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三島由紀夫における「ブラジル」ーステレオタイプ の問題を中心にー

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三島由紀夫における「ブラジル」ーステレオタイプ の問題を中心にー

著者 ホーシャ シルヴェイラ ヂニス ホドフ

著者別表示 ROCHA SILVEIRA DINIZ Rodolfo

雑誌名 人間社会環境研究

号 35

ページ 99‑113

発行年 2018‑03‑31

URL http://doi.org/10.24517/00050963

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

(1) 三島由紀夫における「ブラジル」−ステレオタイプの問題を中心に− 113

要旨

三島由紀夫︵一九二五〜一九七○年︶は一九五○年代の初め︑朝日

新聞の特別通信員としてブラジルやギリシャなどの国々を五ヶ月ほど

かけて巡った︒ブラジルでは︑三島が日本人移民との交流からリオの

カーニバルまで様々な体験をした︒そして︑これらの体験から取材を

得て︑紀行文﹃アポロの杯﹄︵一九五二年︶をはじめ︑短編小説﹁不

満な女たち﹂︵一九五三年︶や︑戯曲﹁白蟻の巣﹂︵一九五五年︶など

を著した︒そこで描かれているブラジルの模様から推測するに︑三島

由紀夫はすっかりブラジルのことが気に入ったようで︑彼が訪問した

場所について好意的に書いているように見える︒しかし︑三島のブラ

ジルを見る目を注意深く検討すると︑そこには多少の偏見があること

もまた明らかになってくる︒

本稿では︑ブラジルを舞台あるいはテーマとする三島の作品におけ

るブラジルの表象について︑サイードのオリエンタリズム論を参考に

しながら考察した︒その結果︑三島は︑﹁幻想﹂﹁恋﹂﹁怪しい物語﹂

といった要素と結びつけられて表象された﹁エキゾチックな国﹂や﹁恋

の国﹂という偏ったブラジルのイメージをもって作品に描いたことが

わかった︒このようなブラジルの表象は︑十六世紀から十九世紀にか

けてブラジルに到来した外国人︑中でも支配者たる欧州人によって描

かれた﹁楽園﹂的なブラジルのイメージを継承していると考える︒ま

た︑この支配者によるブラジルの表象が﹃西洋記聞﹄から︑福沢諭吉

三島由紀夫における﹁ブラジル﹂lステレオタイプの問題を中心にI

人間社会環境研究科人間社会環境学専攻

ホーシャシルヴェイラヂニスホドフ

やハリウッド映画までによって古くからそのまま日本へ伝われてきた

といえる︒

三島は︑ブラジルに一ヶ月ほど滞在し︑豊かな体験を経て帰国した

ものの︑彼の目が向いていたのは常に﹁西洋﹂であったため︑﹁オリ

エント﹂の側に回されたブラジルの本質を見ていないという結論に達

した︒彼の語ったブラジルは︑むしろ幼年時代の甦りなどのような﹁珍

しい体験﹂や︑恋愛の実現ができる不思議かつ異国情緒満載といった

自分の﹁頭のなかでつくり出された﹂国であると考える︒

三島由紀夫は︑一九五一年一二月から翌年五月にかけて︑朝日新聞

の特別通信員としてアメリカ︑ブラジル︑ギリシャなどの国々を五ヶ

月ほどかけて巡った︒これは三島にとっての初めての海外体験で︑彼

に大きな影響を与えた︒その結果︑三島由紀夫研究史において三島の キーワード

三島由紀夫︑ブラジル︑﹁不満な女たち﹂︑﹁白蟻の巣﹂︑﹁複雑な彼﹂︑

﹁ボン・ディア・セニョーラ﹂︑エキゾチシズム︑オリエンタリズム︑

ステレオタイプ

はじめに

(3)

(2 人間社会環境研究第35号2018.3

112

一つの転換点として位置付けられている三・三島と外国とのかかわ

りに注目する研究においては︑欧米諸国に関するものを中心に行われ

ており︑とりわけギリシャやアメリカとの関係が多く論じられている︒

しかし︑ブラジルとの関係に注目するものはまだその数は多いとは言

えない︵三︒

三島は︑一九五二年一月二十七日に︑リオデジャネイロに到着し︑

そこで九日間を過ごしている︒リオの古い町並みや公園を散策したり︑

子供達に加わって映画館に行ったりする中︑三島は自分の幼年時代を

甦るという珍しい貴重な体験をしたという︵三︒また︑つとに先行研

究で指摘されているように︑リオは三島の同性愛実行の地であると

も推測されている︵四︶︒その後︑彼はサンパウロへ赴き︑現地の日系

社会と大いに交流する︒そして︑その五日間後にサンパウロ州郊外に

あるリンス市に行き︑元東久邇若宮である多羅間俊彦のコーヒー園に

滞在した︒さらに︑二月二十日にリオへ戻り︑カーニバルを体験して︑

三月二日に欧州へ出発する︒彼は︑リオのカーニバルや︑リンス市の

コーヒー園での体験から取材を得て︑紀行文﹃アポロの杯﹄︵朝日新

聞社︑一九五二年︶をはじめ︑サンパウロと日本人移民社会を描いた

短編小説﹁不満な女たち﹂︵﹃文芸春秋﹂︑一九五三年七月︶や︑当時

の日本社会を寓意的に描いた戯曲﹁白蟻の巣﹂︵﹃文芸﹄︑一九五五年

九月︶などを著した︒また︑﹁ボン・ディア・セニョーラ﹂にはリオ

のカーニバルとマット・グロッソ州を︑﹃複雑な彼﹂含女性セブン﹄

一九六七年一月一日号〜七月二○日号︶には恋愛の理想が実現する場

所としてのリオを描いた︒これらの作品に描かれているブラジルの様

相から想像できるように︑三島由紀夫はブラジルに魅了されたらしく︑

彼が訪問したところは好意的に書かれているように見える︒ところが︑

三島がブラジルを語る文章に目を向けてみると︑そこにステレオタイ

プな眼差し︵場合により偏見とも言える︶があることもまた明らかに

なってくる︒ 彼はブラジルを語るときに︑﹁鮮やかな色彩﹂﹁誰もかれも酔ってゐるやうに﹂﹁みんな恋をしてゐるみたい﹂のような表現を多く使っている︒その他︑﹁夢のような﹂﹁不思議な﹂﹁奇妙な﹂﹁郷愁的な﹂﹁幻想的な﹂﹁陶酔﹂といった一連の語彙に加えて︑﹁カーニバル﹂に関連する﹁喧騒﹂﹁サンバ﹂や︑人種に関する﹁琉珀﹂﹁黒人﹂などを使用している︒このような夢と幻想の国としてのブラジル表象は︑エキゾチシズムと異国趣味と結びついたオリエンタリズム的な視点による典型的なイメージである︒そこで︑本稿ではサイードのオリエンタリズム論を借りながら︑三島由紀夫がブラジルを訪れた際︑どのようにブラジルを見︑作品に描いたかを検討する︒

オリエンタリズムとは︑元来︑十九世紀を中心とした︑ヨーロッパ

のロマン派による異国趣味の美術や文学︑あるいは東洋を対象とした

学問を意味する︒このオリエンタリズムのもともとの概念に︑パレス

チナ系アメリカ人の比較文学者エドワード・サイードの著書﹃オリエ

ンタリズム﹄︵一九七八年︶によって︑新たな意味が付与された︒サイー

ドは︑基本的にイスラム世界を分析対象とし︑オリエント︵Ⅱ東洋︶

に対するヨーロッパによる偏ったオリエント表象とは︑﹁オリエント

を支配し再構成し威圧するための西洋の儲剣﹂︵五︶であると論述して

いる︒また︑彼によれば︑オリエントは﹁むしろヨーロッパ人の頭の

中でつくり出されたものであり︑古来︑ロマンスやエキゾチックな生

きもの︑纒綿たる心象や風景︑珍しい体験談などの舞台である﹂とい

壷ハノO

無論︑サイードの研究対象はあくまでも支配国たるイギリス︑フラ

ンス︑アメリカにとっての支配国としてのオリエント︵彼の研究にお

いて︑これは主にイスラム世界を指す︶に対する偏った眼差しに限定 サイードのオリエンタリズム論

(4)

(3) 三島由紀夫における「ブラジル」−ステレオタイプの問題を中心に一 lll

している︒この意味で︑ブラジルは﹁オリエンタリズム﹂の範嶬には

入らないが︑十六世紀から十九世紀にかけてブラジルに到来した外国

人︑中でもョ−ロッパの旅行者によって描かれた﹁楽園﹂的なブラジ

ルのイメージは︑﹁オリエンタリズム﹂に深く関係していると言える︒

彼らは︑熱帯の自然に関心を惹かれてリオの絵画的な風景を賛美し︑

それを芸術作品や絵葉書によって世界に知らせた︒他方︑田所清克に

よれば︑﹁海の怪物や奇妙な人種︑人肉を食する種族の世界があるこ

と﹂︵六︶も信じ︑まさに﹁地獄﹂とでも言うべき︑﹁楽園﹂とは対極的

なイメージも作り出したという︒そこには︑﹁明らかに支配思想のヨー

ロッパ的なものが優位を占めた﹂︵七︶と︑田所は指摘している︒十九

世紀に入ってからも︑様々な分野の研究者は︑ブラジルの豊かな自

然︑民族的多様性などに関する知識を大いに広めたが︑ブラジルを異

国趣味と結びつけたイメージがまだ存在し続ける︒

サイードの研究は︑主にイスラム世界を対象として行われていたが︑

西洋にとってのオリエントであるインド︑中国︑日本などのアジア諸

国も︑もとよりオリエンタリズムとして見られる対象である︒しかし︑

﹁日本的オリエンタリズム﹂の構成要素は︑すでに明治時代初期から

日本帝国の植民政策に現れている︵八︶︒姜尚中によれば︑﹁近代日本の

国民的体験から生み出された対外観の大きな特徴は︑﹃古い侮辱的・

撰夷的な西洋観﹂の克服とともに︑﹃旧態依然たる近隣アジア諸国か

ら日本を区別しようとする自意識﹂が強化され︑ふたつの対外観が両

極分解していったことだ﹂︵九︶という︒そして︑この点に関して特に

深甚な影響を与えたのが︑﹁未開﹂のアジアから日本を抜け出し︑﹁文

明﹂的な西洋と仲間入りすることを目指した福沢諭吉の﹁脱亜入欧﹂

思想である︒中国や朝鮮半島のような日本の﹁植民地は︑日本本土に

与えた利益とは別に︑手におえない﹃放蕩息子たち﹄つまり︑犯罪者︑

貧乏人︑その他の好ましくない過剰人口を送り込む場所として役だっ

たように︑日本本土ではもちえない﹁性的体験﹂を誘発する場所でも 三島由紀夫がブラジルをどのように見︑どのように描いたか︑そし

て読者がそれをどう読んで受け取ったかについて考えるにあたり︑そ

の背景にある日本におけるブラジルの表象を確認する必要がある︒そ

のため︑ここでは三島が訪伯して作品に綴った一九五○年代において︑

日本にはどのようなブラジル表象が存在していたかを考察する︒

一九○八年にブラジルへの移民の動きが始まってから︑多くの知識人

や研究者がブラジルへ渡り雑誌や新聞で向こうの現状を紹介している

が︑その多くは在留邦人と移民問題に関する情報にとどまっている︒

実際に五○年代前半に﹁ブラジル﹂について一般的に知られていたこ

とは︑巨大な熱帯雨林の中に伸びていくアマゾン川と︑コーヒー農業

ぐらいのものであった︒

確認できた限り︑日本でブラジルを紹介する最古の文献は︑

一七一五年頃に成立された新井白石の﹃西洋記聞﹂である︒内容は︑

キリスト教布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シ

ドッチから諸国に関する情報を得てまとめたものである︒そのため︑

この書はすぐに公にされず︑筆写で少しずつ知られ︑世間に広まった あったのだ﹂と︑姜尚中は述べている︒

﹁好ましくない過剰人口を送り込む場所﹂ということで言えば︑石

川達三の﹃蒼眠﹄︵一九三五〜一九三九年︶などで描かれている南米

の日本移民も︑特に戦前においてはアジア諸国への日本移民と同様王

である︒それらは︑戦後は︑ブラジルがカーニバルや美女のイメージ

と深く結びつき︑二性的体験﹄を誘発する場所﹂として多く描出され

るようになる︒この点から考えると︑日本は︑アジア諸国に対すると

同様な﹁日本的オリエンタリズム﹂という眼差しをもって︑ブラジル

︵もしくは南米全体︶を見ていると言える︒

日本の一九五○年代におけるブラジルのイメージ

(5)

(4) 人間社会環境研究第35号2018.3

110

とある︒このような描写は︑欧州人の書いた原典を西川如見

︵一六四八〜一七二四︶が写したとされている日本最初の人種図譜

﹃四十二国人物図説﹄︵一七二○年に刊行︶に近い︵﹁好勇に人を殺し

炎って食ふ﹂︵十一︶︶︒

一方︑一八六九年に刊行された福沢諭吉の﹃世界国尽﹄が当時人々

の注目を集めた︒この児童向けの地誌書は︑﹁当時の日本人の多くが︑

日本︑唐︵中国天竺︵印度﹃南蛮︵ポルトガル︶︑オランダ︑ロシア︑シャ

ム程度の世界観しか有していなかった時代に︑ほぼ五大陸の国々をカ

バーし︑その国の政情︑人種︑国の成り立ち︑産業︑自然︑日本との

関りなどの点についてカラー刷りの和製本によって紹介した初めての

啓蒙書として注目され﹂︵十三︑当時の小学校教科書に取り上げられた

こともあって︑﹃学問のすすめ﹄と肩を並べるほど多く人口に贈炎し

た書物である︒木版半紙判の六冊本で︑一の巻は﹁亜細亜洲﹂︑二の

巻は﹁亜非利加洲﹂︑三の巻は﹁欧羅巴洲﹂︑四の巻は﹁北亜米利加洲﹂︑

五の巻は﹁南亜米利加洲︑大洋洲﹂︑そして六の巻は﹁附録﹂のよう

に構成されている︒その順に︑﹁諸国の風俗や制度が語られていくの

だが︑その中ではあからさまに優劣の差が言及されているのである﹂

︵十三︶︒例えば︑﹁アフリカなどは︑﹃土地は廣くも人少なく︑少なき人

も愚かにて文字をしらず技藝なく﹄﹃無智混沌の一世界﹂と︑まった のは一八八二年に刊行されてからだそうである︒そこには︑

バラシリヤ︑パラシリヤともいふ︵漢に伯西児︵ブラジル︶と訳

す︑即此︶︹略︺︑其地極めて荒潤にして︑東南北の方︑ことごと

く皆海に至る︑其俗︑木に棲み︑穴に居て︑好みで人を食へり︑

其北海の中︑セントヘンセントといふ小島は︑タンバコと出す所

也といふ︑︵︹略︺すなわちこれ煙草也︶︑︹略︺エイズスの教︑此

地方にも行はをし也︹略︺ く文明が絶えた地域として︑最低視されている﹂︒その一方で︑ヨーロッパは二富国強兵天下一︑文明開化の中心と名のみにあらず其實は人の教の行届き徳誼を修め知を開き文學技藝美を蓋し都鄙の差別なく諸方に建る學問所︑幾千萬の數知らず﹄とその﹃世界に誇る太平﹂ぶりを褒め称えている﹂︒この中で︑﹁文明開化﹂の欧州人︵Ⅱ白人︶によって開拓された﹁武良尻﹂は︑リオデジャネイロという﹁大都会﹂を都とする﹁南亜米利加の内にて第一の大国﹂とある一方で︑﹁廣けきども人の數少なく内地の方はいまだ開らけずして珍禽異獣鯵しい﹂︵十四︶

とあるように︑暖昧な位置付けになっている︒

その後︑日本におけるアフリカ︑アジア︑中南米に対するイメージ

は︑西欧の世界観をそのまま受け入れ︑それに基づいてつくられてい

く︒同じような形でブラジルを紹介するものはその後多少現れるが︑

その数は大正時代に入るまで実に少ない︒そして︑一八九五年に結ば

れた日伯修交通商航海条約を契機に︑﹃ブラジルⅡ○野勝屋︵日伯協

会︑一九二七年︶や﹃ブラジル語﹄︵名方平二︑一九一四年︶や﹃邦人

の発展地ブラジル亜好適無比天恵豊かなる楽土は招く﹄︵佐藤勇香著︑

実業之日本社︑一九三二年︶などのような刊行物が徐々に発表され始

めた︒一九六○年代以前までは︑ブラジルへの移民・移住を勧めるこ

とが主な目的であったため︑外務省通商局︵﹃在伯本邦移植民二關ス

ル視察報告﹄︵一九二六年︶など︶︑拓務省拓務局︵﹃移植民及海外拓

殖事業﹄︵一九三一年︶や﹃伯刺西爾ノ産業経済﹄︵一九三八年︶など︶︑

日伯協会会耕地生活の秘訣恥成功への道﹄︵一九三六︶など︶︑海外

移住組合連合会含ブラジル移住者便り﹂︵一九三四年︶など︶などに

よって多く出版されていたが︑その内容は経済事情や︑コーヒー農業や︑

農園での生活に関する情報だけにとどまっている︒また︑日伯協会や

海外移住組合連合会のようなブラジル移民と直接関わっている出版元

以外︑つまり秀英社︑潮出版社︑帝国書院などによる刊行物に関して

も同じ傾向が見られる︒その中から挙例すると︑ブラジルへ移民して

(6)

(5) 三島由紀夫における「ブラジル」一ステレオタイプの問題を中心に− 109

ところが︑アマゾンとコーヒーのイメージが強いと先に述べたが︑

一九三○〜四○年代︑ブラジル政府は自国への観光などを促進する

ために︑リオのカーニバルを国の代表的なイベントとして国際的に

アピールし始めたのである︵十五︶︒とりわけ米国においては︑﹁ブラジ

ルの爆弾﹂と称されていた女優カルメン・ミランダや︑ホセ・キャリ

オカ︵リオ出身という設定のディズニーキャラクター︶の影響で︑ブ

ラジルⅡカーニバル及びサンバというイメージが少しずつ広がってい

く︒ただし︑リオのカーニバルが実際に世界的に有名になったのは︑

七○年代の半ばぐらいからである︒その主な理由としては︑一九六六

年に創立された同三国閃少目ご詞︵ブラジル観光機関︶が七○年代にお のちに帰国した本間剛夫の小説﹃望郷﹂︵宝文館︑一九五一年︶や﹃ブラジル﹂︵立川図書︑一九五二年︶︑サンパウロ大学教授を勤めた斉藤広志の﹃ブラジルの日本人﹄︵丸善株式会社︑一九六○年︶︑伊藤陽三の﹃ブラジル新天地は招く﹄︵秀英社︑一九六二年︶などがある︒

一方で︑一九五一年に︑戦時中に断絶していた日本とブラジルの国

交が回復されて︑サンフランシスコ調和条約が翌年に発行されたおか

げで︑ブラジルに関する刊行物が多く発表され始めたが︑海外渡航自

由化︵一九六四年︶の後になり︑ようやく日本人移民以外の情報が

徐々に注目されるようになったと考えられる︒そのため︑経済事情や

コーヒー農業についてだけではなく︑ブラジルの文化や言語などを幅

広く紹介しているものが増える︒例えば︑ブラジル日系社会の文化的

発展に大きく貢献したアンドウ・ゼンバチ︵本名は安藤潔︶による﹃ブ

ラジル史﹄︵河出書房新社︑一九五九年︶には︑ポルトガル植民地時

代から二十世紀の移民史まで記述されている︒また︑ブラジルの一般

的なエチケットのあり方を解説する﹃ブラジル生活でのエチケット﹄

︵赤間みちへ著︑帝国書院︑一九六二年︶や︑写真家・三木淳による

写真集﹃サンバ・サンバ・ブラジル﹄︵研光社︑一九六七年︶などの写真集﹃サンバ・︽

刊行物も存在する︒

エキゾチックな国としての﹁ブラジル﹂

さて︑以上を踏まえて︑三島由紀夫の作品においてブラジルがどう

表象されているだろうか︒ここでは︑第一に︑原始的な自然や︑幾つ

かの奇妙な話を持つエキゾチックな国として描かれている点について

検討してみる︒﹃アポロの杯﹄やブラジル体験を綴るエッセイにおい

ては︑リオの景色なり︑リンスで見た雲なり︑三島由紀夫が必ず﹁ブ

ラジルの自然﹂との出会いを語っている︒そして︑その自然を見る際

に︑﹁新鮮な夏空の色﹂︑﹁雄潭な眺め﹂︑﹁白い大理石の隆々たる﹂︑﹁寂

然と魁偉な夏雲﹂などのように︑﹁夢の場面のように思われ﹂る﹁幻 いてもっぱらリオデジャネイロとそのカーニバルを世界に発信していたということが挙げられる︵十六︶︒したがって︑カーニバルとサンバの国という定型的なイメージは︑三島が訪伯した五○年代にはまだ薄かったと考えられる︒

三島は︑一九五二年にブラジルを訪問したが︑実際にブラジルを舞

台とする文学作品がその翌年から一九六六年にかけて書かれたこと

も重要である︒先述のように︑五○年代に入ってから︑日本におけ

るブラジルの情報が増え始めた結果と同時に︑ハリウッド映画︵十七︶

や外国書籍︵十八︶の影響で︑ブラジルⅡカーニバルというイメージが

日本においても普及されたと考えられる︒さらに︑ボサノヴァが︑

一九五○年代後半から六○年代にかけて世間の注目をたいへん集め︑

アメリカや日本でブームとなったことも︑リオデジャネイロ及びサン

バがブラジルの代名詞となることに大きな影響を与えている︒こうし

た状況をふまえると︑例えば﹃複雑な彼﹄におけるリオの描写は︑そ

の取材が三島の実体験から得たものだとしても︑それよりも一九六○

年代の日本社会に一般的に広まっていたブラジルに対するイメージを

反映していると考える︒

(7)

(6) 人間社会環境研究第35号2018.3

108

想的﹂なところとして描いている︒こういった夢と幻想の国としての

表象は︑オリエンタリズムの典型的なイメージと重なる︒

三島がブラジルを訪れた当時︑サンパウロは国内外から殺到してき

た移民で人口二百万人をすでに超え︑高層ビルや工場などが次々と建

てられ︑自ら﹁紐育の妹﹂と誇らしげに名乗っていたほど︑近代都市

化を進めていた︒しかし︑サンパウロを舞台とする短編小説﹁不満な

女たち﹂の主人公である桑原は︑サンパウロが﹁紐育の妹どころでは

なく︑辺境植民地の徒らに彪大な寂しい都市﹂だと言い︑続けて次の

ように語る︒

ここでは︑サンパウロが現代的な都市になろうとしているが︑語り

手︵Ⅱ主人公の桑原︶にとって最も魅力的なのは歴史的な建物や伝統

的な場所ですらなく︑﹁原始林﹂であると語られている︒桑原は︑サ

ンパウロが﹁刻々に相貌を変へ﹂︑﹁新式の高層建築が次々と建てられ﹂

ている﹁新興都市﹂であると言うものの︑結局︑都市の最も美しいと

ころを探そうとすれば﹁未開拓時代﹂まで遡らなければ見つけること

ができない︑という︒加えて︑サンパウロは﹁紐育どころではなく﹂︑

すなわち近現代における西洋文化の一つの中心的な大都会と決して類

似点があると思えず︑むしろ﹁辺境植民地の徒らに彪大な寂しい都市﹂

であるという︒サンパウロ︵ひいてはブラジル︶がいかに︑﹁新興都

市﹂として経済かつ文化的に発展しようとしても︑そこは﹁未開拓時

代﹂の名残をとどめる﹁辺境植民地﹂にすぎない︒まきに︑支配国た

るイギリスやフランスによって描かれたインドなどの植民地と同様で 結局サン・パウロでいちばん美しいのは︑往古の密林をそのままに残した原始林公園かもしれない︒諺蒼とした原始林が︑梢には昔に蔦かづらをからませて︑ほんの小地域ではあるが︑未開拓時代のこのあたりの面影を伝へてゐる︒ あり︑先述したような文明の進度で世界を分別する﹃世界国尽﹄や﹃輿地誌略﹄に類似するところがあると言える︒

別の箇所では︑﹁不満な女たち﹂の主人公・桑原がサンパウロにつ

いて語り続けるところに次のような表現が見られる︒

彼は原始林こそが真のブラジルだと考えているため︑その原始林Ⅱ

ブラジルのイメージを現実のサンパウロに見出せず︵自然に対して謀

叛的な街には﹁風土色を感じさせるものは何もない﹂︶︑違和感を覚え

ているようである︒また︑この先入観に相当するものを現在地に求め

る桑原にとって︑サンパウロがもつ美しさの別の側面は﹁夕まぐれの

原始林公園の散歩の途次︑騨雨に見舞はれる時に見出され﹂るもので

あり︑そこで﹁君は亜熱帯の蛮人が︑ひそかに密林に身をかくして︑

まだ見たこともない快楽の幻影に瞠目してゐる時の気持を味はふだら

う﹂という︒この箇所では︑自分を﹁亜熱帯の蛮人﹂と同一視しよう

とする主人公の姿勢から︑彼がいかに原始林としてのブラジルを追い

求めているかが明らかになる︒

また︑エキゾチックな国として描かれているブラジルのもう一つの

事例として︑男たちを媚薬で願す﹁ジプシー女﹂のような奇妙な話が

ある︒そのようなジプシー女は﹁不満な女たち﹂にも言及されるが︑

オペレッタ風の戯曲﹁ボン・ディア・セニョーラ﹂︵十九︶では︑ノイチ︵ポ

ルトガル語で﹁夜﹂の意︶という登場人物がある︒ セントロ街の中央部には風土色を感じさせるものは何もない︒椰子に囲まれた巨大な騎馬像のまはりに十数階建の新築のビルが林立してゐるために︑椰子の育ちがわるくて細々とみえるのが︑この街の自然に対する謀叛を象徴してゐる︒

アドルフォあなたはノイチを昔から御存知ですから︑申しま

(8)

(7) 三島由紀夫における「ブラジル」−ステレオタイプの問題を中心に− 107

その名前から神秘な雰囲気を醸し出す︑この﹁妖艶な﹂ジプシー女が︑

青年富豪のアドルフォや︑ボャデーロ︵牧童︶のペドロを惚れ薬でだ

まして︑自分の人形のように操るのである︒加えて︑懸かれた男を救

うことができるのは︑﹁ふしぎな療法﹂で魔法を解ける同じくジプシー

の﹁老人﹂だけである︒媚薬の力で男たちの恋情をもよおして︑国の

奥地まで連れて行くジプシー女の話は︑典型的にエキゾチックな怪異

讃であり︑さながらアラビアンナイトのような奇妙な物語である︒

さらに︑﹁エキゾチックな国﹂というブラジル表象の事例をもう一

つ挙げよう︒﹁ボン・ディア・セニョーラ﹂の第三場は︑カヌーで川

を流れていたノイチとアドルフォがワニに襲われるが︑ペドロがワニ

を撃って彼らを救うという場面である︒次の第四場﹁鰐と黒い娘﹂に

おいては︑鞄を作るために殺されるワニと︑人間の首を鞄として使う

﹁土人の娘﹂の会話が行われる︒以下に︑その一部を抜粋する︒

︵カーテンでも︑密林の道具幕でもよし︑前景がこのかげに隠れ

ると︑上手から士人の娘︽腕に圧縮した小さい人間の首を下げて ペ贋︲ロ ペドロアドルフォ すが︑ノイチは実は︑ツィガーヌ︑つまりジプシーの女なんです︒︵間をおいて︶知ってゐます︒ある酒場でノイチに会ってから︑私はノイチにとつつかれてしまったんです︒︵後略︶どんなことをしてもノイチから離れられないんです︒実は僕もさうだったんです︒かつて僕もあなたと同じ目に会ったんです︒しかしあるジプシーの老人に会って︑ふしぎな療法をうけてから︑全快しました︒今では僕はノイチには何も感じません︒

この第四場は︑神秘的でファンタスティックな幕間劇であり︑戯曲

の主題とはほぼ無関係であると言ってよい︒ここでは︑﹁人間の首を

下げてゐる﹂未開の﹁土人﹂という人物は︑先述した﹁地獄﹂的なブ 土人の娘鰐土人の娘 士人の娘鰐 ゐる︾︑

︵略︶

鰐 下手から︑腕に喪章を巻いた鰐が登場︶

ええええおまへはいい娘︑

黒い娘は好きだけど︑

白い娘は大きらひ︒

なぜ?なぜ?

白人どもはおそるしや

わしらを見ればボンと射つ

射たれた鰐はたちまちに

ハンドバッグになりかはる︒

ハンドバッグって何のこと?

土人の娘にやわかるまい︒

ほら︑ブラジル言葉で︑マラデマン︒︵日巴四房目g︶

おお︑マラデマン︒

私のマラデマン︑これだわよ・︵ト生首を示し︶

人間の首から骨を抜き︑

ぎゆつとちぢめて軽くして︑

ハンドバッグのニュー・モード︒

チャックをひらけば口紅に︵ト紅い石を出し︶

すてきな豪華なコンパクト︵ト貝がらのコンパクトを

出し︶ハンカチーうもはひつてる︵ト畳んだ大きな葉っぱを

出し︶

はなこれでお漢をチュンとかむ︒︵ト漢をかむ︶

(9)

106 人間社会環境研究第35号2018.3 (8)

ブラジルに対する偏見の大きなものの二つめとして︑﹁ブラジルは

恋の国だ﹂というステレオタイプが挙げられる︒三島は︑マイアミか

らリオへの飛行機の乗り継ぎを待つため︑プエルトリコの首府サンフ

ァンで一泊した︒彼は夜の街を散歩していた折にすでに電気を消した ラジルのイメージと繋がっている︒田所清克によれば︑﹁異国趣味と結びついたインディオ︑自然︑動物などからなるエデンの国Ⅱブラジル﹂のイメージとともに︑﹁海の怪物や奇妙な人種︑人肉を食する種族の世界がある﹂︵一王という﹁地獄﹂のイメージも作られた︒﹁士人の娘﹂は︑未開人であるため︑﹁ハンドバッグ﹂の意味がわからないし︑﹁白い娘﹂がワニに嫌われる理由もわからない︒彼女は︑ただ子供らしい純真さで自分の﹁マラデマン﹂について説明しているだけであり︑人間の首を鞄にするのが恐ろしいことだとわからないようである︒ジャングルのような辺境の中で生活している様々な種族は︑﹁西洋文明﹂によって﹁劣等未開文明﹂と見られ︑例えば人肉を食するなど︑﹁西洋文明﹂にとって凄惨なことを日常的にしている︑というように多くエキゾチシズム︑もしくはオリエンタリズムの眼差しで表象されてきた︒先述したように︑このような表象は﹃四十二国人物図説﹄や﹃西洋記聞﹄によって日本でも普及してきたことでもある︒このような異種族の表象は︑アフリカ人を奴隷にすることや︑中南米の先住民を虐殺することなど︑﹁劣等未開文明﹂の支配を正当化するために使用されてきた︒もちろん︑三島の戯曲においては︑未開人を支配することの正当化という意味で﹁士人の娘﹂が描かれているとは思えない︒しかし︑三島はまた︑この﹁士人の娘﹂をエキゾチシズムの色眼鏡で見︑﹁劣等未開文明﹂に属する者として恐怖心と好奇心を組み合わせた視点にもって表象していることは確かである︒﹁恋の国﹂としての.当フジル﹂ 映画館の看板を見かけて﹁突然︑明日南米へ自分の身が運ばれることを思って胸のときめきを感じた﹂という︵﹃アポロの杯﹂︶︒看板に書いてあったのは︑宮口四○少.シ三○両.シ宅少望○zシ己○ゞつまり﹁音楽﹂﹁愛﹂﹁情熱的﹂という言葉だったようだ︒三島は︑スペイン語が分からないながらも︑意図的に熱っぽい言葉を選択して書くことによって︑熱情的な南米というイメージを連想させながら︑ブラジル体験の﹁序曲﹂として事前に﹁恋の国﹂という雰囲気を作り出している︒しかも︑三島は雨のサンフアンを出発して︑﹁飛行機が雲上に出ると︑私ははじめて雲間をつんざいて昇る太陽の光に遭った﹂という︒彼は︑それまで船か夜便の飛行機でしか移動していなかったが︑﹁太陽の発見﹂というモチーフを軸にしている旅行として︑ここで﹁太陽の光に遭った﹂というのはいかにもわざとらしく聞こえてしまうが︑それもブラジル体験の序曲の一部としての役割を果たしていると言える︒他の事例として︑﹃複雑な彼﹄︵一三の女主人公である冴子がリオに到着して︑その第一印象を伝える次の箇所がある︒

ここで︑ブラジルは熱帯の豊かな色彩︵﹁鮮やかな色彩﹂﹁浅黒い肌﹂︶

や︑いかにも﹁酔ってゐるやうに﹂見える男性というエキゾチックな

表象と関わる語彙で語られている︒冴子にとっては︑リオの人︵とい

うよりブラジルⅡリオというイメージが強いため︑ブラジル人だと そしてその上を︑鮮やかな色彩の服を着た︑浅黒い肌の美しい強

ムスターシュさうな女たちと︑少年でさへ鼻下髭を蓄へてゐる男たちとが︑何

だか誰もかれも酔ってゐるやうに︑危ふくぶつかり合ひさうにな

たむろって歩いてゐたり︑あるひは男ばかり町角に屯して︑女たちに目

を向けてゐたりする︒

﹃ここの人はみんな恋をしてゐるみたい﹄

それが冴子のリオの第一印象だった︒

(10)

三島由紀夫における「ブラジル」一ステレオタイプの問題を中心に− 105 (9

言ってもよい︶が﹁みんな恋をしてゐる﹂ように感じる︒彼女は︑日

本にいる間に譲二に対する恋の想いが叶えず︑熱情的な熱帯国へ到来

し︑その人たちの﹁恋﹂を羨ましげに思っているようにさえ見える︒

また別の箇所において冴子は︑日本にいるときは譲二︵自分の恋愛

対象︶に関わる数々の噂話に耐えられなかったが︑﹁こんな恋の国に

ゐると︑あなたの昔のいろんなエピソードが︑とても自然に思へてく

るの﹂という︒冴子は︑日本のような﹁難しい国﹂の﹁うるさい反応

に同化﹂して譲二の逸話を聞くことには耐えられないが︑ブラジルで

なら﹁海風みたいに︑さはやかに﹂聞ける︑という︒つまり︑冴子は︑

様々な恋愛の噂を持つことが﹁自然﹂であるこの﹁みんな恋をしてゐ

る﹂国にいるから︑﹁この太陽︑この雲︑この大きな美しい花︑この

青空︑かういふ国には﹂︵一三︶︑譲二の逸話を﹁さはやかに﹂聞けるの

である︒

﹁複雑な彼﹄は︑三島がブラジルを訪問してから十五年後に書かれ

た作品であるが︑このロマンチックな小説の舞台をブラジルに設定し

たことは興味深い︒彼は︑冒険と恋愛の物語の舞台となる場所を︑ブ

ラジルに探し求めた︒この冒険と恋愛のイメージは︑オリエンタリズ

ム的な眼差しでオリエントや南国を描いた作品︵例えば︑イギリス人

によるインドの表象や︑日本人によるタイの表象︶に多く見られる︒

夏は恋の季節と連想されることが多いが︑日本の夏で譲二に対する想

いを成就することができなかった冴子は︑リオの冬で彼との恋愛を楽

しむことができた︒しかし︑リオは︑﹁冬とはいへ︑地上はムーッと

する暑さ﹂が感じられる︒そこの夏が永遠に続くかのように︑いつで

も恋をするにふさわしいかのような場所として作品にあらわれている

のである︒これはまさに︑﹁南国﹂へ向けられたオリエンタリズムの

眼差しと同様である︒ これは︑三島がリオに到着した翌日に︑ホテル周辺のプラサ・パリ

ス︵パリス公園︶を訪問したことについて語っている箇所の一部であ

る︒ここではまた︑﹁熱帯の豊かな色彩﹂というエキゾチズムの典型

的なイメージ群が描かれており︑﹁五彩の燈火を包んで滋る噴水﹂の

ような鮮やかな色から︑﹁風船の淡い桃いろ﹂のような柔らかい色まで︑

全てが﹁ふしぎなほど完全である﹂という︒この白昼夢のような景色

の中で︑﹁黒人たちの肌の色までが︵中略︶暗い強烈な色彩﹂という ブラジルを舞台とする三島由紀夫の作品において︑人種・国籍など

を表す言葉は多く用いられている︒例えば︑﹁不満な女たち﹂において︑

﹁ムラト﹂﹁ポルトガル人﹂﹁日本人﹂﹁白人﹂﹁在伯日本人﹂などが多

く見られる︒このこと自体はモチーフが多国籍的であればいたしかた

ないことのようにも思えるが︑登場人物の国籍や人種をはっきり示す

必要が特にないように考えられる箇所では︑なぜそのように書かれて

いるかがポイントとなってくるのである︒このような人種を指す言葉

の中でも︑﹁黒人﹂及び﹁土人﹂の使用が特に多く見られる︒ 人種及び国籍を表す言葉について

リオはふしぎなほど完全な都会である︒美しい木陰も︑刈り込ま

れた庭樹も︑古いポルトガル風の建築も︑超近代建築も︑昼のあ

ほとばしいだは黙っていて︑日曜の夜だけ美しい五彩の燈火を包んで送る

つえ噴水も︑ここのベンチから見える︒杖をついて静かな散歩をつづ

けている老婦人の葡萄いるのスーツの色も︑子供たちの日曜の晴

着も︑一人の子供が追いかけている風船の淡い桃いるまでが︑ふ

しぎなほど完全である︒黒人たちの肌の色までが︑ここでは北米

の都会のように︑インキの汚点のようにはみえず︑一つの暗い強

烈な色彩の役割をうけもっている︒︵一三

(11)

104 人間社会環境研究第35号2018.3 (10)

印象を与える︑という︒現在の価値観から考えれば︑﹁インキの汚点﹂

のような表現が非常に差別的に聞こえるが︑ここでは北米では﹁汚点﹂

に見える﹁黒人たちの肌の色﹂が南米では﹁強烈な色彩の役割をうけ

もっている﹂ということに注目すべきである︒

サイードが﹃オリエンタリズム﹄で定義したオリエンタリズムの言

説によれば︑﹁オリエントの後進性︑退行性︑西洋との不平等といっ

た命題﹂には︑﹁先進的人種と後進的人種︑つまりヨーロッパⅡアー

リア人種とオリエントⅡアフリカ人種という区分の﹃科学的﹄妥当性

を強調するかのような亜流ダーウィニズムが付け加わった﹂という︒

それゆえに︑﹁帝国主義の問題全体が︑人種︑文化︑社会を先進的な

ものと後進的な︵つまり従属的な︶ものとに分類する二項式の類型学

を押し進めた﹂のである︒東南アジア諸国を﹁後進的﹂だと主張しつ

つ︑﹁従属的なもの﹂とした大日本帝国の新帝国主義もまたその範晴

に入るものと言えるだろう︒

三島の描写からは︑支配者たる北米における黒人がそもそも当地の

﹁土民﹂ではないし︑﹁インクの汚点﹂であるという﹁異質的な存在﹂

だという見方が窺える︒一方で︑白人とインディオと共にブラジルの

人種構成をなす黒人は︑当地の﹁士人﹂︵二四︶であり︑南米の豊饒な

色彩を際立てるコントラスト的でありながら調和的な役割を果たして

いる︒﹁黒人は白人の少女と肩を組み︑あるひは黒人の少年と白人の

少年は腕をつらねて踊ってゐる︒合衆国では決して見られない眺めで

ある﹂︵二五︶のような箇所から見ると︑北米対南米における黒人に関

する描写は︑人種差別にも関連していることが考えられる︒

また︑ ポルトガル人の家族l舟四五の母親と︑可愛らしい三人の娘と︑その末娘の手を引いてゐる黒人のアマとであったI︵後略︶ニハ︶ というように︑三島は︑当時のブラジルにおける黒人の社会的立場や︑黒人に対する人種差別をある程度看取していたと言えるだろう︒しかしながら︑三島が﹁黒い娘﹂や﹁黒人の楽団﹂のような表現を多用するのには︑ブラジルの多民族性を強調することに目的があったと考えられる︒実際︑その結果︑三島はブラジルの﹁エキゾチックな性質﹂をあらわにしている︒

最後に︑前述の抜粋における﹁ポルトガル人の家族﹂という表現の

使用について触れておきたい︒三島は︑その描写の場面となっている

プラサ・パリスに一人で行ったと語っているので︑その家族を外見だ

けで﹁ポルトガル人﹂と判断できることは有り得ない︒当該場面は︑

﹁私﹂︵Ⅱ三島︶が自分の幼年時代の甦りと︑転身の可能性をめぐって

空想に耽っていたところに︑この家族の﹁賑やかなお喋りでもって︑

私の意識をよび戻し﹂たことを描くものである︒そのため︑三島はこ

こでいきなり人種差別のような問題を持ち出したとも思えない︒むし

ろ︑彼はほぼ無意識に黒い髪の欧州系ブラジル人を植民地支配者ポル

トガル人と繋げ︑そして﹁黒人のアマ﹂を奴隷制度の名残と連想した

だろう︒また︑たとえば﹁ブラジル人の家族﹂や﹁ある家族﹂などの

表現は読者に黒人の家族あるいは混血の家族を想起させる可能性があ

る︒おそらく三島はその家族が白人であることを強調するために意図 のみならず黒人の間には︑カルナヴァルを心ゆくばかり享楽すれば︑子供の代には白人になる迷信が行はれてゐる︒ブラジルは世界で最も奴隷解放の遅れた国で︑親から享けた漆黒力ボクロの肌をなげく解放奴隷の歌は︑﹁白くなりたい⁝⁝白くなりたい.⁝:﹂と歌ふのである︒黒人たちが仮装に身分不相応な金をかけるのも︑半ばは仮装といふものが︑自分以外のものになりたいといふ欲望を充してくれるからに相違ない︒︵二七︶

(12)

三島由紀夫における「ブラジル」一ステレオタイプの問題を中心に−

(11) 103

的に﹁ポルトガル人﹂と書いたのであろう︒

終わりに

これまで見てきたように︑三島由紀夫の作品に描かれている三キ

ゾチックな国﹂や﹁恋の国﹂というブラジルのイメージは︑十六世紀

から十九世紀にかけて主に欧州の旅行者によって描かれた﹁楽園﹂的

なブラジルの表象に近い︒そして︑その欧州人によるブラジルの表象

は︑サイードのオリエンタリズム論の観点から考えると︑﹁文明社会﹂

の支配者による表象という征服者側の物語であり︑ブラジルの植民を

正当化するものとして使用されたと言える︒また︑﹃西洋記聞﹄や福

沢諭吉などにより︑この欧州によるブラジル表象がそのまま日本に伝

われて定着するようになった︒

他方で︑二○世紀の始まり︑ブラジルの知識人が自国のイメージ創

出に向けて︑国際的にも際立つナショナルアイデンティティを探る際

に︑異国趣味的なイメージを介して﹁ブラジル性﹂を見出そうとした

事実も否定できない︒自然の豊かさに基づく楽園的イメージだけでな

く︑娯楽や美女の存在と繋がる官能的なイメージをもってブラジルが

連想されるようになった起源はここにもある︒また︑新しいナショナ

ルアイデンティティを代表する人物として︑美しいムラータ︵白人と

黒人の混血の女︶︑及び人生を楽しく悠々と暮らすリオのマランドロ

︵いたずら者︶が現れた︒﹃複雑な彼﹄などの作品に出てくる甘い言葉

を口にする熱っぽい男たちや︑﹁琉珀﹂の美女などがその定型的な事

例である︒

このような歴史の流れの中︑日本ではまだブラジルの民族的・文化

的な多様性に関する情報がまだ少なかった一九五○年代に︑二六歳と

いう若さで三島由紀夫はブラジルを訪れた︒そして︑今となっては彼

がブラジルについてどういう知識をもって渡伯したかを確認すること は当然できないだろう︒しかし︑彼は︑海外の書物と映画や︑福沢諭吉の作品のような刊行物や︑日本移民に関する新聞記事などを通じてブラジルに触れただろうことは想像するに難くない︒また︑三島がブラジルへ渡る前に︑ロスアンジェルスやニューヨークをめぐり約一ヶ月のアメリカ滞在をしているため︑彼はおそらくアメリカ人からブラジルの話をいくつか聞いているだろう︒そこで︑三島が持っただろうと推測できるブラジル像は︑﹁楽園的なブラジル﹂という異国趣味の眼差しで表象されたものであると考える︒そして︑そういう表象は︑ここで考察してきたように︑﹁エキゾチックな国﹂や﹁恋の国﹂という形で作品に現れている︒

エドワード・サイードは︑﹃オリエンタリズム﹄において︑﹁オリエ

ントとは︑むしろヨーロッパ人の頭のなかでつくり出されたものであ

り︑古来︑ロマンスやエキゾチックな生きもの︑纏綿たる心象や風景︑

珍しい体験談などの舞台であった﹂三八︶と述べる︒三島の﹁ブラジル﹂

もまた同様であり︑﹁幻想﹂﹁恋﹂﹁怪しい物語﹂といった要素と結び

つけられて表象された︒結局のところ︑三島はブラジルに一ヶ月ほど

滞在し︑一生にわたるブラジル人との交流も持っていたものの︑彼

の目が向いていたのは常に﹁西洋文明﹂であったため︑﹁オリエント﹂

の側に回されたブラジルを実際に見てないだろう︒もちろん︑ただ

一ヶ月だけの滞在で国の全てを知ることは不可能であり︑そして作品

をどう書くのは作家の自由である︒しかし︑三島はブラジルを作品に

描くにあたり︑欧米によって作られた異国趣味的なブラジルの表象を

持続することを選択した︒たとえ無意識的にもそうすることによって︑

彼は﹁エキゾチックな恋の国﹂というブラジルの不完全なイメージを

強化し︑永続させるのである︒彼の語ったブラジルは︑むしろ幼年時

代の甦りという珍しい体験︵Ⅱ神秘的な国︶や︑自身の諺屈した性愛

を解放できる︵Ⅱ官能的な国︶異国情緒に満ちた不思議な国として

﹁頭のなかでつくり出された﹂国ではなかっただろうか︒﹁たとえ機会

(13)

人間社会環境研究第35号2018.3

102 (12)

があっても︑私は二度と現実のリオを訪れようとは思はない﹂鼈︶と

打ち明けた三島は︑自分の心の中に描いたリオの非現実性をすでに自

覚していたはずである︒

L 三

︵ユハ︶

︵四︶ ︵一一一︶ ︵一一︶ ︵一︶佐伯彰一﹃評伝三島由紀夫﹄︵新潮社︑一九七八︶︑渡部芳紀﹁潮騒l太陽の発見︵三島の希臘体験︶l﹂﹁国文学﹂︵一九九○○八︶︑ロイ・スターズ﹁ギリシャとインドの間でl文化的巡礼者としての三島l﹂︵松本徹他編﹁三島由紀夫論集3世界の中の三島由紀夫﹄勉誠出版︑二○○二などを参照︒杉山欣也﹁三島由紀夫﹁アポロの杯﹄におけるリオ︑サンパウロー見て書かなかったこととしての旅行記l﹂︵岩津航等編﹁文学海を渡るl︿越境と変容﹀の新展開﹄三弥井書店︑二○一六︶などが詳しい︒紀行文﹃アポロの杯﹂︵朝日新聞社︑一九五二年︶で確認できるように︑三島がブラジルに到着し翌朝に︑リオの古い町並みを一人で歩いていると︑その静かな町並みが自分の子供の頃に夢の中でよくでてきた都市と同じであるような印象を受けたらしい︒夢の中と似た﹁新鮮な夏空の色と雲の色﹂そして﹁痛切な悲哀﹂が︑作家の幼年時代を甦らせたという︒そしてまた︑公園を散歩したり︑子供達に加えて映画館に行ったりした時も︑リオ滞在中に同様な心理現象に何度か襲われたと語られている︒

佐伯彰一︵上掲︶︑ジョン・ネイスン﹃三島由紀夫ある評伝﹂︵原

著一九七四︶︑杉山欣也︵上掲︶を参照︒

エドワード・サイード﹃オリエンタリズム﹄上・下︑平凡社︑今

沢紀子訳︑一九九三・

田所清克﹁ブラジルのイメージ形成の歴史的変遷﹂﹃京都外国語

︵十七︶ ︵十六︶ ︵十五︶ ︵十四︶

︵九︶

︵十︶

八 七

大学研究論叢﹂刃号︑二○一二︑弓.四○一〜四一二・

同上

姜尚中﹁日本的オリエンタリズムの現在l﹃国際化﹄に潜む歪みl﹂

﹁世塁岩波書店︑一九八八一二号︑弓.一三三〜一三九.

姜尚中﹁オリエンタリズムの彼方へ﹂岩波書店︑ご霊.

若槻泰雄﹃外務省が消した日本人l南米移民の半世紀﹂︵毎日新

聞社︑二○○二を参照.

国文学研究資料館の電子資料館による︿言g曼冨の巴皇宮2頁

ご后君︑句目白の︑瀞頁己国l己Ⅱの二つ謬弓尻目冨陣○○○口国ⅡS霞︲

霊霊亀﹀︵二○一七一○○五最終参照︶

寺本潔︑松田幸一﹁福沢諭吉の足跡を追体験する小学校大6学

年の歴史学習l﹃世界国尽﹄を中心資料としてl﹂﹃愛知教育大

学教科教育センター研究報告﹄M号︑一九九○︑弓.一二一〜

一一一一一●

斉藤愛﹁異人種への視線l近代日本の人種観の誕生まで

l﹂﹁国際日本文学研究集会会議録Ⅱ勺両○○画同国zのの

○司閂z自国詞zシ目胃○zシFoOz蜀因両国z○両○z﹈シ勺シ雪国の因

目自国罰少目ご罰厘別号︑二○○一︑弓.一○五〜一二二・

慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクションによる︒

︿茸g更pH且のoこぎ陦①旨感胃・旨︑包唄l宍巨ミ昏汽巨圃画尋mlぐ○一も彦葛昼Ⅱいむ

︵二○一七一○○五最終参照︶

甸国罰両国詞少↓房言の○言ざ烏昌さ号目ミロ旨一雪昌涛言.罰ざ号

菅月言.因島目gゞ雷宝を参照

甸固困罰国罰崖︵上掲︶︑︻ど田シ勾少.尻①牙シ訂日匡雪尭譽

号零ロミミ野ミミ皇電昌言号﹄含ミミ烏︒ご塁酋愚言︵笥凰具

暑画置題医目鼻鳥堕烏遠忌︒獄9s昌昌冒酎ゞ未発表論文︑

ロ昌蔚星忌号号認○甸呂さ.邑畠などを参照︒

例えば︑フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース出演の﹁空

(14)

三島由紀夫における「ブラジル」一ステレオタイプの問題を中心に一

(13 101

︵十八︶

ミ ニ ー 十

︵十九︶

二 二 二 七 六 丙

二 二 二 四 三 二

中レヴュー時代﹂︵一九三三︑日本公開一九三四︶︑ベティ・デイヴィ

ス出演の﹁情熱の航路﹂︵一九四二︑日本公開一九四六︶︑カル

メン・ミランダ出演の﹁ロッキーの春風﹂︵一九四二︑日本公開

一九五二及び﹁悩まし女王﹂︵一九四七︑日本公開一九五○︶︑

パルム・ドール及びアカデミー賞を受賞した﹁黒いオルフェ﹂

︵一九五九︑日本公開一九六○︶などがある︒邦画の中では︑原

水爆の恐怖から逃れるためにブラジル移住を計画する家族の話

を語る黒澤明監督の﹁生きものの記録﹂︵一九五五︶が際立つ︒

また︑移民の問題をめぐる蔵原惟繕監督の﹁俺は待ってるぜ﹂

夫全集﹂別率

田所︑上掲. 例えば︑三島が﹁南の果ての都へ﹂の冒頭に︑ジョン・ガンサー著﹃中南米の内幕﹄︵大日本出版︑一九四二︶を引用している︒松竹歌劇団京都公演として︑京都・南座で一九五四九五から同月一四まで初演が行われた︒一九七四一二刊行の﹃三島由紀夫全集一別巻︵新潮社︶に初めて収録された︒ また︑移民の問題全︵一九五七︶もある︒

アメリカと同様に︑ブラジルの黒人は植民地時代にアフリカから

奴隷として運ばれてきたが︑三島の作品においてはブラジルの土

人︵すなわちインディオ︶と黒人の使い分けが暖昧である︒前述

した﹁ムラト﹂と﹁カボクロ﹂の使用や︑﹁ボン・ディア・セニョー

ラ﹂における﹁黒い娘﹂Ⅱ﹁土人の娘﹂の事例などがある︒

﹃アポロの杯﹂︑上掲︑ロ五四九. ﹁ボン・ディア﹃アポロの杯﹄︑

同上︑ロ五四六・

同上︑ロ五七九. ﹃女性セブン﹄一九六七1−1−号〜七二○号聾によって同年八月に初めて単行本として刊行された︒﹁ボン・ディア・セニョーラ﹂︑上掲︑ロ二七九.

上掲. 号〜七二○号に発表︒集英社

こ 一

主 八

エドワード・サイード︑上掲︑ロ一七・

﹁南の果ての都へ﹂﹁文芸春秋臨時増刊l世界一周読本l﹂

一九五三四.

(15)

100 人間社会環境研究第35号2018.3 (14)

(16)

論 文

人間社会環境研究第35号2018.3

三島由紀夫における「ブラジル」

−ステレオタイプの問題を中心に一

人間社会環境研究科人間社会環境学専攻

ホ ー シ ャ シ ル ヴ ェ イ ラ ヂ ニ ス ホ ド フ

The"Brazil''inYilkioMishima‑aDiscussiononStereotypes

ROCHASILVEIRADINIZRodolfb

AbStract

Earlyinthel950s,YUkioMishima(1925‑1970)traveledaroundBrazil,Greece,andothercountriesfbr about6vemonthsasaspecialcorrespondemoftheAsahiShimbun.InBrazil,hehadvariousexperiences, suchasimeractingwiththeJapaneseimmigamconnnunityandattendingtheRiocarnival.Basedonthese, hewrotethetravelmemoirsTheCupofApollo(1952)andtheplayTbnnite'sNest(1955),amongothers.

AswecanimaginefromtheportrayalofBrazilintheseworks,Mishimaseemstohavebeenfascinated withthecountry.However>bycarefilllyexamininghowMishimadescribesBrazil,italsobecomesclear

thatthereissomeunderlyingprejudice.

Inthispape喝weanalyzedtherepresentationofBrazilintheworkofMishimawhereheportraitsthe countIyasathemeorbackground,usingasreferenceSaid'stheoryofOrientalism.Asaresult,wecansay thatMishimawrotehisworkswithabiasedimageofBrazilasan"exoticcountry"or"countryoflove,"

associatingthiswithelementssuchasG6fantasyl''G6love,''andG6mystery.''Wecansaythatthisrepresemation

ofBrazilcontinuesthe"paradisal"imageofBrazilcreatedbyfbreignerswhoaITivedinthecountryfifom

thel6thtothel9thcenturylespeciallyEuropeancolonizers.Moreoverlthiscolonizer'srepresentationof

BrazilhaslongbeentransmittedtoJapaninvariousfbnns,suchasG6SeiyouKibun,''YUkichiFukuzawa, andhoughHollywoodmovies.

AlthouJIMishimas町edinBrazilfbramonthandretumedhomeafterarichexperiencethere,hiseyes werealwaystumedtothe"West,''andassuchhehasnotseentheemiretyofBrazil,whichwasseenasthe

"Oriem."Forhim,Brazilseemstobejustaplacewhereheexperiencedtherevivalofhischildhoodand

theemancipationofhisrepressedsexualdesires.

Keyword

YUkioMismma,Brazil,exoticism,orientalism,stereotype

99

参照

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