのち︑ヘルダーリンは一七九五年の夏の初め︑ニ
ュルティンゲンの母の許に帰ったことは既にくわしく述べておいた︒この滞在の初めのうちは︑母の慈愛と弟カー
︑ルの理解のもとに︑﹃ヒュペーリオン青年記﹄の清書がまだつづけられていたであろう︒しかしその内にやがて完︑︑︑︑︑︑︑成作直前の稿態が初められたに違いない︒|ニルティンゲン滞在数ヵ月の間にはこの稿態に関して何の報告も見当
たらない︒しかし恐らくこの稿態において再び徹底的な改作が行われたという真に大きな問題がある︒各所に出て
くる友をあるときは切呈胃日言と呼びかけ︑あるときは巨呂日と呼びかけているのを見ると︑この小説は再び
ワルタースハウゼン時代の書簡態に戻ったことは一目瞭然である︒しかしつぶさに観察すると︑単に小説の形式が
書簡体に復帰したというだけではなく︑換言すれば︑この稿態は︑﹃ヒュペーリオン断片﹄が僅かに変容されたとい
うことではなくて︑素材の配置が先きの断片とは全然違ってきている︒個々の書簡を見ても︑明らかに﹃ヒュペー
リオン断片﹄よりも広く︑従ってその長さも全体として著しく長くなっている︒一七九六年五月十五日︑コッタに
宛てた手紙で︑全体が過度に延びすぎていることを認めている︒過度の拡がりは今日遣っている個々の断片からで
もはっきりわかる︒少くとも︑四つ折り判の頁で一四○頁あったに違いない最後から二番目含○里①言︒の稿態の
清書は︑大変遅れて印刷の手本e目鼻ぐO1m霜︶としてコッタに送られている︒弟のカールがその清書の手伝い あなたの重荷にならずに︑この夏はここで楽な生活ができるでしょう︒テュービンゲンのコッタが九月までには︑出版を引き受けてくれたつまらぬ原稿に百フローリン支払ってくれるでしょう︒しかしそれがこの冬まで全くそういう状況であるかどうか私の制作の成果を判断することができませんので︑確実に申し上げることはできません︒﹂︵第六巻一七四頁︶この文句の結末から見て︑ヘルダーリンは当時はなお第二巻に対しても同じような稿料を希望︵第六巻一七四頁︶一していたと見られる︒
242
実は元来印刷の手本としてまた考えられていた﹃ヒュペーリオン青年記﹄の清書は︑コッタに全然送られなかっ
たのである︒ヘルダーリンがまだイエーナにいた間に︵母に宛てた手紙︑﹁とに角私は彼︵筆者註シラー︶の需め
に応じて︑復活祭後その第一巻が完成する私の制作を送るでしょう﹂︶︑シラーは一寸﹃ヒュペーリオン青年記﹄の
原稿を見たであろう︒しかし一七九六年二月十一日の手紙で︑﹁君は僕の小説について何か新しいニュースを知ら
ないか?﹂という質問に直接つづく︑﹁シラーはまだ僕に何も送って来なかったか﹂という質問は︑小説について
の質問と混同してはならない︒シラーがその原稿を出版元に届くように送ったのでコッタの決心がシラーを経てへ
ルダーリンに届かねばならないかのように︒というのはそういうことはありえないからである︒
﹁シラーはまだ何も送って来なかったか﹂という簡潔な質問の表現も︑書簡の通信を指しているとは全く思われ
ない︒ツィンカーナーゲルが︑その著書︵二五頁︶で︑やがて届いた一七九六年度の﹃年刊詩集﹄に注意を向け
たことは確かに正しい見解であった︒しかし彼が同書︵二六頁︶で︑シラーが一七九五年九六年に﹃ヒュペー
リオン﹄の原稿を手にしたという仮説は間違っている︒
ヘルダーリンは一一ユルティンゲンからは﹃ヒュペーリオン﹄の原稿をシラーに一枚も送らなかったというツィン
カーナーゲルの確説は︑原稿は恐らく︸一ユルティンゲンからシラーに宛てた二通の手紙の中のどれか一つに同封さ をしている︒即ちaのF品①虞を書いた︒︵第三巻三○七頁︶彼の協力はこの四頁に限られてはいなかったろう︒この原稿はヘルダーリンがやっとニュルティンゲンを出発する直前に︑コッタに送られたであろう︒というのは︑そういう理由からのみ︑一七九六年二月十一日にフランクフルトから弟に宛てた質問︵君は僕の小説について何か新しい一ニースを知らないか︶が理解されるからである︒コッタの返答は︑|ニルティンゲンの宛名を経て期待されうるだけであった︒
ll1l︲
れていたろうというW・ベームの総合判断︵﹃ヘルダーリン﹄第一巻一九二八年二三○頁︶に較べて正鵠をえてい
る︒Iもしベームのいう通りであるとすれば︑確かにヘルダーリンはその原稿のことについてその手紙の中で言
及せずにおかなかったであろう︒またベームのいう通りだとすると︑その原稿はまた﹃ヒュペーリオン青年記﹄の
清書でなければならなかっただろう︒そして﹁ヘルダーリンはイエーナから去る際に﹃ヒュペーリオン﹄の原稿を
シラーの手にのこしてきたに違いない﹂という結論︵二六頁︶に達したツィンカーナーゲルとも同じように︑ベ
ームは事実この清書のことをいっているらしい︒しかしこの仮説は︑完成作直前の稿態の清書はようやくフランク
フルトででき上ったという帰結になる訳だ︒︵また淳.ゼーバスはヘリングラート版の第二巻五三三頁でこの清書
の残余を﹁フランクフルト時代のヒュペーリオン断片﹂と呼んでいる︒︶即ちその後へルダーリンが一七九六年五
月十五日に返事を出しているコッタの手紙の後で︑ようやく清書ができあがったであろう︒若しヘルダーリンがそ
の間に既にすっかり変った稿態を始めていたとすれば︑一七九六年の二月十一日︵弟に宛てた手紙︶にコッタの決
心などを尋ねはしなかったであろう︒古くなってしまった稿態などは︑彼にはどうでもよくなったのだろう︒また
彼はどうでもよかったからこそコッタにその古くなった稿態の返送を懇願していたしその改作を通告していたので
あろう︒しかし完成作直前の稿態が実際一七九六年五月十五日以後ようやく着手されたとすれば︑この稿態におい
ては︑短編の独自の統一が守られたとしても︑悪く守られていたにすぎないだろう︒また清書が問題であるとも考
えられる︒ヘルダーリンは一七九六年夏と秋とには︑﹃ヒュペーリオン青年記﹄とは根本的に違う﹃最後から二番
目の稿態﹄を先ず起草し︑次にこれを清書し︑最後にもう一度これを最終の稿態にするために根本的に作りかえる
十分な時間は簡単になかったであろう︒l先ずさし当りその第一巻だけについても︒その第一巻の印刷手本も恐
らくその年の年末年初にかけてテュービンゲンに送られたに違いなかったろう︒というのは一七九七年四月に第一
244
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l 1l ll IP 17 −1 .︒ ︲I Jl IL Il 01 ll ll ll l9 l1 !U 1P oI lj Il ll ll ll ll 0l q︲ lI qj ︲1 1︲ ll ll 1
一七九六年一月五月︑フランクフルト時代の最初の数ヵ月になお﹃最後から二番目の稿態﹄の続きは終って
いない︒︵九六年二月十一日︑弟に宛てた手紙の文句をそのままとってはならない︶
一七九六年五月l同年十二月︑或いは一七九七年一月︑﹃最終稿の前段階﹄と第一巻の印刷手本
一七九六年五月十五日に︑ヘルダーリンがコッタに宛てた返書によると︑コッタが原稿の短縮をすすめているこ
とが分る︒︵第六巻二○七頁︶ヘルダーリンは全体を一巻に縮めることに同意している︒そして各部分の釣合をと
らなければならないから︑コッタに既に送っておいた原稿の初めの方を返してくれと依頼している︒以上の点から
推察すると︑恐らく第一巻の印刷の手本をなおニュルティンゲンから送ってから後︑フランクフルト滞在の最初の
数ヵ月の間に︑完成作直前の稿態に従事していたことが分ってくる︒ヘルダーリンは短縮された最初の部分を二三
週間後に︑その残りの部分も約二ヵ月以内に送り返すつもりでいた︒︵第六巻二○七頁︶しかし一巻に短縮された 巻が出版されたのだから︒更に考えられることは︑カッセル︑ドリブルクヘの旅の途上では︑制作条件が全然恵まれていなかったことである︒それ故ヘルダーリンが旅によってまだ中断されていた数ヵ月の間に︑二つの全く違った稿態でつぎつぎに︑この巨大な制作を成しとげたのであろうなどとは到底考えられない︒
一七九二年の夏一七九三年の年末︑テュービンゲン稿態︵この内何一つ遣っていない︶
一七九四年春l秋︑ワルタースハウゼン稿態︵﹃ヒュペーリオン断片﹄として発表された︶
一七九四年十一月一七九五年一月︑﹃韻文稿態﹄
一七九五年一月七月・八月︑﹃ヒュペーリオン青年記﹄︵清書は早くとも一七九五年四月に開始された︶
一七九五年八月九日十二月︑﹃最後から二番目の稿態﹄︵一七九五年十二月中にコッタにその印刷手本を発送
している︶